陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

166.米内光政海軍大将(6) 三味線を置くなり、「負けました」と言ってぼろぼろ涙を流して悔しがった

2009年05月29日 | 米内光政海軍大将
 米内長官は、酒は強かった。一度、「米内長官のお相手をして酔っ払わせた者に褒美を出す」と言い出した人があり、照葉という芸者が「あたし受けましょう」と買って出た。

 「照葉姐さん、いくら飲んでもきちんとしているから、一緒のお座敷だとけむったい」と若い妓に言われていた位で、自信があった。米内長官と長時間差しつ差されつ、盃を重ねているうちに、照葉はついに参って米内長官の膝を枕に寝込んでしまった。

 もう一人強いのがいた。久奴という芸者で、彼女も米内長官に挑戦した。だが、しまいにはバチが持てなくなって、三味線を置くなり、「負けました」と言ってぼろぼろ涙を流して悔しがった。

 米内長官は「俺も酔ったよ。酔った」などと言ったが、実際はそれほど酔ってはいなかった。

 昭和十一年十一月二十五日、日独防共協定が締結された。だが、これが海軍省や外務省が懸念したとおり、やがて米英をも敵とする日独伊三国同盟に変身し、日中戦争とともに、太平洋戦争の要因になる。

 米内長官は日独防共協定に、「特定の国と結び、特定の国を敵視するのはいけない」と反対していた。

 だが、井上成美参謀長や練習艦隊司令官・吉田善吾中将らは、当時次の様な認識だった。

 「コミンテルンはすでに日本、ドイツを赤化の対象としている。中国における共産主義活動は活発化していて、脅威である。日本が国際的に孤立しないためには、日独防共協定を結んだほうが良い」

 だが、後に、井上、吉田も、米内とともに日独伊三国同盟締結阻止に命を賭けるのだが、米内のほうが、井上、吉田より、将来を深く洞察していたということになる。

 昭和十一年十二月三十一日、ワシントン条約とロンドン条約は期限満了となり、以後遂に世界は不穏な軍備無制限時代に突入した。

 日本帝国海軍の艦隊派と陸軍は、鎖をはずされた犬のように歓喜した。だが、日本は、皮肉なことに、日独防共協定締結と、海軍軍縮条約破棄によって、国際的孤立にはまりこんでしまった。

 昭和十一年の晩秋、寺島健海軍中将(海兵三一恩賜・海大一二)が米内長官を訪ねてきた。寺島中将は二年前、伏見宮軍令部総長(海兵退校・ドイツ海軍兵学校卒・ドイツ海軍大学校卒)と大角峯生大将(海兵二四恩賜・海大五)によって予備役に追放され、浦賀ドック社長に就任していた。

 寺島は米内に、永野の次の海軍大臣には米内が予定されていると知らせに来た。情報の出所は、寺島と兵学校同期の長谷川清海軍次官(海兵三一恩賜・海大一二次席)だった。

 翌日米内長官は井上参謀長に、それを洩らした。井上参謀長はいい顔をしなかった。「あなたは受ける気ですか」。米内は「いやだと言っておいたよ」と答えた。

 すると井上参謀長は「あなたは、今後、連合艦隊司令長官に出なければなりません。議会で議員どもから、くだらない質問でいじめつけられるよりは、連合艦隊司令長官になって、陸奥(当時の連合艦隊旗艦)の艦橋で三軍を叱咤しなさい。あとできっと、連合艦隊長官になってよかったとおっしゃるようになりますよ」と言った。

 そのあと、井上参謀長は「議会におけるあなたの大臣姿など、見ておれません」と付け加えた。

 米内長官は、一言、「やらないよ」と同意した。

 それからまもなくの十二月一日、米内光政は兵学校同期の高橋三吉大将のあとを受け、海軍中将のまま、連合艦隊司令長官に補された。

 連合艦隊司令長官は、海軍大臣、軍令部総長とならび、海軍士官最高位のポストで、海軍士官にとっては最も魅力ある職務だった。

 だが、山本五十六次官と軍務局第一課長・保科善四郎大佐らの要請により、昭和十二年二月二日、米内光政海軍中将は林銑十郎内閣の海軍大臣に就任した。五十七歳だった。

 四月、米内は海軍大将に昇進した。米内は大臣官邸でも、読書と思索にふけり、書道の稽古にも余念がなかった。国会が始まる前には、国会答弁の虎の巻ともいうべき、一問一答を海軍省の大臣官房調査課で準備する。

