陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

349.辻政信陸軍大佐(9)ノモンハンの最前線で、辻少佐と黒崎大尉は偶然に出会った

2012年11月30日 | 辻政信陸軍大佐
 この戦況を速やかに軍司令官に報告し、新しい手を講じなくてはならないと、辻政信少佐は十日夜、師団長に別れ、ハイラルに引き揚げた。

 辻少佐は兵站宿舎に数時間まどろんでいたが、隣室の騒ぎがひどくて寝付かれなかった。土建屋が芸妓を揚げて、酒池肉林の中に気焔を吐いていた。

 「戦争が起こったらまた金儲けができるぞ。軍人の馬鹿どもが儲かりもしないのに、生命を捨ておる。阿呆な奴じゃ……」

 襖一重のこの乱痴気騒ぎを、辻中佐は、ついに黙視することができなかった。いきなりその室に入って、何も言わず、数名のゴロツキ利権屋に鉄拳を見舞った。

 兵隊が一枚の葉書で召集せられ、数年間北満の砂漠に苦しみながら、故郷に残した老父母や妻子に、一円の仕送りさえできず、血戦死闘の戦場で散ってゆく姿を思い、その背後で戦争成金が贅を尽くしているのを見ると、辻少佐は、体内の全血管が爆発しそうになるのを抑えることができなかったのだ。

 昭和十四年九月初旬、ノモンハンの戦場、二〇八高地付近に第一師団が進出した。その第一連隊右側に陣取ったのが第三独立守備隊第十五大隊だった。

 この第十五大隊の中隊長に黒崎貞明大尉がいた。折りしも第六軍の反撃指導に現れたのが、関東軍の参謀・辻政信少佐だった。

 このノモンハンの最前線で、辻少佐と黒崎大尉は偶然に出会った。その瞬間、いきづまるような緊張が走った。先に声をかけたのは辻少佐だった。

 「黒崎大尉、元気でやっているナ。頼りにしているぞ」と辻少佐は愛想笑いを浮かべ、握手を求めてきた。

 戦後、黒崎は回想している。「あまりに馬鹿丁寧なんだ。普通なら鼻もひっかけない男だろうからね。僕もとまどったが、見ていた兵隊のほうがよっぽどびっくりしていたよ」。

 そのとき、黒崎大尉は「役者だな」と思ったが、「ここは戦場だ、復讐を考える場所ではない」と思い返し、「やります」と言って、答礼を返した。

 ノモンハン事件後、昭和十四年九月十五日、辻政信少佐は中支・漢口の第十一軍司令部に飛ばされた。

 「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)によると、軍司令官は岡村寧次中将(陸士十六・陸大二五恩賜・東京出身・関東軍参謀副長・参謀本部第二部長・中将・第二師団長・第十一軍司令官・勲一等旭日大綬章・大将・北支那方面軍司令官・第六方面軍司令官・支那派遣軍総司令官・戦後日本郷友連盟会長)だった。

 また、参謀長は青木重誠少将(陸士二五・陸大三二恩賜・石川県出身・陸相秘書官・第二軍参謀副長・第十一軍参謀長・少将・陸軍習志野学校長・中将・南方軍総参謀副長・第二〇師団長。戦病死)だった。

 第十一軍に着任したこの日の心境を辻政信は、「亜細亜の共感」(辻政信・亜東書房)で、次のように記している。

 「敗残の落武者を迎えた司令部の空気は予想の通りである。軍司令官は浴衣がけで、手に講談倶楽部を持ちながら、この札付きの少佐の申告を受けられた(略)」

 「参謀本部部員とか、陸軍省課員の身分で訪れたら、勲章をつけた軍服姿で、下にも置かずもてなすであろうこの将軍には、今満身創痍の一少佐を、厄介視こそすれ、一片の同情、一介の好意を寄せるような気持ちは、微塵も見出すことが出来なかったのである」。

 参謀肩章を吊り、肩で風を切っていた作戦参謀時代とは一変、ここでは、部付の一少佐に過ぎない。しかし、司令官への腹癒せに、着任当日、いち早く戦場へ飛び出す芸当もやってのけている。

 当時の状況について興味深い資料がある。支那派遣軍総司令部政務課にいた堀場一雄中佐(陸士三四・陸大四二恩賜・愛知県出身・ソ連駐在・航空兵中佐・支那派遣軍参謀・大佐・飛行第六二戦隊長・第五航空軍参謀副長)の秘録、「支那事変戦争指導史」(堀場一雄・時事通信社)に、次のように記してある。

