陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

614.桂太郎陸軍大将(34)桂陸相を甘く見ている者や「軍人に過ぎない桂如きが」という考えの者もいた

2017年12月29日 | 桂太郎陸軍大将
 桂太郎陸相の議会対策、特に憲政党対策は、機会をよくつかんで、着々と進められた。十一月中旬の陸軍特別大演習にも、憲政党党首・板垣退助や領袖たち、貴族院、衆議院の多数の議員が大演習の拝観が許され、大阪に向かい見学した。

 十一月十六日、政府側から山縣首相、西郷海相、桂陸相、憲政党側から、板垣退助、星亨、片岡健吉が参加して会談を行った。世にいう大阪会議である。

 十一月二十九日、憲政党は、「現内閣と志を同じくする」と宣言し、三十日には、山縣首相が「県政党とその所見を同うするを知り、相助けて進む」と話し、政府と憲政党の提携が公然となった。

 山縣内閣の政策問題で、最大使命と考えられていたのは、軍備の拡充と財政整備だった。この両者の前提となるものは、懸案の地租増徴案だった。

 憲政本党は、政府反対の急先鋒だった。さらに農民党や地方の射諸団体もこれに加わって、反政府の気勢をあげていた。

 明治三十一年十二月十五日、両院議員の一部や院外者などで結成された地租増徴反対同盟会の大懇親会が開催された。

 憲政本党党首・大隈重信、貴族院議員・谷干城中将(予備役)、三浦梧楼中将(予備役)なども参列して、盛会だったのだが、乱酔のあまり暴行者なども現れて、遂に解散を命ぜられるような始末に終わった。

 ところが、憲政党内にも地租増徴案反対の声が起こって来た。彼らは、「政府と提携というが、地租増徴案はその妥協問題の範囲外である」と主張し、同案の提出に反対した。

 これに対し、政府は「地租増徴案も妥協の範囲内である」として断固として応じなかった。結局、税率引下げ、増租年限を付する等の妥協案で治まった。

 このようにして、明治三十二年度予算案もかろうじて通過、不十分だったが増租の目的も達して、軍備拡張費も三十二年度からは経常歳入によることができた。

 だが、憲政党の態度はいつも政府に協調的でのみあったわけではなかったのである。

 明治三十三年度の予算審議では、憲政党議員が多数を占めている予算員会において、陸軍費の糧食費から三十万円を削減するという事態になった。

 これは、これまで、憲政党が二度の議会審議において、政府に協力して重要法案のほとんどを成立させたにもかかわらず、山縣内閣の姿勢は、憲政党の期待を裏切ることが多く、しかも提携を疎んじる態度が見えてきた。

 具体的には、協力の見返りとして報酬も充分でなく、憲政党員幹部の入閣交渉も退けられ、一般党員の官吏登用も不十分で不満が蓄積していたのだ。

 このことから、憲政党は、山縣政府との仲介役であった桂陸相の所管である、陸軍予算案削減という嫌がらせを行なったのだ。

 桂太郎陸相にとっては、直接の所轄事項なので、削減は深刻であり、頭を悩ました。憲政党の中には、桂陸相を甘く見ている者や「軍人に過ぎない桂如きが」という考えの者もいた。

 それを感じ取っていた桂陸相は、策を練り、憲政党本部を訪ねた。桂陸相は、憲政党に、いつもの穏やかな手法で、了解を願ったり、詳しい説明をしたりして、削減の撤回・原案の復活を求めた。だが、憲政党は、動きを見せなかった。

 すると、遂に、桂陸相は、態度を一変させ、巌とした強い口調で次のように言って、憲政党本部を立ち去った。

 「諸君が自分の提出した予算を削除するなら、削除せよ。三七〇〇万円の予算の中のわずか三〇万円を削除するというには、何か他に理由があろう」

 「自分は十分説明をしたのに、それでも頑として聞き入れないというのは、自分に対する不信任の決議も同様である。もしそうなら、自分は、以後憲政党との関係は断絶したと宣言するほかはない」。

