陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

466.東郷平八郎元帥海軍大将(6)あの中尉はイギリスから帰って来て、威張りくさりおって! 

2015年02月27日 | 東郷平八郎元帥
 当時英海軍では、のちのダートマス海軍兵学校のような陸上施設で集合教育を行うような制度ではなく、志願者に試験を課し、合格者は<Naval cadet>(海軍兵学校生徒)として繫泊練習艦ブリタニア号に乗り、最短三か月で基礎科目の試験にパスした後、航行艦に転乗、ブリタニアの期間も含めた十八か月目に試験の上、合格すれば<Midshipman>(海軍士官候補生)の階級が与えられた。

 小笠原(長生)の書いた東郷についての伝記には、東郷が年齢のせいで英海軍入りを果たせず、仕方なくウースター商船学校に入ったように書かれているが、事実とは異なっている。

 東郷と同時に留学した八田祐二郎(大佐)は東郷より一歳若いが、留学三年目の明治六年八月、所定の試験にパスして英艦エジンコート(一〇六九〇トン)に候補生として乗組みが許されている。

 また、幕末の密航留学生、服部潜造(大佐)も、明治二年すでにウースター商船学校を卒業して、翌三年一月、ロードワーデン(七八三九トン)で乗艦訓練を開始しているから、小笠原の記述には作為が見られるようである。

 「帝国海軍教育史」(明治四十四年)の明治六年の項に、八田は「英国軍艦乗組」とあるが、東郷など見習士官らは「英国政府軍艦乗組ノコト尚遂ゲズ、当分風帆船ニテ各所航海」と記されている。

 東郷はそのウースター商船学校も中退して、明治八年二月、貨物船ハンプシャー号で約七か月の世界一周の航海に出るが、これは四年という留学期限を意識して取った行動のように考えられる。

 だが、東郷平八郎は、英海軍あるいはウースター商船学校の正規の<ディプロマ>(卒業証書)はなくても、海軍士官として必須の海軍および砲術に関しては、在英八年にして、十分すぎるぐらいに体得して帰国した。

 八田ら数名は三、四年の艦上の候補生教育の後、さらにグリニッジ海軍大学内の<尉官コース>課程(九か月)に合格、その証書を得て帰国した。

 特に築地の海軍兵学寮から派遣された遠藤喜太郎(少将在任時病没・遠藤喜一大将の父)は、英人でもまれな優等賞(一五〇〇満点で一二五〇点以上)の成績をとり、その授与された双眼鏡は戦前江田島の参考館に展示されていたという。

 明治十一年七月三日、東郷平八郎見習士官は海軍中尉に昇進し、軍艦「比叡」乗組みとなった。

 「比叡」は日本がイギリスに発注した装甲コルベットの新造艦で、常備排水量二二五〇トン、満載排水量三一七八トン、全長七〇・四メートル、全幅一二・五メートル、喫水五・三メートル、乗組員三〇八名だった。

 日本海軍初のコルベットの新造巡洋艦で、船体は鉄骨木製で舷側装甲を持つ装甲艦だった。二二七〇馬力の蒸気船で、石炭を燃焼させて走行する。最大速力一三ノット(時速二〇・六キロ)。

 兵装は、一七センチ単装砲三門、一五センチ単装砲六門、七・六センチ単装砲二門、三・七センチ単装砲四門、二五ミリ四連装機砲四基、一一ミリ五連装機銃二基、三五・六センチ水上魚雷発射管一門を備えていた。

 「東郷平八郎」(真木洋三・文藝春秋)によると、七月十日、明治天皇はイギリス製の新鋭艦、「扶桑」、「金剛」、「比叡」の三艦を横浜港でご覧になった。

 この三艦の日本海軍の期待は大きく、天覧となったことで、東郷平八郎中尉ら士官たちの士気は大いに高まった。

 ところが、英国留学により長い間日本を留守にしていたので、東郷中尉は、軍艦内で水兵に命令する時、日本語でどう言ってよいのか、分らなかった。そこで、東郷中尉は、命令は全て英語ですることにした。

