陸海軍けんか列伝

オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。

634.山本権兵衛海軍大将(14)榎本武揚は薩摩の“出るクギ”である山本中尉を打ち、それをみせしめにした

2018年05月18日 | 山本権兵衛海軍大将
 事実は、榎本武揚は薩摩の“出るクギ”である山本中尉を打ち、それをみせしめにした。人事権で薩摩の勢力を抑えようとしたのだが、反対に自分が叩き出される結果を招いたのだ。

 なお、仁礼景範少将は、東海(後の横須賀)鎮守府司令長官の要職に復活した。

 航海練習艦「浅間」においての、山本権兵衛中尉の主任務は、砲術教育だった。八月には、井上良馨中佐が、「浅間」艦長に任命され、着任した。

 これにより、海軍部内から集められた砲術志望の士官、下士官に対する操艦練習も開始された。この中には、従来の士官でも、熱意のある少佐、大尉なども含まれていた。

 山本中尉は、准士官、下士官の中から人物優秀な者を抜擢して、士官に昇進させる道を開くことを献策し、海軍省に認められた。

 山本中尉の推薦により、下士官から少尉補になり、後に中佐、大佐、少将に進んだ者も数名いた。

 「浅間」で教育を受ければ、どんどん昇進するという評判が海軍部内に伝わり、砲術志願者が続出するようになった。

 山本中尉は、ラッパ譜の改正も提議した。陸海軍がバラバラに吹いているが、このままでは、陸海軍が協同動作を行うとき、混乱が起こるから、陸海軍は協同で審査し、整理改正をする必要がある、というのである。

 山本中尉の話を聞いた海軍卿・川村中将は、「「海軍のラッパ譜は、卓越した西洋人を招聘し、研究を重ねてできたもので、陸軍よか先達の位置にある。改正する必要はなか」と、簡単に却下した。

 ところが、昭和十五年夏、朝鮮の京城で起こった「壬午の変」の時、出動した陸軍部隊と海軍陸戦隊の間で、ラッパのために珍事件が発生した。

 海軍部隊で「食事」のラッパが鳴り渡ると、陸軍部隊の兵士らが、一斉に任務を中止して、「気を付け」の姿勢をとったのである。海軍の「食事」ラッパが、陸軍の「気を付け」ラッパに極めてよく似ていたからだ。

 報告を受けた川村中将は、驚き、前言を取り消して、陸海軍両省からラッパ譜の改正調査委員を設置することを認めた。

 明治十五年十二月十一日、山本権兵衛大尉は、航海練習艦「浅間」(一四二二トン・砲一四門)の副長に任命された。

 前任の副長は吉島辰寧(よしじま・ときやす)少佐(練習艦「浅間」副長・少佐・横須賀水兵屯営副長・練習艦「摂津」艦長・中佐・練習艦「浅間」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・海軍兵学校次長・第一局第一課長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・呉鎮守府参謀長・待命・予備役・充員招集・海軍兵学校校長・少将)だった。

 退任直後、吉島辰寧少佐は、自ら志願して若い練習士官の中に入り、「浅間」において、砲術の専攻に励んだ。

 補習を必要とすると思いながら、口に出せないでいた従来の士官らが、それに刺激されて、吉島少佐の後に続いた。こうして、「学術に対しては、官位の上下なし」の新風が吹き始めた。

 明治十八年四月二十三日、「天津条約」締結五日後に、山本権兵衛大尉は、練習艦「浅間」副長から、英国で建造中の最新鋭巡洋艦「浪速」の回航事務取扱委員に転出した。

 最新鋭巡洋艦「浪速」の艦長は、伊東祐亨大佐だった。山本権兵衛大尉は、六月二十日、少佐に進級し、十一月二十日、副長に任命された。

 この新巡洋艦は以前の軍艦と全く変わり、帆がなく、スクリューだけで航走する、鋼鉄製、三六五〇トン、速力一八ノット、二十六センチ砲二門、十五センチ砲六門、魚雷発射管四門という、高性能で強大な艦だった。

 ちなみに、「浪速」と同型の「高千穂」が同じく英国のアームストロング社、「畝傍」がフランスのフォルジュ・シャンティェ社で、同時に建造中だった。

 明治十九年二月十五日、伊東大佐、山本少佐ら回航委員は、イングランド東北部のニューカッスルにあるアームストロング社のロー・エルジック造船所で、「浪速」を受領した。

 出航に先立ち、山本権兵衛副長は、伊東艦長の承認を得て、「浪速」の全乗員に、英国海軍式のパン食を励行させることにした。日本海軍の艦船乗員は、ビタミンB不足のために、脚気にかかる者が多かったからだ。






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633.山本権兵衛海軍大将(13)榎本海軍卿に対する非難が、火に油を注いだように燃え上がった

2018年05月11日 | 山本権兵衛海軍大将
 四名の中堅士官らが排斥運動を始めたにもかかわらず、榎本海軍卿は、今度は京橋三十間堀の料亭で、博徒らと盛大な酒宴を開いた。海軍部内の榎本海軍卿に対する非難が、火に油を注いだように燃え上がった。

 山本中尉の同僚らは、山本中尉を押し立て、隅田川の一件について、海軍省に抗議しようとはかった。

 だが、山本中尉は、「海軍卿の進退を論ずることなどに、我々のような下級者はすべきでない」と、受け付けなかった。

 ところが、明治十四年二月十五日、山本中尉は突然、練習艦「乾行」乗組みを罷免され、非職を命ぜられた。

 山本中尉は「不当な処置である」と怒り、練習艦「乾行」艦長・浜武慎中佐(後海海軍兵学校教官・大佐)に、その理由を質した。

 だが、浜中佐は「兵学校からこの辞令が届けられたから、君に交付しただけだ」と言うだけだった。海軍兵学校の人事係に尋ねても、同様の答えが返って来た。

 山本中尉は、榎本海軍卿に宛てて、上申書を書いた。要旨は次のようなものだった。

 「軍人が非職に入るのは、品行が修まらない、疾病、自己請願、この三つのいずれかに該当した場合と、法規に厳として定められている。ところが、自分は、身を海軍に委せ、君国のため一意奉公の至誠を捧げて職務に服し、なんら過失の覚えがなく、かつ心身ともに健全であり、請願もしていない」

