陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

540.永田鉄山陸軍中将(40)石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った

2016年07月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 そして私は「閣下とは今日初めて御会いしたのですが、私は以前から考えていた通り、国体観念の乏しい人だから、軍務局長をお罷めになったらよろしいでしょう」と言うと、これに対しては何も言われませんでした。

 それからしばらく話していると課員が入って来て話が切れましたが、永田閣下は「兎に角今日初めて君に会ったのでゆっくり話す訳には行かぬから、この次の機会に会って話すか、又は手紙で往復して話をしよう」と言われました。

 私は「それでは今度上京した時に御会いします」と言って、最後に「あなたは十一月事件に関係して、而もその責任者として処理するに付いて不届きなやり方じゃないか」と言うと、永田閣下は、カラカラと笑って、「あれは私に関係も責任もない、その様な事をよく言う人があるので、会ってよく話をしている。君もその様に思っているのなら、今度会った時によく話をする」と言われ、午後五時頃別れました。

 以上が、相沢三郎中佐が岡田予審官に話した内容である。

 「片倉参謀の証言・叛乱と鎮圧」(片倉衷・芙蓉書房)によると、昭和十年七月末、当時陸軍省軍務局軍事課満州班に勤務していた片倉衷少佐は、永田軍務局長に「大分閣下を狙っている奴がいますので、護衛を常時つけられたら如何ですか」と言った。

 すると、永田軍務局長は「片倉、人間死ぬときは死ぬ。殺される時はやられる。すべては運命だ。私は運命に従う。俺は覚悟しているよ」とはっきり答えた。

 昭和十年八月十二日午前九時四十五分頃、軍務局長・永田鉄山少将は、陸軍省の局長室で、机に座り、東京憲兵隊長・新見英夫(にいみ・ひでお)大佐(山口・陸士一九・憲兵大佐・東京憲兵隊長・相沢事件・京都憲兵隊長・予備役)の所管事務報告を受けようとしていた。

 新見大佐の側には、兵務課長・山田長三郎(やまだ・さぶろう)大佐(宮城・陸士二〇・陸大二八・砲兵大佐・野砲兵第二二連隊長・陸軍省軍務局兵務課長・相沢事件・陸軍兵器本廠附・自決)が席についていた。

 山田大佐が隣室の軍事課長・橋本群(はしもと・ぐん)大佐(広島・陸士二〇・砲工高一八恩賜・陸大二八恩賜・参謀本部動員課長・陸軍省軍務局軍事課長・相沢事件・鎮海湾要塞司令官・少将・第一軍参謀長・参謀本部第一部長・中将)呼びに席を立って隣室に行った。

 その瞬間、眼光の鋭い中年将校が、抜身の軍刀を手にして迫って来た。新見大佐は、初めは、その男が何か冗談を仕掛けてきたように思われたので、それで笑おうとした。

 だが、次の瞬間、その中年将校は、永田軍務局長に近づき、「天誅!」と声をあげ、逃げる永田軍務局長の右肩あたりに白刃をサッときらめかせた。袈裟がけに切りつけたのである。

 新見大佐は、阻止するためその中年将校の腰あたりに抱き付いたが、次の瞬間斬られて尻餅を突き意識を失った。

 逃げる永田軍務局長の背後からブスリと軍刀を突き刺し、よろよろ逃げるが、遂に仰向けにバッタリ倒れた永田軍務局長の頭部から頸動脈にかけて、中年将校はもう一太刀打ち下ろした。とどめを刺したのである。永田軍務局長は息絶えた。

 この中年将校は、先月永田軍務局長に面会した、あの相沢三郎中佐だった。相沢中佐は憲兵隊に拘束された。

 軍務局長・永田鉄山少将は、享年五十一歳だった。死後陸軍中将に昇進した。永田鉄山は東條英機より大局を見る眼があり、“カミソリ東條”より、なおよく切れた。

 片倉衷は、永田鉄山と石原莞爾をコンビにして、国軍の刷新強化を図ろうとしていたのだが、石原莞爾は、事務系の人として永田鉄山を余り高く評価しなかった。

 永田鉄山が斬殺された時も、片倉衷に、石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った。そう言われて、片倉衷は面白くなかった。

 戦後、片倉衷は、永田鉄山、石原莞爾の二人が一緒に仕事を始めていれば、支那事変は拡大せず、さらには大東亜戦争も防止し得たのではないか。日本の命運も違ったものになっていただろうと述べている。

 この相沢事件は、翌年の二・二六事件の引き鉄となった。相沢三郎中佐は、昭和十一年五月七日第一師団軍法会議で死刑の判決を受け、七月三日、銃殺刑に処された。

 (今回で「永田鉄山陸軍中将」は終わりです。次回からは「源田実海軍大佐」が始まります)




539.永田鉄山陸軍中将(39)気違いみたいな奴だが、それにしては、トボけた気違いだ!

2016年07月22日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、相沢中佐は永田少将のそういう様子にはかまわず、別な方向に話をもって行った。「では、閣下は、尊皇絶対の精神を、どうお考えですか」と切り出し、元の連隊長の名前を持ち出し、その連隊長の尊皇絶対の精神について、聞き取りにくい仙台訛りで、くどくどとならべたてた。

 永田少将が耳を傾けてみると、別に傾聴に価する所説でも何でもなく、ごく素朴な尊皇精神を回りくどく言っているに過ぎなかった。

 永田少将は相沢中佐の言葉の区切りを待って、「初めて会ったので、君の思想はよく分らんが、もし言う事があれば、手紙か、今度上京された時、くわしく聞こう」と言って、立ち上がった。

 それにつれて、相沢中佐も腰を上げたが、次の様に言った。「では、もう一つだけ最後に伺います。十一月事件は、あれはどうして起こったのですか。辻大尉が士官候補生をスパイに使って、でっち上げた芝居に過ぎませんが。しかし、辻の背後で糸を引いていたのは、世間では閣下だと言っておりますが」。

 相沢中佐の余りにも飾り気のない直截な聞き方が、とぼけた滑稽味をおびていたので、永田少将は声をたてて笑って、次の様に答えた。

 「世間はどう見てもかまわん。自分はあれについては何も知らん、責任もない……それにあれはもう済んだことだし、何もいまさら……どうでもいいじゃないか」。

 相沢中佐は、まだ何か物足りない様子だったが、それでも丁寧に敬礼をして、局長室を出て行った。

 永田少将は、相沢中佐が出て行ったあとの扉を見つめていたが、そのうちに笑い出した。どうにもおかしくて、我慢できないといった笑いだった。「気違いみたいな奴だが、それにしては、トボけた気違いだ!」。

