その頃の最高幹部、元帥、陸軍大臣、参謀総長、あるいは教育総監、また大将たちのリーダーシップが非常に欠けていた。私の当時の日記を見て見ると「統制なき陸軍かな」と書いてある。非常に傑出した人がいないということも一つですね。
山縣有朋元帥が亡くなったという事が、ああいう重しになる人がいなくなったということが、軍の統制に影響を及ぼしているともいえる。だから、「桜会」の三月事件も、十月事件も、みな昭和六年のできごとですが、思い切って処分出来なかったのです。
以上が戦後の、岡村寧次氏の回想だが、抽象的な言い回しもあるので、「バーデン・バーデンの密約」後の永田鉄山の軌跡とグループ結成の流れを、具体的に見てみる。
「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、大正十二年四月、スイスから帰国した永田鉄山少佐の辞令は参謀本部附であったが、永田少佐は、教育総監部に留まるよう強く希望した。
その永田少佐の希望をすぐに認めたのは、教育総監部本部長・宇垣一成中将だった。永田中尉が陸軍大学校を卒業して教育総監部第一課に入ったが、その直前の第一課長は宇垣大佐だった。その当時から、宇垣大佐は永田中尉に眼を向けていた。
大正十二年八月永田少佐は中佐に進級し、陸軍大学校兵学教官を経て、大正十三年十二月陸軍省軍務局軍事課高級課員、大正十五年三月、作戦資材整備会議幹事を歴任した。
有末精三元中将は、当時のことを次のように回想している。
私共が陸軍大学を卒業し、その翌年私は参謀本部に転任したのですが、その時に永田さんは軍事課の高級課員、つまり中佐課員でした。
その中佐課員であった時に、彼と同期(十六期)の岩橋次郎(いわはし・じろう)中佐(福岡・陸士一五・陸大二二・参謀本部編制動員課編制班長・中佐・歩兵第一二連隊附・大佐・参謀本部編制動員課長・陸軍省兵務局兵務課長・長崎要塞司令官・少将・予備役)が参謀本部の第一課におられた(永田中佐と陸士同期は、有末氏の記憶違い)。
陸軍の制度としては編制、予算関係においては軍事課が一番の権限を持っておりました。参謀本部では作戦課が作戦計画をやる。そして編制関係は総務部の第一課がそれの主務であった。そして陸軍省(軍事課)との折衝の窓口であった。
その岩橋さんは陸大の教官の時に病気をして少し休んでおられたから、進級は永田さんより遅れておられたが、この人も非常に頭のいい人でした。演習時は編制課と一緒に研究する機会が多かった。
私共の班長は阿南惟幾(あなみ・これちか)少佐(東京・陸士一八・陸大三〇・陸軍大学校兵学教官・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・陸軍航空総監・陸軍大臣・自決)でした。
岩橋さんは非常な雄弁家で、ある時永田軍事課高級課員と一論議して演習課にやって来て、「俺は永田と議論して勝った」と言う。何の話をしていたか判らないが、恐らく学校訓練かなんかの話ではなかったかと思います。
すると、阿南さんが、「岩橋さん、それはあなた、議論に勝って、実行に負けてますよ、永田さんは名を捨てて実を取ったんじゃないか」と、私等のいるところで批評されたことがあります。その時の印象というものは、「ははあ、なるほど、永田さんという人は実行型の人なんだなあ」と思った。
実際参謀本部の作戦課、編制課というものは「理想」を行うわけです。参謀本部だから、こういうふうに編制を持って行かなくてはと案を立てる。ところが、陸軍省はそれを実行して行くための予算を伴う。だから実行型にならざるを得ないのだ。
私の受けた印象は、教育の問題についてとか思想問題について、非常に理想的に説明しておられるようで、まさに理想主義者である。しかしながら、実行面も決して忘れてはいない、という永田さんの性格を、そこに初めて、私はほんのりと感じたのです。
以上が、有末精三元中将の回顧談だが、この当時から「バーデン・バーデンの密約」で、陸軍改革を誓い合い、同志的結束を保って来た、永田中佐、陸軍大学校兵学教官・小畑敏四郎中佐、歩兵第一三連隊附・岡村寧次中佐は、会合を重ねていた。
つまり、国家総動員体制の確立に向けて精力的に行動していた。また、中央の少壮幕僚から同志を募り、さらなる会合を重ねて来ていた。
