陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

260.山口多聞海軍中将(20)一艦、一戦隊の沈没や敗辱の責は、一将にとって死に勝るものである

2011年03月18日 | 山口多聞海軍中将
 山口少将の持論は他を制する卓見だった。これはすぐにも実現できる構想だった。「なるほど」、山本大将がうなずいた。宇垣参謀長の当日の日記には「なかなか活気も出て、収穫も多し」とある。

 だが、山口少将のような抜本的改革案は他にはなく、連合艦隊参謀の三和義勇中佐(海兵四八・海大三一次席)は「皆勇者で、智者のようなことを言っているが、失敗も相当、多いであろうに」と不安を覚え、日記に記している。

 そして、山口少将の提案はいつも間にか、うやむやになってしまった。飛行隊総指揮官の淵田美津雄中佐は、「保守はいつの世にもスローモーションである。こんどのミッドウェー作戦に、山口少将案は採用されるに至らなかった」と無念の思いを述べている。

 山口少将は不本意であった。山本長官が、なぜもっと強く押してくれないのか。疑問が残った。山本長官は真珠湾攻撃の成功で、いまや神格化されており、山本長官自身、心の中に隙があったとも言われている。

 山口少将の案でいけばミッドウェー作戦は勝利していたかもしれないのだが、あるいは、この当たりが山本五十六の限界であったかもしれない。だが、当時、日本海軍を引っ張るのは山本五十六大将以外にはいるはずもなかった。

 このような状況で、昭和十七年六月五日から七日にかけて、ミッドウェー海戦は行われた。日本海軍は大敗した。精鋭空母四隻と多数の飛行機と搭乗員を失った。空母「加賀」「蒼龍」は撃沈され、「赤城」と山口少将の座上する「飛龍」は大破し自沈した。

 最初の敵の攻撃で、ただ一隻「飛龍」のみが被害を免れた。山口少将は、すかさず、「我れ、今より航空戦の指揮をとる」と、攻撃機を発進させた。

 「飛龍」の攻撃隊は敵空母「ヨークタウン」を爆撃、大破させ仇を討った。だが、その後敵の二隻の空母「エンタープライズ」「ホーネット」から飛び立った攻撃機により「飛龍」も攻撃を受け、大破、自沈した。

 「父・山口多聞」(山口宗敏・光人社)によると、昭和十七年初夏の頃、牛込北町の山口の家に、電気冷蔵庫の修理に来ていた近所の電気屋が、妻の孝子に「奥さん、ご主人は大丈夫ですか?」と、執拗に尋ねていたという。

 孝子はそんなことは取り合わなかった。孝子にはその時点でまだ何も知らされていなかった。だが、この電気屋は、当時、絶対に禁止されていたアメリカの短波放送をこっそりと聞いていたのだろう。

 孝子が心配になって海軍省に問い合わせたところ、「閣下は、出撃方面が違いますから、どうぞご安心ください。お元気ですからご心配はいりません」というばかりで、始終その態度は変わらなかったという。

 だが、その年の秋ころになると、ミッドウェー海戦は、どうも日本側の大敗だったらしいという噂が巷に流れ始めた。

 昭和十七年六月六日午前六時六分、空母「飛龍」は自沈したが、山口多聞司令官と加来止男艦長は退艦せずに「飛龍」と運命を共にして戦死していた。

 「炎の提督・山口多聞」(岡本好古・徳間書店)によると、自沈の前に、第十駆逐隊司令の阿部俊雄大佐(海兵四六)が、空母「飛龍」に乗り込んできた。阿部大佐は阿部弘毅海軍中将(海兵三九・海大二三)の弟だった。

 阿部大佐は、艦と共に沈もうとする山口少将に、直立不動の姿勢で、「海軍と我々には、司令官、あなたこそかけがえのない先輩です」と言い、と血を吐くような気迫で、次の様に言って翻意をうながした。

 「二艦喪う責任の重みも、一将喪う嘆きにはとうてい叶いません。七生報国とは、七度死しても七度生まれ変わるのではなく、七度の死線を克服して、生きのびることではありませんか」。

 これに対して、山口少将は、昂ぶる青年を鎮静させる翁のような微笑で「私は責任を完うする。これは私が満足し、最善と思う方法をとるだけだ」と答えた。そして次の様に言った。

 「阿部大佐、この戦争は、あと二、三年は非常な激戦の形で続くと私は思う。その間、君も私やこの加来艦長と同じ立場になるかもしれない。その時、一艦、一戦隊の沈没や敗辱の責は、一将にとって死に勝るものであることが分かるだろう。敗勢が己の不徳によることなく、たとえ渾身の善戦をなして悔いることなくてもだ。古来、海将にとって艦とはそのようなものではないか」。

 その阿部大佐は、後に巨大空母「信濃」の艦長に任命されたが、昭和十九年十一月二十九日、アメリカ潜水艦の雷撃で「信濃」は沈没した。阿部大佐は、乗組員を救助することに全力を尽くした後、艦と運命を共にした。戦死後海軍少将に特進した。享年四十九歳だった。

 「戦藻録」の六月六日の日記に、連合艦隊参謀長・宇垣纏少将は次の様に書き残している。

 「級友山口多聞少将と航空の権威たる加来止男大佐を失ふ。痛恨限り無し。山口少将は剛毅果断にして見識高く(中略)余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり。(中略)司令官の責任を重んじ、茲に従容として運命を共にす。其の職責に殉ずる崇高の精神正に至高にして喩ゆるに物なし(攻略)」。

 山口多聞少将は、四十九歳十ヶ月の生涯を終え、六月五日付で中将に進級した。また昭和十八年四月二十二日には武功抜群により功一級金鵄勲章が授与された。少将で功一級を授けられた前例はなかった。

(「山口多聞海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「今村均陸軍大将」が始まります)