陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

723.野村吉三郎海軍大将(23)アメリカに関する戦力打診は当初大いに誤っていたことを率直に告白せざるを得ない

2020年01月31日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正六年四月一日、野村吉三郎中佐は、大佐に進級した。野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦当時のアメリカとアメリカ人について、次の様に述べている。

 駐在武官として赴任した私は恰もヨーロッパの大戦当時であったから働き甲斐もあったが、多忙でもあった。武官としての第一の任務は駐在国の軍事的視察であるが、この時はその他にヨーロッパ戦局に最後のイニシアティーブを執る、無疵の強大国アメリカを通じて連合国、同盟国双方の動きを観測することも重大任務であった。

 何といってもアメリカ自体の処女地的な戦力の検討評価が、私に与えられた最高の任務であることはいうまでもない。私は凡ゆる角度からアメリカの戦争能力を観察して東京へ報告した。

 ところがこの時の私の報告は実のところ米国という国を過少評価していたのである。当時としては私も自信を持って報告したし、受け取る東京のその筋も高く評価してくれたと見えて、私の大佐進級はその論功行賞をも含めて一年ほど早かったのである。

 ところがお恥ずかしい話だがアメリカに関する戦力打診は当初大いに誤っていたことを率直に告白せざるを得ない。

 それから当時印象に残ったのはアメリカの青年や学生はヨーロッパの戦争に対して、戦争なんか何処吹く風といった工合で、アメリカの参戦問題についても、当時は他所の国のために戦争なんかしてもつまらないといった表情を見せていたのが、いざ参戦となると格別嫌な顔もせず、動員されるとヨーロッパ見物にでも行くような呑気な調子で、鼻歌まじりの気楽そうな出征風景を見せたことだ。

 日本人のように出征に伴う悲壮感というようなものは少しもなかった。それでも結構、ヨーロッパの戦線では何処の国の兵隊にも劣らぬ勇敢さを示したのだから偉いものだと思った。

 一般の国民も参戦と同時に経済統制が行われ食糧の制限から旅行まで難しくなり、酒類の醸造などは早速中止させられたので、平常は豊かな生活を享楽しているアメリカ人だから、さぞかし不平を並べると思ったが、意外にも苦情を言う者は殆どなく積極的な戦争遂行への協力振りを見せていた。

 参戦前には遠い他国のために戦争なんか真っ平だという議論をしていたアメリカ人が、いざとなるとデモクラシーのために戦うのだと張り切って、いささかの不満も口にしないところなど大いに学ぶべきところがあると思った。

 そうした点にもアメリカ並びにアメリカ人の容易ならぬ底力が潜んでいたことを、今更のように想起するのである。

 以上が、野村吉三郎大佐の第一次世界大戦当時のアメリカとアメリカ人についての回想である。

 大正七年六月一日、野村吉三郎大佐は帰朝命令に接し、三年有余の駐米武官生活に終止符を打って帰国の途につき同年九月二日、無事に東京へ帰着した。

 その頃の日本の政情は、野村吉三郎大佐がアメリカに赴任した当時の大隈重信内閣は大正五年十月三日総辞職して、後継内閣が立っていた。

 後継内閣は、寺内正毅(てらうち・まさたけ)元帥(山口・戊辰戦争・函館戦争・明治維新・陸軍戸山学校・西南戦争で負傷し右手の自由をなくす・フランス駐在武官・陸軍大臣官房副長・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・日清戦争大本営運輸通信長官・歩兵第三旅団長・教育総監・参謀本部次長・陸軍大臣・陸軍大将・陸軍大臣兼韓国統監・朝鮮総督・元帥・内閣総理大臣・シベリア出兵を宣言・米騒動で辞職・大正八年十一月三日心臓肥大で死去・享年六十七歳・伯爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・イギリスバス勲章グランドクロスなど)を首班とする内閣であった。

