司令長官・東郷中将が、「閉塞作業が終わった後の脱出はどうするのか」と問い質した。
有馬中佐は、「汽船一隻に水雷艇を一隻つけ、各艇は港口外に待機します。汽船の自沈準備が完了しましたら、汽船からボートを降ろし、全隊員がそれに乗り、水雷艇に泳いで行きます」と答えた。
東郷中将は、これを聞いて、閉塞作戦に同意した。そのあと、秋山少佐が「もし敵に発見されて猛射されたら、出直すことにして、いったん引き揚げることにしてはどうですか」と言った。
すると、秋山少佐と親友でもあるのだが、広瀬少佐がすっくと立ち上がり、「それは駄目だ。断じて行えば鬼神もこれを避くと言う通り、敵の猛射は初めから判っている。退却してもいいなどと言っていたら、何度やっても成功しない。断じてやるほかないのだ」と反論した。
東郷中将は、「進退は各指揮官の判断に任せよう」と、結論を述べた。
二月二十四日午前四時十五分、閉塞隊指揮官・有馬中佐は、五隻の閉塞船に旅順港の港口に突入を命じた。
有馬中佐の乗る「天津丸」を先頭に、次に広瀬少佐の指揮する「報国丸」など五隻の閉塞船は老鉄山下の海岸沿いを北東の港口を目指して突進した。
だが、ロシア軍のサーチライトにつかまり、あらゆる砲台から雨あられの猛射を受け始めた。その結果、五隻とも港口に届かず、座礁したり、沈没したりして、閉塞に役立たず、作戦は失敗した。
だが、被害は戦死一人、負傷十数人で予想よりはるかに少なくて済んだ。東郷司令長官は、第二回閉塞を決行することを決意した。
指揮官は第一回と同じく、有馬中佐、広瀬少佐らだった。閉塞船は、有馬中佐の指揮する「千代丸」(三八〇〇トン)、広瀬少佐の指揮する「福井丸」(四〇〇〇トン)ら四隻だった。
二月二十七日午前二時十分、四隻の閉塞隊は、老鉄山南方から、北東の港口へ突進を開始した。
午前三時三十分、敵の哨戒艇や駆逐艦、砲台などから猛射が始まった。「千代丸」は、その中を突進し、港口南東の海岸から一〇〇メートルの所に、自沈した。
広瀬少佐の「福井丸は」「千代丸」よりさらに一〇〇メートル港口寄りに突進し、そこで敵の駆逐艦から雷撃され、船首を吹き飛ばされ、沈み始めた。
残りの二隻の閉塞船は、「福井丸」よりさらに八〇メートル港口よりに進入し、うまく東向きと西向きに沈没した。
沈没し始めた広瀬少佐の「福井丸」はボートを降ろし、全隊員がそれに乗り移った。だが、指揮官付きの杉野孫七上等兵曹がいないのに気付いた広瀬少佐は、「福井丸」に戻り、探し回った。
とうとう船が沈みかけたので、広瀬少佐は「残念だな」と言ってボートに戻り、艇尾に腰かけ、発進の号令をかけた。
沖へボートを進めているうちに、わずかに広瀬少佐が「う~ん」と呻いた。その瞬間広瀬少佐の首から上が消え、そこから真っ赤な血が溢れだした。砲弾が頭を直撃し、壮烈無比の最期だった。
二回目も、完全な閉塞にはならず、失敗だった。死傷者は十三人だった。だが、閉塞作戦は失敗したが、その壮挙は、多数の陸海軍将兵と国民を感動させた。
この閉塞作戦の勇猛さに、日本国民だけでなく、諸外国も日本が勝つかもしれないと思うようになった。特に英国は日本に対して積極的援助を惜しまなくなった。
当時のロシア太平洋艦隊司令長官は、ステパン・マカロフ中将だ。マカロフ中将は、ウクライナ出身で、航海士学校を首席で卒業した。
その後、水雷艇母艦艇長、フリゲート艦長を務め、コルベット艦長として、世界一周航海を行い、で海洋調査を実施し、その研究成果を出版している。
また、海軍戦術論の大家として世界的に知られ、著書である「海軍戦術論」は、世界各国で翻訳され、邦訳された本を、東郷平八郎や秋山真之も読んでいた。
一八九〇年(明治二十三年)には、四十二歳でバルト艦隊最年少の海軍少将に昇進している。一八九五年(明治二十八年)にはバルト艦隊司令長官に就任。
この時、砕氷船を構想し、世界初の砕氷船「イエルマーク」の建造を命じ、北極探検を二回行った。また、砕氷船をバイカル湖にも導入、フェリーや貨客船を就航させた。
一九〇四年(明治三十七年)、日露戦争が始まると、日本海軍の連合艦隊は、二月から、ロシア海軍の旅順口攻撃(八次に渡る攻撃と三回の閉塞作戦)を行なった。
この責任を問われ解任されたオスカル・スタルク司令長官の後任として、マカロフ中将がロシア太平洋艦隊の司令長官に就任した。
