陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

80.有末精三陸軍中将(10) もし死のうと決心したら三人一緒に死のうじゃないか

2007年10月05日 | 有末精三陸軍中将
 「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、8月14日朝、有末中将が第二部長室で朝食を採っていたところ、近衛師団長の森赳中将(陸士28期)が突然訪ねてきた。森赳中将は有末中将と中央幼年学校の同期生。有末中将は士官学校では病気のため一期延期で29期となる。

 有末中将の机の側に来て、立ったまま森中将は「オイ!第二部長なんていうものは誰でも出来るよ、わしでも勤まるよ。第一貴様は皇太子様に勝ちもしない戦を勝つ勝つとウソを申し上げたじゃないか」と詰問した。

 有末中将は「わしは何もウソを申し上げたわけじゃない、努力すれば勝つし、また勝つようにしなければならないと申し上げただけだよ」と答えた。

 それから二、三押し問答の後、有末中将が「時に食事は終わったのか?」と聞いたところ、森中将は「貴様はよく飯を食うなあ。死ねよ」とキツイ一言を放った。

 有末中将は「死ぬ死なぬはわしの勝手だ。考えさせてもらう。時に御所の方は大丈夫か」と返事とともに質問した。

 「憚りながら禁闕守衛については指一本指させぬから、その点は心配するな」と言い放って立ち去った。その後味はなんとも言いようの無いものであった。

 朝食を済ませた有末中将は、隣の第一部長室に作戦部長の宮崎周一中将を訪ねた。

 宮崎中将は森中将の同期生であった。「おい、森が来たろう」との有末中将の呼びかけに「ウン来たよ。そして死ね!と言って帰ったよ」と言った。

 「わしのところも同じだったよ」。お互い死んでお詫びをしたものかどうか悩んでいた時でもあり、ことに作戦部長として全作戦の企画・実行に精進していた宮崎中将の苦悩は察するに難くなかった。

 宮崎中将は独り言のように「時に第三部長の磯谷中将(伍郎・有末中将と同期)が近来全然ものも言わずにふさぎこんでいるようだなあ」と洩らした。

 有末中将は「お互いそんな心境にある今日、おい、もし死のうと決心したら三人一緒に死のうじゃないか」などと話して別れた。

 森中将はその夜、宮中へ録音盤を奪回に侵入するため、クーデターを計画した一派が近衛師団の出動命令の発令を強要したのを拒否して射殺された。

 有末中将は終戦後、昭和20年8月厚木進駐部隊受け入れのための連絡委員長、9月対連合軍陸軍連絡委員長(有末機関・東京)等に就任し、マッカーサー進駐軍の受け入れに全力を尽くし、後に米軍顧問となり、日米の橋渡しを行った。

 昭和30年社団法人日本郷友連盟が発足し、連盟参与に就任。翌31年、米軍顧問を辞任した。

 昭和34年から44年にかけて、北米、西ドイツ、イタリア、トルコ、エジプト中近東、イラン各国の情勢視察を行った。

 昭和45年社団法人日本郷友連盟会長に就任。平成4年2月14日死去した。

(「有末精三陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「宇垣纏海軍中将」が始まります)

79.有末精三陸軍中将(9) この度の陸軍の態度は実にけしからぬ

2007年09月28日 | 有末精三陸軍中将
 「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和17年8月17日、有末少将は参謀本部第二部長に補職された。有末少将は東條大将に第二部長就任の挨拶に行った。陸軍大臣室に入ったとき、東條大将は「専ら作戦情報に専念し国内政治関係にはタッチするなよ」と釘を刺された。

 9月有末少将は、青山四丁目の鈴木企画院総裁の私邸を訪問した。その時、鈴木総裁は「君、情報報告の際、海軍側から率直にミッドウェー海戦の実相を吐かせろよ」と詰め寄られた。

 昭和17年6月5日~7日 ミッドウェイ海戦で海軍の南雲長官の機動部隊は空母四隻を失い大敗していたが、第二部長・有末少将ら陸軍中枢部にいる将官でもその事実を知らなかったのである。

 鈴木総裁は「首相も海軍側も参謀本部側も口を鎖して何ら言及しないのだが、木戸幸一内大臣の内話によれば、なんだか相当な打撃を受けている由、この際海軍第三部長の情報説明の折に話させろよ」とのことだった。

 有末少将は早速、田中第一部長に聞いたところ、これまた大本営海軍部発表以外は知らないと口を鎖し、当の海軍小川第三部長は本人自身も同様、平出報道部長に至っては全く報道以外は知らないと堅く明答した。

 有末中将が終戦後聞いたところでは、当時の軍令部首脳の受けた衝撃は実に驚くべき情況で、首相と参謀総長、次長、第一部長、作戦課長以外は厳秘に付していたとのことであった。そして実によく秘密が保たれていたとのことであった。

 昭和20年年7月26日、日本に対して13条から成る降伏勧告「ポツダム宣言」が連合国軍から発せられた。8月6日午前8時15分、広島に原爆は投下された。

 8月9日午後11時55分、皇居内の防空壕で第1回御前会議が開かれ、「天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざること」の了解の下に、ポツダム宣言受諾が決まった。

 「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、8月12日、サンフランシスコ・ラジオ放送の訳文によると、それは鼻息の荒い言い草であり、市ヶ谷台をあげて皆のもの一同の憤激は相当のものであった。