 だが、この寺内内閣も、大正七年八月、富山県魚津町の漁民の妻たちの騒動を発火点として全国に広がった“米騒動”と、シベリア出兵の責任をとり、九月一日総辞職を取り決めた。

 その翌日の九月二日に、野村吉三郎大佐は日本に帰国したのである。

 九月二十七日、政友会総裁・原敬(はら・たかし・岩手・盛岡藩藩校「作人館」・カトリック神学校・司法省法学校退校・郵便報知新聞社・外務省入省・天津領事・パリ駐在・農商務省参事官・大臣秘書官・外務省通商局長・外務次官・朝鮮駐在公使・大阪毎日新聞社社長・立憲政友会幹事長・逓信大臣・衆議院議員・鉄道院総裁・内務大臣・立憲政友会総裁・内閣総理大臣・平民宰相と呼ばれる・大正十年十一月四日東京駅で暗殺・享年六十六歳・正二位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章など)に組閣の大命が下った。




722.野村吉三郎海軍大将(22)これが人類に幾多の貢献をもたらした発明王の老後を養う処とは考えられない

2020年01月24日 | 野村吉三郎海軍大将
 一九〇五年(明治三十八年)、フランクリンは第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトの姪(弟の子)である、アナ・エレノア・ルーズベルトと結婚。

 結婚式には、第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトがエレノアの父親代わりに出席した。二人の間には六人の子供が生まれた。

 一九〇八年(明治四十一年)コロンビア大学ロースクール卒業。ウォール・ストリート法律事務所。

 一九一一年(明治四十四年)ニューヨーク州議会上院議員。フリーメイソンに加入。

 一九一三年(大正二年)三月海軍次官。一九二〇年(大正九年)民主党の副大統領候補として大統領選挙に敗れ、政界を引退。弁護士業に従事。

 一九二一年(大正十年)八月十日、フランクリンは、ポリオを発症し、その後遺症で、下半身が麻痺した。以後日常生活では車椅子を常用した。三十九歳だった。

 一九二九年(昭和四年)一月、ニューヨーク州知事。一九三三年(昭和八年)三月四日~1945年(昭和二十年)四月十二日、アメリカ合衆国第三十二代大統領。アメリカ合衆国史上最長の任期だった。

 大統領在職(四選)中の1945年(昭和二十年)四月十二日、昼食前に脳卒中で死去。享年六十三歳。第二次世界大戦の終結と勝利を目前にした死だった。歴代大統領唯一の身体障碍者の大統領だった。

 以上が、第三十二代大統領・フランクリン・ルーズベルトの経歴である。以後は、野村吉三郎の話に戻る。

 アメリカでの海軍駐在武官当時(大正四年~大正七年)の野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦中であったから、彼の武官としての活躍は頗る多忙を極めた。それで、よく車を走らせた。

 その頃の習慣であろうか、昭和三十五年当時、八十三歳の野村吉三郎のドライブ趣味は、ますます盛んであった。暇を見つけると郊外へ車を走らせることが唯一のレクレーションとなっていた。

 駐在武官当時、ドライブ好きの野村吉三郎大佐は、車を運転して、ニュージャージー州ニューワーク郊外オレンヂに住む、発明王エジソンを訪問した。

 野村吉三郎が訪れた、発明王エジソンの住宅兼研究所はまことに簡素なもので、「これが人類に幾多の貢献をもたらした発明王の老後を養う処とは考えられない」と、野村吉三郎大佐は思ったという。

 このアメリカ駐在中、野村吉三郎大佐の最大の収穫は、多くのアメリカ人の知友を得たことであった。

 そのうちでも、当時海軍次官をしていたフランクリン・ルーズベルトとは、海軍の関係で交際を重ねて、大いに友誼を厚くした。

 このほか、プラット提督など、後年のアメリカ海軍の将星の多くと、国境を超えたネイビーフレンドとしての交わりを結んだ。

 ウィリアム・V・プラット提督は、一八六九年(明治元年)二月二十八日生まれ。メイン州ベルファースト出身。一八八九年アメリカ海軍兵学校卒業。一八九八年米西戦争でキューバ封鎖作戦に参加。一九一一年アメリカ海軍大学教官。

