陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

509.永田鉄山陸軍中将(9)岩橋さん、それはあなた、議論に勝って、実行に負けてますよ

2015年12月25日 | 永田鉄山陸軍中将
 その頃の最高幹部、元帥、陸軍大臣、参謀総長、あるいは教育総監、また大将たちのリーダーシップが非常に欠けていた。私の当時の日記を見て見ると「統制なき陸軍かな」と書いてある。非常に傑出した人がいないということも一つですね。

 山縣有朋元帥が亡くなったという事が、ああいう重しになる人がいなくなったということが、軍の統制に影響を及ぼしているともいえる。だから、「桜会」の三月事件も、十月事件も、みな昭和六年のできごとですが、思い切って処分出来なかったのです。

 以上が戦後の、岡村寧次氏の回想だが、抽象的な言い回しもあるので、「バーデン・バーデンの密約」後の永田鉄山の軌跡とグループ結成の流れを、具体的に見てみる。

 「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、大正十二年四月、スイスから帰国した永田鉄山少佐の辞令は参謀本部附であったが、永田少佐は、教育総監部に留まるよう強く希望した。

 その永田少佐の希望をすぐに認めたのは、教育総監部本部長・宇垣一成中将だった。永田中尉が陸軍大学校を卒業して教育総監部第一課に入ったが、その直前の第一課長は宇垣大佐だった。その当時から、宇垣大佐は永田中尉に眼を向けていた。

 大正十二年八月永田少佐は中佐に進級し、陸軍大学校兵学教官を経て、大正十三年十二月陸軍省軍務局軍事課高級課員、大正十五年三月、作戦資材整備会議幹事を歴任した。

 有末精三元中将は、当時のことを次のように回想している。

 私共が陸軍大学を卒業し、その翌年私は参謀本部に転任したのですが、その時に永田さんは軍事課の高級課員、つまり中佐課員でした。

 その中佐課員であった時に、彼と同期(十六期)の岩橋次郎(いわはし・じろう)中佐(福岡・陸士一五・陸大二二・参謀本部編制動員課編制班長・中佐・歩兵第一二連隊附・大佐・参謀本部編制動員課長・陸軍省兵務局兵務課長・長崎要塞司令官・少将・予備役)が参謀本部の第一課におられた(永田中佐と陸士同期は、有末氏の記憶違い)。

 陸軍の制度としては編制、予算関係においては軍事課が一番の権限を持っておりました。参謀本部では作戦課が作戦計画をやる。そして編制関係は総務部の第一課がそれの主務であった。そして陸軍省(軍事課)との折衝の窓口であった。

 その岩橋さんは陸大の教官の時に病気をして少し休んでおられたから、進級は永田さんより遅れておられたが、この人も非常に頭のいい人でした。演習時は編制課と一緒に研究する機会が多かった。

 私共の班長は阿南惟幾(あなみ・これちか)少佐(東京・陸士一八・陸大三〇・陸軍大学校兵学教官・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・陸軍航空総監・陸軍大臣・自決)でした。

 岩橋さんは非常な雄弁家で、ある時永田軍事課高級課員と一論議して演習課にやって来て、「俺は永田と議論して勝った」と言う。何の話をしていたか判らないが、恐らく学校訓練かなんかの話ではなかったかと思います。

 すると、阿南さんが、「岩橋さん、それはあなた、議論に勝って、実行に負けてますよ、永田さんは名を捨てて実を取ったんじゃないか」と、私等のいるところで批評されたことがあります。その時の印象というものは、「ははあ、なるほど、永田さんという人は実行型の人なんだなあ」と思った。

 実際参謀本部の作戦課、編制課というものは「理想」を行うわけです。参謀本部だから、こういうふうに編制を持って行かなくてはと案を立てる。ところが、陸軍省はそれを実行して行くための予算を伴う。だから実行型にならざるを得ないのだ。

 私の受けた印象は、教育の問題についてとか思想問題について、非常に理想的に説明しておられるようで、まさに理想主義者である。しかしながら、実行面も決して忘れてはいない、という永田さんの性格を、そこに初めて、私はほんのりと感じたのです。

