陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

296.鈴木貫太郎海軍大将(16)お前の最初に言ったことと違うではないか。説明を聞く必要は無い

2011年11月25日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 昭和四年一月二十二日、鈴木大将は予備役編入、侍従長に就任した。六十一歳だった。親任式は、鈴木大将の後任である軍令部長・加藤寛治大将(海兵一八首席)の親任とともに宮中で行われた。二月十四日には枢密院顧問官にも就任した(兼任)。

 「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、この頃、張作霖爆死事件の真相が明らかになり、事件の首謀者が関東軍高級参謀・河本大作(こうもと・だいさく)大佐(陸士一五・陸大二六・満鉄理事・国策会社山西産業株式会社社長)であり、実行者の名も判明していた。

 問題はその処罰をどうするかということだった。陸軍中枢の中堅将校たちは河本大佐を処罰させてたまるものかと、陸軍中央を突き上げ、単なる行政処分で終わらせようとしていた。

 陸軍の最長老であり長州閥の大御所でもある田中義一首相は、この陸軍の主張を認めることにした。六月二十七日当時の田中義一首相は参内して天皇に報告した。

 「張作霖爆死事件につき、いろいろ取り調べましたけれど、日本の陸軍には幸いにして犯人はいないということが判明しました。しかし、警備上責任者の手落ちであった事実については、これを処分いたします」。

 だが、天皇は不審げに田中首相を見つめ「責任をはっきり取るのでなければ、私には許し難い」と明瞭に言い切った。それで、田中首相は、聖旨に沿うようにすることを誓った。

 だが、翌二十八日午前、陸軍大臣・白川義則大将(愛媛・陸士一・陸大一二・男爵)が内奏したのは、天皇が思ってもみなかった軽い行政処分だった。

 それによると、関東軍司令官は依願予備役、河本大佐は停職、そのほか参謀長らは譴責(けんせき)ですませたのである。

 若き天皇は激怒した。「総理が上奏したものと全然ちがうではないか。それで陸軍の軍紀が維持できるというのか」。

 弁明のため顔色を変えて田中義一首相が参内したのは午後一時過ぎだった。だが、天皇の怒りはおさまっていなかった。

 「お前の最初に言ったことと違うではないか。説明を聞く必要は無い」とはっきり拒絶し、席を立って奥へ入ってしまった。

 心配して顔を見せた鈴木貫太郎侍従長に、天皇は「田中の言うことはちっとも判らない。再び聞くことは自分は厭だ」とまで言った。

 田中首相は数時間後に再び天皇に拝謁を願ってきたが、鈴木侍従長は冷ややかにこれを迎えた。天皇の気持ちがわかる鈴木侍従長は次の様に言った。

 「たって拝謁を願われるならばお取次ぎはいたしますが、本件にかんすることなら、おそらくお聞きになられますまい」。

 田中首相は鈴木侍従長をみつめてしばらく立っていたが、両眼からみるみる涙をあふれさせた。それ以上言うべき言葉も無く、やがて頭を垂れて退出していった。七月二日、田中内閣は総辞職した。

 田中内閣の閣僚の中には、大いに不服とし、鈴木侍従長を訪ね、「お上と総理の間に立って、おとりなしをするのが侍従長の職務ではないか。それをあなたは何ということをするのか」と、詰問する者もいた。

 これに対し鈴木侍従長は厳然と次の様に言った。

 「それは違う。侍従長はそういう位置にあるのではない。総理の辞意は、まことに気の毒とは思ったが、それ以上どうということをしてはならぬし、できないのだ」。

 だが、この田中内閣辞職問題は、昭和史の歩みの上に大きな影響を投げかけることになった。

 天皇は辞任の直接の動機が、鈴木侍従長に不用意にもらした自分の一言にあったことを、後に知った。立憲君主として、首相を弾劾して辞職させるということは、許されるべきことではないのではないか。