 だが、一瞬後には、永田少将は生真面目な顔に戻った。「あいつらは俺を憎んでいる。何もかも俺の仕業で、俺が元凶だと思い込んでいる」。

 永田少将はじっと宙を見つめて、思いを凝らした。すると刺客が四方八方から自分一人を狙っているような感じに襲われた。

 永田少将は、部下の幕僚に、「相沢によく言って聞かせてやったら、おとなしく帰ったよ」と言った。

 一方、「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、昭和十年七月十九日の、陸軍省軍務局長・永田鉄山少将と相沢三郎中佐のやり取りを、相沢公判における岡田予審官による第三回被告人訊問調書で、相沢中佐自身は次のように述べている。

 (上略)それから私は改まって「一寸申し上げます」と言って「閣下はこの重大時局に軍務局長としては誠に不適任である。軍務局長は大臣の唯一の補佐官であるのに、その補佐が悪いから、何卒自決されたらよろしかろうと思います」と申しました。

 すると永田閣下は腑に落ちない様で「一体君は今日初めて会うのだが、君の心持ちもよく判らないが、一体自決とはどういう事か」と聞かれたので、「早速辞職しなさい」と言ったように思います。

 すると永田閣下が「君のように注意してくれるのは非常に有り難いが、自分は誠心誠意やっているが、もとより修養が足りないので、力の及ばないところもあるが、私が誠心誠意、大臣に申し上げても採用にならない事は仕方がない」と言われたので、これは誰でも言う事でありますから、この人は普通一般の人だと思いました。

 そして私は「あなたの御考えは下剋上である」と言いますと、永田閣下は、「君の言う事は違う。下剋上というのは下の者が上の者を誣いる事だ」と言われたので、私は「一体大臣は輔弼の重職にあられるもので、その大臣に対して間違った補佐をするのは、これは大御心を間違えて下万民に伝えるのであるから、あなたは下剋上だ」と言いました。

 永田閣下は「話が込み入って来たから腰掛よ」と言われたので、腰を下ろすと「君は私が悪いと言うが、具体的に言え」と言われましたので、そこで私は「真崎大将が交代したというのは間違った補佐である」と申しますと、永田閣下は「人は各々見方があるが、自分は情を以って取り扱わない、理性を以って事をする」と言われた。

 私は「情という事は日本精神の方から言うと真心即ち至情で最も尊いものだが、あなたの言われる情というのは感情の事か」と言いましたところ、永田閣下は返事もせずに「自分は漸新的にこの世の中を改革する」と言われたので、私は「それは良い事だ」と言ってから“至情”ということに就いて説明しました。

 この時私は永田という人は、以前から考えていた通り薄っぺらな人だと思いました。至情という事に就いて村岡中将という人は軍を厳粛に統率された非常に立派な人で至情について確固たる信念をもっておられると感じた事を話すと、永田閣下はそれに対して何も言わずに「自分は罪を憎むが人を憎まない」と言われたので、私は何の事か判らなかったが「私もその様に考えております」と言いました。

538.永田鉄山陸軍中将(38)真崎総監は、大臣や閣下の私情をもって追われたのでありますか

2016年07月15日 | 永田鉄山陸軍中将
 相沢少佐は、昭和六年青森歩兵第五連隊大隊長。昭和七年歩兵第一七連隊附。昭和八年歩兵中佐、福山歩兵第四一連隊附。相沢三郎中佐は皇道派の将校で、剣道四段、銃剣道の達人でもあった。

 昭和十年七月十九日、陸軍省軍務局長・永田鉄山少将に面会した相沢三郎中佐は突然、永田少将に辞職を迫った。「叛乱」(立野信之・ぺりかん社)によると、その時の二人の対談が次の様に記されている。

 局長室で永田少将が引見すると、相沢中佐は突っ立ったまま田舎者の愚直な鄭重さで、義弟の浜野井少佐が世話になった礼を述べた。仙台訛りがひどく聞き取りにくかった。

 「ハマノエ?」。永田少将は、はじめ誰のことか思い当らなかったが、それが慶応大学配属将校の浜野井少佐のことだと分ると、別に取り立てて世話をした覚えもなかったので、「ああ、いや……」と、あいまいに肯き返した。

 相沢中佐は、儀礼的な挨拶がすむと、改まって次の様に言った。

 「閣下、自分は本日、陸軍大臣ならびに軍務局長閣下に辞職を勧告に参りました。自分は、ただそれだけの用事で、福山から出てきたのであります」。

 相変わらず不動の姿勢で、突っ立ったままだった。くぼんだ眼は大きく見開いて、ピカッと薄気味の悪い光をおびていた。狂信者によくある眼である。

 「まあ、何か……立ったままでは固苦しくていかんから、お掛けなさい」。永田少将は椅子を差し出した。

 「失礼します」。相沢中佐はしゃちこ張った礼をして、傍らの椅子へ腰をおろした。相沢中佐は、腰かけても、状態をまっすぐにのばし、まじろぎもせずに永田少将を見つめている。

 「どういう理由で、陸軍大臣と私が辞職をしなければならんのですか」。永田少将はキョトンとした顔を相沢中佐に向けて、相変わらずものやわらかな態度できいた。永田少将も相沢中佐に負けないくらい色が黒かった。

 「理由を申し上げます」と、相沢中佐は切り出して、「最近の皇軍は実に憂うべき状態にあります」と言って次のような内容を永田少将に論じた(要旨)。

 「天皇機関説問題を徹底的にやり尊王絶対主義を皇軍に叩き込まなければならない。機関説とは何だと農民に教えてやらねばならない。日清戦争のとき明治天皇は幼年学校に対して天皇絶対の思想をお諭しになった。石原大佐が満州で活躍したのも、この幼年学校の影響だ」

 「私も郷里仙台で石原大佐が民衆指導に尽力されているのに感激した。今の士官学校教育は徹底していない。軍人の堕落は士官学校教育が悪い。しかるに軍当局は、腐敗した政府や外部の旧勢力と結託して皇軍を紊乱させている」

 「そのいい例が、真崎教育総監更迭問題だ。なぜ真崎総監を勇退させたか。真崎閣下は至誠尽忠の人だ。陸軍大臣閣下は軍の統制だという。真崎閣下を無理やり勇退させるのが軍の統制なのか。皇軍を腐敗堕落させる元を大臣自ら作っている。それゆえ、陸軍大臣ならびに大臣補佐の地位にある閣下の辞職を勧告する」。