 これは、問題になりそうなところは必要な数字から台詞まで備えた膨大なものだった。米内はこれを熱心に勉強したので、いつも見事な答弁ができた。

 ところがある日、海軍大臣とは直接関係のないことを、赤字決算委員会から米内に対して答弁を要求してきた。こうした質問に対する答えは、例の一問一答の中にはなかった。

 質問は統制経済に関することだったが、米内は佐官時代にヨーロッパに勤務していた当時に見聞した第一次大戦の戦中、戦後の状況から説き起こし。あざやかに答弁した。

165.米内光政海軍大将(5) 『おまえ、日令読んだか』と参謀長を怒鳴りつけるところも見ました

2009年05月22日 | 米内光政海軍大将
 昭和九年十一月の異動で、米内中将は第二艦隊司令長官に就任した。米内中将は十一月十七日、横須賀在泊中の第二艦隊旗艦鳥海に着任した。

 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、幕僚室で、首席参謀・石川信吾中佐(海兵四二・海大二五)が軍縮問題や海軍のあり方について熱っぽい議論をするのを、米内司令長官は「うん、うん」と聞いている。

 米内司令長官は、政治的見解は石川中佐と正反対らしいが、言下に反論したり決め付けたりは決してしない。何か言う時は、おやじが息子をさとすような調子で「君たち、日本の兵隊は強いと思っているだろうが、日露戦争中の例から見ると、ほんとうは意外に弱いよ」というようなことを、ぽつんと言った。

 米内司令長官は、暑くても暑いといわず、寒くても寒いといわない。頑固なのか、我慢強いのか、それとも感覚がないのか、常人ではとうていできない芸当であった。

 酒は好んで飲むという風には見えないが、注げばいくらでも飲んで辞退せず、始終、形をくずさないのが不思議であった。

 食物も別にやかましいことはなかったが、特に豆腐は大好物であった。あるとき、上海の出の宴会で、米内司令長官は主賓で、豆腐の田楽をぺろりと平らげてしまった。

 空になった米内司令長官の皿を取り替えて、豆腐の田楽を出すと、また平らげる。次から次に、豆腐の田楽を平らげて、七、八人分は食べたという。

 昭和十年十二月二日付で、米内中将は横須賀鎮守府司令長官に補された。参謀長は井上成美少将(海兵三七恩賜・海大二二)である。翌年の昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が勃発した。

 「昭和の名将と愚将」(半藤一利・保坂安正康・文芸春秋)によると、二・二六事件が勃発した時、米内司令長官は、築地の芸者のところにいて、横須賀にはいなかったという。

 事件の一報を聞いたのは、井上参謀長で、当の米内司令長官は、次の朝、連絡を受けて、あわてて横須賀線の一番列車で帰った。カミソリと言われた井上参謀長が万事心得ていて、あたかも米内長官が横須賀にいるように振舞って、事なきを得た。

 朝九時頃のんびり鎮守府に現れた米内司令長官を見て、事情を知らない者達は、大きな事件が起きているのに動じない、器の大きな人だと感心したという話もある。後に大臣と次官で名コンビと言われた米内、井上の二人の関係は、この頃から確立されていた。

 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、横須賀鎮守府では、事件に対する長官の訓示を行うことになった。起案するのは先任参謀の役目だが、先任参謀・山口次平中佐(海兵四一)も副官らも、陸軍の決起部隊を、一体何と呼んでいいか見当がつかずにいた。

 その時、米内長官は一言、「叛乱軍」と、少しもためらわずに言った。

 そして「今回の叛乱軍の行動は、絶対に許すべからずものだ。横鎮管下各部隊の所轄長を参集させろ。それまでに、これを印刷に付しておくように」と自分で書いた訓示を副官・阿金一夫大尉(海兵五二・海大三六)に渡した。これで横須賀における海軍部隊の動揺は完全に抑えられた。

