陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

283.鈴木貫太郎海軍大将(3)いやしくも参謀がこんなことを言うとは何事だ

2011年08月26日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 その年の十一月二十一日、鈴木貫太郎少尉は海軍大尉に昇進した。当時は中尉の階級が無かったので、少尉からいきなり大尉になった。

 明治二十八年一月、鈴木大尉は、水雷艇六号艇長として日清戦争の威海衛攻撃に参加した。

 日清戦争終戦後、五月二十三日、鈴木大尉は三等海防艦海門(鉄骨木皮スループ・乗員二一〇名・一三八一トン)の航海長に任命された。

 「日本人の自伝12」(鈴木貫太郎・平凡社)によると、その年の七月、海防艦海門は台湾攻略戦に参加して、明治二十九年三月、佐世保にやっと凱旋入港した。

 ところが。凱旋入港したのだが、歓迎はなかった。「一番後まで働いた者は忘れられてしまったのだろう」と鈴木大尉は思った。

 佐世保鎮守府から参謀が来たので、鈴木大尉が「歓迎に来た」と思って出向いたら、「海門はどこから来たか?」と問う始末だった。

 鈴木大尉は、いやしくも参謀がこんなことを言うとは何事だと癪に障った。

 それで、その参謀に「日本の軍艦では最後の凱旋だ。我らはどうでも良いが艦長だけはうんと歓迎してもらいたい。長官にそう言ってくれ」と言ったが、結局歓迎会ひとつもやらなかった。だが、艦長だけは長官に招かれてご馳走になった。

 昭和二十九年四月、三等海防艦比叡(乗員三〇八名・二二五〇トン)の航海長兼分隊長に任命された。比叡は練習艦隊として候補生を乗せて遠洋航海に出ることになった。

 その年の十二月、比叡は遠洋航海に出発することになった。その時になって、鈴木大尉は航海長をやめさせられ、分隊長となった。

 遠洋航海に出たときは、「君達は先に威海衛で働いたから、今に駆逐艦ができるから、その時の回航委員に是非やってやる」という有難い話だった。

 だが、専門の人がその方に行って、鈴木大尉達にはお鉢が回って来なかった。遠洋航海にやって、つまりイギリスに行くことを帳消しにするのではないかと疑惑を持った。

 航海長であってこそ練習艦隊の練習にもなる。分隊長は練習候補生の教育関係であるが、伴食の分隊長で甚だつまらないと鈴木大尉は厭に感じた。

 そこで鈴木大尉は、艦長に露骨に言うこともできないので、海軍大学校に入りたいので志願するから、やっていただきたいと申し出てみた。

 ところが艦長は、「海軍大学校は試験が厳格だ、君は確実だろうが、学校に入ってもつまらんから遠洋航海に行ったほうが良い」と言って、しきりに留めた。

 鈴木大尉は、「(伴食の分隊長で)つまらんと思った時は、むしろ学問した方が良い。いやな航海をしているのはなおいやだ、大学校に入れる入れないは時の運だから」と、聞かなかった。それで艦長は進達した。

 それで、鈴木大尉は十二月に三等海防艦金剛(乗員二八六名・二二五〇トン)の航海長を命ぜられ、しばらく呉に残ることになった。

 その後翌年まで金剛にいるうちに、海軍大学校の試験を受けた。その試験の中で「艦隊に於ける最良の戦闘陣形を論断せよ」という問題が出た。この対策が判っていれば艦隊の長官になれるということだった。

 一ヶ月の猶予のある問題だったが、鳥海にいる時に暇にまかせて戦術を研究していたものが役に立ち、鈴木大尉は三日で仕上げて提出した。

 鈴木大尉は海軍大学校の試験に合格した。対策は「鈴木大尉のが一番良かった」と海軍大学校教官・島村速雄少佐(海兵七・軍令部長・男爵・元帥)から誉められた。

 鈴木大尉は「鳥海のときに、つまらん時には本を読んだが、その読んだものが、時が経ってからとんでもない用をするものだ。まさか大学校に入るに役立とうとは思いもかけぬことだ」と思った。

