陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

180.米内光政海軍大将(20) ドイツ人は何でも経済原論の第一章から説き始めるから嫌いだ

2009年09月04日 | 米内光政海軍大将
 この厚木航空隊の事件を当時、緒方竹虎が雑誌に発表したところ、寺岡謹平元海軍中将から緒方宛に次の様な趣旨の抗議の手紙が送られた(抜粋)。

 「貴下の玉稿を拝読しながら、次の様な随想が私の脳裏を走馬灯のように往復しました。これによって本当のことをご了解願いたいと思います」

 「私が小園と会ったのは八月十六日であるが、この会見については米内大臣から何等の命令をも受け取っておらず、それまで私は大臣にあってもおらず、人を介して命令をも受けず、書類も電報も受け取らず、私は自ら考える処があって会ったのである」

 「小園と刺し違えて死ぬことを米内さんは期待したようであったという根拠は何処から生まれたのであろうか。単なる想像と思うが、米内さんは決してそういうように考えていないことを確信する。この文面から見ると私が小園と刺し違えて道連れにしてしまえば、厚木は平穏に納まるものを、そうし得なかった私は無能で卑怯者の極印を押されているが、これはどうでも宜しい。第三者から見ればそう見えたかも知れない。見られても差し支えない」

 「米内さんの本当の人柄を表すならば、私は甘んじて尊氏になり、秦檜の役になって宜しい。而して私の命は前年比島に出陣した時から無いものと覚悟しているが故に、小園に会うために特別に遺書を認める必要も感じなかったし、実際私が小園と会った時は、厚木の隊内の空気は凄愴を極めていたが、小園は丸腰で私は江定次の名刀を所持していたので、小園一人を片付けるには訳はなかったのである」

 「翌十七日夕、小園は精神分裂病になって指揮能力を失ってしまったから、保科が遺書を書いたというのは、そのときまでの事のように書かれてあるのは時間的に見てもとんでもない誤謬である」

 「当時自らの命を絶つ者が頻発していた折柄、海軍首脳部では特に最後の最後まで自重して、祖国再建に献身すべきことを強調していた」

 「私は終戦後、隷下の兵力の復員を大体完了した一ヶ月経過後の九月十五日を以って予備役を拝命したのであるが、世間は如何に考えようとも、これは責任者として責を負うべく当然のことだと私は思って居る」

 「米内さんが私の処置振りを怒って私を首にしたというならば、それは側近者の誤った報告に基づくもので、九月一日に私が親しく状況の経過を説明報告した際、米内さんは特に『左様であったのか、それは、本当にご苦労でした』と慇懃な慰めの言葉を私に贈られたのである」

 以上が、寺岡中将が、緒方竹虎に出した抗議の手紙の概要である。寺岡中将には寺岡中将の論理があったわけであるが、緒方はこの手紙も「一軍人の生涯」に掲載して、公平を期した。

 マッカーサー司令部が横浜から東京に進駐して間もない頃、米内は、マッカーサー元帥に招かれて、会見を行った。この会見の席上、米内は「天皇はご退位にならねばならぬことになっているか」と質問した。

 マッカーサー元帥はむしろ意外な面持ちで「連合軍の進駐が極めて順調に行われたのは、天皇の協力によるところが多いと考える。自分は退位しなければならぬとは考えていない。この問題は日本国民の決する問題である」と答えた。

 米内の人物として、決して語り過ぎない人であったが、どうかすると語り足りない恨みはあった。ごてごて厚かましく理屈をいう人間はきらいであった。

 米内は「ドイツ人は何でも経済原論の第一章から説き始めるから嫌いだ。私はドイツにもいましたが、とうとうドイツ語を覚えませんでした」と語っている。

 米内は読書について、「この頃頭が鈍くなったから本は三度読む。初めは大急ぎで終わりまで読み通し、次は少しゆっくり、最後には味わって読む」と言っていた。

 東京裁判で、畑俊六の証人として米内が承認台に立ったとき、ウエッブ裁判長が米内の腹芸を読みかねて、散々きわどい質問を浴びせた上、「こういう愚かな証人に出くわしたことがない」と皮肉ったのは有名な話だが、キーナン検事は「あれは米内が畑をかばったのだ。米内は豪い男だ」と日本の要人に感想を漏らしたという。

 米内は酒に強くて、いくら飲んでも崩れない男だったが、一度だけ崩れたことがあった。大酒で有名だった松慶民元宮内大臣と焼けた宮内大臣官邸の洋間でウイスキーを飲んだ時だった。

 このときは二人とも、カーペットの上に腰を抜かし、やがて帰りがけに、米内は官邸の玄関から門に到る玉砂利の上で、四ツ匍いになっていたとのことである。

 昭和二十三年四月二十日、米内光政は目黒の自宅で最後の息を引き取り、六十九歳の生涯を閉じた。

 緒方竹虎は、臨終の場に居合わせた。苦痛の跡はなく大往生だが、初めて海軍大臣に就任した頃の豊頬の見る影もなきは勿論、眼はくぼみ、皮膚は枯れ、逞しい骨組みのみが目立った。

 そして枕頭に黙祷しながら、いつまでも頭を上げようとしない九十一歳の母堂の姿の如何に悼ましくも尊く見えたと、緒方竹虎はその著書「一軍人の生涯」に記している。

 (「米内光政海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「東條英機陸軍大将」が始まります)

179.米内光政海軍大将(19) 米内には海軍のみがあり、国家なし

2009年08月28日 | 米内光政海軍大将
 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、当時の阿南の側近達は次の様に語っている。

 「阿南は、本土決戦の準備が不備であることには不満足だったが、本土決戦をやって、敵に一大痛撃を加え、出血させてから、講和のキッカケをつくるべきである、と言う考え方にかわりはなかった」。

