陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

479.東郷平八郎元帥海軍大将(19)それは駄目だ。断じて行えば鬼神もこれを避く

2015年05月29日 | 東郷平八郎元帥
 司令長官・東郷中将が、「閉塞作業が終わった後の脱出はどうするのか」と問い質した。

 有馬中佐は、「汽船一隻に水雷艇を一隻つけ、各艇は港口外に待機します。汽船の自沈準備が完了しましたら、汽船からボートを降ろし、全隊員がそれに乗り、水雷艇に泳いで行きます」と答えた。

 東郷中将は、これを聞いて、閉塞作戦に同意した。そのあと、秋山少佐が「もし敵に発見されて猛射されたら、出直すことにして、いったん引き揚げることにしてはどうですか」と言った。

 すると、秋山少佐と親友でもあるのだが、広瀬少佐がすっくと立ち上がり、「それは駄目だ。断じて行えば鬼神もこれを避くと言う通り、敵の猛射は初めから判っている。退却してもいいなどと言っていたら、何度やっても成功しない。断じてやるほかないのだ」と反論した。

 東郷中将は、「進退は各指揮官の判断に任せよう」と、結論を述べた。

 二月二十四日午前四時十五分、閉塞隊指揮官・有馬中佐は、五隻の閉塞船に旅順港の港口に突入を命じた。

 有馬中佐の乗る「天津丸」を先頭に、次に広瀬少佐の指揮する「報国丸」など五隻の閉塞船は老鉄山下の海岸沿いを北東の港口を目指して突進した。

 だが、ロシア軍のサーチライトにつかまり、あらゆる砲台から雨あられの猛射を受け始めた。その結果、五隻とも港口に届かず、座礁したり、沈没したりして、閉塞に役立たず、作戦は失敗した。
 
 だが、被害は戦死一人、負傷十数人で予想よりはるかに少なくて済んだ。東郷司令長官は、第二回閉塞を決行することを決意した。

 指揮官は第一回と同じく、有馬中佐、広瀬少佐らだった。閉塞船は、有馬中佐の指揮する「千代丸」(三八〇〇トン)、広瀬少佐の指揮する「福井丸」(四〇〇〇トン)ら四隻だった。

 二月二十七日午前二時十分、四隻の閉塞隊は、老鉄山南方から、北東の港口へ突進を開始した。

 午前三時三十分、敵の哨戒艇や駆逐艦、砲台などから猛射が始まった。「千代丸」は、その中を突進し、港口南東の海岸から一〇〇メートルの所に、自沈した。

 広瀬少佐の「福井丸は」「千代丸」よりさらに一〇〇メートル港口寄りに突進し、そこで敵の駆逐艦から雷撃され、船首を吹き飛ばされ、沈み始めた。

 残りの二隻の閉塞船は、「福井丸」よりさらに八〇メートル港口よりに進入し、うまく東向きと西向きに沈没した。

 沈没し始めた広瀬少佐の「福井丸」はボートを降ろし、全隊員がそれに乗り移った。だが、指揮官付きの杉野孫七上等兵曹がいないのに気付いた広瀬少佐は、「福井丸」に戻り、探し回った。

 とうとう船が沈みかけたので、広瀬少佐は「残念だな」と言ってボートに戻り、艇尾に腰かけ、発進の号令をかけた。

 沖へボートを進めているうちに、わずかに広瀬少佐が「う~ん」と呻いた。その瞬間広瀬少佐の首から上が消え、そこから真っ赤な血が溢れだした。砲弾が頭を直撃し、壮烈無比の最期だった。