 明治三十年四月、鈴木大尉は三十歳で出羽重遠(でわ・しげとお)大佐(海兵五・大将)の媒酌により大沼とよ(十八歳)と結婚。四月二十九日海軍大学校に入校した。

 海軍大学校では最初に一年間砲術の専門を学んだ後、鈴木大尉は明治三十一年四月、甲種学生に採用された。六月二十八日海軍少佐に昇進した。

 海軍大学校甲種学生は参謀やその他要職にあてるための教育だった。これは規定では二年間だったが、鈴木少佐は、初めから砲術の専科を終了していた。

 それで、その年の十二月十九日、海軍大学校甲種学生一期生として卒業した。卒業後、軍令部第一局員、海軍省軍務局軍事課員となった。

282.鈴木貫太郎海軍大将(2)相撲なら誰にも負けないが、ゆったり落ち着いた鈴木にはどうかわからんぞ

2011年08月19日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 明治二十二年九月三十日、鈴木貫太郎少尉は巡洋艦高雄(乗員二二〇名・一七五〇トン)に分隊士として乗組んだ。

 高雄の艦長は山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大佐(海兵二・海相・大将・首相・伯爵)、副長は斉藤実(さいとう・まこと)中佐(海兵六・海相・大将・首相・子爵)だった。

 「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、山本艦長は暇なときには必ず若い士官と談笑し、海軍を語り、軍人精神を語った。山本艦長の次の様な言葉が残っている。

 「武士は金銭を軽蔑するが、武士も人間だ。霞を食っては生きていけまい。時と場合によっては、上司と意見を異にして辞めなければならんこともある。治にいて乱を忘れずは武士のたしなみだ。平素からその日のことを考えておかねばならん。散財して大人物ぶるのは馬鹿のやることである」。

 一生を通して、鈴木貫太郎は山本艦長の訓えをよく守った。質素にし、治にいて乱を忘れぬ人間を、鈴木は自ら造り上げていった。

 また、山本艦長の言葉として次の様な言葉も残っている。

 「俺は相撲なら誰にも負けないが、ゆったり落ち着いた鈴木にはどうかわからんぞ」。

 たくましい体、はちきれそうな若さ、あふれるような温容を持つ鈴木貫太郎の青年士官時代が、この山本艦長の言葉から思い描ける。

 少年時代から心優しさを鈴木は持ち続けていた。常に両親への送金は忘れなかった。遠洋航海から帰ってきた時、誰もが残った手当てを酒などで散財するのに、鈴木は母、きよに銘仙のかすりを買って送った。

 明治二十四年八月六日、鈴木貫太郎少尉は砲艦鳥海(乗員104名・六〇二トン)分隊長心得になった。二十四歳だった。

 「終戦時宰相・鈴木貫太郎」(小松茂朗・光人社)によると、明治二十五年、朝鮮の済州島(チェジュとう・さいしゅうとう)で、日本の漁夫が殺されるという事件が起きたので、その談判の命令を受けた仁川(インチョン・じんせん)領事の林権助を砲艦鳥海に乗せて行った。

 いざ出帆というのに、数ヶ月も碇泊していたので、船の周りには全面、牡蠣がついてしまって、船の速力は三ノットしか出なかった。だから潮時を考えて運航しないと、岩にぶっつけるし、途中で嵐にやられたり、散々な目にあった。

 艦長の伊藤常作少佐(海兵三・砲術練習所長・少将)は、これではとても目的地に近づくことはできないからといって、所安島(ソアントウ)に碇泊し、海岸の砂地を見つけていいところに船を乗り上げた。

 この辺りは潮がよく引くから、潮時の三メートル前後のところで、天然のドックにいれ、水兵全員で牡蠣落としをやり、一番ひどかったところの牡蠣を、全部かき取った。

 翌朝、済州島に向け出発した。速力は七ノットも出た。当時の船としては、それが全速力だった。済州島に着いて、船を寄せ、上陸することになった。

 鈴木貫太郎少尉は護衛として、二十人の兵を連れて出発することになった。群衆が敵意の強い、燃えるような目をして上陸地点に近寄ってきた。

 鈴木少尉は、指揮刀を持っていたが、抜けば刃がないのが分かってしまうと思って、心細いが抜かずにいた。

 兵には上陸するとすぐ着剣させた。銃を先方へ向けてかまえた。いつでも戦える体勢である。多数の群集がスーと道の両側によけたので、林領事たち三人のほかに、参判という高い地位の朝鮮政府の役人一行を上陸させた。