 「講和に対する米内と阿南の見解の相違は、非常に大きかった。阿南は、講和といっても、無条件ではなく名誉ある講和を考えていた」

 「阿南は徹底した国体護持の思想を堅持していた」

 「天皇は民族を絶滅させないためにも、もはや終戦せねばならぬ。国体護持が絶対の条件ではない、という意味のことを申されたようであるが、それは米内などの入れ知恵によるものと解釈していた」

 「海軍一軍人の生涯」(高橋文彦・光文社)によると、阿南はなぜ「米内を斬れ」と言ったのか。たとえ和平派の海軍大臣とはいえ、その立場上、多大な将兵を犠牲にした責任はとらねばならない。それが、帝国軍人としてのあり方である。

 だが、米内が自決するかどうかわからない。そこで、自決しないようならば鉄拳を下せ、という意味で言ったのかもそれないと記している。

 「米内光政と山本五十六は愚将だった」(三村文男・テーミス)によると、米内自身かねがね、「私は自分の手では死なん」と側近に語っていた。阿南もおそらく米内が自決するとは思っていなかっただろう。

 だが、「自決しないようならば鉄拳を下せ」は暴論である。阿南陸軍大臣が、「米内を斬れ」と言ったことについて、竹下中佐は「機密作戦日誌」にその事実を記録している。竹下中佐は「思いがけない言葉でした。私はかねがね阿南は米内さんを尊敬していると思っていたので」と述べている。

 戦争末期に陸海軍の統合が論議された時、賛成論者の阿南は「米内が統合された軍全体の大臣となり、自分は米内の次官になってもよい」と言っている。

 竹下中佐は「そのとき、阿南はもうかなり酔っていましたし、『米内を斬れ』といったあと、すぐ他の話に移ったことからも、深い考えから出た言葉ではなかったことがわかります」とも語っている。

 またこの発言の暫く後に部屋に入ってきた林三郎秘書官(陸士三七・陸大四六恩賜)が「少々ろれつが廻らないほど酔っておられたから、単に口走っただけで意味はなかったと思います」と語り、松谷誠秘書官(陸士三五・陸大四三)も「竹下さんの言う通り、意味のない言葉だったでしょう」と語っている。

 「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、東條首相退陣後、陸海統合の戦争指導部がほとんどできかかっていた。

 だが、せっかくの陸海中堅の努力も、時の海軍大臣・米内光政大将の「合流は中止せよ」の鶴の一声でご破算になった。これでは、陸軍側がそれ以後も米内海相をどんな眼で見ていたか理解できようというものである。

 「米内には海軍のみがあり、国家なし」と彼らは断じたのである。終戦時の阿南陸軍大臣が、国家敗亡の責を負って自刃するとき、「米内を斬れ」と言ったというのも、この辺りにありそうである。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、昭和二十年八月三十日に連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥が海軍厚木航空基地に進駐する数日前、厚木航空隊は、三〇二航空隊司令・小園安名大佐(海兵五一)を初めとして、徹底抗戦を主張して、基地内に立てこもった。

 天皇陛下より、東久邇宮総理に「高松宮を厚木に派遣したらどうか」と御沙汰があった。東久邇宮総理は緒方竹虎に要旨を米内海軍大臣に伝えるよう命じた。

 緒方は米内海軍大臣を訪問して、趣旨を述べたが、米内海軍大臣は「それには及びません、大丈夫であります。もし間違った者があれば、厳罰に処しますと申し上げてくれ」と答えた。

 だが、天皇の直の思し召しで、海軍軍令部参謀・高松宮宣仁大佐(海兵五二・海大三四)は後に厚木基地の決起士官らの説得に当たった。

 その後、米内海軍大臣は、第三航空艦隊司令長官の寺岡謹平中将(海兵四〇・海大二四)を呼び、直接、小園大佐を説得することを命じた。

 寺岡中将は海軍の中でも一風変わった風格の人で、米内海軍大臣はもし、小園大佐が聴かなければ、その場で刺し違えることを心ひそかに期待したようであった。

 だが寺岡中将は説得もできず、刺し違えもせず、茫然として帰ってきた。公儀の前には寸毫の仮借もない米内海軍大臣は、間もなく寺岡中将を予備役に編入した。

 米内海軍大臣は横須賀鎮守府司令長官・戸塚道太郎中将(海兵三八・海大二〇)に、厚木基地の掃蕩を命じようとしたが、さすがに中止された。

 米内海軍大臣は、改めて保科軍務局長を現地に派遣することにした。だが、この後、小園大佐が熱病に倒れたので、俄かに事態は解決し、事なくして済んだ。

178.米内光政海軍大将(18) 阿南からすれば、米内は不倶戴天の仇敵だった

2009年08月21日 | 米内光政海軍大将
 八月十二日午前零時四十分、日本の「ポツダム宣言受諾通告」に対するアメリカ側の回答がラジオで入ってきた。この回答の中に「天皇及び日本国政府の国家統治権限は連合国軍最高司令官の制限下に置かるるものとす」という内容があり、これでは天皇の地位安泰の保証がないと軍部の降伏反対、徹底抗戦が再燃の兆しが見え始めた。

 豊田軍令部総長は、梅津美治郎参謀総長(陸士一五・陸大二三首席)と共に参内し、「統帥部といたしましては、本覚書の如き和平条件は断乎として峻拒すべきものと存じます」と上奏した。戦争継続の震源である。この上奏は、米内海軍大臣には相談せずに行われた。

 米内海軍大臣は、豊田軍令部総長を呼びつけた。何を基礎に無断で上奏を行ったかとの詰問に、豊田軍令部総長は答えられなかった。

 やせ衰えた米内海軍大臣が、肥満の豊田軍令部総長に向って「軍令部総長の職にありながら、海軍の統制を破った。不届きである」と、驚くほどきびしく詰め寄った。

 豊田軍令部総長が退出した後、大西軍令部次長が、大臣室に来た。血相が変わっていた。言い争う声が聞こえた。大西軍令部次長は両肘を張り、こぶしを腰にあて、大臣をにらみ据えるような姿勢で立った。テーブルの反対側には米内海軍大臣も立ち上がっていた。

