陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

392.真崎甚三郎陸軍大将(12)真崎大将は「こんな状袋などを持って来て」と怒鳴った

2013年09月26日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 三長官会議の後、林陸相は真崎教育総監不同意のまま内奏せざるを得なかった。その日の午後四時、林陸相は天皇陛下の御裁可を仰ぐべく葉山の御用邸を訪れることにした。

 「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、林陸相の車には、大臣秘書官・有末精三(ありすえ・せいぞう)少佐(北海道・仙台陸軍地方幼年学校・中央幼年学校・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・航空兵大佐・軍務局軍務課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・終戦後対連合軍陸軍連絡委員長・日本郷友連盟会長)が同乗して、葉山の御用邸に向かった。

 真崎教育総監罷免について、林陸相は有末少佐に「有末、陛下が否と言われたらどうしたものだろうかネ」と言った。

 有末少佐は「そうなれば大臣が辞職するより他に途はないように思われますが」と答えると、林陸相は「もちろん、私は辞表を書いて懐に入れている」と言った。

 葉山御用邸に着いて、林陸相はまず、侍従武官長・本庄繁(ほんじょう・しげる)大将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵第一一連隊長・張作霖軍事顧問・少将・歩兵第四旅団長・支那駐在武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・勲一等瑞宝章・侍従武官長・大将・功一級金鵄勲章・勲一等旭日大綬章・大勲位蘭花大綬章(満州国)・男爵・枢密院顧問・終戦後自決)に会った。本庄大将は次のように言った。

 「元帥会議を招集されるかも知れない空気ですが、梨本、閑院宮 両元帥宮殿下から陛下に上奏し、話がついているのかも知れません」。

 梨本宮元帥には林陸相が直接報告をしていた。林陸相は早速御前に伺候して勅裁を請うた。暫くして御前を退下してきた。有末少佐が帰りの車中で事情を聞くと林陸相は次のように言った。

 「陛下は二つ返事でよろしいと言われて御璽(ぎょじ=天皇の印章)を賜った。そして軍事参議官への転補でよいのかと御下問があったぐらいだったのでホッとした」。

 東京へ帰ってくると、大臣官邸には次官、人事局長以下が待機していて、今晩中に真崎教育総監に内命を伝えなければならぬということになった。

 誰も尻込みしているので、遂に補任課長・加藤守雄(かとう・もりお)大佐(東京・陸士二四・陸大三二・陸軍省人事局補任課長・歩兵第三四連隊長・舞鶴要塞司令官・少将・仙台陸軍幼年学校長・死去)が北沢の真崎邸に行くことになった。

 ところが、加藤補任課長が帰って来て報告することによると、玄関先で真崎大将は「こんな状袋などを持って来て」と怒鳴った。そして、加藤補任課長につき返したとのことだった。

 そこで、真崎大将と顔見知りの有末少佐が「とりあえず次官の先ぶれで私が真崎閣下に会ってお話してみましょう」と言って行くことになった。

 有末少佐が真崎邸に行くと、真崎夫人も有末少佐の知った仲なので、応接間に通された。真崎大将がむつかしい顔をしているので、有末少佐は次のように言った。

 「閣下、人事のまわり合わせですから御了承下さい。今正式に次官が参りますのでよろしくお願いします」。

 すると、真崎大将は「承知した」と言った。そこで、陸軍次官・橋本虎之助中将が、秘書官・小松光彦(こまつ・みつひこ)少佐(高知・陸士二九・陸大三八・兵務局兵備課長・三国同盟委員・ドイツ武官補佐官・少将・ドイツ駐在武官・中将)を連れて再び真崎邸へ向かった。

 帰って来ての話によると、流石に真崎大将の態度は立派で、勅命を受ける態度で正式軍装に勲章を付けて、橋本次官を上座に据えて、謹んで内命を受けたということだった。

 結局、この問題が、真崎大将の方から内容がどんどん青年将校の間に広まり、それがまた怪文書になってばらまかれた。

 「それに尾鰭をつけて、特に永田軍務局長と三月事件や十一月事件をとりまぜ、特に永田軍務局長の私行など所謂怪文書がばらまかれて相沢中佐の凶行にまで及んだのでありましょう」と有末精三氏は語っている。