 そうして役所のほうへ進んで行くと、朝鮮の兵隊が飴屋のラッパで迎えに来た。旗も立てていたが、昔のままの兵隊で、鉄砲は銃身の長いものだった。

 青龍刀を持って、いかにも伝統そのままの様子だった。着衣も青い空色のが一番の頭、兵隊は赤い色と色分けしてあった。

 役所に着いたら、大門を閉じて、くぐり門から入れ、と言う。大門は制限があって容易には開けないらしかった。

 談判の中で、朝鮮の大官も来ている。鈴木少尉は、日本の天皇陛下の代理で来ているのだ。「開けろ。開けなければ、談判をやらずに、このまま帰って朝鮮政府に報告する」と脅したら、飛んで行って知事に訴え、あわてて大門を開け、驚くほど丁寧になった。

 その間、鈴木少尉は二十人の兵隊に銃をかまえさせて、脅したり、今にも鉄砲を撃ちそうなポーズをとらせた。

 さすがに驚いたのであろう。当方の望みどおりになった。三日ほど考証して、漁夫を殺した事情を調べ、賠償金を出させた。

281.鈴木貫太郎海軍大将(1) 海軍軍人になって「鬼貫太郎」と異名をつけられた

2011年08月12日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 「聖断~天皇と鈴木貫太郎」(半藤一利・文芸春秋)によると、鈴木貫太郎は父・鈴木為輔(維新後に由哲と改名)、母・きよの長男として慶応三年に生まれた。由哲には四男四女があった。

 鈴木為輔は、安政年間に老中を勤めた久世大和守広周の警護役であったが、元治元年に代官として泉州(和泉国)に移った。

 代官の鈴木為輔は、その寛仁さで領民に慕われた。あるとき、農村を巡察中に、百姓が肥桶をひっくり返し、代官である鈴木為輔の衣服を汚すという事件が起きた。

 当然にお手討ちを覚悟した百姓に、鈴木為輔は、かたわらの小川で衣服を洗い、「これできれいになった。心配せずともよい」と笑って言ったという。

 貫太郎の母、きよは、栃木県佐野の修験道場総本山の住職の三女で、躾は厳しく教育熱心であった。その甲斐あって、子は例外なく英才であった。

 母の教育により長男、貫太郎は明治という折目正しい時代においても特に折目正しい男として育った。親孝行で、礼儀正しく、長幼の序をわきまえ、心のうちの規律がきっちりしていた。

 貫太郎は外へ出て菓子か何かを貰ってくると、「ただいま帰りました」と手をついて挨拶してから、その包みをそのまま母親に差し出した。母が「お前がお上がり」と言っても、母が手をつけないかぎり決して食べなかったという。

