陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

579.源田実海軍大佐(39)きのう言ったことと、今日言っていることはとは全然違うではないか

2017年04月28日 | 源田実海軍大佐
 昭和三十四年七月十八日、グラマンを強く押していた佐薙空将から源田実空将に代わった。源田空将は第三代航空幕僚長に就任した。

 序列を無視して強行されたこの人事は、様々な憶測を呼んだが、端的に言えば、グラマンからロッキードに鞍替えした岸信介首相の、金がらみの政治的画策によるものだった。

 こうしてFX機種選定問題は、波乱含みの中にも、着々とロッキードに傾きつつあった。それを決定的にしたのが、源田実航空幕僚長の渡米だった。

 昭和三十四年八月、航空幕僚長・源田空将は、FX機種選定のため官民合同の調査団の団長として渡米し、カリフォルニア州のエドワード基地で二か月半に渡り調査を行った。

 源田空将は五十五歳だったが、自ら機種選定候補機の戦闘機に搭乗し操縦し、最適と思われる機種の調査を行った。五十五歳でマッハ2の戦闘機を乗りこなすのはアメリカでも例がなく、称賛された。

 イギリスの当事者たちが、日本の航空自衛隊の最高幹部がアメリカに来て調査していることを聞いて視察にやって来た。

 彼らは、日本の調査団長である源田実航空幕僚長が自ら候補の戦闘機を操縦している実状を見て、非常に驚いていたと、伝えられている。

 帰国後、調査団が提出した報告書により、政府はロッキードF104を採用することに決定し、十一月六日の国防会議で、F104J(一八〇機)、複座型F104DJ(二〇機)が選定された。

 このFX機種選定について、柴田武雄は、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の第二章「日本敗北の実質的最大責任者は源田である」の中で、次の様に当時の航空幕僚長・源田実空将を非難している。

 「また、戦闘機無用論を主導した責任を攻撃機側に転嫁しようとしたことや、航空自衛隊におけるグラマンとロッキードの問題で、『もしそれロッキードを採用するならば、航空自衛隊は平時にして潰滅するであろう(グラマンを採用すべきである)』と、国防会議において堂々と述べておりながら、平然としてロッキードを採用している無反省・無責任ぶり、その他、『源田を語る会』でも開いて、源田の無責任・責任回避・責任転嫁の資料を出し合ったならば、相当膨大なものになるであろうことは、確かである」。

 また「源田実論」第三章「源田とはこういう人間だ」の中で、著者の柴田は次のように述べている。

 「ところで、私はかつて、源田に、“きのう言ったことと、今日言っていることはとは全然違うではないか”と問い詰めたところ、“きのうのオレと今日のオレとは全然違う”と高圧的に言われ、一瞬、グー!とつまったことがあるが、源田のこうした変化(言い変え)ぶりは、本人の強力な悪魔的信念とは裏腹で、知的な進歩的変化や道徳的な向上的変化とはおよそ縁遠いものなのである」。

 一方、当時の防衛庁長官は赤城宗徳(あかぎ・むねのり・茨城・東京帝国大学卒・上野村村長・衆議院議員・戦後公職追放・衆議院議員・自由民主党・農林大臣・内閣官房長官・防衛庁長官・総務会長・農林大臣・霞ヶ浦高等学校校長・著書「わが百姓の記」など多数)だった。

 赤城防衛庁長官は、渡米して調査した源田空幕長の功績を高く評価し、定年まであと一年ある源田実に、退官して参議院議員に立候補することを勧め、赤城自ら自民党幹部を説得して自民党公認候補とした。

 源田実は赤城防衛庁長官の勧めに従って、全国区選出参議院に立候補し、旧海軍航空や自衛隊関係者を基盤に当選し、昭和三十七年七月から六十一年六月まで、四期二十四年に渡って参議院議員を勤めた。

 この間、自民党の国防部会長も務めたが、空のことをよく知らない議員たちが、空中関係の諸立法を審議したり、法令を制定しようとする中で、戦中・戦後を通じて多年にわたり空中勤務を体験し、空の交通や管制などを身をもって理解している源田実の存在は貴重だった。

