陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

179.米内光政海軍大将(19) 米内には海軍のみがあり、国家なし

2009年08月28日 | 米内光政海軍大将
 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、当時の阿南の側近達は次の様に語っている。

 「阿南は、本土決戦の準備が不備であることには不満足だったが、本土決戦をやって、敵に一大痛撃を加え、出血させてから、講和のキッカケをつくるべきである、と言う考え方にかわりはなかった」。

 「講和に対する米内と阿南の見解の相違は、非常に大きかった。阿南は、講和といっても、無条件ではなく名誉ある講和を考えていた」

 「阿南は徹底した国体護持の思想を堅持していた」

 「天皇は民族を絶滅させないためにも、もはや終戦せねばならぬ。国体護持が絶対の条件ではない、という意味のことを申されたようであるが、それは米内などの入れ知恵によるものと解釈していた」

 「海軍一軍人の生涯」(高橋文彦・光文社)によると、阿南はなぜ「米内を斬れ」と言ったのか。たとえ和平派の海軍大臣とはいえ、その立場上、多大な将兵を犠牲にした責任はとらねばならない。それが、帝国軍人としてのあり方である。

 だが、米内が自決するかどうかわからない。そこで、自決しないようならば鉄拳を下せ、という意味で言ったのかもそれないと記している。

 「米内光政と山本五十六は愚将だった」(三村文男・テーミス)によると、米内自身かねがね、「私は自分の手では死なん」と側近に語っていた。阿南もおそらく米内が自決するとは思っていなかっただろう。

 だが、「自決しないようならば鉄拳を下せ」は暴論である。阿南陸軍大臣が、「米内を斬れ」と言ったことについて、竹下中佐は「機密作戦日誌」にその事実を記録している。竹下中佐は「思いがけない言葉でした。私はかねがね阿南は米内さんを尊敬していると思っていたので」と述べている。

 戦争末期に陸海軍の統合が論議された時、賛成論者の阿南は「米内が統合された軍全体の大臣となり、自分は米内の次官になってもよい」と言っている。

 竹下中佐は「そのとき、阿南はもうかなり酔っていましたし、『米内を斬れ』といったあと、すぐ他の話に移ったことからも、深い考えから出た言葉ではなかったことがわかります」とも語っている。

 またこの発言の暫く後に部屋に入ってきた林三郎秘書官(陸士三七・陸大四六恩賜)が「少々ろれつが廻らないほど酔っておられたから、単に口走っただけで意味はなかったと思います」と語り、松谷誠秘書官(陸士三五・陸大四三)も「竹下さんの言う通り、意味のない言葉だったでしょう」と語っている。

 「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、東條首相退陣後、陸海統合の戦争指導部がほとんどできかかっていた。

 だが、せっかくの陸海中堅の努力も、時の海軍大臣・米内光政大将の「合流は中止せよ」の鶴の一声でご破算になった。これでは、陸軍側がそれ以後も米内海相をどんな眼で見ていたか理解できようというものである。

 「米内には海軍のみがあり、国家なし」と彼らは断じたのである。終戦時の阿南陸軍大臣が、国家敗亡の責を負って自刃するとき、「米内を斬れ」と言ったというのも、この辺りにありそうである。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、昭和二十年八月三十日に連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサー元帥が海軍厚木航空基地に進駐する数日前、厚木航空隊は、三〇二航空隊司令・小園安名大佐(海兵五一)を初めとして、徹底抗戦を主張して、基地内に立てこもった。

 天皇陛下より、東久邇宮総理に「高松宮を厚木に派遣したらどうか」と御沙汰があった。東久邇宮総理は緒方竹虎に要旨を米内海軍大臣に伝えるよう命じた。

 緒方は米内海軍大臣を訪問して、趣旨を述べたが、米内海軍大臣は「それには及びません、大丈夫であります。もし間違った者があれば、厳罰に処しますと申し上げてくれ」と答えた。