 以上が相沢中佐の話の要旨だが、その理論はあっちへ飛び、こっちに飛び、棒を置きならべたようで、その間に何の脈路もないようでいて、不思議に一貫した強い意志的なものが感じられた。

 だが、相沢中佐の理屈は、皇道派の連中が口にしたり、怪文書に書いたりしている理論を、舌足らずに述べているだけだった。いささか滑稽でもあった。

 永田少将は相沢中佐の話が終わったのを見て、さとすように、「君の忠告は有難いが……、自分も誠心誠意大臣を補佐しているんです。決していい加減な気持ちでやっているんじゃない……君の御意見は、大臣に伝えるが、しかし、大臣がそれを聞き入れられるかどうかわからない」と言った。

 「それでは伺いますが、真崎総監は、なぜ勇退させられたのでありますか」。相沢中佐は永田少将からキラリと眼を離さないで言った。

 「さあ、それは今ここでは言えない。新聞に理由みたいなものが出ていたが、もちろんあれが全てではない。ただ僕がここで言えることは……人事は理性をもって行い、情で行うべきものでないということです。それが僕がここで言える総てです」と永田少将はいくぶん迷惑そうに答えた。

 「情とは、わたくしの情でありますか……それでは真崎総監は、大臣や閣下の私情をもって追われたのでありますか」と相沢中佐は生真面目な顔で聞き返した。

 「私情ではない…だから僕は、人事は情では行わない、と言ったはずだ」。永田少将の顔にはイライラした表情が浮かんだ。もう話は分かったから、いい加減に打ち切りたいという態度がありありと見えた。



537.永田鉄山陸軍中将(37)軍事参議官会同は、林陸軍大臣、永田軍務局長らの勝利に終わった

2016年07月08日 | 永田鉄山陸軍中将
 荒木大将「具体的に言えば永田は一日も現役にとどまっておられないと思えばこそ、抽象的に言ったのである。よろしい、では、陸軍大臣がご希望とあれば申し上げよう」(荒木大将は、永田の三月事件における策謀を述べた)。

 真崎大将「これを見てもらいたい」(真崎大将は一握りの書類を持ち出した。当時永田軍事課長が小磯軍務局長に頼まれて作成したクーデタープランだった)。

 真崎大将「これは貴官の執筆と思うが、間違いはないか」(末席に控えていた永田軍務局長を呼び寄せて見せた)。

 永田軍務局長「その通りであります」。

 真崎大将「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇に葬られているが、かような大それた計画を当時の軍事課長自ら執筆起案しながら時の当局者はこれを不問に付している。軍規の頽廃これよりも甚だしいものがあろうか。その者をこともあろうに陸軍軍政の中枢部たる軍務局長の席につかせているとは何事であるか」。

 渡辺教育総監「只今の書類はたしかに穏やかならざることが書いてある。書いた者が永田であることも間違いない。けれども、これは永田個人の作案で、陸軍省として責任を負うべき書類ではないように思うが、その点はいかがなものか」。

 真崎大将「普通の書類とは違う非合法なクーデター計画書だ。大臣、次官の決裁印がなくとも実質は立派な公文書である」。

 渡辺教育総監「真崎参議官の見解では、公文書、つまり軍の機密文書だとの御意見である。列席の諸官は果たしてどう認められるか」。

 荒木大将「念を押すまでもなく、これは立派な軍の機密書類である」。

 渡辺教育総監「よろしい。一歩譲って機密公文書と認めよう。それなら、軍の機密文書を一参議官が持っておられるのは、どういう次第であるか。機密文書が外部に漏れたとすれば軍機漏えいである。真崎参議官はどうしてこれを持参されたか、御返答によっては所用の手続きをとらねばならぬ」。

 機密文書を勝手に持ち出せば軍法会議ものであった。さすがの真崎大将も巻き返しができず、荒木大将と共に、絶句し、沈黙した。

 阿部信行大将が「この書類に関する限り、この辺で打ち切り、同時に陸軍大臣の手元に返還されては如何なものであるか」と、とりなして、真崎大将も荒木大将もほっとして引き下がった。

 この様にして、軍事参議官会同は、林陸軍大臣、永田軍務局長らの勝利に終わった。だが、これは一応の勝利であった。この後に、さらなる重大なる危機が迫っていたのである。

 ところで、真崎甚三郎教育総監罷免の第一は永田鉄山軍務局長であるということが、通説のように伝わっている。だが、永田軍務局長が真崎教育総監罷免の張本人であることを否定するものとして、昭和のフィクサー・矢次一夫(佐賀・統制派の幕僚池田純久と組んで国策研究会同志会を創立・国策研究会として戦時国策の立案に従事・大政翼賛会参与・戦後岸信介首相の顧問)が証言している。

 「昭和動乱私史」(矢次一夫・経済往来社)の中で、矢次は次のように記している。

 「私もまた、真崎、柳川と共に佐賀県出身でいろいろ関係もあり、この説をおかしいとし、随分調べてみたのだが、その限りでも、永田が真崎を追い出すべく策動した、という確証は一つも見つからぬのである」

 「岡村寧次のような荒木、真崎とも親しく、永田とも親友で、斬られたあと葬儀万端の世話をした人や、同じ時代に参謀本部の課長をして永田と交渉の多かった今村均、河辺正三等、及び永田時代のたくさんの後輩軍人たちの話を総合しても、全て否定する人物ばかりであることだ」

 「軍務局長という地位と権限には、省部の人事、特に将官人事に対していささかの発言権も、したがって発言力も無く、それに永田は典型的な合理主義者で軍秩序維持主義者であり、だからこうした策動をする人ではないと異口同音している」。

 昭和十年七月十九日、軍事参議官会同が開かれてから、四日後の午後のことである。陸軍省軍務局長・永田鉄山少将は、一人の見知らぬ中年将校の訪問を受けた。

 中年将校は色が黒く、頬がこけていて頬骨が高く、目はくぼんでいて、口が大きかった。容貌魁偉な男であった。福山の連隊附中佐で、相沢三郎と名乗った。陸軍大臣秘書官・有末清三少佐の紹介だった。

 相沢三郎中佐は、宮城県仙台市出身で、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校卒(二二期・卒業成績は歩兵科五〇九名中九十五番)。明治四十三年歩兵少尉任官、歩兵第四連隊附。陸軍戸山学校卒(卒業成績は一〇五名中三番)。大正二年歩兵中尉。

 大正七年台湾歩兵第一連隊附。大正九年歩兵大尉、陸軍戸山学校剣道教官。大正十四年陸軍士官学校剣道教官。大正十五年歩兵第一三連隊中隊長。昭和二年歩兵少佐、歩兵第一連隊附、日本体育会体操学校剣道教官(配属将校)。






536.永田鉄山陸軍中将(36)永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか!