 副官の阿金大尉は横須賀鎮守府で永野修身、末次信正、米内光政、百武源吾の四代の長官に仕えた。阿金大尉は歴代の司令長官や参謀長の感想を次の様に述べている。

 「まあ、一番やかましかったのが末次さんで、自動車の中で『おまえ、日令読んだか』と参謀長を怒鳴りつけるところも見ました。また、昔、第一水雷戦隊司令官当時、艦長に白墨投げつけたのも見ています」

 「そのあとの井上成美参謀長は、これまたさわったら切れそうな、剃刀みたいな感じで、ものを言いに行くのがこわかったですが、長官の米内さんときたら、二・二六事件のようなことでもなければ、普段はまことに穏やかな、いつもにこにこしていて、慈眼衆生を見る仏様の如き長官でしたな」

 だが、米内司令長官は、締めるところは締めていた。近く首になる某大佐が、「葉隠」に関する所見を書いて、印刷の上隷下に配布したいと申し出た。

 井上成美参謀長が「所轄長かぎり参考として閲読させるならよろしいと思います」と意見を付して米内長官に廻した。ところが米内長官は読後、「葉隠は自殺奨励だよ。危険だからいけない」と返したという。

 横須賀で少将、中将級の海軍の宴会といえば、たいてい「小松」が使われた。米内長官もよくやってきた。米内長官は、酒は強かった。米内長官と双璧の美丈夫、横須賀工廠長の古市龍雄少将など、あだ名を「浅草紙」といい、酔うとくしゃくしゃになってしまうが、米内長官は少しも崩れなかった。

164.米内光政海軍大将(4) 以後米内と末次は、会っても口もきかない犬猿の仲になった

2009年05月15日 | 米内光政海軍大将
 演習を展開中は、演習の想定や構成などが、司令部から信号で伝えられる。その内容について疑義があったのか、米内艦長は、司令部の先任参謀に信号でただした。

 先任参謀は、司令部の威信にこだわったのか、米内の意見をいれて命令を改めることをせず、こじつけがましい返事をした。

 すると米内艦長は、いつもの沈黙を破って、少々度が過ぎると思われるほど自説を主張してゆずらなかった。はたにいた候補生は、こうした艦長の態度を、けげんな顔をしてみつめていた。

 やがて、演習は終わった。米内艦長は、候補生を集めて次の様に訓示した。

 「諸君は将来、艦長や幕僚になるのであるが、陛下からおあずかりした艦の保安については万全を期さねばならぬ。艦の運動については、けっしてあいまいなことは許されない」

 実松と兵学校同期の正木生虎候補生(後、海軍大佐、戦後、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の先生)が「死」の問題で悩んでいた。自分の死だけでなく、部下の死にも直面する指揮官たるものの苦悩であった。

 この遠洋航海で、正木の念頭から「死の問題」は離れなかった。かれは悩み続け、神経衰弱症状の様相だった。そんな時、正木は米内艦長から呼ばれた。

 艦長室に入ると、米内艦長は笑顔で「どうだ、正木候補生、君はなにか深く考えこんでいるんじゃないか」と言った。正木候補生は気持ちがほぐれ、「死の問題」を打ち明けた。

 米内艦長はじっと、耳を傾けていたが、「考えることはいいことだ。だがあまり眼を近づけすぎると、かえって実体が良く見えないものだ。時には眼を遠ざけたほうがいい。また、瞬きもしないで見つめると、眼がつかれて、対象がぼやける。すこし時間をおいて考えなおしてみたらどうか」と言った。

 そして、「これを読んでみたまえ」と、半紙二枚に毛筆で書いたものを正木候補生に渡した。「心の力」という書物から摘記したもので次の様に書かれていた。

 「心はこれ身の王 王に威ありて国泰し 心を尊び心を養ふ その徳即ち身に現す 疫癘もこの人を襲わず 毒蛇もこの人を螫さず 昼は煩ひ無くして居泰く 夜は夢無くして睡り穏なり 出る息よく律に合し 人る息よく呂にかなふ 精力毛髪の末に溢れ 顔色常に嬰児の如し 眼曇らす足迫らず 晴天を戴き天地を踏む 行けば端気これを譲る 妖気いかでか犯さむ 語ればこの声雲に徹す 天童耳を傾けて聴かむ」

