陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

130.井上成美海軍大将(10) これは典型的な二重人格者の手相だ

2008年09月19日 | 井上成美海軍大将
 米内大臣が井上次官を更迭したのは、終戦和平の条件をめぐって、大きな相違があったからである。

 井上次官はあくまで終戦を優先して考えるべきで、たとえ、天皇制の護持が不可能になったとしても、和平を締結すべしと米内大臣に迫っていたというのである。

 ところが米内大臣は天皇制を護持することが大前提で、和平の条件はそれ以外に求めるべきだと考えていた。当時はこの考えが妥当であった。

 和平工作がテンポが遅く、手ぬるいと思っていた井上次官は天皇制廃止の条件を提示してでも、早期和平を結ぶべきだと米内大臣を責め立てたのである。

 米内大臣は、もし、このことが洩れでもしたら、大変なことになる。井上次官の口と行動を封じるためにも、次官を外したほうがよいと考えた。

 また、井上次官は、常に、陸軍にとって目の上のこぶであった。陸軍との正面衝突を一応避けて、終戦へ一歩進めるために、井上次官を犠牲にしたともいわれている。

 井上次官は退任に際し、一句を残している。

 「負けいくさ 大将だけはやはり出来 よみ人知らず」

 昭和20年5月15日、井上は海軍大将に昇任した。帝国海軍で最後に昇任した海軍大将であった。大将昇任と共に海軍次官は辞め軍事参議官になった。

 井上は次官を更迭されて以後、米内大臣とはほとんど交渉がない。だが、軍事参義官になった井上大将は、一月後、芝の水交社に寝泊りするようになった。

 ある日、この水交社で、たまたま米内大臣に会うと、

 米内大臣は井上大将に、

 「何もかも、俺一人でやっているよ」

 と言って近況を話して聞かせたという。

 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、ある日、議会が終って、海軍出身の議員を招いての祝宴が大臣官邸で開催された。

 久しぶりにくつろいだムードとなり、順番に隠し芸の披露が始まった。やがて井上の番になると、彼は意表を衝いて、

 「これから皆さんの手相を観て進ぜましょう」と言った。

 初めに手を出したのは、軍務局員の中山定義中佐だった。

 中山の両の掌をしばらく見比べた井上は

 「君は人生の道を誤ったのではないか。もし易者になっていたら成功していたろう」と言った。

 中山中佐が理由を尋ねると、

 「両手の真ん中に十字形の線がある。両手揃うことはめずらしい。直観力に恵まれている」

 と答えた。

 次に手を出したのは兵備局長の保科善四郎中将であった。

 じっとその掌を見つめていた井上は、

 「これは典型的な二重人格者の手相だ」と言った。

 一瞬、座は白け、続いて手を差し出す勇気のある者はいなかったという。

 井上は歴代の大将について次の様に評価をしている。

 統帥権干犯問題で海軍を分裂させて軍令部の独走を許し、名分の無い戦の遠因をつくった末次信正大将。

 日米戦争に関して「ノー」と言うべきところを「近衛総理に一任」などと言って日米開戦の近因をつくった及川古志郎大将。

 開戦に踏み切り、しかも戦局の収拾を図らなかった永野修身大将と嶋田繁太郎大将。

 井上は以上の大将を「三等大将」はおろか「国賊」とまで評した。戦後はもちろん、現役時代にも省内の執務場所でそう言うのを、何人かの人が耳にしている。

 井上が「一等大将」に挙げているのは山本権兵衛大将(2期・海相・首相)と加藤友三郎大将(7期・海相・首相・元帥)の二人だけである。

 井上が終生尊敬した米内光政大将と山本五十六大将に対しても、無条件では「一等大将」に挙げなかった。

 東郷平八郎元帥に対しては一応評価はしているが、昭和5年のロンドン軍縮条約締結を妨害しようとした加藤寛治ら艦隊派の言い分を、鵜呑みにして海軍省首脳を攻撃したりした点については手厳しい。

 井上は「日本を亡ぼした者は陸軍と一部の海軍。海軍を亡ぼした者は東郷さんをはじめとした一部の海軍軍人」とまで言っている。

 では自分自身に対してはどうか。「もともと大将の器ではありません」と明言しているので、これは論外扱いである。

 井上大将は昭和20年10月10日待命を仰せ付けられ、ついで10月15日、予備役に編入された。五十五歳であった。

 明治39年十六歳で海軍兵学校入校以来、三十九年間の海軍生活はここに幕を閉じた。

 戦後、井上大将は横須賀市長井の自宅に隠棲し公職につくことなく、昭和50年12月15日死去した。八十六歳だった。

(「井上成美海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「宇垣一成陸軍大将」が始まります)。

129.井上成美海軍大将(9) その御下問は宮様としてでございますか、軍令部員としてでございますか

2008年09月12日 | 井上成美海軍大将
 井上が兵学校長在任中にまとめた「教育漫語」は、教育論として有名であるが、その中に「成績は優秀ナレ、但シ席次ハ争フベカラズ」とある。