2016年07月01日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和十年七月十日林陸軍大臣は真崎教育総監と再び会談をして、八月人事の話し合いを行ったが、真崎教育総監は林陸軍大臣の人事案に同意しなかった。林陸軍大臣と真崎教育総監のやり取りは次の通り(要旨・概略)。

 林陸軍大臣「君がどうしても不同意というなら、軍の統制の必要から、この際、部内の総意に従って、教育総監を勇退してもらいたい。そもそも君が派閥の中心になって軍の統制を乱している」。

 真崎教育総監「君は統制、統制というが、一体軍をどう統制するのか。それに俺が派閥を作っているというが、何を指してそう言うのか」。

 林陸軍大臣「総監部に七田大佐あり、参謀本部に牟田口大佐あり、補任課長に小藤大佐あり……そういう部内の輿論(よろん)だ」(しどろもどろの言い方だった)。

 真崎教育総監「何を言うか。七田はおれが総監就任前からの第二課長だ。実はあまり役に立たんから、代えようとさえ思っている位だ。牟田口は永田局長が推薦した男だ。小藤に至っては顔も知らん……秦中将を退職させて、三月事件に関係の深い小磯中将を航空本部長に栄転させるようなことは、正に道理転倒で、俺はこの案に賛成し難い。一体そういう輿論作成の根源は誰だ」。

 林陸軍大臣「実は……これは南大将と永田軍務局長以下の幕僚たちの主張で、自分としては統制上どうにも致し方のない案なのだ」。

 それを聞いた真崎教育総監は、青白く、苦々しい表情をして、「とにかく、この案には同意できない」と、林陸軍大臣の人事案を一蹴した。

 翌日、七月十一日、閑院宮参謀総長、林陸軍大臣、真崎教育総監による、三長官会議が開かれたが、真崎教育総監が案の討議に入ることを拒否したので、結論は出なかった。

 七月十五日、二回目の三長官会議が開かれた。この会議では、真崎教育総監が「今次の異動は不純な動機でなされたものだ」「大元帥陛下に直隷する教育総監の職をけがすものだ」「永田らの統制派の連中こそ三月事件、十月事件で軍の統制を乱したではないか」などと強硬意見を長々と主張した。

 これに対し、閑院宮参謀総長が「総監は、それでは陸軍大臣の事務を妨害するのか」「この案でゆけば、あるいは何事か起こるかもしれんが、その時はその時で、陸軍大臣にも適切な処置があるだろうから、今回はこの案でいこう」との強い意向を示した。

 これにより、真崎教育総監の罷免が決定した。

 七月十七日、軍事参議官会同が行われた。この軍事参議官会同は、教育総監の更迭があった場合は、恒例として、新任の渡辺錠太郎教育総監と、真崎甚三郎旧教育総監の挨拶程度で開かれるものだった。永田軍務局長も出席していた。

 ところが、この会同では、真崎大将が教育総監罷免の、林陸軍大臣の措置を、長々と非難した。荒木貞夫大将も同様に「統帥権干犯ではないか」と林陸軍大臣を非難した。以下、軍事参議官会同での永田軍務局長に関するやりとりは次の通り(要旨抜粋)。

 林陸軍大臣「教育総監が辞任を承知しない時は、陸軍大臣、参謀総長合議の上、辞任させて差し支えないという結論を得ている」。

 荒木大将「陸軍大臣は軍の統制うんぬんと言われ、真崎大将がその統制を乱したようなお話であるが、それはそもそもどういう事であるか」。

 林陸軍大臣「真崎大将は派閥的行動があり、それが軍の統制上すこぶるおもしろくない影響を与えている」。

 松井石根大将「派閥は確かにある。それは自分もおもしろくないと思っていた」。

 川島義之大将「同感である」。

 真崎大将「派閥とか何とか言われるが、それなら永田軍務局長はどうであるか。永田は宇垣陸相の時三月事件に関与し、陸軍の統制を乱したのみならず、その後の行動は、永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか! こういう者を側近に置いて自分らを責めるのは順逆を誤ってはいないか」。

 渡辺教育総監「只今は永田軍務局長の行動を議題としているのではない。永田君のことはまた別に論議する機会があろう」。

 菱刈隆大将「そうかも知れないが、三月事件は、小耳にはさんだことはあるが、こういう席ではまだ聞いたことがない。ついでに事情を聞いてみてはどうか」。

 真崎大将「陸軍大臣は永田と三月事件の関係は御承知のことと思うが、どうか」。

 林陸軍大臣「荒木前陸軍大臣から何らの引き継ぎも受けていないから分らない」。

 荒木貞夫大将「それでは申し上げよう」(荒木大将は三月事件の概要を話し、それに当時の永田軍事課長が関与していたことを述べた)。

 林陸軍大臣「只今のお話だけでは、永田を辞めさせなければならぬほどの事実が良く了解できない。ことに、それだけ悪いことをしているなら、なぜ、君が陸軍大臣のときに永田を罷免しなかったのか、今頃になってその話を持ち出されることは、頗る迷惑である。また、永田を非難されるが、抽象的な攻撃ばかりだ。具体的な事実を示されたい」。





535.永田鉄山陸軍中将(35)真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させた

2016年06月24日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、昭和天皇は、天皇機関説に賛同していた。昭和天皇は、侍従武官長・本庄繁(ほんじょう・しげる)大将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・参謀本部付・張作霖顧問・少将・歩兵第四旅団長・在支那公使館附武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・侍従武官長・大将・男爵・功一級・予備役・軍事保護院総裁・枢密顧問官・終戦・戦犯指名・自決・正三位・勲一等)に、次のように意見を述べた。

 「軍の配慮は、自分にとって精神的にも迷惑至極だ。機関説の排撃が、かえって自分を動きのとれないものにするような結果を招く。だから、それについては慎重に考えてもらいたい」

