陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

75.有末精三陸軍中将(5) 君達は、我輩に真崎を無理に押し付けるのか

2007年08月31日 | 有末精三陸軍中将
有末精三回顧録(芙蓉書房出版)によると、昭和8年1月荒木大臣は急性肺炎に冒され、1月下旬の議会再開を目前にしてどうしても立つことが出来ない状況で、1月19日辞意を決意した。

その日の午後千葉県四ッ街道に演習視察中だった教育総監・林銑十郎大将が急遽帰京、官邸に来て見舞いの後、柳川次官ととともに、小田原の参謀総長・閑院宮載仁親王殿下の御殿に向かった。

秘書官の有末少佐も二人のお供をした。電車の中では一言の会話も無く、有末少佐も沈黙を守り続けるほか無かった。

御殿に着くとお付き武官の泉名騎兵中佐の出迎えで強羅の別邸に案内された。

有末少佐は寒い別室でお茶と寿司を頂戴して待機ということになったが、襖一枚の仕切りであったので話の模様は手に取るように聞こえた。

最初、林大将は何か印刷物を出して殿下に説明しているらしかったが、「自分が大臣をお請けしても軍の統制はなかなか難しいが、もし真崎大将が大臣に就任されれば、この図表に示されているように統制も十分いくだろうと存じます」と真崎大将を推薦した。

柳川次官も林大将の提案に共鳴していた。だが殿下は、「それはいわゆる怪文書ではないか」とご反問された。

林大将はすかざず「怪文書といえば怪文書でありますが、こんな具合に内部がゴタゴタしているような世評がありますから、統制にはなお更人望のある真崎大将にお願いするのが適当かと存じます」と答えた。柳川次官も相槌を打って真崎大将を推薦した。

突如殿下は大きな声を発して「君達は、我輩に真崎を無理に押し付けるのか、私は久しく真崎を次長として使っていてよく知っている。林大将、貴殿はこの際進んでこの難局を引きうけてくれたまえ」と語気荒く言った。

林大将も柳川次官もシュンとして、林大将は「しからば、真崎大将を教育総監にご推薦ください」と申し出た。殿下はこれに了承し、ここに後任陸相は林大将に、その後任の教育総監には真崎大将が推されて非公式の三長官会議は終わった。

「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和8年2月、国際連盟は42対1(棄権1=秦)で満州問題が否決された。松岡洋右代表は声涙ともに下る有名な演説を残して、引き揚げ、日本帝国は国際連盟脱退の瀬戸際に立たされた。

陸軍省の柳川平助次官は軍事課の外交班長・原守中佐(25期)と陸相副官の有末精三少佐を帯同して、熱海伊豆山に静養中の上原勇作元帥の元に国際連盟脱退の報告に行った。

別荘とは名のみ、湯殿のある小さな日本家屋だった。上原元帥は寝巻きのまま床から上体を起して挨拶を受けた。原中佐と有末少佐は別室に下がり、柳川次官が報告した。

隣の部屋にも話し声はよく聞こえた。上原元帥は雷親父と言われただけに、大きな声で「中腰じゃ歩けんよ。静岡はどうか?(静岡とは西園寺公のこと)」「既にご同意であります」

上原元帥はさらに声を大にして「朝鮮米は?」との話し声が聞こえた。有末少佐と原中佐は顔を見合わせた。上原元帥の反宇垣感情というものを如実に察知する事が出来た。

上原元帥は皇道派で、柳川次官とは志を同じくするが、宇垣一成大将の行った軍縮に反発していた。宇垣大将は浜口雄幸内閣で陸軍大臣就任後予備役となり、当時は朝鮮総督であった。

報告が終わったので、有末少佐が上原元帥の部屋にお別れの挨拶に行ったところ、上原元帥が「お父っつあんは元気か、幾つかのう。わしは七十七歳じゃ。お互い長生きの競争をしようといってやっちょいてくれ」と元気に言った。

有末少佐の父は工兵大尉で、上原元帥が工兵監だった頃に世話になったことがあり、当時七十歳であった。また、有末少佐は大正6年陸士卒業の御前講演の折(恩賜で卒業)、参謀総長だった上原元帥から激励の言葉を戴いたことがあったのだ。