 天皇の唯一のご意見番ともいえる元老・西園寺公望は、牧野内大臣を通して、「天皇は直接に自己のご意見を表明すべきではない」と、天皇に伝えてきた。

 西園寺や牧野は、イギリス式の立憲君主方式を理想とし、主張しているのである。

295.鈴木貫太郎海軍大将(15)これでいいのか……いいのか……本当に、いいのか

2011年11月18日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 中国大陸では、革命軍の上海や南京占領、蒋介石の反共クーデター、満州から北京へと出てきた大軍閥の頭領張作霖の大元帥就任と、嵐の前といった情勢だった。

 昭和二年四月に内閣を組織した元陸軍大将・田中義一首相(陸士旧八・陸大八・男爵)は、この中国に対して。猛烈な強硬策をとった。

 「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、田中義一首相は、組閣後一ヵ月後の五月に中国山東省に出兵(第一次山東出兵)し、国民革命軍の北上を防ごうとする態度をとり、六月の東方会議で、満州と内蒙古を中国から切り離し、日本の支配下におこう、とする国家方針を公認した。

 昭和三年四月にはまた山東省に出兵した(第二次山東出兵)。五月、いよいよ蒋介石軍が済南に迫ること必須とみた田中内閣は、青島に上陸待機していた日本陸軍を済南に進め、原因不明の戦闘を惹起させ、全世界を驚かせた。

 天皇裕仁は鎮痛した。海外出兵し、済南では中国側死傷者四千以上という戦闘がおき、中国民衆を憤激させ、全土に渡り猛烈な半日運動を巻き起こした。

 出兵の裁可を求めて参内した田中首相と参謀総長・鈴木荘六大将(陸士一・陸大一二・帝国在郷軍人会長)を待たせ、天皇は書類に署名をしようとし、筆に墨をふくませたが、ふと手をとめて黙読した。

 再び筆を近づけたが、途中でやめ、ついに筆を硯箱に戻した。そして双眼をつぶりじっと考え込んだ。侍立する侍従武官長・奈良武次陸軍大将(陸士旧一一・陸大一三・男爵)の耳には、かすかに独語する天皇の声が聞えた。

 「これでいいのか……いいのか……本当に、いいのか」。

 それほどまでに憂慮したうえで決定した海外出兵だった。それがついに蒋介石軍との交戦となり、事態は天皇の憂慮したように悪い方へと向かった。

 そればかりではなかった。その後一ヵ月も経たない六月四日、天皇の目をみはらせる意外事が発生した。張作霖将軍の爆死事件だった。

 のちに関東軍の謀略と判明するのだが、その遠因に田中内閣の施策に対する鈴木貫太郎軍令部長の強硬な反対意見があったのである。

 国民革命軍が北京に迫るにおよんで、田中内閣は「戦禍が満州に及ぶときは、治安維持のため、有効な措置をとる」と言明、これに中国国民政府は内政干渉だと反駁(はんばく)した。

 日本帝国陸軍は、これに対して第九師団を中満国境の山海関に派遣することを決意し、政府もまた同意する意向を示した。

 それを第三班長の米内光政少将(海兵二九・海大一二・大将・海相・首相)から聞かされた鈴木貫太郎軍令部長は、ただちに海相・岡田啓介大将(海兵一五・海大二・首相)に談じ込んで、次の様に言った。

 「内閣が事情やむなしと派兵を実行するなら、英米から抗議の来ることを覚悟しておかねばならない。それを強硬に突っぱねれば、事態は悪化し、英米と最悪の関係に陥らぬとも限らない」

 「自分は政治の決定には従うつもりであるが、断行するなら、かねて軍令部が要求している弾薬、水雷などの補充をこのさい至急に解決してもらいたい」

 「そうして十分に戦争準備をしておかねばならぬ。それには経費五千万円を要する。政府に要求しこれはぜひとも獲得してもらいたい。それなら軍令部は文句を言わぬ」。

 山海関出兵の及ぼす国際情勢の悪化を見抜いているあたり、鈴木軍令部長の国際感覚の確かさが感じられる。それを統帥部は政治に干与しないという軍人の本分を、鈴木軍令部長は厳重に守っている。