 翌13日の朝、敵側の正式通告が日本政府宛に来た。参謀本部第二部長の有末中将は外務省の正式訳文も受け取った。

 午後三笠宮が来られたので別室で有末中将は御目通りをした。かねて宮が第二部ご在勤当時、和平問題秘密討議の折、受けた印象はどちらかといえば堅いご意見のように思えた。

 それで有末中将は三笠宮に「降伏条件の過酷なことについて、何とかならぬものでしょうか」と心配を訴えた。

 ところが三笠宮は、従来のご態度とは全然正反対で「有末中将!」と言った。従来はよく有末中将に対してお使いになった「閣下」というお言葉は全然無かった。

 続いて殿下は「この度の陸軍の態度は実にけしからぬ。この度のことについては、何も言いたくない」とのきついお言葉であった。

 ちょうどその時、第八課の高倉盛雄中佐が入室し覚書を差し出した。それは、敵側の正式通告の正式訳文中の「サブジェクト・ツー」という英語の解釈(天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる)についての不審・不満の意見だった。

 とたんに殿下は「今出された覚書、そんなことが第一けしからん。近時ことに満州事変以来の陸軍のやり方は皆この調子、大いに反省されねばなりません」とキツイお言葉であった。

 しかし、そのあと、御景色を和らげられて、穏やかに「実は今朝陛下から直々におたのみの言葉があった」ことを話された。

 有末中将は本当の大御心をしみじみ拝察して、恐縮に絶えなかった。

78.有末精三陸軍中将(8) お前は課長なんだから、俺のところの岡課長と話せ

2007年09月21日 | 有末精三陸軍中将
 有末精三回顧録(芙蓉書房出版)によると、昭和10年7月10日、林陸軍大臣は、大臣官邸において真崎大将と懇談、国軍全般のため教育総監を辞めて軍事参議官にと諒解を求めたが真崎大将は拒否し物別れとなった。

 7月12日に、閑院参謀総長を交えて三長官会議が開かれたがこれも不備に終わった。

 その後軍事参議官たる大将がしばしば大臣官邸広間に集まって、真崎擁護と林支援の評定会談が開かれた。

 真崎擁護の立場に立ったのは、荒木大将、菱刈隆大将、本庄繁大将であった。一方林陸軍大臣支援の先頭に立ったのは同期の渡辺錠太郎大将であり、阿部信行大将、松井岩根大将が同調した。川島義之大将は始終沈黙だったといわれている。

 その後も三長官会議が開かれたが、決着を見ず、宮中のご都合を伺って、内奏のご裁可を仰ぐことになった。

 葉山御用邸に参堂すべく、有末少佐は林大臣に自動車でお伴をした。車中林大臣は「もし(真崎大将罷免を)ご裁可にならなかったらどうするか」と有末少佐に問うた。

 有末少佐は「ただちに辞表を捧呈してお詫びされるほかありますまい」と答えると、林大臣は「内懐を手で指しながら「ここに準備して持ってきている」と覚悟の程を示した。

 御用邸に着くと本庄武官長の案内で林大臣は午前へ出た。あまり長い時間ではなかったが、午前を退下した林大臣は本庄武官長としばらく密談の後、帰京の途についた。

 車中で林大臣は開口一番「陛下はただちにご裁可を賜り、それだけでよいのか(現役を辞めないでもよいのか)とのご下問があったくらいであった」と、有末少佐に話した。この時点で真崎大将の教育総監罷免が決定した。次の教育総監は渡辺錠太郎大将に決まった。

 昭和10年8月1日の定期異動で有末少佐は陸軍大臣秘書官を免じ軍事課国際渉外関係の課員に補せられた。

 その前、7月下旬、転任の内命に接した有末少佐は林大臣に挨拶したところ、林大臣はとくに靖国神社刀剣鍛錬所の刀匠「靖光」が入念に鍛えた日本刀を軍刀に仕込んでわざわざ大臣自ら箱書きの上、有末少佐に記念として贈った。

 また大臣が座右の銘にしていた「不耽溺不凝滞而更其操守」の句も軸書として有末少佐に贈った。

 この後、有末少佐は昭和11年8月に歩兵中佐に昇進し、イタリア大使館付武官としてイタリアへ赴任した。

 昭和14年3月陸軍省軍務局軍務課長に補任された有末大佐は6月24日イタリアから帰国した。

 帰国してみると三国同盟問題が全く行き詰まりの状態であった。有末大佐が板垣陸軍大臣、参謀総長載仁親王殿下に帰任の申告をしたとき、特に三国同盟問題に対し努力善処するよう強い激励を受けた。

 有末大佐は26日から早速関係者を訪問した。平沼首相は「何とかして三国同盟は結びたい。ヒットラー氏に出したメッセージに中立的態度を取らず、という字句を入れたが、外務大臣のところで削除された。事実条約局長から反対の提示もあったほどだ」と賛成しているが積極的姿勢は見られなかった。

 石渡蔵相は「無理に参戦を義務付けることはいけないが、政治的に秘密条項なしにやる意見には同意だ」と平沼首相と大同小異の意見。

 有田外相からは同意とも不同意とも意思表示は無かったが、有末大佐が一時間あまり報告を続けると「次の用務があるのでこれで失礼する」と席を立った。これで外相は不同意だと有末大佐は思った。

 海軍軍令部次長・古賀中将と作戦部長・宇垣少将は二人とも「多少字句を巧く操れば、どうしてあれができないのか」と決して不同意ではなかった。

 海軍省の主任課長の岡敬純大佐は「今字句を練っているのだから、貴公あまりあわてるなよ」と軍令部の意見と同じであった。

 ところが、井上成美軍務局長は、有末大佐に対して、三国同盟問題について聞こうとしなかった。

 有末大佐は十年前イタリア駐在の折にも、また秘書官時代には海軍の軍務第一課長として知らぬ仲でもなかった。

 有末大佐が井上軍局長のところに行って話を切り出そうとすると、井上局長は「俺は君のところの町尻軍務局長と話をする。お前は課長なんだから、俺のところの岡課長と話せ」と一向に取り合ってくれない。