 同僚の議員たちは。「閣下、閣下」と呼んで、旧海軍の作戦参謀、元航空幕僚長、軍事専門家である源田実を、一目置いて接したが、参議院議員という役職は、源田にとって必ずしも居心地のいい場所ではなかった。

 源田と海兵同期の末國正雄(すえくに・まさお)元海軍大佐(山口・海兵五二・海大三五・第五戦隊参謀・中佐・第三艦隊参謀・人事局第一課員・大佐・艦政本部出仕兼人事局員)は次のように述べている。

 「生真面目で謀略的嘘のない世界に多年育って来た源田にとって、議事堂内での他の練達な政党人政治家といわれる人たちに伍しての付き合いには、非常な戸惑いや困難を感じていたらしい」

 「同期生の集まるクラス会に出席した時の彼は、議会、議事堂内ほど日本語の通用しないところは日本国内どこに行っても見当たらない、と漏らしていた」。

 クラスメートの末國元大佐が語る言葉に、軍人から馴染みにくい政治の世界に身を投じた源田の苦悩が伺える。





578.源田実海軍大佐(38)この決定には巨額の金が裏で動いたと言われていた

2017年04月21日 | 源田実海軍大佐
 だが、この後大目玉が飛ぶのを覚悟していた小高達に源田大佐は次のように言った。

 「士気高揚のためだ。大いに暴れろ。後の責任は一切司令がとる」。この一言で感激した小高達は、大いに奮起して戦闘に臨んだ。

 昭和二十年八月十五日、終戦となった。「天皇は支那(中国)に連れて行かれ、皇族は全員死刑、皇太子はアメリカに連行される。職業軍人は重労働、婦女子はアメリカ兵に凌辱される」といったうわさが流れた。

 一方では、厚木航空隊事件など、一部の航空隊が徹底抗戦を叫ぶなど、国内は混乱の極みにあった。陸軍では宮城事件なども起きた。

 厚木航空隊事件は、厚木海軍飛行場で、第三〇二海軍航空隊の司令・小園安名(こぞの・やすな)大佐(鹿児島・海兵五一・少佐・第一二航空隊飛行隊長・空母「鳳翔」飛行長・中佐・台南航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊副長兼飛行長・第二五一海軍航空隊司令・第三〇二海軍航空隊司令・東條英機暗殺計画に参加・兼横須賀鎮守府参謀・大佐・兼第三艦隊参謀・兼第七一航空戦隊参謀・厚木航空隊事件の党与抗命罪で無期禁錮・失官)が起こした騒乱事件だ。

 小園大佐は、後に軍法会議にかけられ、党与抗命罪となり、失官、海軍大佐を剥奪された。
党与抗命罪とは、海軍刑法第五十六条で、徒党をなして命令違反を起こした罪。

 そんな終戦の混乱の中、八月十七日、源田実大佐は軍令部から「至急上京せよ」との連絡を受けた。源田大佐は、紫電改で横須賀に飛び、そこから電車で東京の軍令部に出頭した。

 軍令部に着くと、軍令部作戦部長・富岡定俊(とみおか・さだとし)少将(広島・男爵・海兵四五・二十一番・海大二七・首席・第二艦隊参謀・海軍大学校教官・軍令部第一部第一課長・二等巡洋艦「大淀」艦長・南東方面艦隊参謀副長・少将・南東方面艦隊参謀長・軍令部第一部長・終戦・第二復員省大臣官房史実調査部長・著書「開戦と終戦」)から次のような重要な任務を受けた。

 それは、万一、無条件降伏によって、天皇はじめ皇族が戦犯として処刑された場合、陛下の血筋を絶やさないように、皇族のどなたかを密かにかくまってお守りするという、皇統護持の密命だった。軍資金も渡された。

 大村基地に帰った源田大佐は、対策を練り、決死の同志二十三名を募り、候補地となった九州の熊本県五家荘村を中心に展開し、密命を帯びた隊員たちは、赤穂の四十七士のように、様々な仕事に就いてその時を待った。

