陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

340.岡田啓介海軍大将(20)赤松は確実に本日の会見趣旨を岡田氏に伝達したのか

2012年09月28日 | 岡田啓介海軍大将
 「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によると、四月九日、岡田大将は木戸幸一内府を訪ねた。

 その結果、嶋田海相の悪評は、とうに宮中深くまで達しているが、海軍側から具体案が出なければ天皇も手のつけようがなく、米内の現役復帰に関しても同様であるとのことだった。

 「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、著者の赤松貞雄陸軍大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)は東条英機首相の秘書官で、歩兵第一連隊勤務の中尉のとき東条英機連隊長と出会い、以後、東条英機から目をかけられ、東条次官時代から秘書官に抜擢された。

 海軍出身の重臣である岡田啓介大将、米内光政大将らは、高松宮や伏見宮を動かして、嶋田海相に辞任を強く要請した。

 抗しかねた嶋田海相は、東条首相にその進退について相談するに至った。これに対して、東条首相は嶋田海相に次のように言って、激励した。

 「もしお上のご信任が薄くなったということであるならば、臣下としては一刻といえども輔弼の責任のある地位にあってはならない。しかし、外部のものから強要されて、これに屈服する必要は少しもないのだ」。

 嶋田海相は、その地位に止まることを決心した。このために重臣方面の圧力はますます強くなったのみならず、より露骨になった。

 東条首相は陸軍次官、参謀次長、軍務局長など軍首脳部の人々と、如何に対処すべきやについて要談した。

 第一次世界大戦のとき、フランス軍の戦況が不利になってきたとき、フランス軍の師団長ら高級指揮官の中で、直接に戦場からフランス首相や代議士などと連絡してフランス議会に策動するものが出た。

 このため著しく作戦指導が困難になった。このとき、最高指揮官のジョルフ元帥は策動していた師団長らを捕らえ、彼らと行動をともにしていた政治家を軟禁抑留し、その裏面策動を抑えて、マルヌ会戦でドイツ軍を破って国の危急を救った先例があった。

 これに準じて、策動している連中を一時抑留して、裏面工作を阻止すべきであるという強硬論者もいた。これがどうして洩れたのか、伏見宮が急いで熱海に帰った、という一場面もあった。

 しかし軍務局長・佐藤賢了少将(陸士二九・陸大三七・中将・第三十七師団長)の意見で、強硬措置はとらず、赤松秘書官が岡田啓介大将と逢い、首相と会見の機会をつくるよう処置するということになった。

 赤松秘書官はさっそく東大久保の岡田邸を訪問、その旨を伝えた。岡田啓介大将は、赤松秘書官の申し出をあっさりと承認した。

 東条首相と岡田大将は、首相官邸で会見をした。その日は、赤松秘書官は他の公用で外出し、帰ってから東条首相に会見、結果の如何を尋ねた。

 ところが、東条首相は、意外にも不機嫌だった。そして「赤松は確実に本日の会見趣旨を岡田氏に伝達したのか」と詰問した。

 聞けば、岡田大将は、嶋田海相排斥などの策動に対しては、一応は簡単に陳謝した。しかし、それだけに止まり、会見時間の大部分は海相に対する海軍部内の不評を縷縷(るる)陳述したとのことだった。

 赤松秘書官は岡田大将に面談したとき、首相に逢ったらよく陳謝した上、今後は自重し策動と疑われる行動はしない旨をはっきりと申し述べるように、と話し、そして岡田大将も「よしよし承諾したよ」と言っていた。

 にもかかわらず、事実は、これと反対に、会見の機会を逆用したことを知り、赤松秘書官としても、使者の任務を全うし得ぬ結果になってしまい、真に遺憾至極だった。

 この岡田大将が東条首相と会見した頃から、陸軍部内でも、東条ではどうにもならないという空気が流れ始めた。

 それからは、岡田大将ら重臣により、海相更迭工作が表面では内閣強化の改造工作と称しながら、裏面では内閣更迭の工作に変わっていた。

 昭和十九年七月七日、サイパン守備部隊が玉砕し、マリアナ諸島の島々も米軍の手に帰する事は自明のこととなった。

 七月十七日、重臣会議が開かれ、東条内閣不信任をはっきり打ち出した。

 七月十八日、遂に東条英機は総理の座から降りた。岡田啓介大将が東条を退陣させようと決心してから一年の歳月が流れていた。

 七月二十二日、後継内閣組閣の大命は、朝鮮総督・小磯国昭陸軍大将、海軍大臣・米内光政海軍大将の両名列立で降下した。

 (「岡田啓介海軍大将」は今回で終わりです。次回から「辻政信陸軍大佐」が始まります)

339.岡田啓介海軍大将(19)それは大変だ!年寄りもこうしてはおれん!

2012年09月21日 | 岡田啓介海軍大将
 「いったいこの内閣は温かみがない、と一般が言っております。東条は地方長官会議で、国民に対し親切に扱えと訓示しましたが、官吏は力ずくで国民を圧迫して、民心は政府を離れています。これでは、何が起こるかわかりません」

 「一時混乱状態になることもありうることで、そういう際には、海軍の事情をよく知っている者が局に当たることが必要だと思います。それには人望の比較的多くある米内大将を現役に復帰せしむる必要ありと思われます」。

 低姿勢ながらも、嶋田に対する支持を断念するように迫る岡田大将の言葉に、伏見宮元帥はたじろいだ。伏見宮元帥は次のように答えた。

 「準備がなくていくさをすれば、こういうことになるのは明らかだ。大東亜戦の前に陛下から御下問があった際、この戦いはとうてい免かるることはできませぬ。免かるることはできぬとすれば、早くやった方がよろしいと申し上げた」