 だが、天皇の直の思し召しで、海軍軍令部参謀・高松宮宣仁大佐(海兵五二・海大三四)は後に厚木基地の決起士官らの説得に当たった。

 その後、米内海軍大臣は、第三航空艦隊司令長官の寺岡謹平中将(海兵四〇・海大二四)を呼び、直接、小園大佐を説得することを命じた。

 寺岡中将は海軍の中でも一風変わった風格の人で、米内海軍大臣はもし、小園大佐が聴かなければ、その場で刺し違えることを心ひそかに期待したようであった。

 だが寺岡中将は説得もできず、刺し違えもせず、茫然として帰ってきた。公儀の前には寸毫の仮借もない米内海軍大臣は、間もなく寺岡中将を予備役に編入した。

 米内海軍大臣は横須賀鎮守府司令長官・戸塚道太郎中将(海兵三八・海大二〇)に、厚木基地の掃蕩を命じようとしたが、さすがに中止された。

 米内海軍大臣は、改めて保科軍務局長を現地に派遣することにした。だが、この後、小園大佐が熱病に倒れたので、俄かに事態は解決し、事なくして済んだ。

178.米内光政海軍大将(18) 阿南からすれば、米内は不倶戴天の仇敵だった

2009年08月21日 | 米内光政海軍大将
 八月十二日午前零時四十分、日本の「ポツダム宣言受諾通告」に対するアメリカ側の回答がラジオで入ってきた。この回答の中に「天皇及び日本国政府の国家統治権限は連合国軍最高司令官の制限下に置かるるものとす」という内容があり、これでは天皇の地位安泰の保証がないと軍部の降伏反対、徹底抗戦が再燃の兆しが見え始めた。

 豊田軍令部総長は、梅津美治郎参謀総長(陸士一五・陸大二三首席)と共に参内し、「統帥部といたしましては、本覚書の如き和平条件は断乎として峻拒すべきものと存じます」と上奏した。戦争継続の震源である。この上奏は、米内海軍大臣には相談せずに行われた。

 米内海軍大臣は、豊田軍令部総長を呼びつけた。何を基礎に無断で上奏を行ったかとの詰問に、豊田軍令部総長は答えられなかった。

 やせ衰えた米内海軍大臣が、肥満の豊田軍令部総長に向って「軍令部総長の職にありながら、海軍の統制を破った。不届きである」と、驚くほどきびしく詰め寄った。

 豊田軍令部総長が退出した後、大西軍令部次長が、大臣室に来た。血相が変わっていた。言い争う声が聞こえた。大西軍令部次長は両肘を張り、こぶしを腰にあて、大臣をにらみ据えるような姿勢で立った。テーブルの反対側には米内海軍大臣も立ち上がっていた。

 米内海軍大臣は相手以上の大声で大西軍令部次長を叱りつけた。隣の部屋の秘書官たちは、米内海軍大臣のこんな怒声を聞くのは初めてだった。

 やがて大西軍令部次長は、しょんぼりした感じで出てきて、去っていった。代わりに秘書官が大臣室に入っていくと、米内海軍大臣は、今まで興奮して怒鳴っていた人とは思われない静かな口調で「事ここに至って、いよいよの土壇場になったら、相対的なことと、絶対的なことの区別だけ、まちがいないようにしなくてはいかん。それを言ったら、次長も分かってくれたようだ」と話した。

 この後、「海軍の腰抜けどもを焼き討ちにする」とか「海軍大臣の身辺、安全だと思うなよ」などと、脅迫や嫌がらせがあった。東部憲兵隊司令官・大谷敬二郎大佐(陸士三一・東大法学部派遣)の部下と称する憲兵少佐が、大臣秘書官のところへ「米内閣下の護衛をさせてもらいたい」と申し入れてきた。