 源田大佐も一時期、部下と共に長崎県川南の炭鉱で採炭夫として働いたが、統制のよくとれた働きぶりで、群を抜く採炭実績を上げ、「さすが海軍さんは違う」と称賛を浴びた。

 昭和二十一年に入ると、敗戦の混乱も落ち着き、やがて天皇が戦犯に問われることもなく、皇族も何事もない事が判明し、この秘密任務は自然消滅した。

 昭和二十八年源田実は防衛庁に入り、航空幕僚監部装備部長に就任した。その後、航空自衛隊航空団司令を経て、昭和三十一年臨時航空訓練部長、空将。航空集団初代司令、航空総隊司令を歴任した。

 昭和三十三年航空自衛隊のF86F「セイバー」の後継次期戦闘機、FX機種選定問題が起こり、当時の航空幕僚長・佐薙毅(さなぎ・さだむ)空将(愛媛・海兵五〇・海大三二・連合艦隊航空参謀・軍令部第一部第一課作戦班長・大佐・南東方面艦隊首席参謀・戦後航空自衛隊幕僚副長・第二代航空幕僚長)が渡米して調査を行った。

 佐薙空将の報告に基づいて防衛庁が出した結論は、グラマン社がアメリカ海軍向けに開発したグラマンF11F「スーパータイガー」を可とするというものだった。

 最終的に絞られた候補機は、グラマンF11F「スーパータイガー」と、ロッキードF104A「スターファイター」の二機種だった。

 「F104Aは上昇性能と加速性に優れているが、安全性に劣る。F11Fは行動半径、全天候性、多用途性に優れ、かつ長期にわたって使える可能性が高い」というのが防衛庁の決定の理由だった。

 だが、この機種選定問題は政治問題に発展しており、この決定には巨額の金が裏で動いたと言われていた。

 おさまらないのは、河野一郎(こうの・いちろう)経済企画庁長官(神奈川・早稲田大学政治経済学部政治学科卒・朝日新聞入社・山本悌二郎農林大臣秘書官・衆議院議員・戦後公職追放・衆議院議員・自由党入党・日本民主党を結成・農林大臣・自由民主党・経済企画庁長官・党総務会長・農林大臣・建設大臣・オリンピック担当国務大臣・国務大臣兼無任所大臣)らのロッキード派だった。

 彼らは、政商で政界の黒幕であった児玉誉士夫(こだま・よしお・福島・京城商業専門学校卒・向島の鉄工所・右翼団体「建国会」・天皇直訴事件・「国粋大衆党」・海軍嘱託・上海で児玉機関運営・戦後全日本愛国者団体会議・右翼団体「日本青年社」)を担ぎ出して、国防会議での決定を「内定」にとどめさせると共に、巻き返しに乗り出した。





577.源田実海軍大佐(37)司令、最後にあなたゆきますね、紫電改で。どうぞ、やりましょう

2017年04月14日 | 源田実海軍大佐
 雑誌や戦記シリーズでは、「最強戦闘機紫電改」(大型本・丸編集部・光人社)、「紫電改 最後の戦い」(双葉社スーパームック)、「局地戦闘機『紫電改』完全ガイド」(イカロス・ムックWW2傑作兵器シリーズ)、「局地戦闘機紫電改―海軍航空の終焉を飾った傑作期の生涯」(歴史群像・太平洋戦史シリーズ24・学研)などがある。

 「紫電改」が集中配備された、「剣部隊」(第三四三海軍航空隊・松山)は、司令・源田実大佐、飛行長・志賀淑雄少佐の下に、次の三人の個性的な戦闘機隊長がいた。

 戦闘七〇一飛行隊(維新隊)隊長・鴛淵孝(おしぶち・たかし)大尉(長崎・海兵六八・第三六期海軍練習航空隊飛行学生・大分海軍航空隊・戦闘機専修・中尉・横須賀海軍航空隊教官・大分海軍航空隊教官・第二五一海軍航空隊分隊長・第二五三海軍航空隊分隊長・大尉・戦闘第三〇四飛行隊長・セブ島上空の空戦で負傷・別府海軍病院に入院・第三四三海軍航空隊・戦闘七〇一飛行隊長・戦死)。