 結局、岡田海相が、田中首相にねじこんで、山海関出兵は中止された。

 だが、満蒙防衛の責任を負う陸軍と関東軍の戦略観は、内閣や海軍と違っていた。それならば、いかにして国民革命軍の北上を阻止するか。

 国民革命軍と対抗する張作霖軍の弱体を知っていればこそ、思い切って張作霖を退け、むしろ日本軍との衝突を引き起こし、それに乗じて一気に奉天を占領、満州を制圧してしまおう。それが張作霖爆殺の目的だった。

 陸軍出身の田中首相は、さすがに張作霖爆死を一応は疑ったが、「まさか……オラの後輩の陸軍軍人にこんなバカなことをする者は、おるとは思えない」と、天皇の心配を伝えた奈良武官長に言った。天皇は微笑して、奈良武官長の報告を聞き、心から安堵した。

294.鈴木貫太郎海軍大将(14)名和大将は山下大将に「お前の講評は間違っている」と言った

2011年11月11日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 第二艦隊は劣勢ではあったが、戦闘位置が善かったので、攻撃を開始した。鈴木中将は戦闘しつつ本隊と合同しようとしたが、本体と合流しないうちに、戦闘中止を命ぜられて、演習が終結した。

 気の毒なことに、第一艦隊はなにもせずに終わった。もう二、三十分すれば、本隊の第一艦隊も戦闘に間に合ったが、燃料が浪費なので、審判官の判断で中止された。

 講評では、第二艦隊は本隊と合しないうちに戦闘したのは良くないと批評された。だが、鈴木中将は、劣勢であったが、位置がよかったので、敵の廃残艦を叩き潰す自信はあった。

 鈴木中将の第二艦隊には審判官として名和又八郎(なわ・またはちろう)大将(東京・海兵一〇・厳島艦長・第三艦隊司令官・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将)が乗艦していた。遠慮の無い性格の軍人だった。

 演習後、慰労会が行われた。その席に演習統監である軍令部長・山下源太郎大将(山形・海兵一〇・英国留学・軍令部第一班長・磐手艦長・海軍兵学校長・中将・軍令部次長・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)が出席していた。

 その席で、名和大将は山下大将に「お前の講評は間違っている」と言った。そして「第二艦隊が合同前に戦闘したというが、あの位置にあって戦闘しない司令官は卑怯者だ、お前の講評は盲目だよ」と続けた。

 だが、山下大将はニヤリニヤリと笑って返事をしなかった。この二人の提督は海軍兵学校同期で、日頃は仲の良い友人であった。鈴木中将はその問答を見ていて、両提督の性格が露骨に顕れていると思った。

 大正十年十一月、進級会議があり、終わった後に、海軍大臣・加藤友三郎大将(東京・海兵七・海大一・海軍次官・功二級金鵄勲章・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・勲一等瑞宝章・海軍大臣・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・首相・子爵・元帥)の招待があった。

 その場で加藤大臣は「海軍の経費が膨大になったから節約していかねばならぬ、できるだけその積もりでやってもらいたい」と訓論を述べた。

 そのあと、加藤大臣は「長官で意見があれば、遠慮なく述べよ」と言った。だが、誰も意見を言う者はいなかった。

 第二艦隊司令長官・鈴木中将は、その席では一番後任だった。鈴木中将は「上の人から意見を言えば、下の者は言えなくなるから、後任者から発言するのが慣例にでもなっているのかと考えた。それで、次の様に意見を述べた。

 「誠に節約のことはごもっともで、できるだけ努力して後趣意に添いたいと思っている。ただ一つ、私の申し上げたいことは、海軍の力のあるのは艦隊の実力のあることである、艦隊の訓練が基である」

 「もう訓練をやるにしては今の艦隊の編制が小さ過ぎる、第二艦隊が二隻である、二隻というのは二点で直線か曲線か判りません。三隻なければ物を正して行くことができない、もう少し艦隊訓練に力を入れていただきたい。これは大臣の節約と反対のことになるならば、できれば第一艦隊に集めてしまったら良いかもしれない」。