 以上が、有末精三元中将の回顧談だが、この当時から「バーデン・バーデンの密約」で、陸軍改革を誓い合い、同志的結束を保って来た、永田中佐、陸軍大学校兵学教官・小畑敏四郎中佐、歩兵第一三連隊附・岡村寧次中佐は、会合を重ねていた。

 つまり、国家総動員体制の確立に向けて精力的に行動していた。また、中央の少壮幕僚から同志を募り、さらなる会合を重ねて来ていた。

 昭和二年からは、集まった同志で定期的な会合を、渋谷のフランス料理店「二葉亭」で開くようになった。これが「二葉会」の始まりである。


508.永田鉄山陸軍中将(8)彼は陸軍の革新というより、国の革新まで最初から考えていました

2015年12月18日 | 永田鉄山陸軍中将
 さらに、十八期の山下奉文(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・陸軍省軍事調査部長・中将・第四師団長・陸軍航空総監兼陸軍航空本部長・関東防衛司令官・第二五軍司令官・第一方面軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・マニラで死刑)、二十期の橋本群(広島・陸士二〇・砲工高一八恩賜・陸大二八恩賜・第一軍参謀長・参謀本部第一部長・中将・予備役)、草場辰巳(滋賀・陸士二〇・陸大二七・歩兵第一九旅団長・第二野戦鉄道司令官・中将・関東軍野戦鉄道司令官・関東防衛軍司令官・第四軍司令官・予備役・大陸鉄道司令官・自決)、これくらいのところでできたのが、「一夕会」なのです。

 この「一夕会」の最初の目的は、部内の人事の革新と、軍を国民と共にもっていこうということだった。あまりに軍が国民から離れていましたから。

 「同人会」「双葉会」というグループもできましたが、「双葉会」は我々(岡村寧次ら一夕会)の仲間です。また、「満蒙問題研究会」といったものを課長連中がつくらされていました。

 「一夕会」の連中もだんだん年を取って、少佐、中佐になると、みんな要職につくものですから青年将校時代からずっと中国研究一点張りでいったというのは、十五期の河本大作、十六期の私(岡村寧次)と磯谷廉介、板垣征四郎、土肥原賢二。

 十七期、十八期にもありますが、それに二十一期の石原莞爾(山形・陸士二一・六席・陸大三〇・次席・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・予備役)、二十三期の根本博(福島・陸士二三・陸大三四・第二一軍参謀長・中将・第三軍司令官・駐蒙軍司令官・北支那方面軍司令官)、これだけしかないんです。

 満州事変の前ごろ、だんだん中国の空気が険悪になってきて、関東軍が独断で何かやりそうだとか、いろんな流言が飛びますし、それで、前述の「時局満蒙対策研究会」をつくった。

 当たり前なら、参謀本部第二部支那班の重藤千秋(福岡・陸士一八・陸大三〇・陸軍大学校兵学教官・参謀本部支那課支那班長・歩兵大佐・参謀本部支那課長・第一一師団参謀長・少将・台湾守備隊司令官・中将・予備役)、陸軍省軍事課長の永田鉄山と、これだけでやればいいことを、事が重大だから、仕事に関係なしに、適任と認めたものを最高首脳部が指名した訳です。

 陸軍省では軍事課長の永田と、私は人事局の人事課長(補任課長)をしておりましたから、それに加わり、参謀本部第一課長の東條、欧米課長の渡久雄(東京・陸士一七・陸大二五恩賜・歩兵第六旅団長・参謀本部第二部長・中将・第一一師団長・戦死)、作戦課長の今村均(宮城・陸士一九・陸大二七首席・陸軍省兵務局長・中将・第二三軍司令官・第一六軍司令官・第八方面軍司令官・大将・戦犯で禁錮十年)、教育総監部の磯谷など、八人が指名された訳です。

 その委員長が参謀本部第二部長の建川美次少将(新潟・陸士一三・陸大二一恩賜・参謀本部第一部長・国際連盟陸軍代表・中将・ジュネーブ軍縮会議全権委員・第一〇師団長・第四師団長・予備役・「ソビエト」連邦在勤特命全権大使・大日本翼賛壮年団長)です。