 海軍大臣秘書官の間には代々「憲兵の護衛は断れ。あのシープドッグはいつ狼に化けるか分からない」という申し伝えがあった。「その必要はないと思いますが、一応大臣に伺ってみます」と秘書官が米内海軍大臣に聞くと、やはり「断ってくれ」とのことだった。

 だが、その憲兵少佐は「阿南陸軍大臣から直接命令を受けて来ております。このまま引き下がれません」と言って帰ろうとはしなかった。

 そこで秘書官が「憲兵は陸海両大臣の命令を受けられる立場のはずです。海軍大臣が帰っていただきたいと言っておられるのですから、お帰りください」と言うと。その憲兵少佐はやっと帰って行った。

 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、八月十五日の明け方、三宅坂の陸軍大臣官邸で阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣(陸士一八・陸大三〇)は自刃した。割腹する直前、阿南陸軍大臣は、義弟の、軍務課員・竹下正彦中佐(陸士四二・陸大五一恩賜)に「米内を斬れ」という言葉を遺して死んだ。

 米内海軍大臣と阿南陸軍大臣は、少なくとも気質的には水と油であったと言われている。竹下中佐は後に「率直に言って、阿南は米内がきらいだった。鈴木貫太郎首相(海兵一四・海大一)に対しては敬愛の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐していた。

 米内海軍大臣の方でも、戦後、小島秀雄海軍少将(海兵四四・海大二八)に、「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と洩らしている。

 「米内光政」(生出寿(おいでひさし)・徳間書店)によると、米内海軍大臣と阿南陸軍大臣は、ことごとく対立していて、阿南からすれば、米内は不倶戴天の仇敵だった。「米内を斬れ」は、最後に思い通りになれなかった陸軍の、陸軍に同調しなかった海軍に対する怨みのようでもある。

 米内が阿南に同調してポツダム宣言受諾に反対すれば、閣議も受諾反対・戦争継続となり、天皇もそれを承認せざるを得ないはずであった。

 戦後、藤田尚徳侍従長(海兵二九・海大一〇)から「もしあのとき鈴木内閣が戦争継続と決めて、ご裁可を願ったら陛下はどうなさいましたか」と聞かれた天皇は、「それは自分の気持ちとちがっていても、そのまま裁可したろう」と答えている。

177.米内光政海軍大将(17) 和平の話し合いなら、叩き斬ってやる

2009年08月14日 | 米内光政海軍大将
 「私はあまり近衛という人を信用できんのでね」と苦笑しながら、米内はたびたびもらした。

 また、「このあいだ近衛が来てね、何とかしてもらわなければ、こんなことでは心配でならぬというから、すこしばかり、私の考えを話したところ、それを芦田均という代議士に伝えたというので、人には注意してものを言えと教えてくれた友人がある。近衛はもとからそうであったが、どうも口が軽くて、うかつに話もできない」とこぼしていた。

 なお近衛公が最後まで同情をもっていた真崎、荒木、小畑などの皇道派にたいしては、米内最高の腹心であった井上次官が蛇蝎のように嫌っていたので、ここでも近衛、米内の橋渡しに障害となるものがあった。

 ところがサディズムの傾向があった関白(近衛公爵)は、他人の苦痛などいっこうに感応がなくて、「二十三日(二十年四月)重臣会議の後、米内大臣に会っていろいろ話を聞き、日本を救うはこの人をおいて無しと感じ、心強く考えるとともに目頭の熱くなるのを覚えた」と原田熊雄に書き送って、米内との連絡に一臂の力をかすように頼んでいる。

 近衛公爵は、米内、有田八郎元外相らが、熱湯を呑まされた気持ちなどは、とっくに忘れ去っていた。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、昭和二十年五月一日、ヒトラーは自決してデーニッツが総統になったが、二日にはベルリンが陥落した。

 ドイツは昭和二十年五月八日、遂に連合国に対して無条件降伏をした。日本は一国で連合軍を引き受けなければならなくなった。米内光政海軍大臣は「もうこうなれば大局上海軍の面目なんか超越して考えねばならぬ」と側近に洩らしていた。