 いわんや、山本五十六次官、米内海相にはとりつくしまもなく、ついに面会さえもできなかった。有末大佐は、ははあ、海軍はこういう情況かと落胆した。このときは三国同盟締結は露となって消えた。

 昭和14年12月1日の発令で有末大佐は北支那方面軍参謀に補され、北平(北京)に赴任した。だが昭和15年に有末大佐は、その地で三国同盟が締結された報告を受けた。

77.有末精三陸軍中将(7) 君も辞めろ。陸軍大学の教官になって、統帥の研究をやり給え

2007年09月15日 | 有末精三陸軍中将
 「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和9年7月3日、斉藤内閣は右翼的勢力の攻勢によって倒れ、大命が岡田啓介海軍大将に降りた。

 政変はあったが、林銑十郎陸軍大将は留任し陸軍省では何ら人事異動はなかった。林大臣から「信用するから頼む」と言われ、頗る意欲的に働いていた陸相秘書官の有末少佐は、どうも林大臣と柳川平助次官の間がシックリしないのが気になって仕方がなかった。

 7月半ば頃、有末少佐は直訴のつもりで、夕刻、五番町の次官官舎に柳川次官を訪問した。柳川次官は気持ちよく有末少佐を応接間に迎えてくれた。

 有末少佐は率直に「本気で大臣閣下を御補佐ください」と訴えたところ、
柳川次官は「荒木大臣と同じように毎夕連絡御補佐申し上げているョ」と切り口上の返事だった。

 そこで有末少佐は「確かに毎夕ご連絡に官邸にお出になっているには違いありませんが、荒木大臣の頃にはいすに腰掛け何やら長いことご懇談、去年の今頃は庭で団扇をたたいて蚊を追いながら、私ども前田秘書官と二人でお羨み申し上げていたのでしたが、林大臣に対しては大臣室で直立不動の姿勢でのご報告、私ども小松秘書官(有末少佐と同期の29期)との十分な打ち合わせが出来ないほどの短い時間、お忙しそうにお帰りではありませんか」などと述べた。

 すると柳川次官は「実は、私は林大臣を人格的に承服、尊敬できないので、荒木閣下の時のように行きかねるよ」と率直な言葉で答えた。

 有末少佐は「大臣と次官が一体のお気持ちになれないなら、いっそ八月の異動期にご転任なされては如何でしょう」と言うと、

 柳川次官は「私もそう思うのだが。しかし真崎さんがもう少しおれとも言われるしナァ」と感嘆を洩らした。

 これに対し有末少佐は「しかし、それは筋が違うじゃありませんか。お考え直しなされて、引き続き大臣を御補佐くだされ、私たちをお導きください」と再び懇願した。

 暫く話がとぎれたあと柳川次官は「ヨシ辞めよう」とキッパリ言った。そして
「君も辞めろ。陸軍大学の教官になって、統帥の研究をやり給え」と言った。

 有末少佐は「二ヶ月前大臣から、信頼するから嫌でもあろうが補佐してくれ、と言われたばかりであり、私からお願いして転出することはできません」と答えた。

 それから半月、昭和9年8月の異動で、柳川次官は第一師団長に転出した。8月の異動では秦真次憲兵司令官も第二師団長に転出した。

 この二人は皇道派であった。林陸軍大臣は皇道派の重鎮二人を、陸軍省から追い出したのである。

 この時同時に士官学校幹事・東條英機少将が歩兵第二十四旅団長(小倉)に転出したが、くびの前提としての追放であると言われたが、柳川、秦両氏の転出の代償であるとの噂も立った。

 昭和10年になると粛軍に関する意見書が公然とばら撒かれ、現陸軍省幹部、ことに永田少将等軍務局をいわゆる統制派と決め付けて怪文書が横行し始めた。

 これに反発して、三宅坂周辺では粛軍人事として8月異動における真崎教育総監更迭の噂が目立ってきた。

 昭和10年7月初め、軍事参議官の松井岩根大将が大臣官邸に来て、有末少佐と小松秘書官にご馳走しようと招きを受けた。

 新橋の料亭湖月に行き、酒がはずんだ。やがて松井大将は「わしを陸軍大臣にすれば小磯を次官に、建川を次長にして思い切り粛軍人事をやるがネエ」と至極平然と話した。

 すかさず有末少佐が「とんでもない。今、林大臣が異動案で考えておられるのは、察するに閣下の予備役編入じゃありませんか?」と言い、小松秘書官が相槌を打つという始末だった。

 すると松井大将は「そうか、辞めてもよい、しかし真崎と一緒にならだ、大臣にもそう言ってくれ、真崎が残ってわしだけが辞めるのはどうかなァ」と独り言のようにつぶやいた。

 林大臣に有末少佐がこのことを報告すると、大臣は「(真崎に)大将を辞めてもらう時には、面と向かって辞職を勧告せねばならず、それが嫌でなア」と嘆声を洩らした。

76.有末精三陸軍中将(6) 主賓の小磯参謀長もあまりはしゃがず、いわばお通夜のような気分だった

2007年09月07日 | 有末精三陸軍中将
 「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和2年、小磯国昭大佐が軍務局第一課長で、小磯大佐が統裁する参謀演習旅行に有末大尉は補助官として参画した。

