陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

227.山下奉文陸軍大将(7) 今度は山下中将が巨眼をむいて山本大将に迫った

2010年07月30日 | 山下奉文陸軍大将
 山下中将が、マレー、シンガポール攻略を担当する第二十五軍司令官に正式に任命されたのは、東京に着いた翌日、昭和十六年十一月九日だった(発令電報は十一月六日)。

 十一月十日、陸軍大学校で、すでに策定されていた陸海軍中央協定に基づき、山本五十六連合艦隊司令長官(海兵三二・海大一四)と寺内寿一南方軍総司令官(陸士一一・陸大二一)との間に、最終的な協定覚書が作成された。

 この日は、マレー作戦の第二十五軍司令官・山下奉文中将(陸士一八・陸大二八恩賜)を始め、フィリピン攻略担当の第十四軍司令官・本間雅晴中将(陸士一九・陸大二七恩賜)、ジャワ攻略担当の第十六軍司令官・今村均中将(陸士一九・陸大二七首席)、その他関係指揮官、幕僚も参集した。

 打ち合わせ終了後、正午から杉山元参謀総長(陸士一二・陸大二二)、永野修身軍令部総長(海兵二八恩賜・海大八)以下陸海軍幹部をまじえて、昼食会が開かれた。

 山下中将が席に着くと、右側の椅子があいている。誰が来るのかと思っていると、来たのは山本五十六海軍大将だった。

 「これは閣下」「お元気で、このたびは・・・・」と簡単な挨拶が済むと、早速、山本大将は山下中将に話しかけてきた。

 話題はドイツ視察団の際の見聞から、山下中将の職務が極めて頻繁に変わることに及び、山本大将は、「これでは閣下も困るし、職務自体にもマイナスである」と同情の念を表した後、山下中将を直視して次のように質問した。

 「今回の御任務、まことにご苦労ですが、閣下の確信はいかがです?」

 細いが鋭い山本大将の眼だった。その眼を山下中将もぎろりと見返して、得意の反問戦法を試みた。

 「いや、閣下のほうこそ、いかがですか?」

 すると山本大将は次のように答えた。

 「閣下、自分は半生をこの作戦(ハワイ空襲)に傾けてきました。必ず成功させます」

 そのあと、山本大将は、茶碗を右手に握ると、今一度、山下中将にマレー作戦に対する抱負を尋ねた。山下中将は次のように述べた。

 「問題は陸地に足をかけることにあると考えます。この方面については、両三年前から全ての記録をあさりつくしているので、事情はわかります。相手はインド人を交えた軍隊なので、始末はしやすい。上陸さえすれば必ず成功します。しかし、この点(上陸)は、当方としてはどうにもなりません」

 今度は山下中将が巨眼をむいて山本大将に迫った。「上陸船団の護衛に当たる海軍の南遣艦隊の劣勢」について、ただしたのである。

 山本大将は、ちょっと口ごもったが、すぐ山下中将を正視すると次のように率直に答えた。

 「お説の通り、その方面は海軍として、少し力不足の感があります。しかし、重点(ハワイ空襲)に徹する以上、やむを得ません」

 山下中将は、破顔してうなずいた。山本大将は山下中将より一歳年長で、そして一階級上である。その山本大将が素直に、辛抱をお願いする、との意を込めて答えた。この山本大将の態度は、何より率直さを好む山下中将を喜ばせた。

 山下中将は「なあに、開戦までは向うから手出しするとは思いません。成功しますよ」と言った。

 すると山本大将は「そう。連中にすれば、少しおどかせばこちらは引っ込むと思っているでしょう。上陸作戦も成功を信じております」と答えた。

 山下中将は「上陸すれば、必ず成功します。たとえ、山田長政になっても、必ずシンガポールはおとしてごらんにいれます」と言った。二人は最後には、快く笑い、お互いに成功を祈って別れた。

 昭和十六年十一月十五日、山下中将は第二十五軍司令官としてサイゴンに着任した。山下中将は早速南遣艦隊司令長官・小沢治三郎中将(海兵三七・海大一九)と会見して、上陸援護に関する陸海協定問題に取り組んだ。

 小沢中将は快く全力を挙げて上陸援護に当たる旨を答え、第三飛行集団長・菅原道大中将(陸士二一・陸大三一)もまた、損害をかえりみず上陸日日没までの上空警戒実施を承知した。