 困ったのは、水兵たちである。水兵たちは、東郷中尉に対して、次のような不満を持っていた。

 「あの中尉はイギリスから帰って来て、威張りくさりおって! 英語なんてチンプンカンプンで分かりはせん。この艦は日本海軍のものだ。造ったのはイギリスかも知れんが、大金を投じて買った以上、こっちのものだ」

 「……それなのに、英国風ばかり吹かせやがって……。すっとぼけりゃいいんだよ。なんと命令しているのか、分かりゃせんのだから、知らん顔をしてりゃいい」。

 水兵たちは反感を抱くばかりで、東郷中尉の英語の命令を無視し始めた。頭にきた東郷中尉は部下の水兵を集めて、厳しく次のように言いつけた。

 「英語であろうと何であろうと、命令は命令だ。手で指示する時もあるし、顔の表情を見てもどんな命令なのか判るはずだ。命令にそむくものは、斬り捨てる!」。





465.東郷平八郎元帥海軍大将(5)東郷見習士官は「駄目だ、最高速を出せ」と毅然として命じた

2015年02月20日 | 東郷平八郎元帥
 金髪「勝敗は時の運だよ。敵将が戦死するところも見たのか?」。

 東郷「銃撃の弾丸が当たったんだ。無念の絶叫がすぐ近くの我が艦まで聞こえて来た」。

 金髪「得難い経験をしたんだね。君が戦争に加わっていたとは知らなかった」。

 東郷見習士官が「回天」の甲賀艦長の体当たり戦術を金髪の練習生に語った時から、金髪の練習生は東郷見習士官に尊敬の目を向け始めた。

 金髪の練習生が周りの練習生たちにしゃべったらしく、一週間もたつと、東郷見習士官は、弾丸の下をくぐり抜けた立派な戦士として特別扱いをうけるようになった。

 「チャイナマン」とあざけ笑う事も無くなったし、イギリスの練習生たちは、剣の道に優れた勇敢な日本人が、我がウースターに乗っているとして、東郷見習士官を一目も二目も置く態度に一変した。

 だが、東郷見習士官は、甲賀艦長の勇敢さは自らを励ます教訓として、いつも心の中に大事な教訓としてしまって置きたかったのに、つい口外してしまったのが意外な結果になり、面映ゆかった。余計なことは喋らないほうがいいと、東郷見習士官は思うようになった。

 明治七年十二月九日、ウースター商船学校を卒業した東郷見習士官は、明治八年二月から、帆船「ハンプシャー」でオーストラリアまで、海軍士官候補生たちと共に遠洋航海に出た。

 五月十四日、オーストラリアのメルボルンに到着。二か月近くメルボルンに滞在して、七月十一日に出帆、進路を東に帆走を続け、八月十一日南アメリカの南端ホーン岬の南を通過し、九月末にテームズ河口に無事に帰着した。

 その後ロンドンで、高等数学をゲーベル教授から教わり留学生として最後の勉学に励みながら、帰国命令を待った。

 明治九年四月十四日付で東郷見習士官の留学はすでに満期切れとなっているが、「新軍艦が完成するまで、英国滞在を申付ける」との命令を受けた。

 グリニッジに移った東郷見習士官は、新造の戦艦「扶桑」の建造の監視に当たった。留学生はそれぞれ分担しあって、新造艦の監視に当たった。

 明治十一年二月、イギリスの造船所において、軍艦「扶桑」、「金剛」、「比叡」が竣工した。「扶桑は」の試運転はシャーネス沖で行われた。「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、東郷平八郎見習士官は、その「扶桑」の試運転に同乗した。

 「扶桑」は段階を経て、スピードを上げた。「扶桑」は、ぐんぐんスピードを増し、それに加速さえ加わった。機関の調子は快適だった。東郷見習士官は操舵室にいて、それを逐一感得した。

