陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

731.野村吉三郎海軍大将(31)初めから敵の十に対して我が方が七か六では、漸滅作戦は成り立たない

2020年03月27日 | 野村吉三郎海軍大将
 在アメリカ大使館附武官・永野修身(ながの・おさみ)海軍大佐(高知・海兵二八期・次席・海大八期・人事局局員<第一課>・大佐・人事局第一課長・巡洋艦「平戸」艦長・在米国大使館附武官・ワシントン会議全権随員・少将・軍令部第三班長・第三戦隊司令官・第一遣外艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・軍令部次長・ジュネーヴ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン会議全権・連合艦隊司令長官・議定官・高等技術会議議長・軍令部総長・元帥・終戦・A級戦犯・昭和二十二年一月五日急性肺炎で死去・享年六十六歳・従二位・勲一等旭日大綬章)。

 軍令部作戦課長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大佐(山口・海兵二七期・五〇番・海大七期・恩賜・第一艦隊参謀・大佐・巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部第一班第一課長・ワシントン会議随員・軍令部第一班長心得・少将・第一戦水戦隊司令官・海軍大学校教官・海軍省教育局長・中将・軍令部次長・舞鶴鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・予備役・内務大臣・内閣参議・昭和十九年十二月二十九日病死・享年六十四歳・従二位・勲一等旭日大綬章)。

 海軍省高級副官・野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)海軍大佐(和歌山・海兵二六・次席・在米国大使館附武官・大佐・装甲巡洋艦「八雲」艦長・パリ講和会議全権委員随員・海軍省副官・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・枢密顧問官・終戦・日本ビクター社長・参議院議員・昭和三十九年五月八日病死・享年八十六歳・従二位・勲一等旭日桐花大綬章)。

 参謀本部第二部長・田中国重(たなか・くにしげ)陸軍少将(鹿児島・陸士四期・陸大一四期・恩賜・満州軍参謀・大佐・後備混成第四旅団参謀長・在米国大使館附武官・騎兵第一六連隊長・侍従武官・在英国大使館附武官・少将・パリ講和会議全権委員随員・参謀本部第二部長・ワシントン会議随員・騎兵第三旅団長・中将・第一五師団長・近衛師団長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・予備役・明倫会主宰・昭和十六年三月九日心臓麻痺で死去・享年七十一歳・正三位・勲一等瑞宝章)。

 陸軍大臣秘書官・建川美次(たてかわ・よしつぐ)陸軍中佐(新潟・陸士一三期・陸大二一期・恩賜・ワシントン会議随員・騎兵第五連隊長・・大佐・参謀本部欧米課長・少将・在支那公使館附武官・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・ジュネーヴ会議全権随員・国際連盟常設委員会陸軍代表・中将・第一〇師団長・第四師団長・予備役・駐ソ大使・大政翼賛会総務・大日本翼賛壮年団長・昭和二十年九月九日死去・享年六十四歳・勲一等・功四級)。

 日本海海戦に勝った後、当時の日本海軍の軍令部や海軍大学校の教官たちは、次の戦争の仮想敵国はアメリカであると規定していた。

 彼らは、アメリカ太平洋横断作戦を、つぎのような輪型陣で進攻してくるものと想定していた。

 アメリカ海軍は日本の八八艦隊に対して、十十艦隊を整備して、新型戦艦十隻を中心に単縦陣とし、その周囲に重巡洋艦十隻を護衛に配備、さらにその周囲、及び前方に駆逐艦多数を配置する。

 こうしてサンフランシスコ軍港を出発し、太平洋を横断して、フィリピンのキャビテ軍港に向かう。そしてフィリピンを基地にして日本と南方の通商を破壊し、最終的に日本海軍に決戦を挑む。

 随って、日米決戦ともなれば、敵の十十艦隊に対して、日本は八八艦隊で応戦しなければならない。

 この場合、戦艦の数が十対八ならばどうにかやれる。それは本土に接近する前に、漸滅作戦で敵の戦艦を八隻にまで削っておくことが可能であるからだ。

 しかし、初めから敵の十に対して我が方が七か六では、漸滅作戦は成り立たない。

 そこで、海軍大学校の校長である加藤寛治中将は海軍大学校の英才を集めて計算をした。

 結論は、敵の十に対して、我が方は最初に七は必要である。それならば、漸滅作戦で本土決戦のときは、敵の八に対して七である。また、敵が七でも、我が方が六ならば勝負に勝てる。