 正木候補生はこの「心の力」を、何度も何度も読み返しているうちに、神経衰弱は回復していった。

 軍艦磐手が横須賀軍港に停泊していたときのこと。あるとき米内艦長が鎮守府に用があって、艦載汽艇に乗り、百メートルほど舷側を離れたとき、本艦から、「帰れ」という信号があった。

 艦長の乗艇に対して帰れというのだから、よほどの事件でも突発したのだろうと、急いで戻った。すると信号をしたのは副長で、乗り遅れた士官を乗せるためと分かった。

 このときは、米内艦長は怒った。上陸を中止した米内艦長は副長を艦長室に呼びつけ、厳然と訓戒した。「いやしくも艦長の乗艇を、こうした理由で呼び戻すとはなにごとか。軍規の上からも許しがたい」。副長は軽率を詫びたという。

 昭和七年五月十五日、海軍の青年将校、陸軍士官学校生徒、民間人らによる五・一五事件が起き、犬養毅首相が暗殺された。

 後に末次信正海軍中将(海兵二七・海大七)が第二艦隊司令長官で鎮海に入港した時、酒の上で、米内中将と末次中将が口論となった。

 日頃おとなしい米内中将が、「五・一五事件の陰の張本人は君だ。ロンドン会議以来、若い者を炊きつけてああいうことを言わせたり、やらせたり、甚だけしからん」と二期先輩の末次中将の胸ぐらをつかんで詰め寄った。

 末次中将は憤然としていたが一言も言葉を返さなかったという。以後米内と末次は、会っても口もきかない犬猿の仲になった。昭和八年の海軍の定期異動で末次中将は連合艦隊司令長官、米内中将は佐世保鎮守府司令長官に補された。

 小島秀雄中佐(海兵四四・海大二三)が海軍省副官だったとき、米内佐世保鎮守府司令長官から一通の手紙が副官宛に来た。開いて見ると義済会の金の借用申込みであった。

 米内司令長官は父親の遺した借金を背負って、軍人になって以来ずっと返済していた。だから中将になり、鎮守府司令長官になっても貧乏は少しも変わらなかった。さらに公用以外の宴会費はすべて自弁であったので、階級が進めば進むほど料理屋の払いも増えてくるのだった。

 佐世保鎮守府司令長官ともなれば、部外の友人や知己から借りようと思えば幾らでも借りることはできるが、米内はそういうことは決してしなかった。これ位の地位にいて義済会に借金を申し込んだ者は、恐らく前後にないだろうと、副官はすっかり感激したという。

163.米内光政海軍大将(3) ナニ、艦長はおれをよい士官にしてやろうと思って鍛えて下さるんだ

2009年05月08日 | 米内光政海軍大将
 しかし、日露戦争時、旅順港口閉塞隊の指揮官であった有馬校長は「ほう、そうかね」と、「面白いことをやりおる」という顔をしただけで、あとは何も言わなかったという。

 「米内光政」(高宮太平・時事通信社)によると、米内光政は明治三十四年十二月、海軍兵学校を卒業すると、少尉候補生となり練習艦隊の金剛に乗って遠洋航海に出発、オーストラリアなどをまわった。半年後横須賀に帰り、今度は軍艦常盤に乗り組みを命じられ、明治三十六年一月海軍少尉に任官した。

 常盤艦長の野元綱明大佐(海兵七)はどういうものか、米内少尉をいじめた。たぶん牛のように鈍重なのが気に入らなかったのだろう。それでずいぶん無理な作業を命じたり、叱ったりした。