 「これで最高速か?」と東郷見習士官はイギリス人の航海士にたずねた。「いや、二番目の高速だ」と航海士は答えた。すると、東郷見習士官は「最高速を出してみてくれ」と言った。「これで十分だろう。これだけ出せば、問題はない」と航海士は答えた。

 東郷見習士官は「駄目だ、最高速を出せ」と毅然として命じた。航海士は東郷見習士官の顔をチラッと見て、何ごとかブツブツ言っていたが、それでも東郷見習士官の命に従った。

 機関はうなりを生じ、「扶桑」は飛ぶように走った。そして二十分。東郷見習士官はそれに満足して、艦速をゆるめさせた。航海士は東郷見習士官をなじるように見た。「それ見たことか、異常はないじゃないか」。

 東郷見習士官は、それを無視した。東郷見習士官には信念があった。こと海戦になれば、その艦の機能をフルに活用しなければならない。それが試運転だからといって、その艦の持てる機能を確認しないという法は無いと。

 東郷見習士官ら留学生九人に帰国命令が出され、九人は、軍艦「扶桑」、「金剛」、「比叡」の三艦に三人ずつそれぞれ分乗して帰国の途についた。

 明治十一年三月二十三日、東郷見習士官は「比叡」に乗艦して、英国を出航した。マルタ、ポートサイト、アデン、シンガポールに寄港した後、五月二十二日午前、「比叡」は横浜に入港した。

 別冊歴史読本第六十号「日本海海戦と東郷平八郎」(新人物往来社)所収、「東郷平八郎・連合艦隊長官を無言で演じきった名優」(鎌田芳朗)によると、東郷平八郎の英国留学の真実について、次に様に述べている。

 東郷は明治四年二月、英留学を命ぜられ、正味八年間滞在することになった。


















464.東郷平八郎元帥海軍大将(4)日本ではサーベルよりも、もっと斬れる刀がある

2015年02月13日 | 東郷平八郎元帥
 ウースターは、海軍の息のかかった商船学校で、海軍式の訓練が行われるので、商船学校ではあるが、成績優秀な練習生は、少尉候補生として海軍に採用される制度となっていた。東郷見習士官は、「ぜひ、その練習船に乗組ませてください」とポリネー校長に頼んだ。

 明治六年二月、東郷見習士官は、ウースター商船学校に入学した。練習船ウースターでの毎日は、訓練の繰り返しと、授業の連続だった。授業では、東郷見習士官の得意科目は数学と地理だった。

 ところが、当時、日本は世界での地位は小さく、東洋人といえば、支那人と思い込んでいるイギリス人の練習生たちは、東郷見習士官を取り巻き、「ジョンニー・チャイナマン」とからかって呼び、笑った。

 東郷見習士官は、憤りを押さえ、静かな口調で「支那人ではない。もし俺を侮辱する者があれば、骨をくだいてやる」と言って、片手を振り上げ、空手の構えを見せた。

 イギリスの練習生たちは、東郷見習士官が実際に強いことを知っていたので、その威圧に押されて、散り散りになって逃げた。

 それ以後、彼らは支那人と誰も言わなくなったが、東郷見習士官は、日本という国さえ知らない練習生が大勢いるのには、泣き出したいくらいの悔しさで胸がいっぱいになった。

 幼いころから励んだ示現流の剣術で、敵を倒す機会などは練習船の集団生活の中では起こりえない。だが、その気迫だけは心の奥深くに東郷見習士官は持ち続けていた。

 「今に日本も世界の注視の的になる日がきっと来る。その時に備えねばならない」と、自戒を込めて、東郷見習士官は黙々と訓練に励み、勉学の日々を重ねた。

 英語をほぼ修得していた東郷見習士官は、ウースターでの航海術、ユークリッドの幾何学、アメリカ航海史、海軍砲術、天文学などの英文教科書も徐々に辞書なしで読めるようになった。