 「それにもかかわらず、突然非職に入れられたのは如何なる理由によるものか、願わくは高教を垂れていただきたい」。

 しかし、山本中尉の上申書は、高い棚に束ねられて、捨て置かれた。

 山本中尉の家は、芝田町九丁目にある、川路利良(かわじ・としよし)警視総監(鹿児島・禁門の変・戊辰戦争・薩摩官軍大隊長・会津戦争・薩摩藩兵器奉行・維新後東京府大属・典事・邏卒総長・欧州警察制度を視察・初代警視総監・西南戦争・陸軍少将・別働第三旅団司令長官・欧州警察制度視察・病気になり帰国・病死・正五位・勲二等旭日重光章)の邸宅の近くにあった。

 非職となり、山本中尉の月給は四十五円から十五円になった。山本中尉の家は借家で、家賃は五円だった。女中が一人いて、その月給はニ十銭~三十銭だった。
 
 三月二十九日、家計は緊迫していたが、そこへもってきて、妻の登喜子が次女を出産した。さすがに剛気の山本中尉も参った。しかし、堪えるしか道はなかった。

 次女の、すゑ子は、後に、山路一善(やまじ・かずよし)海軍中将(愛媛・海兵一七・三席・少佐・日露戦争・連合艦隊第一艦隊第二戦隊参謀・中佐・第一艦隊第三戦隊参謀・第一次世界大戦・少将・第三特務艦隊司令官・海軍の航空兵力導入に尽力・「海軍航空生みの親」・中将・正五位・勲三等・功三級)の夫人になる。

 明治十四年四月七日、榎本武揚海軍卿が罷免され、川村純義(かわむら・すみよし)大将(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争・薩摩藩四番隊長・維新後海軍大輔・海軍中将・西南戦争・参軍・参議・海軍卿・枢密顧問官・死去・海軍大将・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)が再び海軍卿に就任した。

 榎本武揚海軍卿の更迭を、三宅雪嶺(みやけ・せつれい・石川・加賀藩儒医の子・官立東京開成学校・東京大学文学部哲学科卒・自由民権運動・政教社設立・「日本人」創刊・帝国芸術院会員・文化勲章受章・「真善美日本人」など著書多数・哲学者・評論家)は、その著書「同時代史」で次の様に述べている。

 「榎本が部内の人を動かさんとし、薩摩出身者が怒り、賊軍の身分にて生意気なりとて、集まりて殴打し、海軍卿の更迭を惹き起こす。之には佐賀に人も与かり、川村が卿となれる後、中牟田(佐賀出身)が同大輔(次官)となる」。

 明治十四年七月上旬、山本中尉は、海軍卿・川村純義中将に呼び出された。窮乏生活も五か月になろうとしていた。

 川村中将は、「おはんは、七月十三日付で、航海練習艦『浅間』の乗組みを仰せ付けられることにないもした」と山本中尉に告げた。「まっこと、あいがとごわす」と、山本中尉は深く頭を下げた。

 だが、山本中尉は、それだけでは、気が済まず、非職になった理由を問い質した。すると、川村中将は次の様に言って諭した。

 「過去は追わんがよか。前途が大切じゃ。いまやわが海軍は、「浅間」を練習艦として、新たに砲術専攻の門戸を開かんとしちょる。こげんとき、おはんら有意の士官に、絶大の努力をしてもらわにゃならん。他の一切の経緯を顧みず、奮起してたもんせ」。

 山本中尉は、承服した。





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632.山本権兵衛海軍大将(12)四名の中堅士官らは「言語道断の振舞い」と憤激して海軍省に抗議した

2018年05月04日 | 山本権兵衛海軍大将
 「そこでこの件を熱心に主張した仁礼さんは立場を失い、官を辞して鹿児島に帰るというとられる。おいどんら同志も、仁礼さんと進退を共にすっ覚悟じゃ。おはんの上京を促したのもこんためだ」。

 伊東中将も仁礼少将も旧薩摩藩士だが、伊東中将は明治五年八月、中牟田倉之助(明治四年十一月に少将)についで少将となり、明治十一年十一月に中将に昇進した。一方、仁礼少将は、明治十三年二月に少将となったもので、伊東中将には勝てなかったのだ。

 日高中尉の話を聞いた、山本中尉は、日高中尉の逸る気持ちを制するように次のように言った。

 「はじめて事情が分かった。じゃどん、おいの考えはおはんとちと違う。今回のこつはおいの献策が原因じゃから、その責任を回避っす気はなかが、献策を採用すっかせんかは相当の地位にある者の権威にある。その局になく、学窓を出て実務に就いたばかりの下級者が、献策が採用されんちゅうて、すぐに辞職しちょったら、人事行政はできんようになっじゃなかか」

 「往年、西郷先生が辞職されたとき、その責任の位置にある者もない者も、同志多数が職を辞して鹿児島に帰った。あれと大小軽重の差はあっが、おなじようなもんで、そいはわが故郷の誇りでもなく、おいどんらの名誉でもなか。また、至誠公に奉ずる道でもなかろ」。

 以上の山本中尉の心情を聞いた、日高中尉は「わかった。おはんのいうとおりじゃ。仁礼さんにも、そういうてたもんせ」と答えた。

 山本中尉は仁礼少将を訪ね、詳しく意見を述べて、辞官を思いとどまるよう諫めた。仁礼少将は辞官して帰郷することは中止した。

 しかし、明治十三年十二月四日に伊東中将が軍務局長に就任したあと、十二月八日、仁礼少将は海軍兵学校校長を退き、非職となった。

 非職とは、官位はそのままだが、職務がなく、給料も本給の三分の一になる制度。

 十二月二十六日、今回の騒動の余波を受けた、山本権兵衛中尉は、再び、練習艦「乾行」乗組みを命ぜられ、差し戻された。

 明治十四年の年が明けて間もない頃、練習艦「乾行」で当直勤務中の山本中尉は、「汽艇二隻を隅田川に回せ」という海軍卿・榎本武揚中将からの命令を伝達された。

 山本中尉は艦長の承認を得て、鹿野勇之進少尉に艇の指揮を命じ、汽艇二隻を隅田川に回航させた。

 榎本中将はその二隻の汽艇に、外国使臣らを招待し、芸者連中を侍らせて、遊興した。その噂は、たちまち、海軍部内に広がった。

 この話を聞いた、四名の中堅士官らは「言語道断の振舞い」と憤激して海軍省に抗議した。そして、榎本武揚の排斥運動を始めた。四名の中堅士官は次の通り。

 スループ「日進」艦長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)中佐(鹿児島・神戸海軍操練所・薩英戦争・戊辰戦争・維新後海軍大尉・中佐・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「龍驤」艦長・コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府長官・常備艦隊長官・連合艦隊司令長官・日清戦争・黄海海戦で勝利・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国神聖スタニスラス第一等勲章)。