 戦闘四〇七飛行隊(天誅隊)隊長・林喜重(はやし・よししげ)大尉(神奈川・海兵六九・第三七期海軍練習航空隊飛行学生・大分海軍航空隊・戦闘機専修・中尉・第二五一海軍航空隊・第二五三海軍航空隊分隊長・厚木海軍航空隊・大尉・第三六一海軍航空隊・戦闘四〇七飛行隊長・第三四三海軍航空隊・戦闘四〇七飛行隊長・戦死)。

 戦闘三〇一飛行隊(新選組)隊長・菅野直(かんの・なおし)大尉(朝鮮・海兵七〇・第三八期海軍練習航空隊飛行学生・大分海軍航空隊・戦闘機専修・中尉・厚木航空隊・第三四三海軍航空隊(隼部隊)分隊長・第二〇一海軍航空隊・戦闘三〇六飛行隊分隊長・第二神風特攻隊直援任務・第三四三海軍航空隊・戦闘三〇一飛行隊長・戦死)。

 昭和二十年四月八日、第三四三海軍航空隊(剣部隊・司令・源田実大佐)は、四国、愛媛県松山市から、鹿児島県の鹿屋基地に移動、沖縄に上陸する米軍を迎撃する「菊水作戦」に参加した。その後、四月二十五日には、長崎県の大村基地に移動した。

 その頃、「航空作戦参謀 源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、三四三空司令・源田実大佐が、第五航空艦隊(司令長官・宇垣纒中将)司令部から大村基地に帰って来た。帰って来た源田大佐は、飛行長・志賀淑雄少佐と次の様に話し合った。

 源田大佐「うちから特攻を出せと言うんだ」。

 志賀少佐「はあ、わかりました」。

 源田大佐「どうする」。

 志賀少佐「参謀は誰が言いましたか」。

 源田大佐「………」。

 志賀少佐「いいですよ、私が先にゆきましょう。あとは毎回、兵学校出身者を指揮官にしてください。鷲淵(孝大尉)、菅野(直大尉)、みんなゆきます。兵学校全部ゆきます。そのかわり、私が最初にゆくときに、後ろの席に、その参謀を乗せてゆきましょう。敵の艦は沈めます。司令、最後にあなたゆきますね、紫電改で。どうぞ、やりましょう」。

 この志賀少佐の言葉を聞いて、源田大佐はひと言も無く、黙していた。その後、三四三空の特攻は、沙汰止みとなった。

 三四三空には、元気者の暴れん坊が揃っていて、外出先でしばしばトラブルを起こすことがあった。ある日、外出した下士官の隊員が、こともあろうに、陸軍の憲兵と喧嘩して殴り倒してしまった。

 当然ながら大問題となり、呉鎮守府から参謀がやって来て、「軍法会議にまわすから、犯人を引き渡せ」と申し入れて来たが、司令・源田実大佐は次のように言って、きっぱりと断った。

 「今、九州の制空権は、どこの航空隊が握っているか知っているか。言うまでもなく我が三四三空だ。その航空隊の搭乗員を軍法会議に連れて行ったら、あと九州の空は誰が守るのだ。どうしても引き渡せと言うなら、戦死して骨になったら、渡そう。帰り給え」。

 この源田大佐の、小気味のいいタンカに、呉鎮守府の参謀は仕方なく帰っていった。

 これは騒動の当事者の一人である、戦闘四〇一飛行隊の小高登貫上飛曹が、指揮所の陰から見聞した顛末だった。







576.源田実海軍大佐(36)この漫画によって、「紫電改」とともに、源田実の名もクローズアップされた

2017年04月07日 | 源田実海軍大佐
 この通信システムの整備により、地上からの指揮誘導がスムーズになったほか、敵機の機上交信を傍受して在空の味方戦闘機に知らせることができるようになった。

 海軍だけに限らないが、ノイズがひどくてあまり活用されていなかった機上電話の改善にも力を入れ、苦心の末に完成した通信網と地上指揮機構を充分に活かせるようにした。

 こうしてせっかく作り上げた立派な通信システムであったが、有効に機能したのは松山基地の時だけであって、作戦の都合で部隊が鹿屋、大村と移動することによって活用されなくなった。