 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、従来、教育総監の更迭があった場合には、恒例として新旧教育総監の挨拶程度で終わる非公式の会同だった。

 だが、昭和十年七月十八日の軍事参議官会同は、時が時だけに異例の緊迫した空気のなかで開かれた。

391.真崎甚三郎陸軍大将(11)自分(閑院宮)に向かって、臣下のお前は反対をするのか

2013年09月20日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、七月十四日、真崎大将は林陸相を訪ねて、次のように言った。

 「もしこの人事を断行すれば、総長殿下の御徳を傷つけるのみならず、至尊に累を及ばし奉るべきことをおそれる。自分はいかになるとも少しも差し支えないけれども、総監たる地位に対して考えてもらいたい」。

 これに対して、林陸相は「次官、次長、人事、軍務両局長ら自分の幕僚は、ここまで来た以上は断行のほかないという」と答え、「君も今度の問題では、いろいろ他より迫られて困るだろう」と同情するように言った。

 これを聞いた真崎大将は憤然として「自分は他人から言われてするのではない。深い信念を持っているから困ることはない」と強く言い切った。

 林陸相はたじろいで「もし総長殿下の思し召しが緩和するようなことがあれば、自分も再考しよう」と述べた。

 昭和十年七月十五日、三長官会議の始まる一時間位前、林陸相は真崎大将に会見を申し込んだ。林陸相は会議の紛糾を避けるために、次のように提案した。

 「君が総監の職を退くことを納得してくれれば、他の八月異動案は全部君の思い通りにやる」。

 これに対して、真崎大将は即座に拒否したという。林陸相の予備交渉は失敗した。

 いよいよ本番の三長官会議が始まった。参謀総長・閑院宮元帥、林陸相を前にして、真崎教育総監は第一回に引き続き、粛軍の本質を説き、その完成は三月、十月事件の適切なる処断なくしては絶対にあり得ないと論を尽くして長々と主張した。

 すると、閑院宮元帥は、満面朱を注いで、「教育総監は事務の進行を妨害するのか」と真崎教育総監を叱責した。

 これに対して真崎教育総監は次のように答えた。

 「小官卑賤なりといえどもかかる淋しき思想を有せず。小官は日本人民として、皇族の長老にてあらせらるる殿下の御意に副い奉ることをえざるは実に苦しく、只今ここに身の置き所を苦しみつつあり」

 「いかでか殿下に抗争する不都合なる精神を有せんや。しかれども小官は、天皇陛下の教育総監として、教育大権輔弼の責に任ずる者なり」

 「しかるに今陸軍の本義たる大綱が絶たれんとしつつあり。小官これを同意することはできがたし。もしこれを強行せらるるときは軍は思想的に混乱し、これが統一困難なるべし。只今ここにて即決せられずとも、二、三日互いに研究する余裕を与えられたし」。

 これに対し閑院宮元帥は最後に次のように言った。

 「このままにて行けば何事か起こるやも知れざれども、その時には、これに対応する処置も大臣にあるべし。このままにて行かん」。

 真崎大将の情理を尽くした反論も、追放という既定路線をくつがえすことはできなかった。真崎大将は辞任を承諾したわけではなかったが、抵抗を中止した。こうして三長官会議は終わった。

 「英傑加藤寛治」(坂井景南・ノーベル書房)によると、戦後、著者の坂井氏が寺田武雄と共に、世田谷の真崎邸を訪ねた。

 そのとき、真崎甚三郎元大将は二人に向かって、教育総監罷免問題の三長官会議当時のことについて、次のように語った。

 「自分(真崎)は閑院宮と喧嘩をしたのがたったのだ。あのとき閑院宮に対し、『自分(真崎)も教育総監として、大元帥の幕僚長であるから、信ずるところをお上に申し上げねばなりません』と言ったところが、閑院宮は烈火のごとく怒って、『皇族の長老であり、陸軍の最先任である自分(閑院宮)に向かって、臣下のお前は反対をするのか』と言われ、ついに決裂したのだ」。