 米内海軍大臣は相手以上の大声で大西軍令部次長を叱りつけた。隣の部屋の秘書官たちは、米内海軍大臣のこんな怒声を聞くのは初めてだった。

 やがて大西軍令部次長は、しょんぼりした感じで出てきて、去っていった。代わりに秘書官が大臣室に入っていくと、米内海軍大臣は、今まで興奮して怒鳴っていた人とは思われない静かな口調で「事ここに至って、いよいよの土壇場になったら、相対的なことと、絶対的なことの区別だけ、まちがいないようにしなくてはいかん。それを言ったら、次長も分かってくれたようだ」と話した。

 この後、「海軍の腰抜けどもを焼き討ちにする」とか「海軍大臣の身辺、安全だと思うなよ」などと、脅迫や嫌がらせがあった。東部憲兵隊司令官・大谷敬二郎大佐(陸士三一・東大法学部派遣)の部下と称する憲兵少佐が、大臣秘書官のところへ「米内閣下の護衛をさせてもらいたい」と申し入れてきた。

 海軍大臣秘書官の間には代々「憲兵の護衛は断れ。あのシープドッグはいつ狼に化けるか分からない」という申し伝えがあった。「その必要はないと思いますが、一応大臣に伺ってみます」と秘書官が米内海軍大臣に聞くと、やはり「断ってくれ」とのことだった。

 だが、その憲兵少佐は「阿南陸軍大臣から直接命令を受けて来ております。このまま引き下がれません」と言って帰ろうとはしなかった。

 そこで秘書官が「憲兵は陸海両大臣の命令を受けられる立場のはずです。海軍大臣が帰っていただきたいと言っておられるのですから、お帰りください」と言うと。その憲兵少佐はやっと帰って行った。

 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、八月十五日の明け方、三宅坂の陸軍大臣官邸で阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣(陸士一八・陸大三〇)は自刃した。割腹する直前、阿南陸軍大臣は、義弟の、軍務課員・竹下正彦中佐(陸士四二・陸大五一恩賜)に「米内を斬れ」という言葉を遺して死んだ。

 米内海軍大臣と阿南陸軍大臣は、少なくとも気質的には水と油であったと言われている。竹下中佐は後に「率直に言って、阿南は米内がきらいだった。鈴木貫太郎首相(海兵一四・海大一)に対しては敬愛の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐していた。

 米内海軍大臣の方でも、戦後、小島秀雄海軍少将(海兵四四・海大二八)に、「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と洩らしている。

 「米内光政」(生出寿(おいでひさし)・徳間書店)によると、米内海軍大臣と阿南陸軍大臣は、ことごとく対立していて、阿南からすれば、米内は不倶戴天の仇敵だった。「米内を斬れ」は、最後に思い通りになれなかった陸軍の、陸軍に同調しなかった海軍に対する怨みのようでもある。

 米内が阿南に同調してポツダム宣言受諾に反対すれば、閣議も受諾反対・戦争継続となり、天皇もそれを承認せざるを得ないはずであった。

 戦後、藤田尚徳侍従長(海兵二九・海大一〇)から「もしあのとき鈴木内閣が戦争継続と決めて、ご裁可を願ったら陛下はどうなさいましたか」と聞かれた天皇は、「それは自分の気持ちとちがっていても、そのまま裁可したろう」と答えている。

177.米内光政海軍大将(17) 和平の話し合いなら、叩き斬ってやる

2009年08月14日 | 米内光政海軍大将
 「私はあまり近衛という人を信用できんのでね」と苦笑しながら、米内はたびたびもらした。

 また、「このあいだ近衛が来てね、何とかしてもらわなければ、こんなことでは心配でならぬというから、すこしばかり、私の考えを話したところ、それを芦田均という代議士に伝えたというので、人には注意してものを言えと教えてくれた友人がある。近衛はもとからそうであったが、どうも口が軽くて、うかつに話もできない」とこぼしていた。

 なお近衛公が最後まで同情をもっていた真崎、荒木、小畑などの皇道派にたいしては、米内最高の腹心であった井上次官が蛇蝎のように嫌っていたので、ここでも近衛、米内の橋渡しに障害となるものがあった。

 ところがサディズムの傾向があった関白(近衛公爵)は、他人の苦痛などいっこうに感応がなくて、「二十三日(二十年四月)重臣会議の後、米内大臣に会っていろいろ話を聞き、日本を救うはこの人をおいて無しと感じ、心強く考えるとともに目頭の熱くなるのを覚えた」と原田熊雄に書き送って、米内との連絡に一臂の力をかすように頼んでいる。

 近衛公爵は、米内、有田八郎元外相らが、熱湯を呑まされた気持ちなどは、とっくに忘れ去っていた。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、昭和二十年五月一日、ヒトラーは自決してデーニッツが総統になったが、二日にはベルリンが陥落した。

 ドイツは昭和二十年五月八日、遂に連合国に対して無条件降伏をした。日本は一国で連合軍を引き受けなければならなくなった。米内光政海軍大臣は「もうこうなれば大局上海軍の面目なんか超越して考えねばならぬ」と側近に洩らしていた。

 昭和二十年五月三十日重臣会議が開かれ、米内海軍大臣も出席した。米内は重臣から何か権威ある発言でもありはしないかと、多大な期待をかけていた。

 だが、文官出身者は軍部出身者に気兼ねをし、軍部出身者は現役軍首脳の顔色を窺うだけで、時局打開の具体的意見は遂に聞くことができなかった。

 会議はすでに散会しようとする。たまりかねた米内海軍大臣は突如「総理をさしおいて僭越であるが、国家の前途につき重臣各位のご意見を承りたい」と発言した。

 帰り支度にざわめいていた席が一瞬水を打ったように静まり返って、緊張の色がありありと列席者の面上に漂った。だが、遂に所見を開陳する者なく、後味の悪い思いを残して、そろそろと会議場を出て行った。