 「すると陛下は、『それにしても今少し待ちたい。結局やらなければならぬだろう。私もその覚悟はいたしている』と仰せられたが、準備はなかったが仕掛けられたいくさだから、これはやむを得なかった」

 「嶋田は一部長としても、次長としても、二回下におって、人となりはよくわかっている。あれは腹も据わっているし、言葉少なで実行力が大だ。及川が辞めるとき、そのあとに豊田を持ってきたが、豊田は口数が多く実行力が少ない。陸軍との間には、どうしても(協調して)行けない関係がある」

 「それゆえ私は嶋田を推した。今でも最も適任の海軍大臣と思っている。……米内を現役に列してどうしようとするのか」。

 この言葉を待っていたように、岡田大将は身を乗り出して、次のように述べた。

 「軍事参議官としておけばよろしいと思います。嶋田を助け、内情を承知しておれば、何かあったときにも、現役でないと予備ではどうすることもできません」。

 これに対し、伏見宮元帥は次のように話した。

 「それはそうだ。予備では何もできない。米内が総理大臣になるとき、私は米内がこれを辞して軍務に専念してくれたらよいと考えておった。米内が受けたものだから、はなはだ遺憾に思ったのだ」

 「それでも米内を現役に置きたかったが、米内が現役の方を辞したからやむを得なかった。岡田大将の米内を現役にするという考えは一応道理があると思う」。

 岡田大将の必死の説得により、伏見宮元帥の嶋田支持もだいぶ崩れてきた。それを見た岡田大将は、次のように述べ、最後の詰めをした。

 「私がこのことを嶋田に申してもよろしゅうございますが、さよういたしますと、これがもつれると非常に厄介でありますから、殿下の御内意を御附武官にでもお含め下さって嶋田にお伝え願えますれば、実にありがたいと存じます……」。

 すると、伏見宮元帥は次のように答えた。

 「それは岡田大将が言ったのではいかん。私が二十日か二十一日、卒業式のために東京に行くときに嶋田に言うのがいちばんよい。そして早い方がよいと思う。しかし、私にもなお考えさせてくれ」。

  以上でこの会見は終わった。当初岡田大将としては、海相・米内光政大将、次長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大将(海兵二七・海大七恩賜・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・内務大臣)の腹案で米内の現役復帰を図りたいと思っていたが、伏見宮元帥の嶋田支持が相当に強いのを感じたため、米内の軍事参議官就任という線で妥協し、説得したのだった。

昭和十九年三月三十一日、パラオからフィリピンのダバオへ航空機で移動中の連合艦隊司令長官・古賀峯一大将(海兵三四・海大一五・元帥)が低気圧に遭遇し墜落、殉職した(海軍乙事件)。

 「自伝的日本海軍始末記」(高木惣吉・光人社)によると、古賀司令長官行方不明後、後任の連合艦隊司令長官に豊田副武大将(海兵三三・海大一五首席・軍令部総長)の親任式が四月四日午後に済んでいた。

 四月八日、当時教育局長であった高木惣吉少将がこの古賀司令長官殉職の悲報を、岡田大将を訪ね伝えると、岡田大将は「それは大変だ!年寄りもこうしてはおれん!いったいどうすればいいと思うか?」とたたみかけて、真剣な質問をした。

338.岡田啓介海軍大将(18)嶋田は東条と妥協して総長をごまかす

2012年09月14日 | 岡田啓介海軍大将
 「さらに要領(二)には、『帝国は迅速なる武力戦を遂行し、東亜及び南太平洋における米英蘭の根拠地を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域並主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整ふ』とある」

 「ここでは、戦争をどの辺で、どのように終結させるか具体的に書かれていない。この辺が日清・日露戦争と違う点である。どうするつもりか。戦争に関係のない国へしかるべき人をやって和平工作をなすべきではないか」。

 東条首相は散々に重臣たちに問い詰められて苦り切った顔で、「そんな手立てなど考えておりませぬ」と不愉快そうに言った。

 しかし、この重臣懇談会は岡田大将が予期していた以上に効果があった。近衛文麿の宣伝効果である。というのも近衛にはひとつの後悔があった。

 組閣後間もない昭和十二年の盧溝橋事件の時、蒋介石の国民政府の首都・南京占領に際して駐華ドイツ大使トラウトマンの仲介によって日中妥協ができるかに見えた時があった。

 だが、近衛は強行策を採って、「国民政府を相手とせず」と声明してしまった。事変解決に苦しみながらも誤って戦争への階段を作り、内閣を放棄し、そこから東条が戦争へと飛び込んだ形である。

 近衛としては責任上もなんとしても極力戦争拡大を阻止しなければならない。近衛は、重臣懇談会の席上の東条首相苦悩の様子を会う人ごとに吹聴した。

 議会まで言わず語らずのうちに反東条の空気が濃くなっていった。今まで東条首相が登壇するだけで拍手がわいたものであるが、東条首相が重々しく現れても手ひとつならない。

 答弁草案で(ここで拍手)と書いてあるのに拍手がない。「今やァ帝国陸海軍はァ」とやっても、各地で連戦連敗していることが分かっているだけに、東条首相が声を高めるほどしらけてくる。

 東条首相もこの状態を察し内閣の補強を考えた。まず国防と統帥の緊密化をはかるといって、自ら参謀総長をかねて首相、陸軍大臣の三者を一身に集め、独裁体制を完全に確立することにした。

 昭和十九年二月二十一日、東条首相兼陸相、嶋田海相は、参謀総長・杉山元元帥(陸士一二・陸大二二・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官)、軍令部総長・永野修身元帥(海兵二八恩賜・海大八)を罷免して、現職のまま参謀総長、軍令部総長に就任した。