 二回目も、完全な閉塞にはならず、失敗だった。死傷者は十三人だった。だが、閉塞作戦は失敗したが、その壮挙は、多数の陸海軍将兵と国民を感動させた。

 この閉塞作戦の勇猛さに、日本国民だけでなく、諸外国も日本が勝つかもしれないと思うようになった。特に英国は日本に対して積極的援助を惜しまなくなった。

 当時のロシア太平洋艦隊司令長官は、ステパン・マカロフ中将だ。マカロフ中将は、ウクライナ出身で、航海士学校を首席で卒業した。

 その後、水雷艇母艦艇長、フリゲート艦長を務め、コルベット艦長として、世界一周航海を行い、で海洋調査を実施し、その研究成果を出版している。

 また、海軍戦術論の大家として世界的に知られ、著書である「海軍戦術論」は、世界各国で翻訳され、邦訳された本を、東郷平八郎や秋山真之も読んでいた。

 一八九〇年(明治二十三年)には、四十二歳でバルト艦隊最年少の海軍少将に昇進している。一八九五年(明治二十八年)にはバルト艦隊司令長官に就任。

 この時、砕氷船を構想し、世界初の砕氷船「イエルマーク」の建造を命じ、北極探検を二回行った。また、砕氷船をバイカル湖にも導入、フェリーや貨客船を就航させた。

 一九〇四年(明治三十七年)、日露戦争が始まると、日本海軍の連合艦隊は、二月から、ロシア海軍の旅順口攻撃(八次に渡る攻撃と三回の閉塞作戦)を行なった。

 この責任を問われ解任されたオスカル・スタルク司令長官の後任として、マカロフ中将がロシア太平洋艦隊の司令長官に就任した。

478.東郷平八郎元帥海軍大将(18)東郷艦隊との決戦は絶対にするな。艦隊保全を第一とすべし

2015年05月22日 | 東郷平八郎元帥
 第三艦隊(旧式の二等・三等巡洋艦と二等戦艦が主力)司令長官・片岡七郎(かたおか・しちろう)中将(鹿児島・海兵三・海軍兵学校砲術教官・佐世保鎮守府参謀・ドイツ駐在武官・大佐・ドイツ駐在武官・装甲艦「金剛」艦長・砲術練習所所長・一等戦艦「八島」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・少将・呉鎮守府艦隊司令長官・呉鎮守府艦政部長・竹敷要港部司令官・中将・第三艦隊司令長官・日露戦争・第一艦隊司令長官・艦政本部長・舞鶴鎮守府司令長官・大将・男爵・正二位・勲五等・功四級)。

 第二艦隊参謀長・加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)大佐(広島・海兵七次席・海大甲号一・軍務局第一課長・常備艦隊参謀長・軍務局第一課長・第二艦隊参謀長・日露戦争・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・ワシントン会議全権・首相・元帥・子爵・正二位・大勲位・功二級)。

 第二艦隊先任参謀兼作戦参謀・佐藤鉄太郎(さとう・てつたろう)中佐(山形・海兵一四・五席・海軍大学校教官・巡洋艦「宮古」副長・中佐・装甲巡洋艦「出雲」副長・常備艦隊参謀・第二艦隊参謀・日露戦争・一等戦艦「朝日」副長・砲艦「龍田」副長・海軍大学校選科学生・海軍大学校教官・大佐・巡洋艦「宗谷」艦長・巡洋艦「阿蘇」艦長・海軍大学校教官・海軍大学校教頭・少将・軍令部第四班長兼海軍大学校教官・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・軍令部次長・海軍大学校校長・中将・舞鶴鎮守府司令長官・学習院教授・貴族院議員・正三位・勲一等・功三級)。

 ロシア皇帝ニコライ二世は明治三十七年二月九日朝、対日宣戦布告をし、日本は翌二月十日、対露宣戦布告をした。

 ロシア太平洋艦隊は、緒戦から、日本海軍に一方的にやられ、主力は旅順に閉じこもっていた。日本海軍の戦略は、ロシア本国から強大なバルチック艦隊が日本に押し寄せてくる前に、旅順とウラジオストックのロシア太平洋艦隊を撃滅し、そのあと、バルチック艦隊を迎え撃つというものだった。

 旅順の極東総督・アレクセーエフ海軍大将は、太平洋艦隊司令長官・スタルク海軍中将に対して次のような命令を出していた。

 「東郷艦隊との決戦は絶対にするな。艦隊保全を第一とすべし。そして、日本と大陸との補給線を遮断し、朝鮮、満州の日本陸軍を孤立させるべし」。

 アレクセーエフ海軍大将の戦略は、次のようなものだった。

 「旅順に太平洋艦隊の主力を終結させておき、東郷艦隊を近くに誘って釘付けにする。その隙にウラジオ艦隊を朝鮮海峡に出撃させ、日本の輸送船団を襲撃させる。やがて本国からバルチック艦隊が回航されてくれば、太平洋艦隊はこれと合流し、約半分の兵力の日本艦隊と決戦して、これを撃滅する」。
 
 一方、日本の連合艦隊は、このようなロシア太平洋艦隊を、バルチック艦隊が来る前に撃滅しなければならなかった。だが、旅順のロシア艦隊は、日本の駆逐艦の夜襲でも、戦艦・巡洋艦部隊の砲撃でも撃滅できなかった。

