陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

60.田中隆吉陸軍少将(10) 我も又確かに有力なる戦犯の一人なり

2007年05月11日 | 田中隆吉陸軍少将
 外務省とは別に大東亜省を設置すると主張する東條首相はこれに反対する東郷外相と対立していた。

 東郷外相は田中兵務局長に相談した。

 田中少将は「東條首相は速やかに首相を辞めて第一線に出るか、或は引退するのが国家ならびに本人のためである」と答えた。

 昭和17年9月22日田中少将は東條首相に辞表を提出した。

 東郷外相が東條に敗れたら、田中少将も辞任すると約束していたので、実行に移したと田中少将は述べているが、田中少将と東條首相との度重なる意見の相違の結果でもある。

 谷田勇中将は田中少将と広島幼年学校以来、親交を続けている仲である。

 昭和18年5月初旬、谷田中将がラバウルに赴任する前、祖先の墓参を済まし、長岡温泉の旅館「大和館」に寄った。

 その時玄関脇の帳場で、浴衣で、どかりと座り、碁を打っている入蛸坊主がいた。それが田中少将だった。

 谷田中将は、田中少将が陸軍省を追われ、国府台陸軍病院の精神病棟に入っていることは承知していたが、、長岡で会ったのは驚いた。

 その時、田中少将は「開戦を決心する時は、省部の会議は開かれなかった。東條大臣と武藤軍務局長と田中新一作戦部長との間で急遽、開戦を決した。己を知らぬ馬鹿な奴らだ」と言ったという。

 「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)によると、昭和6年3月に参謀本部の建川少将、重藤大佐、橋本中佐、長少佐を中心に計画されたクーデター「3月事件」は宇垣一成大将を首班とした組閣が立案されていた。

 「3月事件」は未遂に終わったが、その「3月事件」の民間側の指導者、大川周明博士は後に、宇垣大将を「大嘘つき」と罵倒したことがあった。

 それは宇垣大将が外務大臣当時、大川博士が推薦した白鳥敏夫氏を次官にすると約束しながら、宇垣大将がそれを実行しなかったからだ。

 昭和19年12月末、田中少将は、宇垣大将と大川博士と共に、伊豆長岡の大和屋温泉で会食した。

 その時、大川博士が、白鳥敏夫次官推薦問題を話しに持ち出した。

 すると宇垣大将は面上朱をそそいで怒って「なるほど、君から白鳥氏を次官に採用せよとの要求はあった。自分はただ承りおいたのみで、ただの一回もその実行を約束した覚えはない」と言った。

 大川博士は、これを肯定し、嘘つきとの言葉を取り消した。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和24年9月15日深夜、田中は自殺をはかったが、未遂に終わった。

 遺書には東京裁判での一連の証言が、元軍人として不当な行為であることを充分承知した上で、天皇の出廷阻止のため、あえてなしたことを記してあった。

 さらに、「既往を顧みれば我も又確かに有力なる戦犯の一人なり。殊に北支、満州においてしかり。免れて晏如たること能はず」と書かれてあった(田中稔「父のことども」)。

 田中は後日、宮内庁から下賜品を賜っている。このことは現在の宮内庁の公式書類には残されていない。

 だが、田中は涙を浮べて、元陸軍中将、谷田勇氏に下賜品を賜ったことを語ったという。田中は昭和47年、78歳で死去した。

(今回で「田中隆吉陸軍少将」は終わりです。次回からは「南雲忠一中将」が始ります)

59.田中隆吉陸軍少将(9) 東條首相は大喝一番「やめない」と怒鳴った

2007年05月04日 | 田中隆吉陸軍少将
 陸軍省の局長会報で兵務局長の田中少将は「この内閣には癌がある。それは星野、鈴木、岸の三人だ」と一矢を放ったが、東條首相は歯牙にかけない風を示した。