 また、「学校成績の権威」という小論文でも、兵学校での席次と、以後の昇進との相関関係を算出して、0.506という数字を示している。

 このことは、兵学校のハンモックナンバーは、任官後の昇進に50%の影響しか与えず、残り50%はその後の努力によるとしたものである。

 昭和19年3月22日、天皇の名代である高松宮宣仁(のぶひと)親王大佐(兵学校52期)臨席のもとに、海軍兵学校73期の卒業式が行なわれた。

 そのあと井上校長は「御殿」と称した宮の宿に招かれ、夕食をともにした。そのとき、宮から「教育年限をもっと短縮できないか」と問われた。

 井上校長はすかさず「その御下問は宮様としてでございますか、軍令部員としてでございますか」と問い返した。

 「無論後者である」との答えを得たうえで、井上校長は「お言葉ですが、これ以上短くすることは御免こうむります」とはっきり断った。

 宮は「そうか、そうか」とうなずいていた。兵学校の年限短縮の問題は、宮自身の考えではなく、軍令部あたりの者が宮に頼んで、頑固な井上を動かそうとした。

 彼らは前線で士官が不足して困っているときに、井上校長が卒業を早めることに反対するのを怒っていたようだ。ひそかに井上校長を国賊という者もいた。

 昭和19年8月5日、井上中将は米内光政海軍大臣に説得されて海軍兵学校長から海軍次官に就任した。

 ところがその年の12月、米内光政海軍大臣は井上次官と二人きりになったとき、突然切り出したのである。

 「おい、ゆずるぞ」

 「何をですか」

 「大臣をさ」

 「誰にですか」

 「お前にゆずるぞ」

 「とんでもない、なぜそんなことを言うんですか」

 「おれは、くたびれた」

 「陛下のご信任で小磯さんとともに内閣をつくった人が、くたびれたくらいのことで辞めるなんていう手がありますか。今は国民みな、命をかけて戦をしているんではないですか。少なくとも私は絶対引き受けませんよ」

 「大臣をゆずる」「だめです」の話はその後、昭和20年1月10日にもう一度あった。

 高木惣吉はその時のことを「井上海軍次官談」としてメモにしている。それによると井上次官は次の様に話したという。

 「米内様は冗談のように、後は貴様やれと言われるが、井上が鰻上りに上がるのは絶対にいかん」

 「これは理屈ではなく、貫禄の問題だ。大臣がどうしても残られぬ場合は長谷川様(長谷川清大将・軍事参議官)にでもやってもらう外あるまい」

 昭和20年3月半ば、官邸で米内大臣は井上次官に

 「おい、大将にするぞ」

 「誰のことですか」

 「塚原(二四三中将・横須賀鎮守府長官)と君の二人だ、四月一日付だ」

 井上次官は、唖然として拒否した。大将昇進は見送りになった。塚原が「井上のおかげで、俺は大将になりそこなった」と言ったという噂も聞こえてきた。

 その後5月7、8日頃、大臣室に呼ばれた井上次官に、米内大臣は、

 「陛下のご裁可があった」とひと言いった。

 「何をですか」

 「君と塚原との大将昇進をだよ」

 こうして、井上中将は5月15日、次官を辞め、大将に昇進し軍事参義官になった。

 井上は次官のまま、早期終戦の実現に尽力したいと考えていたので次官を辞めるつもりは無かった。

 ではどうして米内大臣は今まで盟友の契りを結んできた井上を更迭したのか。

128.井上成美海軍大将(8) 陸軍は幕府だ。幕府政治だから陛下の言う事を聞かないんだ

2008年09月05日 | 井上成美海軍大将
 さらに海軍兵学校長当時の生徒の思い出を井上は次の様にも語っている。

 「抜き身をもってワラ切ってみたりする者もおりました。親に、卒業して戦地に行くのに刀が要るんだ、銘刀を買ってくれ、という者もおりました」

 「そこで、私は刀を競うような気風は絶対にいかん、銭形平次の八公、あれなんか、刀をもってない、十手だ。剣道の心得のない者が刀を持ったって、刀を曲げて、刃をこぼすだけだ。人なんか切れるもんじゃない。だから、刀を競うなんてことはやめろ」

 「ことに海軍士官が海軍士官が刀でどうといったってね。将校はピストルだぞ。と言ったものです。拳銃一つ持っていれば、最後の時には口の中にピストルを向けてポンとやれば、立派に死ねるんだぞ。刀に何百円という金を出すのはバカだ。と禁じた」

 「生意気盛りの小僧たちを預かって、これはほうんとうに、教育勅語を読んで暮らさせるようなやり方じゃだめなんだと思いました。真から生徒たちの親に替わって鍛えてやろう、と、こういうつもりでした」

 ある日、校長の井上成美海軍中将のところへ歴史教官が兵学校の生徒用の歴史の教科書の原稿を書いて見せに来た。

 満州事変、日中事変が日本の国民精神と軍隊の士気高揚に、非常に役立っていると書いてあった。

 井上校長は原稿をこぶしで叩きながら怒った。「なんだこの歴史は、満州事変が、日中事変がどういうものだか知っているのか」

 するとその歴史教官は「新聞で見たとおり書きました」と平然と答え、すましていた。

 「新聞を読んで考えたのか?」

 「はぁ」

 「その結論が、これか。削れ」

 「どうしても削らなければいけませんか」

 「いかん、絶対にいかん。陸軍は幕府だ。幕府政治だから陛下の言う事を聞かないんだ。こんな内容を許すわけにはいかん。こんなことは校長として恥だ。断じて許さん。削れ」と言って遂に削らした。