 コルベット「浅間」艦長・井上良馨(いのうえ・よしか)中佐(鹿児島・薩英戦争・「春日艦」小頭・戊辰戦争・阿波沖海戦・宮古湾海戦・函館戦争・「龍驤」乗組・中尉・少佐・軍艦「春日丸」艦長・砲艦「雲揚」艦長・中佐・軍艦「「清輝」艦長・西南戦争・大佐・装甲艦「扶桑」艦長・海軍省軍事部次長・少将・海軍省軍務局長・中将・佐世保鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・日清戦争・西海艦隊司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・日露戦争・軍事参議官・子爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)。

 軍艦艦長・笠間広盾中佐(中佐・コルベット「筑波」艦長・鉄甲コルベット「比叡」艦長・大佐・死去)。

 東海水兵本営長・有地品之允(ありち・しなのじょう)中佐(山口・長州藩士・戊辰戦争・維新後欧州出張・陸軍少佐・侍従・海軍少佐・提督府分課・中佐・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・参謀本部海軍部第一局長・少将・横須賀軍港司令官・海軍機関学校校長・海軍兵学校校長・海軍参謀部長・常備艦隊司令長官・中将・呉鎮守府司令長官・日清戦争・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・予備役・男爵・貴族院議員・帝国海事協会初代理事長・枢密院顧問・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・ハワイ王国クラウンオブハワイ勲章)。






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631.山本権兵衛海軍大将(11)妻の履物を揃えて置くなどは、男としてはあまりにも見苦しい行為だ

2018年04月27日 | 山本権兵衛海軍大将
 画期的だったのは「清輝」が、国産艦である軍艦であることと、従来と違い、外国人教師を一人も同乗させずに、日本人だけで航海して来たという壮挙だった。

 明治十二年十月二日、山本中尉の妻、登喜子が長女、いね子を出産した。いね子は後に、海軍兵学校第一五期を首席で卒業し出世コースを進む財部彪(たからべ・たけし)大尉(宮崎・海兵一五首席・大佐・巡洋艦「宗谷」艦長・戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順要港部司令官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン海軍軍縮会議全権・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・スペイン王国海軍有功白色第四級勲章等)と結婚する。

 明治十三年頃、山本権兵衛中尉の妻、登喜子が、練習艦「乾行」を見学に来た。山本中尉は妻を自分で案内し、説明した。

 妻、登喜子が帰るとき、ボートから桟橋に移る際、山本中尉は、登喜子の履物を手に持って、先に桟橋に移り、彼女の前に揃えた。

 回りにいた将兵達は冷笑した。海軍士官が妻を艦内に案内することも殆どないのに、衆人環視の中で、妻の履物を揃えて置くなどは、男としてはあまりにも見苦しい行為だと思ったのだ。

 だが、山本中尉は平然としていた。「敬妻は一家に秩序と平和をもたらす」というのが、山本中尉の信念だったのだ。

 明治十三年十月七日、山本権兵衛中尉は、海軍兵学校卒業の海軍少尉補らを乗せて遠洋航海に出かける練習艦「龍驤」乗組みとなった。

 実は、山本中尉は、練習艦「乾行」乗組みの時、軍艦「清輝」の壮挙に刺激されて、次の様に海軍兵学校校長・仁礼景範少将に進言した。

 「外国人教師は学校での特殊教科を教えるだけにとどめ、日本海軍を代表する活動を行う練習艦には、もはや同乗させるべきではない。また、時代に後れて補習が必要になった高級士官らも遠洋航海練習艦に乗組ませ、少尉補らと同様に、新学術を習得した青年士官教師の教育を受けさせる必要がある」

 「学術の前には上下がなく、軍隊のおける命令・服従に支障を生じさせるものでもない。むしろ、海軍全般に研学の気運を振興し、ひいては士気を高揚して、海軍実力を増進させることになる。したがって、新学術を習得した青年士官を、できるだけ多く練習艦の指導官に任命すべきである」。

 校長・仁礼少将は大賛成して、山本中尉の案を海軍省に提出し、海軍省もそれを認めた。その結果、山本中尉ほか数名の青年士官が、練習艦「龍驤」乗組みとなったのだ。

 ところが、その後、海軍省勤務の日高壮の丞中尉から、横須賀港で「龍驤」乗組み中の山本中尉のもとに電報があり、「至急上京せよ」と言ってきた。

 そこで、山本中尉は、艦長の許可を得て上京し、日高中尉に面会した。日高中尉はため息をつくと、次の様に言った。

 「従来の士官(海軍兵学校以前)を「龍驤」で再教育すっちゅう件じゃが、ちかく軍務局長になる中将が大反対で、海軍卿を動かして、中止となった」。

 軍務局長になる中将とは、伊東祐麿(いとう・すけまろ)中将(鹿児島・薩摩藩士・薩摩藩砲隊長・維新後海軍少佐・練習艦「龍驤」副長・練習艦「龍驤」艦長・中艦隊指揮官・少将・佐賀征討参軍・東部指揮官・東海鎮守府司令長官・西南戦争で海軍艦隊指揮官・中将・海軍省軍務局長・海軍兵学校校長・元老院議員・貴族院議員・子爵・錦鶏間祗候・正三位)のことだった。