 首相から参謀総長へ転身という岡田大将のねらいははずれたが、参謀総長兼務ということは責任がさらに重くなり、戦況不利の場合、内閣崩壊の一つの可能性を示したことになる。

 「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によると、岡田大将は三月七日、嶋田海相のパトロン的存在である元帥・伏見宮博恭王を熱海に訪ねて、米内光政大将の現役復帰を図り、海軍の建て直しを行いたい、との意見を述べた。

 岡田大将は伏見宮元帥に慇懃次のように切り出した。

 「本日は、とくと殿下の御意見を伺いまして思召しに従い、この戦局に善処して働きたいと存じ、伺いました。昨今、陸海の中堅のところでは首脳部に対して信頼を失い、また前線と中央とが離れているように見受けます。これは大変なことと思います」

 「嶋田は、私はよく知りませんが、善い人だと思っておりました。議会の答弁も初めは評判がよろしゅうございましたが、しだいに評判が落ち、朦朧であるとか、春風駘蕩であるとか、だんだん批判が出てまいりました。というのは霞がかかって先がはっきりせぬという意味らしゅうございます」

 「中堅のところで見ましたところでは、永野は、結果は出なかったが、努力しようといたしますが、嶋田は東条と妥協して総長をごまかすと見ているようであります」

 「嶋田に対する信頼は、かような次第で失われているようであります。また次長(伊藤整一中将・海兵三九・海大二一次席・第二艦隊司令長官・大将・勲一等旭日大綬章)、次官(沢本頼雄中将・海兵三六次席・海大一七・大将・呉鎮守府司令長官・戦後水交会会長)、軍務局長(岡敬純中将・海兵三九・海大二一首席・海軍次官・鎮海警備府司令長官・極東軍事裁判で終身禁錮・昭和二十九年釈放)にも不満があるようであります」

 「前線の将兵も中央に信頼を失いました。その理由はよくわかりませんが、私の聞きました一、二の理由は、アッツやギルバートの玉砕は、何とかならないかという前線帰りの希望に対しまして、嶋田は『島の一つや二つ取られても驚くことはない』と言ったとのことです。嶋田は上には当たりがよいが、下には強く出ているように思われます」

337.岡田啓介海軍大将(17)重臣たちは東条首相一人を取り囲むように東条首相に迫った

2012年09月07日 | 岡田啓介海軍大将
 思案の末、木戸内大臣は次のように答えた。

 「内大臣というものは、鏡のようなものであって、つまり、世論や世間の情勢を映してそのまま陛下のお耳に入れる役目をするものです。自分自身の意見で動いてはならないし、世論を自分の感情でゆがめて陛下にお伝えすることもつつしまなければなりません」

 「しかし、もし、世論が東条内閣に反対だということになったら、その時は陛下にそのままお取次ぎをします。念のためですが私はあくまで東条内閣を支持するつもりはありません」。

 これに対し、迫水は次のように言った。

 「世論が大切だとおっしゃられるご高見もっともなことです。しかし、現実に今の世の中、世論の実態というのがつかみにくくなっています。新聞は検閲制度で口を封じられ、戦意高揚の記事ばかりのことは毎日ご覧の通りです」

 「議会だって翼賛政治で政府案はすべて満場一致で賛成。うかつに本当のことを言えばたちまち検束、たとい東条内閣に反対していても表に出せる状態ではありません。しかし、国民の心の中に、言わず語らずのうちに湧き上がっている気持ちを世論と見なすわけにはいきませんか」

 「事実、軍部内でも物資の需給、戦況の推移など確かな情報を持っている人たちは、日本が壊滅的な状態になる前に戦争を終結できないものかと考えています。しかし、仰せの通り現状では世論は形になりません。でもなんとかしなければ……」。

 迫水の言葉にしばらく目を閉じていたが、木戸内大臣はやがて、つぶやくように次のように言った。

 「世論というものは、そういう形ばかりではないでしょうな。たとえば、重臣たちが…、重臣とはその名の通り、日本の運命を支えてきた中枢の方々です。それらの人が一致してあることを考えたとする、それも一つの世論となりますよ」。

 迫水は木戸内大臣の含みのある言葉を反芻し、有馬邸を辞して、岡田大将に、木戸内大臣の言葉を報告した。

 昭和十八年十月、岡田大将は近衛文麿(東京帝国大学哲学科・京都帝国大学法学部卒・貴族院議員・貴族院議長・首相・公爵)、平沼騏一郎(東京帝国大学法学部卒・司法大臣・首相・男爵・法学博士)との三者連盟で、東条首相に対し、第一回重臣懇談会への招待状を出した。

 岡田大将の意図は、東条首相一人だけを呼んで、忌憚のない意見を彼に浴びせ、やりこめることにあった。重臣懇談会の場所は華族会館の貴賓室だった。

 他の重臣たちもこの際東条首相に遠慮のないところを言ってやろうと、七名全員が集まった。やがて東条首相がやってきたが、東条首相も重臣たちの魂胆を知ってか、なんと、大本営、政府連絡会議員などぞろぞろと手勢を引き連れてやって来たのだ。

 これでは、何のための会か分からなくなってしまい、誰もおざなりのことしか言わなかった。だが、これがきっかけとなって、月ごとに主催が交代して毎月例会となった。

 岡田啓介大将は、いつかは機会がくると考えて、若槻禮次郎(わかつき・れいじろう・東京帝国大学法学部首席卒・大蔵省主税局長・大蔵次官・貴族院勅撰議員・大蔵大臣・内務大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)や近衛文麿としばしば会合して情報の交換をしていた。