 一九一七年アメリカ陸軍大学卒業。装甲巡洋艦「ニューヨーク」艦長などを経て、一九二五年アメリカ海軍大学校長。一九三〇年海軍作戦部長。

 退役後もウィリアム・V・プラット提督は、学術研究を行い、太平洋戦争開戦前にはドイツ潜水艦の脅威に対抗するため護衛空母や飛行船の研究に従事した。

 知日派で、太平洋戦争直前には、野村吉三郎在米国特命全権大使との会談も行っている。海軍大将。一九五七年十一月二十五日死去。享年八十八歳。

 第一次世界大戦において、大正六年四月六日、アメリカはドイツに宣戦布告した。同年十二月には、オーストリア=ハンガリーにも宣戦布告した。


721.野村吉三郎海軍大将(21)フランクリン・ルーズベルトも非常な海軍男で海軍の話を始めると時の経つのを忘れる程だった

2020年01月17日 | 野村吉三郎海軍大将
 このほかに三井、三菱などの支店はアメリカで、戦争中は目覚ましい活躍を見せていた。つまり軍需工業に関係したり、また第三国間の通運を大きく取り扱ったので飛躍的な発展を示していたのである。今日でいう弗をじゃんじゃんと稼いでいたようだ。

 私の駐米中は日本の政治経済的な国際進出の大飛躍店であったことを回顧して、転(うた)た感慨無量なものがある。

 第二次大戦中の大統領のフランクリン・ルーズベルトは、当時海軍次官をしていたので屡々(しばしば)往来して友好を結んだ。

 日露戦争の時の大統領テオドール(セオドア)・ルーズベルトも大の海軍好きだったが、フランクリン・ルーズベルトも非常な海軍男で海軍の話を始めると時の経つのを忘れる程だった。

 日本では伊藤公が海軍ファンだったが、アメリカでは二代のルーズベルトは共に海軍ファンだった。余談だが現在(昭和三十五年七月)大統領候補を狙う共和党のニクソン副大統領や、民主党のケネディー氏も第二次大戦中は海軍の将校であり、殊にケネディーは小艦艇の艇長として日本軍艦と戦闘を交え撃沈された経歴者である。

 以上が、アメリカでの海軍駐在武官(大佐)当時を述べた野村吉三郎の回顧談である。この回顧談に出てきたアメリカ合衆国の二人のルーズベルト大統領は次の通り。

 第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトは、一八五八年(安政四年)十月二十七日生まれ。ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区出身。ハーバード大学卒。

 セオドアの父はニューヨークの商人、板ガラス輸入会社の共同経営者。資産家であるが、慈善事業、政治活動も行っていた。

 第三十二代大統領・フランクリン・ルーズベルトとは、遠縁の従弟。

 一八八一年(明治十四年)、セオドア・ルーズベルトは、二十三歳の最年少議員としてニューヨーク州下院議員に選出される。その後、最初の妻、アリス・ハサウェイ・リーと結婚。

 一八八四年(明治十七年)二月十四日、妻のアリスが一人娘アリス(妻と同じ名前)を生んだが、その二日後に妻のアリスは死亡した。妊娠で診断が見落とされた腎臓病だった。

 だが、妻アリスが死亡する十一時間前の午前三時に、同じ家で、ルーズベルトの母が死亡していた。死因は腸チフスだった。

 ルーズベルトは、同じ日に、愛する妻と母を失った。日記に「私の人生から光が消え去った」と書き残して、娘を預け、ノースダコタ州へ転居し、一人きりで農場に住んだ。

 一八八六年(明治十九年)十二月、イーディス・カーロウと再婚、五人の子供が生まれた。その後、一八九五年(明治二十八年)、ニューヨーク市公安委員長に就任。

 一八九七年(明治三十年)海軍次官。一八九八年スペインに対する宣戦布告(米西戦争)の年、ルーズベルトは海軍次官を辞職し、陸軍中佐の階級で第一合衆国義勇奇兵隊を結成、大佐に昇進し指揮官となった。