 しかし、最初から十対六、即ち五対三では、いかに漸滅作戦を活用しても対等の勝負に持ち込むことは難しい。

 これが、日本海軍の軍令系統の戦術であり、ワシントン会議首席随員である加藤寛治中将の“信念”だった。










730.野村吉三郎海軍大将(30)アメリカ政府は海軍軍縮と太平洋・極東問題についての会議開催を日本に申し入れてきた

2020年03月20日 | 野村吉三郎海軍大将
 そういう状況から大正十年七月、アメリカ政府は海軍軍縮と太平洋・極東問題についての会議開催を日本に申し入れてきた。

 参加国は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアとその関係諸国だった。

 日本は、他の諸問題は別として、海軍軍縮に関する限りは内心考慮しつつあった矢先だから、直ちに参加を受諾した。

 大正十年十一月十二日から大正十一年二月六日まで、アメリカのワシントンD.C.で国際軍縮会議が開催された。ワシントン会議である。

 参加国は、日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中華民国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの九か国だった。

 当時のアメリカ大統領は、ウォレン・ハーディング(オハイオ州コルシカ<父は博士で教師のち新聞社経営・母は医師>オハイオセントラル大学卒・新聞「マリオン・デイリー・スター」経営・オハイオ州議会議員・オハイオ州副知事・上院議員・アメリカ合衆国大統領・スキャンダル勃発・大統領として全国遊説中に一九二三年<大正十二年>八月二日食中毒・肺炎・脳梗塞で死去・享年五十七歳)だった。

 日本の首相は、高橋是清(たかはし・これきよ・東京<父は幕府御用絵師>・高橋覚治<仙台藩足軽>の養子となる・ヘボン塾<現・明治学院大学>卒・藩命でアメリカ留学・奴隷となる・文部省入省・大学予備門講師・共立学校<現・開成中学校・高校>校長・農商務省特許局初代局長・ペルーで銀鉱事業に失敗・帰国後ホームレスになる・日本銀行・日本銀行副総裁・貴族院議員・日本銀行総裁・大蔵大臣・立憲政友会入党・第二十代内閣総理大臣・農商務大臣・政界引退・大蔵大臣・昭和十一年二月二十六日二・二六事件で暗殺される・享年八十三歳・子爵・正二位・大勲位菊花大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)だった。

 日本は、ワシントン会議全権に、海軍大臣・加藤友三郎大将と、次の三人を任命した。

 貴族院議長・徳川家達(とくがわ・いえさと)公爵(東京<父は徳川慶頼=第十四代将軍徳川家茂の将軍後見職>明治維新・駿府藩主七〇万石・従四位左近衛権少将・従三位左近衛権中将・静岡潘知事・イギリスのイートンカレッジ留学・帰国後近衛泰子と結婚・公爵・貴族院議員・貴族院議長・ワシントン会議全権・恩賜財団済生会会長・明治神宮奉賛会会長・日本蹴球協会名誉会長・第六代日本赤十字社社長・第十二回オリンピック東京大会組織委員会委員長・昭和十五年六月五日死去・享年七十六歳・公爵・従一位・大勲位菊花大綬章)。

 駐米大使・幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう<父は豪農>第三高等中学校卒・首席・東京帝国大学法科大学卒・農商務省入省・外務省・仁川・ロンドン等の領事館勤務・ワシントン・ロンドン大使館参事官・オランダ公使・外務次官・駐米大使・ワシントン会議全権・外務大臣・幣原外交を貫く・満州事変の収拾に失敗・政界引退・内閣総理大臣臨時代理・終戦・内閣総理大臣・吉田内閣国務大臣・民主自由党・衆議院議長・昭和二十六年三月十日議長在任中に心筋梗塞で死去・享年七十八歳・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)。

 外務次官・埴原正直(はにはら・まさなお・山梨・東京専門学校卒・東洋経済新報社・「外交時報」刊行・外務省入省・中国・アモイ領事館補・駐サンフランシスコ総領事・通商局長・政務局長・外務次官・ワシントン会議全権・駐米大使・昭和九年十二月二十日死去・享年五十八歳・正三位・旭日中綬章・ローマ教皇庁サンシルペストル勲章グランクロア)。

 随員は次の通り(肩書は随員任命前のもの)。

 法制局長官・横田千之助、法学博士・立作太郎、外務参事官・林毅陸、外務省欧米局長・松平恒雄、在アメリカ大使館一等書記官・出淵勝次、外務官僚・有田八郎、在アメリカ大使館一等書記官・佐分利貞男、外務省情報部第一課長・高尾亨。

