陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

58.田中隆吉陸軍少将(8) 東條首相は武藤軍務局長のロボットである

2007年04月27日 | 田中隆吉陸軍少将
 民政党の長老俵孫一氏は田中少将に「政党の解消と単一政党の出現は国民の正しき批判力を抹殺するものである」と語った。

 大政翼賛会に反対の急先鋒で、唯一現役陸軍中将の代議士であった原口初太郎氏は反対代議士の座長となって奮闘を続けていた。

 このため東條陸相の逆鱗に触れ、東條陸相は「原口を剥官せねばならぬ」と息巻いた。田中少将は阿南次官とともに極力これを阻止し、成功した。

 戦後、原口氏は田中少将に「あの時むしろ剥官されればよかった。そうすれば、それを導火線にして東條や武藤の輩を増長させなかったのに」と語った。

 田中少将は大政翼賛会を政治の圏外におき、以って軍の政治的進出を阻止する事を決意した。

 昭和16年1月中旬、田中少将は国体破壊を企てる疑いのある将校一名を憲兵の手により検挙し、召集を解除し、警視庁に引き渡した。

 これにより、警視庁は大政翼賛会の内部に手を入れ、厳重な取調べを行った。こうして大政翼賛会は平沼内相により、公事結社の断を下されその政治力を奪われた。

 この悪質将校の検挙は武藤軍務局長からすごい抗議があった。警視庁への引渡しにも部内の一部からごうごうたる非難があった。だが田中少将はこれを断行した。

 「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)によると、東條内閣の外務大臣大橋忠一氏はしばしば連絡会議に出席し、統制派の中心人物武藤章軍務局長と接する機会があった。

 連絡会議で東條首相が欠席の場合には、武藤軍務局長が眼鏡をはずしてメモを取る東條首相の真似をして、東條首相を馬鹿にするような態度をとるのを見たという。

 特に会議における東條首相の発言が、すべて武藤軍務局長の方針から出ているのを知り、東條首相は武藤軍務局長のロボットであると悟ったという。

 東條首相は政治、外交、経済の運用は概ね武藤軍務局長の画策に従順であったと言う。その豊富な体験と明敏な頭脳は、到底東條首相の及ばざる所であったからである。

 東條陸相が次官の時、板垣陸相がその更迭を断行した最も大なるものは次のような理由であった。

 昭和14年8月、東條次官は軍人会館で、在郷軍人の集会の席上「支那事変解決のためには、対ソ、対英米の二正面作戦も辞さず」と豪語し、之が広く世間に流布さられたためだった。

 参謀総長の重職にある杉山大将は、東條陸相の前には全く猫の如く無力であった。だから参謀本部は東條陸相の意のままに動いたのである。

 また、当時、東條陸相の勝子夫人は賢夫人の評はあったが、「要職に就かんとすれば先ず勝子夫人に取り入れ」と流行語になったほどだった。勝子夫人は東條陸相の最高の政治幕僚であったと田中少将は述べている。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、昭和16年10月中旬、第三次近衛内閣にかわって、極めて短時間に東條内閣が成立した。

 組閣の数日後に、陸軍省で局長会報があった。兵務局長の田中少将は「この内閣には癌がある。それは星野、鈴木、岸の三人だ」と一矢を放った。

57.田中隆吉陸軍少将(7) 支那事変を解決せんとする陸軍の巨星は全て葬り去られた

2007年04月20日 | 田中隆吉陸軍少将
 翌日板垣大臣は田中大佐を大臣室に呼び、しみじみと「自分は貴公の言うことが一番良い事を知っている」と言った。

 そのあと板垣大臣は、続けて「然し満州事変で死生を共にした石原は、自分の手で処分する事はできない」と語った。田中大佐は思わずホロリとしたという。

 昭和15年7月22日、第二次近衛内閣成立で、東條英機中将は陸軍大臣として登場した。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると中国の第一軍参謀長から兵務局長に転任になった田中少将は昭和15年12月10日に、阿南次官を訪問後、東條大臣に着任の申告をした。