 毎回、とりとめもない会合なので東条首相も安心したのか、五回目、年が明けての昭和十九年二月、一人でやって来た。チャンスが到来した。

 重臣たちは東条首相一人を取り囲むように東条首相に迫った。言葉こそ穏やかだったが、匕首のような鋭さがあった。

 中でも若槻禮次郎が一番熾烈だった。若槻は歴代政治家の中でも最高の頭脳明晰な人物とされ伝説的に語られる人である。

 若槻は現在の政治・経済の分析、また戦況に関する判断はきわめて明快であり、それを適切に指摘していった。東条首相の知らないことまであった。さらに次のように批判した。

 「政府は口では必勝を唱えているようだが、戦線の事実はこれと相反している。今は引き分けという形で戦争が済めばむしろいい方ではないか。ところがそれも危ない。こうなれば一刻も早く平和を考えなければならないはずだが、むやみに強がりばかり言って戦争終結の策を立てようともしない」

 「開戦直前の昭和十六年十一月十三日、十五日に決定された『対米英蘭蒋戦争終結促進に関する腹案』を見ると、まず方針の(一)に次のように書いてある。『速に極東における米英蘭の根拠地を覆滅して自存自衛を確立するとともに、更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し、独・伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む』と」

336.岡田啓介海軍大将(16)東条が戦争遂行に邁進できるように参謀総長に転出させることだ

2012年08月31日 | 岡田啓介海軍大将
 「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によると、この会談で、古賀長官の話を注意深く聞いていた高木少将は、長官の立場とか海軍の伝統とかいうことに固執して官僚的体質を抜け出ることのできない古賀長官に、ある種の失望感を感じた。

 それでも会談の最後に古賀長官は憤懣をこめて「世の中にもしも陸軍なかりせば人の心はのどけからまし」という「絶えて桜のなかりせば」をもじった歌を口にした。

 高木少将は嶋田海相更迭を実現するため、嶋田海相の後援者である伏見宮元帥を嶋田海相から引き離す工作を、元首相で重臣の一人である岡田啓介海軍大将を通じて行うことにした。

 岡田大将は、昭和五年、ロンドン海軍軍縮条約が締結されたとき、統帥権干犯問題で分裂した海軍部内の抗争を調整した手腕で、宮中方面の信頼を集めており、艦隊派、条約派のいずれにも重しのきく人物だった。

 太平洋戦争当時、東条首相兼陸相は、内政、外政、戦局の情報を一手に握っており、重臣たちは戦局の実相を何も知らないのが普通だった。

 だが、岡田大将の周囲には、まず長男の大本営参謀・岡田貞外茂中佐(海兵五五次席・軍令部作戦課・対米作戦主任・昭和十九年フィリピン方面で戦死)がいた。

 また、義弟(二・二六事件で岡田首相と見誤られて死亡した松尾伝蔵陸軍大佐)の娘婿は瀬島龍三陸軍少佐(陸士四四次席・陸大五一首席・軍令部部員・大本営参謀・中佐・関東軍参謀・戦後伊藤忠商事会長・土光臨調委員・従三位)だった。

 さらに、岡田大将の娘婿には内閣参事官・迫水久常(東京帝国大学卒・大蔵省・理財局金融課長・総務局長・銀行保険局長・鈴木貫太郎内閣書記官長・貴族院議員・戦後衆議院議員・池田内閣郵政大臣・勲一等旭日大綬章)もいた。

 彼らは、岡田大将にとって、各方面の事情に精通した近親者であり、月に一回程度、会食をするということで、定期的に岡田大将の自宅に集まっていた。

 そのようなわけで、当時戦争の最高機密をなかなか伺い知ることができなかった重臣たちの中で、岡田大将は比較的詳しく戦況を知り得る立場にあった。

 岡田大将は昭和十八年に入ると、戦局の前途にまったく悲観的になっていた。終戦に推し進めるためには、まず東条内閣を倒すことだと考えた。

 「宰相岡田啓介の生涯」(上坂紀夫・東京新聞出版局)によると、岡田大将は、東条首相を辞めさせるには、まず東条を推薦した思慮深い宮廷官僚である内大臣・木戸幸一(京都帝国大学法学部卒・農商務省・産業合理局部長・内大臣府秘書官長・内務大臣・内大臣・侯爵)に東条首相の進退を考えさせることにあると思った。

 だが、憲兵に監視されている岡田大将が直接木戸内大臣に会うことは極めて危険だった。そこで、娘婿の内閣参事官・迫水久常にその方策を説明し、木戸内大臣に面会させることにした。

 岡田大将は「東条だってむざむざ内閣は投げ出さない。そこで東条が面目を損なわないで首相の地位を去るようにしむける。その方法は、東条が戦争遂行に邁進できるように参謀総長に転出させることだ」と迫水に説明した。

 水にも憲兵が付きまとって危険だったので、木戸と親しい有馬頼寧(ありま・よりやす)伯爵(東京帝国大学農学科卒・同大学助教授・衆議院議員・農林大臣・戦後日本中央競馬会理事長・勲一等瑞宝章・久留米藩主第十五代当主)に仲介を頼んだ。

 こうして昭和十八年八月八日、友人の美濃部洋次(東京帝国大学法学部卒・商工省・企画院課長・商工省機械局長・戦後日本評論新社社長・元東京都知事美濃部亮吉の従兄弟)と一緒に荻窪の有馬邸で木戸内大臣と昼食会を持った。

 迫水は木戸内大臣に次のように言った。

 「戦局がますます不利になって参りました今日、もっとも重大なことは国内の政治よりむしろ軍の作戦指導にあると思われます。極端に申しますと、首相は誰でもよい、むしろ作戦指導に直接当たる参謀長に立派な人を得なければなりません」

 「その点、東条首相は智謀きわめてすぐれ、しかも機敏。この際、東条閣下を参謀総長に据えて、戦争のことを専門にやっていただき、国内政治のことは適当な方にお願いしたらいかがでしょう」。