 「私自身は、天皇主権説も天皇機関説も、帰するところは同一であると思っているが、労働条約その他債権問題のような国際関係についての事項は、機関説に従う方が便利ではないかと思う」

 「憲法第四条による『天皇は国民の元首』という言葉は、いうまでもなく機関説である。もし機関説を否定することになれば、憲法そのものを改正しなければならぬ」

 「機関説は皇室の尊厳を汚すという意見は、一応もっとものように聞こえるが、しかし事実は、このようなことを論議することこそ、皇室の尊厳を冒涜するものだ」。

 当時の岡田啓介首相は、この宮中方面の思召しと、軍部を先頭とする機関説排撃―国体明徴運動との板挟みにあって、態度を決しかねていた。

 真崎甚三郎教育総監は、陸軍三長官協議の結果、陸軍の立場を表明する必要があるとして、教育担当である教育総監・真崎甚三郎の名において、天皇機関説排撃の声明書を発表した。

 最終的に、政府は陸軍の要求をのみ、議会終了後に美濃部議員の取調べを警察に指示、美濃部議員の出版物三冊を発禁処分とした。その後、美濃部議員は貴族院議員を辞職した。

 ところが、真崎甚三郎教育総監が天皇機関説排撃の声明書を発表したことが、元老・重臣をはじめ、機関説を盲信する官僚・政治家たちをして、「真崎恐るべし」として、真崎排撃に拍車をかけることになったのである。

 昭和十年八月の異動がやってきた。林大将が陸軍大臣になって以来、昭和九年三月から三回の陸軍定期異動をおこなっているが、人事問題については、ことごとく真崎教育総監の横やりがあった。

 「二・二六事件 第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、林大将は、部内から皇道派分子の一掃をめざしていたが、その都度真崎教育総監の抵抗に遇い、その大半の意図がつぶされていた。また、林大将が何か気に入らないことを言えば、真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させたものである。

 林陸軍大臣は、この八月の異動で思い切った人事案を出した。秦真次第二師団長を待命、柳川平助第一師団長を予備役編入、山岡重厚整備局長を第九師団長、山下奉文軍事調査部長を朝鮮に転出、鈴木率道作戦課長を地方に、堀丈夫航空本部長を第一師団長に移動させるという徹底した皇道派の壊滅案だった。

 林陸軍大臣がこのような思い切った異動案を決意した背景には、天皇機関説問題をはじめとする、真崎教育総監の強硬な姿勢に、宮中も政府も政党も財界も不安を持っていることがあった。

 また、軍事参議官・渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう)大将(愛知・陸士八・陸大一七首席・オランダ公使館附武官・少将・歩兵第二九旅団長・参謀本部第四部長・陸軍大学校兵学教官・中将・陸軍大学校長・第七師団長・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・教育総監・二二六事件で暗殺)の援助があった。

 林陸軍大臣は事前に渡辺大将を訪ねて、この人事案を巡る部内皇道派の猛烈な抵抗を報告し、協議した。

 渡辺大将は、「もはやこの場合は断の一字あるのみ」だと林陸軍大臣を激励した。そして真崎教育総監があくまで反対するなら「その教育総監を解任すべし」と意見を言った。

 林陸軍大臣が今回の異動案を真崎教育総監に内示したところ、はたして真崎教育総監は、「軍事参議官・菱刈隆大将、軍事参議官・松井石根大将、関東軍司令官・南次郎大将、軍事参議官・渡辺錠太郎大将、軍事参議官・阿部信行大将を待命にせよ」と、迫った。

 さらに、「第五師団長小磯国昭中将、第一〇師団長・建川美次中将もクビにしろ」と、真崎教育総監は言い出した。また、「秦真次第二師団長の待命、柳川平助第一師団長の予備役編入には絶対反対」と、言い出した。

 また、この人事案が真崎教育総監の口から皇道派の将校等に洩れたので、彼らは騒ぎ立て、この林陸軍大臣の人事案の粉砕に躍起となった。

 この様な状況から、林陸軍大臣もいよいよ、真崎教育総監と袂を別つ決心をした。その支柱となったのは、参謀総長・閑院宮元帥だった。

 それに、参謀次長・植田謙吉(うえだ・けんきち)中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・浦塩派遣軍参謀・騎兵大佐・浦塩派遣軍作戦課長・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・関東軍司令官・予備役・戦後日本戦友団体連合会会長・日本郷友連盟会長)だった。

 さらに渡辺錠太郎大将と永田鉄山軍務局長ら統制派幕僚の後押しもあった。








534.永田鉄山陸軍中将(34)二人の免官は永田軍務局長の意図であり、皇道派への弾圧だ

2016年06月17日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和九年八月の異動で、林陸軍大臣は、真崎色を一掃しようと、思い切った人事案を立案した。林陸軍大臣がここまで強硬策を断行しようというのは、永田軍務局長ら統制派幕僚の突き上げだった。

 陸軍将官の異動は、陸軍大臣の原案を参謀総長、教育総監と、いわゆる三長官の協議の上で決定する習慣になっていた。

 当時は参謀総長が閑院宮載仁親王・元帥陸軍大将なので、陸軍大臣、教育総監の間で内定したものを、閑院宮元帥参謀総長に見せて了承をもらっていた。

 柳川平助次官の第一師団長(東京)転出は、さすがに、林陸軍大臣も真崎教育総監に遠慮して行った人事だった。本当は東京以外に飛ばしかったのだ。真崎教育総監も承服した。

 だが、林陸軍大臣と真崎教育総監が正面から対立したのが憲兵司令官・秦真次(はた・しんじ)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・陸軍省新聞班長・陸軍大学校兵学教官・歩兵大佐・歩兵第二一連隊長・第三師団参謀長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・陸軍大学校兵学教官・奉天特務機関長・第一四師団司令部附・中将・東京湾要塞司令官・憲兵司令官・第二師団長・予備役)の第二師団長転出案だった。

 秦中将は真崎教育総監の最も忠実な子分で、憲兵司令官として反真崎派の将官に対して徹底的内偵を行なってきたのだった。

 林陸軍大臣でさえ、護衛名義で付けられた憲兵に追い回され、重要な電話は自宅からもかけられなかった。

 閑院宮元帥参謀総長は、反真崎派の巨頭だから、閑院宮元帥の別当、稲垣三郎(いながき・さぶろう)中将(島根・陸士二・陸大一三恩賜・騎兵第一連隊長・騎兵大佐・英国大使館附武官・少将・騎兵第一旅団長・浦塩派遣軍参謀長・中将・国際連盟陸軍代表・予備役・閑院宮宮務監督・閑院宮別当)も秦中将の憲兵に追い回された。