 みんな課長は忙しいものですから、退庁後に集まって夕飯の弁当を食べながら研究したんです。事変の前後になってからは、ほとんど毎日やりましたね。

 事件が起きるたびに議論して、それを建川さんが統制していく。そしてできた案を大臣、総長に報告する。だから、この課長会は「一夕会」とは関係ないのです。

 以上が岡村寧次氏の回想だが、さらに、中村菊男氏の、「『桜会』の動きは『一夕会』に対抗する意味でできたのですか」という問いに対して、岡村寧次元陸軍大将は次のように、述べている。

 そうじゃないんです、あれはまたちがうんですね。階級が一段下ですから。「一夕会」とダブっているのもいますね。たとえば、根本は「桜会」に入っていましたね。

 「桜会」というのは、やはり陸軍の革新の機を起こしたのですが、橋本欣五郎は生粋の福岡だましいで、非常に積極的な男ですが、トルコ駐在武官として、この二、三年前に帰って来たんです。トルコにいた時に、ソビエトの革命、トルコの国内の革新を見てきて、どうしても日本も改革しなければいかんというので、彼は陸軍の革新というより、国の革新まで最初から考えていました。それに共鳴したのが「桜会」です。

 それから、二・二六事件を起こした者のうち、少尉、中尉はまた別なんです。私は人事局の課長を長くやっていまして、彼らを呼びつけて、話を聞いておりますが、これは純真なる気持ちで出発しているんです。

 彼ら若い将校は世間をまるで知りませんから、元気のない兵隊を呼んで聞いてみると、妹がどこかに売られていっているとか、家ではろくなものを食べていないとか、政治が悪いという事になるのですが、中・少尉の間にそういうグループが出来て来たのです。

 彼らは「桜会」に対して非常な反感を持っている。陸軍大学校を出て、参謀本部で威張っている奴が、ヨーロッパに行って来て、なんだ、……、我々こそが本当に純真なんだと……、これが二・二六を起こした。

507.永田鉄山陸軍中将(7)世界情勢の変化に、硬直した軍の上層部は対応できていない

2015年12月11日 | 永田鉄山陸軍中将
 「バーデン・バーデンの密約」が行われた、大正十年十月二十七日の時点で、永田鉄山少佐はスイス公使館附武官、小畑敏四郎少佐はロシア大使館附武官、岡村寧次少佐は欧州に出張中だった。会談の具体的内容の概略は次のようなものだった。

 まず、長州軍閥の打破であった。明治以来、日本陸軍は、山縣有朋ら長州閥により人事が行われて来た。この長州閥の構造を破壊しないと強力な国防国家は構築できない。

 次に、第一次世界大戦の結果、戦争はもはや軍事的戦略だけでは勝てず、国家総力戦の様相を示していた。陸軍としては、国家総動員体制構築のためどのように改革していくべきか。

 また、ソビエト共産主義国家の脅威である。軍事大国となったソビエトは、仮想敵国としても、その計り知れない軍事力にどう立ち向かうのか。

 この様な世界情勢の変化に、硬直した軍の上層部は対応できていない現状から、自分たちが結束し、思い切った陸軍の軍制改革を実現する。

 以上であるが、この「バーデン・バーデンの密約」について、当事者の一人である岡村寧次元陸軍大将は、その成り行きを、日記に次のように記している。

 「小畑と共に、午後十時五十分、バーデン・バーデン着。永田と堅き握手をなし、三人共に同一ホテルに投宿。快談一時に及び、隣室より小言を言われて就寝す。二十八日には付近を逍遥見物したが、夕食後、永田と飲みつつ三更帰泊就寝。翌二十九日、袂をわかちて小畑と共にベルリンに帰る」。

 さらに、「昭和陸軍秘史」(中村菊男・番町書房)によると、岡村寧次元陸軍大将は戦後、著者の中村菊男氏(慶応大学法学部教授・法学博士)との対談で、「バーデン・バーデンの密約」の中身について、また、統制派軍閥の発生と発展について、次のように証言している(要旨抜粋)。