 それで、田中少将はさらに「一国の総理たる者がゴミ箱の中を覗いたり魚屋の兄貴の肩をたたくのは見っとも無いからよしたほうが良い」と言った。

 すると東條首相は大喝一番「やめない」と怒鳴った。

 それで田中少将は「ボヤボヤすると殺されますぞ」と言った。すると東條首相は「それは良く注意している」と穏やかに答えた。

 昭和19年、木戸内大臣と会談した田中少将は「何が故に重臣は東條を推薦せりや?」と問うた。

 木戸氏は「それは東條が陸軍大臣になってから、珍しく統制がとれたので、東條ならば陸軍部内の主戦論を抑えて、戦争の勃発を回避し得ると思ったからだ」と答えた。

 田中少将は重臣の軍の統制に対する無知に驚いた。

 昭和16年10月中旬、田中少将は下志津飛行学校幹事の中西大佐を訪れ、「米国の航空機に対して、日本の航空機の現状を持って果たして勝算があるか」と聴いた。

 中西大佐は「質、量、共に勝算なし」と極めて明白に断言した。

 また、その翌日、たまたま上京中であった石原莞爾中将から木村代議士を通して田中少将に会いたいとの伝言があった。

 会ってみると石原中将は開口一番「石油が欲しいからといって戦争をする馬鹿があるか」と言った。

また「南方を占領したって、日本の現在の船舶量では、石油は愚かな事。ゴムも米も絶対に内地にもって帰ることは出来ぬ」と一流の口調で言った。

 さらに石原中将は「ドイツはロシアに勝てぬ」とも言った。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和16年12月8日午前6時、田中少将は陸軍省から電話を受けて真珠湾攻撃が成功した事を知った。

 8日の正午宣戦の大詔が発せられた。午後1時陸軍省の大講堂で、東條首相の訓示があった。

 田中少将は武藤軍務局長と隣り合って聞いた。訓示の直前、武藤軍務局長は田中少将に「これで東條は英雄になった」と言った。

 田中少将は「国賊にならなければよいが」と言った。

 すると武藤軍務局長は「そうだ、しくじったら国体破壊まで行くから正に国賊だ。然し緒戦が巧く行ったからそんなことにはならぬ」と答えた。

 9日午後に至って、真珠湾及びマレー沖海戦の戦果が明らかになった。

 田中少将は部下に「この戦争を甘く見てはならぬ。この戦争は独ソ戦争の帰趨が決するまでは始めてはならない戦争であった。もし万一ドイツが負けたら日本は亡ぶ」と言った。

 田中少将の言葉は忽ち部内に伝わり局長として許すべからず悲観論として喧々ごうごうたる非難を受けた。

 昭和17年4月18日最初の東京空襲があった。田中少将は兵務局において作成した防空施設計画を東條陸軍大臣に提出した。だがこの案に反対した。

 田中少将は武藤軍務局長の後を継いだ佐藤賢了少将に予算の捻出を要求したが、頑として応じなかったという。

58.田中隆吉陸軍少将(8) 東條首相は武藤軍務局長のロボットである

2007年04月27日 | 田中隆吉陸軍少将
 民政党の長老俵孫一氏は田中少将に「政党の解消と単一政党の出現は国民の正しき批判力を抹殺するものである」と語った。

 大政翼賛会に反対の急先鋒で、唯一現役陸軍中将の代議士であった原口初太郎氏は反対代議士の座長となって奮闘を続けていた。

 このため東條陸相の逆鱗に触れ、東條陸相は「原口を剥官せねばならぬ」と息巻いた。田中少将は阿南次官とともに極力これを阻止し、成功した。

 戦後、原口氏は田中少将に「あの時むしろ剥官されればよかった。そうすれば、それを導火線にして東條や武藤の輩を増長させなかったのに」と語った。

 田中少将は大政翼賛会を政治の圏外におき、以って軍の政治的進出を阻止する事を決意した。

 昭和16年1月中旬、田中少将は国体破壊を企てる疑いのある将校一名を憲兵の手により検挙し、召集を解除し、警視庁に引き渡した。

 これにより、警視庁は大政翼賛会の内部に手を入れ、厳重な取調べを行った。こうして大政翼賛会は平沼内相により、公事結社の断を下されその政治力を奪われた。

 この悪質将校の検挙は武藤軍務局長からすごい抗議があった。警視庁への引渡しにも部内の一部からごうごうたる非難があった。だが田中少将はこれを断行した。

 「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)によると、東條内閣の外務大臣大橋忠一氏はしばしば連絡会議に出席し、統制派の中心人物武藤章軍務局長と接する機会があった。