 また、井上校長は陸軍士官学校生徒との文通を禁じた。井上を始めとして海軍の良識派は、すべて陸軍ぎらいであった。

 井上中将は「海軍がな、陸軍と仲良くしたときは、日本の政治は悪いほうにいっているんだ」と言っている。

 士官学校から兵学校生徒に葉書が来たときがある。「付き合おう、陸海軍仲良くしなくちゃいかん」という葉書だった。

 教官連中がが井上校長に返事を出してよいかと聞きにきたので、「それは絶対にだめだ。そんな葉書は破り捨てろ」と指示した。

 すると教官連中は「なぜ陸海軍が仲良くしてはいけないのですか」と反論した。正論ではある。

 だが井上校長は「陸軍が嫌いとか好きだとか言っているのではない。陸軍は陸軍第一、日本国第二なんだ。そういう教育をしている陸軍みたいな学校と兵学校はちがうのだ。そういうやからとつきあうことはならん」

 さらに「海軍は国家第一、国家あっての海軍だ。満州事変を見ろ、支那事変を見ろ、みんな陸軍が先に立って国家を引っ張っていこうとしているじゃないか」と反論した。

 テーブルを叩いて憤慨した教官もいた。「校長横暴」の声も出た。だが井上は動じなかった。反論を寄せ付けなかった。

 このときテーブルを叩いて憤慨した教官が、戦後二、三年たって横須賀市長井の井上の住まいを訪ねてきた。

 その教官は井上の前に両手を突くと、「申し訳ありませんでした。いまになって、校長の言われたことがわかりました」と言って詫びた。井上は、このことを喜んだという。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、海軍部内で激しく対立した南雲忠一は、兵学校は井上より一期上の三十六期だった。この期に岸信介、佐藤栄作の兄弟宰相の長兄・佐藤市郎がいた。

 佐藤市郎は飛びぬけた秀才で、兵学校は入校、各学年、卒業と全て一番だった。平均点は95.6点だった。この点数は兵学校始まって以来だった。海軍大学校(18期)も首席だった。

 この佐藤市郎を井上はどう見ていたか。この佐藤評を、求められたとき、井上は「つまらん」とひと言いったきりであったという。

127.井上成美海軍大将(7) 山本大将が井上中将の方にあごをしゃくって 「井上。君が行くんだよ」

2008年08月29日 | 井上成美海軍大将
 ある日、神中佐は井上軍務局長から軍務局長の意向を外務省に伝えるように指示を受けた。

 神中佐は「局長のご意見は、外務省が余りにも強いので、私からはとても取り次げません」ときっぱりと答えた。

 井上軍務局長は

 「君は軍務局の何だったかな」と冷静に言った。

 「局員であります」

 すると井上軍務局長は

 「私は局長だよ。局長は局員を指図できるんだよ。君が局長の指示に従わないと言うなら、私は君を、局長の指図に従う人に代えるよ」と言った。

 迫られた神中佐は急に神妙になり

 「外務省に行きます」と答えたという。

 神中佐は井上軍務局長にやりこめられて、いつも悔しがり

 「局長は椅子に座っていいて、こっちは立って議論するからいつも負ける」と他の局員に言っていた。

 井上軍務局長はその話を聞くと、次の議論の時次の様に神中佐に言った。

 「神君、君が大学校の学生の時は、私が立っていて君のほうが座っていたが、やはり議論は負けていたではないか。今日は俺が立つから、君そこへ座れ」

 神中佐はさすがに、

 「よろしゅうございます」と答えて座らなかったという。

 結局、昭和14年8月23日、ドイツがこともあろうに防共の対象としていた当のソ連と不可侵条約を結ぶという「複雑怪奇」な欧州情勢になってしまった。

 当時の平沼内閣はその五日後に総辞職して、三国同盟問題は立ち消えになってしまった。

 平沼に変わって、井上の義兄で予備役陸軍大将の阿部信行が総理大臣の地位に就いた。

 この政変に伴い、海軍首脳部も更迭され、井上は海軍省を去ることになった。

 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、戦時中の昭和17年10月、第四艦隊司令長官の井上中将は、旗艦鹿島に座乗、トラック環礁に在泊中だった。

 井上中将は連合艦隊司令長官の山本五十六大将(32期・のち元帥)に招かれて、同じトラック島に進出していた旗艦大和を訪ねた。

 井上中将と同期の草鹿任一(じんいち)中将が10月1日付で海軍兵学校校長から第十一航空艦隊司令長官に転補され、ラバウルに赴任する途中、大和に立ち寄ったので、山本大将が草鹿中将を主賓に夕食会を開いたのだ。

 夕食会には井上中将のほかに、第二艦隊司令長官の近藤信竹(のぶたけ)中将(35期・のち大将)も同席した。

 その席で近藤中将が切り出した。

 「草鹿君。君の後任の兵学校長には誰が行くんだ」

 「いや、まだ誰も着任していないんです」

 すると山本大将が井上中将の方にあごをしゃくって

 「井上。君が行くんだよ」と含み笑いの顔で言った。

 山本大将は続けた。

 「この間、嶋田(繁太郎海相・32期・大将、山本大将と同期)から手紙が来て、君を兵学校長にもらいたいといってきたので、僕は承知しておいたよ」

 これには井上中将も驚いて。

 「本当ですか」と目をくりくりさせて、聞いた。

 山本大将はおだやかな表情で

 「本当だよ」と答えた。

 すると井上中将は、

 「私は十七や十八の生意気盛りの小僧を教えるなんていやですね。あなたもよく知っておられるとおり、私はリベラリストだから、近頃のような教育には向きませんよ」と素っ気無い返事をした。