 昭和二十年五月三十日重臣会議が開かれ、米内海軍大臣も出席した。米内は重臣から何か権威ある発言でもありはしないかと、多大な期待をかけていた。

 だが、文官出身者は軍部出身者に気兼ねをし、軍部出身者は現役軍首脳の顔色を窺うだけで、時局打開の具体的意見は遂に聞くことができなかった。

 会議はすでに散会しようとする。たまりかねた米内海軍大臣は突如「総理をさしおいて僭越であるが、国家の前途につき重臣各位のご意見を承りたい」と発言した。

 帰り支度にざわめいていた席が一瞬水を打ったように静まり返って、緊張の色がありありと列席者の面上に漂った。だが、遂に所見を開陳する者なく、後味の悪い思いを残して、そろそろと会議場を出て行った。

 この米内の一言を聞いて、東條英機(陸士一七・陸大二七)は「米内は終戦を目論んでいるのではないか」と強く受け取り、帰りに阿南惟幾陸軍大臣を訪ねて、陸軍の肝を聞こうとしたが、阿南陸軍大臣は不在だった。

 翌五月三十一日、鈴木貫太郎首相は左近司政三国務相(海兵二七・海大一〇)、その他一、二の国務大臣を交えて陸海両大臣と懇談した。

 そのとき、米内海軍大臣は「戦局の前途は全く絶望である。一日も速に講和するようにせねばならぬ」と力説した。

 これに対し阿南陸軍大臣は「今講和問題を取り上げることになっては、今日まで戦争完遂の決意を促してきた国民の気分を百八十度転回させねばならない。そんなことは到底できない相談である。殊に陸軍の中堅層を制御することは至難である。だからこの際は徹底的抗戦の一路あるのみだ」と主張した。

 軍部両大臣の意見は完全に対立したまま散会した。

 昭和二十年六月、宮中で最高戦争指導会議が開かれたが、軍令部次長・大西瀧治郎中将(海兵四〇)は、会議の一員でもないのに、会議の部屋に軍刀を吊って突然入ってきた。

 その様子は「和平の話し合いなら、叩き斬ってやる」と言わんばかりの態度だった。特攻を指導した大西中将は、戦争継続を主張していた。

 すると会議に出席していた米内海相が「大西君、君の出る幕じゃない。すぐ出て行きたまえ」とたしなめた。大西中将は、出て行った。会議が終わったあと、大西中将は、米内海相から改めて叱責され、涙を流して軽率さを詫びた。

 昭和二十年七月二十六日、連合国側は、ポツダム対日宣言を発表した。八月六日、広島に原爆が投下された。八月九日、ソ連が参戦し満州に向ってソ連軍が進撃を開始した。また、この日、長崎にも原爆が投下された。八月十日、御前会議でポツダム宣言受諾が決められた。

 八月十日夜、サンフランシスコの日本向け短波放送は、日本政府がスイスを通じて「ポツダム宣言受諾の用意成れり」と申し入れて来たというニュースを繰り返し流し始めた。

 ポツダム宣言受諾通告の出ていることを知った大西中将は「あと二千万人の日本人を特攻で殺す覚悟なら、決して負けはしません。戦争を継続させてください」と豊田副武軍令部総長(海兵三三・海大一五首席)に訴えた。

176.米内光政海軍大将(16)「敵はついに倒れた」と海軍省詰の記者が叫んだ

2009年08月07日 | 米内光政海軍大将
 昭和十九年六月二十七日、東條首相は陰謀の張本人である岡田を首相官邸に呼びつけて、「内閣倒壊運動の陰謀は怪しからぬ」と厳しく言った。この脅迫に岡田は屈しなかった。まさに正面衝突だった。