 真崎教育総監は、秦中将の異動に反対していた。秦中将を憲兵司令官として中央に置き、自分の手足となって、統制派幕僚を監視させるつもりだった。だが、林陸軍大臣の「秦中将を第二師団長にする」という案に最終的に同意した。

 昭和九年十一月に、クーデター未遂事件である「十一月事件」(陸軍士官学校事件)が起きた。

 陸軍士官学校の佐藤候補生が仲間を誘って当時皇道派の青年将校運動の中心的人物、磯部浅一一等主計(野砲第一連隊附)と村中孝次歩兵大尉(歩兵第二六連隊大隊副官)の両氏を歴訪して国家革新について話し合っていた。

 そのうちに、両氏にクーデター計画の腹案があるのを知り、佐藤候補生は陸軍士官学校の本科生徒隊第一中隊長・辻政信大尉にその計画内容を報告した。

 辻政信大尉は、佐藤候補生に対して、クーデター計画に参加するように指示し、「内偵、報告せよ」と命じ、一種のスパイ行為を行わせた。

 佐藤候補生の報告を受けて、辻政信大尉は、懇意の参謀本部部員・片倉衷少佐にそのクーデター計画を報告した。片倉少佐は、陸軍次官・橋本虎之助中将に報告した。

 その結果、憲兵隊は、磯部一等主計、村中歩兵大尉、陸軍士官学校予科区隊長・片岡太郎中尉と、佐藤候補生以下五名の士官候補生を逮捕した。

 第一師団軍法会議で、磯部一等主計、村中歩兵大尉は停職、五名の士官候補生は退校処分となった。辻政信大尉は水戸の第二歩兵連隊附に左遷された。

 停職になった磯部一等主計、村中歩兵大尉は、その後も怪文書により林陸軍大臣や中央幕僚の攻撃を行ったため、遂に免官処分となった。

 片倉衷氏の証言によれば、この事件の報告は、辻大尉→片倉少佐→橋本中将の線で直線的に行われ、永田軍務局長は当時片倉少佐と隷属関係もなく、この事件に介入する余地はなかった。

 だが、「この二人の免官は永田軍務局長の意図であり、皇道派への弾圧だ」と、永田軍務局長は、青年将校ら皇道派の怒りを買ったのである。

 昭和十年二月十八日、天皇機関説問題が浮上して来た。貴族院本会議で、美濃部達吉議員の天皇機関説が国体に背く学説であるとして、天皇機関説排撃を決議した。

 二月二十五日、美濃部議員は天皇機関説を解説する釈明演説を行い、議場からは拍手が起こった。だが、議会の外では右翼団体や在郷軍人会が抗議した。美濃部議員の釈明演説が新聞に掲載されると、軍部や右翼の攻撃は増幅した。

533.永田鉄山陸軍中将(33)軍人の偏狭独断を匡正するために、広く一般人と交際させる

2016年06月10日 | 永田鉄山陸軍中将
 この会は、池田少佐が幹事役をつとめ、毎週一回全員が集まって、討論審議を行った。この私的な研究会は、永田少将が軍務局長になると、公然と軍務局で取り上げるようになった。

 だが、軍人の知恵だけでは具体策ができるはずは無かった。そこで官僚の中堅層と結んで、それを外郭団体とし、そこで国策を立案させ、その結論の線を軍の威力で陸軍大臣が閣議に提出し、政府に実行させる方法を案出した。

 この永田軍務局長らの要請に応えて参加した官僚は次の通り。

 岸信介(きし・のぶすけ)商工省大臣官房文書課長(山口・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省工務局工政課長・外務書記官・大臣官房文書課長・公務局長・商工次官・商工大臣・衆議院議員・国務大臣・戦後戦犯で巣鴨拘置所入所・衆議院議員・日本民主党幹事長・自由民主党幹事長・外務大臣・首相・国連平和賞受賞・勲一等旭日桐花大綬章・大勲位菊花大綬章)。

 唐沢俊樹(からさわ・としき)内務省警保局長(長野・東京帝国大学法科大学・首席・内務省・警保局図書課新聞検閲主任事務官・警保局保安課長・和歌山県知事・内務省土木局長・警保局長・法制局長官・貴族院議員・内務次官・戦後公職追放・衆議院議員・法務大臣・勲一等瑞宝章)。

 和田博雄(わだ・ひろお)企画院調査官(埼玉・東京帝国大学法学部・農林省・企画院調査官・戦後農林省農政局長・農林大臣・経済安定本部総務長官・参議院議員・社会党入党・衆議院議員・左派社会党書記長・社会党国際局長・社会党副委員長)。

 奥村喜和男(おくむら・きわお)逓信省事務官(福岡・東京帝国大学法学部・逓信省・内閣調査局調査官・企画院調査官・内閣情報局次長・戦後公職追放・東陽通商社長)。

 迫水久常(さこみず・ひさつね)首相秘書官(東京・東京帝国大学法学部・大蔵省・甲府税務署長・外国為替管理法案策定・首相秘書官・大蔵省理財局金融課長・企画院第一課長・大蔵省総務局長・大蔵省銀行保険局長・内閣書記官長・貴族院銀・戦後公職追放・衆議院議員・参議院議員・経済企画庁長官・郵政大臣・鹿児島工業短期大学学長・勲一等旭日大綬章)。

 小金義照(こがね・よしてる)商工省事務官(神奈川・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省鉱山局長・鉄鋼局長・燃料局長・戦後衆議院議員・自由党政務調査会副会長・国会対策委員長・自由民主党資金局長・郵政大臣・勲一等瑞宝章)。

 相川勝六(あいかわ・かつろく)内務省警保局保安課長(佐賀・東京帝国大学法科大学・内務省・警視庁刑事部長・内務省警保局保安課長・宮崎県知事・広島県知事・愛知県知事・愛媛県知事・厚生次官・厚生大臣・戦後公職追放・衆議院議員・自民党治安対策特別委員長)。

 永田少将は、大正九年欧州駐在の後、「国家総動員に関する意見」を書いて高く評価されたが、日本における国家総動員研究の最初の軍人だった。

 永田少将を中心とする国策の新建設は、当然、統制経済を念頭に置いた構想だった。永田少将らの「統制派」という名称は、例えば、池田少佐によると、「経済統制を推進」する集団であるところから、そう呼ばれたという説もある。

