陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

734.野村吉三郎海軍大将(34)中立の立場にいた野村吉三郎中将は練習艦隊司令官に追いやられてしまった

2020年04月17日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正十五年七月二十六日、野村吉三郎少将は軍令部次長に補され、十二月一日、海軍中将に進級した。

 大正十五年十二月二十五日、大正天皇が崩御され、年号は昭和に改まった。

 時の内閣は若槻礼次郎内閣で、海軍大臣は財部彪大将、軍令部長は鈴木貫太郎大将、海軍次官は大角岑生中将、軍務局長は野村吉三郎中将と同期の小林躋三中将だった。

 連合艦隊司令長官は、かつて、ワシントン会議で大加藤と激論した加藤寛治中将だった。

 昭和二年四月二十日、陸軍大将・田中義一内閣が発足すると、加藤寛治大将が軍令部長に就任した。

 軍令部次長・野村吉三郎中将は、ワシントン会議以来の知己である軍令部長・加藤寛治大将の下で特に政争などに巻き込まれることはなかった。

 だが、昭和五年のロンドン軍縮会議が近づいてくると、海軍部内では、条約(軍縮)派と艦隊派の対立が際立ってきた。

 昭和三年十二月十日、野村吉三郎中将は軍令部出仕となり、軍令部次長の後任に、末次信正中将が就任した。

 軍令部は、加藤寛治大将、末次信正中将の艦隊派のコンビになってしまった。

 昭和四年二月一日、中立の立場にいた野村吉三郎中将は練習艦隊司令官に追いやられてしまった。

 その後、野村吉三郎中将は、昭和五年六月十一日、呉鎮守府司令長官、昭和六年十二月一日、横須賀鎮守府司令長官を歴任した。

 昭和七年一月二十八日、中華民国の上海共同租界周辺で、日本軍と中国軍が衝突し、第一次上海事変後勃発した。

 昭和七年二月二日、野村吉三郎中将は新編の第三艦隊司令長官に親補され、上海に赴いた。

 第三艦隊司令長官・野村吉三郎中将は艦隊の軍艦により、揚子江からの艦砲射撃で、白川義則陸軍大将が率いる陸軍の上海派遣軍を側面支援した。

 その後、第一次上海事変は、停戦の動きが進み、三月二十四日、日中両国の代表により第一回停戦会議が英国総領事館前で開かれた。

 四月に入り、英国などの大国の斡旋も続き、両国の交渉は進捗の目安がついてきて、昭和七年五月五日に停戦という運びとなった。

 昭和七年四月二十九日、天長節(昭和天皇の誕生日)の祝賀行事が、午前十時から上海市の虹口公園で行われ、大観兵式が挙行された。

 大観兵式後、虹口公園には小学生、青少年団、その他の団体が整列し、官民合同の天長節祝賀式が行われようとしていた。

一段と高い中央の壇上には、向かって右から次の人々が並んだ。

 在上海総領事・村井倉松、上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将、在上海公使・重光葵駐華公使、第九師団長・植田謙吉陸軍中将、上海居留民団行政委員会会長・河端員次、上海日本人居留民団・友野盛書記長。

 午前十一時半、式典は開始された。雨がばらついていた。祝辞朗読後、「君が代」合唱が終わり、壇上の白川義則陸軍大将が一歩前進して「天皇陛下万歳!」を唱えようとした。

 その時、上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将の右背後から水筒のようなものが、コロコロと転がり出た。

 ……なんだ? あれは……壇上の第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将や第九師団長・植田謙吉陸軍中将たちは、……誰かがいたずらをしたのか?……と肩を寄せて見ていた。