昭和二年からは、集まった同志で定期的な会合を、渋谷のフランス料理店「二葉亭」で開くようになった。これが「二葉会」の始まりである。
山縣有朋元帥が亡くなったという事が、ああいう重しになる人がいなくなったということが、軍の統制に影響を及ぼしているともいえる。だから、「桜会」の三月事件も、十月事件も、みな昭和六年のできごとですが、思い切って処分出来なかったのです。
以上が戦後の、岡村寧次氏の回想だが、抽象的な言い回しもあるので、「バーデン・バーデンの密約」後の永田鉄山の軌跡とグループ結成の流れを、具体的に見てみる。
「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、大正十二年四月、スイスから帰国した永田鉄山少佐の辞令は参謀本部附であったが、永田少佐は、教育総監部に留まるよう強く希望した。
その永田少佐の希望をすぐに認めたのは、教育総監部本部長・宇垣一成中将だった。永田中尉が陸軍大学校を卒業して教育総監部第一課に入ったが、その直前の第一課長は宇垣大佐だった。その当時から、宇垣大佐は永田中尉に眼を向けていた。
大正十二年八月永田少佐は中佐に進級し、陸軍大学校兵学教官を経て、大正十三年十二月陸軍省軍務局軍事課高級課員、大正十五年三月、作戦資材整備会議幹事を歴任した。
有末精三元中将は、当時のことを次のように回想している。
私共が陸軍大学を卒業し、その翌年私は参謀本部に転任したのですが、その時に永田さんは軍事課の高級課員、つまり中佐課員でした。
その中佐課員であった時に、彼と同期(十六期)の岩橋次郎(いわはし・じろう)中佐(福岡・陸士一五・陸大二二・参謀本部編制動員課編制班長・中佐・歩兵第一二連隊附・大佐・参謀本部編制動員課長・陸軍省兵務局兵務課長・長崎要塞司令官・少将・予備役)が参謀本部の第一課におられた(永田中佐と陸士同期は、有末氏の記憶違い)。
陸軍の制度としては編制、予算関係においては軍事課が一番の権限を持っておりました。参謀本部では作戦課が作戦計画をやる。そして編制関係は総務部の第一課がそれの主務であった。そして陸軍省(軍事課)との折衝の窓口であった。
その岩橋さんは陸大の教官の時に病気をして少し休んでおられたから、進級は永田さんより遅れておられたが、この人も非常に頭のいい人でした。演習時は編制課と一緒に研究する機会が多かった。
私共の班長は阿南惟幾(あなみ・これちか)少佐(東京・陸士一八・陸大三〇・陸軍大学校兵学教官・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・陸軍航空総監・陸軍大臣・自決)でした。
岩橋さんは非常な雄弁家で、ある時永田軍事課高級課員と一論議して演習課にやって来て、「俺は永田と議論して勝った」と言う。何の話をしていたか判らないが、恐らく学校訓練かなんかの話ではなかったかと思います。
すると、阿南さんが、「岩橋さん、それはあなた、議論に勝って、実行に負けてますよ、永田さんは名を捨てて実を取ったんじゃないか」と、私等のいるところで批評されたことがあります。その時の印象というものは、「ははあ、なるほど、永田さんという人は実行型の人なんだなあ」と思った。
実際参謀本部の作戦課、編制課というものは「理想」を行うわけです。参謀本部だから、こういうふうに編制を持って行かなくてはと案を立てる。ところが、陸軍省はそれを実行して行くための予算を伴う。だから実行型にならざるを得ないのだ。
私の受けた印象は、教育の問題についてとか思想問題について、非常に理想的に説明しておられるようで、まさに理想主義者である。しかしながら、実行面も決して忘れてはいない、という永田さんの性格を、そこに初めて、私はほんのりと感じたのです。
以上が、有末精三元中将の回顧談だが、この当時から「バーデン・バーデンの密約」で、陸軍改革を誓い合い、同志的結束を保って来た、永田中佐、陸軍大学校兵学教官・小畑敏四郎中佐、歩兵第一三連隊附・岡村寧次中佐は、会合を重ねていた。
つまり、国家総動員体制の確立に向けて精力的に行動していた。また、中央の少壮幕僚から同志を募り、さらなる会合を重ねて来ていた。
昭和二年からは、集まった同志で定期的な会合を、渋谷のフランス料理店「二葉亭」で開くようになった。これが「二葉会」の始まりである。