 このイギリス留学の間に、東郷見習士官は国際法も学び、国際法も英書で読めるようになっていた。これが後の、豊島沖海戦、「高陞号」事件のときに、役立った。

 海軍砲術、水雷の教科書の中にラムという衝角の戦術が記載されていた。当時の軍艦は、海面下の艦首の角のように尖った部分に鋼鉄を使い、その艦首を敵艦の腹にぶっつけて浸水させ、沈没させる戦術がラムであった。

 授業中、東郷見習士官は、隣の席に座っていた見事な金髪のイギリス人の練習生に、「ラムという戦術を目の前に見たことがある」と話しかけた。

 授業が終わると、その金髪の練習生は、さっそく、「ラムというのは一番勇敢で度胸のいる戦術だが、君は本当に見たのかい」と言った。

 
 早口が苦手な東郷見習士官は、ゆっくりと、単語を思い出しながら英語で次のように話した。

 東郷「敵は相次ぐ暴風雨で主力艦を失い、どうしても艦船が欲しかった。湾内で錨を下ろしていた我が旗艦をめがけて、明け方に敵艦がアメリカの国旗を掲げて侵入してきた」。

 金髪「アメリカ艦だったのか?」。

 東郷「いや、油断させるために掲げて来たのだ。目と鼻の先で突然、アメリカの旗を降ろして、日本の旗に切り替えて突進して来た」。

 金髪「すごいな!」。

 東郷「我が旗艦の腹めがけて衝突した。そして、斬り込み隊が我が旗艦に殺到した」。

 金髪「斬り込み隊がねえ」。

 東郷「日本ではサーベルよりも、もっと斬れる刀がある。額に白い鉢巻をして刀を振りかざして一人一人斬っていく」(示現流で斬る仕草を見せた)。

 金髪「日本人は勇ましい!驚いた!」(びっくりして、眼を丸めた)。

 東郷「突っ込まれた我が旗艦も反撃し、側にいた我が艦も錨を上げて旗艦の側に行き、砲撃を加え、最後は銃撃戦となった」。

 東郷見習士官は、宮古湾に「回天」が侵入し、「甲鉄」を襲ったものの、「甲鉄」を奪い取ることができず、艦橋で無念の戦死を遂げた、甲賀源吾艦長を眼のあたりに思い浮かべた。

 金髪「君の旗艦は腹に穴を開けられ、沈んだのか?」。

 東郷「沈まなかった。港内だったし、水深も深くないうえ、敵艦が突進してくるスピードが少し足りなかった。旗艦は損傷を受けたが、敵の艦長は艦橋で戦死し、我が旗艦を奪取できずに、引き揚げた」。





















463.東郷平八郎元帥海軍大将(3)東郷見習士官は、ダートマスの王立海軍兵学校に入学できなかった

2015年02月06日 | 東郷平八郎元帥
 風呂場は暗かったので、四郎兵衛は、気づかずにその水をガブリと飲んだ。その瞬間、四郎兵衛は、その辛さに、含んだ水を吐き出し、そのはずみに茶碗を落として、割ってしまった。四郎兵衛の怒号を後に、仲五郎はその場を逃げ出した。

 そのあと、仲五郎は父にひどく叱られた。四郎兵衛が父に告げ口をしたのだ。仲五郎は兄のやり方が心外だった。何も父に言わなくても、俺を叩けばいいじゃないか。卑怯だと思った。

 父の前に正座させられた仲五郎は、兄に詫びるように命ぜられた。だが、仲五郎は頑として謝罪はしなかった。「父の命がきけぬか」。父の吉左衛門も怒った。自分の命令にも逆らうとは。

 父が再三命じても、仲五郎は従わなかった。とうとう父は、見せしめのために仲五郎を下役の家に預けた。十日後に、開放されたが、それでも、仲五郎は父にも兄にも詫びようとはしなかった。