 最前線で戦い軍功を挙げ、名誉勲章受章。米西戦争後、ルーズベルトは警視総監、ニューヨーク州知事を歴任。

 一九〇一年(明治三十四年)九月十四日~一九〇九年(明治四十二年)三月四日、アメリカ合衆国第二十六代大統領。

 日露戦争<一九〇四年(明治三十七年)二月八日~一九〇五年(明治三十八年)九月五日>で日本とロシアの調停をつとめ、この和平交渉斡旋の功績で、ルーズベルトは一九〇六年(明治三十九年)、ノーベル平和賞を受賞。

 一九一九年(大正八年)一月六日、ニューヨーク州ナッソー郡オイスター・ベイで、就寝中に心臓発作で死去。享年六十歳。ニミッツ級航空母艦の四番艦、「セオドア・ルーズベルト」は、彼にちなんで命名された。

 第三十二代大統領・フランクリン・ルーズベルトは、一八八二年(明治十五年)一月三十日生まれ。ニューヨーク州北部のハイドパーク出身。

 フランクリンの父は鉄道会社の副社長で、また、裕福な地主だった。第二十六代大統領・セオドア・ルーズベルトは、遠縁の従兄。

 一九〇四年(明治三十四年)、フランクリンは、ハーバード大学卒業。




720.野村吉三郎海軍大将(20)水町竹三中佐は単独に何事かを東京へ進言したらしく、間も無く佐藤愛麿大使は帰国を命じられた

2020年01月10日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正十三年二月、少将(四十八歳)。大正十五年三月、満鉄(南満州鉄道)を守備する独立守備隊司令官(五十歳)。昭和三年六月、張作霖爆殺事件で無関係だったが、責任を負い、昭和四年七月一日重謹慎処分、八月一日待命、八月三十一日予備役編入(五十三歳)。

 昭和七年十一月(五十六歳)から昭和十二年九月(六十一歳)まで、満州国軍中将として軍務についた。昭和三十五年一月九日死去。享年八十四歳。

 野村吉三郎大佐は、明治十年十二月十六日生まれ。明治三十一年十二月、海軍兵学校(二六期)卒業(ニ十歳)。明治四一年三月、オーストリア駐在。九月、少佐(三十歳)。明治四十三年五月、ドイツ駐在(三十二歳)。大正二年海軍大臣秘書官、中佐(三十五歳)。大正六年四月、大佐(三十九歳)。

 大正十一年六月、少将(四十四歳)、軍令部第三班長。大正十五年七月、軍令部次長、十二月、中将(四十八歳)。

 昭和四年二月、練習艦隊司令官(五十一歳)。昭和七年二月、第三艦隊司令長官、十月、横須賀鎮守府司令長官(五十四歳)。

 昭和八年三月、大将(五十五歳)、十一月軍事参議官。昭和十二年四月、予備役、学習院院長(五十九歳)。

 その後、昭和十四年九月、外務大臣、昭和十五年十一月、在アメリカ合衆国特命全権大使、昭和十九年五月、枢密顧問官を歴任。昭和三十九年五月八日死去。享年八十六歳。

 以上が二人の陸海軍駐在武官の軍歴比較だが、再び、大正七年初頭、野村吉三郎大佐が米国駐在当時の話に戻る。

 陸軍駐在武官・水町竹三中佐が、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐に、「佐藤愛麿大使は不適任だから、本国に追い返そう」と申し込んできたのだ。

 これに対し、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐は、「自分は海軍大臣から大使の下で働くことを命じられて来ているのだから、事の如何を問わず軍人として上長者の排斥運動には同じ難い」と断った。