 その時東條大臣は田中少将に「石原を議会前に待命にする」と断言した。

 田中少将は「来年の3月の定期異動まで待ってしたほうが良い」と極力反対した。

 その後も田中少将は石原中将の人材を惜しんでしばしば東條大臣に待命の不可なる事を進言した。

 だが東條大臣は昭和16年1月末、ついに石原中将の待命を内奏した。3月石原中将は待命になった。

 田中少将は東條大臣が独断で石原中将を待命にしたことが洩れたら大変であると思った。

 それで、軍紀風紀の監督の任にある兵務局が「石原中将は軍の統制に服せず」と大臣に意見具申をし、これに基づいて大臣が行った事にする方針にした。

 そうしたら部内は石原中将と田中少将が仲が良いのを知っているから、円満におさまるだろうと考え、それを宣伝した。

 このため田中少将は石原中将に好意を有する部内外から様々な悪罵を浴びせかけられた。こうして石原中将は現役を去った。

 多田大将も昭和16年8月予備役になった。板垣中将も7月、大将に昇任と同時に朝鮮軍司令官として京城に追いやられた。

 こうして速やかに支那事変を解決せんとする陸軍の巨星は全て葬り去られた。

 東條大将も板垣大将も、戦後東京裁判でともにA級戦犯として死刑判決を受け、昭和23年12月23日、刑死した。

 田中少将は兵務局長着任の翌日省内各局長の許へ挨拶に行った。

 その時武藤章軍務局長は田中少将に「今年の議会では憲兵で議場を包囲し、悪質の議員を捕えてくれぬか」と言った。

 田中少将は冗談にも程があると思った。様々な人に会って事情を聞いてみると、その頃問題となっていたのが大政翼賛会であった。

 武藤軍務局長はこの大政翼賛会に反対の代議士を捕えよということであった。

 それでは大翼賛会とはなにか。その幕僚は親軍代議士であり、イデオロギー官僚であり、これを操縦したのが矢吹一夫氏であった。

 その意図は挙国一致の美名の下に一切の政党を解消して大政翼賛会の下に結集し、これにより国民に号令を発して体制を整えんとするものであった。

 換言すれば一国一党を目指すものであって、実はドイツナチスの模倣であった。

 そして、その中心にいたのが陸軍省の武藤軍務局長であった。

56.田中隆吉陸軍少将(6) 板垣陸相には、今後敬礼を行わず

2007年04月13日 | 田中隆吉陸軍少将
 ソ連にはゲーペーウーがあり、ナチスドイツにはゲシュタポがあった。日本では憲兵が全体主義国家の反対勢力を封殺するための役割を果たした。

 憲兵がその本来の任務を離れて政治的に活動し始めたのは、昭和6年12月に荒木貞夫氏が陸軍大臣になってからである。

 時の憲兵司令官は秦貞次陸軍中将であった。秦中将は荒木大臣と真崎甚三郎参謀次長の寵児であった。

 憲兵は宇垣系の軍人、政治家の行動を監視し、憲兵隊に拘留して威嚇した。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると、田中大佐が昭和13年12月来兵務課長に就任した時、多田参謀次長と東條陸軍次官の大喧嘩があった。