 また、機材と搭乗員の補充が消耗に追いつかないこともあって、その後は戦力の減退と共に、三月十九日のような大戦果が挙げられなくなった。

 「海軍航空隊始末記」(源田実・文春文庫)によると、著者の源田実は、終戦間近の部隊の状況について、次の様に記している。

 「このころは飛行機の数も少なく、熟練搭乗員の数もずいぶん減っていたが、士気については一分の衰えも見せなかった」。

 新鋭戦闘機「紫電改」で編成された三四三空の活躍は、ゼロ戦が往年の耀きを失ってしまった日本海軍戦闘機隊の中にあって、ひときわ目立ち、「日本海軍に強力な新鋭戦闘機隊が現れた」として、一時は強烈な印象を敵に与えた。

 ちなみに「紫電改」は戦闘機「紫電」の二一型以降の名称である。局地戦闘機「紫電」は、水上戦闘機「強風」を陸上戦闘機化したもので、「紫電改」は従来の「紫電」を低翼に再設計したものであり、自動空戦フラップと層流翼が特徴だった。

 「週刊少年マガジン」に昭和三十八年七月から昭和四十年一月まで連載され、その後新書や文庫による単行本も出版された、「紫電改の鷹」は三四三空を題材にした空戦記漫画である。

 著者のちばてつやの戦争に対する思いが現れており、当時の戦記漫画とは一線を画した異色の作品になっており、人気を呼んだ。

 また、紫電改は日本海軍航空隊の有終の美を飾った名機であり、「剣部隊」(第二次三四三海軍航空隊)はエースパイロットを集めた精鋭部隊であると、子供を中心に当時の人々に認識させるのに一役買った。

 作者のちばてつやは「この作品は失敗作だと思っている。話が地味で悲惨であり、主人公もくそ真面目だから」と述べている。だが、この作品は、近年まで版を重ねて出版され続けている。

 この「紫電改の鷹」の中に搭乗する「源田司令」は、まさに源田実そのもので、この漫画によって、「紫電改」とともに、源田実の名もクローズアップされた。

 漫画は「紫電改の鷹」のほかに、ビッグコミックオリジナル(小学館・昭和五十一年九月一日号)に掲載された「紫電」(松本零士作)、「紫電改のマキ」(野上武志・秋田書店)などがある。

 漫画だけでなく、ほぼ同じ時期に封切された映画「太平洋の翼」にも三船敏郎扮する「千田大佐」として颯爽とした源田実の姿が描かれている。

 映画「太平洋の翼」は、昭和三十八年一月三日に公開された戦争映画で、配給は東宝。監督は、松林宗恵、円谷英二(特撮)、音楽は團伊玖磨。

 戦争末期、新鋭戦闘機「紫電改」を中心とした第三四三海軍航空隊の戦いと人間模様を、事実に基づいて描いた映画だが、フィクション場面も加えられている。

 出演は、三船敏郎(千田大佐)、加山雄三(滝大尉)、夏木陽介(安宅大尉)、佐藤允(矢野大尉)、星由里子(玉井美也子)、池辺良(三原少佐)、渥美清(丹下一飛曹)、西村晃(稲葉上飛曹)など、往年のトップスターが名を連ねている。

 ちなみに、現在、「紫電改」を題材にした書籍は多数発行されているが、主なものは次の通り。

 作家の碇義朗(大正十四年十二月二十一日~平成二十四年十月十六日)が紫電改についての著書が多い。「最後の戦闘機 紫電改―起死回生に賭けた男たちの戦い」「紫電改の六機―若き撃墜王と列機の生涯」(碇義朗・光人社NF文庫)、「紫電改入門―最強戦闘機徹底研究」(碇義朗・光人社NF文庫)、「最後の撃墜王―紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯(碇義朗・光人社NF文庫)などがある。

 その他の作家では、「帰って来た紫電改―紫電改戦闘機物語」(宮崎勇・光人社NF文庫)、「『源田の剣』改訂増補版・米軍が見た『紫電改』戦闘機隊全記録」(高木晃治・ヘンリー堺田・双葉社)などがある。