陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

483.東郷平八郎元帥海軍大将(23)秋山中佐は「長官!武士の情けではありませんかッ」と叫んだ

2015年06月26日 | 東郷平八郎元帥
 翌五月二十八日午前六時、ネボカトフ少将の指揮するロシアの補強艦隊は旗艦「ニコライ一世」(九五九四トン)以下五隻でウラジオストック目指して航行していた。だが、午前九時、東郷司令長官の指揮する連合艦隊二十七隻は、その補強艦隊をぐるりと包囲した。

 東郷司令長官の信号により、連合艦隊の巨砲が一斉に火を噴いた。ネボカトフ少将は、勝ち目はないとみて、即座に信号士官に命じて「ワレ降伏ス」の信号旗をマストに掲げさせた。

 だが東郷司令長官はかまわず砲撃を続けさせた。「ニコライ一世」に砲弾が降りそそいだ。東郷司令長官が一向に攻撃中止命令を出そうとしないので、参謀・秋山真之中佐は「長官、発砲を止めたらいかがですか? 降伏信号を掲げています」と進言した。

 双眼鏡で「ニコライ一世」を見つめ続けていた東郷司令長官は「敵艦は動いている」と答えた。秋山中佐は「長官!武士の情けではありませんかッ」と叫んだ。両眼から涙を迸(ほとば)らせていた。敵艦の水兵たちは傷つき、吹っ飛んだりしていた。

 戦いが終われば敵も味方もないではないか。秋山中佐の涙は頬を勢いよく滑り落ちていた。東郷司令長官は秋山中佐の涙を見て、思わず涙ぐんだ。だが、公式には、艦の運動が完全に停止した時でなければ、降伏と認められなかったのだ。

 とうとうネボカトフ少将は「エンジン停止」と命じた。ようやく「ニコライ一世」は完全に停止した。東郷司令長官は発砲停止命令を出した。ネボカトフ少将率いる艦隊は降伏した。一隻は自沈した。

 五月二十八日午前、頭部を負傷したバルチック艦隊司令官・ロジェストヴェンスキー中将は、沈没寸前の旗艦「スワロフ」から駆逐艦「ブイニー」に移され、さらに駆逐艦「ベトビー」に移され、ウラジオストックに向かっていた。

 連合艦隊の駆逐艦「漣(さざなみ)」は「ベトビー」と遭遇し、砲撃を加えた。「ベトビー」は降伏した。ロジェストヴェンスキー中将を乗せた「ベトビー」は佐世保に曳航され、ロジェストヴェンスキー中将は佐世保の海軍病院に収容された。

 日本海海戦の全ての戦闘は、明治三十八年五月二十八日の夕刻、隠岐ノ島の西方海面での小戦闘を最後に、終了した。

 バルチック艦隊司令官・ロジェストヴェンスキー中将は、ロシア皇帝へ、知覚を失った後、艦隊の指揮権をネボガトフに委せた事情を、東郷司令長官を通じて打電した。ロシア皇帝からはフランス公使を通じて、次のような勅電が来た。

 「朕ハ卿及ヒ艦隊ノ全員カ露国及ヒ朕ノ為ニ戦闘ニ臨ミ身命ヲ抛(ナゲウ)チ其ノ任務ヲ尽シタルヲ深ク嘉ス帝ハ卿ニ名誉ノ戦勝ヲ冠スルニ至ラサリシモ卿等不朽ノ勇武ハ向後祖国ノ恒ニ誇トスル所トナルヘシ朕ハ卿カ速ニ全快センコトヲ望ム神ハ卿等ヲ慰藉セラルヘシ、ニコライ」。

 六月三日夕方、東郷司令長官は、秋山中佐を従え、花束を持って、海軍病院にロジェストヴェンスキー中将を、その病室に見舞った。通訳には山本大尉が当たった。

 ロジェストヴェンスキー中将は、頭に包帯を巻き、血の気の無くなった顔に、微笑をただよわせ、半身をベッドの上に起こして東郷司令長官に敬意を表した。東郷司令長官は、そのそばに進んで、ロジェストヴェンスキー中将と握手をして、次のように言った。

 「勝敗は軍人を志した者には常につきまとって離れないものです。敗れたからといって、恥ずる必要はないと思います。要は本分を尽くしたかにかかっています。貴官は有史以来、前例のない一万数千海里に及ぶ航海を、大艦隊を引き連れて遠征して来られました。しかも今日の海戦で貴艦隊の将兵は、実によく勇戦され、感心しております」

 「貴官が重傷を負ってまで敢然として大任を尽くされたのに、小官は心から敬意を表します。当病院は俘虜収容所ではありません。諸事不自由でしょうが、どうか、自重自愛されて、一日も早く速やかに快癒されるよう祈ります」。

 山本大尉の通訳が終わると、ロジェストヴェンスキー中将は、感激して、もう一度、東郷司令長官に握手を求めた。そのあと、涙をこらえながら東郷司令長官に次のように言った。

