陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

653.山本権兵衛海軍大将(33)山本権兵衛中将が「やあ、山縣君、しばらく」と声をかけ、山縣元帥を鼻白ませた

2018年09月28日 | 山本権兵衛海軍大将
 海相・西郷従道元帥が軍務局長・山本権兵衛中将に海軍大臣就任を承諾させた経緯は、次のようなやりとりがあった。

 西郷元帥「おはんを海軍大臣にして、おいは内務と思っちょたが、おはんが引き受けんなら、おいも御免じゃ」。

 山本中将「止むを得もはん、引き受けもそ。じゃどん、外交に関することは、必ずおいに相談してもらいたか思めもすが」。

 西郷元帥「よか。山縣さんと青木(周蔵外務大臣)さんに約束させもそ」。

 最初に山本権兵衛中将が辞退したのは、まだ早いと思ったこともあったが、長州閥の領袖であり、官僚的で権謀性があり、陸主海従の内閣総理大臣・山縣有朋元帥を好きではなかったのだ。

 武田秀雄(たけだ・ひでお)海軍機関中将(高知・海軍機関学校旧二期・フランス留学・防護巡洋艦「厳島」乗組・日清戦争・軍令部第二局・機関少監・フランス駐在・艦政本部・海軍教育本部第二部長・機関大監・海軍火薬廠製造部長・機関少将・海軍教育本部第三部長・機関中将・海軍機関学校長・予備役・三菱造船会長・三菱内縁機製造会長・三菱電機初代会長・勲四等瑞宝章・フランスレジオンドヌール勲章シェヴァリエ)は、予備役編入後、三菱電機初代会長など、実業家として活躍した稀有の軍人である。

 その武田機関中将が、山本権兵衛海軍大将が死去した翌年の昭和九年六月、山本権兵衛大将について、次の様に述べている。

 「かつて、山本大将は、人から『近代の偉人は?』と聞かれ、山本大将は、『往年は大西郷を崇拝した。近年は、西郷従道を補佐して働いたが、従道候は寛仁宏量、大度の人であった。よくあらゆる人を容れられた。学ぶところが大いにある。両西郷のほかは伊藤(博文)公だ。公は海軍をよく理解して、公平無私の偉大な人だった』と、語られた」。

 小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう)海軍大将(石川・海兵一五・五番・海大二・英国駐在・潜水母艦「韓崎」艦長・大佐・巡洋艦「鈴谷」艦長・防護巡洋艦「音羽」艦長・水路部測器科長・海軍省副官・戦艦「香取」艦長・艦政本部第一部長・少将・在英国大使館附武官・軍務局長・第一特務艦隊司令官・中将・呉工廠長・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、明治三十四年当時、海軍大臣・山本権兵衛中将の秘書官だった。

 昭和九年六月二十五日、小栗大将は、山本権兵衛大将について、次の様に語っている。

 「山本大将は伊藤博文公と西郷従道候を尊敬しておられた。他の人のことを話す時は敬称をつけないことが多かったが、この二人には必ず『さん』をつけていた」。

 山本権兵衛中将が、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任する前のある日の話。宮中の廊下で、山縣有朋元帥に出会った山本権兵衛中将が、「やあ、山縣君、しばらく」と声をかけ、山縣元帥を鼻白ませた。山縣元帥六〇歳、山本中将四六歳だった。

 明治三十一年十一月八日、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任した山本権兵衛中将は、海軍部内の重要役職者の刷新を決行した。年齢・経歴よりも、実力により、新しく任命した。

 海軍次官は、明治二十三年五月以来、五十八歳の伊藤雋吉(いとう・しゅんきち)中将(京都・維新後海軍兵学寮中教授・海軍少佐・通報艦「春日」艦長・中佐・コルベット「筑波」艦長・海軍兵学校次長・装甲艦「金剛」艦長・大佐・海軍兵学校長・少将・横須賀造船所長・艦政局長・海軍参謀部長・第二局長・海軍次官・中将・海軍次官・軍務局長・海軍次官・男爵・中将・海軍次官・予備役・貴族院議員・勲一等瑞宝章・フランス共和国レジオンドヌール勲章コマンド―ル等)だった。

 山本海軍大臣は、この伊藤次官に勇退してもらい、四十歳の防護巡洋艦「厳島」艦長・斎藤実(さいとう・まこと)大佐(岩手・海兵六・三番・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・海軍次官・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長兼教育本部長・海軍大臣・男爵・大将・予備役・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・枢密顧問官・首相・内大臣・議定官・暗殺・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章等)を、海軍次官に抜擢した。