 木戸内大臣は黙って迫水の提案を聞いていた。確かにその通りだが、迫水の更迭案を鵜呑みもできない。さてどうすべきか。

335.岡田啓介海軍大将(15)五・一五事件の陰の張本人は君だ

2012年08月24日 | 岡田啓介海軍大将
 岡田大将は、東郷元帥に、その難しい事情を説明して、「なお、軍令部ではすでに補充計画もできておりますので、もし元帥の御承認がなければ、谷口もまた辞めなければならなくなります」と言って、その日は元帥邸から帰ってきた。

 後日、岡田大将は再び元帥邸を訪れ、東郷元帥に「御批准の前に、全権たる海軍大臣が辞めては、海軍が政治問題の渦中に入ることになります。それにどんな理由にせよ、今大臣が辞めては、世間では、海軍が大臣に詰め腹を切らせたように見られ、海軍は一部の人士からうらみを買うことにあります」と言った。

 すると、東郷元帥は「そうではないだろう。私が財部に辞めろ、と口に出して言えば政治問題に関係したことになるが、財部が自発的に辞めるのに、どうして政治上の問題になるんだ。このごろ私に色々言って来る者がいるが、私は取り合わんようにしている。ただ聞いているだけだ。軍人が政治に関係してはならんから、その点私も大いに注意している」と言った。

 岡田大将も「どうぞ御自重くださるように」と言った。

 このような曲折があり、九月に枢密院が御批准のことを決議し、昭和五年十月二日、濱口総理はロンドン条約御批准のことを上奏し、御裁可を得る運びになった。

 だが、濱口総理は十一月十四日、東京駅で愛国社社員の佐郷屋留雄に銃撃され倒れた。その後濱口総理は翌年の昭和六年三月に無理をして衆議院に登院したが、その年の八月二十六日亡くなった。

 このロンドン軍縮条約を契機に、海軍では、ロンドン条約に賛成する「条約派」(海軍省側)と、反対する「艦隊派」(軍令部側)というものが現れてきた。

 昭和七年頃、後に末次信正海軍中将(海兵二七・海大七首席)が第二艦隊司令長官で鎮海に入港した。その時、酒の上で、米内光政中将(海兵二九・海大一二)と末次中将が口論となった。

 日頃おとなしい米内中将が、「五・一五事件の陰の張本人は君だ。ロンドン会議以来、若い者を炊きつけてああいうことを言わせたり、やらせたり、甚だけしからん」と二期先輩の末次中将の胸ぐらをつかんで詰め寄った。

 末次中将は憤然としていたが一言も言葉を返さなかったという。以後米内と末次は、会っても口もきかない犬猿の仲になった。昭和八年の海軍の定期異動で末次中将は連合艦隊司令長官、米内中将は佐世保鎮守府司令長官に補された。

 昭和七年五月十五日、海軍の青年将校らにより、五・一五事件が起こり、犬養毅(いぬかい・つよし)首相(岡山・慶應義塾大学・記者・衆議院議員・文部大臣・逓信大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章)が暗殺された。

 そのあと、海軍出身の斎藤実海軍大将に組閣の大命が下った。岡田啓介海軍大将は、斎藤実大将から呼ばれ、昭和七年五月二十六日海軍大臣に就任した。

 その後昭和九年七月八日、斎藤実の後を受けて、岡田大将は内閣総理大臣兼拓務大臣に就任した。

 昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起こり、岡田首相は三月に辞任、謹慎生活に入り、昭和十三年一月二十一日海軍を退役した。

 「自伝的日本海軍始末記」(高木惣吉・光人社)によると、昭和十九年二月十五日、当時海軍大学校研究部部員だった高木惣吉(たかぎ・そうきち)海軍少将(海兵四三・海大二五首席・教育局長・内閣副書記官長)は、淀橋角筈(新宿区)の岡田啓介大将(海兵一五・海大二)を訪ねた。

 高木少将は、戦局の現状から、東条英機首相(陸士一七・陸大二七)、嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)海軍大臣(海兵三二・海大一三)のコンビでは、この難局を救うことはとても不可能と思う旨を述べた。

 岡田大将も戦局の前途を深く憂慮し、米内光政大将(海兵二九・海大一二)の現役復帰に賛成で、その前提として嶋田海相を支持している伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう)元帥(ドイツ海軍兵学校卒・ドイツ海軍大学校卒・海軍大学校長・第二艦隊司令官・佐世保鎮守府司令長官・軍令部総長など歴任)を説得する必要があるとの意見だった。

 また、二月十九日には、密かに上京していた連合艦隊司令長官・古賀峯一(こが・みねいち)大将(海兵三四・海大一五・殉職・元帥)を高木少将は訪ね、会談を行った。

 高木少将は、古賀長官から嶋田海相、永野修身(ながの・おさみ)軍令部総長(海兵二八)に強硬な要求を提言し、これが満たされねば作戦上の責任がとれないと、ひざ詰め談判をするよう求めた。

 だが、古賀長官の返答は高木少将を失望させるもので、直訴は空振りに終わった。

334.岡田啓介海軍大将(14)局面を打開する方法は君が辞職するということ以外にはなくなった

2012年08月17日 | 岡田啓介海軍大将
 伏見宮が天皇陛下に拝謁を求めるため、鈴木侍従長に会った際、鈴木侍従長は、伏見宮に向かって次のように言った。

 「潜水艦は主力艦減少の今日さほど入用ではありません。駆逐艦のほうがよろしいと思います。兵力量はこんどのロンドン条約でさしつかえありません」。

 岡田大将に伏見宮は「鈴木は軍令部長になっているようなものの言い方をした」と話した。

 さらに拝謁に対して、鈴木侍従長は伏見宮に次のように言ったという。

 「陛下に申し上げられるとのことですが、これはもってのほかであります。元帥軍事参議官会議は奏請なさってもたぶんお許しにならぬでしょう」。

 そこで伏見宮は怒りを抑えて、次のように鈴木侍従長に強く言った。

 「お前らが奏上するときは直立不動で申し上げるから、意を尽くして言上することはできない。わたしなら雑談的にお話しすることができるので、十分意を尽くすことも可能だ。だからわたしが申し上げると言っているので、とり違えては困る」。