 大正十年に南ドイツのバーデン・バーデンで、永田鉄山と小畑敏四郎と私とが革命のノロシをあげたというようなことが書いてある。それは大げさで、そのときは満州問題なんかという他国のことはいっさい考えませんで、陸軍の革新ということを三人で考えたのです。

 その時は本気になりました。その革新という意味は、正直に言って、第一は人事がそのことは閥なんですね。一種の長州閥で専断の人事をやってるのと、もう一つは、軍が統帥権によって、国民と離れておった。

 これを国民と共にという方向に変えなければいかん、三人で決心してやろうと言ったことは事実です。ヨーロッパに行ってその軍事状況を見たものですから。三人とも少佐時代で、これが始まりなんです。

 陸士同期生は、我々三人と、次の人々ですが、これはよほど後になってからです。

 小笠原数夫(福岡・陸大二八・関東軍飛行集団長・中将・陸軍航空本部総務部長)。

 磯谷廉介(兵庫・陸大二七・参謀本部第二部長・支那大使館附武官・陸軍省軍務局長・中将・関東軍参謀長)。

 板垣征四郎(岩手・陸大二八・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・大将・朝鮮軍司令官・第七方面軍司令官・A級戦犯で死刑)。

 土肥原賢二(岡山・陸大二四・奉天特務機関長・中将・第一四師団長・陸軍士官学校長・大将・東部軍司令官・第七方面軍司令官・教育総監・第一総軍司令官・A級戦犯で死刑)。

 黒木親慶(宮崎・陸大二四・士官学校教官・ロシア駐在・少佐・シベリア出兵で反革命派のセミョーノフ軍の顧問を務めたが、陸軍中央がセミョーノフ支援を中止したため解任、帰国・退役・三六倶楽部会長)、小野弘毅(歩兵第二一連隊長・歩兵第四連隊長・少将)。

 我々同期だけではいかんからというので、ちょうどライプチヒに留学しておった東條英機(岩手・陸士一七・陸大二七・陸軍省軍事調査部長・関東憲兵隊司令官・中将・関東軍参謀長・陸軍次官・陸軍航空総監兼陸軍航空本部長・陸軍大臣・大将・首相・兼参謀総長・A級戦犯で死刑)のところに私が行って説いて、まず、十六期、十七期で始まったわけです。

 それで、「自分より上の期の者でも加担してくれる人がいるよ」ということになって、十四期の小川恒三郎(新潟・陸士一四・陸大二三・歩兵第一旅団長・参謀本部第四部長・墜死・中将進級)、十五期の河本大作(兵庫・陸士一五・陸大二六・参謀本部支那課支那班長・歩兵大佐・関東軍高級参謀・第九師団司令部附・停職・予備役・満鉄理事・満州炭坑株式会社理事長・満州重工業理事・山西産業社長)、山岡重厚(高知・陸士一五・陸大二五・陸軍省軍務局長・陸軍省整備局長・中将・第九師団長・予備役・第一〇九師団長・善通寺師管区司令官)にも入ってもらった。

506.永田鉄山陸軍中将(6)派閥解消、人事刷新、軍制改革を断行する

2015年12月04日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田鉄山中尉は、陸軍大学校在学中の明治四十二年十二月八日、轟文子と結婚した。鉄山は二十五歳、文子は二十歳だった。文子は鉄山の母、順子(旧姓は轟)の弟、轟亨の娘で、鉄山とは従兄妹にあたる。媒酌人は、真崎甚三郎少佐(軍務局軍事課)だった。

 陸軍大学校を卒業して、大正二年八月永田中尉は歩兵大尉に進級した。二十九歳だった。その後、永田大尉は教育総監部勤務を経て、ドイツ駐在、デンマーク駐在、スェーデン駐在で、欧州の軍事研究を行った。

 大正六年九月帰国後、永田鉄山大尉は、教育総監部附として、臨時軍事調査委員会では委員として活動した。

 大正八年の頃、思想問題の研究を担当していた永田鉄山少佐は、渋谷に住む二、三の同僚と時々徒歩で帰ったが、その途中、たまたまデモクラシー問題の話になった時、同僚の一人が「そんな思想は日本にはいらないさ。放っておけば自然に消滅するよ」と意見を述べた。