 また、山本権兵衛中将の後任の軍務局長に任命されたのは、山本権兵衛中将と海軍兵学寮同期の海軍軍令部次長・諸岡頼之(もろおか・よりゆき)少将(東京・海兵二・海軍参謀部第一課員・大佐・コルベット「大和」艦長・コルベット「迅鯨」艦長・造兵廠長・防護巡洋艦「吉野」艦長・水雷術練習所長・少将・軍令部次長・軍務局長・教育本部長・常備艦隊司令官・中将・正四位・勲三等・功四級)だった。

 上位の斎藤実海軍次官(四十歳)が大佐で、下位の諸岡頼之軍務局長(四十七歳)が少将では逆だが、法規上では、海軍省の役職は階級に無関係とされていたので、山本権兵衛海軍大臣はそれを利用したのである。




652.山本権兵衛海軍大将(32)山本軍務局長が西郷従道海相に代わって弁するほうがうまくゆく

2018年09月21日 | 山本権兵衛海軍大将
 官邸で、山本権兵衛軍務局長は、伊藤首相から次の様に問われた。

 「ご承知のように威海衛は、清国政府より日本に払い込むべき償金の担保として、我が国がこれを占領している。しかし、清国政府からの償金払い込みは、間もなく完了する」

 「それに目を付けたものか、英国から『清国が償金払い込みを完了し、日本軍隊が威海衛を引き揚げた後、英国は東洋派遣艦隊の為に、威海衛の租借を清国に求めたいと希望し散るが、日本政府の意向を聞きたい』と、我が政府に問い合わせがあった」

 「このことは日本の東洋政策にも関係があると思うが、貴方の意見を聞かせてもらいたい」。

 この伊藤首相の問いに対して、山本軍務局長は、即座に次の様に答えた。

 「威海衛はわが軍隊の撤退後は、早晩いずれかの強国の狙うところとなろうと考えていました。既に旅順口と大連はロシアにより、膠州湾はドイツにより、それぞれ租借の強要を受けて、清国はこれを許諾しました」

 「これは現下においてはやむを得ない成り行きというべきでしょうか。このように渤海湾の咽喉が、これら二国に占拠されたからには、英国にもその要求を充たさせるべきでしょう。英国はそれら二国とは少し色彩を異にしていますから、英国を威海衛に拠らしめれば、ロシア、ドイツの勢威に対する牽制ともなりましょう」

 「従って、英国政府に対しては、本件については、帝国政府はなんら依存ない旨を答えるのが良いと認めます。ただし、一つ条件があります。我が新領土の台湾、澎湖島の永久の安寧保持を図るには、対岸の清国福建省の保安を維持する必要があります」

 「この好機を利用して、揚子江から、南清にかけて最も勢力を持つ英国に対し、交換的に福建省方面を我が国の勢力圏に入れることを諒解させるべきだと思います。これは将来に対して我が南進政策を樹立する上においても、重要な案件でありましょう」。

 同席していた陸相・桂太郎中将も、この山本軍務局長の主張に同意した。伊藤首相もこの意見を容れ、翌日の閣議で決定し、英国政府への回答手続きをとった。結局、日本は、清国に福建省の不割譲を約束させ、声明させたのである。

 当時、軍務局長・山本権兵衛少将は、海軍省では「権兵衛大臣」の評価が根付いていた。特別の手続きを踏んで、山本軍務局長が西郷従道海相に代わって弁するほうがうまくゆく……みんな、そう思っていた。

 明治三十一年五月十四日、山本権兵衛少将は、従四位、中将に進級した。それから、正四位に昇進して、その年の十一月八日、第二次山縣有朋内閣の海軍大臣になった。「権兵衛大臣」から正式な海軍大臣に就任したのである。四十六歳だった。

 これまで海軍大臣であった西郷従道元帥は、内務大臣に就任した。西郷従道大将は、次の三名の陸軍大将とともに明治三十一年一月二十日、元帥府に列せられていた。

 小松宮彰仁親王(こまつのみや・あきひとしんのう)陸軍大将(京都・皇族・戊辰戦争で奥羽征討総督・維新後兵部卿・英国留学・陸軍少尉・佐賀征討総督・少将・陸軍戸山学校長・東京鎮台司令長官・中将・大勲位菊花大綬章・欧州出張・近衛都督・大将・近衛師団長・参謀総長・征清大総督・大勲位菊花章頸飾・功二級・元帥・英国国王戴冠式差遣・薨去・国葬)。