 連絡会議で東條首相が欠席の場合には、武藤軍務局長が眼鏡をはずしてメモを取る東條首相の真似をして、東條首相を馬鹿にするような態度をとるのを見たという。

 特に会議における東條首相の発言が、すべて武藤軍務局長の方針から出ているのを知り、東條首相は武藤軍務局長のロボットであると悟ったという。

 東條首相は政治、外交、経済の運用は概ね武藤軍務局長の画策に従順であったと言う。その豊富な体験と明敏な頭脳は、到底東條首相の及ばざる所であったからである。

 東條陸相が次官の時、板垣陸相がその更迭を断行した最も大なるものは次のような理由であった。

 昭和14年8月、東條次官は軍人会館で、在郷軍人の集会の席上「支那事変解決のためには、対ソ、対英米の二正面作戦も辞さず」と豪語し、之が広く世間に流布さられたためだった。

 参謀総長の重職にある杉山大将は、東條陸相の前には全く猫の如く無力であった。だから参謀本部は東條陸相の意のままに動いたのである。

 また、当時、東條陸相の勝子夫人は賢夫人の評はあったが、「要職に就かんとすれば先ず勝子夫人に取り入れ」と流行語になったほどだった。勝子夫人は東條陸相の最高の政治幕僚であったと田中少将は述べている。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和16年10月中旬、第三次近衛内閣にかわって、極めて短時間に東條内閣が成立した。

 組閣の数日後に、陸軍省で局長会報があった。兵務局長の田中少将は「この内閣には癌がある。それは星野、鈴木、岸の三人だ」と一矢を放った。

57.田中隆吉陸軍少将(7) 支那事変を解決せんとする陸軍の巨星は全て葬り去られた

2007年04月20日 | 田中隆吉陸軍少将
 翌日板垣大臣は田中大佐を大臣室に呼び、しみじみと「自分は貴公の言うことが一番良い事を知っている」と言った。

 そのあと板垣大臣は、続けて「然し満州事変で死生を共にした石原は、自分の手で処分する事はできない」と語った。田中大佐は思わずホロリとしたという。

 昭和15年7月22日、第二次近衛内閣成立で、東條英機中将は陸軍大臣として登場した。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると中国の第一軍参謀長から兵務局長に転任になった田中少将は昭和15年12月10日に、阿南次官を訪問後、東條大臣に着任の申告をした。