 この桂陸相の強い態度に、憲政党もいささかたじろいだ。最終的に衆議院予算委員会は原案を復活した。続いて本会議でも、同じく決定された。


613.桂太郎陸軍大将(33)憲政党は、星は勿論、そのほかに四人の入閣を要求してきた

2017年12月22日 | 桂太郎陸軍大将
 大隈重信首相は、旧自由党派と手を切って、旧進歩党派だけで内閣を作ろうと考えていた。

 だが、桂太郎陸相は旧進歩党派だけで、勢力を拡大したら、時局は益々紛糾するであろうと考え、板垣退助内相の辞表は思い止まらせなければならぬと思った。

 それで、桂陸相は十月二十九日、参内して、板垣内相の辞表を聴許せられないように奏上したのだ。この奏上は聞こし召された。

 旧自由党派も黙っていなかった。旧進歩党派と別れて、内閣を倒す方針に移り、憲政党解党を提案した。十月二十九日臨時大会で、憲政党は解散された。その後、旧自由党派のみによる新しい憲政党が発足した。

 これを知った大隈首相率いる進歩派は、憲政党の名称が使用できなくなったので、十一月三日、憲政本党を発足させた。

 明治三十一年十一月八日、局面は行き詰まり、両党派は内部分裂したので、明治天皇の信任を得られず、大隈首相も遂に辞表を捧呈し、憲政党の隈板内閣は総辞職した。

 だが、桂太郎陸相と西郷従道海相は、勅命によって入閣したという経緯から、辞任する必要はないとの下命があった。

 崩壊した隈板内閣の後、山縣系官僚や関係者は、山縣有朋元帥の出馬を要請し、桂太郎大将も、第二次山縣内閣成立に向けて、力を尽くした。

 最初に、元老・井上馨を訪ねた、桂大将は、京都滞在中の山縣元帥の帰京の同意を得て、明治天皇に山縣元帥の召命を上奏した。

 十一月一日、山縣元帥が帰京すると、桂大将は、新橋駅に出迎えて、山縣元帥と共に官邸に入り、山縣元帥に桂大将が考えている政党対策を説いた。

 それは、対立する二政党の中央突貫策をとり、具体的には「自由派の憲政党を引きつけ、地租増徴を含む戦後経営政策の実現を果たす」というものだった。

 十一月二日、元老会議が開かれ、桂大将もこの席に同席した。十一月五日、山縣有朋元帥に組閣の大命が下った。第二次山縣内閣である。

 山縣内閣の苦心した問題は、衆議院対策だった。国民協会以外に与党を持っていない。最善を尽くして政党と温和を図ろうとした。

 内閣の成立の前日、桂太郎陸相は、山縣有朋首相に相談して、憲政党の星亨(ほし・とおる・東京・ヘボン塾(現明治学院大学)・維新後二等訳官・大蔵省租税権助・横浜税関長<二十四歳>・「女王事件」で辞任・英国留学・日本人初の法廷弁護士資格を取得・帰国後司法省付属代言人=弁護士<二十八歳>・自由党入党<三十二歳>・投獄<三十四歳>・米国、カナダ、英国、ドイツに滞在・衆議院議員<四十二歳>・衆議院議長・逓信大臣<五十歳>・東京市会議長・刺殺<五十一歳>)を入閣させようとした。

 桂陸相は、憲政党党首・板垣退助を訪問して意向を聞いた。だが、憲政党は、星は勿論、そのほかに四人の入閣を要求してきた。

 桂陸相は、断然拒絶したが、憲政党と提携したいという意向を示すだけでも、将来、何かの役に立つと考えていたのだ。

 明治三十一年十一月八日、衆議院で議長選挙が行われた。桂陸相は、憲政党利用の着手として、議長を憲政党から出させるよう画策した。

 その結果、この議長選挙では、与党の国民協会は憲政党と協力し、進歩党から構成されていた憲政本党に対立する構図となった。

 議長選挙の結果、議長と副議長が次のように当選した。

 議長は、憲政党・片岡健吉(かたおか・けんきち・高知・京都奉行<二十三歳>・戊辰戦争・陸軍参謀中老職<二十四歳>・維新後ロンドン留学・海軍中佐<二十九歳>・立志社初代社長・入獄・高知県会初代議長<三十五歳>・国会期成同盟代表・入獄・衆議院議員<四十六歳>・衆議院議長<五十四歳>・日本基督教団高知教会長老・東京YMCA第四代理事長・同志社第五代社長・死去<五十九歳>・正四位・勲三等旭日中綬章)。