 山縣有朋(やまがた・ありとも)陸軍大将(山口・奇兵隊総管・戊辰戦争・維新後陸軍大輔・中将・陸軍卿・近衛都督・西南の役・征討参軍・陸軍卿・参謀本部長・伯爵・内務大臣・農商務大臣・内閣総理大臣・大将・司法大臣・枢密院議長・日清戦争・第一軍司令官・監軍・陸軍大臣・侯爵・元帥・内閣総理大臣・参謀総長・枢密院議長・公爵・枢密顧問官・枢密院議長・公爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 大山巌(おおやま・いわお)陸軍大将(鹿児島・戊辰戦争・維新後陸軍大佐・少将・ジュネーヴ留学・熊本鎮台司令長官・第一局長・東京鎮台司令長官・西南戦争で別働第一旅団司令長官・攻城砲隊指揮官・中将・参謀本部次長・陸軍士官学校長・陸軍卿・参謀本部長・陸軍大臣・大将・枢密顧問官・陸軍大臣・日清戦争で第二軍司令官・陸軍大臣・侯爵・功二級・元帥・参謀総長・大勲位菊花大綬章・日露戦争で満州軍総司令官・参謀総長・公爵・大勲位菊花章頸飾・功一級・内大臣・従一位・内大臣・死去・国葬・英帝国メリット勲章・フランス共和国レジオンドヌール勲章グランクロア等)。





651.山本権兵衛海軍大将(31)西洋の文明国と言われる、これらの国々だが、本性はこのようなものだった

2018年09月14日 | 山本権兵衛海軍大将
 思うような展開になったので、山本少将は率直に、次の様に打ち明けた。

 「それは、私が反対したのでございます。『吉野』は我が国の最も大切な軍艦で、たとえわずかな期間でも、日本から離す訳にはいかないのでございます」。

 これに対して、有栖川宮少将は、「『吉野』が外国に行っている間、東洋に事が起こりそうだというのかね」と、応じた。

 山本少将は「そのような形勢ではないにしても、最も大切な軍艦を、日本から離すことは、よろしくないと思うのです」と、重ねて主張した。

 それで、有栖川宮少将は、ようやく山本少将の真意を知り、「判った。海軍省が選んだフネでゆくことにしよう」と答えた。これ以後、有栖川宮少将は、誰よりも山本少将を信頼するようになった。

 明治三十年十一月十四日、突如、ドイツ艦隊三隻の海兵隊六百人が、清国山東省の膠州湾に上陸し、青島付近一帯を占領した。

 ドイツ人宣教師二名が何者かに殺害されたというだけの口実によってである。

 十二月十五日、これまた突如、ロシア艦隊六隻が遼東半島の旅順港に侵入し、同港を占領したのである。

 ドイツが膠州湾を占領したから、ロシアはこちらを頂くという、不逞のものだった。

 中国人たちは、味方のはずのロシアが、赤頭巾を脱ぎ、狼に一変したのに仰天した。

 さらに四か月後の、明治三十一年三月六日、ドイツは占領中の膠州湾(青島)を、清国から正式に租借することに成功した。

 清国宰相・李鴻章がロシアから莫大な賄賂を受け取った弱みをつかみ、脅迫した結果だった。

 四月二十六日、それを知ったロシアは、李鴻章に、遼東半島の租借と、ハルピンから大連までの東清鉄道支線の敷設権を、強要してまるまる手に入れた。

 三年前、遼東半島は、「極東永久の平和に障害になる」と、ロシア、ドイツ、フランスが、日本に威しをかけ、清国に返還させたばかりだった。

 それにもかかわらず、武力と、李鴻章への新たな賄賂、五〇万ルーブルで、強奪したのである。

 ドイツとロシアが、このような、強奪、脅迫、賄賂の手段で手に入れると、イギリスも黙っていず、明治三十一年七月、山東半島北岸の軍港、威海衛を清国から租借した。

 イギリス海軍の力を背景にしたもので、イギリスはドイツとロシアの間に、楔(くさび)を打ち込み、両国の、これ以上の中国侵略を牽制しようとした。

 その四か月後の、十一月、フランスも仏印(仏領インドシナ=現ベトナム)に近い南支那(清国)の広州湾を、むしり取るようにして租借した。

 このようにして、ドイツ、ロシア、イギリス、フランスは、地域の租借ばかりではなく、鉄道敷設権、鉱山開発権なども、清国からもぎ取った。西洋の文明国と言われる、これらの国々だが、本性はこのようなものだった。

 だが、日本も英国と利用し合い、それ相応の利益を得ようとした。

 明治三十一年四月のある日、山本権兵衛軍務局長は、伊藤博文首相に招かれて、首相官邸を訪れた。

 相官邸には、陸軍大臣・桂太郎(かつら・たろう)中将(山口・長州藩士・戊辰戦争・維新後ドイツ留学・陸軍大尉・歩兵少佐・在ドイツ公使館附武官・歩兵中佐・参謀本部管西局長心得・歩兵大佐・参謀本部管西局長・少将・陸軍次官・中将・第三師団長・台湾総督・陸軍大臣・大将・内閣総理大臣・軍事参議官・内閣総理大臣・内大臣兼侍従長・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)も同席していた。