 昭和五年五月十九日、財部海軍大臣がロンドンから帰国した。加藤軍令部長は、軍令部の意見を無視してロンドン条約をまとめたことを、統帥権の干犯であるとして問題にしようとしていた。

 政府は、これとは意見を異にして、条約の決定権は政府にあるのだから、統帥権を干犯したことにはならないと主張した。

 六月十日、加藤寛治軍令部長は上奏し、辞表を読み上げ、辞表が決定した。加藤寛治大将は軍事参議官に就任した。

 後任の軍令部長には条約派である、連合艦隊司令長官・谷口尚真(たにぐち・なおみ)大将(広島・海兵一九・海大三・海軍兵学校校長・呉鎮守府司令長官・大将・連合艦隊司令長官・軍令部長)が就任した。

 東郷元帥は着任した谷口軍令部長に次のように言った。

 「こんどの条約の兵力量では不足だ。主力艦が六割になってしまった今日、巡洋艦は八割は必要だ。だから御批准はなさらぬほうがよろしい。(陛下が)自分の意見をお求めになったら、そう申し上げるつもりだ」。

 これに対して、谷口軍令部長が「それでは海軍に大動揺をきたしますので、よくお考えを」と言うと、東郷元帥は「一時は動揺も起こるだろう。しかし将来のことを考えたらなんでもない」などと答えた。

 後日、岡田大将は、谷口軍令部長、加藤寛治大将と話し合った。

 加藤大将が「東郷元帥も御批准あらせられぬほうがいいとおっしゃっている」と、東郷元帥を持ち出して、反対した。

 岡田大将は「ロンドン条約では不足であっても、飛行機その他条約外のもので補充すれば国防を保てる。その補充計画は君がこしらえたんじゃないか」と言った。

 加藤大将は「政府が誠意を持って補充すれば、国防は保てぬこともない」と言った。

 岡田大将は「そんなら君も私も同意見だ。これで東郷元帥も御承知になると思うが、どうだ」と言った。

 これに対し加藤大将は「財部が責任を負って海軍大臣をやめることになれば、元帥の承諾をうる望みがあるかもしれない。財部に勧告するのは君がやったほうが一番いい」と押し付けてきた。

 岡田大将は「批准があった後に財部が辞めるということにするなら、私が勧告を引き受けよう」と答えた。

 岡田大将は、すぐに財部海軍大臣に会った。岡田大将は財部海軍大臣に次の様に言った。

 「君は、殿下や元帥が君に好感を持っておられないことをよく知っているだろう。今の場合、局面を打開する方法は君が辞職するということ以外にはなくなった。考えてみてくれんか。御批准があった後で、辞職するということを殿下や元帥に表明しておけば、万事うまくゆく。どうかそうしてくれんか」。

 これに対し財部海軍大臣は次の様に答えた。

 「君は誰よりも私の心事をよく知っているはずだ。私ももとより覚悟している。そうではあるが、腹を切るのに、何月何日に切るんだ、といって人にふれ歩くのはどうかと思う」。

 そこで岡田大将は次のように財部海軍大臣に説いた。

 「もっともな言葉だ、しかし今の場合は違う。この一つのことだけで局面が打開されそうになっているんだ。ほかに策がないからこうして頼むんだ」。

 その場では、話は決裂したが、その後、財部海軍大臣が谷口軍令部長に「決心したから(岡田大将に)、そのことを伝えてくれ」と言った。

 それを聞いた岡田大将は東郷元帥を訪れ、財部海軍大臣のことを報告した。

 だが、東郷元帥は「なぜ今すぐやめぬ。大臣一日その職にあれば、それだけ海軍の損失だ」と言った。

333.岡田啓介海軍大将(13)君は何も知らんのだ。それは大変な事になっている

2012年08月10日 | 岡田啓介海軍大将
 ところが四月十一日、軍令部から機密番号をつけ、軍令部の官印を押した文書が海軍省へ来た。それには「ロンドン条約の兵力量には軍令部は同意しない」とあった。

 山梨海軍次官は岡田大将を訪ねて「すでに会議をまとめるよう回訓までロンドンに送ってあるのに、今頃こんな文書が現れて困っている」と言った。

 四月十二日、岡田大将は加藤軍令部長を訪ねて、「今さらあんなのを出しては大問題になるが、どうするつもりか」と訊いた。

 すると加藤軍令部長は「いやただ海軍省に極秘のまま保管しておけばいいのだろう」と答えた。

 岡田大将は「財部に見せるためにやったことなら、なにもあんな書類にせずとも、口頭でいいではないか、文書は撤回したほうがよかろう」と勧めた。

 加藤軍令部長は「いや、あの書類はロンドン条約署名の前日に海軍省へ回したものである。これは大事なことだ。ただし財部の帰朝までは誰にも見せんで海軍省の金庫に入れておけばいい」と頑張った。

 岡田大将は「それならなおさらのことだ。大臣が帰ってきたとき手渡せばいいじゃないか」と言ったが、加藤軍令部長は「とにかく今撤回する訳にはいかん」と聞き入れなかった。