226.山下奉文陸軍大将(6) 東條陸軍大臣は、山下航空総監を遠いヨーロッパに遠ざけた

2010年07月23日 | 山下奉文陸軍大将
 山下中将は航空総監に就任したが、実際には航空総監としての仕事はほとんどしないで過ぎた。就任後まもなく、八月に入ると、ドイツ軍事視察団派遣が提議され、その団長に山下中将が内定した。

 このドイツ軍事視察団派遣団長の人事は東條陸軍大臣が、山下中将の次期陸軍大臣就任を阻止するために行ったと言われている。

 この頃、山下中将は陸軍部内で評価が高く人気があり、沢田参謀次長を始め支持者も多かった。この状況では次の陸軍大臣は東條の陸士一期後輩でもある山下中将になる公算が強かった。そこで、東條陸軍大臣は、山下航空総監を遠いヨーロッパに遠ざけた。

 昭和十五年十二月二十二日、山下中将を団長とするドイツ軍事視察団は東京を出発した。視察団はドイツ、イタリア両国を訪れ、軍事施設等を視察、昭和十六年七月七日、東京に帰着した。

 当時、山下中将は対米英戦争に反対していたと言われている。視察団副団長・綾部橘樹少将(陸士二七・陸大三六首席)によると、山下中将はドイツ、イタリアの視察から帰国する前に、使節団の一行を集め、次のように訓示したという。

 「諸君は近く大本営その他の本筋に復帰するであろうが、このたびの調査の結果にもとづく意見はかならずや各方面において重視されるに違いない」

 「それについてここで諸君に敢えて申しておくが、諸君は絶対に、すでに結ばれた日独伊三国同盟を拡張解釈し、英米に対し宣戦すべしなどと、かりそめにも言ってはならない」

 「視察の結果は諸君の見られる通りであるが、わが国は、決して他国を頼んではならないのである。日本は今こそソ連に備えて、速やかに国力を整備し、軍備をたてなおさなければならないのである。このことを、しかといましめておく」

 山下中将は、ドイツ軍事視察を終えて帰国すると同時に満州を防衛する関東防衛軍司令官を命ぜられた。七月十六日午後二時、葉山御用邸で視察についての御進講を終えると、山下中将は、五日後の七月二十一日午前九時三十五分東京発の「つばめ」に乗り込み、任地、牡丹江に出発した。

 山下中将の関東防衛軍司令官任命は、東條陸軍大臣の工作とも言われている。山下中将が御進講した昭和十六年七月十六日、近衛文麿首相は松岡洋介外相更迭のための総辞職を行った。

 東條陸軍大臣は政変を見越し、山下中将に陸軍大臣の椅子がまわらぬように、それまで反対していた満州の防衛軍創設をにわかに認可して、山下中将をその軍司令官のポストに押し込んだ、と言われている。

 山下中将とともに同軍の高級参謀に発令された片倉衷大佐が、赴任の挨拶に武藤章軍務局長を訪れた時、武藤軍務局長は「いずれ、山下(中将)は陸軍大臣として東京に帰る。その時は、君も陸軍大臣の補佐をつとめることになるはずだ」と述べたといわれている。

 昭和十六年十一月六日午前一時頃、関東防衛軍司令官・山下奉文中将は東京からの至急電に起こされた。「九日までに上京せよ」という。電文は簡略であるが、明らかに新編成の軍司令官任命の内報だった。

 十一月七日、山下中将は満州国皇帝にお別れの挨拶をした。新任務は極秘だが、皇帝はやがて「大日本帝国、同時に満州帝国の運命を決する」事態が起きることを感知した。

 皇帝はかねて好意を寄せる山下中将の手を握り、「元気に活躍せよ、再び新しき話を齎せ呉れよ、呉れ呉れも元気にて天皇陛下に忠勤を抽んでよ」と、両眼に涙を浮かべて別れを惜しみ、部屋の入り口まで山下中将を見送った。