 また、海軍卿は榎本武揚(えのもと・たけあき)中将(東京・長崎海軍伝習所・築地軍艦操練所教授・オランダ留学・軍艦頭・阿波沖海戦で勝利・海軍副総裁・旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出・函館戦争・新政府軍に降伏・特赦で出獄・開拓使四等出仕・北海道鉱山検査巡回・中判官・駐露特命全権大使・海軍中将・樺太・千島交換条約締結・外務大輔・海軍卿・予備役・皇居造営事務副総裁・駐清特命全権公使・逓信大臣・子爵・農商務大臣・電気学会初代会長・文部大臣・枢密顧問官・外務大臣・農商務大臣・工業化学会初代会長・子爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・ロシア帝国白鷲大綬章等)だった。

 日高中尉は、続けて、山本中尉に次の様に言った。

 「伊東さんは、従来の士官は維新当時、兵馬倥偬(こうそう=戦争で多忙)の間に出入りした者が多く、海軍が定めた学科を習得する機会がなかったちゅうても、実戦の経歴功績を持つか、独学的実地的に研鑽を積み、いづれも相当の抱負を持ってその地位にあるのに、練習乗組みを命じ、青年士官の指導の下で練習させるちゅうは、個人の名誉を傷つけるのみか、下級者の軽視を招き、ひいては軍隊における秩序を乱す嫌いがあるというんじゃ」









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630.山本権兵衛海軍大将(10)水兵に反感を買っていることを知った山本少尉は、東郷中尉に忠告した

2018年04月20日 | 山本権兵衛海軍大将
 続いて青木公使は、日本海軍の命令を伝達した。山本少尉ら八名はドイツ海軍の新造艦「ライプチッヒ」に乗組むことを命ぜられた。彼らは「ライプチッヒ」に乗組み実習を行った。

 明治十一年三月、山本少尉ら八人は、「ライプチッヒ」を退艦し、帰国の途についた。五月六日、横浜港に帰着した。

 五月二十五日、山本権兵衛少尉は、近く英国から回航されてくる新造の甲鉄コルベット「扶桑」(三七一七トン)乗組みを命ぜられた。

 八月十六日、横須賀に停泊中の甲鉄コルベット「扶桑」に、英国で七年間船乗り修業をした東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)中尉(鹿児島・英国商船学校・コルベット「大和」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・呉鎮守府参謀長・防護巡洋艦「浪速」艦長・呉鎮守府海兵団長・防護巡洋艦「浪速」艦長・日清戦争・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・日露戦争・日本海海戦で大勝利・軍令部長・伯爵・訪英・元帥・東宮御学問所総裁・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級)が着任した。

 東郷中尉(三十歳)と山本少尉(二十六歳)は少年時代から顔見知りだったが、勤務を共にするのはこれが初めてだった。

 間もなく、英国帰りの東郷中尉が時々英語の命令を出して、水兵に反感を買っていることを知った山本少尉は、東郷中尉に忠告した。

 「英語の命令は止めた方がよか思めもすが」。すると東郷中尉は「英語も命令は命令ごわんそ」と平然と答えた。

 この強情な相手に、山本少尉は戦法を変えて、「リッキング(マストに取り付けられた縄梯子)の昇降競争をやいもはんか」と提案すると、」「どげんすっと」と東郷中尉は質問をした。

 「早く甲板に着いたが勝ちで、その意見に従うちゅうのはどげじゃろ」と山本少尉が説明すると、「よかごわんそ」と東郷中尉は、挑戦を受けた。

 二人は作業服に着替え、士官連中が観戦する中で、競争することにした。

 煙突後方のメインマストには、何人もが一度に昇り降りできる幅広い縄梯子が取り付けられていて、東郷中尉は左舷側から、山本少尉は右舷側から昇ることになった。

 判定係士官の合図で、二人は昇り始めたが、山本少尉がサルなら、東郷中尉はナマケモノのようだった。山本少尉が甲板に降り立った時、東郷中尉はまだ下りの半分にもかかっていなかった。

 ようやく甲板におりてきた東郷中尉に、山本少尉が「おいの勝ちじゃ」と声をかけた。ところが東郷中尉は兜を脱がず、「いや、負けちゃおいもはんど、おいはズボンが破れもうした。そいで遅れただけじゃ」と反論して、何かに引っ掛けて破ったらしいズタズタのズボンを指さした。

 山本少尉はじめ見物の士官連中は、東郷中尉の負け嫌いにあきれ、笑い出した。

 しかし、東郷中尉は、約束通り、その後は英語の命令を出さなくなった。英語と日本語の対訳命令メモを作り、分からなくなると、メモを見て日本語の命令を出していた。

 山本少尉は、東郷中尉の不屈の闘志と、誠実な性格に感服した。

 明治十一年十月二十三日、東郷平八郎中尉(三十歳)は、芝田町の尾張屋で、薩摩藩の先輩、奈良県令・海江田信義の長女、テツ(十七歳)と結婚式を挙げた。

 およそ二か月後の、十二月十六日、山本権兵衛少尉(二十六歳)は、箸屋から身請けした、津沢鹿助の三女、トキ(十九歳)と結婚した。山本権兵衛少尉の妻となったトキは、登喜子と改名した。

 結婚直後の明治十一年十二月二十七日、山本権兵衛少尉は中尉に昇進した。

 明治十二年四月九日、山本権兵衛中尉は、海軍兵学校の練習艦「乾行」乗組みを命ぜられた。生徒たちに運用術と砲術を教えることになった。

 四月十八日、明治維新後、初めての国産の軍艦「清輝」(八九七トン)が、ヨーロッパ方面を回り、二六三〇〇海里という大記録を樹立して、横浜港に帰って来た。

 乗組員は、艦長・井上良馨(いのうえ・よしか)中佐(鹿児島・薩英戦争・「春日艦」小頭・戊辰戦争・阿波沖海戦・宮古湾海戦・函館戦争・「龍驤」乗組・中尉・少佐・軍艦「春日丸」艦長・砲艦「雲揚」艦長・中佐・軍艦「「清輝」艦長・西南戦争・大佐・装甲艦「扶桑」艦長・海軍省軍事部次長・少将・海軍省軍務局長・中将・佐世保鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・日清戦争・西海艦隊司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・日露戦争・軍事参議官・子爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)以下一五〇人だった。








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629.山本権兵衛海軍大将(9)トキをさらったのは山本少尉補の所業と発覚して、箸屋の主は怒った