 貫太郎は幼い時から心の中に則を定め、それを超えようとはしない律気を持っていた。己に対しては厳しく、親切で優しかった。

 だが鈴木貫太郎は後に、海軍軍人になって「鬼貫太郎」と異名をつけられた。それほど激しい闘志を持った人物に成長した。

<鈴木貫太郎海軍大将プロフィル>

慶応三年十二月二十四日和泉国大鳥郡久世村(大阪府堺市)生まれ。関宿藩士(代官)の父・鈴木為輔(維新後に由哲と改名・久世家和泉領代官)、母・きよの長男。由哲には四男四女があり、長男の貫太郎の上の三人は女子、次男は鈴木孝雄陸軍大将、三男は鈴木三郎(久邇宮家御用係)、四男は永田茂陸軍中佐、それに妹がいた。
明治六年(六歳)三月千葉県関宿の久世小学校に入学。
明治十年(十歳)父・由哲の群馬県庁(十四等出仕)就職に伴い群馬県前橋市に転居。桃井小学校に転校。
明治十四年(十四歳)三月桃井小学校卒業。利根中学校(後の群馬中学校)入学。
明治十六年(十六歳)十一月群馬中学校を退学、上京し近藤塾(攻玉社の前進)に入塾(海軍兵学校受験のため)。
明治十七年(十七歳)九月四日海軍兵学校(東京築地)入校。十四期生で六十名。
明治二十年(二十歳)七月五日海軍兵学校卒業(十四期)、少尉候補生。九月二十四日巡洋艦筑波(コルベット・乗員三〇一名・一九四七トン)で遠洋航海(アメリカ・メキシコ・パナマ・南洋タヒチ・ハワイ)。
明治二十一年(二十一歳)八月一日巡洋艦天龍(コルベット・乗員二一〇名・一五二五トン)乗組。
明治二十二年(二十二歳)五月十五日防護巡洋艦高千穂(乗員三二五名・三六五〇トン)乗組。六月二十二日海軍少尉。砲艦天城(木製スループ・乗員一五九名・九一一トン)分隊士。九月三十日巡洋艦高雄(乗員二二〇名・一七五〇トン)分隊士。
明治二十三年(二十三歳)十二月十五日水雷練習生として水雷練習艦迅鯨(じんげい・コルベット・乗員一七〇名・一四六五トン)乗組み。
明治二十四年(二十四歳)七月二十三日海防艦金剛(装甲コルベット・乗員二八六名・二二五〇トン)分隊士。八月六日砲艦鳥海(乗員104名・六〇二トン)分隊長心得。
明治二十五年(二十五歳)十一月二十一日海軍大尉(当時官制には中尉はなかった)。砲艦鳥海分隊長。
明治二十六年(二十六歳)十一月八日横須賀水雷隊攻撃部艇長。
昭和二十七年(二十七歳)七月二十一日三等水雷艇六号(乗員十六名・五四トン)艇長として対馬警備に従事。八月一日日清戦争開戦。十月二日常備艦隊第三水雷艇隊編入。十一月旅順攻略に出動。
明治二十八年(二十八歳)一月日清戦争で水雷艇六号艇長として威海衛攻撃に参加。三月日清戦争終戦。三月二十三日三等海防艦海門(鉄骨木皮スループ・乗員二一〇名・一三八一トン)航海長。四月十七日日清講和条約。七月台湾攻略戦参加。
明治二十九年(二十九歳)三月海門佐世保入港。四月三等海防艦比叡(金剛型装甲コルベット・巡洋艦・二番艦・乗員三〇八名・二二五〇トン)航海長兼分隊長。十二月三等海防艦金剛(装甲コルベット・乗員二八六名・二二五〇トン)航海長。
明治三十年(三十歳)四月六日大沼とよ(十八歳)と結婚。四月二十九日海軍大学校将校科(砲術)入校。
明治三十一年(三十一歳)五月二日海軍大学校将校科卒業、海軍大学校甲種教程入校。六月二十八日海軍少佐。十二月十九日海軍大学校甲種教程卒業(一期)。軍令部第一局局員、海軍省軍務局軍事課課僚。
明治三十二年(三十二歳)二月一日陸軍大学校兵学教官(兼務)。五月二十五日海軍大学校教官(兼務)。七月二十二日学習院教授(兼務)。