 二週間ばかり東北地方に出張した折、予算を超過した。三千円のところが、五百円ばかり足を出したのだ。

 演習費予算の配当や支弁は演習課の担任だったので、その補填について第一課高級課員の今村均中佐が、演習課高級課員の阿南惟幾中佐のところへ願い出た。

 追加承認決済のため、阿南中佐とともに柳川課長の室に行ったとき、柳川課長は皮肉たっぷりに「小磯は豪傑だから尻拭いをしてやれよ」と一言、決裁書に捺印したという。

 この時分から「小磯、柳川両氏は、性格上そりの合わなかったことは偽らざる私の感想である」と有末精三中将は記している。

 昭和7年、小磯国昭陸軍次官が関東軍参謀長として赴任したあと、柳川平助中将が陸軍次官に就任した。二人とも陸士12期の同期生である。

 陸士12期は杉山元元帥、畑俊六元帥、小磯国昭大将、柳川平助中将、香椎浩平中将、秦真次中将など多士済々の軍人を輩出している。

 昭和7年、有末少佐が陸軍大臣秘書官に着任した頃、省内若手将校間の噂では、前陸軍次官の小磯中将は、口八丁、手八丁、それに大の酒豪で、酒席が好きで宴席ではお得意の美声で自作の鴨緑江節を良く聞かされる、とのことだった。

 これに反し、現陸軍次官の柳川中将は大の宴会嫌い。したがってやむを得ない場合は以外は、多くの場合陸軍大臣官邸で、もっとも人数の関係や対地方関係で、外でやらねばならない時は、戸山学校(庭園共)や偕行社か、陸海軍将校集会所を利用していたという。

 昭和8年秋、小磯関東軍参謀長が上京するというので労をねぎらうべく、陸軍次官の主催で歓迎の会食を準備しようと、陸軍大臣秘書官の有末少佐は軍務局長の山岡重厚少将に相談した。

 山岡軍務局長は無骨一辺の人で、刀剣が趣味で陸軍軍刀制式の変更、靖国神社境内に刀剣鍛錬場(刀鍛冶場)を設けたり、柳川次官ほどではないが、やはり宴会嫌いであった。

 その山岡軍務局長は有末少佐に「小磯さんの歓迎じゃ新喜楽あたりでやらん訳にはいかんじゃろう」と告げた。有末少佐は「次官閣下がやかましいから」と山岡局長に助言を頼んだ。

 翌日、有末少佐が柳川次官に小磯中将の歓迎計画について御意図を伺いに行った処、「君は山岡に応援を頼んだナァ」「仕方がないから新喜楽あたりでやってもよいが、とにかく長夜宴なぞは考えものだぞ」と一本釘を刺された。

 歓迎会当日、新喜楽のおかみさんが鴨緑江節の得意な小磯参謀長のファンの老芸者連を手配してくれた。

 いよいよ歓迎会になってみると、主人たる柳川次官は、相変わらず無口、盃を手にせず、山岡軍務局長もあまり話がなく、主賓の小磯参謀長もあまりはしゃがず、いわばお通夜のような気分だった。

 拓務次官の河田烈氏から、二次会に小磯参謀長を近くの料亭「とんぼ」でお待ちしているとの話であったので、主人たる柳川次官は失礼して退席した。

 柳川次官は料理屋の宿車には乗らず、陸軍省の自動車も断り、タクシーも嫌いで、拳(こぶし)のついた太いステッキを振り回しながら徒歩で帰邸した。有末少佐は次官官邸まで一緒にお伴をして送り届けた。

 そのあと、タクシーをひろって二次会場に駆けつけた。小磯参謀長は機嫌が直って大いにメートルを挙げ、得意の唄も出た。有末少佐は一安心した。

 昔から同期生でありながら、なんとなくギクシャクして所謂肌の合わない小磯、柳川両氏の間柄であったことは、この時のことからでも明白であった。

75.有末精三陸軍中将(5) 君達は、我輩に真崎を無理に押し付けるのか

2007年08月31日 | 有末精三陸軍中将
有末精三回顧録(芙蓉書房出版)によると、昭和8年1月荒木大臣は急性肺炎に冒され、1月下旬の議会再開を目前にしてどうしても立つことが出来ない状況で、1月19日辞意を決意した。

その日の午後千葉県四ッ街道に演習視察中だった教育総監・林銑十郎大将が急遽帰京、官邸に来て見舞いの後、柳川次官ととともに、小田原の参謀総長・閑院宮載仁親王殿下の御殿に向かった。

秘書官の有末少佐も二人のお供をした。電車の中では一言の会話も無く、有末少佐も沈黙を守り続けるほか無かった。

御殿に着くとお付き武官の泉名騎兵中佐の出迎えで強羅の別邸に案内された。

有末少佐は寒い別室でお茶と寿司を頂戴して待機ということになったが、襖一枚の仕切りであったので話の模様は手に取るように聞こえた。

最初、林大将は何か印刷物を出して殿下に説明しているらしかったが、「自分が大臣をお請けしても軍の統制はなかなか難しいが、もし真崎大将が大臣に就任されれば、この図表に示されているように統制も十分いくだろうと存じます」と真崎大将を推薦した。

柳川次官も林大将の提案に共鳴していた。だが殿下は、「それはいわゆる怪文書ではないか」とご反問された。

林大将はすかざず「怪文書といえば怪文書でありますが、こんな具合に内部がゴタゴタしているような世評がありますから、統制にはなお更人望のある真崎大将にお願いするのが適当かと存じます」と答えた。柳川次官も相槌を打って真崎大将を推薦した。

突如殿下は大きな声を発して「君達は、我輩に真崎を無理に押し付けるのか、私は久しく真崎を次長として使っていてよく知っている。林大将、貴殿はこの際進んでこの難局を引きうけてくれたまえ」と語気荒く言った。

林大将も柳川次官もシュンとして、林大将は「しからば、真崎大将を教育総監にご推薦ください」と申し出た。殿下はこれに了承し、ここに後任陸相は林大将に、その後任の教育総監には真崎大将が推されて非公式の三長官会議は終わった。

「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和8年2月、国際連盟は42対1(棄権1=秦)で満州問題が否決された。松岡洋右代表は声涙ともに下る有名な演説を残して、引き揚げ、日本帝国は国際連盟脱退の瀬戸際に立たされた。