 四月十七日、海軍省高級副官・古賀峯一大佐(佐賀・海兵三四・海大一五・フランス駐在武官・戦艦伊勢艦長・軍令部第二部長・練習艦隊司令官・軍令部次長・支那方面艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・殉職・元帥・勲一等旭日桐花大綬章・功一級金鵄勲章)が岡田大将に会いに来た。

 古賀大佐は、「ハルピンで財部海軍大臣と会見するため出かける」と言った。さらに古賀大佐は、「加藤軍令部長から『君は帰朝とともに辞職することになるだろうからそのつもりでいてもらいたい』と財部海軍大臣に伝言するよう頼まれている」と言った。

 五月七日、連合艦隊司令長官・山本英輔(やまもと・えいすけ)中将(鹿児島・山本権兵衛の甥・海兵二四次席・海大五・ドイツ駐在武官・戦艦三笠艦長・海軍大学校校長・練習艦隊司令官・航空本部長・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・議定官・勲一等旭日大綬章)が岡田大将を訪問した。

 山本中将は「財部海軍大臣は帰朝と同時に辞職すべし」と述べた。岡田大将は「不可なり」と力説した。

 そのあと岡田大将は海軍省に行き、加藤軍令部長に会った。

 加藤軍令部長は「統帥大権の問題は重大事なり。元帥軍事参議官会議を開き政府の誤りを正さざるべからず。今の内閣は左傾なり。海軍部内に於いても此の問題ははっきりせざれば、重大事起こるべし」と述べた。

 岡田大将が「内閣が如何なる考えを有するも大臣さえしっかりし居れば何の心配もなしと思う。現内閣は左傾なりとの言は慎まれよ。濱口より直接聞かれたるならば兎も角、又聴にて色々に批評するは誤りなり。海軍部内にも二、三変な事をする者はなしと言い得ざるも長年先輩の努力によりて軍紀を保ち来りたる海軍にこの問題のため重大事件起こるとは考えず」と言った。

 すると加藤軍令部長は「君は何も知らんのだ。それは大変な事になっている」と応じた。

 岡田大将が「君や我々が居てそんなことをさしてはいかんではないか」と言うと、加藤軍令部長は「我々では押さえられぬ」と答えた。

 このような状況の中、幣原外務大臣が貴族院での議会演説で「この条約で満足である。国防には不安がない、といって海軍も喜んでいる」という趣旨の発言を行った。

 山梨次官は驚いて、「これではとても海軍がおさまらんから、訂正するように」と幣原外相に申し入れた。

 だが、幣原外相は「もう貴族院で演説してしまったから今更直す訳にはいかない」と言って、衆議院でも同様に演説した。

 幣原外相の演説は、伏見宮も立腹した。五月三日、伏見宮は岡田大将を呼びつけ「もってのほかだ」と言った。

 さらに伏見宮は、鈴木貫太郎侍従長について話が及び「鈴木も出過ぎている」と話した。

332.岡田啓介海軍大将(12)軍部の、しかも最高幹部が軍紀をみだすとは重大だ

2012年08月03日 | 岡田啓介海軍大将
 これについて、「岡田啓介回顧録」には次のように記されている。

 「加藤は、自分らの主張が通らない、というんで『腹を切る』などと口に出す。わたしも一応、そのそばにいるものに注意し、短気なことをさせぬよう気をくばっていたが、なあに切りやせんと思った。腹を切る、きる、といっているもので、あっさり切ったためしはないからね」。

 昭和五年四月一日、濱口首相が岡田大将、山梨次官、加藤軍令部長を呼び、回訓案の内容を説明し、「海軍の事情も十分説明を聴取し、これを参酌した上、このように致しました。これを閣議に諮り、決定しようと思うが領とされたい」と言った。

 岡田大将は「この回訓案によって閣議に上程せらるはやむを得ない。但し海軍は三大原則は捨てませぬ。海軍の事情は閣議の席上、次官をして十分述べしめられたい。閣議決定の上は、これに善処するよう努力する」と発言した。

 加藤軍令部長は「米国案のようでは、用兵作戦上、軍令部長として責任は取れません」と言明した。

 だが、四月一日午後一時、閣議は開かれ、全閣僚異議なく訓令案は閣議決定となった。午後三時、濱口首相は回訓案を上奏、御裁可を仰ぎ、午後五時、幣原外相は首相よりの通知により、在ロンドン全権宛てに回訓を発電した。

 四月二日、加藤軍令部長が岡田大将を訪問、「かくなりては軍令部長を辞職せざるべからず、予の男の立つ様考慮を乞う」と述べた。

 岡田大将は「辞職は止を得ざるべし。但しその時機が大切なり。時機については予に考慮せしめよ」と答えた。

 ところが、末次次長が黒潮会(海軍省記者クラブ)で不穏の文章を発表しようとして、海軍省の知るところとなり、未然に押さえた。

 濱口総理は末次次長を呼び出し、「既に回訓を出した今日、これに善処するよう努力ありたき」との旨を申し述べた。

 末次次長は直立不動の姿勢で、「先に不謹慎なる意見を発表したるは全く自己一個の所為にして甚だ悪かりし、自分は謹慎すべきなれども目下事務多端なれば毎日出勤し居れり、何卒可然御処分を乞ふ」と述べた。

 ところが、その後四月五日、貴族院議員会合の席上で、末次次長は再び不穏当な問答を行った。昭和クラブの会合に海軍省の許可なく出席し、秘密事項に触れ、不満を訴えたのだ。

 これを、議員の一人が筆記し諸方に配布したのだ。濱口首相は激怒し、岡田大将に末次次長に今後このようなことを起こさせないように注意されたい旨を伝えてきた。

 岡田大将は四月八日、伏見宮邸を訪問した際、玄関で加藤軍令部長に出会ったので「又末次失言したる由、此の如きは害のみありて何等益する所なし、将来部外に対しみだりに意見発表は慎む様次長に注意され度」と言った。