明治三十四年(三十四歳)七月二十九日ドイツ駐在を命ぜられる。九月七日ドイツに向け出発。ヨーロッパ各地を視察。
明治三十六年(三十六歳)九月二十六日海軍中佐。十二月三十日装甲巡洋艦春日(乗員六〇〇名・七六二八トン)回航委員として帰国命令。
明治三十七年(三十七歳)一月八日装甲巡洋艦春日を回航、帰国へ。二月六日日露戦争開戦。二月十六日横須賀帰国、装甲巡洋艦春日副長。九月十二日第五駆逐隊司令。
明治三十八年(三十八歳)一月十四日日露戦争に第四駆逐隊司令として従軍、黄海海戦、五月二十七日~二十九日日本海海戦に参加。九月五日日露講和条約成立。十一月二十一日海軍大学校教官。
明治三十九年(三十九歳)二月七日陸軍大学校兵学教官(兼務)。四月一日日露戦争の功により功三級金鵄勲章並びに年金七百円及び勲三等旭日中綬章。十月二十二日海軍教育本部部員(兼務)。
明治四十年(四十歳)九月十八日海軍大佐。
明治四十一年(四十一歳)九月一日防護巡洋艦明石(乗員三一〇名・二七五八トン)艦長。
明治四十二年(四十二歳)十月一日練習艦隊、巡洋艦宗谷(乗員五七一名・五六〇〇トン)艦長。
明治四十三年(四十三歳)七月二十五日海軍水雷学校長。
明治四十四年(四十四歳)十二月一日戦艦敷島(一四八五〇トン)艦長。
大正元年(四十五歳)九月十二日巡洋艦筑波(一九四七トン・第二予備艦)艦長。九月十八日とよ夫人逝去、享年三十三歳。
大正二年(四十六歳)五月二十四日海軍少将。八月十日第二艦隊司令官。十一月十五日舞鶴水雷隊司令官。十二月一日海軍省人事局長。
大正三年(四十七歳)四月十七日海軍次官。
大正四年(四十八歳)六月七日足立タカと再婚。
大正五年(四十九歳)四月一日勲一等旭日大綬章。
大正六年(五十歳)六月一日海軍中将。九月一日練習艦隊司令官。
大正七年(五十一歳)十二月一日海軍兵学校長。
大正九年(五十三歳)十二月一日第二艦隊司令長官。
大正十年(五十四歳)十二月一日第三艦隊司令長官。
大正十一年(五十五歳)呉鎮守府司令長官(十四代)。
大正十二年(五十六歳)八月三日海軍大将。
大正十三年(五十七歳)一月二十七日第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官(旗艦長門)。
大正十四年(五十八歳)四月十五日海軍軍令部長。
昭和四年(六十二歳)一月二十二日予備役編入、侍従長に就任。二月十四日枢密院顧問官(兼任)。
昭和九年(六十七歳)勲一等旭日桐花大綬章。
昭和十一年(六十九歳)二月二十六日、2.26事件で青年将校に銃撃されるも一命は取り留める。十一月侍従長辞任。勲功により男爵を賜る。
昭和十四年(七十二歳)二月から昭和十九年八月まで、二十六回にわたり、青木常盤を相手に「鈴木貫太郎自伝」を語る。
昭和十五年(七十三歳)六月二十四日枢密院副議長。
昭和十九年(七十七歳)八月十日枢密院議長就任。
昭和二十年(七十八歳)四月七日天皇の懇望により内閣総理大臣就任。八月十五日玉音放送のあと内閣総辞職。十二月十五日枢密院議長(再任)。
昭和二十一年(七十九歳)六月三日公職追放冷の対象になり枢密院議長を辞職。八十歳につき天皇より鳩杖を賜う。故郷の千葉県関宿に帰る。故郷では農事研究会などを組織して、農業・略脳の発展に尽くした。
昭和二十三年四月十七日死去。享年八十一歳。関宿町(現・野田市)の実相寺に葬られた。遺灰の中に2.26事件の時に銃撃された弾丸が残っていた。
昭和三十五年終戦に関する功績により従一位を贈位される。
昭和三十八年故郷の千葉県野田市関宿町に鈴木貫太郎記念館が建設された。