 十一月八日、関東防衛軍司令官の職を解かれた山下中将は、この皇帝の殊遇に感激しながら次の軍司令官任命のため満州を発ち、特別機で日本の立川に向った。

 だが、立川飛行場に着陸したとたん、山下中将の心境は一変して不快になった。当然、出迎えがあるべきなのに、唯一人、それらしい姿は見えなかった。

 ガランとした滑走路を副官と二人、カバンをぶら下げて歩くと、行き交う整備兵がけげんに敬礼するだけである。飛行場の建物に入ると、中将閣下の到来に一同愕然とするが、参謀本部からもなんの連絡もない、という。

 やっと技術研究部から自動車を借りて東京・九段の偕行社に着くと、案内されたのは、なんと二階の小汚い部屋だった。なにぶんにも、良い部屋は新婚夫婦の予約済みでして、というのが、担当者の言い訳だった。

 「よし」と答えたものの、山下中将はムッとして、憤懣の文字を次のように日記に書き綴った。

 「結婚者ノ為ニ要ストテ良室ヲ彼等ニ与ヘ、出征将軍ハ二階ノ陋室(ロウシツ)ニ置ク・・・・・今ヤ全ク商売根性ニ駆ラレ大義モ何モ知ラズ、哀レナリ」

 食事も悪ければ、女中のサービスもひどかった。山下中将は、投げ出すように給仕する女中をプンとにらみつけた。

 「女中頭以下女中等、全ク月給ノ奴隷ニシテ明日出征スル人ノ為ナド毛頭考ヘ居ラザルハ遺憾至極ナリ」

225.山下奉文陸軍大将(5) 東條中将は、「なに、山下・・・」と、目を据えた

2010年07月16日 | 山下奉文陸軍大将
 帰順を終えた将校は官邸に集まるよう指示され、次々にやってきた。そのたびに、山下少将は呼び止めて、「おい、貴公、これからどうするか」と訊いた。

 「ハイ、自決します」と言えば右、「断固、昭和維新に邁進します」と言えば左の部屋を指示された。だが、自決組もやがて、野中四郎大尉(陸士三六)や栗原中尉らに説得されて、法廷闘争の道を選ぶことになった。

 「木戸幸一日記」の事件二日後の記述には、近衛公からの情報として「今回の事件は岡村(寧次)・山下(奉文)両少将、石本(寅三)大佐の合作なりとの相当確実なる聞き込みあり」という記述がある。

 昭和十一年二月二十六日に起こった二・二六事件以後、山下奉文将軍は、ほとんど東京というか、日本にいない。

 昭和十一年三月には歩兵第四十旅団長。第四十旅団長は左遷人事のように言われているが、二・二六事件後、広田弘毅内閣の寺内寿一陸軍大臣の配慮だったとも言われている。事件後、東京では軍法会議が始まり、山下少将も東京にいれば、平穏ではいられない。それで京城の第四十旅団に赴任させた。

 昭和十二年八月支那駐屯混成旅団長、十一月に中将に昇進し、昭和十三年七月北支那方面軍参謀長、昭和十四年九月第四師団長(満州)。

 昭和十五年七月になってようやく、航空総監兼航空本部長として中央に返り咲いたが、その年の十二月には東條英機陸軍大臣によりドイツ派遣航空視察団長に任命され、ドイツに追いやられた。

 昭和十六年七月新設の関東防衛軍司令官(満州・新京)、十一月第二十五軍司令官、開戦後マレー作戦(シンガポール陥落)。昭和十七年七月第一方面軍司令官(満州)。

 昭和十八年二月大将に昇進、昭和十九年九月第十四方面軍司令官(フィリピン)、昭和二十年八月フィリピンで終戦、捕虜となる。十二月マニラ軍事裁判で死刑判決、昭和二十一年二月二十三日処刑。

 以上のような、流れを見てみると、山下将軍は、二・二六時件以後、ほとんど外地に飛ばされ、そのあげく外地で処刑された。

 「フィリピン決戦」(村尾国士・学習研究社)によると、東條英機と山下奉文について、河辺正三陸軍大将(陸士一九・陸大二七恩賜)は、戦後、次のように語っている。

 「大東亜戦争になって、東條、山下の両氏は、なにか運命のようなものにさえぎられて肝胆相照らすことができなかったが、ベルン時代の二人は実に仲が良かった」

 「あれほど仲の良かった二人の結びつきが、大東亜戦争を前にして離ればなれになったということは、私には、なんだか不思議でならない。事情もあっただろうが、あの二人がしっかりと手を握ってくれたならば、日本の歴史も少しは変わっていただろう」