 副議長は、国民協会・元田肇(もとだ・はじめ・大分・東京帝国大学法科卒・弁護士・衆議院議員<三十二歳>・衆議院副議長<四十歳>・逓信大臣<五十五歳>・鉄道大臣・衆議院議長<七十歳>・枢密院顧問官・死去<八十歳>・正三位・勲一等旭日大綬章)。







612.桂太郎陸軍大将(32)桂陸相は、大隈首相の袖をつかんで、参内を制止した

2017年12月15日 | 桂太郎陸軍大将
 明治三十一年十月二十五日の閣議で、文部大臣の後任問題が論議された。旧進歩党派は、「自派の尾崎が辞めたのだから、後任は自派から出す」と主張した。

 これに対して、旧自由党派は、均勢論の立場から、自派より出したいと強調した。だが、板垣退助内相は、「自派には文部大臣の適任者がいないので、政党以外のから物色した方がよい」と主張した。

 そのあと続いて、板垣退助内相は、青木周蔵青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・維新後長州藩留学生としてドイツ留学<二十四歳>・外務省入省・駐独公使<三十歳>・兼オランダ公使・条約改正取調御用係・駐独公使・兼駐オランダ公使・兼駐ノルウェー公使・外務大輔<四十二歳>・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣<四十五歳>・駐独公使・兼駐英公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使<六十一歳>・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・デンマーク王国デュダブネログ勲章グランクロワー・オスマン帝国美治慈恵第一等勲章等)を推薦した。

 すると大隈重信首相は、「青木は自由派の臭味がある。これはいけない」と言って青木周蔵の文部大臣就任に反対した。

 そのあと直ぐに、大隈重信首相は近衛篤麿(このえ・あつまろ・京都・公卿・<近衛文麿の父>大学予備門中退・公爵<二十一歳>・ドイツ留学・ボン大学・ライプツィヒ大学・貴族院議員<二十七歳>・貴族院議長<二十九歳~四十歳>・学習院院長<三十二歳>・枢密顧問官<四十歳>・死去<四十歳>・公爵・従一位・勲二等)が良いと言って推薦した。

 これに対して、板垣退助内相は、「近衛は進歩派に近い人物だから不可」と言って反対した。議論は正面衝突となった。

 この閣議は、激論の末、まとまらぬまま、翌日を期して散会となった。桂太郎陸相と西郷従道海相は、この閣議は、この閣議に遅れてきたので、この議論に参加しなかった。

 翌日の閣議が開催される前に、大隈首相は桂陸相を訪ねて、「文部大臣の後任については心配はいらぬ。すでに党派以外の者からとることに決心している」と語った。

 十月二十六日、閣議が再開された。今回は桂陸相も西郷海相も最初から列席した。だが、この会議では、大隈首相は、桂陸相に言った事を翻したので、両派の議論は沸騰した。

 桂陸相は、大隈首相は進歩党派の党首の立場から、党派内の要求を無視するわけにはいかないだろうと、大隈首相の立場を理解していた。

 しかし、遂に桂陸相は「いやしくも国務を双肩に担っている人物として、優柔不断は禁物である」と大隈首相に忠告した。大隈首相は、沈黙した。

 すると、板垣内相が、口を開いて「西郷海相の兼任にしたらどうか。それがいけなければ、桂陸相の兼任にしたらよかろう」と言った。だが、それは難しい事案だった。閣議は進まなかった。