74.有末精三陸軍中将(4)「仕方が無い、これからは気をつけろよ」とは内相は言わなかった

2007年08月17日 | 有末精三陸軍中将
有末精三回顧録(芙蓉書房出版)によると、昭和7年9月武藤信義大将が関東軍司令官、駐満大使、関東長官の三位一体の探題として満州国に着任した。

 昭和8年7月、関東軍から板垣少将が上京した際、柳川次官が主催で柳橋の柳光亭で晩餐会を催した。

 当時有末少佐は陸軍省副官兼大臣秘書官であったので、晩餐会に出席した。

 山岡軍務局長、山下奉文軍事課長、も出席していた。会食の最中に関東軍司令官・武藤元帥の訃報があった。

 すぐ引き揚げるべく一同は立ち上がった。廊下に出た時に、山下大佐が有末少佐に「おい」と右手で八字髭を引っ張る形をしながら「次はこれだよ」と後任司令官を林銑十郎大将と示唆した。

 大臣官邸で次官等首脳の会談の結果だろうと思った。ところが三長官の会議の結果翌日人事局長が随行して荒木大臣が内奏したのは菱刈隆大将であった。

 その時有末少佐がひそかに感じたのは、高級人事については軍事課長の山下大佐でもつんぼ座敷に置かれているのだなと思った。

 武藤元帥の葬儀は日比谷公園の音楽堂を背にして祭壇を設け、公園の広場全体を開放して行われた。

 有末少佐は葬儀の準備に多忙となった。葬儀までには一週間位準備期間があったが、気を使う諸問題が次から次に起きた。

 最初に供花の問題が起きた。上原元帥の副官岡崎清三郎中佐が有末少佐のところにわざわざ来て、元帥の意向として供花の配列位置は閣僚の上位にすると同時に榊の大きさも閣僚のものより小さくないようにとの注文だった。

 ちなみに当時は閣僚の供える榊代は一対四十円であり、元帥のそれは十五円という内規があった。

 結局榊の大きさは閣僚と同じ大きさにした。配列順位は、宮中席次は元帥と閣僚は任官新故の順によるので、問題はなかった。

 その次は着席順であった。斉藤内閣総理大臣より上席は、大勲位・山本権兵衛伯爵、西園寺公望公爵、東郷元帥の三人だった。

 ところが、三人とも高齢で健康の事もあり、代理が参列することになった。代理を認めないという宮中席次の慣例に従い、代理は第二列となった。

 従って、有末少佐は上原元帥の代理も第二列にお願いすることにして、解決した。第一列には斉藤総理大臣以下閣僚は宮中席次に従って腰掛けてもらうことにした。

 ところが、葬儀が終わって、内相の明石秘書官がやってきて、山本達雄内務大臣の榊がないと訴えた。

 そんなはずはないと思ったが、明石秘書官は温厚な老大臣からビンタをとられたと、頬をはらして涙をためての苦情だった。

 有末少佐が調べたところ、確かになかった。明石秘書官は「普通のあやまりではすまないよ」と厳重抗議であった。

 荒木陸軍大臣がわざわざ有末少佐のところに来て、「山本さんの榊がなかったらしい。何かの間違い、手落ちであったのだろう、よく調べてくれ」とのことだった。

 有末少佐が各大臣の榊の注文をメモに書きとめ助手のK中尉に渡し、清書させた。その清書の時山本内務大臣のを写し漏れたことが分かった。

 有末少佐は荒木陸軍大臣の官邸に行き報告した。いずれにしても有末少佐は自分の手落ちだと思い内相の私邸に陳謝に参りたいと申し出た。

 荒木大臣は「それが何より第一だ、直接内相に電話しておくからすぐ行け」と下命した。

 有末少佐はとるものもとりあえず、麹町三番町の土手近くの山本達雄男爵邸に向かった。

 応接間に通されると、羽織袴の老内相が待っていたとばかり着座した。有末少佐は明石秘書官には全く責任の無いこと、事情を話し、お詫びした。

 この時ばかりは「仕方が無い、これからは気をつけろよ」とは内相は言わなかった。「ただ、わたしの誠意が故元帥に通じなかったことが如何にも残念でたまらない」と繰り返すばかりで、有末少佐には取りつくしまもなかった。