650.山本権兵衛海軍大将(30)山本少将は「殿下は、私をお叱りになるのでございますか」と言った

2018年09月07日 | 山本権兵衛海軍大将
 参考までに、鈴木と財部の進級年齢を比較してみると、次の様になる。

 海軍兵学校一四期の鈴木の進級は、少佐<三十一歳>、中佐<三十六歳>、大佐<四十歳>、少将<四十六歳>、中将<五十歳>、大将<五十六歳>。

 海軍兵学校一五期の財部の進級は、少佐<三十二歳>、中佐<三十六歳>、大佐<三十九歳>、少将<四十二歳>、中将<四十六歳>、大将<五十二歳>。

 昭和五年一月二十一日から四月二十二日まで開催されたロンドン海軍軍縮会議に、若槻礼次郎前首相とともに海相・財部彪大将は全権として出席していた。

 その時の、財部海相の優柔不断な態度と、観光旅行でも行くように妻いねを同伴した軟弱さへの批判が海軍部内に高まった。

 江田島の海軍兵学校にまで、その批判の空気が伝染し、生徒らの間に、「死して広瀬になるとも、生きて財部となるなかれ」という合言葉が流れていたという。

 山本権兵衛ほど傑出した海軍の将星はいなかったといわれるが、財部の超特急昇進の一点は、情に流れた不覚の失敗だった。

 明治三十年五月に、英国ビクトリア女王の即位六十年記念祝典がロンドンで開催されることになり、皇族である常備艦隊司令官・有栖川宮威仁親王少将が、天皇の名代として参列することになった。

 有栖川宮少将は、英国で建造された新鋭高速巡洋艦「吉野」に座乗して訪英することを熱望し、次の四人の内諾をとりつけた。

 松方正義(まつかた・まさよし)首相(鹿児島・薩摩藩士・御船奉行添役・御軍艦掛・維新後長崎裁判所参議・日田県知事・民部大丞・大蔵官僚・渡欧・参議兼大蔵卿・日本銀行創設・初代大蔵大臣・内閣総理大臣・麝香間祗候<じゃこうのましこう=華族または親任官であった官吏を優遇するための名誉職>・内閣総理大臣・元勲待遇<元老>・枢密顧問官・内大臣・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・イギリス帝国聖マイケル聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス等)。

 大隈重信(おおくま・しげのぶ)外相(佐賀・佐賀藩士・弘道館教授・佐賀藩校英学塾教頭・維新後外国事務局判事・大蔵大輔・参議・大蔵卿・統計院初代院長・立憲改進党結成・東京専門学校<現・早稲田大学>開設・伯爵・外務大臣・憲政党結成・内閣総理大臣・早稲田大学総長・内閣総理大臣・侯爵・貴族院議員・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・ロシア帝国神聖アレキサンドルネウスキー勲章等)。

 西郷従道(さいごう・つぐみち)中将(鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦いで重症・維新後渡欧し軍制調査・兵部権大丞・陸軍少将・陸軍中将・台湾出兵・藩地事務都督・陸軍卿代行・近衛都督・陸軍卿・農商務卿・兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣・元老・枢密顧問官・海軍大将・侯爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)。

 伊東祐亨(いとう・すけゆき)軍令部長(鹿児島・薩摩藩士・開成所・戊辰戦争・維新後海軍大尉・コルベット「日進」艦長・中佐・装甲艦「扶桑」艦長・装甲艦「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀造船所長・英国出張・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備小艦隊司令官・大域局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部長・子爵・功二級・大将・議定官・軍事参議官・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国スタニスラス第一等勲章)。

 ところが、その後、海軍省から「吉野」は出すことができないと通知があり、有栖川宮少将は憤激した。

 有栖川宮少将が西郷従道海相に電話すると、「私は、異議はないのですが、海軍省の省議として「吉野」は出すことができないと決まりましたものですから」と、要領を得なかった。

 伊東祐亨軍令部長も「私は賛成なのですが、海軍省が不同意と申しますので、どうにもなりません」と、同様な返事だった。

 思い当たった有栖川宮少将は、軍務局長・山本権兵衛少将に来邸を求めた。
 
 有栖川宮少将の官邸を訪ねた、挨拶が終わると機先を制して、山本少将は「殿下は、私をお叱りになるのでございますか」と言った。

 出鼻を挫かれた有栖川宮少将は、「いや、そうではない。尋ねたいことがあって、よんだのだ」と言って、「吉野」の問題について、説明を求めた。