陸軍省の柳川平助次官は軍事課の外交班長・原守中佐(25期)と陸相副官の有末精三少佐を帯同して、熱海伊豆山に静養中の上原勇作元帥の元に国際連盟脱退の報告に行った。

別荘とは名のみ、湯殿のある小さな日本家屋だった。上原元帥は寝巻きのまま床から上体を起して挨拶を受けた。原中佐と有末少佐は別室に下がり、柳川次官が報告した。

隣の部屋にも話し声はよく聞こえた。上原元帥は雷親父と言われただけに、大きな声で「中腰じゃ歩けんよ。静岡はどうか?(静岡とは西園寺公のこと)」「既にご同意であります」

上原元帥はさらに声を大にして「朝鮮米は?」との話し声が聞こえた。有末少佐と原中佐は顔を見合わせた。上原元帥の反宇垣感情というものを如実に察知する事が出来た。

上原元帥は皇道派で、柳川次官とは志を同じくするが、宇垣一成大将の行った軍縮に反発していた。宇垣大将は浜口雄幸内閣で陸軍大臣就任後予備役となり、当時は朝鮮総督であった。

報告が終わったので、有末少佐が上原元帥の部屋にお別れの挨拶に行ったところ、上原元帥が「お父っつあんは元気か、幾つかのう。わしは七十七歳じゃ。お互い長生きの競争をしようといってやっちょいてくれ」と元気に言った。

有末少佐の父は工兵大尉で、上原元帥が工兵監だった頃に世話になったことがあり、当時七十歳であった。また、有末少佐は大正6年陸士卒業の御前講演の折(恩賜で卒業)、参謀総長だった上原元帥から激励の言葉を戴いたことがあったのだ。

74.有末精三陸軍中将(4)「仕方が無い、これからは気をつけろよ」とは内相は言わなかった

2007年08月17日 | 有末精三陸軍中将
有末精三回顧録(芙蓉書房出版)によると、昭和7年9月武藤信義大将が関東軍司令官、駐満大使、関東長官の三位一体の探題として満州国に着任した。

 昭和8年7月、関東軍から板垣少将が上京した際、柳川次官が主催で柳橋の柳光亭で晩餐会を催した。

 当時有末少佐は陸軍省副官兼大臣秘書官であったので、晩餐会に出席した。

 山岡軍務局長、山下奉文軍事課長、も出席していた。会食の最中に関東軍司令官・武藤元帥の訃報があった。

 すぐ引き揚げるべく一同は立ち上がった。廊下に出た時に、山下大佐が有末少佐に「おい」と右手で八字髭を引っ張る形をしながら「次はこれだよ」と後任司令官を林銑十郎大将と示唆した。

 大臣官邸で次官等首脳の会談の結果だろうと思った。ところが三長官の会議の結果翌日人事局長が随行して荒木大臣が内奏したのは菱刈隆大将であった。

 その時有末少佐がひそかに感じたのは、高級人事については軍事課長の山下大佐でもつんぼ座敷に置かれているのだなと思った。

 武藤元帥の葬儀は日比谷公園の音楽堂を背にして祭壇を設け、公園の広場全体を開放して行われた。

 有末少佐は葬儀の準備に多忙となった。葬儀までには一週間位準備期間があったが、気を使う諸問題が次から次に起きた。

 最初に供花の問題が起きた。上原元帥の副官岡崎清三郎中佐が有末少佐のところにわざわざ来て、元帥の意向として供花の配列位置は閣僚の上位にすると同時に榊の大きさも閣僚のものより小さくないようにとの注文だった。

 ちなみに当時は閣僚の供える榊代は一対四十円であり、元帥のそれは十五円という内規があった。

 結局榊の大きさは閣僚と同じ大きさにした。配列順位は、宮中席次は元帥と閣僚は任官新故の順によるので、問題はなかった。

 その次は着席順であった。斉藤内閣総理大臣より上席は、大勲位・山本権兵衛伯爵、西園寺公望公爵、東郷元帥の三人だった。

 ところが、三人とも高齢で健康の事もあり、代理が参列することになった。代理を認めないという宮中席次の慣例に従い、代理は第二列となった。

 従って、有末少佐は上原元帥の代理も第二列にお願いすることにして、解決した。第一列には斉藤総理大臣以下閣僚は宮中席次に従って腰掛けてもらうことにした。

 ところが、葬儀が終わって、内相の明石秘書官がやってきて、山本達雄内務大臣の榊がないと訴えた。

 そんなはずはないと思ったが、明石秘書官は温厚な老大臣からビンタをとられたと、頬をはらして涙をためての苦情だった。

 有末少佐が調べたところ、確かになかった。明石秘書官は「普通のあやまりではすまないよ」と厳重抗議であった。

 荒木陸軍大臣がわざわざ有末少佐のところに来て、「山本さんの榊がなかったらしい。何かの間違い、手落ちであったのだろう、よく調べてくれ」とのことだった。

 有末少佐が各大臣の榊の注文をメモに書きとめ助手のK中尉に渡し、清書させた。その清書の時山本内務大臣のを写し漏れたことが分かった。

 有末少佐は荒木陸軍大臣の官邸に行き報告した。いずれにしても有末少佐は自分の手落ちだと思い内相の私邸に陳謝に参りたいと申し出た。

 荒木大臣は「それが何より第一だ、直接内相に電話しておくからすぐ行け」と下命した。

 有末少佐はとるものもとりあえず、麹町三番町の土手近くの山本達雄男爵邸に向かった。

 応接間に通されると、羽織袴の老内相が待っていたとばかり着座した。有末少佐は明石秘書官には全く責任の無いこと、事情を話し、お詫びした。

 この時ばかりは「仕方が無い、これからは気をつけろよ」とは内相は言わなかった。「ただ、わたしの誠意が故元帥に通じなかったことが如何にも残念でたまらない」と繰り返すばかりで、有末少佐には取りつくしまもなかった。