 思案のあげく有末少佐が「明日の墓前祭に御墓所に三長官(陸相・参謀総長・教育総監)の根付の榊を植えさせていただく、その第四の角に閣下の根付の榊を植えさせていただきたい」とお願いしたところ、

 「それは誠に有り難い。それで私も故元帥に誠意が通じる」と機嫌が直ったという。

73.有末精三陸軍中将(3)ウイロビー少将は仁王立ちで、右手に刃をむいた小刀を持っていた 

2007年08月10日 | 有末精三陸軍中将
 GHQ(連合国軍最高総司令部)は最高司令官のマッカーサー元帥(昭和20年1月に元帥に昇進)、参謀長のサザーランド中将の元に参謀部四部と幕僚部五局から構成されていた。

 参謀部第二部長のウイロビー少将は、気鋭の優秀な軍人であり、GHQを実質的に仕切っているともいわれるほどの実力者だった。

 ウイロビー少将は有末中将を大変信頼し、お互い気心も通じて、なにかと有末中将のために便宜を図ってくれていた。

 ところが参謀部第二部(G2・ウイロビー少将)と幕僚部の民生局(GS・ホイットニ少将)との対立は激しいものがあった。

 昭和21年1月末から復員省において、戦争中供出の宝石類の回収が始まった。

 2月に入って、市ヶ谷台の第一復員省の副官、小林四男治少佐から有末中将へ電話で「CIS(民間諜報局)が省内に乱入、宝石を出せと、まるで強盗のようにアチコチを捜索、大騒ぎ、何とかしてくれ」との急報があった。

 対連合軍連絡委員長である有末中将は早速司令部に出向いたが、マンソン大佐が不在だったので、直接部長のウイロビー少将に直訴した。

 昼過ぎには小林少佐から「捜索に来た米軍人等は全部引き揚げたし、省内でもなんらの被害もなかった」との連絡報告があった。

 早速司令部へ出向くと、マンソン大佐がいて「ウイロビー少将が例の調子で敏速に処理してくれたからだ」と上機嫌の対応だった。

 ところが午後四時すぎ、第一生命ビルから日本クラブへ窓越しの合図で「至急来い」とのことだったので、急いで出向いてみると、マンソン大佐は課長室にいない。

 隣のウイロビー部長室を覗くと、マンソン大佐は入り口の衝立の前の小机に座って、唇に右人差し指を当てて、「静かに」と合図しながら、有末中将の入室を促した。

 有末中将が抜き足差し足で近づくと、部長室でウイロビー少将と、CIS隊長のソープ准将とが大声で言い争っているのが耳に入った。

 有末中将はソープ准将とは横浜以来の知り合いであった。また本間中将の比島裁判の前には、有末中将の自宅近くの笠井重治氏(元代議士)宅で食事を共にしたこともあった。

 マンソン大佐のすすめでもあり、意を決して有末中将はノックして部長室に入った。

 大男のウイロビー少将は向かい側で仁王立ちで、右手に刃をむいた小刀を持っていた。これに対して、小柄なソープ准将は右手に文鎮を握って、机を挟んで、あわや今にも大立ち回り取っ組み合いが始まるような険しい場面であった。

 有末中将は「何事ですか?」と咄嗟のフランス語で中に入った。

 二人とも戦勝国米国陸軍の相当の地位の軍人であった。二人は「敗戦国の将官(有末中将)を中にして、いかにも恥ずかしい」いった調子で、「イヤ別に」など二言、三言、とんだ茶番だと笑い声さえ出た。

 空気が和らいだとみてとった有末中将は、両将軍に会釈敬礼をしてひとます室を出て、マンソン大佐の課長室に戻った。

 マンソン大佐の話ではウイロビー少将がCIS乱入事件で有末中将の要請でウイロビー少将がCIS長官のソープ准将に電話で交渉中、つい口がすべって「CISは泥棒だ」とののしった。