2018年04月13日 | 山本権兵衛海軍大将
 この十七名が、海軍兵学校二期生だが、権兵衛の卒業成績は十六番、日高壮之丞は十四番だった。だが、権兵衛と日高の二人だけが、後に海軍大将まで昇進した。

 ちなみに、上村彦之丞は、二年七か月後の明治十年六月八日、第四期生としてようやく卒業したが、卒業成績は九名ちゅう九番だった。だが、上村も後に海軍大将になった。

 海軍兵学寮を卒業した、権兵衛は、練習艦「筑波」で遠洋航海。明治九年九月までに帰港した。その後、そのまま「筑波」乗組みとなった。

 明治九年十二月、山本権兵衛ら八名の海軍少尉補は、軍事研究のため、ドイツ海軍練習艦「ヴィネタ」乗組みを命ぜられた。明治十年の年明けに、「ヴィネタ」は出港し、ドイツに向かった。

 二十四歳の山本権兵衛少尉補が、十七歳の美しい少女、トキを発見し、結婚の約束をしたのは、練習艦「筑波」で遠洋航海から帰ってきて、ドイツ海軍練習艦「ヴィネタ」に乗組むまでの間だった。

 太平洋横断の遠洋航海から帰った山本少尉補らは、上陸すると、南品三丁目の海軍士官合宿所の村田屋によく行った。

 その村田屋の道を隔てた向かいに箸屋という女郎屋があり、そこには、ほっそりして憂いを含んだ美しい少女の遊女が新しく現れた。

 山本少尉補は一目見て、胸をうたれ、彼女を相方に指名した。

 その娘は、山本少尉補の真摯な態度に安心して、身の上を語った。本名はトキ、十七歳で、新潟県中浦原郡菱潟村の漁師、津沢鹿助の三女で、家が貧しく、最近売られてきた。しかし、これからどうなるのか、とても不安だという。

 悲哀と同情を覚えた山本少尉補は、心の底からトキを愛しく思い、一身をなげうってでも苦境から救い出し、妻に迎え、幸せにしようと決心した。

 太田家の養子となった六歳下の弟、盛実と、同僚数名に考えを打ち明けた山本少尉補は、彼らの協力を得て、ある夜、ひそかにトキを縄でくくり、茶屋の二階から屋外に降ろし、赤坂付近の盛実の下宿にかくまった。

 たちまち、トキをさらったのは山本少尉補の所業と発覚して、箸屋の主は怒った。だが、相手が贔屓になっている海軍士官の一人で、さらに、身請けしたいためと知った。

 箸屋の主は、事を荒立てるより、示談にした方が得と悟り、山本権兵衛少尉補が身請け金四十円を数回に分けて支払う条件で、手を打った。当時海軍少尉の月給がほぼ四十円だった。

 トキ(後、登喜子と改名)は、海軍士官の妻として必要な心得、知識、作法などを学びながら、山本少尉補がドイツ軍艦での修業を終えて帰って来るのを待つことになった。

 明治十年一月二日、山本権兵衛ら八名の少尉補を乗せた、ドイツ海軍練習船「ヴィネタ」は、横浜港を出港、世界を半周する長い航海に出発した。

 この航海の途中、明治十年五月、西郷隆盛の挙兵を知ったが、山本少尉補らは、国の命令がなければ、勝手に行動できないとの判断から、この練習船での実習を続けることにした。

 山本少尉補は、ドイツ海軍練習船「ヴィネタ」での航海時実習中に、ドイツ士官や候補生に少しも屈するところがなく、随分喧嘩もした。

 次の番の当直であるドイツ人候補生が起きて来ないのに癇癪を起した山本少尉補は、釣床のひもを解いて、いきなり甲板に落下させてやった。

 明治十年十一月二日、練習艦「ヴィネタ」は北ドイツに入港した。山本少尉補ら八名は、日本公使館に行くために、十一月六日ベルリンに着いた。

 山本少尉補は、そこで、官軍の陸軍大尉として西郷軍と戦っていた兄、吉蔵が六月二十四日、鹿児島西方の武大明神岳の激しい白兵戦で戦死し、西郷隆盛が鹿児島の岩崎谷で敗れて自決したことを知った。

 当時の駐独公使は、青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・明倫館・ドイツ留学・外務省入省・駐独公使・プロイセン貴族令嬢エリザベートと結婚・帰国後条約改正取調御用掛・駐独公使・外務大輔・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣・駐独公使兼イギリス公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・ポルトガル王国キリスト勲章・勲一等タイ王冠勲章等)だった。

 青木周蔵公使は、日本公使館で、山本権兵衛ら八人の少尉補に、「任海軍少尉」の辞令を渡した。彼らは六月八日付けで海軍少尉に昇進していた。




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628.山本権兵衛海軍大将(8)いよいよ、明日出発という前夜、二人は大議論を始めた

2018年04月06日 | 山本権兵衛海軍大将
 鹿児島に着くと、権兵衛と左近充は、自宅を素通りして、まず次の二人の邸宅を訪れ、自分たちの所懐と決意を告げた。
 
 桐野利秋(きりの・としあき=中村半次郎・鹿児島・朝彦親王守衛・禁門の変・戊辰戦争・城下一番小隊長・大総督府軍監・維新後鹿児島常備隊第一大隊長・御親兵・陸軍少将・従五位・鎮西鎮台司令長官・兼陸軍裁判所所長・正五位・・西郷隆盛の下野に従い鹿児島に帰郷・吉野開墾社指導役・出兵・西南戦争・西郷軍総司令兼四番大隊指揮長・政府軍と戦闘・戦死・正五位)。

 篠原国幹(しのはら・くにもと・鹿児島・藩校造士館・江戸練兵館・寺田屋騒動・薩英戦争・薩摩藩城下三番小隊長・鳥羽伏見の戦い・維新後鹿児島常備隊第二大隊長・御親兵・陸軍大佐・陸軍少将・近衛局出仕・従五位・近衛長官・西郷隆盛の下野に従い鹿児島に帰郷・鹿児島に私学校設立・出兵・西南戦争・西郷軍一番大隊指揮長・政府軍と戦闘・戦死・正五位)。