 この米内の一言を聞いて、東條英機(陸士一七・陸大二七)は「米内は終戦を目論んでいるのではないか」と強く受け取り、帰りに阿南惟幾陸軍大臣を訪ねて、陸軍の肝を聞こうとしたが、阿南陸軍大臣は不在だった。

 翌五月三十一日、鈴木貫太郎首相は左近司政三国務相(海兵二七・海大一〇)、その他一、二の国務大臣を交えて陸海両大臣と懇談した。

 そのとき、米内海軍大臣は「戦局の前途は全く絶望である。一日も速に講和するようにせねばならぬ」と力説した。

 これに対し阿南陸軍大臣は「今講和問題を取り上げることになっては、今日まで戦争完遂の決意を促してきた国民の気分を百八十度転回させねばならない。そんなことは到底できない相談である。殊に陸軍の中堅層を制御することは至難である。だからこの際は徹底的抗戦の一路あるのみだ」と主張した。

 軍部両大臣の意見は完全に対立したまま散会した。

 昭和二十年六月、宮中で最高戦争指導会議が開かれたが、軍令部次長・大西瀧治郎中将(海兵四〇)は、会議の一員でもないのに、会議の部屋に軍刀を吊って突然入ってきた。

 その様子は「和平の話し合いなら、叩き斬ってやる」と言わんばかりの態度だった。特攻を指導した大西中将は、戦争継続を主張していた。

 すると会議に出席していた米内海相が「大西君、君の出る幕じゃない。すぐ出て行きたまえ」とたしなめた。大西中将は、出て行った。会議が終わったあと、大西中将は、米内海相から改めて叱責され、涙を流して軽率さを詫びた。

 昭和二十年七月二十六日、連合国側は、ポツダム対日宣言を発表した。八月六日、広島に原爆が投下された。八月九日、ソ連が参戦し満州に向ってソ連軍が進撃を開始した。また、この日、長崎にも原爆が投下された。八月十日、御前会議でポツダム宣言受諾が決められた。

 八月十日夜、サンフランシスコの日本向け短波放送は、日本政府がスイスを通じて「ポツダム宣言受諾の用意成れり」と申し入れて来たというニュースを繰り返し流し始めた。

 ポツダム宣言受諾通告の出ていることを知った大西中将は「あと二千万人の日本人を特攻で殺す覚悟なら、決して負けはしません。戦争を継続させてください」と豊田副武軍令部総長(海兵三三・海大一五首席)に訴えた。

176.米内光政海軍大将(16)「敵はついに倒れた」と海軍省詰の記者が叫んだ

2009年08月07日 | 米内光政海軍大将
 昭和十九年六月二十七日、東條首相は陰謀の張本人である岡田を首相官邸に呼びつけて、「内閣倒壊運動の陰謀は怪しからぬ」と厳しく言った。この脅迫に岡田は屈しなかった。まさに正面衝突だった。

 東條首相や嶋田海相の側近たちは最後の生き残るための策略をねった。結論はかつての金魚大臣の米内を無任所大臣に加えて、東條内閣の延命をはかるというものだった。

 七月十七日、米内入閣をすすめるため、多くの人々が米内邸を訪れた。嶋田海相の下で勢威をふるった海軍省軍務局長・岡敬純中将、蔵相・石渡荘太郎らが、入れかわり立ちかわり現れては、米内を口説きに口説いた。

 だが、米内はこれらの説得に対してポツリと「その意思はない」とだけ言った。

 「木戸日記」によると、七月十七日午後四時から、平沼麒一郎邸で秘密裡に重臣の懇談会が行われた。その席上、米内は次の様に発言した。

 「十三日以来、余の入閣につき、たびたび交渉ありしをもって、熟慮の上お断りすと書きて渡したり。岡軍務局長来り、海軍の総意云々といえるゆえ、自分が海軍に尽くすというのなれば現役復帰して、軍参事官なり何なりになりて働くのなれば判るが、国務大臣として入閣するとも何の力にもならず、それは筋が違うにあらずや、と答えておきたり。自分は入閣の意思なし」

 この後、東條支持の阿部信行、東條退陣要求の岡田啓介の激しい応酬があったが、重臣たちは「内閣の一部改造のごときは、この難局を乗り切るにはなんの役にも立たない」と、東條内閣不信任案ともいうべき、前代未聞の申し合わせをした。

 この日の夕方、重臣会議を済ませて家に帰った米内を、早くから待っていた陸軍軍人がいた。陸軍省軍務局長・佐藤賢了少将だった。

 この東條の右腕の佐藤少将は、重臣会議の結果も知らずに、内閣更迭の不利を説き、米内の入閣を切に要望した。

 米内は「佐藤君、僕は総理大臣として落第したことは君の知っての通りだ。政治家には向いていないんだな。だから政治に責任をもつ無任所大臣として入閣しても役に立たぬ」とあっさり断った。

 そして米内は続けて「海軍に育ったから海軍大臣ならつとまるが、それ以外は務まらぬ。政治家としてではなく、あくまで僕は軍人として戦いたい」とも言った。

 すると佐藤が面をおこして「あなたは東條内閣だから出ないのですか、それとも、いかなる内閣でも同様ですか」と詰め寄った。

 これに対して米内は「もちろん、いかなる内閣でも無任所大臣は務まらない。そう東條君に伝えてくれたまえ」と淡々として答えた。

 昭和十九年七月十八日、東條内閣は、あっけなく倒れた。東條は最期のあがきを示すことなく、用賀の家に引きこもった。「敵はついに倒れた」と海軍省詰の記者が叫んだという。
 
 後継の小磯国昭内閣の成立に対して、新次官となった岡敬純中将を中心とする海軍中央は海軍大臣に野村直邦、軍令部総長に嶋田繁太郎を推し、米内光政を副総理(無任所相)になることを策したが、米内は頑として反対した。