 すると山本大将は、怒ることなく

 「まあ、いいから海軍省に行ってみろよ」と言った。

 昭和17年10月26日、井上中将は海軍兵学校長に補任され、11月10日、広島県江田島の海軍兵学校に着任した。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、海軍兵学校長当時の生徒の思い出を井上は次の様に語っている。

 「当時の兵学校生徒の中には戦争の話なんかが面白くて、そうしてもう、のぼせ上がちゃって、サイン・コサインなんかどうなったっていい、戦争のためにならない、というようなことを言う者もおりました」

126.井上成美海軍大将(6) 世間では自分を三国同盟反対の親玉の如くいうも、根源は井上なり

2008年08月22日 | 井上成美海軍大将
 この山下大佐は、工廠の業務の無関係な用件で上京したり、近衛公を鎌倉に訪ねて「直接行動による国内改革をやろう」と迫ったとか、そういう話が聞こえてきていた。自宅に青年士官を集めて塾を開いていた。

 山下塾に来る青年士官にしてみれば、向かい官舎の井上少将は目障りな存在だった。

 先日、彼らは井上参謀長に無断で、大勢で米内光政鎮守府長官の官邸へ押しかけた。志を述べ気勢を上げるつもりが、米内の風格に押されて、何も言えずに引き下がってしまった。

 井上参謀長は米内長官が彼らを激励でもしたように誤り伝えられては困ると、各鎮守府要港部に、要注意、事情説明の電報を発信させた。

 そのことが彼ら青年士官の癪に障っていたのだ。それで夜更けまで山下塾で昭和維新の理念とかを談じ合ったあと、井上参謀長の門前に腹いせの小便をして帰って行くに違いなかった。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、昭和11年の正月、横須賀陸海軍首脳の新年会が、市内の割烹「魚勝」で催された。

 酒が大分廻った頃、陸軍の憲兵隊長林少佐が井上参謀長のところへ来て、「こないだ若い士官と会談した後、貴公はあんな電報を打つなんて、余りに神経質だ」で始まり、井上参謀長のことを貴公、貴公と、酒の席とはいえ生意気な呼び方をした。

 井上参謀長は「君は少佐ではないか、私は少将だ。少佐のくせに少将を呼ぶのに貴公とは何事だ、海軍ではな、軍艦で士官が酒に酔って後甲板ででくだをまいても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼をするんだ。これが軍隊の正しい姿だ。君の様な人間とは一緒に酒は飲まん」と言って席を立った。

 井上参謀長が別室でお茶漬けを食べていると、芸者があわただしく飛んできて「参謀長大変です。荒木さん(貞亮海軍少将・砲校長)、柴山さん(昌生海軍少将・人事部長)、が憲兵隊長とけんかしてます」と言ってきた。

 井上参謀長が「どっちが勝っているか」ときくと、「憲兵隊長がなぐられています」と言ったので「そんならほうっておけ」と言った。

 翌日鎮守府に憲兵隊長が謝罪にやって来た。井上参謀長は「あとであやまらにゃならん様なことをするな」と言って幕が下りた。

 昭和12年6月4日、陸軍が押していた五摂家の名家出身の青年貴族、近衛文麿が首班に任命された。

 満州事変以来、陸軍のもろもろの策謀が実を結び、組閣後一ヵ月も経たないうちに盧溝橋事件が勃発、日中事変へと発展した。

 米内光政大将は近衛内閣で海相として入閣した。次官は山本五十六中将、軍務局長は井上成美少将だった。

 井上少将は、陸軍の押す青年宰相、近衛文麿に対し極めて批判的であった。

 「あんな男は軍人にしたら大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思う」と部内ではっきりいっている。

 「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、井上が軍務局長を務めた期間は、昭和12年10月から14年10月までの二年間である。この期間、米内光政海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長のトリオが最も精力を注いだのが日独伊三国同盟の阻止であった。

 三国同盟阻止に三人の中で最も積極的な姿勢を見せたのが井上軍務局長であった。

 海軍書記官の榎本重次に山本次官が「世間では自分を三国同盟反対の親玉の如くいうも、根源は井上なり」と語ったことがあるという。

 井上自身「思い出の記」の中で次の様に述べている。

 「昭和十二、三、四年にまたがる私の軍務局長時代の二年間は、その時間と精力の大半を三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な努力でなしに、ただ陸軍の全軍一致の強力な主張と、これに共鳴する海軍若手の攻勢に対する防御だけに費やされた感アリ」