 「辻中佐(ママ)はノモンハンの責任に坐し、第十一軍司令部附として楽しまず。偶々青木参謀長課する軍紀風紀係を持ってす。辻中佐本領を発揮し、深夜街頭に自動車を停め料亭に臨検し、漢口為に脅威を感ず」

348.辻政信陸軍大佐(8)辻とワシの曲直を明らかにしなければ死ぬにも死ねない

2012年11月23日 | 辻政信陸軍大佐
 辻政信氏の返書の続きは次の通り。

 「慰霊祭の席上では、私はビールの件は取り消しておきました。軍旗の件も、軍司令部ではカンカンに怒ったものでした。以上があなたの真面目なお手紙に対する私の回答です」

 「但しこの御手紙を読んで、当時の当番の貴殿にかくも慕われている須見さんを見ると、私の過去の観察を修正しなければならぬと考えています」

 「別に個人的な感情の問題ではありません。不悪御諒察下されたし。右不取敢御礼傍々御返事申し上げます」。

 当時の辻政信は参議院議員で、戦犯的な過去にもかかわらず、旧軍人に対し勢威をふるっていた。返書の内容も、それを反映していかにも高姿勢である。

 なお、「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、戦後、著者の堀江芳孝氏は、元連隊長の須見新一郎氏から「ぜひ自分が経営する三楽荘(温泉ホテル)に遊びに来てくれ」とのことなので、三楽荘に旧部下の別所氏とともに出かけた。

 須見氏はまず、真崎甚三郎大将の話を始めた。そのあと、堀江氏が「須見さん、この辺で、歩二の昔話でも聞かせていただきたいですね」と言うと、「ノモンハンの話をしたい」と言い出し、須見氏は「ビール事件」のことを次のように話した。

 自分はあんなメチャクチャな戦で、しかも辻という悪漢にめぐり合わせたせいで、現場でクビにされたもので、今なお闘争中である。

 隣の敵から蹂躙された某連隊が後退中だが、敵の追撃が停止したので、兵数名と食事を取っていた。当番兵が川の水をビールビンに汲んで来たので、その水を飲んでいた。

 ちょうどその時辻参謀が通りかかった。辻は「この戦況下に連隊長がビールを傾けつつ食事とは何ごとですか」と言うから「これは川の水だよ」と答えると、辻は去っていった。

 辻は最寄の電信所で電報を打ちやがったのだ。東京宛てか新京の関東軍司令部宛てか分からんが、早速関東軍司令部に出頭せよとの電報が来て、関東軍司令部付、ついで予備役に編入されてしまったのだ。

 ワシだって病気してしばらく休校し陸士卒業の時は、青木重政が一番となり、ワシが二番になったが、ワシだって恩賜だ。

 大佐で現地作戦中の連隊長が即時のクビになるなんて馬鹿な話は考えられない。あんな悪党の電報を受けて交戦中の連隊長を調査もせずにクビにするなんて中央部もなっていないと思うが、とにかく何か自分よりも階級の高い者の弱点を見つけて上の方に報告し、手前の点数を上げようとする自己顕示の欲望に燃えた奴だったね……。

 以上が、須見新一郎氏が堀江氏に語った「ビール事件」の顛末だった。

 須見氏は当時の当番兵の他、一緒に食事をしていた兵士たちの証言をまとめて印刷し、これを旧陸軍と一般社会に配布し、「辻とワシの曲直を明らかにしなければ死ぬにも死ねない」と意気込んでいた。

 須見氏はさらにノモンハン事件と辻政信について、次のように語った。

 何しろ制空権をアチラが持っていて、砲兵と戦車を数え切れないほど駆使し、歩兵だってアチラが五倍も六倍も多いのだから、あっという間に日本軍は分断されたのだ。

 所謂圧倒殲滅された訳だ。捕虜が出るのは当然の帰結だ。逆に言えば日本側の判断が悪く作戦計画がなっていなかったのだ。

 どういうわけか実情は分からなかったが、モスクワの休戦交渉がスピードを掲げていたことは確かのようだ。そしてその休戦交渉の結果、多数の将兵がアチラ側から帰されて来たのだ。

 辻は将校が入院している病院に手榴弾を持ち込み、武士の恥をそそげと自殺を強要したのだ。手前の判断と作戦計画の拙劣を棚に上げて、不可抗力に陥った者、特に重傷乃至人事不省で捕まった者に自殺を強要するなどということは常人にはできない。本当に悪質な奴だ。