 陸海軍の随員は次の通り。

 海軍大学校校長・加藤寛治(かとう・ひろはる)海軍中将(福井・海兵一八期・首席・在英国大使館附武官・大佐・海軍兵学校教頭・巡洋戦艦「筑波」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・第二艦隊参謀長心得・巡洋戦艦「比叡」艦長・少将・海軍砲術学校校長・第五戦隊司令官・横須賀鎮守府参謀長・欧米各国出張・海軍大学校校長・中将・ワシントン会議主席随員・軍令部次長・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・軍事参議官・議定官・昭和十四年二月九日脳出血で死去・享年六十九歳・正二位・勲一等旭日大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

729.野村吉三郎海軍大将(29)世界一、二位を争う造艦技術を体得した日本海軍は、果てしもなく建艦競争に邁進していった

2020年03月13日 | 野村吉三郎海軍大将
 野村吉三郎大佐が帰朝した翌日、大正八年八月十一日付けの朝日新聞に掲載された野村吉三郎大佐に関する記事は次の通り(抜粋・原文のまま)。

 「講和会議から」――野村大佐、昨朝ペルシャ丸で帰る――

 三月二十四日桑港を出版せし東洋汽船ペルシャ丸は昨日早朝横浜に帰港せり、先客中には講和会議委員として牧野特使に随行せる海軍大佐野村吉三郎氏あり、其談に曰く

 「講和会議に於ける日本委員の行動に関し内地では兎角の説をなす者があるが大体に於いて其目的を達した」

 「自分は講和会議中、海軍に関係しただけで単に会議の一半を知るのみであるから全般に関する話は出来ぬが、海軍会議に於いては独逸に於ける海軍力に制限を付し、単に偵察用として軍艦を在置するのみとなったから今後の同国の海軍は手も足も出す事は出来ない」

 「又残存せる独逸艦隊の処分に関しては仏国は分配を希望し、英米両国は解体して其材料を商船建造の材料に供せん事を主張し、未だ決定しない」

 「又戦争の結果は思想上の世界革命が起こり、人類の幸福を増進する事に各国共務めている」。

 この新聞記事中の談話にも見られる通り、野村吉三郎大佐の時代感覚というものは、軍人の殻を破って相当進んでいる。

 大正九年四月、野村吉三郎大佐は海軍省高級副官に補任され軍政方面で活躍することになった。

 当時の海軍大臣は、加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)大将(広島・海兵七期・次席・海大甲号学生一期・砲艦「筑紫」艦長・軍務局軍事課長心得・大佐・軍務局軍事課長・軍務局第一課長・第二艦隊参謀長・少将・連合艦隊参謀長・陸軍省軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・内閣総理大臣兼海軍大臣・大正十二年八月二十四日大腸ガンで死去・享年六十三シア・元帥・子爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功二級・ロシア帝国白鷲勲章等)だった。

 第一次世界大戦は、軍拡競争を引き起こした。日本、アメリカ、イギリスの三国の海軍は、大戦中に拡張された国内重工業施設の救助策も含めて、激しい海軍競争をスタートさせた。

 中でも、日本とアメリカの海軍競争は第一次世界大戦中からすでに開始されていた。

 この大戦で最も痛手をうけない、というよりは利益の多かった二大海軍国は、あたかも運命の神に導かれるように建艦競争に突入していった。

 日本の八・八艦隊、アメリカの八・四艦隊二群がそれである。イギリスはすでに八・八艦隊二群のデスク・プランを持っていた。

 だが、イギリスは大戦後の善後処理に追われて、直ちには日本・アメリカ両国との拡張競争に乗り出す余裕がなく、日本とアメリカのみが大型戦艦の建艦競争に邁進した。

 今や世界一、二位を争う造艦技術を体得した日本海軍は、果てしもなく建艦競争に邁進していったのだが、この海軍競争には莫大な国家予算が伴った。

 ちなみに、大正十年度の軍事予算は全歳出の実に四九パーセントを占めていた。そのうちの六三パーセントが海軍予算だった。即ち、国家予算の三分の一を海軍が独占していたことになる。

 これは、国家財政の上から見ても、到底永続し得るものではなかった。

 競争相手のアメリカにしても、いかに持てる国とはいえ、日本を上回る建艦を果てしなく続けることは、決して軽い負担ではなかった。

 日本とアメリカは、第一次世界大戦でせしめた利益を吐き出すばかりか、財政の均衡性を失い、国家の安泰を期するはずの海軍が、国家のガン的存在にならないという保証はなかった。