 すると加藤大臣はいやな顔をしてジッと鈴木中将の顔を見て、しばらくして「君の意見はもっともだ。これから第二艦隊を止めてしまう。その船を第一艦隊に一緒にして訓練しよう。そうすると君は待命だ」と笑いながら言った。

 鈴木中将は「それは結構です。私は兵学校を出てから今日まで休息したことがない。待命なら休息ができるから結構です」と言った。

 この言葉に加藤大臣は笑って「まあ、食事ができた、食堂へ行こう」と言った。

 その年の十二月、編制替えが行われ、第二艦隊は一時中止となった。鈴木中将は待命にはならず、十二月一日第三艦隊司令長官に親補された。

 親補式に出るため鈴木中将が家を出ようとすると、新聞記者が写真を撮った。それから高輪の御殿へ行って親補式に出た。

 そのとき侍立したのは高橋是清(たかはし・これきよ)首相(東京・ヘボン夫人家塾生・渡米し奴隷労働をしながら勉学・大学南校・東京英語学校教員・東京大学予備門英語教員・農商務省書記官・商標登録所長・特許局長・日本銀行副総裁・貴族院議員・男爵・日本銀行総裁・大蔵大臣・子爵・首相・衆議院議員・大蔵大臣・首相・大蔵大臣・大勲位菊花大綬章)だった。

 その二ヵ月後、鈴木中将のもとにワシントンから新聞を送ってきた。ワシントン・ポストだった。それを見ると、鈴木中将が親補式に出るときの服装の写真が写っていた。

 その写真の下に「この人の容貌は平和的でない」と記してあった。鈴木中将が練習艦隊司令官として遠洋航海でサンフランシスコに行き、日米戦争の演説をしたことをアメリカの新聞は記憶していた。日本の将官の行動を彼らは注目していたのである。

 大正十四年四月十五日、鈴木貫太郎大将は海軍軍令部長という最高要職に就任した。五十八歳だった。

 当時の軍令部次長は斎藤七五郎(さいとう・しちごろう)中将(宮城・海兵二〇恩賜・海大四首席・英国駐在・装甲巡洋艦八雲艦長・軍令部一部長・練習艦隊司令官・軍令部次長)だった。

 第一班長は、原敢二郎(はら・かんじろう)少将(岩手・海兵二八・海大九・中将・東亜研究所理事)、第二班長は嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)少将(東京・海兵三二・海大一三・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・軍令部総長)、第三班長は米内光政少将(岩手・海兵二九・海大一二・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・首相)だった。

 先任副官は津田静枝大佐(福井・海兵三一・第二外遣艦隊司令官・旅順要塞司令官・軍令部第三部長・中将・駐満州国海軍部司令官・興亜院華中連絡部長官)だった。

293.鈴木貫太郎海軍大将(13)日米戦争はアメリカでも日本でも耳にする、しかしやってはならぬ

2011年11月04日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 そこで、サンフランシスコでの歓迎会で鈴木中将は日本語で次の様に演説した。

 「その日米戦争ということと、日本人を好戦国民と外国人のいうことと、これは二つながら非常に誤っていることだ。これは日本の歴史に無知なことから起こるのだ。日本の歴史を調べてみれば判ることだ。日本人ほど平和を愛好する人間はほかに世界にはあるまい。日本は三百年間の間一兵も動かさずに天下が治まっている、これは平和を愛好する証拠である」

 「しかし日本人が近来の外国との戦争に勇敢に闘ったことは確かなことである。この勇敢さを好戦国というならば我々は甘んじて好戦国民と言われても一向差し支えがない。日本人は平和を愛好する国民だから外国から仕掛けられてもなかなかやらない。敵から挑戦されて止むを得ずやるということであった」

 「世界を席捲したジンギスカンの後裔の元のクビライに対してすら彼の挑戦に応じてやった。ヨーロッパを席捲したあの兵力をもって向かって来た、十万の敵と戦って生きて帰る者三人というまでやっつけた。秀吉の朝鮮征伐ということもこちらからアグレシーブにやったのではなく、元がこちらを侵した復讐戦をやったのである。決して侵略したのではない」