 閑院宮と仲違いしたためでもなかろうが、真崎大将は伏見元帥宮の親任の厚かった加藤寛治海軍大将にたびたび衷情を披瀝して、加藤大将を通じて伏見宮の諒解を得るとともに、宮中の信任を保ちたかったのではないかとも想像される。

390.真崎甚三郎陸軍大将(10)教育総監のなり手がないなら、俺がなってやる

2013年09月12日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 だが、昨年の三月以来、陸軍の定期異動は林陸相の手で四回行われていたが、その四回とも教育総監・真崎大将から原案に修正が加えられ、林陸相の希望はほとんど容れられなかった。

 林陸相は面白くなかった。それで、今回は真崎教育総監に相談せずに断行した。そして参謀総長・閑院宮元帥に見せて内諾を得ていた。

 林陸相は、まず、真崎教育総監自身の更迭案をはずした、これら一連の将官異動案を、真崎大将に見せた。案の定、真崎大将はこの将官異動の原案に反対した。むしろ、小磯、建川を待命にすべきだと主張した。

 昭和十年七月十日、林陸相は教育総監・真崎大将を呼んで、軍事参議官に代わってもらいたい旨を話した。だが、真崎大将は同意をしなかった。

 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、昭和十年七月十二日午後、第一回の三長官三会議が開かれた。

 この席上、林陸相はあらためて参謀総長・閑院宮元帥の前で、真崎大将の教育総監更迭のやむを得ない事情を述べた。

 これに対し、真崎大将は憤然として次のように言って、決定の引き延ばしを主張した。

 「参謀総長に皇族を戴いているから、だいたい陸相との間にあらかじめ協議して成案を得た上で宮様のご臨席を仰ぐものである」

 「しかるに、いきなり三長官会議を開いて重大な人事を決定しようとするのは無理であるとともに、宮様に対しても恐れ多い極みである。自分としてもいろいろ準備の都合がある」。

 この日の三長官会議は、沈黙するはずであった真崎大将の論理に押されて、結論は七月十五日の第二回の会議に持ち込まれることになった。

 「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、この三長官会議の後、軍事参議官が非公式に集まり、林大臣を中心に連日懇談し、真崎大将助命運動が展開された。以下は有末精三中将の証言による。

 軍事参議官の一番の長老は菱刈隆大将(ひしかり・たかし・鹿児島・陸士五・陸大一六・歩兵第四連隊長・少将・歩兵第二三旅団長・中将・第八師団長・台湾軍司令官・大将・関東軍司令官・軍事参議官・満州国大使)だった。

 次に渡辺錠太郎大将(わたなべ・じょうたろう・愛知・陸士八・陸大一七首席・オランダ駐在武官・歩兵第二九旅団長・少将・参謀本部第四部長・陸軍大学校校長・中将・第七師団長・航空本部長・台湾軍司令官・大将・教育総監・二、二六事件で死去)がいた。

 その次に荒木貞夫大将(陸士九・陸大一九首席)、川島義之大将(かわしま・よしゆき・愛媛・陸士一〇・陸大二〇恩賜・少将・陸軍省人事局長・近衛歩兵第一旅団長・中将・第三師団長・教育総監部本部長・朝鮮軍司令官・大将・陸軍大臣・待命)がいた。

 これら軍事参議官達は、真崎大将について、「それはいかんじゃないか。真崎は教育総監をやっておいていいじゃないか」と言った。

 林陸相は「軍の統制上必要だ」と押した。だが、「真崎と貴様は昔から関係があり親友ではないか。その親友の間でそういうことをやるのか」という話になったという。

 それで林陸相が答弁の中で、「これは永田の強い意見だ」というようなことを言ったのかもしれない。それで、この軍事参議官の集まりで、三月事件の問題が出されて、永田軍務局長の攻撃が始まったという。

 ところが、軍事参議官の中で、林陸相と同期の渡辺錠太郎大将が別室で、「教育総監のなり手がないなら、俺がなってやる」と言って林陸相を元気付けた。

 また、関東軍司令官・南次郎大将なども陰で林陸相をけしかけていたのではないかと想像できる。つまり当時、陸軍の大将は二つに分かれていた。

389.真崎甚三郎陸軍大将(9)尊敬しあった真崎大将と永田少将の関係が決定的瞬間を迎える

2013年09月06日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 このような思想の中央幕僚の当面の障害物は、「北進論」に拠る部内の皇道派だった。皇道派の追放作戦は活発化した。