 万延元年(一八六〇年)、東郷仲五郎は、元服して名を平八郎と改め、薩摩藩出仕、書役となって、東郷平八郎と名乗った。

 慶応四年(一八六八年)、東郷平八郎は、薩摩藩の軍艦(木製外輪船)「春日丸」(赤塚源六艦長・一〇一五トン・乗組員七二名)の三等砲術士官になった。二十歳だった。

 「元帥 東郷平八郎」(伊東仁太郎・郁文社)によると、「春日丸」は四十斤施條砲を六門搭載していたが、東郷平八郎は左舷の四十斤施條砲の担当士官になった。

 慶応四年一月三日、「春日丸」、「平運丸」、「翔鳳丸」は、兵庫港を出港して、鹿児島へ引き揚げることになった。

 一月四日早朝、明石海峡に向かった「平運丸」と別れ、「春日丸」は護衛する「翔鳳丸」とともに紀淡海峡に向かっっていた。

 ところが、突然、幕府海軍の軍艦(木造シップ型帆船)「開陽丸」(指揮官・榎本武揚・二五九〇トン・乗組員二九四名)が、現れ、かなりのスピードで、「春日丸」の方へ向かって来た。

 「開陽丸」は停船命令として、空砲を撃った。だが、「春日丸」と「翔鳳丸」がこれを無視したため、砲戦となった。打ち合わせ通り、「翔鳳丸」を全速で離脱させ、「春日丸」が「開陽丸」に立ち向かった。

 激しい砲戦となったが、「春日丸」の目的は、「翔鳳丸」を護衛して鹿児島に帰ることだったので、「春日丸」は、発砲しながら、全速で、できるだけ沖合へ舵をとった。

 「開陽丸」は、それを追撃しながら、大砲を撃った。「春日丸」も応戦した。その結果、「開陽丸」は二十五発、「春日丸」は十八発の砲弾を撃ったが、どちらも数発が命中したが大きな損害にはならなかった。

 速力十七ノットの「春日丸」は、十二ノットの「開陽丸」を引き離し、無事鹿児島に帰ったが、「翔鳳丸」は途中で機関が故障したので、海岸に乗り上げ、拿捕されることを恐れて、自ら船を焼き払った。

 この戦いで、東郷平八郎は、受け持ちの四十斤施條砲を離れず、「開陽丸」が、追いすがって来ても、すぐには撃たなかった。そのうちに、「開陽丸」がとうとう一二〇〇メートルの距離に近づいて来た時、初めて、発射した。

 その四十斤砲弾は、「開陽丸」の前に落ちて跳ね上がり、桁の一部を損傷させた。「命中ッ」。「春日丸」の甲板上では、乗組員が喜んで、大騒ぎをした。東郷平八郎は、その後も次々に砲弾を命中させた。

 これが、阿波沖海戦で、蒸気機関を装備した近代軍艦による、日本史上初の海戦だった。また、東郷平八郎にとっても、海軍の将となるべき第一歩の海戦となった。

 明治四年二月、東郷平八郎見習士官は、同僚十一名とともに、兵部省より英国官費留学を命ぜられた。ケンブリッジで英語を学んだ後、明治五年一月、ポーツマスの、ポリネー学校で英国海軍の基礎を学んだ。

 その後、東郷見習士官は、ダートマスの王立海軍兵学校入学を希望した。だが、東郷見習士官は、ダートマスの王立海軍兵学校に入学できなかった。ダートマスの海軍兵学校は超エリート校で、生徒は貴族が多かったので、英国政府が後進国の留学生は排除したのだ。

 「東郷平八郎」(真木洋三・文藝春秋)によると、海軍兵学校に入学を拒否された悔しさで悲嘆に暮れていた東郷平八郎は、商船学校に入ることを、ポリネー学校のポリネー校長から薦められた。

 ロンドンのテームズ川につながれているウースターという練習船があり、その練習船の教官は、ヘンダーソン・スミスという海軍大佐だった。