 思案のあげく有末少佐が「明日の墓前祭に御墓所に三長官(陸相・参謀総長・教育総監)の根付の榊を植えさせていただく、その第四の角に閣下の根付の榊を植えさせていただきたい」とお願いしたところ、

 「それは誠に有り難い。それで私も故元帥に誠意が通じる」と機嫌が直ったという。

73.有末精三陸軍中将(3)ウイロビー少将は仁王立ちで、右手に刃をむいた小刀を持っていた 

2007年08月10日 | 有末精三陸軍中将
 GHQ(連合国軍最高総司令部)は最高司令官のマッカーサー元帥(昭和20年1月に元帥に昇進)、参謀長のサザーランド中将の元に参謀部四部と幕僚部五局から構成されていた。

 参謀部第二部長のウイロビー少将は、気鋭の優秀な軍人であり、GHQを実質的に仕切っているともいわれるほどの実力者だった。

 ウイロビー少将は有末中将を大変信頼し、お互い気心も通じて、なにかと有末中将のために便宜を図ってくれていた。

 ところが参謀部第二部(G2・ウイロビー少将)と幕僚部の民生局(GS・ホイットニ少将)との対立は激しいものがあった。

 昭和21年1月末から復員省において、戦争中供出の宝石類の回収が始まった。

 2月に入って、市ヶ谷台の第一復員省の副官、小林四男治少佐から有末中将へ電話で「CIS(民間諜報局)が省内に乱入、宝石を出せと、まるで強盗のようにアチコチを捜索、大騒ぎ、何とかしてくれ」との急報があった。

 対連合軍連絡委員長である有末中将は早速司令部に出向いたが、マンソン大佐が不在だったので、直接部長のウイロビー少将に直訴した。

 昼過ぎには小林少佐から「捜索に来た米軍人等は全部引き揚げたし、省内でもなんらの被害もなかった」との連絡報告があった。

 早速司令部へ出向くと、マンソン大佐がいて「ウイロビー少将が例の調子で敏速に処理してくれたからだ」と上機嫌の対応だった。

 ところが午後四時すぎ、第一生命ビルから日本クラブへ窓越しの合図で「至急来い」とのことだったので、急いで出向いてみると、マンソン大佐は課長室にいない。

 隣のウイロビー部長室を覗くと、マンソン大佐は入り口の衝立の前の小机に座って、唇に右人差し指を当てて、「静かに」と合図しながら、有末中将の入室を促した。

 有末中将が抜き足差し足で近づくと、部長室でウイロビー少将と、CIS隊長のソープ准将とが大声で言い争っているのが耳に入った。

 有末中将はソープ准将とは横浜以来の知り合いであった。また本間中将の比島裁判の前には、有末中将の自宅近くの笠井重治氏(元代議士)宅で食事を共にしたこともあった。

 マンソン大佐のすすめでもあり、意を決して有末中将はノックして部長室に入った。

 大男のウイロビー少将は向かい側で仁王立ちで、右手に刃をむいた小刀を持っていた。これに対して、小柄なソープ准将は右手に文鎮を握って、机を挟んで、あわや今にも大立ち回り取っ組み合いが始まるような険しい場面であった。

 有末中将は「何事ですか?」と咄嗟のフランス語で中に入った。

 二人とも戦勝国米国陸軍の相当の地位の軍人であった。二人は「敗戦国の将官(有末中将)を中にして、いかにも恥ずかしい」いった調子で、「イヤ別に」など二言、三言、とんだ茶番だと笑い声さえ出た。

 空気が和らいだとみてとった有末中将は、両将軍に会釈敬礼をしてひとます室を出て、マンソン大佐の課長室に戻った。

 マンソン大佐の話ではウイロビー少将がCIS乱入事件で有末中将の要請でウイロビー少将がCIS長官のソープ准将に電話で交渉中、つい口がすべって「CISは泥棒だ」とののしった。

 これに対してソープ准将はCISを急いで陸軍省から引き揚げさせ、事情を調べたところ「任務上、宝石の捜査に出かけただけだ」とのことで泥棒の気配などなかったことを知った。

 ソープ准将は急いでウイロビー少将の部屋に行き、問答の末、「CISを泥棒呼ばわりしたのは怪しからぬ」となじった。

 ところがウイロビー少将は、失言を詫びるどころか、高飛車に「無警告で乱入して、宝石を探すのは泥棒でなくて何だ?」と答えた。

 かっとなったソープ准将は「貴様こそ泥棒だ」と言った。「何っ!」と答えるウイロビー少将に「貴官は有末中将に要求して、黄金造りの大太刀などを泥棒しているじゃないか」と言い、激論になったという。

 以前有末中将は、ウイロビー少将に「だれか日本刀を譲ってくれる人がいないかねえ」と相談された。

 有末中将は日本橋の竹田組の親分に相談すると、奥に入って数分後大きな「黄金造りの太刀」を差し出した。値段を聞くと、「とんでもない、あなたの占領軍対策に役立ててください」と金を受け取らなかった。

 その太刀をウイロビー少将に渡すと、大喜びで、部下を集めて披露していた。ウイロビー少将は竹田組の親分に長文の感謝の手紙を書き、進駐軍への配給のケアーボックス(十日分の携帯食料で乾燥麺、牛肉、野菜などの缶詰、チョコレート、タバコなどの詰め合わせ)を二箱届けてくれと有末中将に託した。