 このような状況から、連合艦隊では、狭い旅順港口に、老朽船舶を数隻沈め、観戦の出入りを不可能にする閉塞作戦が考えられた。

 だが、この閉塞作戦に対して、連合艦隊作戦参謀・秋山真之少佐は、次のような理由で、反対の立場をとった。

 「サーチライト(探照灯)を用いるロシア軍の旅順要塞の砲撃は、夜間でも有効となり、非武装で速度の遅い閉塞船を港口にうまく沈めることは不可能であろう。また、敵の猛射撃で閉塞隊員は全員戦死する可能性がある」。

 連合艦隊司令長官・東郷平八郎中将も、部下を死地に投ずることを嫌っていたので、この作戦に不同意であった。

 一方、この閉塞作戦に賛成し、自らその指揮官を熱望している先任参謀・有馬良橘中佐は次のように不退転の決意を主張した。

 「時期が適切で実行者の決心が固ければ、絶対に不可能という事は無い。また、もしその目的が達成できずに撃沈されるようなことがあっても、一つは我が軍の士気を鼓舞できるし、一つは我が武勇を敵に示して余りあると言える」。

 二月十一日、有馬中佐から説明を受け、誘われて、戦艦「日向」水雷長・広瀬武夫(ひろせ・たけお)少佐(大分・小学校教師・海兵一五・日清戦争・大尉・ロシア留学・ロシア駐在武官・少佐・日露戦争で旅順閉塞作戦に従事・第二回閉塞作戦で頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死・中佐)などは閉塞作戦に同意した。

 二月十四日、広瀬少佐など閉塞隊推進者は、朝鮮南西端の木浦港に碇泊中の連合艦隊旗艦「三笠」に集まった。彼らは、有馬中佐と共に、司令長官・東郷平八郎中将に、「この際、ぜひ決行させてもらいたい」と進言した。

 作戦参謀・秋山少佐は、「賛成しかねる」と発言した。これに対し、先任参謀・有馬中佐は、「絶対不可能という事は無い。私が指揮官となり、作戦を成功させるように実行したい」と述べた。

477.東郷平八郎元帥海軍大将(17)日高中将は「これで俺を刺し殺してくれ」と山本大臣に迫った

2015年05月15日 | 東郷平八郎元帥
 山本海軍大臣は、舞鶴鎮守府の東郷平八郎中将に「至急出京スベシ」と、電報を打った。東郷中将の常備艦隊司令長官が本決まりになったのは、二日後の明治三十六年十月十七日だった。

 山本海軍大臣、東郷舞鶴司令長官、海軍軍令部長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(鹿児島・神戸海軍操練所・鳥羽・伏見の戦い・海軍大尉に任官・スループ「日進」艦長・大佐・鋼鉄艦「扶桑」艦長・コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所所長兼横須賀鎮守府次長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・日清戦争・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・功一級・大勲位)が会談し、合意した。

 翌日の十月十八日、山本海軍大臣は、海軍大臣官邸で、竹馬の友の日高中将に、常備艦隊司令長官交代の引導を渡した。

 涙を流して憤慨し、最後には短剣を突き出した、日高中将は「これで俺を刺し殺してくれ」と山本大臣に迫った。

 山本海軍大臣は、日高中将に対して、偽らず飾らず、ありのままに自分の所信を述べ、誠を尽くして、その理を語り、諒解を求めた。

 日高中将は、とうとう承知して、席を立って、出ていった。だが、ひどく淋しげな、そのうしろ姿を見送る山本海軍大臣は、錐で自分の胸を刺されるような思いがした。

 十月十九日、山本海軍大臣は、明治天皇に東郷中将の常備艦隊司令長官再任(初任は明治三十三年五月~明治三十四年十月)の裁可を願い出た。

 明治天皇はこの人事を不審に思い、理由を質した。山本海軍大臣が力強く「東郷は運の強い男でございます」と答えると、明治天皇はその心中を察したように、直ちに裁可したという。

 こうして、陸の参謀次長・児玉源太郎中将と、海の常備艦隊司令長官・東郷平八郎中将の人事が決まったが、この名人事により、日本はロシアに勝つことができたと言ってもよい。