 すると、陸軍駐在武官・水町竹三中佐は単独に何事かを東京へ進言したらしく、間も無く佐藤愛麿大使は帰国を命じられた。

 その頃、アメリカでは次の二人がアメリカ人の間でも非常に尊敬を受けていた。

 野口英世(のぐち・ひでよ)博士(福島・済生学舎<現・日本医科大学>卒・医師・細菌学者・京都大学<医学博士>・東京帝国大学<理学博士>・ブラウン大学<名誉理学博士>・イエール大学<名誉理学博士>・パリ大学<名誉医学博士>・サンマルコス大学<名誉医学博士>・エクアドル共和国<陸軍名誉軍医カ監・名誉大佐>・黄熱病や梅毒の研究・ノーベル生理学・医学賞候補・昭和三年五月二十一日現在のガーナ共和国で黄熱病で死去・享年五十一歳・正五位・勲二等旭日重光章)。

 高峰譲吉(たかみね・じょうきち)博士(富山・工部大学校<現・東京大学工学部>応用化学科を首席で卒業・英国グラスゴー大学・農商務省入省・専売特許局局長代理・アメリカに移住・タカジアスターゼを発明・アドレナリンの結晶化に成功・東京帝国大学<名誉工学博士>・帝国学士院賞・帝国学士院会員・三共<現・第一三共>初代社長・東洋アルミナム設立・黒部鉄道設立・黒部温泉株式会社設立・黒部水力株式会社設立・大正十一年七月二十二日腎臓炎によりニューヨークで死去・享年六十七歳・正四位・勲三等瑞宝章)。

 当時(大正七年)、アメリカでの海軍駐在武官だった野村吉三郎大佐は、後に次のように回想している。

 私が武官としてアメリカに駐在していた頃には、野口英世博士や高峰譲吉博士が既に優れた研究の結果を発表していたので、そうしたことには国境人種を超えて敬意を表するに吝(やぶさ)かでないアメリカの人の間では、とても信用され且つ尊敬されていた。

 高峰博士などはニューヨークやワシントンの一流のクラブに出入りし、当時一流の人士と交際して敬愛されていた。

 両博士ともに何回も会ったが、特に野口博士とは可成り懇意にして、日本へ品物を送ったり、また向こうから送って貰う場合に私の名義で取扱ってあげたこともあった。これは駐在武官は大使館員として、通関税を免除されるからである。……今回飛んだ打明け話で赤面の至りである……


719.野村吉三郎海軍大将(19)佐藤大使は適任ではないから、排斥をやって本国に追い返そう

2020年01月03日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正三年十二月、野村吉三郎中佐は、在アメリカ国大使館附武官に補任された。三十七歳だった。

 当時の世界情勢は、大正三年六月二十八日にサラエボ事件が起きた。オーストリアの皇太子、フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア人の青年により暗殺されたのだ。

 このサラエボ事件がきっかけで、ロシア、イギリス、フランスと、ドイツ、オーストリア、トルコの間で大きな戦争が勃発した。

 これが第一次世界大戦である。第一次世界大戦は、一九一四年(大正三年)七月二十八日から一九一八年(大正七年)十一月十一日まで、四年以上続いた大戦争だった。

 野村吉三郎中佐がワシントンに着いた大正四年二月十日、アメリカは大騒ぎであった。イギリスは盛んにアメリカの参戦を希望してきていた。

 当時のアメリカ大統領は、ウッドロウ・ウィルソン大統領(バージニア州・プリンストン大学卒・ニュージャージー州知事・第二八代アメリカ合衆国大統領<民主党>・ノーベル平和賞受賞・アメリカ歴史協会会長・一九二四年(大正十三年)二月三日死去・享年六十七歳)だった。