 その時東條大臣は田中少将に「石原を議会前に待命にする」と断言した。

 田中少将は「来年の3月の定期異動まで待ってしたほうが良い」と極力反対した。

 その後も田中少将は石原中将の人材を惜しんでしばしば東條大臣に待命の不可なる事を進言した。

 だが東條大臣は昭和16年1月末、ついに石原中将の待命を内奏した。3月石原中将は待命になった。

 田中少将は東條大臣が独断で石原中将を待命にしたことが洩れたら大変であると思った。

 それで、軍紀風紀の監督の任にある兵務局が「石原中将は軍の統制に服せず」と大臣に意見具申をし、これに基づいて大臣が行った事にする方針にした。

 そうしたら部内は石原中将と田中少将が仲が良いのを知っているから、円満におさまるだろうと考え、それを宣伝した。

 このため田中少将は石原中将に好意を有する部内外から様々な悪罵を浴びせかけられた。こうして石原中将は現役を去った。

 多田大将も昭和16年8月予備役になった。板垣中将も7月、大将に昇任と同時に朝鮮軍司令官として京城に追いやられた。

 こうして速やかに支那事変を解決せんとする陸軍の巨星は全て葬り去られた。

 東條大将も板垣大将も、戦後東京裁判でともにA級戦犯として死刑判決を受け、昭和23年12月23日、刑死した。

 田中少将は兵務局長着任の翌日省内各局長の許へ挨拶に行った。

 その時武藤章軍務局長は田中少将に「今年の議会では憲兵で議場を包囲し、悪質の議員を捕えてくれぬか」と言った。

 田中少将は冗談にも程があると思った。様々な人に会って事情を聞いてみると、その頃問題となっていたのが大政翼賛会であった。

 武藤軍務局長はこの大政翼賛会に反対の代議士を捕えよということであった。

 それでは大翼賛会とはなにか。その幕僚は親軍代議士であり、イデオロギー官僚であり、これを操縦したのが矢吹一夫氏であった。

 その意図は挙国一致の美名の下に一切の政党を解消して大政翼賛会の下に結集し、これにより国民に号令を発して体制を整えんとするものであった。

 換言すれば一国一党を目指すものであって、実はドイツナチスの模倣であった。

 そして、その中心にいたのが陸軍省の武藤軍務局長であった。

56.田中隆吉陸軍少将(6) 板垣陸相には、今後敬礼を行わず

2007年04月13日 | 田中隆吉陸軍少将
 ソ連にはゲーペーウーがあり、ナチスドイツにはゲシュタポがあった。日本では憲兵が全体主義国家の反対勢力を封殺するための役割を果たした。

 憲兵がその本来の任務を離れて政治的に活動し始めたのは、昭和6年12月に荒木貞夫氏が陸軍大臣になってからである。

 時の憲兵司令官は秦貞次陸軍中将であった。秦中将は荒木大臣と真崎甚三郎参謀次長の寵児であった。

 憲兵は宇垣系の軍人、政治家の行動を監視し、憲兵隊に拘留して威嚇した。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、田中大佐が昭和13年12月来兵務課長に就任した時、多田参謀次長と東條陸軍次官の大喧嘩があった。

 支那事変解決のためには、対ソ、対英米作戦をも辞せずと主張する東條陸軍次官。

 いかなる手段を以ってしても支那事変を急速に解決せざれば、日本の将来は危うしと主張する多田参謀次長。

 この二人は最後までともに譲らず、とうとう意見の相違が感情の衝突までに発展してしまった。

 結局、多田参謀次長、東條陸軍次官は、ともに中央を去ることになった。これは当時の板垣陸軍大臣の喧嘩両成敗の結果であった。

 部内の空気は東條次官に共鳴するものが多く、東條次官の転出に多大な不平を抱いていた。

 その結果、多田参謀次長と主張を同じうする板垣陸相には、今後敬礼を行わずと称する乱暴きわまる幕僚連中も出て来た。

 もう一件は石原莞爾中将問題であった。左翼の大物、浅原健三氏は石原中将と仲が良く、多田中将、板垣陸相とも交わりが深かった。

 浅原氏は東京憲兵隊に拘束され取調べ中であった。浅原氏は林銑十郎内閣成立の裏面の立役者でもあった。

 浅原氏の取調べは昭和14年4月に終わった。その要点は、多田次長、特に石原中将は共産主義者たる浅原氏に利用せられ、共産革命を行わんとしたという点であった。

 当時石原中将は徹底した支那よりの即時撤兵論者である。重慶政権の武力による撃滅を叫ぶ中央の中堅将校は石原中将の意見を好まない。

 浅原事件を理由に石原中将の徹底処罰を要望する者が多かった。東條中将は次官から航空総監に転出後も兵務課長の田中大佐にに対し執拗に石原中将の要求し続けた。

 事件の調査は憲兵の直接監督者たる防衛課長の渡辺大佐により行われた。調査の結果、大部分が虚構の事実と判明した。

 7月に入ってノモンハン事件が重大化し浅原事件は忘れられた形になった。

 田中大佐は、この機に問題を解決しようと兵務局長・中村明人中将と協議した。

 その結果「たとえ浅原事件が虚構のものとしても、石原中将に、軍人として不謹慎な言動があった。故に最も軽き処分にして事件を解決し将来に禍を残さぬほうが穏当である」との趣旨を板垣陸相に進言した。