 陸軍との交渉を続けるうちに海軍部内もほとんどが同盟締結に傾いてきた。結局、海軍で反対しているのは大臣、次官、軍務局長の三人だけということになってしまった。

 主務局長の神重徳中佐は枢軸論者の急先鋒であった。また、当時は外務省でも枢軸派の官僚が増えていた。

125.井上成美海軍大将(5) 艦長が出した命令を艦長が破っていいのか

2008年08月15日 | 井上成美海軍大将
 戦艦比叡の航海中満州国皇帝に供覧のため、合戦準備、戦闘訓練を実施した際、皇帝のお側用人が、あてがわれていた居室の舷窓を閉めさせないと、甲板士官が困って井上艦長へ報告に来た。

 井上艦長は気色ばんで「航海長、両舷停止」「甲板士官、左舷に縄梯子用意」

 訝る艦橋上の面々に、重ねて井上艦長の声が飛んだ。

 「軍艦比叡で艦長の命令を聞かない者は一人もいない。お茶坊主をすぐどこにでも退艦させろ」

 艦は黄海の真ん中で漂泊を始める。これには皇帝の首席随員も驚き、艦橋まで老体を運びやっと事なきを得た。

 戦後、井上はこのことに話が及ぶと「若かったですからね」と苦笑したと言われている。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、井上は「海軍の思い出」の中で次の様に述べている。

 私が「比叡」の艦長をやめて横須賀の参謀長で、水交社で晩飯を食っている時、「比叡」は陛下のお召し艦になるんで乗組員の上陸を禁じてあると聞いた。ところが、現艦長は水交社へ来てメシを食っている。

 私が

 「お前の艦は上陸停止をしているのではないか、上陸停止の命令は誰が出したんだ」

 ときくと

 「艦長が出しました」

 と言う。

 「艦長が出した命令を艦長が破っていいのか」

 と詰問した。そういう艦長がいました。

 後で聞くと、その艦長室の前に兵隊で脱糞した奴がいるっていう話でした。

 それから、ある大将まで行った人ですが、「日向」の艦長でね。艦長が上甲板へ出てくると煙草盆のまわりに輪になって煙草を吸っている士官室の士官たちが、さっさと下へみんな入ってしまう。艦長は下りたか、もう下りました、と聞くと、上に上がってくる。

 その艦長が最後にどこかに転任で艦を去ったとき、兵隊が塩をまいて清めたというのです。そんなことで戦争ができるもんじゃない。ところがそういうのがだんだん目に付くんです。

 以上のように井上は「比叡」の想い出を語っている。

 「井上成美」(新潮文庫)によると、昭和10年11月、井上は海軍少将に昇任し、横須賀鎮守府参謀長に就任した。

 井上が参謀長に就任した時期は、陸軍、海軍の青年将校らの国家改造運動が盛んで不穏な空気が横行していた。

 昭和10年8月12日、軍務局長・永田鉄山陸軍少将は相澤三郎陸軍中佐により軍刀で斬殺された。また、昭和11年2月26日には2.26事件が起きている。

 昭和11年の正月を井上少将は横須賀鎮守府裏の参謀長官舎で迎えた。井上少将はやもめ暮らしの四年目で、家族もいない、人もあまり来ない。お茶の水高女四年生の娘の靚子が休みの時だけ泊まっていく。家事は住みこみの女中に委せてあった。

 官舎の真向いに、横須賀海軍工廠総務部長・山下知彦海軍大佐の官舎があった。来客が多く、賑やかであった。

 年が明けて、女中が井上少将に妙な質問をした「お向かいの山下さんのお宅へ、夜分よく集まってくる方たち、何をしにお見えになるんでございますか」

 井上少将は、週二、三回、私服の海軍士官らしき若者が大勢集まっているのを気づいていた。

 井上少将は女中に、あれは山下さんが若い連中に時局の話など聞かせる修養会だと答え、その上で聞き返した。

 「何故そんなことを私に訊ねるのかね」

 女中は

 「あの人たち、夜おそく帰りぎわに、いつもうちの門のところで立小便をするんです。海軍さんにしてはずいぶん品の無い失礼な方々と思って腹を立てているんです」

 山下知彦海軍大佐は井上少将より兵学校三期下の、大西瀧治郎と同じクラスで、故山下源太郎大将の養子で、山下源太郎大将の爵位を継いだ男爵だった。

124.井上成美海軍大将(4) お父様はけんか早いからね

2008年08月08日 | 井上成美海軍大将
「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、昭和8年3月、伏見宮軍令部長から大角岑夫海軍大臣宛に「軍令部令及省部互渉規定改正」の商議が廻ってきた。

 これは軍令部長が宮様であることを楯に、軍令部次長の高橋三吉中将ら艦隊派が軍令部の権限強化を画策し、軍令部条例と省部互渉規定の改正案を条約派の占める海軍省に提出したものであった。

