当時英海軍では、のちのダートマス海軍兵学校のような陸上施設で集合教育を行うような制度ではなく、志願者に試験を課し、合格者は<Naval cadet>(海軍兵学校生徒)として繫泊練習艦ブリタニア号に乗り、最短三か月で基礎科目の試験にパスした後、航行艦に転乗、ブリタニアの期間も含めた十八か月目に試験の上、合格すれば<Midshipman>(海軍士官候補生)の階級が与えられた。
小笠原(長生)の書いた東郷についての伝記には、東郷が年齢のせいで英海軍入りを果たせず、仕方なくウースター商船学校に入ったように書かれているが、事実とは異なっている。
東郷と同時に留学した八田祐二郎(大佐)は東郷より一歳若いが、留学三年目の明治六年八月、所定の試験にパスして英艦エジンコート(一〇六九〇トン)に候補生として乗組みが許されている。
また、幕末の密航留学生、服部潜造(大佐)も、明治二年すでにウースター商船学校を卒業して、翌三年一月、ロードワーデン(七八三九トン)で乗艦訓練を開始しているから、小笠原の記述には作為が見られるようである。
「帝国海軍教育史」(明治四十四年)の明治六年の項に、八田は「英国軍艦乗組」とあるが、東郷など見習士官らは「英国政府軍艦乗組ノコト尚遂ゲズ、当分風帆船ニテ各所航海」と記されている。
東郷はそのウースター商船学校も中退して、明治八年二月、貨物船ハンプシャー号で約七か月の世界一周の航海に出るが、これは四年という留学期限を意識して取った行動のように考えられる。
だが、東郷平八郎は、英海軍あるいはウースター商船学校の正規の<ディプロマ>(卒業証書)はなくても、海軍士官として必須の海軍および砲術に関しては、在英八年にして、十分すぎるぐらいに体得して帰国した。
八田ら数名は三、四年の艦上の候補生教育の後、さらにグリニッジ海軍大学内の<尉官コース>課程(九か月)に合格、その証書を得て帰国した。
特に築地の海軍兵学寮から派遣された遠藤喜太郎(少将在任時病没・遠藤喜一大将の父)は、英人でもまれな優等賞(一五〇〇満点で一二五〇点以上)の成績をとり、その授与された双眼鏡は戦前江田島の参考館に展示されていたという。
明治十一年七月三日、東郷平八郎見習士官は海軍中尉に昇進し、軍艦「比叡」乗組みとなった。
「比叡」は日本がイギリスに発注した装甲コルベットの新造艦で、常備排水量二二五〇トン、満載排水量三一七八トン、全長七〇・四メートル、全幅一二・五メートル、喫水五・三メートル、乗組員三〇八名だった。
日本海軍初のコルベットの新造巡洋艦で、船体は鉄骨木製で舷側装甲を持つ装甲艦だった。二二七〇馬力の蒸気船で、石炭を燃焼させて走行する。最大速力一三ノット(時速二〇・六キロ)。
兵装は、一七センチ単装砲三門、一五センチ単装砲六門、七・六センチ単装砲二門、三・七センチ単装砲四門、二五ミリ四連装機砲四基、一一ミリ五連装機銃二基、三五・六センチ水上魚雷発射管一門を備えていた。
「東郷平八郎」(真木洋三・文藝春秋)によると、七月十日、明治天皇はイギリス製の新鋭艦、「扶桑」、「金剛」、「比叡」の三艦を横浜港でご覧になった。
この三艦の日本海軍の期待は大きく、天覧となったことで、東郷平八郎中尉ら士官たちの士気は大いに高まった。
ところが、英国留学により長い間日本を留守にしていたので、東郷中尉は、軍艦内で水兵に命令する時、日本語でどう言ってよいのか、分らなかった。そこで、東郷中尉は、命令は全て英語ですることにした。
困ったのは、水兵たちである。水兵たちは、東郷中尉に対して、次のような不満を持っていた。
「あの中尉はイギリスから帰って来て、威張りくさりおって! 英語なんてチンプンカンプンで分かりはせん。この艦は日本海軍のものだ。造ったのはイギリスかも知れんが、大金を投じて買った以上、こっちのものだ」
「……それなのに、英国風ばかり吹かせやがって……。すっとぼけりゃいいんだよ。なんと命令しているのか、分かりゃせんのだから、知らん顔をしてりゃいい」。
水兵たちは反感を抱くばかりで、東郷中尉の英語の命令を無視し始めた。頭にきた東郷中尉は部下の水兵を集めて、厳しく次のように言いつけた。