 第一次世界大戦中でも、デモクラシーの国アメリカでは、ウィルソン大統領が慎重で、議会の承認なしでは参加できないとしていた。

 こうした世界情勢の中で、国の方針に悩むアメリカに、野村吉三郎中佐は、赴任したのである。だが、野村吉三郎中佐は、待っていた大使の顔を見てほっとした。

 大使は、ドイツ大使館でお馴染みだった、有能な外交官、珍田捨巳(ちんだ・すてみ)大使(青森・米国のアスベリー大学<現・デボー大学>卒・メソジスト弘前教会副牧師・外務省入省・イギリス・オランダ等で書記官・領事・総領事・在サンフランシスコ領事・外務総務長官・初代外務次官・男爵・子爵・在アメリカ合衆国特命全権大使・パリ講和会議全権委員・枢密顧問官・皇太子祐仁親王訪欧供奉長・侍従長・昭和四年一月十六日脳出血で死去・享年七十三歳・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・イギリス帝国ブリディッシュエンパイア勲章グランクロワ・ローマ法王ピーヌーフ勲章グランクロワ等)だった。

 野村吉三郎中佐の米国駐在三ヶ年半の間に、大使は三代に亘った。

 珍田捨巳大使の後任が、佐藤愛麿(さとう・あいまろ)大使(青森・キリスト教の洗礼を受ける・米国のアスベリー大学<現・デボー大学>卒・美会神学校教授・外務省入省・在メキシコ特命全権公使・ポーツマス日露講和会議全権随員・在オランダ兼デンマーク特命全権公使・在オーストリア特命全権大使・兼在スイス公使・在アメリカ合衆国特命全権大使・宮内省入省・宮家別当・宮中顧問官・昭和九年一月十二日死去・享年七十六歳・正三位・勲二等旭日重光章・ロシア帝国星章付神聖スタニスラス第二等勲章等)だった。

 佐藤愛麿大使の後任が、石井菊次郎(いしい・きくじろう)大使(千葉・東京帝国大学法科大学法律学科卒・外務省入省・パリ公使館・仁川領事・清国公使館・電信課長・兼人事課長兼取調課長・通商局長・外務次官・在フランス特命全権大使・外務大臣・貴族院勅選議員・在アメリカ合衆国特命全権大使・在フランス特命全権大使・国際連盟日本代表・ジェノア会議全権委員・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権委員・枢密顧問官・昭和二十年五月二十五日東京山手空襲で死去・享年七十五歳・子爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・ロシア帝国アレキサンドルネウスキー勲章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)だった。

 佐藤愛麿大使時代の陸軍駐在武官は、水町竹三(みずまち・たけぞう)中佐(佐賀・陸士一〇期・陸大二二期・インド駐箚武官・陸軍大学校教官・在アメリカ大使館附武官・教育総監部附・大佐・近衛歩兵第三連隊長・第一二師団参謀長・少将・歩兵第五旅団長・独立守備隊司令官・予備役・満州国中央陸軍訓練処監事(満州国軍中将)・昭和三十五年一月九日死去・享年八十五歳・正四位)だった。

 大正七年初頭、佐藤愛麿大使時代に、ある事件が起きた。陸軍駐在武官・水町竹三中佐が、海軍駐在武官・野村吉三郎大佐(大正六年四月進級)に「佐藤大使は適任ではないから、排斥をやって本国に追い返そう」と申し込んできたのだ。

 当時、水町竹三中佐は四十二歳、野村吉三郎大佐は四十歳で、同じ十二月生まれで、二歳違いの同世代だった。二人の軍歴を比較してみる。

 水町竹三中佐は、明治八年十二月十一日、生まれ。明治三十一年十一月、陸軍士官学校(一〇期)を卒業(二十二歳)、明治四十三年十一月、陸軍大学校(二二期)を卒業(三十四歳)。明治四十四年十二月、少佐(三十五歳)。大正五年、歩兵中佐(四十歳)、大正九年二月、歩兵大佐(四十四歳)。