 加藤軍令部長は「実は困っている、皆によく注意し置きたるも遺憾なり、将来尚注意すべし」と答えた。

 岡田大将は午前十一時ころ海軍省に戻り、末次次長に面談し注意した。末次次長は「五日の事の如きは全く問い詰められて止むを得ず或処まで話をなしたれど、将来は他に発表せざるべし」と明言した。

 だが、政府は末次次長を処分しなければ収まらない状況になった。濱口総理も「現内閣は官紀を厳しくする方針を取っている。軍紀を厳にしなければならない軍部の、しかも最高幹部が軍紀をみだすとは重大だ。巡洋艦二隻よりこの問題のほうが大きい」といって怒った。

 岡田大将は加藤軍令部長に「末次を病気引入にするよう勧告しては」と相談した。

 ところが加藤軍令部長は「末次は自分の考えと同じ事を言っただけで、病気でもないものに引入を勧告することはできない」と断った。

 岡田大将は「そんなことを言っても末次の言葉は度を越えていた。この際末次を傷つけないように、事を小さく収めておくのがいいんじゃないか」言った。

 これに対し、加藤軍令部長は、しぶしぶ了承し、財部海軍大臣の帰朝後、末次信正中将を軍令部次長から退けることになった。

331.岡田啓介海軍大将(11)加藤軍令部長は「予も処決を覚悟し居る」との意味を洩らした

2012年07月27日 | 岡田啓介海軍大将
 次に岡田大将が「海軍大臣の意思が明らかとなった以上、これを尊重せられたい、然らざるにおいては事甚だ重大となる」と申し述べた。

 すると濱口総理は次のように言った。

 「回訓も長引き早くも二週間を超えた。もはや何とかせざるを得ない。海軍の事情も聞いたのだから、この上は自分において何とか決定するであろう」。

 加藤軍令部長は、濱口総理に向かって「閣議の席に軍令部長を出席さしめられたい」と言ったが、濱口総理は「それは先例がない、お断りする、但し、君は閣僚と皆親密なれば各自に君の意見を申されるのは勝手である」と答え、加藤軍令部長の要求を斥けた。

 緊迫した空気が政府部内と官軍省部を支配してきた。濱口総理の方向性も知れた。これに対して海軍としては如何に進退すべきか。岡田大将は国を誤らしめざるようもっと知恵を絞らねばならぬ場合に到着した。

 三月二十八日午前九時半、岡田大将は山梨次官の来邸を求め、話し合った結果、岡田大将の肝は次のように決して、山梨次官の善処を求めた。

 「請訓丸呑みの外道なし。但し米国案の兵力量にては配備にも不足を感ずるにつき政府にこれが補充を約束せしむべし。閣議覚書としてこれを承認せしめざるべからず。また元帥参議官は、もしこれを聞き、政府反対のこととなれば重大事となる、聞くべからず」。

 同日午後四時、岡田邸に加藤軍令部長が来て、元帥参議官会議を開くべきことを力説した。だが、岡田大将は反対した。

 更に加藤軍令部長は「この場合、軍令部長として上奏せざるべからず」と、しきりに力説したが、岡田大将は、「これも今は時機ではない」と諭した。

 当時、加藤軍令部長の背後に末次次長がいて、加藤軍令部長を操っていると言われていた。加藤軍令部長は末次次長の綴る台本を声高く読み上げるだけという説もあった。

 加藤軍令部長と岡田大将は同郷で共に福井出身で、日頃仲は良かった。軍令部長・加藤大将は、いつも「俺は八割は感情でゆく男だ」と揚言していたという。

 加藤大将は、陽性の人間で、軍政よりは編隊の長としての軍令のことを好む提督だった。だが、ロンドン条約については、自分の進退については、承知の上で、敢て強硬態度で始終した。

 「岡田啓介回顧録」(岡田啓介・毎日新聞社)に、「強硬な加藤寛治」という次のような一項目がある。

 「そのころの新聞では、わたしの評判もごく悪かった。海軍部門の血気にはやる連中などで、わたしに反感を持っているものも多かった」

 「横須賀の『小松』という海軍のひいきにしていた料理店では、私の書いた文字を額にして掲げてあったが、そこに若い士官たちが寄り合いをやった際、『なんだこんなもの』と引きずりおろし、池の中にほおりこんで、快哉を叫んだということだった…」

 「…ロンドン会議のまとめ役にして、奔走するのに、私はできるだけ激しい衝突を避けながらふんわりまとめてやろうと考えた…」

 「…加藤寛治などすこぶる熱心に反対したが、正直いちずなところがあるから、こっちもやりやすかった。むしろ可愛いところのある男だったよ」

 「だが、加藤にくらべると、その下で、いろいろ画策している末次信正はずるいんだから、こっちもそのつもりで相手にするほかなかった」。

 三月二十九日、岡田大将は伏見宮と会談した。伏見宮は「海軍の主張は回訓がでるまで強硬に押すべきだ。しかし、政府が米国案に定めることに決すればこれに従うのほかはない。元帥参議官会議は開かないほうがよい」と延べ、岡田大将と考えが一致した。

 岡田大将は、加藤軍令部長を訪ね、「帥参議官会議は開かないほうがよい」という趣旨のことを述べた。

 すると、加藤軍令部長は、かかる上は、上奏を、と上奏案を岡田大将に示した。岡田大将は「上奏については、よく研究すべきであり、回訓の前はよくない」と言った。

 加藤軍令部長は「予も処決を覚悟し居る」との意味を洩らした。次第によっては腹を切るぞ、というのだから相当深刻な話だった。