 ちなみに、この常備艦隊司令長官司令長官交代の時、山本海軍大臣は五十一歳、日高中将は五十五歳、東郷中将は五十六歳だった。

 明治三十六年十月二十七日、東郷常備艦隊司令長官の要求を容認した、常備艦隊司令部の主要参謀の人事が次のように発令された。

 参謀長・島村速雄(しまむら・はやお)大佐(高知・海兵七首席・海軍大学校教官・イタリア駐在武官・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・戦艦「初瀬」艦長・常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・少将・第二戦隊司令官・第四艦隊司令官・海軍兵学校校長・中将・第二艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍教育本部長・軍令部長・大将・男爵・死去・元帥・正二位・勲一等・功二級)。

 先任参謀・有馬良橘(ありま・りょうきつ)中佐(和歌山・海兵一二・中佐・戦艦「三笠」航海長・装甲巡洋艦「常盤」副長・常備艦隊先任参謀・日露戦争・三等巡洋艦「音羽」艦長・大佐・装甲巡洋艦「磐手」艦長・第二艦隊参謀長・海軍砲術学校校長・少将・軍令部第一班長・第一艦隊司令官・病気で待命・中将・海軍兵学校校長・海軍教育本部長・第三艦隊司令長官・軍令部次長代理・大将・海軍教育本部長・予備役・明治神宮宮司・枢密院顧問官・元帥東郷平八郎海軍大将葬儀委員長・大日本青年団長・勲一等)。

 作戦参謀・秋山真之(あきやま・さねゆき)少佐(愛媛・大学予備門・海兵一七首席・米国駐在武官・常備艦隊参謀・少佐・海軍大学校戦術教官・常備艦隊作戦参謀・日露戦争・中佐・連合艦隊参謀・海軍大学校戦術教官・戦艦「三笠」副長・巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・巡洋艦「音羽」艦長・巡洋艦「出雲」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長・少将・軍務局長・第二水雷戦隊司令官・中将・病死・従四位・勲二等)。

 これらの三人の参謀は、明治当時の帝国海軍では、最高の頭脳と言われた、人材だった。

 明治三十六年十二月二十八日、海軍の常備艦隊は解散になり、新たに。第一艦隊、第二艦隊、第三艦隊が編成され、第一艦隊と第二艦隊により、連合艦隊が編成された。各艦隊司令長官、第二艦隊参謀は次の通り。

 連合艦隊司令長官兼第一艦隊(戦艦六隻が主力)司令長官・東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)中将(鹿児島・英国商船学校・砲艦「天城」艦長・中佐・コルベット「大和」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・呉鎮守府参謀長・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・日露戦争・大将・軍令部長・大勲位・功一級・伯爵・元帥・東宮御学問所総裁・大勲位頸飾・侯爵・従一位)。


 第二艦隊(一等巡洋艦六隻が主力)司令長官・上村彦之丞(かみむら・ひこのじょう)中将(鹿児島・海兵四・砲艦「摩耶」艦長・砲艦「鳥海」艦長・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・常備艦隊参謀長・大臣官房人事課長・少将・造船造兵監督官・軍務局長・常備艦隊司令官・中将・第二艦隊司令長官・日露戦争・横浜鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・大将・男爵・従二位・勲一等・功一級)。

476.東郷平八郎元帥海軍大将(16)日高中将は自負心が強く、いつも自分を出し過ぎる

2015年05月08日 | 東郷平八郎元帥
 二人の会談は一時間近く行われた。海軍大臣室のドアが開き、背が高く、ひげもじゃで、いかつい顔の山本海軍大臣と、雄大な八字髭を生やしているが、背が低く目玉がきょろりとした愛嬌のある児玉陸軍参謀次長が大声で笑いながら、「いやあ、今日は愉快じゃ、愉快じゃ」と言いながら出て来た。

 山本海軍大臣に会った児玉陸軍参謀次長は、まず自分が参謀次長になったいきさつを淡々と語り、次に、渋沢栄一と、渋沢に次いで財界有力者の日本郵船社長・近藤廉平が、戦費の調達を命がけでやってくれることになったと話した。

 山本海軍大臣は膝を乗り出さんばかりにして聞いた。児玉陸軍参謀次長が「もしやると決まりましたら、陸海対等で仲良くやろうじゃないですか」と言った。対ロシア戦争のことである。すると、山本海軍大臣は我が意を得たというように、「やりましょう」と力強く答えた。