 軍令部長の伏見宮博恭王から「私の在職中でなければ恐らく出来まい、是非やれ」と言われたからである。

 軍令部からは「省部互渉規定改正案」を起草して検印せよと、反対する井上大佐のところへ毎日のように軍令部の使者がやって来た。

 その使者は軍令部第一班第二課長の南雲忠一大佐だった。南雲大佐は井上大佐より兵学校が一期上だった。

 井上大佐の部屋にきた南雲大佐のせりふは毎回「井上!早く判を押さんか!」だった。

 南雲大佐が机を叩いて要求しても、井上大佐は南雲大佐を静かに見据えるだけだった。

 とうとうしびれを切らした南雲大佐は井上大佐の机に手をかけ

 「井上、貴様のこの机、ひっくり返してやるぞ」と言った。

 「うん、やれよ」

 こんなやり取りを繰り返したあと、南雲大佐は

 「井上、貴様みたいな判らないやつは殺してやるぞ」と言った。

 すると井上大佐は

 「そんな脅しでへこたれるようで、今の私の職務が勤まるか。おい、君に見せたいものがある」

 そう言って遺書をおもむろに机の引き出しから取り出して見せた。

 「俺を殺しても俺の精神は枉げられないぞ」

 後日伏見宮邸で開かれた園遊会の帰りしなに、南雲大佐は酒気を帯びて井上大佐の前にきて凄んだ。

 「井上のばか。貴様なんか殺すの、何でもないんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやればそれっきりだ」

 井上大佐は命を掛けて抵抗していたが、宮様の威を借るごり押しに、大角岑生海軍大臣、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長も屈し、残るは井上大佐だけになった。

 寺島軍務局長の「枉げて同意してくれ」との要望も井上大佐は断った。「この案を通す必要があるなら、一課長をを代えたらいいでしょう」

 家に帰った井上大佐は娘の靚子(しずこ)に「海軍を辞めることになると思うが、お前に女学校だけは卒業させる」と言った。

 これに対して靚子は「お父様はけんか早いからね」と答えた。靚子を目に入れても痛くないほど可愛がっていた井上は、ただ苦笑いをしているだけだった。

 当時、靚子は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の付属に通っていた。聡明な靚子は父の性格をよく知っていた。また父親思いの控えめな女性であった。

 昭和8年9月20日、井上大佐は横須賀鎮守府付に発令され、二ヵ月後に練習戦艦「比叡」の艦長に転出した。

 昭和8年10月1日、「軍令部令及省部互渉規定改正案」が施行された。

 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、昭和8年11月15日、井上大佐は戦艦比叡艦長に発令された。

 井上大佐が比叡に着任すると、ロンドン会議反対派、つまり艦隊派の人たちが「井上が比叡艦長になったぞ。あいつは十一年も陸上勤務をやって、それで戦艦の艦長なんか務まるものか」と、悪口を言い出した。

 戦後、井上は、親しい後輩の中山定義(54期・中佐)に、比叡艦長のポストは「三十六期のクラスヘッド、佐藤市郎(兄弟宰相・岸信介・佐藤栄作の長兄)がなるところを、私が取っちゃったもんだから」ねたまれるのもうなずける、という意味のことを語っている。

 戦艦比叡は満州国皇帝のお召し艦を努めた。昭和10年3月25日、戦艦比叡は横須賀を出港し、大連まで皇帝を迎えに行き、4月6日横浜に入港。4月23日神戸港から皇帝を大連まで送り、5月4日、横須賀に帰港している。

 この航海中、井上の性格を顕著にする事件が起きた。

123.井上成美海軍大将(3) もし海軍をやめたら、金をつくって自動車を買い、円タク屋になる

2008年08月01日 | 井上成美海軍大将
 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、大正11年12月1日、井上は海軍大学校第二十二期甲種学生となった。

 この時井上は少佐で32歳であった。

 井上は大正7年からスイス国駐在、ドイツ、フランス国駐在と海外赴任が続き、大正11年2月に帰国した。

 帰国後すぐに海軍大学校甲種学生の採用試験が行なわれた。当時海軍大学校甲種学生の受験資格は「海軍大尉任官後六ヵ年以内の者」という条件があった。

 だが、井上は大正4年12月、26歳で大尉になり、大尉の三年目から海外駐在が始まり大正11年に帰国した時は少佐で大尉昇進から6年以上経過していた。

 ところが井上の海外駐在中の大正9年4月29日、達七九号により、海軍大学校甲種学生の受験資格が「但し、駐在または外国出張のため、全く受験の機会なかりし者は前項の年限を七ヵ年となすことを得」と改正された。

 帰国後、井上は同僚から

 「井上、甲種入学の規則が変わったのは、貴様のためだって評判だよ」

 と言われた。

 では井上の甲種学生採用試験の成績はどうであったか。

 井上は朝日ジャーナル昭和51年1月16日号「海軍の思い出」で次の様に語っている。

 「二十人の学生を採る場合、まず、筆頭試験は及第として口頭試験に呼ぶのは四十人。ところが、私は、筆頭の試験が六十番だった」

 「銓衡委員の一人が『おまえは六十番だった。けれども、外国へ行っていて勉強するひまがなかったのだろう。口頭試験に呼んでみようという会議の結果だったので、おまえ、呼ばれるよ』と教えてくれた」

 「それで、学校当局もあてにしなかったのに、口頭試験は一番でした」

 こうして井上の甲種学生の合格が決まった。

 そのころ井上は

 「もし海軍をやめたら、金をつくって自動車を買い、円タク屋になる」

 と言っていた。

 もし甲種学生が不合格だったら、海軍大将ではなく、円タク屋の井上が生まれていたかも知れない。

 大正13年12月1日、第二十二期甲種学生卒業式で二十一名中、恩賜の軍刀をもらったのは井上ではなく、首席の岡新(兵学校40期)と次席の阿部勝雄(兵学校40期)であった。