 ところが板垣大臣は血相を変えて「何たる事を言う。こういう陰謀は許されない。こういう陰謀を行った者はそれが、航空総監たると、憲兵隊長たるとを問わず、断固としてくび馘首する」と頭から田中大佐を叱りつけた。

 田中大佐は「今、この処分をしないと、将来再燃する」と言って退去した。

55.田中隆吉陸軍少将(5) 田中は次第に反武藤と同時に反東條となった

2007年04月06日 | 田中隆吉陸軍少将
 元々田中は東條の推挙で兵務局長に就任した。両者の関係はある時期まで極めて緊密なものがあった。田中こそは東條の憲兵政治の一翼を担った一人とされている。

 派閥次元でいうなら、田中は統制派の系列に属し、武藤章とともに東條の懐刀的存在であった。

 だが時と共に田中と武藤の意見は対立して行き、確執となった。それが表面化したとき、田中は次第に反武藤と同時に反東條となった。

 田中は「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)の序のはじめに「私は軍人の落伍者である」と述べている。

 昭和13年12月から17年9月まで4年間、田中は陸軍省兵務課長、兵務局長として、軍の中央にいた。これは支那事変の中期以降と太平洋戦争の初期にあたる。

 田中は冷静に仔細に軍中枢部の動きを眺めており、それらを、東京裁判と著作で暴露した。

 田中は兵務課長と兵務局長の間に、昭和15年1月に陸軍少将に昇任し3月、中国山西の第1軍参謀長に就任している。

 そのとき、田中は日支事変の解決のため裏工作を行い、11月下旬に敵の司令官と接触するところまで漕ぎ着けていた。

 丁度その時、杉山、畑両大将が相次いで山西に視察に来て、田中に12月初旬、兵務局長に転任し陸軍省に帰る予定である事を告げた。

 田中は当惑した。田中が兵務課長のとき部内を騒がした浅原事件が東條陸相の登場により、東條陸相が満州派である板垣、多田両大将と石原中将を中心とするグループに対する圧迫を加え部内が混乱していた。

 田中少将は南京にいた板垣大将に相談した。板垣大将は日支事変解決工作の中途であり残念だが、陸軍の統制のため渾身の努力をするよう田中を激励した。

 田中は工作を急ぐ事にし、全力を尽くしていたが、12月1日、東條陸相から電報が来て、至急陸軍省に帰るよう命令が来た。

 田中は心ならずも内地帰還の途についた。列車の中に同乗した将校が、将官たる田中に敬礼を行わないのが多いのを見た田中少将は日本軍の軍紀も支那軍と同様になったと思った。

 12月10日東京に帰ると田中少将は、その足で、大正14年来親しい間柄である阿南陸軍次官を訪ねた。

 田中少将は阿南次官に「なぜ過早に私を兵務局長に転補せられたか」と言った。

 阿南次官は「自分も君が怒ると思い、大臣に対し時期尚早なりと進言したが、大臣が独断で決めてしまった。部内は石原中将の問題や、北部仏印進駐の際に於ける独断越境問題で相当にゴタゴタしている」と述べた。

 さらに「大臣は君を警戒し信用していないが、この際君の持つ力が欲しいのだ。大臣は極めて感情的だから大に注意を要する。僕もつくづく嫌になったから近く次官をやめて第一線に出るつもりだ」とも言った。

 さらに後日、阿南次官は田中少将を呼んで「大臣にも困る。憲兵に対し、直接自ら命令して之を濫用する」と言った。

54.田中隆吉陸軍少将(4) 陸軍の犯した罪悪の葬式をやった気持ちだ

2007年03月30日 | 田中隆吉陸軍少将
また、田中は、1月21日、22日の「起訴状所載の犯罪に対する個人的責任」の立証の審議にも出廷し、次のような証言を行った。