 「ノモンハン秘史」(辻正信・毎日ワンズ)によると、七月初旬、ハルハ河右岸し進出しているソ連軍に安岡支隊が攻撃を行った。だが、攻撃は挫折し、七月十一日以降は敵と睨み合ったまま、滞陣状態に陥った。

347.辻政信陸軍大佐(7)ノモンハン慰霊祭には、衆の面前で私を罵倒されました

2012年11月16日 | 辻政信陸軍大佐
 これに対し、「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)によると、当時連隊長だった、須見新一郎氏の手記が、昭和三十年八月七日号「週刊読売」に次のように記されている。

 「辻氏一流の筆法でこっぴどく、たたきのめされている。第一回の戦闘で安達大隊は、私の指揮下から切り離され、小松原兵団長の直接指揮に入ったのであった」

 「私はゆうゆうとビールをのんでいたのではなかった。渇病患者の出る戦闘の毎日のうち、何よりもほしいのは水だ」

 「たしか、七月四日の午後、連隊の書記をしていた中野軍曹が、ハルハ河の水を入れたビールびんをもってきて食事をすすめていったことがある。一口、ビールびんに口をつけて、あとは砂地に立てておいたものだった」。

 以上の須見新一郎氏の手記の原型と見られるものが、戦時中の昭和十九年七月十五日発行の須見大佐回顧録「実戦寸描」に次のように記されている。

 「生き残った書記の中野軍曹が三上伝令と哈爾哈(ハルハ)河の水を入れたビール瓶を添へて予に食事を勧めて呉れた」

 「自分は無言で之を食べた。今や何を語るべき……偶然にも生き残った一本松は唯黙々として部隊の指揮に務めて居た」。

 以上のことから、当時の差し迫った戦況や、須見大佐が下戸であったことなどから、それが、ビールではなく、ハルハ河の水であったと見るのが妥当だろう。

 辻政信参謀自身、時には水筒に酒をつめていたといわれていることから、今回の事件は辻参謀の僻目のさせる邪推だったのではないだろうか。

 ところで、辻政信氏の「ノモンハン」(亜東書房・昭和二十五年)を読んだ当時の当番兵、外崎善太郎氏が、昭和三十五年三月、生き証人としてビール云々は事実無根だと抗議の手紙を辻氏に出している。

 だが、須見大佐の手記には、外崎当番兵の名前は出てこない。そこで「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)の著者、田々宮英太郎氏は青森県に健在な外崎氏に照会の手紙を出した。すると、次のような回答が来た。

 「中野軍曹のこと、連隊付書記軍曹で、私にハルハ河に行って水を汲んで来るよう命じられました。途中ビールの空き瓶をひろい、河の水を汲み中野軍曹の塹壕まで持って来て、二人でかんぱんとビール瓶の水を連隊長の塹壕まで持って置いて来ました」

 「然し、三日までの当番兵(三上伍勤上等兵)が戦死し四日から私が当番兵となったゆえ、この事実は中野軍曹しか知らなかったと思う。但し中野軍曹は、八月二十七日夕景、七八〇高地の戦闘で約五メートル離れた場所で戦死しました」

 「なぜ空き瓶があったか。それにガソリンを入れ敵戦車に投げつける火炎瓶をつくるためでした。サイダー瓶が適当でしたが、ビール瓶も使ったのです」。

 昭和三十五年四月十九日付けで、外崎氏の抗議に対する辻政信氏の返書が、送られてきた。便箋四枚にペン字で書かれた全文の内容は次のように記されていた。

 「御手紙を拝見しました。旧上官の須見さんを思わるる御純情に心を打たれました。私の著書の中にビール云々と書いた事を須見さんは今でも怒られ、去年末のノモンハン慰霊祭には、衆の面前で私を罵倒されました」

 「私は弁解しようとは思いませんが、当時安達大隊が重囲の中にあり連隊長は当然これを救出しなければなりませんのに、見捨てられる様な気配がありましたので、当時連隊本部にいた他の大隊長と話した処、連隊長がその気がない、陣中なのにビールを飲んでいると非常に憤慨していたのを耳にしたのです」

 「あのとき飲んでおられたのがビールでなかったとは、あなたの手紙で判りましたが、当時の大隊長は連隊長の安達大隊に対するやり方に怒っておられたのは事実でした」

 「須見さんは退役なさったのは、私がやったのだと感じておられるようですが、それは誤解です。然し特務機関長時代の色々の事が中央部で問題になったまでです。今さら二十年前の事を荒立てる必要もありませんが」