 岡新(おか・あらた)は海軍兵学校も首席の秀才であったが、将官になってからは中央勤務は少なく、上海在勤海軍駐在武官や第三南遣艦隊司令長官、大阪海軍警備府長官などで終戦を迎えた。

 阿部勝雄は後に井上軍務局長の後任として軍務局長になった。

 当時、井上軍務局長が、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国同盟に真っ向から反対し阻止しようとした。

 だが後任の阿部勝雄軍務局長になると、その締結に一役買っている。

 中沢祐海軍中将は戦後「海大トップが国を滅ぼした。教官にフォローするばかりで、独創性のないのが海軍を牛耳ったからだ」と批判的に述べている。

 昭和2年11月、井上中佐はイタリア駐在武官としてイタリアに赴任した。イタリアは第一次大戦後経済が混乱し、失業者が続出、治安も悪かった。

 このときムッソリーニがファシスト党を率いて立ち上がり、大正11年11月ムッソリーニ政権を樹立した。ムッソリーニは独裁政治で軍事力を強化、ファッショ的傾向を強めていた。

 井上中佐が駐在武官として赴任したイタリアは、ムッソリーニ政権での軍事力も充実しつつあった。

 ローマの井上中佐のところへイタリア海軍省発行の広報を、毎日、イタリア水兵が届けに来た。

 その度にメイドから心付けを水兵に渡していた。すると、広報が二枚あると、一枚づつ、二度に分けて持ってきたりした。

 また水兵たちの福祉のためといって、イタリア水兵が音楽会の切符を売りに来た。

 井上中佐はメイドに命じて買ってやった。ところがあとで日付を見ると、すでに二日前に終っている切符だった。

 ムッソリーニ配下の黒シャツ義勇軍の市中行進を見に行き、にわか雨に見舞われた。

 日本の帝国海軍では雨が降っても「ゆっくり濡れて来い」だったが、義勇軍の兵士は我先に寺院や店の中に逃げ込んでしまった。

 イタリア陸軍の演習の時、二、三の兵士が空に向けてポンポン撃っている。

 「敵はどこ」と聞くと、

 「知りません」と平気な顔。

 その後ろのほうでは、十数人の兵士があぐらを組んで梨をかじっていたという。

 井上中佐はこのような感心できない国民性と、ムッソリーニのファッショ政治が肌に合わず、ストレスを感じた。またがっかりしたといわれている。

122.井上成美海軍大将(2) ああ、宮城県か、少佐で馘(くび)だよ

2008年07月25日 | 井上成美海軍大将
 明治39年11月、井上は海軍兵学校に37期生として入学した。校長は島村速雄少将だった。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、この時期は、日露戦争の勝敗を決した日本海大海戦の勝利の後だけに、兵学校の志願者数は2971名だった。

 合格者は180名だった。実に16.5倍の競争率だった。ちなみに当時の旧制高等学校の全国平均競争率は6.3倍だった。

 兵学校の応募者の大多数は浪人組で、井上の時も、一年浪人が52パーセント、二年浪人が28パーセント、三年浪人が6パーセントで、中学校からストレートに合格したものはわずか10パーセントだった。井上は首席で合格した。

 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、兵学校入校後のある日、井上生徒は分隊監事を訪問したところ、出身地を問われた。