 「陸軍大臣であった荒木貞夫大将だけが満州の独立に賛成した」

 「土肥原賢二は満州で阿片の売買に手を染めていた」

 「南次郎、板垣征四郎、東條英機は阿片売買を土肥原からとりあげ、満州国の専売とした」

 「武藤章は昭和14年4月から17年4月まで、陸軍省軍務局長として国家の政策の推進力であった」

 以上のように田中少将は東京裁判で検察側証人として3度に渡り、延べ8日間出廷し、被告達の罪状を裏付けた。

 いわばこれは帝国陸軍中枢部にいた軍高官による、いわゆる内部告発であった。これにより検察側は「共同謀議の構図」を作ることができた。

 田中少将は昭和17年9月、陸軍省兵務局長を辞職し、退役した。その直後、神経衰弱にかかり、精神病院に入院した。

 これは田中は当時戦争の前途に不安を覚え、東郷茂徳元外相の東條内閣打倒工作に深く関わっていたからである。兵務局長を退官したのも、そうしたことからきた神経衰弱が原因だったのである。

 田中の証言について「田中は戦犯追及を恐れ、検察側に取り入っている」「頭がおかしくなって、あんな証言をするのだ」という声もあった。

 だが、田中の法廷証言を詳しく読むと、ただむやみに検察官の言いなりに証言する「検察官のロボット」ではなかったことが分かる。

 たとえば「張作霖爆破工作は河本大作大佐の行った事で、軍司令官ならびに参謀長はなんらの関係なし」と証言している。当時の村岡長太郎軍司令官、斉藤恒参謀長は無関係と述べている。

 また満州国のコントロールを行った板垣征四郎についても、「関東軍が持っていた満州国内面指導権を遺憾なく行使した」「板垣個人が満州国の経済界にコントロールされた事はない」と述べ、法律に基づいて行ったもので、私利私欲のためではないとしている。

 このように田中証言は不当に被告達をおとしめているわけではなかった。

 「東京裁判と太平洋戦争」(講談社)によると、田中は軍閥政治のウミを出すことが日本のためになることだと判断し、証言台に立ったのではあるまいかと推察している。

 また、田中自身が言っているように、天皇の戦犯追及を阻止する為に、あえて被告達の罪状暴露に出たと理由も肯定できるとしている。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると著者の田中隆吉は証言について次のように述べている。

 「自分としては陸軍の犯した罪悪の葬式をやった気持ちだ。いいかえれば、最も戦争を嫌っておられたにもかかわらず陸軍のため手も足も出なかったお気の毒な天皇の無罪を立証する為に全力をそそいだ」

 だが、田中には実は天敵がいたのである。それは武藤章であった。

53.田中隆吉陸軍少将(3) 激論の末、田中少佐は長少佐にピストルを向けられた

2007年03月23日 | 田中隆吉陸軍少将
 田中少佐は美貌の川島芳子を愛人とし、関東軍のスパイとして利用したが、それは関東軍の意向でもあった。

 田中と交流のあった遠藤三郎も田中少佐と川島の熱々ぶりを、上海を訪れた時、中国の官邸で、実際に目の前で見せられている。

 東洋のマタハリと呼ばれた川島芳子(川島浪速の養女)は戦後1948年3月25日にスパイ罪で中国政府により北京で銃殺刑により処刑された。 

 田中隆吉は戦後も川島芳子のことをよく語ったという。

 また、田中は論理的弁論に秀でていたことと、その独特の毒舌は部内では有名であった。

 「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)によると、昭和5年10月1日の「桜会」の第一回会合に田中少佐も参加している。

 田中少佐はその夜上海に向けて出発し、以後「桜会」とは関わらなかった。

昭和7年6月、「桜会」の中心人物、長勇少佐が田中少佐のいる上海に現れた。

 田中少佐は三月事件の失敗を聞き「桜会」に関係する事を一切断った。

田中少佐は長少佐に対し「クーデター断行の後、それに参加した面々が政権を握る事は国体に反する。実行者は死を以って、上天皇および下国民に謝さなければならぬ」と主張した。

 だが長少佐は「再建の責任はクーデターの実行者にあり」と主張したのであった。

 激論の末、田中少佐は長少佐にピストルを向けられた。

 「東京裁判と太平洋戦争」(講談社)によると、東京裁判で満州事変関係の審議で検察側証人として法廷に立った田中隆吉陸軍少将の証言は被告はもちろん、傍聴人や記者を驚かせたものであった。