 この時、大隈首相が、「それでは、自分は犬養毅(いぬかい・つよし・岡山・慶應義塾・郵便報知新聞社記者<二十五歳>・東海経済新報設立・統計院権少書記官・立憲改進党入党<二十七歳>・衆議院議員<三十五歳>・進歩党・憲政本党結成に参加・文部大臣<四十三歳>・孫文の辛亥革命援助・文部大臣兼逓信大臣・立憲政友会総裁・首相<七十七歳>・5.15事件で暗殺・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)を推薦する」と言った。

 大隈首相は立ち上がって、参内しようとした。桂陸相は、大隈首相の袖をつかんで、参内を制止した。そして、次の様に言った。

 「文部大臣の後任として犬養毅を奉薦せられるというが、閣議にかけてからすべきではないか」。

 ところが、大隈首相は、桂陸相を振り切って、直ちに参内した。だが、大隈首相は、桂陸相の言があったからか、参内はしたが、犬養毅の奉薦はせず、内閣不一致の責任を述べ、進退についての指図を請うた。

 今は首相の進退を決すべき時期ではないので、お許しは出なかった。そこで、大隈首相は、犬養毅を文部大臣の後任に奉薦した。

 即日裁可があり、翌十月二十七日、犬養毅文部大臣の親任式が挙行された。

 大隈首相のとった行動に納得できなかった板垣退助内務大臣は、十月二十九日、参内して辞表を捧呈した。旧自由党派の次の二人の大臣も辞表を提出した。

 松田正久(まつだ・まさひさ)大蔵大臣(佐賀・陸軍省入省・フランス留学<二十七歳>・自由民権運動参加・長崎県会議員<三十四歳>・同議長・自由党・九州改進党入党・東洋自由新聞創刊・司法省検事<四十二歳>・鹿児島高等中学造士館教頭・衆議院議員<四十五歳>・立憲自由党・衆議院予算委員長・大蔵大臣<五十三歳>・文部大臣・衆議院議長<五十九歳>・法務大臣・大蔵大臣・法務大臣・男爵・死去<六十九歳>・勲一等旭日桐花大綬章)。

 林有造(はやし・ゆうぞう)逓信大臣(高知・戊辰戦争・維新後初代高知県令<二十九歳>・政府転覆を企て逮捕<三十五歳>・入獄・自由党土佐派の領袖・衆議院議員<四十八歳>・逓信大臣<五十六歳>・農商務大臣・予土水産(株)設立<七十二歳>・真珠養殖・死去<八十歳>・従二位・勲四等)。












611.桂太郎陸軍大将(31)このような大臣には信任がない。速やかに辞表を呈出させよ!

2017年12月08日 | 桂太郎陸軍大将
 十月には、陸軍二〇〇万円、海軍一五〇万円の減額案が示された。桂陸相と西郷海相は、これに猛然と反対し、結局、陸海両省の減額を一〇〇万円にとどめた。

 憲政党の隈板内閣は、旧進歩党派、旧自由党派の間で、閣僚数の不均衡や、各党員らの突き上げで、不協和音が高くなってきた。

 そんな時、文部大臣・尾崎行雄(おざき・ゆきお・神奈川・慶應義塾・工学寮・新潟新聞・報知新聞論説委員<二十四歳>・東京府会議員・衆議院議員<三十二歳・以後連続当選二十五回当選の世界記録>・進歩党・憲政党・文部大臣<四十歳>・東京市長・政友会・中正会・司法大臣・憲政会・無所属・太平洋戦争終戦後衆議院議員<八十八歳~九十四歳>・勲一等旭日大綬章)が、共和演説事件を起こし、十月二十四日、辞任した。

 尾崎文相は、帝国教育界で演説した時、その中で、帝国を共和国と仮定して、論を進めたが、論中に不謹慎な言葉があった。

 それが新聞に掲載されて問題になったのだが、尾崎文相のこの演説を躍起となって攻撃したのは、旧自由党派の新聞だった。旧進歩党派の新聞は批判を避けていた。

 「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎陸軍大臣は、この問題は、旧自由党派の旧進歩党派に対する復讐的攻撃であると見ていた。板垣退助内務大臣も、これを閣議に持ち込み、大いに論難したのだ。