有馬中佐は、「汽船一隻に水雷艇を一隻つけ、各艇は港口外に待機します。汽船の自沈準備が完了しましたら、汽船からボートを降ろし、全隊員がそれに乗り、水雷艇に泳いで行きます」と答えた。
東郷中将は、これを聞いて、閉塞作戦に同意した。そのあと、秋山少佐が「もし敵に発見されて猛射されたら、出直すことにして、いったん引き揚げることにしてはどうですか」と言った。
すると、秋山少佐と親友でもあるのだが、広瀬少佐がすっくと立ち上がり、「それは駄目だ。断じて行えば鬼神もこれを避くと言う通り、敵の猛射は初めから判っている。退却してもいいなどと言っていたら、何度やっても成功しない。断じてやるほかないのだ」と反論した。
東郷中将は、「進退は各指揮官の判断に任せよう」と、結論を述べた。
二月二十四日午前四時十五分、閉塞隊指揮官・有馬中佐は、五隻の閉塞船に旅順港の港口に突入を命じた。
有馬中佐の乗る「天津丸」を先頭に、次に広瀬少佐の指揮する「報国丸」など五隻の閉塞船は老鉄山下の海岸沿いを北東の港口を目指して突進した。
だが、ロシア軍のサーチライトにつかまり、あらゆる砲台から雨あられの猛射を受け始めた。その結果、五隻とも港口に届かず、座礁したり、沈没したりして、閉塞に役立たず、作戦は失敗した。
だが、被害は戦死一人、負傷十数人で予想よりはるかに少なくて済んだ。東郷司令長官は、第二回閉塞を決行することを決意した。
指揮官は第一回と同じく、有馬中佐、広瀬少佐らだった。閉塞船は、有馬中佐の指揮する「千代丸」(三八〇〇トン)、広瀬少佐の指揮する「福井丸」(四〇〇〇トン)ら四隻だった。
二月二十七日午前二時十分、四隻の閉塞隊は、老鉄山南方から、北東の港口へ突進を開始した。
午前三時三十分、敵の哨戒艇や駆逐艦、砲台などから猛射が始まった。「千代丸」は、その中を突進し、港口南東の海岸から一〇〇メートルの所に、自沈した。
広瀬少佐の「福井丸は」「千代丸」よりさらに一〇〇メートル港口寄りに突進し、そこで敵の駆逐艦から雷撃され、船首を吹き飛ばされ、沈み始めた。
残りの二隻の閉塞船は、「福井丸」よりさらに八〇メートル港口よりに進入し、うまく東向きと西向きに沈没した。
沈没し始めた広瀬少佐の「福井丸」はボートを降ろし、全隊員がそれに乗り移った。だが、指揮官付きの杉野孫七上等兵曹がいないのに気付いた広瀬少佐は、「福井丸」に戻り、探し回った。
とうとう船が沈みかけたので、広瀬少佐は「残念だな」と言ってボートに戻り、艇尾に腰かけ、発進の号令をかけた。
沖へボートを進めているうちに、わずかに広瀬少佐が「う~ん」と呻いた。その瞬間広瀬少佐の首から上が消え、そこから真っ赤な血が溢れだした。砲弾が頭を直撃し、壮烈無比の最期だった。
二回目も、完全な閉塞にはならず、失敗だった。死傷者は十三人だった。だが、閉塞作戦は失敗したが、その壮挙は、多数の陸海軍将兵と国民を感動させた。
この閉塞作戦の勇猛さに、日本国民だけでなく、諸外国も日本が勝つかもしれないと思うようになった。特に英国は日本に対して積極的援助を惜しまなくなった。
当時のロシア太平洋艦隊司令長官は、ステパン・マカロフ中将だ。マカロフ中将は、ウクライナ出身で、航海士学校を首席で卒業した。
その後、水雷艇母艦艇長、フリゲート艦長を務め、コルベット艦長として、世界一周航海を行い、で海洋調査を実施し、その研究成果を出版している。
また、海軍戦術論の大家として世界的に知られ、著書である「海軍戦術論」は、世界各国で翻訳され、邦訳された本を、東郷平八郎や秋山真之も読んでいた。
一八九〇年(明治二十三年)には、四十二歳でバルト艦隊最年少の海軍少将に昇進している。一八九五年(明治二十八年)にはバルト艦隊司令長官に就任。
この時、砕氷船を構想し、世界初の砕氷船「イエルマーク」の建造を命じ、北極探検を二回行った。また、砕氷船をバイカル湖にも導入、フェリーや貨客船を就航させた。
一九〇四年(明治三十七年)、日露戦争が始まると、日本海軍の連合艦隊は、二月から、ロシア海軍の旅順口攻撃(八次に渡る攻撃と三回の閉塞作戦)を行なった。
この責任を問われ解任されたオスカル・スタルク司令長官の後任として、マカロフ中将がロシア太平洋艦隊の司令長官に就任した。