 田中少将は張作霖爆破事件や満州事変を日本側の謀略であったと証言したからであった。

 張作霖爆死事件は「当時の関東軍高級参謀、河本大作大佐の計画によって決行されたのであります」と証言した。

 満州事変については「参謀本部内で最も熱心に主張されたのは建川美次陸軍少将、当時の第二部長でありました。民間においては大川周明博士を中心とする団体でありました」と述べている。

 そしてサケット検察官の「関東軍におけるこの政策の指導者はだれでありますか」との問いに田中は次のように答えている。

 「関東軍参謀の板垣征四郎大佐ならびに次級参謀、石原莞爾中佐が中心であったと記憶しております」と。

 田中は昭和21年7月5日から9日まで、満州事変関係の証人として東京裁判の法廷に出廷している。

 その際、張作霖爆死事件、十月事件、満州事変、三月事件、満州国の成立と運営に、橋本欣五郎、梅津美治郎、土肥原賢二、板垣征四郎が深く関わっていたと証言した。

 さらに田中は昭和22年1月3日の「B級犯罪と被告の責任」の審理のときにも出廷し、捕虜取り扱いの責任について次のように証言している。

 「責任は陸軍大臣にありますが、(収容所)位置の決定ならびに建設は軍務局軍事課の掌握するところであります」と。

52.田中隆吉陸軍少将(2) 川島芳子を愛人とし、関東軍のスパイとして利用した

2007年03月16日 | 田中隆吉陸軍少将
 第一次上海事変は激烈な戦闘が展開されたが、まもなく停戦協定が結ばれ、5月5日に調印された。

 だが、この直前の4月29日の天長節に、白川義則軍司令官、野村吉三郎第三艦隊司令長官、重光葵公使など日本側首脳部が、一朝鮮人の投げた爆弾によって死傷する事件が起り、重大事件に発展した(白川義則軍司令官死去)。