 天皇も米内を支持した。こうして七月二十二日、米内は海軍大臣になり、「海軍大臣在官中特に現役に列せしむ」との旨が、情報局から発表された。

 米内の現役復帰は実現したが、末次信正大将の現役復帰は天皇の反対で実現しなかった。

 七月二十三日、久しぶりに海軍省の門をくぐった米内海相は、高木惣吉教育局長から「次官には岡中将をそのまま使いますか?」と聞かれると、即座に「一夜にして放逐する」と答えた。

 海軍という組織を率いた米内海軍大臣と、重臣および海軍長老との連絡提携は、比較的容易であったが、近衛公の一派および側近との連絡が、きわめて重要な反面に機微な障害もはらんでいた。

 かつて米内内閣が陰謀につぶれた後に、松岡、東條らをかかえて、近衛公が登場した。この政変で、近衛公が倒閣に暗黙の了解を与えていたとの印象は、深く米内の脳裏にしみついていた。

175.米内光政海軍大将(15)海軍と東條幕府との戦いは、火花を散らさんばかりに続いた

2009年07月31日 | 米内光政海軍大将
 「米内光政のすべて」(七宮三編・新人物王来社)によると、昭和十九年が明けたとき、国力の差は歴然とし、大日本帝国の勝機は完全に失われた状況となった。

 この状況で、東條首相兼陸相と嶋田海相のコンビがとった戦争指導方策は、統帥部の総長を兼任するという前代未聞の非常手段だった。

 方々から上がった猛反対の声を無視して、政治と軍事が乖離していては戦争はできないと、昭和十九年二月二十一日、二人はこれを強行した。

 その独裁色が極度に濃厚になるに及んで、倒閣の動きも出てきた。海軍の長老岡田啓介を中心に、その周辺が知恵を絞った結論は、東條の腰巾着である嶋田海相を更迭させ、連鎖反応を起こさせることにより、東條内閣を崩壊させるというものだった。

 当然のように、嶋田追い落としのあと、米内光政の現役復帰、海相あるいは軍令部総長就任による海軍部内立て直しの構想が浮上してきた。

 昭和十九年三月十四日、岡田は伏見宮元帥に会い、米内の現役復帰を進言し、賛成を得た。このとき伏見宮は、海軍の立て直しの為にも、ロンドン軍縮条約の調印問題以来こじれている条約派と艦隊派との、大同団結をはかる必要があるのではないか、という示唆をもらした。

 端的に言えば、犬猿の仲とも噂されている米内(条約派)と末次信正大将(艦隊派)の仲直り、すなわち両者の現役復帰である。

 条約派につながる岡田には、末次の現役復帰などどうでもいいことであったが、米内の現役復帰実現のためには、毒食わば皿までの覚悟をきめた。
 
 東條幕府を潰すためには、米内海相、末次軍令部総長の構想を表面に押したて、海軍が一丸となって打ち当たらねばできないことかもしれなかった。

 米内はしかし、容易に腰を上げようとはしなかった。あるいは口もききたくない末次との和解など、毛頭考えないことであったろうか。

 だが、六月三日、米内がやっと思い腰を上げた。藤山愛一郎の好意で、藤山邸で、岡田、米内、末次の海軍三長老が極秘に会談を持った。

 岡田は回想する。藤山が席をはずしたから、私は米内と末次に向かい、「この際、日本の為に仲直りしてくれんか。今やもう、非常な事態にたちいたっているんだ」と言ったところ、二人とも国を救うため一個の感情などどうでもよい。一緒に力を尽くそうと言ってくれた。それはありがたい、と私も言って、記念の寄せ書きなどして、その日は別れた。

 だが、このとき、米内の胸中には万感の思いが去来した。「ロンドン軍縮条約以後における伏見宮、加藤寛治、末次信正らの策謀をみよ」である。

 このため、山梨勝之進、堀悌吉らの次代を担う海軍軍政家が次々に首を切られたではないか。それが今日の海軍の、大きく言えば国家の悲運を招いたといえる。

 そしてまた、日独伊三国同盟から開戦まで、対米強硬論で海軍部内を押し切ったのは末次につながる一派ではなかったか。だが、それらの不愉快きわまる複雑な思いを断ち切って、米内は末次の手を握った。

 岡田、米内を中心とする海軍と東條幕府との戦いは、火花を散らさんばかりに続いた。六月十六日、岡田は嶋田海相に会い、海相辞職を勧めた。

 六月二十二日には、伏見宮も熱海より上京し、嶋田を呼んで辞職のことを口に出した。翌日、嶋田は東條にハッパをかけられて、反撃に出た。

 「私が辞めれば東條内閣が倒れます。現に政界では海軍を使って東條内閣を打倒遷都する陰謀があります。殿下はその陰謀に加担あそばれるというのですか」

 この脅しに、伏見宮は驚き入って、熱海ほうほうの体で帰っていった。

174.米内光政海軍大将(14)見るもよし聞くもまたよし世の中はいはぬが花と猿はいうなり

2009年07月24日 | 米内光政海軍大将
 総理を辞めた米内光政は、翌月の八月、日光に遊んだ。およそ、観光などしたことのなかった米内にしては珍しいことであった。

 そのとき、日光の「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿をみて、米内は「見るもよし聞くもまたよし世の中はいはぬが花と猿はいうなり」と詠んだ。

 昭和十五年七月二十二日、第二次近衛文麿内閣が誕生した。九月二十七日、ベルリンのヒトラー官邸において、日本大使・来栖三郎、ドイツ外相・リッペントロップ、イタリア外相・チアノの三代表によって署名、捺印され、日独伊三国同盟が締結された。当時の海軍首脳は、及川古志郎海軍大臣(海兵三一・海一三)、豊田貞次郎次官(海兵三三首席・海一七首席)だった。

 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、老体を病床に横たえながらも、日本の現状に憂慮を抱いていた元老西園寺公望公爵は、三国同盟の成立を知ると、そばに仕える女たちに向って次の様に言った。