 その経済統制を推進する面から、永田少将は、財界の一部と交際した。またグループの幕僚たちも工業倶楽部などに出入りさせて、財界に対する知識を広めさせようとした。

 永田少将の政策に一役買ったものに矢次一夫(やつぎ・かずお・佐賀・父は医師・陸軍省から依頼され国策研究会設立・企画院委員・大政翼賛会参与・戦後公職追放・国策研究会を再建・岸信介首相の特使として日韓国交回復に尽力)の主宰する国策研究会があった。

 「昭和人物秘録」(矢次一夫・新紀元社)によると、著者の矢次一夫は、当時の永田鉄山少将について、次のように述べている。

 「陸海軍をあわせて私が知った将校は無数だが、インテリらしく、いかにも才物らしい鋭さを示した者は稀で、この点では、彼に師事した武藤(章)などまだ及ばずの感が深い」

 「永田が軍務局長として鮮満視察から帰ったあと、相沢に殺される十数日前だったが、一夜会食した席上で、私が視察談を求めたのに答えて、これはごく内密の話であり私見に止まるがと前置きして、関東軍の満州国に対する内面指導は早く打ち切る必要があり、また朝鮮は軍備と外交とを除き、国内自治を許す方向にもっていく必要を痛感したと語ったのである」

 「私はこの話を聞きながら、軍人として話しているというよりも、大学教授と語っているような気がしたし、静かに落ち着いて説く彼に、ありふれた軍人などの持たぬ卓見を聞いたのである」

 「今でこそ(発行当時の昭和二十九年)こんな見解は何でも無いようなものだが、当時としては政界人でもここまでは、個人の意見としても言い切れなかった識見であったのだ」

 「また永田は同じころ、私に、軍人の偏狭独断を匡正するために、広く一般人と交際させるよう計らいたいと思う、それには交詢社とか、日本クラブとか、工業クラブなどに加入するのが良いかも知れない」

 「軍務局とか整備局とか政治や経済を担当している中央部の将校を選抜して、それらのクラブに入会させるのはどんなものであろうか」

 「現役軍人を会員として入会させるかどうか、陸軍でも研究するが、それらのクラブの当事者と相談してもらいたい、と頼まれたことがある」

 「そこで、私はこれのクラブに行き、規約などを集めて、幹部にそれとなく聞き合せていたのであるが、この計画が実現しないうちに、彼は殺されてしまった」。



532.永田鉄山陸軍中将(32)東條少将は、真崎大将に一泡吹かせる意気込みだった

2016年06月03日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和九年三月五日、永田鉄山少将は、第一師団歩兵第一旅団長から、陸軍省軍務局長に就任した。五十歳であった。

 林大将は陸軍大臣になって二ケ月目に永田少将を本省に呼び戻した。一方、小畑敏四郎少将は、中央に戻さず、近衛歩兵第一旅団長から、陸軍大学校幹事にして(三月五日)、遠ざけた。

 だが、真崎大将と林大将はもともと親友だった。また、大正十五年、林中将が東京湾要塞司令官で待命を覚悟していた時、真崎少将が武藤信義教育総監に頼み込み、林中将を陸軍大学校長にしてもらったのだ。

 その真崎大将に配慮して、林陸軍大臣は、真崎派の柳川平助中将を陸軍次官として留任させ、山岡重厚少将を整備局長に、山下奉文大佐を軍事課長として留任させた。

 東條英機(とうじょう・ひでき)少将(岩手・陸士一七・陸大二七・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・陸軍省軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・関東憲兵隊司令官・中将関東軍参謀長・陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍大臣・大将・首相兼内務大臣・兼軍需大臣・兼参謀総長・予備役・A級戦犯で死刑)は、当時陸軍省軍事調査部長をしていたが、陸軍士官学校幹事に転出した。

 東條少将は、反荒木・真崎派で、永田鉄山少将らの「一夕会」の会員である。東條少将は、陸軍士官学校幹事として中央を離れるのだが、勇躍して陸軍省を出た。士官学校は、真崎甚三郎大将の領地だ。東條少将は、真崎大将に一泡吹かせる意気込みだったという。

 ところで、荒木大将から林大将へ陸軍大臣の更迭があった直後、まだ歩兵第一旅団長だった永田鉄山少将を原田熊雄(はらだ・くまお・学習院高等科・京都帝国大学卒・日本銀行・宮内省嘱託・加藤高明首相秘書官・元老西園寺公望の私設秘書官・貴族院議員・男爵)が訪ねてその意見を聞いた。永田少将は次のように語った。

 「まず、荒木大将自身はまことに神様のような立派な人だ。けれども、大将にはいわゆる股肱と頼むような部下があり、また荒木でなければならんとどこまでも主張する頗る偏狭な人が比較的多く取り巻いているため、ある意味からいうと、取り巻きによってまた他から誤解されやすい」

 「簡単に言えば、軍人以外の人でも極右の連中が荒木さんに近づく傾向がある。次に、林大将には股肱と頼むような人は無く、相談相手にするような誰と決まった人も無い」

 「またよくわかる人で、人の言をよく容れる。ただ、惜しむらくは、やはりその周囲に集まる者は政治ブローカーが非常に多い。そのため非常に誤られやすいが、しかし、非常にものの良く分かる人で、実に立派な大臣だと自分は思う」

 「林大臣が大臣になったらば自分なども中央に持っていかれるというように……つまり、自分が林派であるかのように言う人がある」

 「自分は林大将には一度しか会ったことがない。しかも、それも三十分ばかり話したきりで、その後近づいた事は無い」

 「最後に、真崎大将に至っては全く子分の無い人である。しかし、この三大将のいずれが大臣になっても、陸軍が動揺することは決して無い。すなわち、三大将の中の一人がなればいいのだ」。

 これが、永田少将が林大臣に迎えられる以前の感想である。だが、永田少将は林陸軍大臣のもとに軍務局長となり、「林大将には股肱と頼むような人は無く、相談相手にするような誰と決まった人も無い」欠点を永田少将自身が補って、その人となり、「永田軍政」を築いていく。

 軍務局長に就任して以来、永田鉄山少将が、最初にやったのが、国策の研究である。国内政策を整備し、国家総動員的な体制にしようという狙いだった。

 もともと、永田少将は国家改造方式を研究しており、陸軍大学校出身の優秀な幕僚将校を集めて、これに当たらせた。外国留学の経験のある者五名、東大派遣学生の経験のあるもの四名という構成だった。その主要な三名は次の通り。