 実際、ベルン時代には山下と東條は一緒に旅行したり、東條が自分の愛人を山下に紹介したりしている。だが、後年、二人は袂を分かち、東條は山下を退けた。そして二人とも戦犯として処刑されることで、軍人としての人生を終えた。

 昭和十五年七月十八日、近衛文麿内閣の陸軍大臣に航空総監・東條英機中将が選ばれた。東條中将は、前任の畑俊六大将(陸士一二次席・陸大二二首席)から政変と陸相就任を告げられると、航空総監の後任は誰かと尋ねた。

 畑陸相が「山下奉文中将です」と答えると、東條中将は、「なに、山下・・・」と、目を据えた。思わず遠くを見つめるように。

 山下中将の航空総監就任は、山下中将の親友、参謀次長・沢田茂中将(陸士一八・陸大二六)の微妙な工作で決定した。

 沢田中将は後任陸相が東條中将と知ると、かねて不仲と承知される二人なので、東條陸相の下では、ますます山下中将の中央復帰のチャンスは遠のくと判断して、畑陸相に働きかけて非常手段をとった。

 七月十八日、畑陸相が後任陸相として東條中将を内奏するさい、山下中将の航空総監もあわせて奏上してもらったのだ。

 昭和十五年七月二十二日、山下中将は航空総監に就任し、東京に戻ってきた。「史説・山下奉文」(児島襄・文春文庫)によると、東京駅には、寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一)、杉山元大将(陸士一二・陸大二二)、阿南惟幾陸軍次官(陸士一八・陸大三〇)、沢田茂参謀次長(陸士一八・陸大二六)、武藤章軍務局長(陸士二五・陸大三二恩賜)その他多数の高級将校が出迎えた。

 山下中将は北支那軍参謀長として、寺内、杉山両軍司令官に仕えた。山下中将はまず両大将に敬礼すると、参謀次長・沢田中将の手を握った。

 「ありがとう」。その一言に、山下中将は沢田中将の友情に対する万言を越える感謝の意をこめ、握り返す沢田中将の手に、二度、三度と力をこめた。

224.山下奉文陸軍大将(4) 自分たちは義軍ですか、それとも賊軍ですか

2010年07月09日 | 山下奉文陸軍大将
 趣意書に二、三箇所の添削を終わったあと、山下少将は、しんとせまる寒気に背を固くして端座する二人の大尉に眼をむいたまま、ついに一言も発しなかった。

 「わからない」。山下少将の家を出た安藤大尉は首をひねった。いまの無言劇は何と解釈したらよいのであろうか。

 一つは山下少将が決起を本気にしなかったのではないかという見方であるが、これはうなずけなかった。とすれば、決起のことは本気だとしても、大規模なものではなく、数人の相沢中佐の挙にとどまるであろう。

 さらに青年将校らの一部的蜂起は政財界に対する軍の支配権確立のためにも有利に展開するのではないか、と考えての黙認の形の沈黙ではなかったか。

 もう一つは、自分の訓育した安藤大尉らに対する温情ではないかという見方だ。あの純真な安藤らが、ここまで思いつめた熱情に対して、せめて思いをとげさせてやりたいという無言の激励ではないのか。いずれにしても、推測の域を出るものではなかった。

 「死は易きことなり」(太田尚樹・講談社)によると、昭和十一年二月二十六日午前六時過ぎ、突然山下少将の自宅の電話がけたたましく鳴った。

 山下少将の妻、久子の妹、勝子が急いで電話口に出ると、電話の主は陸軍大臣秘書官・小松光彦少佐(陸士二九・陸大三八)だった。

 山下少将が電話に出ると、小松少佐が、青年将校らが政府首脳を襲撃したことを伝えた。山下少将は一瞬、「なにっ!」と驚いた後で、「よし、今すぐ行く」と言ってから電話を切った。

 その直後、久子も、妹の勝子も、山下少将の「バカめがっ!」という、吐き出すような声を聞いている。まさか青年将校たちがこういう形で事件を起こすことは予想外だったのだ。

 事件の朝、陸相官邸に駆けつけた山下少将は、軍事参議官の荒木貞夫大将(陸士九・陸大一九首席)、真崎甚三郎大将(陸士九・陸大一九)らの意を受けると、決起部隊説得のための草案作りにとりかかった。