346.辻政信陸軍大佐(6)右から左から、正面から十数輌の敵戦車が突入してきた

2012年11月09日 | 辻政信陸軍大佐
 そもそも、辻少佐が、怒鳴りつけたのは、その場の感情的なものではなかった。辻少佐は、七月二日夜、服部参謀の同期生、横田千也少佐とともに前線に出た。

 横田少佐はハルハ河の第一回渡河の援護部隊の大隊長だった。部隊は、後続部隊の先陣として、横田大隊長指揮のもとに、十隻の折畳船で五十メートルの河を渡り、ソ連軍の第一線の敵地に突入した。

 辻少佐も横田大隊長とともに、敵陣に突入した。そこに敵戦車が攻撃してきた。「豪に入れ、肉薄攻撃準備!」と、辻少佐の隣に立っていた横田大隊長が怒鳴った瞬間に斃れた。

 横田大隊長は頭部貫通で戦死したのだ。右から左から、正面から十数輌の敵戦車が突入してきた。戦場は修羅場となった。手榴弾が飛び、機関銃が火を噴いた。

 三十分の戦闘で、敵戦車二輌を火炎瓶で焼き、一輌を砲塔に飛び乗って捕らえた。太陽が昇るとともに、歩兵第七一連隊、第七二連隊が駆けつけた。

 辻少佐はその後も戦場にいた。小松原師団長も前線に出てきた。だが、敵航空機と戦車の圧倒的な攻撃で、日本軍は押されてきた。

 そのような過酷な戦闘のあと、七月四日、「須見連隊長ビール事件」が起きた。この事件について、辻政信はその著書「ノモンハン秘史」(辻政信・毎日ワンズ)で次のように記している。

 午後三時頃であった。悲痛な顔をした須見連隊の将校が、部隊の危機を訴えるように報告している。「火炎瓶と地雷を下さい」。声が慄えている。

 師団長はたったいま参謀長を失ったばかりのところへ、またしても前岸の急を訴えられ、苦悩の色がさすがに濃い。

 師団参謀は手不足で、前岸に行く余裕はまったくなさそうだ。またお手伝いしようと思って副長に申し出た。異論はない。

 師団長は柔和な瞳で、「君、行ってくれるか、御苦労ですが……」と、心からいたわり、喜んで申し出を承認された。

 「護衛兵を連れて行け」と言われたが、白昼、敵砲弾下を潜るには一人に限る。敵がどんなに弾薬が豊富であったにしても、まさか一人の目標に対して大砲を向けることもあるまいと考えながら、砲弾の合間を縫いながら、再びハルハ河を渡った。

 昨日からの渇きを癒すのはただこのときだ。橋板の上に腹ばいになって水筒で河水を汲み、たちまち二本を飲み干した。師団長にも、兵にも飲ませてやりたい……。

 ハラ高地の連隊本部に辿り着いたとき、まだ陽が高いのに連隊長は夕食の最中であった。不思議にもビールを飲んでいる。

 この激戦場でどうしたことだろう、ビールがあるとは……。飲まず食わずに戦っている兵の手前も憚らないで……。不快の念は、やがて憤怒の情に変わった。

 「安達大隊はどうなっていますか?」

 「ウン……安達の奴、勝手に暴進して、こんなことになったよ。仕方がないねえ……今夜斥候を出して連絡させようと思っとる」

 部下の勇敢な大隊長が、敵中に孤立して重囲の中に危急を伝えているとき、連隊長が涼しい顔をしてビールを飲んでいるとは――。これが陸大を出た秀才であろうか。

 ついに階級を忘れ、立場を忘れた。

 「安達大隊を、何故軍旗を奉じ、全力で救わないのですかッ、将校団長として見殺しにできますかッ」

 側にいた第二、第三大隊長も、連隊副官も、小声で連隊長に対する不満を述べている。軍旗はすでに将軍廟に後退させていたのである。

 連隊と生死を共にせよとて、三千の将兵の魂として授けられた軍旗を、事もあろうに、数里後方の将軍廟に後退させるとは何事か。

 食事を終わった連隊長は、さすがに心に咎めたらしく、重火器だけをその陣地に残して、歩兵の全力で夜襲し、ついに安達大隊を重囲から救出した。

 安達少佐以下約百名の死傷者を担いで、夜半過ぎ渡河を開始した。その最後尾の兵が橋を渡り終わるのを見届けてから、ハルハ河を渡った。

 以上が、辻政信の「ノモンハン秘史」に記されている「ビール事件」の記事である。

345.辻政信陸軍大佐(5)激怒し、階級を忘れて、須見大佐を怒鳴りつけた

2012年11月02日 | 辻政信陸軍大佐
 士官学校事件に連座した村中孝次大尉、磯部浅一一等主計が「粛軍に関する意見書」を理由に免官されたのは、昭和十年八月二日である。