 「宮城県です」

 と答えた井上生徒に、

 「ああ、宮城県か、少佐で馘(くび)だよ」

 という言葉が返ってきた。

 井上生徒は

 「少佐にしてもらえば結構です。少尉になって軍艦に乗って、一年か二年でも海軍におれば結構です」

 と答えた。だが内心では、

 「ずいぶんひどいことを言うものだ」

 と思った。

 当時は海軍の鹿児島閥が生徒にも露骨に示されていた時代だった。

 井上によると、この悪風は財部彪海軍大臣(15期・大将)の時代である昭和5年まで続き、その後も多少は尾を引いた。

 本当に一掃されたのは米内光政海軍大臣(29期・のち大将、首相)が登場した昭和12年以後であるという(井上と海上自衛隊幹部学校長との座談記録)。

 仙台二中でトップの成績を収め、当時の学友からも英語の学力を評価されていた井上生徒も、兵学校三号時代は英語が苦手であった。

 これは大都市出身の同期生の学力、特に洗練された会話力に、井上生徒は及ばなかったようである。

 井上自身も

 「田舎の中学出身のため発音が劣っていた」

 と語っているが、おそらく東北人特有の訛りが影響したのではなかろうか。

 ある時、英語の酒巻教官から、英語の成績の悪い生徒が一人ずつ名指しで槍玉にあげられた。

 井上生徒もその中に入っており、

 「井上は討論を少しもやらないから平常点はゼロだ。試験によほど良い点をとらないと落第だ」

 とやられた。

 井上生徒は、同期生の中で英語が抜群の関根郡平(のち海軍少将)にどうしたら英語の力がつくか尋ねた。

 関根は即座に

 「英語の小説をどしどし読め」

 と教えた。そしてコナン・ドイルの「シャーロック・ホルムズ」を薦めた。

 井上生徒は「アドベンチャーズ・オブ・シャーロック・ホルムズ」に取り組んで読んでみたが、歯が立たなかった。一頁読むのに一時間では無理で、時には二時間かかった。

 そこで井上生徒は関根に

 「貴様、あんな本なら一時間にどれくらい読めるか」

 と聞いたところ、

 「うん、まあ、二十頁くらいかな」

 との答で、こんなにも能力に差があるのかと思った。

 このような英語の点数が影響したのか、井上生徒の三号生徒(一学年・当時の兵学校は三年制)の成績は、十六番に落ちてしまった。

 しかし二学年になってからは頑張って、一学期末には一番の成績を収めた。卒業時には百七十九名二番の成績で、恩賜の双眼鏡を授与された。

 クラスヘッド(首席)は小林万一郎で将来を嘱望されていたが、大正11年4月20日、惜しくも少佐で病没した。

 以後井上のハンモックナンバーは実質的にクラスヘッドになった。

121.井上成美海軍大将(1) 半歩も一歩も退かない「かわい気のない男」の人生を貫いた

2008年07月18日 | 井上成美海軍大将
 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、井上成美(しげよし)は生涯を通じて、自分が正しいと信じたことについては、上司に対しても絶対に所信を曲げることはなかった。 

 昭和19年7月、サイパン陥落により東條英機内閣は崩壊した。

 「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、嶋田繁太郎海軍大臣更迭の件で重臣岡田啓介は元軍令部総長で海軍の実力者であった伏見宮を訪れた。

 この時、岡田は伏見宮に

 「海軍の現在の多くの人の意見としましては、海軍で大臣を探すとすれば、現役大将では満点とはいえないにしても先ず豊田であろう。中堅から選べば兵学校の井上ではないかと申しております」

 と言った。

 すると伏見宮は

 「井上はいかん。あれは学者だ。戦には不向きだ。珊瑚海海戦のとき、敵をもっと追撃すべきときに空しく引かえしてしまった」

 と答えたという。

 遡って昭和8年3月、伏見宮博恭軍令部長から大角岑夫海軍大臣宛に「軍令部令及省部互渉規定改正」の商議が廻ってきた。

 これは軍令部長が宮様であることを楯に、次長の高橋三吉中将(艦隊派)を中心にした海軍軍令部が、海軍の伝統や慣習を無視して、一切の権限を海軍省から軍令部に集約しようとしたものであった。

 当時海軍省軍務局第一課長であった井上成美大佐はこれに強く反対して、徹底抗戦を行なった。

 このような経緯から、伏見宮の井上中将に対する覚えは、あまりめでたくなかったのである。

 当時の大角岑生海軍大臣、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長も軍令部の要求にしぶしぶ屈し、残りは軍務局の井上第一課長だけになっていた。

 軍令部だけでなく、さらに海軍省の上司の説得にもかかわらず、井上第一課長は最後まで、承諾の判を押さなかった。

 この時、井上第一課長は海軍を辞めるつもりでいた。判を押すことを拒否し、辞めることにより、自分の所信を貫こうとしたのである。

 だが、海軍は井上成美を辞めさせなかった。井上第一課長は更迭され、横須賀鎮守府付に転任、その後、光栄ある練習戦艦比叡艦長に発令された。

 この人事について、当時、伏見宮博恭軍令部長は、意外にも、井上第一課長が徹底して軍令部案に抵抗した点を高く評価し、人事局第一課長に次の様に話したという。

「井上は立派だった。軍人はああでなければならない。自分の正しいと信ずることに忠実な点は見上げたものである。第一課長は更迭止む無しとしても、必ず井上は良いポストに就けるように」

 自分の信念を貫くということは、戦前、戦中の当時の国情では許されないことであった。

 だが井上成美海軍大将は、半歩も一歩も退かない「かわい気のない男」の人生を貫いた。


<井上成美(しげよし)海軍大将プロフィル>

明治22年12月9日宮城県仙台市東二番町に生まれる。

明治42年11月海軍兵学校37期卒、179人中2番。

明治43年12月海軍少尉、鞍馬乗組。

大正元年12月海軍中尉。

大正4年12月海軍大尉、扶桑分隊長。

大正6年1月原喜久代と結婚。

大正7年12月スイス駐在。

大正10年9月フランス駐在、12月海軍少佐。

大正11年12月海軍大学校甲種学生。

大正13年11月海軍大学校22期卒、12月軍務局員。

大正14年12月海軍中佐。

昭和2年11月イタリア駐在武官。

昭和4年11月海軍大佐。

昭和5年1月海軍大学校戦略教官。

昭和7年11月海軍省軍務局第一課長、妻喜久代没。

昭和8年11月練習戦艦比叡艦長。

昭和10年11月海軍少将、横須賀鎮守府参謀長。

昭和11年11月軍令部出仕兼海軍省出仕。

昭和12年10月海軍省軍務局長。

昭和14年10月支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長、11月海軍中将。

昭和15年10月海軍航空本部長。

昭和16年8月第四艦隊司令官。

昭和17年10月海軍兵学校長。

昭和19年8月海軍次官。

昭和20年5月海軍大将、軍事参議官、10月予備役、横須賀長井の自宅に隠棲、英語塾開始。

昭和28年、63歳で秋田原富士子(53歳)と再婚、英語塾閉鎖。

昭和50年12月15日長井の自宅で死去、86歳。

昭和52年6月富士子死去、77歳。