 児玉陸軍参謀次長が最後に「二、三日中に伊藤侯(この当時は侯爵だった元老の伊藤博文)を訪ね、よく判ってもらえるように話しますよ」と言うと、山本海軍大臣は、深くうなずいた。

 当時、元老の伊藤博文(いとう・ひろふみ・山口県光市・松下村塾塾生・英国留学・奇兵隊の高杉晋作の下で討幕運動・明治維新後は外国事務局判事・初代兵庫県知事・初代工部卿・初代宮内卿・初代総理大臣・初代枢密院議長・総理大臣・貴族院議長・初代韓国統監・ハルピン駅で暗殺される・従一位・大勲位・公爵)は、よく言えば慎重、悪く言えば分らず屋だった。

 伊藤は対ロシア戦にまだ首を縦に振らなかったのだ。だが、伊藤も児玉陸軍参謀次長も、ともに長州出身で、話せば分ると、児玉陸軍参謀次長は説得に自信を持っていた。

 児玉陸軍参謀次長は、対ロシア戦の最大急務は陸海軍の協合だと考えていた。そして山本海軍大臣が何を知りたがり、何を求めているかも知っていて話し、山本海軍大臣が不満を抱いていた「陸主海従」の慣習を破り、「陸海対等」でやろうと持ちかけたのだ。

 児玉陸軍参謀次長と山本海軍大臣は同じく嘉永五年(一八五二)年生まれの五十一歳で、児玉陸軍参謀次長の方が八か月早い生まれだった。
 
 児玉陸軍参謀次長が帰ったあと、山本海軍大臣は、開戦の肝を固め、戦場での最高指揮官である常備艦隊(後の連合艦隊)司令長官を、替えようと決断した。

 当時の常備艦隊司令長官は、日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)中将(鹿児島・海兵二・砲術練習所所長・防護巡洋艦「橋立」「松島」艦長・少将・常備艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・男爵・大将)だった。

 山本海軍大臣は、常備艦隊司令長官を、今の日高中将から、舞鶴鎮守府司令長官・東郷平八郎中将にしようと考えていた。

 山本海軍大臣と、日高常備艦隊司令長官は、薩摩(鹿児島)での少年時代からの親友だった。東京築地の海軍兵学寮(海軍兵学校の前身)でも、明治三年十一月に一緒に入学し、何でも腹蔵なく話し合ってきた仲だった。

 海軍兵学寮が海軍兵学校と改名されたのは明治九年八月三十一日で、山本海軍大臣と日高常備艦隊司令官は海軍兵学校二期生として卒業した。

 だが、日高の方が山本より四歳年上だった。ちなみに、東郷平八郎は山本より五歳、日高より一歳年上だった。

 山本海軍大臣は、心情的には、対ロシア開戦は、日高常備艦隊司令長官のままで戦わせてやりたかったが、児玉陸軍参謀次長の私心のない理の通った話を聞いて、自分も私心を捨て、最善を尽くそうと決意した。

山本海軍大臣は、日高中将と東郷中将を次のように見ていた。

 「日高中将は、人並み外れて頭が良く、勇気もある。だが、そのために日高中将は自負心が強く、いつも自分を出し過ぎる。こうと思い込むと、人の言う事は全て碌なものではないと頭から決めてかかり、いっさい聞き入れようとしない」

 「日露の国交が破れた場合、用兵作戦の大方針は、大本営が決定し、現場の常備艦隊司令長官に示達するが、司令長官はそれに従い、手足のごとく動いてもらわなければいけない」

 「ところが日高中将は中央(大本営海軍部)の方針が気に入らないと、自分勝手に了見を立て、中央の命令に従わずに戦をしようとするかもしれない」

 「もしそうなって、艦隊が中央の命令と違った行動を取れば、国家は望むような戦争遂行ができなくなり、やがて中央と艦隊は分裂したまま、滅びることになりかねない」

 「東郷中将にはそういう不安が少しも無い。いつでも大本営に忠実であろうし、部下たちの意見もよく聞き、臨機応変の処置を取ることができる。参謀に適材をつければ心配ない」。