<田中隆吉陸軍少将プロフィル>

 明治26年7月9日島根県安来市の商家に長男として生まれる。松江中学へ進む。

 明治40年陸軍広島地方幼年学校入学。43年陸軍中央幼年学校入学。

 大正2年3月陸軍士官学校砲兵科卒業(26期)。野砲兵第23連隊(岡山)。

 大正3年陸軍砲兵少尉任官。6年陸軍砲工学校卒業。7年陸軍中尉。結婚。野砲兵第26連隊(朝鮮)。

 大正8年陸軍大学校入学(34期生)。11年 陸軍大学校卒業。野砲兵連隊。

 大正12年陸軍大尉。参謀本部。13年参謀本部支那班(この頃大川周明との関係)。

 昭和2年7月 参謀本部付・支那研究生として北京に駐在(特務機関) 。

 昭和4年8月 砲兵少佐。参謀本部支那課兵要地誌班。5年10月 上海駐在武官。

 昭和7年1月 上海事変。8月 野砲兵第4連隊大隊長。9年3月 陸軍中佐。野戦重砲兵第1連隊付(市川、連隊長は下村定)。

 昭和10年3月関東軍参謀部第2課(情報課)参謀。12年1月 徳化特務機関長を兼務。(対ソ戦略の一環として内蒙工作に従事。徳王と連携して事件を起こす)。

 昭和12年8月陸軍大佐。第19師団(朝鮮)山砲兵第25連隊長。

 昭和14年11月 陸軍省兵務局兵務課長。15年3月 陸軍少将、第1軍(中国)参謀長。

 昭和15年12月 陸軍省兵務局長 16年6月陸軍中野学校長を兼ねる(10月、兼職を免ぜられる) 。

 昭和17年9月東部軍司令部付。11月~12月 初老期憂鬱症状のため国府台陸軍病院に入院。18年3月 予備役編入 。

 昭和20年3月 召集され羅津要塞司令官に任命されるが、阿南惟幾を通じて工作し、神経衰弱の再発を理由に召集解除。

 昭和20年終戦後、宇垣一成を担いで新政党を発足させようとするが宇垣の公職追放のため失敗。

 昭和21年1月 陸軍の内情を明かした「敗因を衝く」を刊行。これによって田中は東京裁判に巻き込まれる。

 昭和21年春 国際検事団に出頭させられる。23年11月 東京裁判終了。

 昭和24年 戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲する9月15日 短刀による自殺未遂。

 昭和47年6月5日直腸癌のため死去。享年78。

 上海時代、田中少佐は中国で暗躍した清朝粛親王の美貌で知的な王女で「男装の麗人」と呼ばれた、川島芳子を愛人とし、関東軍のスパイとして利用したことは良く知られている。

51.田中隆吉陸軍少将(1) 「あなたは妖怪といわれていたそうですね」といわれて、にんまり笑った

2007年03月09日 | 田中隆吉陸軍少将
 「人物陸大物語」(光人社)の著者、甲斐克彦氏は田中隆吉について、「正直に言ってこの人物については、書きたくない気分だ」と述べている。

 戦後、旧軍の総括が何度かあって、旧軍人から義絶を申し渡され、反逆者扱いされた者が二人いる。

 一人はこの「陸海軍けんか列伝」でもすでに紹介した、再軍備無用論で戦後社会党から参議院に立候補した遠藤三郎陸軍中将。

 もう一人が、東條裁判で検事側証人になり、暴露的証言を行って、彼自身のいう「恩人」東條英機以下の絞首刑を手伝った田中隆吉陸軍少将である。

 甲斐氏はそのときのニュース映画を見たとき、弁護団の反対尋問で、「あなたは妖怪といわれていたそうですね」といわれて、にんまり笑った、その顔の印象が強すぎ、肝心の返答を聞きもらしてしまった、と記している。

 「現実暴露の悲哀」という言葉がある。昭和20年11月6日に日本に到着したキーナン検事が注目したのは、陸軍少将で兵務局長の要職にあったにもかかわらず、陸軍を追われた田中隆吉であった。

 キーナンは田中に接触し、検事側の証人になるよう求めた。田中は証人台に立った。

 またキーナンの証人として裁判中に田中は昭和21年1月、山水社から「敗因を衝く、軍閥専横の実相」を発行した。

 自分の体験を中心にした本で、第二次大戦以前及び開戦から終戦までの東條を中心とする軍上層部の闇を内部告発し暴露したのである。世間は驚きの渦に巻き込まれた。

 さらに昭和22年10月に「日本軍閥暗闘史」(静和堂書店)を発刊している。

 日本帝国軍の明治初期の長州、薩摩の縄張り争いに端を発した軍の派閥抗争を終戦に至るまでを詳細に記録した本である。

 これらのことにより、旧軍人や国民から田中隆吉は轟々たる非難を浴びた。

 では田中隆吉の暴露は真実ではなかったのだろうか。非難の中に「田中は嘘を言っている」といったものは殆ど無かった。このことは真実が「堕ちた偶像」をつくり「現実暴露の悲哀」を生み出したに過ぎないし、田中隆吉はその役前を果たしただけだったともいえる。

 田中隆吉は陸軍士官学校は、遠藤三郎と同じ26期で、ともに砲兵。陸軍大学校も同じ34期で、遠藤は5位の恩賜組だが、田中は68人中の20位だった。

 田中は後年「上海事変はこうして起こされた」(別冊知性・昭和31年12月号)で「私の半生はいわば陰謀工作に始終したと言ってよい」と述べている。

 「昭和陸軍秘史」(番町書房)によると、昭和6年の満州事変後、昭和7年1月、満州国の成立過程において、たまたま上海において日華両軍の衝突事件が起り、戦渦が中支に拡大した。これが第一次上海事変である。

 この第一次上海事変の発端は満州国の建国を容易にするため、列国の関心を上海に向ける方針で企てられた謀略に発するものだった。そのときの火付け役が、上海の駐在武官補佐官の田中隆吉少佐であった。