 これが後に問題になる大臣告示だが、荒木、真崎らのように権限のない軍事参議官の名では出せないので、川島義之陸軍大臣(陸士一〇・陸大二〇)をしぶしぶ承諾させてできあがった告示だった。

 山下少将は決起した青年将校たちに、この大臣告示を読み上げた。だが、この大臣告示はあいまいな内容だったので、磯部ら青年将校が「自分たちは義軍ですか、それとも賊軍ですか」と山下少将に詰め寄ったのも無理は無かった。

 だが、山下少将はそれをまるで無視するかのように、同じ文面を三度読み返しただけだった。参内した川島陸相に対して天皇が怒りをあらわにして事件の鎮圧を命じたことも山下少将には分かっていたこともあるが、事件そのものに山下少将自身も不快感を抱いていた。

 事件翌日の二月二十七日、本庄繁侍従武官長(陸士九・陸大一九)が天皇に「青年将校らの行為は認めがたきものなれども、その憂国の精神はくんでやるべきかと・・・・」と申し上げると、天皇の返事は予想を超えて激しいもので、本庄侍従武官長を叱責し、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当タラン」と言われた。

 天皇は、決起した兵士達に速やかに原隊に復帰するよう奉直命令を出した。天皇の意思がはっきりした以上、決起部隊の青年将校たちが素直に原隊復帰に応じるか、皇軍あい撃つといった局面になった。

 二月二十八日、奉勅命礼を受けた香椎浩平(かしい・こうへい)戒厳厳司令官(陸士一二・陸大二一)から正式に戒厳令が公布された。これにより決起部隊は反乱軍となり、討伐命令が下されることになった。

 これを決起部隊の青年将校たちに伝えたのは山下少将だった。青年将校たちは陸相官邸で、大臣告示が空手形であったことを思い知らされ、自決しろと引導を渡された。

 「史説 山下奉文」(児島襄・文春文庫)によると、そのとき栗原安秀中尉(陸士四一)が「いま一度、統帥系統を経て、お上にお伺いしよう。もし死を賜るならば、侍従武官の御差遣を願い、将校は立派に屠腹し、下士官のお許しを願おう」と言った。

 山下少将はこれを聞き「よく、そこまで決心してくれた」と感涙した。山下少将は午後一時、川島陸相とともに本庄侍従武官長を訪ねた。将校一同は自刃する。下士官以下は原隊に復帰させる。ついては「勅使ヲ賜ハリ死出ノ光栄ヲ与ヘラレタシ」と言った。侍従武官の差遣は天皇の許可がいる。

 本庄侍従武官長は「とても駄目だろうが、一応申し上げてみる」と、天皇の前に出ると、果たして天皇は非常に立腹された。「自殺スルナラカッテニ為スベク、此ノ如キモノニ勅使ナド以テノ外ナリ」。

 さすがに山下少将も悄然として退出したが、陸相官邸に帰ってみると、青年将校達の姿は無かった。なんとなく自決ムードに支配されたものの、自分達が死んだら、昭和維新はどうなる、兵はどうなるんだ、と気づき、次々に自決中止、徹底抗戦の決意を固めてそれぞれの持ち場に戻ったのである。再び反乱部隊と、鎮圧部隊は対峙した。

 だが、二月二十九日になり、青年将校たちは、説得されて次々に帰順し始めた。山下少将は、十八の棺を用意して陸相官邸の玄関に立っていた。

223.山下奉文陸軍大将(3) 相沢がやったとき、ギャーッ! と、実に大きな悲鳴をあげたそうだよ

2010年07月02日 | 山下奉文陸軍大将
 「縦横談か・・・ハッハッ!」。山下少将は肥満した身体をゆすぶって言った。「特別これという話も無いがね・・・ニ、三日前、相沢三郎中佐(陸士二二)のところへ、面会に行ってきたよ」。

 「相沢中佐は元気でしたか」と青年将校が問うと、山下少将は次のように答えた。

 「元気だ。奴ももう悟り済まして、参禅を地で行っているような気持ちでいるようだ。オレは別に何も言うことはないから、禅も武士道も帰すところは同じだから、武士道を守らにゃいかん、と話した」