 桐野も篠原も、べつに反対はせず、むしろ大いに賛同したので、権兵衛と左近允は、その足で武村(現・武町)の西郷邸を訪ねた。

 西郷隆盛は、二人を厳しい態度で迎え、お茶の一杯も出さなかった。だが、二人の言うことは、静かに聞いた。また、彼らの質問には誠実に答えた。その後、しばらくの間、黙って考えていたが、次の様に二人を懇々と諭した(要旨)。

 「我が国は四面を海に囲まれ、支那及びロシアに接近しちょういもうす。一朝国難が至らば、海軍なしでは手も足も出もはん。おはんらは、ここをよく考え、けっして現下の政治問題などに関与せず、一意専心、国家のために、学業を修めてもらいたか。そいがおいの切望でごわす」。

 この西郷の言葉に、権兵衛は深い感銘を受けた。そして、これからは、ひたすら海軍の修業に励み、将来国家のために一身を捧げて奉公する旨を西郷隆盛に誓った。

 ところが、左近充隼太は、どうしてもこれを聞き入れようとしなかった。西郷隆盛は、左近充に再三、兵学寮に復帰するよう勧告したが、左近充は、頑として応じなかった。西郷隆盛と生死を共にする決意を変えようとはしなかった。

 この場で、翻意をさせるのは無理だと判断した西郷隆盛は、左近充に、それでは、山本権兵衛を京都まで見送った上で、さらにまた帰省する気になったら、そうしても良いと言った。

 二人が西郷邸を辞した時は、深夜の十二時を過ぎていた。そのあと二人は、初めてそれぞれの実家に帰り、今回帰郷したいきさつを、家族に話した。

 数日後、権兵衛と左近充は、長崎行きの船で鹿児島を出発し、状況の途についた。やがて、京都の宿舎に着き、いよいよ、明日出発という前夜、二人は大議論を始めた。

 左近充にしてみれば、「帰郷するとき、将来生死を共にしようと固く誓いながら、たとえ西郷隆盛から諭されたにせよ、権兵衛が友を裏切って、去るとは卑怯ではないか」という思いがあった。

 遂に左近充は、激論中、突然立ち上がり、床の間に詰め寄り、そこに置いてあった自分の信玄袋から短刀を取り出して、刺し違えようとまでした。

 ところが、どうしたことか、信玄袋を開いてみると、中にあるはずの短刀が見当たらない。さすがの左近充も、気抜けの態で、ぽかんとしていた。

 そこで、ここぞとばかり、権兵衛は左近充に対し、事の理議を説き聞かせた。左近充もようやく落ち着いて、権兵衛の説得に耳を傾け、その場では納得したようだった。

 二人は翌日出発して帰京し、再び兵学寮で学ぶことになった。権兵衛は、あらかじめ、このことあるを予期して、左近充の短刀を隠していたのだ。

 しかし、兵学寮に戻った、左近充は再び考えを改め、退寮して、鹿児島に帰った。どうしても、西郷隆盛と運命を共にしたい、ということだった。左近充は、明治十年の西南戦争で西郷軍として戦い、城山で戦死した。

 後年、権兵衛は、この鹿児島帰郷について、長文の手記を書いている。その中で、次のように述懐している。

 「予が今日あるは、まったく西郷南洲翁(西郷隆盛)の高論に感じ、深く自覚したる結果にほかならず、ああ、今にして当時を追想すれば、感極まって、言うところを知らず」。

 明治七年十一月一日、山本権兵衛、日高壮之丞ら十七名は、海軍兵学寮を二期生として卒業し、海軍少尉補となった。







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627.山本権兵衛海軍大将(7)上村にしても、山本にしても、多くの生徒らが、よく殴り合いのけんかをしていた

2018年03月30日 | 山本権兵衛海軍大将
 権兵衛は、上村を圧倒する態度で、次のように熱烈に反論し、説得した。

 「おいは西郷さあから、『将来、最も大切な任務は海軍じゃ。その道を修め、国家に奉公せよ』といわれもした。そいで勝先生の援助を得て、兵学寮に入寮したが、おいは将来海軍に尽くす決心じゃ。おはんも目的を変ずべからずじゃ。おはんはのちに、海軍に対して十分ご奉公ができもそ」。

 この権兵衛の熱い説得の言葉を聞いて、上村は退寮を思いとどまった。

 だが、権兵衛と、上村の海軍兵学寮生活には、いろいろあった。学術と腕力では権兵衛が上で、頭の上がらない上村が、ある時、「権兵衛、おはんがいくら威張っても、ただ一つ、おいにかなわんものがあっど」と言った。

 権兵衛が「なんど」と聞くと、上村は「酒じゃ、酒ならおいの小指にも及ばんじゃろ」と答えた。「バカ言うな」と権兵衛はケンカを買った。

 二人は新橋の江木写真館近くの居酒屋に行き、それぞれ自分の前に酒が一合入ったグラスを十個並べた。ガブガブ勢いよく飲んだ権兵衛は、いち早く十個のグラスを空にした。ところが、たちまちバッタリ倒れてしまった。

 上村は、ゆっくり飲み、十個のグラスを明け、さらに五杯飲んだ。しかし、そのあと苦しみ出し、吐いてしまった。

 それまで、権兵衛はよく酒を飲んでいたが、以後、深酒はぷっつりやめたという。

 とにかく、当時は、上村にしても、山本にしても、多くの生徒らが、よく殴り合いのけんかをしていたのは事実らしい。また、そういう生徒たちに対して、鉄拳制裁が加えられていた。

 ちなみに、この頃、明治五年十一月九日(陰暦)、「十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト為ス」という改暦の詔書が発布され、明治五年十二月二日で陰暦が終わり、翌日から太陽暦となった。

 明治六年十一月十九日、次の二名が海軍兵学寮を卒業した。

 平山藤次郎(ひらやま・とうじろう・徳島・徳島藩士・海兵一期・少尉・コルベット「筑波」乗組・西南戦争で功績・オーストラリア・中尉・大尉・少佐・大佐・「摂津艦」艦長・コルベット「筑波」艦長・スループ「天城」艦長・スループ「葛城」艦長・日清戦争・通報艦「八重山」艦長・「テールス号」事件で予備役・商船学校長・勲二等瑞宝章・功四級・オーストリア=ハンガリー帝国星章飾付フランソワジョゼフ第二等勲章)。