 すると、永田少佐は「研究もしないで、そんなことを言うのは、あたかも噴火口の上にて乱舞するがごときものだ」と言った。永田少佐は、いろんな方面に関することでも、おろそかにせず、徹底して研究するのが信条であった。

 日本陸軍は昭和に入ると、派閥抗争が激化し、歴史的にはまさに軍閥興亡史とも呼ぶべき時代の潮流となっていく。この軍閥抗争の犠牲になったのが永田鉄山であり、栄光の階段の途中で転落してしまった。

 その派閥抗争の根源は、長州閥とその亜流である宇垣(一成)系であったと言える。この長州閥・宇垣系の後、少壮幕僚の集団から生成した新しい天皇制軍閥、あるいは統制派ともいうべき派閥が台頭して来た。

 その統制派軍閥の由来は、大正十年の「バーデン・バーデンの密約」に始まる。大正十年前後といえば、世界は「戦争と革命」に突入した時期である。ロシア革命、ドイツ革命、そしてトルコ革命と、ヨーロッパは不安と焦慮におおわれていた。

 日清・日露という二つの戦争を経験し、第一次世界大戦での日独戦争、シベリア出兵などによって、ようやく資本主義国家として世界列強の一国としての地位にのし上がった。

 「評伝・真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、この東洋の新興国家、日本の駐在武官として、動乱のヨーロッパに派遣されていたエリート中堅将校たちは、国家、民族の興亡をそれぞれの現地、現場において目撃した。

 数百年の伝統を誇る王朝も一朝にして打倒・崩壊される革命の恐ろしさ。日本もこのままの姿でいてよいものであろうか。このエリート将校たちは、全身に危機感をたぎらせながら、反革命の決意を新たにして、遠く想いを祖国の上に馳せた。

 折も折、彼らの憂鬱を一瞬にして吹き飛ばすような一大朗報が訪れた。若き皇太子のヨーロッパ親善訪問!健康上に理由で完全に象徴的天皇であった大正天皇。

 ところが、今、祖国を離れた異邦の地で、颯爽たる青年士官に成長した皇太子を目のあたりに迎えたエリート将校たちの感激と興奮は想像を絶するものがあった。

 「よしッ、この皇太子を盛り立てて、皇国の興隆をかけて、粉骨砕身しよう!」とエリート将校たちは決意を新たにした。「祖国日本に革命を起こしてはならない」。「祖国日本を強国にするため、天皇制国家体制を強化整備しなければならない」。

 この秘密結社的な盟約の初会合が、大正十年十月二十七日から、南ドイツの温泉保養地、バーデン・バーデンで行われた。

 当時、陸士一六期の三羽烏といわれた三名の少佐(当時)が、バーデン・バーデンで会合し、ホテルに二泊三日して、「派閥解消、人事刷新、軍制改革を断行する。軍の近代化と国家総動員体制の確立」などを、夜を徹して語り合い、強く誓い合った。また、同志的結束を図り、それを拡大していくこと。これが「バーデン・バーデンの密約」である。三名の少佐は次の通り。

 永田鉄山歩兵少佐(長野・陸士一六首席・陸士二三恩賜次席・歩兵少佐・スイス公使館附武官・教育総監部課員・中佐・陸軍大学校教官・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・昭和十年八月相沢中佐に斬殺される・正四位・勲一等)。

 小畑敏四郎歩兵少佐(高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜六番・歩兵少佐・ロシア大使館附武官・参謀本部員・歩兵中佐・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校監事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・昭和二十二年一月死去・従三位・勲一等)。

 岡村寧次歩兵少佐(東京・陸士一六・陸大二五・八席・歩兵少佐・欧州出張・歩兵第一四連隊大隊長・歩兵中佐・参謀本部附・歩兵第一連隊附・歩兵大佐・歩兵第六連隊長・参謀本部戦史課長・陸軍省人事局補任課長・少将・関東軍参謀副長・参謀本部第二部長・中将・第二師団長・第一一軍司令官・大将・北支那方面軍司令官・支那派遣軍総司令官・昭和四十一年九月死去・正三位・勲一等・功一級)。