 「相沢は喜んでね・・・・あの兇行の日に、廊下でオレから『静かにせにゃいかん』と言われたことを、しきりに感謝していた。オレの声が耳に入ったんで、自分は落ち着きを取り戻し、神気に打たれたような爽やかな気分になりました、と何度も繰り返してたよ」

 これは山下少将の自慢話だったが、青年将校たちは、生真面目な顔つきで拝聴した。山下少将は続けた。

 「そういったところが、いかにも相沢でね・・・・オレが帰ろうとしたら、閣下、と呼び止められてね・・・国家非常の際ですから、どうか閣下も御国のために確りやって下さい! オレは気合をかけられて、帰ってきた」

 和やかな笑いが、まき起こった。山下少将は若い者らの笑いを、気持ちよさそうに見やっていたが、やがて目をすぼめるようにして、左右を見回し、「あれだってね・・・・・大きな声がしたそうだね」と前置きしてから、軍刀の柄を両手で握って刺す真似をして「相沢がやったとき、ギャーッ! と、実に大きな悲鳴をあげたそうだよ」と言った。

 ギャーッ! と、悲鳴をあげたのは軍務局長・永田鉄山陸軍少将(陸士一六首席・陸大二三次席)のことだった。だが、青年将校たちは、今度は誰も笑わなかった。ただ、目を見張っているだけだった。山下少将は薄笑いをぎこちなく引っ込めた。

 話が「十一月事件」にふれた。「アノ事件では、永田は小細工をやりすぎたよ」と山下少将は言い、次のように話を続けた。

 「大体、おかしいじゃないか。士官候補生を逮捕するのに、生徒隊長や学校長は何も知らないで、軍務局長と陸軍次官だけでやっておる・・・・あれはいかん。小細工はいかんよ、大鉈で行かにゃ!」

 やっぱりそうか、村中や磯部が躍起になっている通り、やはり永田の策謀で、辻政信大尉は永田に踊らされてやったのだな、と、そんな表情が青年将校たちの顔に浮かんだ。

 話は次第に現在の時局問題にふれてきた。青年将校たちは山下少将が陸軍省の調査部長として、どのような認識を持っているか知ろうとして熱心に耳を傾けた。だが、山下少将の話はのらりくらりとして、核心を外れ、つかみ所が無かった。

 とうとう安藤大尉が「岡田啓介総理(海兵一五・海大二)はどうですか」と質問した。すると山下少将は、大きな二重まぶたの目を、ピカリと光らせて、「岡田なんか、ぶった斬るんだ!」と声に力を入れて言った。

 山下邸からの帰途、青年将校たちは話し合った。新井勲中尉(陸士四三)が「安藤さん、山下閣下は、岡田はぶった斬るんだ・・・といいましたね?」「うん、言った」「あれは一体どういう意味なんですか」「どういう意味か・・・・俺にもよく分からん」「ほんとに、ぶった斬れ、というんでしょうか」「さあ?」安藤大尉は首をひねって、あとは重苦しく押し黙った。

 だが、この「岡田なんか、ぶった斬るんだ!」の一言が、青年将校たちを二・二六事件に突っ走らせたという人々もいる。だが、青年将校たちはそれほど単純ではない。上層部へのつながりができたと力強く思った程度であろう。

 「日本を震撼させた四日間」(新井勲・文春文庫)によると、このときの山下少将訪問の感想を、新井勲中尉は次のように述べている。

 「山下の語る所はまことにつまらぬものばかりであった。ほかの者は知らぬが、実は、私としては非常に失望した。今迄軍の中央部には、政府よりも何よりも期待と尊敬とをもっていたものだが、その脳味噌のカラッポを見せ付けられたからだ」

 だが、山下少将の青年将校に対する扇動は、二・二六事件の発生を考えると、あまりに重大すぎた。特に、天皇陛下の怒りは頂点に達したと言われている。

 「評伝・真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、山下工作で最も象徴的だったのが、二月十三日の会見だった。この日山下邸を訪れたのは、安藤輝三大尉(陸士三八)と、野中四郎大尉(陸士三六)だった。

 二人は「蹶起趣意書」を携行していた。山下少将が現れると、「閣下、蹶起趣意書であります」と、テーブルの上に広げた。

 山下少将は無言で一読したが、やがて筆をとると、数箇所添削した。野中大尉と安藤大尉は息をのんで山下少将を凝視した。