「英語であろうと何であろうと、命令は命令だ。手で指示する時もあるし、顔の表情を見てもどんな命令なのか判るはずだ。命令にそむくものは、斬り捨てる!」。
小笠原(長生)の書いた東郷についての伝記には、東郷が年齢のせいで英海軍入りを果たせず、仕方なくウースター商船学校に入ったように書かれているが、事実とは異なっている。
東郷と同時に留学した八田祐二郎(大佐)は東郷より一歳若いが、留学三年目の明治六年八月、所定の試験にパスして英艦エジンコート(一〇六九〇トン)に候補生として乗組みが許されている。
また、幕末の密航留学生、服部潜造(大佐)も、明治二年すでにウースター商船学校を卒業して、翌三年一月、ロードワーデン(七八三九トン)で乗艦訓練を開始しているから、小笠原の記述には作為が見られるようである。
「帝国海軍教育史」(明治四十四年)の明治六年の項に、八田は「英国軍艦乗組」とあるが、東郷など見習士官らは「英国政府軍艦乗組ノコト尚遂ゲズ、当分風帆船ニテ各所航海」と記されている。
東郷はそのウースター商船学校も中退して、明治八年二月、貨物船ハンプシャー号で約七か月の世界一周の航海に出るが、これは四年という留学期限を意識して取った行動のように考えられる。
だが、東郷平八郎は、英海軍あるいはウースター商船学校の正規の<ディプロマ>(卒業証書)はなくても、海軍士官として必須の海軍および砲術に関しては、在英八年にして、十分すぎるぐらいに体得して帰国した。
八田ら数名は三、四年の艦上の候補生教育の後、さらにグリニッジ海軍大学内の<尉官コース>課程(九か月)に合格、その証書を得て帰国した。
特に築地の海軍兵学寮から派遣された遠藤喜太郎(少将在任時病没・遠藤喜一大将の父)は、英人でもまれな優等賞(一五〇〇満点で一二五〇点以上)の成績をとり、その授与された双眼鏡は戦前江田島の参考館に展示されていたという。
明治十一年七月三日、東郷平八郎見習士官は海軍中尉に昇進し、軍艦「比叡」乗組みとなった。
「比叡」は日本がイギリスに発注した装甲コルベットの新造艦で、常備排水量二二五〇トン、満載排水量三一七八トン、全長七〇・四メートル、全幅一二・五メートル、喫水五・三メートル、乗組員三〇八名だった。
日本海軍初のコルベットの新造巡洋艦で、船体は鉄骨木製で舷側装甲を持つ装甲艦だった。二二七〇馬力の蒸気船で、石炭を燃焼させて走行する。最大速力一三ノット(時速二〇・六キロ)。
兵装は、一七センチ単装砲三門、一五センチ単装砲六門、七・六センチ単装砲二門、三・七センチ単装砲四門、二五ミリ四連装機砲四基、一一ミリ五連装機銃二基、三五・六センチ水上魚雷発射管一門を備えていた。
「東郷平八郎」(真木洋三・文藝春秋)によると、七月十日、明治天皇はイギリス製の新鋭艦、「扶桑」、「金剛」、「比叡」の三艦を横浜港でご覧になった。
この三艦の日本海軍の期待は大きく、天覧となったことで、東郷平八郎中尉ら士官たちの士気は大いに高まった。
ところが、英国留学により長い間日本を留守にしていたので、東郷中尉は、軍艦内で水兵に命令する時、日本語でどう言ってよいのか、分らなかった。そこで、東郷中尉は、命令は全て英語ですることにした。
困ったのは、水兵たちである。水兵たちは、東郷中尉に対して、次のような不満を持っていた。
「あの中尉はイギリスから帰って来て、威張りくさりおって! 英語なんてチンプンカンプンで分かりはせん。この艦は日本海軍のものだ。造ったのはイギリスかも知れんが、大金を投じて買った以上、こっちのものだ」
「……それなのに、英国風ばかり吹かせやがって……。すっとぼけりゃいいんだよ。なんと命令しているのか、分かりゃせんのだから、知らん顔をしてりゃいい」。
水兵たちは反感を抱くばかりで、東郷中尉の英語の命令を無視し始めた。頭にきた東郷中尉は部下の水兵を集めて、厳しく次のように言いつけた。
「英語であろうと何であろうと、命令は命令だ。手で指示する時もあるし、顔の表情を見てもどんな命令なのか判るはずだ。命令にそむくものは、斬り捨てる!」。