 これに対してソープ准将はCISを急いで陸軍省から引き揚げさせ、事情を調べたところ「任務上、宝石の捜査に出かけただけだ」とのことで泥棒の気配などなかったことを知った。

 ソープ准将は急いでウイロビー少将の部屋に行き、問答の末、「CISを泥棒呼ばわりしたのは怪しからぬ」となじった。

 ところがウイロビー少将は、失言を詫びるどころか、高飛車に「無警告で乱入して、宝石を探すのは泥棒でなくて何だ?」と答えた。

 かっとなったソープ准将は「貴様こそ泥棒だ」と言った。「何っ!」と答えるウイロビー少将に「貴官は有末中将に要求して、黄金造りの大太刀などを泥棒しているじゃないか」と言い、激論になったという。

 以前有末中将は、ウイロビー少将に「だれか日本刀を譲ってくれる人がいないかねえ」と相談された。

 有末中将は日本橋の竹田組の親分に相談すると、奥に入って数分後大きな「黄金造りの太刀」を差し出した。値段を聞くと、「とんでもない、あなたの占領軍対策に役立ててください」と金を受け取らなかった。

 その太刀をウイロビー少将に渡すと、大喜びで、部下を集めて披露していた。ウイロビー少将は竹田組の親分に長文の感謝の手紙を書き、進駐軍への配給のケアーボックス(十日分の携帯食料で乾燥麺、牛肉、野菜などの缶詰、チョコレート、タバコなどの詰め合わせ)を二箱届けてくれと有末中将に託した。

 ソープ准将が言った「黄金造りの大太刀」とはその刀のことであった。この争いも、参謀部第二部と、幕僚部民生局との激しい勢力争いが根底にあったのだった。

72.有末精三陸軍中将(2) 緊張したテンチ大佐の気分はどう見てもぎこちない雰囲気だった

2007年08月03日 | 有末精三陸軍中将
 8月28日午前八時、厚木飛行場の西南方向の一点から爆音が聞こえてきた。飛行場に設営された天幕の指揮所に集まっていた有末中将ら委員が仰ぎ見ると、三機のC46輸送機が次々に厚木飛行場の滑走路に進入してきた。進駐軍先遣隊の輸送機だった。

 しかも有末らが予定していた向かい風の着陸方向とは正反対の追い風に乗って、次々に着陸を始めた。普通飛行機は向かい風に対して滑走路に着陸するのだが、警戒をして裏をかくように、わざと難しい追い風で着陸したのだ。

 着陸機からは、続々と兵士やジープなど車両が降りてきたので、有末中将らは出迎えた。

 先遣隊の米軍将校は大佐が数名、佐官、尉官などで構成されていたが、背の高いハンサムなチァーレス・テンチ大佐が先遣隊指揮官の隊長だった。当時四十歳そこそこで、マッカーサーの信任厚い士官だった。

 この背の高いテンチ隊長と小銃を肩にかけた副官のパワーズ少佐の前に行き、小柄な五十過ぎの有末中将は直立不動で敬礼を行った。

 米軍や日本の新聞記者たちはその場面を写真にとり、翌日の新聞に大きく掲載された。その姿はまるで大人の前に小学生が敬礼をしているようだったので有末中将は、怒って、新聞社を差し止めにした。だが、大人気ないと思って、すぐに解除した。

 ところが、有末中将が敬礼をしたあと、「遠路お役目ご苦労に存じます」と挨拶し、側いた通訳の大竹少尉が通訳する暇もなく、また、有末中将の後ろに並んでいる部下の紹介にも、テンチ大佐は無頓着で、緊張した顔のままツカツカと天幕に向かって進んでいった。

 慌てた有末中将は、急いで天幕内のソファーにテンチ大佐に座ってもらい、いちいち部下の委員を呼んで紹介した。すると今度は進駐軍のスタッフの紹介を受け、大佐が三人紹介された。

