陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

732.野村吉三郎海軍大将(32)海軍中将にもなって、どうしてそんなことが分からないのか……

2020年04月03日 | 野村吉三郎海軍大将
 一方、出来るだけ努力し、ねばるが、最終的には世界恒久平和のために、五・五・三(米・英・日)の比率を呑まなければならないだろうというのが、ワシントン会議全権、海軍大臣・加藤友三郎大将だった。

 ワシントン会議の始まる前、野村吉三郎大佐は、全権・加藤友三郎大将と首席随員・加藤寛治中将の間で論争・対立が起きることを予想していた。

 その場合、全権・加藤友三郎大将の方には、自分、野村吉三郎大佐がつき、首席随員・加藤寛治中将には末次信正大佐がつくだろうと思った。

 大正十年十一月十二日、アメリカのワシントンD.C.で軍縮会議(ワシントン会議)が始まった。

 会議は討論を重ね、全権・加藤友三郎大将も懸命の努力を続けたが、米英は妥協せず、結局、主力艦保有率を五・五・三(米・英・日)以外には、妥協か決裂の二つに一つしかない、という状況に追い込まれてしまった。

 全権・加藤友三郎大将は、会議が決裂した場合、列強は再び建艦競争に追い込まれてしまう。建艦競争に負けた日本は、経済が破綻して軍事力も三流に陥る可能性もあると考えていた。

 結局、全権・加藤友三郎大将は、主力艦保有率五・五・三(米・英・日)を認める方向に意志を固めた。

 だが、この比率に大反対したのが、軍令系統・海軍大学校の対米戦術家を仕切る、首席随員・加藤寛治中将であった。

 十・十・七の比率以外には進攻してくるアメリカ海軍に勝てないというのである。

 予想通り、末次信正大佐が首席随員・加藤寛治中将についた。

 勢いづいた首席随員・加藤寛治中将は、勝手に外国の記者を集めて会見を行い、日本海軍は「十対七の比率を獲得するまでは調印しない覚悟である」などと演説を行った。

 ついに全権・加藤友三郎大将も堪忍袋の緒を切った。ホテルに帰ると自分の部屋に首席随員・加藤寛治中将を呼びつけ、次の様に大声で叱責した。

 「君は一体、何年海軍の飯を食っているんだ? 全権の私のいうことが聞けないということは、すなわち上官の命令を無視するということだ。海軍中将にもなって、どうしてそんなことが分からないのか……」。

 むっとした首席随員・加藤寛治中将は、じっと全権・加藤友三郎大将の顔をにらみ返していたという。

 全権・加藤友三郎大将は海軍兵学校七期、首席随員・加藤寛治中将は十八期で、日本海海戦の時は、全権・加藤友三郎大将は少将で連合艦隊参謀長として東郷平八郎司令長官を補佐し、大勝利をもたらした功労者であった。

 一方、首席随員・加藤寛治中将は、日露戦争開戦時は少佐で、連合艦隊旗艦、戦艦「三笠」(一五一四〇トン)の砲術長、日本海海戦の時は東京の海軍省で山本権兵衛海軍大臣の秘書官をしていた。

 このような経歴からも、首席随員・加藤寛治中将のほうが貫禄負けで、不服ではあるが、引き下がった。

 このような情況を見て、野村吉三郎大佐は、全権・加藤友三郎大将の苦心と決断に大いに学ぶところがあった。

 後にワシントンから引き揚げてきた野村吉三郎大佐は、次のように回想している。

 「加藤友三郎大将という人は、実に偉い提督だった。実戦に有能で、平和、軍縮にも十分国際的な視野を持った人だった」。

 ところで、自説が通らなかった首席随員・加藤寛治中将は、頭痛を発し、会議が終わらぬうちにワシントンを発って帰国してしまった。

 頭に腫れ物ができていたという話だが、愛国一徹の首席随員・加藤寛治中将は、まさしく頭を痛める位、日米戦争の将来を心配していたのだと言われている。