 誰が見ても艦長の言うことが無理だから、同級生たちは「なぜ米内をあんなにいじめるのか」と、艦長を恨むやら米内に同情するやら、いつも艦内の話題になっていた。

 だが米内少尉はケロリとしていた。「ナニ、艦長はおれをよい士官にしてやろうと思って鍛えて下さるんだよ」と少しも苦にしない。同級生は「あいつ、まったく鈍感だよ」と歯がゆがった。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、米内中佐は、軍事視察のためロシア国出張を命じられ、大正七年八月九日付で軍令部参謀の資格で浦塩派遣軍司令部付を命じられた。浦塩はウラジオである。

 ロシアは革命勃発のため無政府状態になり、シベリア方面は治安状況が悪化したので、米国も日本に出兵を要請してきたので、八月二日、大谷喜久蔵陸軍大将(陸士旧二)を派遣軍司令官に、沿海州からザバイカル地方まで軍を進めた。海軍も陸軍の作戦に協力した。

 米内中佐の任務は特務機関長とも言うべきもので、下に少佐二人、大尉二人がいた。浦塩には、三笠を旗艦とする第五艦隊が碇泊し、その司令官は加藤寛治海軍少将だった。

 米内中佐の配下にハルピン駐在の杉坂悌次郎海軍少佐(海兵三三)がいた。杉坂少佐は、羽振りのよい陸軍のハルピン特務機関と違って、経費はなし、組織もなく、酒も飲めず憂鬱な日々を送っていた。

 そんなある日、米内中佐から突然、三百円が届けられた。米内は自腹を切って送ってくれた。杉坂は感激して、後で「これだけは受け取れません」と返却した。

 それから、杉坂少佐は、他の駐在員らと、米内中佐のところへ報告を兼ねて浦塩の米内中佐のところへ出かけて、酒をたんまり飲んだ。

 杉坂少佐は、ロシア関係、満州関係情報、陸軍情報など詳細を米内中佐に報告した。また、杉坂少佐は米内中佐とともに加藤司令官にも報告した。

 そのような時、加藤司令官は陸軍との対立感情を露骨に現し、まるで杉坂少佐が陸軍の謀略を阻止しないのは怪しからんというような調子で叱り飛ばした。

 側で聞いている米内中佐は宿舎に帰ると、「司令官はああいう御性格だから少しも気にかけることはないよ」と慰めてくれた。近くにいても米内中佐は特別な用事がない限り加藤司令官を訪ねることはなかった。

 加藤司令官はそれが気に入らない。そこで杉坂少佐の報告に事よせて米内中佐をも叱っていた模様だった。けれども米内中佐はそれが判っていても、空と呆けて聞き流していたという。

 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、大正十二年三月、米内光政は軍艦磐手艦長に補された。六月、磐手は八雲、浅間とともに練習艦隊に編入された。

 七月、海軍兵学校、機関学校、経理学校を卒業して少尉候補生となった四百三十五人を乗せて、練習艦隊は遠洋航海に出た。著者の実松譲も海兵五一期でこの遠洋航海に参加した。実松は磐手乗組みで、初めて艦長の米内光政と出会っている。

 米内艦長は、候補生の指導については、ことのほか熱心だった。旅順、大連の見学について、艦長は候補生に所感を提出させた。

 機関科候補生・吉田純二の所感の中に、「Might is right(力は正義)」という文字があった。これを見た米内艦長は、次の要旨の批評を半ページにしたためて、吉田をいましめた。

 「日本海軍は正義の後ろ楯となるものであって、力すなわち正義ではなく、また、そうあってはならぬ」

 南洋方面を航海中のことであった。ある日、エメラルド色の海上で三隻の練習艦が、敵味方に分かれて演習を展開していた。

162.米内光政海軍大将(2) しかし米内は、政治は駄目だよ。米内じゃ部内にも部外にも受けないだろ

2009年05月01日 | 米内光政海軍大将
 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、前述のように、昭和十二年二月二日の米内海軍大臣実現の推進者は、保科善四郎大佐と山本五十六次官だった。

 米内と同期の高橋三吉(海兵二九・海大一〇)や藤田尚徳が大将になっているのに、米内はまだ中将だったが、序列を考えている場合ではなかった。

 海軍省軍務局第一課長の保科善四郎大佐は「このむつかしい時期に、海軍大臣を引き受けてもらうのは、まず私心の無い人、勇気のある人、これが第一条件と思うが」と、課長連中の意見を聞いてまわった。