 世論も大きくなり、内閣もどうなるかわからない形勢になって来たので、陸軍大臣・桂太郎大将は、このまま放置できないと考えて、大隈重信首相を訪ねて、次の様に忠告した。

 「尾崎文相の演説問題は、いまや宮中府中の間にも取り上げられている。わけても貴族院の如きは、これを政治問題にしようとしている情勢すらうかがわれる。尾崎の真意はよくわからないが、政治問題となり、やがて宮中にも累を及ぼすようなことになっては、弁解の余地もない」

 「首相から尾崎によく忠告し、すみやかに参内して謝罪させたほうがよい。事が長引いては、首相の責任に及ぶことにもなりかねない。一時逃れをしていても、やがて貴族院が、責任を問うことは明白であるから、それを未然に防ぐことが主唱としてこの際必要である」

 「尾崎が参内して謝罪すれば、この上とも追及されることもあるまい。そこまでいけば、世論が如何にやかましくなっても、また貴族院が如何に問責の論を強くしようとも、もう事はすでに終わったことになるから、心配はない」。

 大隈首相もこの桂陸相の意見をもっともと考え、尾崎文相にその旨を伝えた。九月六日、尾崎文相は参内して明治天皇に罪を謝した。

 その宮中からの帰途、尾崎文相は桂陸相をその官邸に訪ねた。そして、桂陸相が大隈首相を通して忠告してくれたことを謝し、あわせて宮中での明治天皇に対する陳述の模様を桂陸相に語った。

 それを聞き終えた桂陸相は、尾崎文相に向かって、次の様に答えた。

 「自分の忠告を聞き入れてくれたことは満足だが、今聞くところによれば、貴下の言は弁解に過ぎないような気がする。それはかえって無用のことではないか。しかし、もう過ぎたことなのでどうにもならない」。

 はたして、尾崎文相の参内、明治天皇への謝罪は効果がなく、共和演説問題は、世間の大問題となっていった。遂に宮中でもこれを不問に付すことが出来なくなり、十月二十日、大徳寺実則侍従長が板垣内相を訪問した。

 また、十月二十二日、岩倉具定(いわくら・ともさだ)侍従職幹事(京都・岩倉具視の次男・戊辰戦争・維新後米国留学・政府出仕・伊藤博文の憲法調査に随行して渡欧・公爵・貴族院議員・学習院院長・枢密顧問官・宮内大臣・公爵・従一位・旭日桐花大綬章・大勲位瑞星大綬章等)が大隈首相を訪問した。

 さらに十月二十三日には、明治天皇から大隈首相に対し、「このような大臣には信任がない。速やかに辞表を呈出させよ!」との沙汰があった。

 これにより、同日、尾崎文相は大隈首相に辞表を呈出、翌二十四日、大隈首相が参内、尾崎文相の辞表を執奏した。

 尾崎文相は、宮中での明治天皇へ謝罪の陳述を奏上したことについて、「桂陸軍大臣に、してやられてしまった」と、桂陸相に対して、恨みの感情を持った。

 謝罪の陳述に対して、明治天皇が不快感を抱いたので、尾崎内相は、むしろ、参内しなかった方がよかったと思った。以後、尾崎は桂に嫌悪の念を持ち、ことごとく対立の姿勢をとることになる。