 森又七郎(もり・またしちろう・東京・海兵一期・少尉・コルベット「龍驤」乗組・西南戦争・少佐・海軍兵学校編修長・海軍兵学校水雷術教授・軍艦「春日丸」艦長・大佐・コルベット「筑波」艦長・水雷練習艦「迅鯨」艦長・コルベット「比叡」艦長・横須賀鎮守府海兵団長・水雷練習艦「迅鯨」艦長・水雷術練習所長・水雷母艦「山城丸」艦長・日清戦争・輸送船「近江丸」艦長・呉知港事・呉鎮守府予備艦部長兼呉知港事・呉水雷団長・呉鎮守府軍港部長・少将・予備役・港務局長兼横浜港務局長・神奈川県港務長・従五位)。

 二人は試験の成績が優秀のため卒業を認められ、少尉補(後の少尉候補生)となった。この二人が、海軍兵学校の第一期生である。平山が二十三歳、森が二十六歳だった。

 明治七年一月、海軍兵学寮生徒らは、適性や本人の希望により、測量(後の航海)科二十三名、砲術運用科七十七名、蒸気科二十六名、造船科三名に区分された。

 山本権兵衛、日高壮之丞、上村彦之丞らは砲術運用科に入った。ただ、同じ砲術運用科でも、山本権兵衛と、日高壮之丞は一号生徒、上村彦之丞は五号生徒だった。

 七十七名は、学業成績によって、一号十四名、二号十六名、三号十五名、四号十五名、五号十七名に分けられたのだが、上村彦之丞は学業成績が劣っていたので、五号生徒にされた。しかも、五号生徒の中でも末席だった。

 明治六年十月末、征韓論に敗れた西郷隆盛は、桐野利明陸軍少将以下の部下を連れて、東京を去り、鹿児島に帰った。

 明治七年二月下旬、山本権兵衛は、西郷隆盛の真意を確かめなければ気が済まなくなり、兵学寮に休暇願を出して、同僚の左近充隼太とともに鹿児島に向かって旅に出た。

 旅の途中、二人は議論を続け、お互い、どんなことがあっても、生死を共にすることを誓い合った。京都に着いたときは、丁度佐賀の乱が勃発していたため、交通が妨げられ、その鎮静の後、鹿児島に向かった。
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626.山本権兵衛海軍大将(6)海軍のことは技術的なことが多くて難しいから、止めた方がいい

2018年03月23日 | 山本権兵衛海軍大将
 だが権兵衛が実際に面会してみると、勝海舟は、黄八丈の着流しで、タバコ盆を下げて出てきた。勝は実にやさしい人で、十八歳の権兵衛を、子供の面倒を見るように親切に取り扱ってくれた。

 ところが、権兵衛が、勝海舟に自分の志を告げ、「是非、ご指導願いたい」と申し出ると、勝は首を縦に振らなかった。権兵衛は朝九時頃から午後四時ころまでいて、ねばった。

 勝は「海軍のことは技術的なことが多くて難しいから、止めた方がいい」と言って、どうしても許してくれなかった。権兵衛はその日は退去した。

 翌日、権兵衛は改めて出直し、勝に嘆願を重ねた。また、一日中ねばったが、やはり、「よろしい」と勝は言わなかった。

 権兵衛は、三日目も勝邸を訪れ、前回と同じことを繰り返して嘆願した。その根気に、さすがの勝も兜を脱いだ。「そう熱心にやる考えなら、やれ」と、初めて許された。

 権兵衛は、その日から、勝海舟邸の食客になった。翌日から、権兵衛は勝に色々質問をしたりして海軍知識を教授してもらった。

 勝は権兵衛に次のように教え諭した。

 「皇漢学も大切だが、これからは洋学の知識がなければ、本当の海軍学術を身に着けることはできない。その為には、まず、高等普通学、数学等を修めて素養を作らなければならない。そうしてから、海軍に入り勉強すれば、きっと海軍に通暁することができよう」。

 この教えに従って、権兵衛は昌平黌や開成所に入って勉強した。その後海軍に入った。海軍操練所に入ってからも、権兵衛は、毎週一回は勝海舟のもとを訪れて、教えを受けていた。

 明治三十二年一月十九日勝海舟が死去した時、海軍大臣・山本権兵衛中将は、特に勅裁を仰いで現職の海軍大臣と同一の儀仗兵を出した。

 それから山本海軍大臣は勝海舟の銅像を海軍省の正面に建設する計画を立て、勝海舟の女婿・目賀田勇男爵に相談した。

 すると、目賀田勇男爵は、「海舟は銅像が嫌いだったようだから、辞退した」と言ったので、山本海軍大臣は、仕方なく取りやめた。

 明治二年九月十八日、東京築地安芸橋内に海軍操練所が開設された。政府は各藩から海軍修業生を推薦させた。推薦された貢進生は寮生活だった。また、一般志願者からも通学生として採用した。

 山本権兵衛も日高壮之丞(ひだか・そうのじょう・一八四八年生・鹿児島・海兵二期・防護巡洋艦「松島」艦長・海軍兵学校校長・少将・常備艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・常備艦隊司令官・舞鶴鎮守府司令長官・男爵・大将・従三位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)とともに薩摩藩からの貢進生五人の中に入っていた。

 明治三年十一月四日、海軍操練所は海軍兵学寮と改められ、旧海軍操練所の生徒はそのまま兵学療に引き継がれた。

 十一月八日、通学生と百余名が廃せられ、在寮生も七十余名中から、わずかに、幼年生徒十五名、壮年生徒二十九名だけを選抜ということになった。山本権兵衛は幼年生徒として採用された。

 その後、幼年生徒は予科生徒と、壮年生徒は本科生徒と改編され、山本権兵衛は明治五年八月二十日本科生徒(二期)に進んだ。

 「海軍の父 山本権兵衛」(生出寿・光人社・1989年)によると、海軍兵学寮四期生に上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう・一八四九年生・鹿児島・海兵四期・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・少将・海軍省軍務局長・兼軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・大将・軍事参議官・男爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・シャム王国王冠第一等勲章)がいた。