 「これで、もうお前さんたちさえも、畳の上で死ぬことはできない」。西園寺公は、そう言うと終日床上に瞑目して一言も語らなかった。老公はその年の十一月、興津の坐漁荘で九十二歳の天寿を全うした。

 当時米内光政は閑職であったが、同盟締結を聞いて「我々の三国同盟反対は、ちょうどナイヤガラ瀑布の一、二町上手で、流れにさからって舟を漕いでいるようなもので、無駄な努力であった」と嘆息した。

 緒方竹虎が「米内・山本の海軍が続いていたなら、徹頭徹尾反対したか」と質問したら、米内は「むろん反対しました」と答え、しばらくしてから「でも、殺されていたでしょうね」と、いかにも感慨に耐えない風であった。

 昭和十五年十一月十五日、連合艦隊司令長官・山本五十六中将は、同期の前海軍大臣・吉田善吾中将、支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎中将とともに海軍大将に昇進した。

 山本司令長官は、十一月二十六日から二十八日まで、目黒の海軍大学校で、連合艦隊の図上演習を統裁した。

 そのとき山本司令長官は及川古志郎海軍大臣から、山本の後任の連合艦隊司令長官を誰にしたらいいかと、相談をもちかけられた。

 十二月上旬、山本連合艦隊司令長官は、及川海軍大臣と伏見宮軍令部総長に「来年四月に予定されている連合艦隊の編成替えのとき、米内大将を現役に復帰させ、連合艦隊司令長官に起用されたい」と進言した。

 山本連合艦隊司令長官は米内が連合艦隊司令長官なら「対米英戦争は勝てない」という信念を貫くだろうし、次期軍令部総長にもなりやすいと思ったようである。

 及川海相も今度は同意した。ところが伏見宮軍令部総長が山本連合艦隊司令長官に意外なことを言った。「米内を現役に復帰させ、将来自分の後任とすることには同意するが、連合艦隊はお前がやれ」。山本五十六にとっては、信じられないような、願っても無いことであった。

 だが、伏見宮の米内に関することばは、社交辞令にすぎなくて、自分の意思に合う大角峯生か永野修身を後任の軍令部総長にするのが本心だった。

 昭和十六年四月九日、伏見宮は体調低下の理由で、軍令部総長の職を永野修身大将に譲った。第一候補は大角峯生大将だったが、二月初めに南支方面へ視察に行き、五日に広東で飛行機が墜落して、事故死していた。

 伏見宮は、対米英不戦派の米内を現役に復帰させて軍令部総長にする気などなかったのである。

 ドイツ、イタリアを訪問した松岡外相はモスクワに行き、四月十三日、スターリンを相手に、日ソ中立条約に調印した。

 昭和十六年十月十六日、近衛内閣は崩壊し、十七日、東條英機に組閣の大命が降下した。

 ともかく、このような状況により、日本の対英米敵視政策がふくらんでいき、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃を皮切りに、怒涛の如く日本は太平洋戦争に突入していった。

173.米内光政海軍大将(13) 代わりの陸軍大臣を出さず、米内内閣をぶっ倒せ

2009年07月17日 | 米内光政海軍大将
 この三つの意見が畑陸軍大臣の口から出た以上、陸軍の公式意思表示であり、米内首相も事の意外に驚いた。

 だが、裏面の動きが容易に察せられたので「組閣以来今日まで、何等意見の疎隔があったとは思わないし、お互いにこの際は覚悟を新たにして難局に当たるべきではないか」と慰撫し、また反発した。畑陸軍大臣も強いて固執することなく会見は終わった。

 ところが、陸軍の局長、課長は会議を開き、畑陸軍大臣が述べた三か条の要望を、報道部を通じて新聞に発表してしまった。

 米内首相は「組閣の際、畑に対し陛下から『この内閣に協力するよう』との御言葉があった。畑は『協力いたします』と答えた。あの時のことを思い出してもらわねばならぬ」と畑俊六陸軍大臣と会おうとしたが、失敗した。

 「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると七月十六日、畑陸軍大臣は「この内閣のように性格が弱い政権では、陸軍大臣として部下統率ができないから辞めさせてくれ」と言い出し辞表を提出した。

 そこで米内首相は陸軍大臣が、「どうしても辞めるというならば、内閣では、いま総辞職の考えはないから、後任を推薦してくれ」と頼んだ。

 すると畑陸軍大臣は、「いったん陸軍省に行って相談のあと、陸軍大臣の引き受けてがない」と返事してきた。米内首相もやむを得ず総辞職をするほかなくなった。七月十六日米内内閣は総辞職した。

 陸相が辞職を言い出したとき、その顔には苦渋の表情が浮かんでいて、いよいよ総辞職となった最後の閣議のときなど、「畑のショゲかたはなかったよ、かえってこっちが気の毒になってね」と米内は後に回想している。

 この顛末は、実は陸軍の中堅将校が結束して意見具申をし、参謀総長・閑院宮が畑陸軍大臣の辞職を薦めたのだった。

 七月四日の時点で、参謀次長・沢田茂中将が陸軍大臣室に畑大臣を訪れ、「大本営参謀総長より陸軍大臣への要望、七月四日」と題した文章を提示した。要旨は次の様なものであった。

 「帝国としては一日もすみやかな支那事変の解決が緊要である。しかるに現内閣は消極退嬰で、とうてい現下の時局を切り抜けられるとは思わない。かえって国軍の士気団結に悪影響を及ぼす恐れなしとしない」