 国家総動員体制を確立するためには、極度に全体主義体制を拒否することがはっきりと予想される皇道派の統領、真崎大将を排斥することから始めなければいけなかった。

 ここに、これまで互いに信頼し尊敬しあった真崎大将と永田少将の関係が決定的瞬間を迎えるのだった。それは、国家の運命の明暗をわける体制の選択という岐路に立つ厳粛な課題であるべきはずだった。

 さわやかであるべきはずの政策論争が、いつしかそれぞれの周辺の圧力によって、陰湿な派閥抗争、権力闘争に変質して、どす黒い諸々の事件へと連動していった。

 まず、昭和十年に入り、美濃部達吉博士の天皇機関説と呼ばれる憲法学説を政府が禁止した事件が起こり、全国的な波紋を投じた。

 だが、皮肉なことに、天皇自身は、もっともこの機関説の同調者として高く評価され、陸軍の皇道派、特に全軍に機関説反対の訓示を布達した教育総監・真崎大将は、超タカ派であると論難された。

 日本全土が天皇機関説問題で揺り動かされていた昭和十年七月十六日の夕刊は、陸軍の人事について特別の報道をした。

 「陸軍大異動断行 先ず教育総監を更迭 後任には渡辺大将」。これがトップ記事の見出しだった。

 真崎教育総監は、八月の定期異動に先立つ七月十五日、石もて追われる如く、突如罷免されたのだった。このような事態に至る経過は次のようなものだった。

 「叛乱・上」(立野信之・ペリカン社)によると、統制派の中央一部幕僚らにとって、真崎甚三郎大将を教育総監から逐い出すことは、取りも直さず陸軍部内から皇道派を一掃することであった。

 その目標の最も大きなものは、真崎大将の次に、かつて憲兵司令官として皇道派のゲー・ペー・ウー的存在であった第二師団長・秦真次中将(待命)だった。

 また、次の目標は第一師団長・柳川平助中将(予備役編入)であり、整備局長・山岡重厚少将(第九師団長)、軍事調査部長・山下奉文少将(朝鮮軍旅団長)、作戦課長・鈴木率道大佐(すずき・よりみち・広島・陸士二二・陸大三〇首席・陸大教官・参謀本部作戦課長・砲兵大佐・支那駐屯砲兵連隊長・少将・陸軍航空本部総務部長・中将・第二航空軍司令官・予備役・死去)(参謀本部付)らだった。

 一方、参謀次長に建川美次、航空本部長に小磯国昭、植田謙吉を軍事参議官にして杉山元を朝鮮軍司令官に出すことが考慮された。また、久留米の旅団長・東條英機少将を中央に戻すことにした。

 これらの将官級の異動の原案は人事局長・今井清中将(いまい・きよし・愛知・陸士一五・陸大二六恩賜・スウェーデン駐在・デンマーク駐在・陸大教官・歩兵第八〇連隊長・参謀本部作戦課長・少将・歩兵第三〇旅団長・陸大幹事・中将・参謀本部第一部長・陸軍省人事局長・軍務局長・第四師団長・参謀次長・陸大校長・病没)が立案した。

 この原案に陸軍次官・橋本虎之助中将(はしもと・とらのすけ・愛知・陸士一四・陸大二二・ロシア駐在武官・大佐・騎兵第二五連隊長・参謀本部欧米課長・少将・参謀本部第二部長・関東軍参謀長・関東憲兵隊司令官・参謀本部総務部長・中将・陸軍次官・近衛師団長・二二六事件後予備役・満州国祭祀府総裁)が意見を加えた。

 それから陸軍大臣・林銑十郎大将に提出された。永田軍務局長には林陸軍大臣の許に提出されたものを見せて意見を徴した。

 従来異動に際しては、人事局長案が出れば、すぐ教育総監と相談をし、内定を見てから、参謀総長に見せる仕組みになっていた。

 参謀総長は閑院宮で、陸軍部内における皇道派と統制派の対角線上の中心として、いわばその緩和剤として選任されていた。