 薩摩藩士の家に生まれた上村彦之丞は、戊辰戦争に従軍し、山本権兵衛より三歳年長だが、遅れて明治四年八月に海軍兵学寮に入った。海軍兵学寮での成績は悪く常に最下位で、卒業席次も最下位だった。

 明治五年九月、四期生の上村彦之丞(一八四九年生・二十三歳)が、二期生の山本権兵衛(一八五二年生・二十歳)と日高壮之丞(一八四八年生・二十四歳)に次のように不満をぶちまけた。

 「こげな窮屈なところにいて、たかが船頭になるちゅうよか、広い世間に出て、大きく国家のために働きか」。



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625.山本権兵衛海軍大将(5)あんたは頭が働きすぎる。いい力士にはなれない。おやめなさい

2018年03月16日 | 山本権兵衛海軍大将
 当時、島津久光公の御殿に奉公していた姉・栄子が作ってくれた出陣の服装を着て、次兄・吉蔵とともに元気よく出陣した。

 薩摩藩兵小銃第八番小隊に編入された権兵衛は、慶應三年十一月十三日、島津忠義(しまづ・ただよし・島津久光の長男・薩摩藩第十二代・最後の藩主・維新後薩摩藩知事・公爵・貴族院公爵議員・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・国葬)に随従して鹿児島を出発、二十三日に京都に到着した。

 十二月九日には朝廷から王政復古の大号令が発せられた。十二月二十八日、兄・吉蔵が一斗樽をさげて相国寺別院に駐屯している権兵衛を訪ねてきた。

 二人は大いに飲み、大いに語った。吉蔵が「互いに命を的にするとはいいながら、弾丸傷ではなく、刀傷にしようじゃないか」と言うと、弟・権兵衛も「その通り」と大きくうなずいた。

 慶応四年正月、いよいよ戊辰戦争が勃発、権兵衛は薩摩藩兵として官軍に従い、鳥羽伏見の戦いには八幡の戦線に参加した。

 勇ましい川村純義(かわむら・すみよし)隊長(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争・薩摩藩四番隊長・維新後海軍大輔・海軍中将・西南戦争で参軍・参議・海軍卿・枢密顧問官・死後海軍大将・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)は剣を抜き、「進め、進め!」と、よく号令したが、さすがに十五歳の権兵衛は突撃がつらかったという。

 この戦いでは、兄弟はついに会う機会がなかった。吉蔵は白河口へ、権兵衛は越後口へ向かったが、権兵衛は、兄・吉蔵から次のような書簡を受け取った。

 「兄弟戦に死せざるは賀すべきなり。然れども一の傷をも受けざるは、人皆吾等が勇戦せざりしと思ふならん。依て今後大に進撃して兄弟互に大功を立てたと言はれんことを希望す」。

 権兵衛の隊は慶応四年五月十日京都を発し、越後口に進軍、転戦後、奥羽に進んだ。

 慶應四年九月八日、「慶応」の元号が「明治」と改められた。九月二十六日、庄内藩が帰順したので、権兵衛の隊は凱旋の途につき、江戸を経て、十一月十四日京都に到着、その後鹿児島に帰った。

 権兵衛の隊が、奥羽から凱旋の途につき江戸へ戻った頃のことである。当時、江戸に、相撲取りで、陣幕久五郎(じんまく・きゅうごろう・島根・江戸相撲・秀ノ山部屋・松江藩抱え力士・薩摩藩抱え力士・大関・慶応三年第十二代横綱・戊辰戦争・薩摩藩志士・維新後大阪相撲頭取総長・実業家に転進)という横綱がいた。

 陣幕久五郎は、維新動乱になり、相撲を止め、戊辰戦争では官軍として働いた後は、薩摩藩主・島津忠義の護衛をしていた。

 山本権兵衛は、郷里薩摩の甲突川の中州で行われる宮相撲で、「花車」という醜名(しこな=四股名)の大関になっていた。

 権兵衛は本物の力士になろうと思い、横綱の陣幕久五郎に相談した。ところが、「あんたは頭が働きすぎる。いい力士にはなれない。おやめなさい」と言われ、力士志願を断念した。

 慶應四年五月一日、兄・吉蔵の隊は、会津戦で白河口に攻め入った。この時、吉蔵は、敵の隊長と渡り合い、ついにこれを倒したが、自分も頸と頭に負傷し、後送された。横浜の病院で治療し、八月十九日、まだ全快はしていなかったが、退院してまた会津に向かった。

 戊辰戦争は奥羽平定で幕を閉じた。薩摩藩は藩兵の中から五〇名を選んで遊学生とし、東京、京都、その他の要地に分遣させた。山本権兵衛もこの中に入り、東京に遊学することになった。明治二年三月、十八歳だった。

 東京に出た権兵衛は、西郷隆盛が薩摩藩兵を率いて函館戦争に赴くのを見て、志願、従軍した。西郷隊が函館に到着した前日、五月十八日にすでに函館は鎮定されていたので、権兵衛は帰京、まもなく開成所に転学した。

 権兵衛の東京遊学に当たり、西郷隆盛は、特に勝海舟(かつ・かいしゅう・東京・江戸幕府異国応接掛附蘭書翻訳御用・長崎海軍伝習所・軍艦操練所教授方頭取・咸臨丸乗組教授方頭取として渡米・帰国後護武所砲術師範・軍艦操練所頭取・軍艦奉行並・陸軍総裁・西郷隆盛と会談・江戸城無血開城・維新後・明治政府外務大丞・兵部大丞・海軍卿・元老院議官・枢密顧問官・伯爵・『海軍歴史』『陸軍歴史』等の執筆・伯爵・従三位)に紹介状を書いてくれた。

 西郷隆盛は、山本権兵衛に将来は海軍に入って、国家に尽くすことをすすめ、権兵衛もその志を持っていた。だから西郷は勝海舟に紹介し師事する事をすすめたのだ。
それで権兵衛は上京するとすぐ、勝海舟邸を訪れた。勝海舟と言えば、西郷隆盛と江戸開城の大談判をやった大人物である。見るからに大英雄・大豪傑の人だろうと思っていた。














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