 「このさい挙国強力な内閣を組織し、右顧左眄することなく、断固諸政策を実行させることが肝要である。右に関しこのさい陸軍大臣に善処を切望する」

 このときの参謀総長は閑院宮元帥で、ようするに、畑が陸軍大臣を辞任して、「代わりの陸軍大臣を出さず、米内内閣をぶっ倒せ」ということであった。

 陸軍大臣は陸軍軍人軍属にたいする一切の人事権を持ち、その点では参謀総長も陸軍大臣の下位にある。陸軍大臣が所信を貫こうと思えば、参謀総長を更迭することもできる。

 しかし、参謀総長が皇族では、それは不可能で、畑陸軍大臣が閑院宮参謀総長に従うほかなかったのである。

 ところが、当時参謀本部作戦課長・岡田重一大佐は、昭和三十五年二月、驚くべきことを告白している。その内容は次のようなものであった。

 「参謀本部においては米内内閣の倒閣を強く希望していたが、畑陸相が倒閣には消極的であると考えていた。畑陸相としては、それは無理なからぬことだった。陸相に留任するとき、天皇に米内内閣に協力する約束をしていたのだから」

 「その陸相の立場も考慮し、検討の結果、皇族であり陸軍の最長老である閑院宮参謀総長から強い要望を出すことが、畑陸相を倒閣に踏み切らせる最も容易な手段であると考えた」

 「そして閑院宮参謀総長は、陸軍部内大多数の意見が内閣の更迭を必要とするのであれば、畑陸相には気の毒であるが、国家の大事のため、このさい非常手段をとることも止むを得ないと採決した」

 閑院宮参謀総長は七十五歳の高齢で、実務的にはロボットであった。それを参謀本部の次長・沢田茂中将、第一部長・富永恭次少将、第一課長・岡田重一大佐、第二部長・土橋勇少将、それに陸軍省の次官・阿南惟幾中将、軍務局長・武藤章少将、軍事課長・岩畔豪雄大佐、軍務課長・河村参郎大佐らが共謀して利用して、米内内閣を崩壊させたのだった。

172.米内光政海軍大将(12) ヒトラーやムソリーニは一代身上だ

2009年07月10日 | 米内光政海軍大将
 この頃、米内首相は内務省出身の高橋貢秘書官に「陸軍がさかんに精神論をやる。そりゃ精神の無いところに進歩も勝利も無い。しかし、海軍は精神だけでは戦争できないんだよ」と話している。

 さらに「工業生産の量、機械の質、技術の良し悪しがそのまま正直に戦力に反映する。国民精神総動員とか、陸軍のような大和魂の一本槍で海のいくさはやれないんだ」とも話している。

 ヨーロッパの戦局は、ドイツの電撃作戦が世界を震撼させた。四月九日に国境を越えてデンマークに侵入したドイツ軍は、三時間半後には首都のコペンハーゲンを占領し、デンマーク全土がドイツの保護下におかれた。

 五月には、オランダとベルギーがドイツに降伏。六月には西部戦線のイギリス軍は本土へ撤退。イタリアが英国とフランスに宣戦布告した。六月十四日パリが陥落した。

 これらの情勢から、日本陸軍ではナチスドイツ熱が高まり「バスに乗り遅れるな」という言葉が飛び交うようになった。新聞も大見出しで「対独伊関係緊密強化、帝国外交・一大転換へ」などとトップ記事が出たりし始めた。

 その頃、米内首相は、議員食堂で広瀬久忠と食事した時、「ヒトラーやムソリーニは一代身上だ、あんな者と一緒になってはつまらない。かれらはその身上を棒にふったところで、もともとだ。大したことは無い」と話した。

 さらに「ところが日本は三千年の歴史がある。その日本の天皇と一代身上者とを同じ舞台に出して手を握らせようなんて、とんでもない話だ」と話したという。

 いくら陸軍のドイツ熱が再燃したところで、米内が総理大臣の職にいる限りは三国同盟もやらず、新体制の国内改革も実行しないというので、倒閣運動が始まった。

 新体制の国内改革とは、既成の政党を解散させ、ナチスのように一国一党で日本の政治を行うというものだった。

 昭和十五年六月二十四日、近衛文麿は新体制運動を本格的に行うために枢密院議長を辞任することを決意し、後任に平沼麒一郎を推薦するつもりだった。そして両者の間にはすでに諒解ができているとさえ噂されていた。

 米内総理は限られた重臣の間に天下の公器を私するような傾向のあるのを、平常から面白くなく思っていた。その結果、米内首相は、近衛、平沼の期待はもちろん、世間の予想をも裏切って、原嘉道を後任議長に奏薦した。さらに副議長には海軍の鈴木貫太郎を推薦した。

 原嘉道は法曹界の重鎮で、田中義一内閣の法相も経験していたが、近衛、平沼としては顔を逆なでされたも同様だった。また、鈴木貫太郎の副議長就任は陸海軍のデリケートな関係から見ても、陸軍に挑戦するものに外ならなかったのである。

 七月初めには右翼による米内首相暗殺未遂事件が起こった。「首相が政治的所信を改めない限り、この内閣には協力できない」という態度を陸軍は見せ始めた。陸軍は米内内閣をつぶして、近衛を担ぎ出そうと決めた。

 陸軍の武藤軍務局長が石渡書記官長のもとにきて、「この内閣はすでに国民の信望を失っている。すみやかに退陣したらよかろう」と言って来た。二度、三度と同じことを言ってきたという。

 石渡が、あまりにも武藤軍務局長が来るので、「それなら僕に言うより直接首相に言ってはどうか」というと、「いや、首相には会う必要は無い」とうまくかわし、「どうしても内閣が辞めないというなら、陸軍大臣を辞めさせるほかはない」と脅迫した。

 米内首相は石渡書記官長からこの顛末を聞いて「それは陸軍の代表意見であるか、武藤の個人的意見であるか」と反問したが、明確ではなかった。米内首相は、直接畑陸軍大臣に糺した。

 畑陸軍大臣は「陸軍の政治的意見は大臣のみが述べることになっている」と答えた。そして、暗に武藤軍務局長の奔走を苦々しとする態度を示した。

 だが、木戸日記によると、七月七日、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍次官(陸士一八・陸大三〇)は木戸幸一内府を訪問して、武藤軍務局長と殆ど同様の理由を述べて、米内の退陣を求めていた。これからすると、倒閣運動は全陸軍の意向とも言えたのである。