728.野村吉三郎海軍大将(28)「野村はイギリスの急行列車を止めた」と妙なことで感心された

2020年03月06日 | 野村吉三郎海軍大将
 今度(一九六〇年七月)アメリカ民主党の大統領候補に選ばれた四十三歳のケネディー氏は、受諾の大会演説において「現下の国際環境でアメリカは新しい国境精神、即ちアメリカ開拓当時の勇気ある精神にフレッシュさを加えたものが必要である」と説き、また「今日アメリカ国民は倫安をむさぼって明日の衰亡を撰ぶか、或いは真情勢に対応する新国境精神(new frontier spirit)により明日一層の繁栄発展の道を撰ぶか、これを大統領選挙で国民に問う」といって居るが、私はこれに関連して所感の一書を送っておいた。

 明治・大正期の日本には伊藤公、原敬氏のような傑出した信念の政治家が在ったが、鈴木貫太郎氏もまた閣僚中に二人の自決者を出しながらも、よく踏み切って終戦の大事を果たした。

 あの際、僅かの時機を失したならば少なくとも今日、北海道は北方よりの侵入で失われていたであろう。政治家の大所高所よりの達観は何時の時代にも国家民族のために最も要請されるところである。

 話が大分脇道にそれたが、これも老輩の一片の至情として許されたい。

 さて、話を講和会議へ戻すが、私は本省にベルサイユの情況を急ぎ報告するため一足先に帰朝を命じられたので、イギリスのサウザンプトンからカナダのハリフハックスに向かうイギリスの軍用船「オリンピック号」(三万数千屯)に便乗することになったが、この時一場のコント的失敗を演じたのを伝えておこう。

 出発の当日、ロンドンで駐在武官の塩沢幸一君(後・大将)と昼食を一緒に摂り、そこで別れ単身急行列車でサウザンブトンに向かった、ところが昼食の時、少々ワインをやっていたので眠気を催し、いい気持でウトウトしているうちに汽車がガタンと止まったので眼が覚め、新聞を買う気になりプラットフォームに降りて二、三の新聞を買い求め再び車中の人となった。

 汽車は間も無くその駅を辷り出たが、駅を離れ暫くして新聞から眼を放し、ふと窓外を見ると港に「オリンピック」号の巨体が横たわっているではないか「おや」と思ったが車中には私一人である。

 而もその客車は昔、日本の田舎の軽便鉄道などでも見受けた真ん中に通路がなく、座席は一つ一つ横からドアを開けて出入りするようになっている、頗る不便なものであったから、走って次の客車へ行き聞き合わせることも、車掌の許へ行くことも出来ないのである。

 「しまった!」と思ったがもう間に合わない。次の急行停車駅まで待っていたのでは「オリンピック」号の出帆に遅れるので、非停車駅に差し掛かった時、列車に取り付けてある非常用のベルの紐を力一杯に引っ張ったら列車は直ぐに止まったので、慌てて下車すると車掌が飛んで来た。

 かくかくの次第と事情を訴え、不法に非常ベルを鳴らした場合の罰金は五パウンドであるが、私は決して不法にベルを鳴らしたのではないことを釈明して、二パウンドを渡すと車掌は別に苦情もいわずに受け取った。

 こんなところは一見鹿爪らしいがイギリス人の融通の利く一面でもある。下車した非停車駅の駅長が同情して便宜を取り計ってくれ、折から来合わせた反対方面行の列車に飛び乗ってサウザンブトン港に駆け付けた時、もはや出帆時間は過ぎていたが、何しろ四、五千の兵隊が乗り込むため手間取り出帆が遅れていたので慌てて辷り込み、最後の乗客と成ることが出来てホッとした次第である。

 危うく大事な使命に支障をきたす危機一髪の場面であった。後々までこの事件は友人の間に語り伝えられ「野村はイギリスの急行列車を止めた」と妙なことで感心されたり、ひやかされたりして評判となったものである。

 飛んだ失敗の果てに乗り込んだ「オリンピック」号に満載されたカナダ兵の中に、アメリカ国籍の兵隊が数百人もいたので、「何故カナダ兵となったのか」と聞くと「アメリカの参戦が遅いので、それを待っていて欧州戦争参加のチャンスを失っては大変だから、カナダ兵を志願してやって来たのだ、お陰でヨーロッパも見物出来たし、戦争にも加わって働くことが出来て愉快だった」と至極呑気なことを言っていた。

 こういうところにもアメリカ人の気質が窺えるのである。

 以上が、野村吉三郎が、パリ講和会議の光景と、三大国巨頭について、自身が見聞した回想である。

 ヨーロッパを離れた野村吉三郎大佐は、カナダを経て大正八年七月二十四日、サンフランシスコ出帆の東洋汽船「ペルシャ丸」に乗り換え、八月十日早朝、横浜港に無事帰着した。