280.今村均陸軍大将(20)その東條をミスキャストしたのは木戸幸一である

2011年08月05日 | 今村均陸軍大将
 七月、事件がおきた。防空演習のため灯火管制がおこなわれていたことを知らずに電灯をつけていたスカルノが家に踏み込んできた将校にいきなり頬をぶたれたのだ。

 これを聞いた、今村中将は、中山大佐とその将校をスカルノの許に行かせ、詫びさせた。スカルノも「私のほうにも非があった」と笑顔で握手を交わした。

 翌日礼を述べに来たスカルノに向かって、今村中将は「日本軍には昔からビンタという悪弊があり、なかなか改められません。今後民衆にビンタをやる者がありましたら、遠慮なく私に知らせてください」と言った。

 ところが、「スカルノ自伝」(スカルノ・黒田春海訳・角川文庫)によると、スカルノもこの事件に触れているが、「灯りを消し遅れただけで、私は日本の将校に顔をめちゃくちゃにひっぱたかれた」と述べており、今村中将がこの事件に対処したことには一行も触れていない。

 「スカルノ自伝」は、彼が大統領であった一九六一年(昭和三十六年)に、アメリカの女性記者シンディ・アダムスに口述したものである。

 権力の座にあったスカルノだが、インドネシア独立前の日本軍部との関係は、いつまでも彼の“アキレス腱”だったのである。「スカルノ自伝」の随所に、自分の立場を誇張し、正当化しようとする意図が見られる。

 スカルノは「今村大将は本当の侍(さむらい)だった。……紳士的で、丁重で、気品があった」と述べているが、「政治的交渉においては私のほうが上手だった。……私の手にあって、彼は乳児に等しかった」と自分の優位を誇示している。

 また、スカルノは後に副大統領になるハッタにむかって「…私は日本と共に働く道を選ぶ。諸君の力を強化し、日本が敗れるのを待つのだ」とも語っている。

 今村中将とスカルノは互いに相手の立場を理解した上で、個人として好意を抱き合った。それから七年後、インドネシア独立直前のスカルノは、戦犯としてジャカルタの刑務所に収監されている今村元大将を、非常手段を用いても救出しようとしたこともあった。

 「将軍の十字架」(秋永芳郎・光人社)によると、もし、オランダが今村に死刑を宣告するようなことがあれば、その監獄をおそって今村を奪回するか、死刑場を襲って救出する計画をたて、事実、二つの部隊を編成していたという。

 ジャワの第十六軍司令官・今村中将は、その後、昭和十七年十一月九日、ラバウルの第八方面軍司令官に親補され、昭和十八年五月一日、陸軍大将に昇進した。

 「丸・戦争と人物20・軍司令官と師団長」(潮書房)所収「開戦時軍司令官の経歴」(森山康平)によると、今村均(陸士一九・陸大二七首席・大将)は戦後、「人物往来」昭和四十一年二月号で、岡村寧次(おかむら・やすじ・陸士一六・陸大二五恩賜・陸軍大将)と対談している。

 その席で、今村は東條英機(陸士一七・陸大二七・大将・陸軍大臣)について次の様に語っている。

 「あの人(東條英機)を、あの武人を、政治の場に持ってきたのは木戸幸一さんなんです。木戸さんと私とは、私の家内の血縁をたどると親戚関係になるが、いまでも毎年一回親戚中が集まって話をするとき、私は木戸さんの顔を見るとこう言うんです。『大東亜戦争の原因は、あなたが大責任者だ。どうして東條をあんな責任の地位に置いたのか…』と」

 「岡村さんの言われる通り、あの人は政治家じゃない。軍人ですよ。その人が国の政治をやったのが間違いの元だったのです。それに対して、木戸さんは『その通りだ』と言っています。そして、いまだに謹慎していて、誰とも会おうとしません」

 今村均は、この席で岡村寧次に「参謀本部で作戦課長をやっていた時(昭和六年八月から満州事変を挟んでの数ヶ月)、東條さんは編成課長でして、個人的には非常に親しくしていました・・・」と語っている。

 今村均は、太平洋戦争開戦時は第十六軍司令官(インドネシアのジャワ島攻略)、次に第八方面軍司令官(ソロモン・ニューギニア作戦)として、開戦から終戦まで常に第一線指揮官として前線にいた。

 その太平洋戦争の直接の引き金役は、東條であり、その東條をミスキャストしたのは木戸幸一である、というのが、今村均の胸中にわだかまっていた。

 終戦後、今村大将はラバウルで戦犯収容所に収監され、昭和二十二年、オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁錮十年)を受けジャワ島移送された。

 昭和二十五年にインドネシアより帰国するが、ニューギニアのマヌス島で服役することを自ら申し出てマヌス島で服役開始。

 昭和二十八年日本の巣鴨拘置所に移送され、昭和二十九年十一月刑期を終え出所した。昭和四十三年十月四日死去。享年八十二歳だった。

(「今村均陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「鈴木貫太郎海軍大将」が始まります)