 「近来支那と戦争したがこれも止むを得ずしてやったのである。日本は戦う時には必ず正しい道をとってやっていた。東洋の歴史を見ても日本と戦ったもの、すなわち元にしても明にしても清にしてもみな日本と戦ったことが原因となって亡びている。いつも日本が戦う時は正義に立脚し神は正義に与するからだ」

 「この日米戦争は、アメリカでも日本でもしばしば耳にする、しかしやってはならぬ。いくら戦っても日本の艦隊は敗れたとしても日本人は降伏しない、なお陸上であくまで闘う。もしこれを占領するとしたらアメリカで六千万の人を持って行って日本の六千万と戦争するよりほかにない。アメリカは六千万人を失って日本一国とったとしても、それがカリフォルニア一州のインテレストがあるかどうか」

 「日本の艦隊が勝ったとしても、アメリカにはアメリカ魂があるから降伏はしないだろう。ロッキー山までは占領できるかもしれんが、これを越えてワシントン、ニューヨークまで行けるかというに日本の微力では考えられない。そうすると日米戦は考えられないことで、兵力の消耗で日米両国はなんの益もなく、ただ第三国を益するばかりで、こんな馬鹿げたことはない」

 「太平洋は太平の海で、神がトレードのために置かれたもので、これは軍隊輸送に使ったなら両国とも天罰を受けるだろう」。

 以上のように演説したら、米国人は非常な喝采をした。このテーブル・スピーチは区切りで、参謀の佐藤市郎大尉によって通訳された。佐藤大尉は非常に英語のできる人だった。

 その当時のサンフランシスコ総領事・植原正直氏は「実に良いことを言ってくれた。一度はああいうことをアメリカ人に聞かせてやらねばならんのだが、我々が言ったら外交問題になるだろう」と言った。

 そして、佐藤大尉の通訳は、彼は最近の新聞などを読んでいて、アメリカ人のよく了解する言葉を用いた。司令官の日本語演説よりは佐藤大尉の英語演説のほうがよほど能弁だったと、大笑いになった。

 鈴木中将の演説は、三月二十八日、二十九日の米国の新聞で要約して報じられた。

 その後の新聞に、カリフォルニア州の検事総長、J・W・プレストン氏が一ページに渡る論文を掲載した。その新聞が鈴木中将に届けられた。

 それによると、検事総長は鈴木中将の意見に大賛成であるという意味のことが書かれていた。全く日米戦争の愚なることを強調した論文だった。

 大正九年十二月一日、鈴木貫太郎中将は海軍兵学校長から第二艦隊司令長官に親補された。五十三歳であった。鈴木中将にとっては初めての親補職で喜んで赴任した。

 このとき第一艦隊司令長官は栃内曽次郎大将(海兵一三・貴族院議員)で連合艦隊司令長官でもあった。連合艦隊旗艦は戦艦金剛(乗員二三六七名・二六三三〇トン当時)だった。

 大正十年秋、日本海で大演習が行われた。赤軍は太平洋から津軽海峡を通って日本海に侵入し、それを連合艦隊が日本海で迎え撃つ演習だった。

 鈴木中将は連合艦隊の前衛の指揮官として日本海の能登方面から北のほうへかけて、水雷戦隊と第二艦隊を率いていた。

 赤軍の指揮官は鈴木中将と海兵同期の千坂智次郎(ちさか・ちじろう)中将(海兵一四・海兵校長)で侵入軍を率いていた。

 ところが、そのときの前衛の水雷戦隊司令官である桑島省三少将(海兵二〇・中将)は、水雷戦術家で、夜を徹して赤軍を攻撃したので、赤軍艦隊は廃艦が多数出た。

 その赤軍を、朝方、鈴木中将の第二艦隊で迎え撃った。だが、本来は、本隊である第一艦隊と合同して迎撃する作戦で、第二艦隊は退去しながら、第一艦隊と合する予定だった。

 だが、本隊と第二艦隊との間には相当の距離があって、その間に赤軍が入ってきたので、合同するにしても、敵と戦闘しなければならなくなった。