 ソープ准将が言った「黄金造りの大太刀」とはその刀のことであった。この争いも、参謀部第二部と、幕僚部民生局との激しい勢力争いが根底にあったのだった。

72.有末精三陸軍中将(2) 緊張したテンチ大佐の気分はどう見てもぎこちない雰囲気だった

2007年08月03日 | 有末精三陸軍中将
 8月28日午前八時、厚木飛行場の西南方向の一点から爆音が聞こえてきた。飛行場に設営された天幕の指揮所に集まっていた有末中将ら委員が仰ぎ見ると、三機のC46輸送機が次々に厚木飛行場の滑走路に進入してきた。進駐軍先遣隊の輸送機だった。

 しかも有末らが予定していた向かい風の着陸方向とは正反対の追い風に乗って、次々に着陸を始めた。普通飛行機は向かい風に対して滑走路に着陸するのだが、警戒をして裏をかくように、わざと難しい追い風で着陸したのだ。

 着陸機からは、続々と兵士やジープなど車両が降りてきたので、有末中将らは出迎えた。

 先遣隊の米軍将校は大佐が数名、佐官、尉官などで構成されていたが、背の高いハンサムなチァーレス・テンチ大佐が先遣隊指揮官の隊長だった。当時四十歳そこそこで、マッカーサーの信任厚い士官だった。

 この背の高いテンチ隊長と小銃を肩にかけた副官のパワーズ少佐の前に行き、小柄な五十過ぎの有末中将は直立不動で敬礼を行った。

 米軍や日本の新聞記者たちはその場面を写真にとり、翌日の新聞に大きく掲載された。その姿はまるで大人の前に小学生が敬礼をしているようだったので有末中将は、怒って、新聞社を差し止めにした。だが、大人気ないと思って、すぐに解除した。

 ところが、有末中将が敬礼をしたあと、「遠路お役目ご苦労に存じます」と挨拶し、側いた通訳の大竹少尉が通訳する暇もなく、また、有末中将の後ろに並んでいる部下の紹介にも、テンチ大佐は無頓着で、緊張した顔のままツカツカと天幕に向かって進んでいった。

 慌てた有末中将は、急いで天幕内のソファーにテンチ大佐に座ってもらい、いちいち部下の委員を呼んで紹介した。すると今度は進駐軍のスタッフの紹介を受け、大佐が三人紹介された。

 有末中将とテンチ大佐はソファに座って会話を始めたが、緊張したテンチ大佐の気分はどう見てもぎこちない雰囲気だった。

 二人の卓に給仕がコップにジュースを入れて持ってきた。その給仕は臨時仕立ての給仕だった。中学生にだぶだぶの白服を着せたものであった。テンチ隊長は目の前に出されたジュースを手にしなかった。有末中将がいくらすすめても飲もうとしなかった。

 有末中将はそのコップを下げて、二杯目のコップを差し出したが、それにも口を着けなかった。有末中将は二杯目を自ら飲んで、三杯目を注文してテンチ大佐に差し出したところ、彼はジュースを鼻のところに持っていき、二三度臭いをかいで、そのあと、ようやく飲んだ。

 毒でも入っているのではないかと用心したに違いなかった。敵地に乗り込むときの用心深さからだった。

 有末中将は葉巻を出して、テンチ大佐にすすめたが「煙草は吸わない」と断られた。それで有末中将は自分が葉巻を吸うことの許しを乞うたところ、テンチ大佐はすばやく卓上のマッチをすって火を着けてくれた。

 有末中将はテンチ大佐を宿舎に案内した。その後打ち合わせを重ねるうちに、テンチ大佐の気持ちもほぐれて、お互い意思の疎通がスムーズになった。

 その後有末中将は、とどこおりなくマッカーサー元帥と進駐軍本隊を迎える準備をテンチ大佐とともに行い、重大任務を果たした。

 テンチ大佐は有末中将のどこまでも誠意ある対応を理解して、非常に感謝し、マッカーサー司令部から「perfect satisfactory(完全なる満足)」という感謝賞賛の電報を受け取ったと、嬉しそうに有末中将に伝えた。

 短期間ではあったがテンチ大佐と有末中将は強い信頼関係で結ばれ、マッカーサー元帥からは三回も「perfect satisfactory(完全なる満足)」の電報が発せられた。

 最後にはテンチ大佐が「マッカーサー元帥はいかなるレセプションも受けぬ。ただジェネラル・アリスエ、オンリーの出迎えは受ける」との電報を受け取ったと有末中将に話した。

 テンチ大佐は任務を終えると、次の任務の米国国防省(ペンタゴン)の課長に就任するため、8月31日、日本を離れた。

 テンチ大佐は有末中将にチョコレート、煙草、石鹸など置き土産と言って別れに持ってきてくれた。あまりの早い別れに有末中将はとまどったが、そのこまやかな人情と心遣いに頭が下がった。

 戦後も毎年、クリスマスカードのやりとりなど、有末中将とテンチ大佐との交友は続き、テンチ大佐は昭和59年、80歳になる自分の写真を有末中将に送っている。

<有末精三陸軍中将プロフィル>

 有末精三陸軍中将は明治28年5月22日北海道生まれ。父、孫太郎は陸軍工兵大尉。精三の弟、次は陸軍中将、四郎は陸軍軍医大尉。精三の妻、のぶ子は村田信乃陸軍中将の娘。