 陸軍省軍務局課員・池田純久(いけだ・すみひさ)少佐(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍参謀第五課長・関東軍参謀副長・中将・内閣総合計画局長官)。

 陸軍省軍事調査部・田中清(たなか・きよし)少佐(北海道・陸士二九・陸大三七・東京帝国大学文学部・関東軍参謀・長崎要塞参謀・西部防衛参謀・歩兵大佐・台湾軍参謀・中部軍司令部附・予備役)。
  
 参謀本部支那班長・影佐禎昭(かげさ・さだあき)中佐(広島・陸士二六・砲工二三恩賜・陸大三五恩賜・東京帝国大学政治科・上海駐在武官・陸軍省軍務局軍事課満州班長・砲兵大佐・参謀本部支那課長・陸軍省軍務局軍務課長・少将・南京政府最高軍事顧問・第七砲兵司令官・中将・第三八師団長)。










531.永田鉄山陸軍中将(31)当時、真崎大将と永田少将は個人的には依然親交があった

2016年05月27日 | 永田鉄山陸軍中将
 当時、いわゆる怪文書が「永田は財閥と結託していた証拠に、自邸の豪壮さ……」などと書いていたが、デマも愛嬌というべきだが、多数の知らぬ者は、やはりそうかと考えた。

 前述の在郷軍人会の班旗の揮毫について、元来永田鉄山は、揮毫を嫌っていて、地位の向上とともに、各所から揮毫を依頼されることが多くなったが、常に「揮毫の依頼があったら、万年筆なら書きますと言ってくれ、それなら大概退却するだろう」と部下に言って笑っていた。

 ところが、旅団長時代に快諾して書いたという事実があり、これが永田少将の揮毫の唯一のものと言われている。それは郷里、長野県諏訪郡の在郷軍人会玉川村分会第三班の班旗に、班名を書いたものである。

 第三班では、今名声の高い永田少将に班名を書いてもらおうと、村長と在郷軍人会分会長の紹介状をもらって、班長、田中今朝次氏が昭和九年一月十四日、班旗を携えて永田少将の自邸を訪ねた。

 永田少将が揮毫をしないという事を聞いていた、田中氏は必死にお願いした。田中の熱情溢れる口上に耳をじっと傾けていた永田少将は、広げた旗を見ながら、次のように言った。

 「これは立派な旗だ……わしは今日満五十歳になるが、人から揮毫を頼まれても絶対に書かない決心で来ました、ちょうど今満五十歳になったから今までの決心は取り消してもよい。その第一号に軍人の旗を持って来られたことを非常に喜ぶ。がしかし僕の筆は一流あるからこのまま将来まで残るものを染めてよろしいかどうか自信がないから、今年一年だけ手習いする期間を猶予してもらいたい」。

 その後、一年も待たずに、その年の五月十七日、早くも書けたとの通知を受け取った田中氏は、十八日、永田少将の自邸を訪れた。

 永田少将は「十四日に明治神宮に遥拝して筆をとりました。お受け取り下さい」と言って、「帝国在郷軍人会玉川村分会第三班 永田鉄山書」と書いた旗を出し、「何事も国家のためだ、国家のためにいよいよ御健闘下さるようにお伝えください」と付け加えて、田中氏に渡した。

 田中氏は、感激の極みだった。これが永田鉄山の唯一の揮毫のいきさつである。

 ところで、永田鉄山の趣味は、多忙な職務で、没頭する事は無かったが、社会学の研究に興味があり、書物も読み、研鑽し、各専門家の意見も聴いたりした。

 また、幼少の頃から禅門を叩いてその道に精進した。そのほか、囲碁は、最も好んだ趣味で、若年の頃から暇な時に碁を打った。陸軍大学校在学中に、そのために処分を受けたほどだった。

 さらに、謡曲という古典的な趣味もあり、多忙の最中にも、公務の余暇に、その会に出席していた。謡は上手とは言えなかったが、永田独特の特徴を持った謡い振りだった。節廻しが誠に確実で、謡曲本に記されている符号の形そのままの謡い方で、それが永田鉄山の性格をそっくり現していた。

 永田鉄山は、頼まれても揮毫を断り、筆を持つことを嫌ったが、その字は、全く、実印不要の字だと冷やかされる程、明瞭で、あいまいな字は無く、真似のできないものだった。

 酒と煙草は、何といっても永田鉄山の嗜好の第一番であった。若い時から大の煙草好きで、指先を黄色にして、絶え間なく煙を吹かしていた。友人たちはニコチン中毒にかからねばいいがと心配したほどだった。

 酒も大好きで、青年の頃から相当飲んだ。だが、どれ程飲んでも、飲まれることは絶対になかったという。酔うと、「鴨緑江節」を歌ったが、恐らく、唄はこれよりほかは知らなかったと思われる。普通は酔えば気が大きくなり、大声になるのだが、永田鉄山は酔うに従って、ますます小声になったという。

 また若い頃から、永田鉄山は植木に興味があり、寸暇を得ては、庭に出て植木いじりに余念がなかった。永田が中、少尉の頃、私宅を訪ねた友人が、あまりにも庭の植木がキレイなのに驚いて、「庭木屋でも出入りさしているのかね」と尋ねたところ、永田は「植木屋さんは、ここにいるよ」と自らを指して笑ったという。

 植木が好きという事から、永田鉄山の性格は、自然を愛し、凡帳面であったということが言えるが、それにしても、幅の広い多趣味には驚かされる。

さて、昭和九年一月荒木陸軍大臣が病気を理由に辞任し、教育総監・林銑十郎大将が陸軍大臣に就任した。また、教育総監には、軍事参議官・真崎甚三郎大将が就任した。

 「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、荒木陸軍大臣は、自分の後任として、真崎大将を陸軍大臣に推薦したが、閑院宮参謀総長が反対した。それで、荒木大将と林大将の間で取り決め、真崎大将を教育総監に推薦し、閑院宮参謀総長もこれは了承した。

 この当時、真崎大将と永田少将は個人的には依然親交があった。永田少将が軍務局長になる昭和九年三月頃まで、教育総監・真崎大将は永田少将を中核にした陸軍部内の結束を考えていた。
 
 二月になり、林陸軍大臣は永田少将を軍務局長にする事に決めた。この案に、荒木貞夫大将は猛反対したが、林陸軍大臣と協調していた教育総監・真崎大将は、永田少将の軍務局長登用に同意した。