 支那事変解決のためには、対ソ、対英米作戦をも辞せずと主張する東條陸軍次官。

 いかなる手段を以ってしても支那事変を急速に解決せざれば、日本の将来は危うしと主張する多田参謀次長。

 この二人は最後までともに譲らず、とうとう意見の相違が感情の衝突までに発展してしまった。

 結局、多田参謀次長、東條陸軍次官は、ともに中央を去ることになった。これは当時の板垣陸軍大臣の喧嘩両成敗の結果であった。

 部内の空気は東條次官に共鳴するものが多く、東條次官の転出に多大な不平を抱いていた。

 その結果、多田参謀次長と主張を同じうする板垣陸相には、今後敬礼を行わずと称する乱暴きわまる幕僚連中も出て来た。

 もう一件は石原莞爾中将問題であった。左翼の大物、浅原健三氏は石原中将と仲が良く、多田中将、板垣陸相とも交わりが深かった。

 浅原氏は東京憲兵隊に拘束され取調べ中であった。浅原氏は林銑十郎内閣成立の裏面の立役者でもあった。

 浅原氏の取調べは昭和14年4月に終わった。その要点は、多田次長、特に石原中将は共産主義者たる浅原氏に利用せられ、共産革命を行わんとしたという点であった。

 当時石原中将は徹底した支那よりの即時撤兵論者である。重慶政権の武力による撃滅を叫ぶ中央の中堅将校は石原中将の意見を好まない。

 浅原事件を理由に石原中将の徹底処罰を要望する者が多かった。東條中将は次官から航空総監に転出後も兵務課長の田中大佐にに対し執拗に石原中将の要求し続けた。

 事件の調査は憲兵の直接監督者たる防衛課長の渡辺大佐により行われた。調査の結果、大部分が虚構の事実と判明した。

 7月に入ってノモンハン事件が重大化し浅原事件は忘れられた形になった。

 田中大佐は、この機に問題を解決しようと兵務局長・中村明人中将と協議した。

 その結果「たとえ浅原事件が虚構のものとしても、石原中将に、軍人として不謹慎な言動があった。故に最も軽き処分にして事件を解決し将来に禍を残さぬほうが穏当である」との趣旨を板垣陸相に進言した。

 ところが板垣大臣は血相を変えて「何たる事を言う。こういう陰謀は許されない。こういう陰謀を行った者はそれが、航空総監たると、憲兵隊長たるとを問わず、断固としてくび馘首する」と頭から田中大佐を叱りつけた。

 田中大佐は「今、この処分をしないと、将来再燃する」と言って退去した。

55.田中隆吉陸軍少将(5) 田中は次第に反武藤と同時に反東條となった

2007年04月06日 | 田中隆吉陸軍少将
 元々田中は東條の推挙で兵務局長に就任した。両者の関係はある時期まで極めて緊密なものがあった。田中こそは東條の憲兵政治の一翼を担った一人とされている。

 派閥次元でいうなら、田中は統制派の系列に属し、武藤章とともに東條の懐刀的存在であった。

 だが時と共に田中と武藤の意見は対立して行き、確執となった。それが表面化したとき、田中は次第に反武藤と同時に反東條となった。

 田中は「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)の序のはじめに「私は軍人の落伍者である」と述べている。

 昭和13年12月から17年9月まで4年間、田中は陸軍省兵務課長、兵務局長として、軍の中央にいた。これは支那事変の中期以降と太平洋戦争の初期にあたる。

 田中は冷静に仔細に軍中枢部の動きを眺めており、それらを、東京裁判と著作で暴露した。

 田中は兵務課長と兵務局長の間に、昭和15年1月に陸軍少将に昇任し3月、中国山西の第1軍参謀長に就任している。

 そのとき、田中は日支事変の解決のため裏工作を行い、11月下旬に敵の司令官と接触するところまで漕ぎ着けていた。

 丁度その時、杉山、畑両大将が相次いで山西に視察に来て、田中に12月初旬、兵務局長に転任し陸軍省に帰る予定である事を告げた。

 田中は当惑した。田中が兵務課長のとき部内を騒がした浅原事件が東條陸相の登場により、東條陸相が満州派である板垣、多田両大将と石原中将を中心とするグループに対する圧迫を加え部内が混乱していた。

 田中少将は南京にいた板垣大将に相談した。板垣大将は日支事変解決工作の中途であり残念だが、陸軍の統制のため渾身の努力をするよう田中を激励した。

 田中は工作を急ぐ事にし、全力を尽くしていたが、12月1日、東條陸相から電報が来て、至急陸軍省に帰るよう命令が来た。

 田中は心ならずも内地帰還の途についた。列車の中に同乗した将校が、将官たる田中に敬礼を行わないのが多いのを見た田中少将は日本軍の軍紀も支那軍と同様になったと思った。

 12月10日東京に帰ると田中少将は、その足で、大正14年来親しい間柄である阿南陸軍次官を訪ねた。

 田中少将は阿南次官に「なぜ過早に私を兵務局長に転補せられたか」と言った。

 阿南次官は「自分も君が怒ると思い、大臣に対し時期尚早なりと進言したが、大臣が独断で決めてしまった。部内は石原中将の問題や、北部仏印進駐の際に於ける独断越境問題で相当にゴタゴタしている」と述べた。

 さらに「大臣は君を警戒し信用していないが、この際君の持つ力が欲しいのだ。大臣は極めて感情的だから大に注意を要する。僕もつくづく嫌になったから近く次官をやめて第一線に出るつもりだ」とも言った。

 さらに後日、阿南次官は田中少将を呼んで「大臣にも困る。憲兵に対し、直接自ら命令して之を濫用する」と言った。