 明治45年仙台幼年学校、大正6年陸軍士官学校29期(恩賜の軍刀拝受)、大正13年陸軍大学校36期(恩賜の軍刀拝受)。昭和元年歩兵大尉。

 昭和3年イタリア駐在。4年ボローニャ歩兵第三十五連隊付、イタリア陸軍大学入学。6年歩兵少佐、イタリア陸軍大学卒。

 昭和6年歩兵第五連隊大隊長。7年陸相副官・秘書官。10年軍事外交班長。11年歩兵中佐。イタリア大使館付武官。

 昭和12年航空兵中佐、13年航空兵大佐。14年軍務課長。軍務課長時代に阿部内閣の誕生に尽力した。16年北支那方面軍参謀副長。陸軍少将。

 昭和17年8月参謀本部第二部長。20年陸軍中将。

 昭和20年8月24日対連合軍連絡委員長(厚木委員長)。予備役。21年進駐軍顧問。

 昭和34年社団法人日本郷友連盟理事。36年同連盟副理事長。38年同連盟副会長。45年同連盟会長。

 平成4年2月14日死去。

71.有末精三陸軍中将(1) 有末はムッソリーニ氏の親友であり、ファシストじゃあないか

2007年07月27日 | 有末精三陸軍中将
 「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、昭和20年8月15日終戦の翌日、8月16日米国政府から「直ちに連合国最高司令官のもとに使者〈複数)を派遣せよ」との電報が届いた。

 参謀次長の河辺虎四郎陸軍中将を全権とした一行は8月19日、連合軍側の指定による全体白塗り、胴体に青十字を描いた塗装の海軍用陸攻二機でマニラに向け出発した(沖縄から米軍機に乗り換え)。

 8月21日河辺全権ら一行は大本営に帰着した。持ち帰った分厚い連合軍命令書の中に、進駐軍の着陸を神奈川県厚木飛行場と定め、その進駐受け入れの為に、政府、大本営陸海軍部を代表する将官を差し出すべき指定の一項目が示されていた。

 この初めて日本に飛来する進駐軍先遣隊を厚木飛行場に受け入れる、政府、大本営陸海軍部を代表する将官、対連合軍連絡委員長(厚木委員長)に有末精三(ありすえ・せいぞう)陸軍中将が任命された。有末中将は終戦時、参謀本部第二部長であった。

 だが、当時の総理大臣、東久邇宮から陸軍次官の若松只一中将に「有末はムッソリーニ氏の親友であり、ファシストじゃあないか、米軍との関係が不首尾にならんかネェ」と難色がでた。

 梅津参謀総長は「有末以外に適任者はありません。海軍からお出し下さい」と言った。豊田副武軍令部総長は「海軍には適任者もなく、ぜひ陸軍よりお願いしたい」。

 重光外務大臣は「彼はムッソリーニ氏と親交はあったが、ファシストではない。国際的感覚で彼の右に出るものはありますまい」とのことで、有末中将に厚木委員長が決定した。

 厚木飛行場は海軍航空隊の大規模航空基地だが、小園海軍大佐ら降伏に反対する一派が立てこもっていた。だが、8月23日に高松宮殿下の説得により、解放された。

 8月24日夕刻、厚木委員長・有末精三陸軍中将は厚木飛行場に着任した。飛行隊司令部等の兵舎の窓ガラスはメチャクチャに壊され、建物は空き家同然となっていた。

 その兵舎の中で十五人あまりの委員が卓を囲んで、有末中将を中心に会議を開いた。有末中将は、委員の任務を分担して、計画案を立案させ、夜中の十二時までに報告を要求した。

 そして、はじめて飛来する進駐軍先遣隊に対して、絶対に無法な抵抗を禁じ、無事に受け入れが出来るよう指示した。

 すると、軍令部の若いI参謀(少佐)が立ち上がって、有末中将の側に来て、肘で有末中将の脇腹をつついて「何ンダ将軍ずらをして、ダラ幹じゃないか」と言った。

 I参謀も委員の一人に選ばれているのだが、なんとなく胸糞の悪い思いを、有末中将にはけ口として突っかかってきたのだ。

 有末中将は「まあ、不平はとにかく、早く晩の兵食でも世話してくれんか」となだめた。だが実に重苦しい何ともいえぬ雰囲気であった。丁度、山澄大佐がすぐにそのI参謀を引っ張って、炊事の方へ連れて行き、兵食の世話をしてくれた。

 すこし前まで、厚木基地では「徹底抗戦」「マッカーサー機に体当たり」など不穏な空気があった。

 厚木委員会は進駐軍受け入れのための準備に全力を尽くした。飛行場の整備、米軍将校の宿舎、食糧、警備、接待方法などあまりにも時間が足りなかった。

 8月28日に最初に飛来する進駐軍先遣隊にはマッカーサーはいなくて、マッカーサーは先遣隊到着後の30日に到着する予定だった。

 初めて日本にやってくる米軍を主とする進駐軍先遣隊は、非常に緊張していたと言われている。降伏を受け入れた日本だが、いつ寝返るとも分からない。厚木基地に着陸した途端に人質に取られる可能性もある。

 そのような情勢の中、8月28日を迎えた。午前七時、有末中将ら委員一同は、飛行場に設営された天幕の指揮所に集まって受け入れの最終打ち合わせを行っていた。

 そのとき早くも横須賀に米第七艦隊の先発軍艦が入港し、戸塚道太郎横須賀鎮守府長官一行が米艦を訪問したところ、米兵からいやがらせのトラブルを受けたとの報告が入ってきた。

 有末中将らも先遣隊の米軍指揮官らの有末らに対する応対がどの様なものであるか不安であった。当日は早朝から厚木飛行場の上空を米戦闘機グラマンがまさに乱舞していた。低空飛行をした一機が一本の通信筒を落とした。

 有末中将が検分してみると、中に「well come 8th army」と書かれていた。この意味は、日本に進駐一番乗りをしたのは米海軍であるので、厚木に飛来する正式の進駐軍である米陸軍(第八軍)に対して、「ようこそ」とメッセージを送ったものだった。有末中将はこのような米軍同士の先遣争いがトラブルの元になると思い、このメッセージを握りつぶした。

 8月28日午前八時、厚木飛行場の西南方向の一点から爆音が聞こえてきた。進駐軍先遣隊の輸送機だった