 昭和十五年七月十二日、遂に、畑陸軍大臣は、米内首相を訪問して、次の三つの意見を述べた。

 一、現情勢にては独伊と積極的に手を握り、大東亜を処理する方針に出るの要あるべし。
 二、現内閣にては外交方針の大転換困難なるにつき、より善き内閣の出現することを前提として辞職しては如何。
 三、自分は部下の統率上非常に困難なる立場にあり、また益々困難を来す状況に立至るべきを憂慮す。

171.米内光政海軍大将(11) めんどうくさい、グズグズ言ったら畑を電話口に出してください

2009年07月03日 | 米内光政海軍大将
 米内は拝辞するつもりで参内したが、御前に進み出て頭を上げた途端、天皇陛下は「朕、卿ニ組閣ヲ命ズ」
と大きな声が聞こえた。米内は、電気に打たれたようになって「暫ク御猶予ヲ」と深くお辞儀をしたまま下がった。

 廊下へ出て「どうそ、こちらへ」と案内された部屋には、湯浅倉平内大臣、百武三郎侍従長が待っていて、とても拝辞できるような状況ではなかった。

 米内光政の奏薦は湯浅内大臣一人の意思に出たと思われる。また天皇陛下の思し召しでもあった。阿部内閣崩壊前、天皇陛下は湯浅内大臣に対し「次は米内にしてはどうか」と言われた。

 天皇陛下は平常立憲的に非常に厳格で、天皇陛下自身後継内閣の選定についてイニシアチブを取られるということは全くの異例である。

 天皇陛下は、陰謀的な日独伊同盟を好まず、平沼内閣で問題が紛糾した際、不眠症で、一時葉山で静養されたこともあった。なんとか日独伊同盟を防止したいと考えられ、それで米内内閣を考えられた。

 米内自身は大命が自分に下ることを全く予期していなかった。大命降下の三日前、松平恒雄宮内大臣(後の参議院議長)の招宴の席上、そこには岡田啓介(海兵一五・海大二・元総理)、杉山元(陸士一二・陸大二二・軍事参議官)もいたが、米内は大声で、「世間で次の内閣は自分と言う奴がいるそうだが、岡田さん、そうか」と聞いた。

 岡田は「イヤ、そんなことはない」とその場を取り繕った。米内は知っていてそんな事を聞けるわけがない。だから、米内自身、お召しによって参内するときには、全く組閣の自信はなかったという。

 朝日新聞社の緒方竹虎主筆が、編集局で次期政権の情報を集めていると、突然、両国国技館で相撲見物をしていた陸軍省の武藤章軍務局長(陸士二五・陸大三二恩賜)から電話がかかってきた。

 武藤軍務局長は「いま朝日新聞の号外を見たが、大命畑大将に下るというのは間違いないか」と言った。朝日新聞では情報を分析して畑陸軍大将に間違いないと判断して号外を出した。

 緒方が号外を肯定すると、武藤軍務局長は「それでは相撲など見てはいられない」と言って電話を切った。だが、その三時間後に、畑ならぬ米内に大命が降下した。

 畑俊六陸軍大将という予想を号外で見た国民は、翌朝の朝刊で、意外にも大命は米内海軍大将に降下していたので驚いた。同じく畑大将が本命とみていた陸軍の局長、課長クラスも、海軍の米内大将と聞いてびっくりした。武藤軍務局長は、「しまった。海軍の陰謀にしてやられた」と言って悔しがった。

 米内内閣の内閣書記官長・石渡荘太郎は、畑陸軍大将にとにかく陸軍大臣として留任を求めなければと思った。陸軍省に電話をかけると、実に驚いたことに軍務局長か誰か分からないが「米内閣下がこちらへ来られるんじゃないか、さっきからご挨拶に見えるものと思って待っています」という返事だ。

 石渡はグッときたが、米内首相に、「どうなさいますか、先方が来るのが当然と思いますが」と言うと、米内首相は「めんどうくさい、グズグズ言ったら畑を電話口に出してください、私が出ます」と言った。

 それで、また陸軍省へ電話して「こちらからは伺いません」と言うと、暫く待ってくれと言って「それではこちらからお伺いします」という返事だった。大命を受けた者を呼びつけようとする態度に、陸軍の思い上がった真意が見られた。

 昭和十五年一月十六日、米内内閣が誕生した。だが、陸軍の米内内閣の倒閣運動は内閣成立の日から始められた。

 米内が総理に就任後二ヶ月を過ぎた頃から、陸軍から「秋の二千六百年奉祝式典を海軍出身の総理大臣のもとでやらせるな」という声が出た。

 有田八郎外務大臣が南方政策に関して放送をした。すると、陸軍は有田放送の内容は、外務、陸軍の間の打ち合わせと違っている。それにもかかわらず、須磨外務相情報部長が新聞記者会見で、放送の中から三国同盟問題を除いたのは、あたかも陸軍の要求ででもあるかのごとく語ったのは怪しからぬといって、須磨外務相情報部長を憲兵隊に引っ張らせた。

 そこで有田外務大臣が畑陸軍大臣に直接談判をし、話がついて外務省と陸軍とで共同声明を出すと、陸軍は新聞の内面指導をして、「外務大臣、陸軍大臣に陳謝」といった記事を書かせたりした。

 須磨外務相情報部長を憲兵隊が引っ張った時には、石渡荘太郎書記官長もその連累であるとして、憲兵の、しかも上等兵が内閣書記官長室に乗り込んできて、石渡書記官長に同道を迫るということがあった。

 余りの狼藉に米内総理もさすがに怒って、畑陸軍大臣に掛け合うと「それは引っ張るということを言っているよ」と畑陸軍大臣はまるで管轄外の問題のような顔をして、冷淡な態度であった。

 石渡書記官長の拘引は行われなかったが、一問題去れば、また一問題で、この種のいやがらせが、米内内閣の存続中絶え間なく続いたという。