475.東郷平八郎元帥海軍大将(15)露国海軍は世間で思う程恐ろしいものではない

2015年05月01日 | 東郷平八郎元帥
 明治三十三年六月、清国で義和団の乱が勃発した。当初は「義和団」と称する秘密結社による、外国人排斥運動だった。

 だが、清朝の西太后がこの反乱を支持して、六月二十一日、欧米列国に対して宣戦布告したため、欧米列国は北京に軍隊と軍艦を派遣した。

 日本も軍艦と五師団約八〇〇〇名を派遣した。宣戦布告から、二ケ月後に義和団の乱は制圧され、清朝は莫大な賠償金を支払う事になった。

 明治三十三年六月十九日、義和団の乱がいよいよ重大性を帯びて来たので、常備艦隊司令長官・東郷平八郎中将は、旗艦の装甲巡洋艦「常盤」(九七〇〇トン)に座上して、防護巡洋艦「高砂」(四一五五トン)、防護巡洋艦「秋津洲」(三一五〇トン)などの艦を率いて清国大沽(たいこ)に向かった。

 「元帥の品格・東郷平八郎の実像」(嶋田耕一・毎日ワンズ)によると、各国からも、精鋭な軍艦を大沽に入港させていた。

 各国の軍艦数は、日本五隻、ロシア六隻、ドイツ六隻、アメリカ二隻、フランス五隻、イタリア一隻、オーストリア一隻で、世界各国の軍艦が揃って、壮観だった。

 だが、各国の軍艦とも、密かに他国軍艦の行動に最新の注意を払って観察し、他日の参考にしようとしていた。

 東郷中将も、旗艦「常盤」の艦橋から、これら列強の軍艦の動静を眺めていたが、ある将官に向かって、次のように言った。

 「自分は今度の出張中、特に露国海軍について観察したが、それによると露国海軍は世間で思う程恐ろしいものではない。ことに規則も厳粛ではなく訓練も不行き届きの点がある」

 「最も驚いたのは、軍艦を運送船の代理に使用していたことである。すなわち軍艦でもって陸兵や軍需要品などの運搬をしていたが、これは明らかに軍艦の本分を軽視したものである」

 「こうしていつも運搬船の代用としていたならば、その精力をあらぬ方面に消磨し、一朝事ある時充分その本分を発揮し得ないのは当然であって、苟も海軍に関係する者のもっとも戒むべきことである。また、これと同時に露国が、海上運輸機関の不備までも暴露したもので、その出師準備は存外不整頓のようだ」。

 この東郷中将の鋭利な観察は、後の日露大海戦の作戦上多大の参考になった。

 六月二十九日、当時旅順にいたロシア政界の大立物でロシア皇帝の寵臣、関東省総督アレクセーエフ海軍中将は、この義和団事件の形勢を見る為、軍艦に搭乗して、大沽に入港していた。

 アレクセーエフ中将はわざわざ「常盤」に東郷中将を訪ねて来た。そしてくつろいだ態度の中に、大国の背景をほのめかしつつ、何やかやと、極めて巧妙な外交辞令で相対した。

 だが、彼の腹の中は、この訪問により、日本海軍の枢機に参与する東郷中将の口から不用意の間に、ある意向を吐かせようとしていた。

 ところが、東郷中将の目には、アレクセーエフ中将が何のために来訪したかということが、分りすぎるほど分っていた。だから、腹を引き締めて、独特の黙殺主義を以ってこれに対応した。

 そうとも知らず、アレクセーエフ中将は、いつの間にか、すっかりいい気になって、かえって東郷中将が聞きたかったことを、不用意の間に滔々(とうとう)として語った。

 これにより、東郷中将は、日本はどうしてもロシアと戦うべき運命にあることが、明瞭に分ったのである。

 明治三十六年十月十二日、陸軍参謀次長に児玉源太郎(こだま・げんたろう)陸軍中将(山口県周南市・下士官から士官に昇進・参謀本部第一局長・陸軍大学校長・少将・陸軍次官兼軍務局長・男爵・中将・第三師団長・台湾総督・陸軍大臣・内務大臣・文部大臣・陸軍参謀次長・大将・日露戦争で満州軍総参謀長・台湾総督・子爵・南満州鉄道創立委員長・急死)が就任した。

 「完全勝利の鉄則・東郷平八郎とネルソン提督」(生出寿・徳間文庫)によると、参謀本部次長に就任したばかりの児玉源太郎中将は、十月十五日、霞が関の海軍省に出掛けた。

 海軍大臣・山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)海軍中将(鹿児島市鍛治屋町・海兵二・巡洋艦「高雄」艦長・海軍省主事兼副官・少将・軍務局長・中将・海軍大臣・男爵・大将・海軍大臣・伯爵・首相・予備役・退役・首相・従一位・大勲位・功一級)に会うためだった。