 これに憤慨したのが当時、撫順にあった満州独立守備歩兵第六大隊の黒崎貞明中尉(陸士四五・陸大五五・軍務局課員・中佐)だった。

 村中大尉とはただならぬ先輩同志として結ばれていた。士官学校では隣の区隊長だったが、革新運動の手ほどきを受けたのが村中大尉だった。

 黒崎中尉は、在満革新将校の中心的な存在になっていた。「村中、磯部が免官なら、元凶の辻こそ免官になるべきだ」と憤慨が収まらなかった。

 程なく満州に現れたのが、水戸二連隊付の辻政信大尉で、十名ばかりの一行にまじっていた。この機を逸してはならぬと考えたのが黒崎中尉だった。

 「事件を捏造した張本人がのさばるようでは、革新将校は犠牲にされるばかりだ。やがて奴らが軍の中枢に座った日には、日本の革新はどうなるんだ」。こう思いつめると、辻と刺し違える覚悟を決めた。

 撫順の一流料亭「近江亭」の夜は、弦歌のさざめきで賑わっていた。その玄関口へ堂々と現れたのが一人の青年将校である。帯剣のほかに、白鞘の短剣も握っている。

 その青年将校こそ、黒崎中尉だった。折から廊下に現れたのが、久門有文大尉(陸士三六・陸大四三恩賜・大本営作戦課航空班長・殉職・大佐)だった。当時軍務局課員だった久門大尉は辻大尉の親友で満州へ同行していた。

 久門大尉が、トイレに行くためにたまたま通りかかり、黒崎中尉は、やにわに組み敷かれてしまった。腕力にかけては久門大尉のほうがはるかに優っていた。

 「ここでは辻を刺したって、どうにもなりゃせんよ。日本の将来を思うなら、辻よりも偉くなれ」と久門大尉は諭した。

 この一件は、当然、辻大尉の耳に入った。以来、辻大尉と、黒崎中尉の間には対決の情念が渦巻くこととなった。

 昭和十四年五月、満州国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、日本軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件が起きた。

 当時、辻政信少佐は関東軍第一課(作戦)の作戦参謀だった。上司の作戦主任は、服部卓四郎中佐(山形・陸士三四・陸大四二恩賜・フランス駐在・中佐・関東軍参謀・陸大教官・参謀本部作戦課長・歩兵第六五連隊長・戦後GHQ勤務・復員局資料整理課長)だった。

 「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、ノモンハン事件勃発後の七月三日午後、ハルハ河左岸のハル高地に、第二三師団長・小松原道太郎中将(神奈川・陸士一八・陸大二七・ソ連駐在武官・少将・近衛歩兵第一旅団長・中将・第二三師団長・予備役・病死)と、その幕僚が陣取っていた。

 また、関東軍参謀副長・矢野音三郎少将(山口・陸士二二・陸大三三恩賜・歩兵第四九連隊長・少将・関東軍参謀副長・北支那派遣憲兵隊司令官・中将・第二六師団長・陸軍公主嶺学校長・予備役)、服部中佐、辻政信少佐らも小松原中将とともにいた。

 協議の結果、三日夜暗を利用して、第二三師団主力を、ハルハ河右岸地区に後退させようということになった。小松原師団長は同意した。

 小松原師団長は師団主力を後退させるため、須見連隊(歩兵第二六連隊)に白銀チボ台地に留まらせ、主力の戦場離脱援護に当たらせる処置をとった。

 七月四日払暁までに師団主力の大部分が後退した。須見連隊と他の連隊の一部が左岸に踏みとどまっていた。

 この日の昼、連隊長・須見新一郎大佐(長野・陸士二五次席・陸大三四・歩兵第二六連隊長・予備役)が昼食を取っている時、偶然、辻政信少佐が通りかかった。

 辻政信少佐は、連隊長・須見新一郎大佐が、前線で、昼食時にビールを飲んでいるのを見て、激怒し、階級を忘れて、須見大佐を怒鳴りつけた。

 須見大佐は、ビールではなく、ハルハ河の水をビールの空き瓶に入れたものだと、反論したが、須見大佐は、解任、予備役となった。これが「須見連隊長ビール事件」である。