 保科大佐自身は米内中将なら自信を持って推薦できるし、米内さん以外に人はいないと思っていた。山本五十六次官から「各課長の意見、どうだ」と聞かれたので、保科が「中には、米内さんに今政治的な傷をつけてはいかん、連合艦隊司令長官として洋上に留まってもらうべきだ、という意見もありますが、大体は米内中将でまとまっています」と答えた。

 保科大佐が「ただ海相永野修身大将(海兵二八次席・海大八)が留任を望んでいる気配が見えます。辞めてくださいとは申し上げにくい」と言うと、「君たちのまとまった意見として言え」と山本次官がけしかけた。

 保科大佐は永野大将のところへ行って「この際海軍の伝統を保持するには、よほどの勇断を以って新しく事にあたれる人が必要で、米内中将と交替していただきたい」と持ちかけた。

 永野大将は、承知しながらも「しかし米内は、政治は駄目だよ。米内じゃ部内にも部外にも受けないだろ」と答えた。

 保科大佐は米内中将を東京の自宅に訪ねた。「永野海相の使者として参りました。次期内閣の大臣にご出馬願えるかどうか伺ってこいとのことでございます」という保科大佐の話を、米内中将は黙って聞いていた。イエスともノーとも言わなかった。

保 科大佐は海軍省に帰って、永野海相、山本次官の両人に「お受けになる意思はあると思います」と報告した。昭和十二年一月末日、米内連合艦隊司令長官は組閣本部から電話で上京を求められた。

 山本次官は保科大佐のように米内中将に部下として接した経験は無かったが、大尉時代に同じ職場になって以来、その人格と識見に惚れ込んでいた。もし米内が断れば「お国のためです」と説得するつもりだった。

 海軍では年功序列、ハンモック・ナンバー(海軍兵学校卒業席次)を重視した昇進制度が確立されていた。加藤友三郎以後歴代海軍大臣はみな兵学校恩賜組か恩賜に近い人ばかりで、米内中将みたいに、六十八番などというのはいなかった。

 米内中将を大臣にしたのは、山本次官の英断だった。こうして昭和十二年二月二日、米内光政中将の海軍大臣就任が実現したのだった。

 だが、米内中将は、朝日新聞主筆の緒方竹虎(後に衆議院議員・自由党総裁)に、すこぶる面白くない面持ちで「今度は軍人から軍属に転落ですか」と言った。海軍大臣に就任後四月一日、米内光政は海軍大将に昇進した。

 米内中将のあとの連合艦隊司令長官には、永野修身大将がお手盛りで引き継いだ。永野大将は旗艦の戦艦「陸奥」に着任した。

 「米内光政」(生出寿・徳間文庫)によると、明治四十四年十二月、高野(山本の旧姓)五十六大尉は、海軍砲術学校教官兼分隊長となった。

 同じ教官に兵学校で三期上の米内光政大尉がいた。一メートル六十センチ余りの小柄で才気煥発ですばしこい高野大尉と反対に、米内大尉は大柄で平々凡々で鈍重であった。

 高野大尉の海軍兵学校第三十二期の卒業席次は百九十一名中十一番だった。同期には、一番の堀悌
吉、二番の塩澤幸一、十二番の吉田善吾、二十七番の嶋田繁太郎らがいる。

 米内大尉と高野大尉は、互いに自分にない良さを認め。水と魚のように親しくなった。米内大尉は山本大尉の茶目っ気を愛した。

 若い二教官は一つの部屋にベッドを並べ起居を共にしていたが、やがて、手裏剣投げの競争をし始めた。室外のゴミ箱に的の図を貼りつけ、それに腰の海軍短剣を抜いて投げる競争を始めた。

 ところがその物音がひどくデカいので、周囲の人々を驚かせた。また、ゴミ箱を壊すので、校長副官から文句をつけられ、校長の有馬良橘少将(海兵一二・後海軍大将)に報告された。