610.桂太郎陸軍大将(30)新内閣の考えを聞かないでは、留任できないとの意思を示した

2017年12月01日 | 桂太郎陸軍大将
 山縣元帥は、政党内閣に端を開くことを危惧し、「それは、国体に反し、欽定憲法の精神に悖(もと)る」と反論した。

 だが、伊藤首相は「辞任後の後継内閣首班は、多数の議員を擁する新党(憲政党)の領袖、大隈重信と板垣退助を奏請する」と主張した。

 山縣元帥が、それに反対すると、伊藤首相は「しからば、元老中から後継首相を推薦してはどうか」と言い、山縣元帥を名指しした。山縣元帥は、すぐに断った。

 伊藤首相は、その日のうちに参内し、自分の首相辞任と、勲位顕爵一切を辞退する上表を提出した。同時に後継首班に大隈と板垣を推薦した。

 また、元老中から選ばれる場合は、山縣元帥または黒田清隆(くろだ・きよたか)枢密院議長(鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後樺太開拓次官<三十歳>・欧米旅行・陸軍中将<三十四歳>・参議兼開拓長官・征討参軍<三十七歳>・内閣顧問・伯爵・農商務大臣・首相<四十八歳>・予備役・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・内閣総理大臣臨時代理・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章等)を任命されるよう奏上した。

 六月二十五日元老を招集して御前会議が開かれた。だが、元老の中に後継首班の任を担う者はなく、大隈重信、板垣退助の両人に組閣の大命が下った。

 組閣は、憲政党の中の、旧進歩党派の大隈を首相に、旧自由党派の板垣を内務大臣することで進んだので、「隈板(わいはん)内閣」とも言われた。日本史上初の政党内閣となる。

 伊藤博文は、伊藤内閣の陸海両大臣の留任を奏上し、明治天皇がこれを受け容れ、桂太郎陸軍中将、西郷従道海軍元帥の両人に留任の勅諚が出された。

 だが、政党勢力と対抗する山縣系の桂太郎中将は、この憲政党の隈板内閣に対して、辞表を提出した。

 六月二十五日夜、侍従長・徳大寺実則(とくだいじ・さねつね・京都・尊王攘夷派の公卿・正二位・維新後明治政府参与<二十八歳>・権大納言・大納言・侍従長兼宮内卿<三十一歳>・内大臣兼侍従長<五十一歳>・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾)から、山縣有朋元帥に次のような下問があった。

 「桂からは辞表が出されている。山縣からは辞職しないという説明であったが、何かの手違いがあるのでは」。

 翌日、山縣元帥は、「辞表は却下すべきであると上答しておいた」と桂中将に知らせた。

 これに対して、桂中将は、山縣元帥への返書で、辞表捧呈は自分にとっては、止むを得ない処置であるとし、次の様に記している。

 「此上ハ第一陛下ノ思召、第二ハ将来我ガ陸軍ニ関スル事件ニ付、新内閣ノ意見ト小生ノ意見トノ調和如何ニテ最後ノ決心仕ルベク覚悟ニ御座候」。

 この文では、「新内閣の考えを聞かないでは、留任できないとの意思を示した」と述べている。

 だが、そのあとに、陸相留任は桂自身にとって容易なものではないが、最終的には、山縣元帥に、その取り扱いを任せる、との旨を記している。

 桂太郎中将は西郷従道元帥とともに、親任式直前に宮中で、大隈首相と板垣内相に面会した。そこで、大隈首相は、陸海軍の軍備拡充計画を全面的に認めることを確約したので、桂中将は、正式に留任することになった。

 明治三十一年六月三十日、日本憲政史上初の政党内閣、第一次大隈重信内閣が成立した。陸相と海相以外の全ての大臣には、憲政党員が就任した。

 陸軍大臣・桂太郎中将は、海軍大臣・西郷従道元帥と図って、できるだけ閣議には出席せず、本拠地である陸海軍を守って、「一歩たりとも我が根拠地を侵さしめざる」方針をとった。

 九月初旬、山縣元帥も書簡で桂中将を激励し、隈板内閣による制約を受けることなく、陸軍の改良計画は着々と推進する必要があると主張している。

 明治三十一年九月二十八日、桂太郎中将は、陸軍大将に昇進した。五十歳だった。

 この隈板内閣は、地租増徴を否定して、次年度予算を策定するために、各種の増税や新税の設定とともに、歳出削減を必要とし、臨時政務調査局で各省予算について削減額を提示した。