 有末中将とテンチ大佐はソファに座って会話を始めたが、緊張したテンチ大佐の気分はどう見てもぎこちない雰囲気だった。

 二人の卓に給仕がコップにジュースを入れて持ってきた。その給仕は臨時仕立ての給仕だった。中学生にだぶだぶの白服を着せたものであった。テンチ隊長は目の前に出されたジュースを手にしなかった。有末中将がいくらすすめても飲もうとしなかった。

 有末中将はそのコップを下げて、二杯目のコップを差し出したが、それにも口を着けなかった。有末中将は二杯目を自ら飲んで、三杯目を注文してテンチ大佐に差し出したところ、彼はジュースを鼻のところに持っていき、二三度臭いをかいで、そのあと、ようやく飲んだ。

 毒でも入っているのではないかと用心したに違いなかった。敵地に乗り込むときの用心深さからだった。

 有末中将は葉巻を出して、テンチ大佐にすすめたが「煙草は吸わない」と断られた。それで有末中将は自分が葉巻を吸うことの許しを乞うたところ、テンチ大佐はすばやく卓上のマッチをすって火を着けてくれた。

 有末中将はテンチ大佐を宿舎に案内した。その後打ち合わせを重ねるうちに、テンチ大佐の気持ちもほぐれて、お互い意思の疎通がスムーズになった。

 その後有末中将は、とどこおりなくマッカーサー元帥と進駐軍本隊を迎える準備をテンチ大佐とともに行い、重大任務を果たした。

 テンチ大佐は有末中将のどこまでも誠意ある対応を理解して、非常に感謝し、マッカーサー司令部から「perfect satisfactory(完全なる満足)」という感謝賞賛の電報を受け取ったと、嬉しそうに有末中将に伝えた。

 短期間ではあったがテンチ大佐と有末中将は強い信頼関係で結ばれ、マッカーサー元帥からは三回も「perfect satisfactory(完全なる満足)」の電報が発せられた。

 最後にはテンチ大佐が「マッカーサー元帥はいかなるレセプションも受けぬ。ただジェネラル・アリスエ、オンリーの出迎えは受ける」との電報を受け取ったと有末中将に話した。

 テンチ大佐は任務を終えると、次の任務の米国国防省(ペンタゴン)の課長に就任するため、8月31日、日本を離れた。

 テンチ大佐は有末中将にチョコレート、煙草、石鹸など置き土産と言って別れに持ってきてくれた。あまりの早い別れに有末中将はとまどったが、そのこまやかな人情と心遣いに頭が下がった。

 戦後も毎年、クリスマスカードのやりとりなど、有末中将とテンチ大佐との交友は続き、テンチ大佐は昭和59年、80歳になる自分の写真を有末中将に送っている。

<有末精三陸軍中将プロフィル>

 有末精三陸軍中将は明治28年5月22日北海道生まれ。父、孫太郎は陸軍工兵大尉。精三の弟、次は陸軍中将、四郎は陸軍軍医大尉。精三の妻、のぶ子は村田信乃陸軍中将の娘。

 明治45年仙台幼年学校、大正6年陸軍士官学校29期(恩賜の軍刀拝受)、大正13年陸軍大学校36期(恩賜の軍刀拝受)。昭和元年歩兵大尉。

 昭和3年イタリア駐在。4年ボローニャ歩兵第三十五連隊付、イタリア陸軍大学入学。6年歩兵少佐、イタリア陸軍大学卒。

 昭和6年歩兵第五連隊大隊長。7年陸相副官・秘書官。10年軍事外交班長。11年歩兵中佐。イタリア大使館付武官。

 昭和12年航空兵中佐、13年航空兵大佐。14年軍務課長。軍務課長時代に阿部内閣の誕生に尽力した。16年北支那方面軍参謀副長。陸軍少将。

 昭和17年8月参謀本部第二部長。20年陸軍中将。

 昭和20年8月24日対連合軍連絡委員長(厚木委員長)。予備役。21年進駐軍顧問。

 昭和34年社団法人日本郷友連盟理事。36年同連盟副理事長。38年同連盟副会長。45年同連盟会長。

 平成4年2月14日死去。