 東條首相や嶋田海相の側近たちは最後の生き残るための策略をねった。結論はかつての金魚大臣の米内を無任所大臣に加えて、東條内閣の延命をはかるというものだった。

 七月十七日、米内入閣をすすめるため、多くの人々が米内邸を訪れた。嶋田海相の下で勢威をふるった海軍省軍務局長・岡敬純中将、蔵相・石渡荘太郎らが、入れかわり立ちかわり現れては、米内を口説きに口説いた。

 だが、米内はこれらの説得に対してポツリと「その意思はない」とだけ言った。

 「木戸日記」によると、七月十七日午後四時から、平沼麒一郎邸で秘密裡に重臣の懇談会が行われた。その席上、米内は次の様に発言した。

 「十三日以来、余の入閣につき、たびたび交渉ありしをもって、熟慮の上お断りすと書きて渡したり。岡軍務局長来り、海軍の総意云々といえるゆえ、自分が海軍に尽くすというのなれば現役復帰して、軍参事官なり何なりになりて働くのなれば判るが、国務大臣として入閣するとも何の力にもならず、それは筋が違うにあらずや、と答えておきたり。自分は入閣の意思なし」

 この後、東條支持の阿部信行、東條退陣要求の岡田啓介の激しい応酬があったが、重臣たちは「内閣の一部改造のごときは、この難局を乗り切るにはなんの役にも立たない」と、東條内閣不信任案ともいうべき、前代未聞の申し合わせをした。

 この日の夕方、重臣会議を済ませて家に帰った米内を、早くから待っていた陸軍軍人がいた。陸軍省軍務局長・佐藤賢了少将だった。

 この東條の右腕の佐藤少将は、重臣会議の結果も知らずに、内閣更迭の不利を説き、米内の入閣を切に要望した。

 米内は「佐藤君、僕は総理大臣として落第したことは君の知っての通りだ。政治家には向いていないんだな。だから政治に責任をもつ無任所大臣として入閣しても役に立たぬ」とあっさり断った。

 そして米内は続けて「海軍に育ったから海軍大臣ならつとまるが、それ以外は務まらぬ。政治家としてではなく、あくまで僕は軍人として戦いたい」とも言った。

 すると佐藤が面をおこして「あなたは東條内閣だから出ないのですか、それとも、いかなる内閣でも同様ですか」と詰め寄った。

 これに対して米内は「もちろん、いかなる内閣でも無任所大臣は務まらない。そう東條君に伝えてくれたまえ」と淡々として答えた。

 昭和十九年七月十八日、東條内閣は、あっけなく倒れた。東條は最期のあがきを示すことなく、用賀の家に引きこもった。「敵はついに倒れた」と海軍省詰の記者が叫んだという。
 
 後継の小磯国昭内閣の成立に対して、新次官となった岡敬純中将を中心とする海軍中央は海軍大臣に野村直邦、軍令部総長に嶋田繁太郎を推し、米内光政を副総理(無任所相)になることを策したが、米内は頑として反対した。

 天皇も米内を支持した。こうして七月二十二日、米内は海軍大臣になり、「海軍大臣在官中特に現役に列せしむ」との旨が、情報局から発表された。

 米内の現役復帰は実現したが、末次信正大将の現役復帰は天皇の反対で実現しなかった。

 七月二十三日、久しぶりに海軍省の門をくぐった米内海相は、高木惣吉教育局長から「次官には岡中将をそのまま使いますか?」と聞かれると、即座に「一夜にして放逐する」と答えた。

 海軍という組織を率いた米内海軍大臣と、重臣および海軍長老との連絡提携は、比較的容易であったが、近衛公の一派および側近との連絡が、きわめて重要な反面に機微な障害もはらんでいた。

 かつて米内内閣が陰謀につぶれた後に、松岡、東條らをかかえて、近衛公が登場した。この政変で、近衛公が倒閣に暗黙の了解を与えていたとの印象は、深く米内の脳裏にしみついていた。