 「私は名誉の高い貴官に敗れたことを恥としません。貴官の訪問を光栄に思います。貴官の温情は負傷の苦痛を忘れさせたほどです。感激で言葉もありません」。

 明治三十九年、帰国したロジェストヴェンスキー中将は、敗戦の責任を問われ、軍法会議にかけられた。意識を失っていた理由で無罪となったが、官位は剥奪された。その三年後、ロジェストヴェンスキー中将は、日本海海戦で受けた傷が原因で病死した。享年六十歳だった。

 「完全勝利の鉄則」(生出寿・徳間文庫)によると、日本海海戦でのバルチック艦隊三十八隻の損害は、沈没が、戦艦六隻、巡洋艦四隻、海防艦一隻、仮装巡洋艦一隻、駆逐艦四隻、特務艦三隻の合計十九隻だった。

 また、捕獲されたのは、戦艦二隻、海防艦二隻、駆逐艦一隻の合計五隻。抑留は病院船二隻。自沈が巡洋艦一隻、駆逐艦一隻。巡洋艦三隻、駆逐艦一隻、特務艦二隻はマニラや上海などの中立国に逃げ、武装を解除された。

 ウラジオストックに逃げ帰ったのは巡洋艦一隻、駆逐艦二隻、特務艦一隻の四隻だけだった。

 戦死者は四五二四人で、日本海軍の捕虜になったのは、ロジェストヴェンスキー中将以下六一六八人で、ロシアのバルチック艦隊は壊滅した。

 これに対し日本海軍の連合艦隊の損害は、沈没が水雷艇三隻、戦死者一一六人、負傷者五七〇余人で、奇跡のような大勝利だった。

 日本海海戦は、イギリスの著名な戦史家、H・W・ウィルソンが、「ああ、これ何たる大勝利か、陸戦においても、海戦においても、歴史上未だかつて、このような完全な大勝利を見たことがない。実にこの海戦は、トラファルガー海戦と比較してもその規模、遥に大である」と感嘆するほどの空前の大勝利であった。

482.東郷平八郎元帥海軍大将(22)「緒戦に旗艦をたたけ」。これが東郷司令長官の鉄則だった

2015年06月19日 | 東郷平八郎元帥
 明治三十八年五月二十七日午後二時、対馬沖でロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊は距離八千メートルに近づいた。バルチック艦隊は二列縦隊、連合艦隊は単縦隊だった。

 「東郷平八郎」(中村晃・勉誠社)によると、午後二時八分頃、旗艦「三笠」(一五一四〇トン)の艦橋にいた東郷司令長官は、無言で右手を高く上げた。その手が動き、左方に大きく半円を描いた。

 すかさず参謀長の加藤友三郎少将が命令を伝えた。「艦長、取り舵一杯」。左へ百八十度回転せよというのである。これが海戦史に名高い「敵前大回頭」だった。

 これはこれまで前方からバルチック艦隊の右舷側に向かって接近してきたのに、急に敵艦隊の前方を横切ったのち、左百八十度回転して敵艦列の左舷に出て、そこから敵艦と同方向に並列して進む形となった。

 東郷司令長官のとろうとした戦法は「同(並)航戦」である。そのまま連合艦隊が進めば、「反航戦」になることは明らかだった。つまり反航戦はすれ違いに砲撃するから、戦闘時間も短く、敵に決定打を与えにくいという欠点があった。東郷司令長官のねらいは、あくまでも長時間砲撃で敵艦隊を壊滅させることにあったのだ。

 だが、同航戦となれば、自分の受ける損害も大きくなる。東郷司令長官は、それも覚悟の上だった。「肉を切らせて骨を断つ」ことができれば良し、と決断した。

 だが、東郷司令長官には、合理的な成算があった。第一には、バルチック艦隊の艦速が遅いという事だった。石炭の積み過ぎと、老朽艦が多かったのだ。

 第二には、東郷司令長官は連合艦隊の砲撃に絶大な信を置いていた。鎮海湾での訓練状況から見て、命中率の高さは満足できる水準に達していた。さらに、この日の日本海は波が高かった。このような条件下では、必ずその優劣が極立つのだ。

 ほぼ両艦隊が平行して航行するうち、敵味方の距離が六四〇〇メートルに達した時、「三笠」の右舷砲門が一斉に火を噴き、後続する諸艦隊もそれにならった。その標的は、旗艦「スワロフ」(一三五一六トン)と第二艦隊の旗艦「オスラービア」(一二六四七トン)だった。

 「緒戦に旗艦をたたけ」。これが東郷司令長官の鉄則だった。旗艦を失えば、敵は命令系統を欠き、全艦隊が統制ある攻撃に出ることが困難になるのだ。

 両艦隊の距離はますます縮まり、四六〇〇メートルの接近戦となると、連合艦隊の砲撃の命中率も一層高くなった。このことは東郷司令長官が常々口にしている「艦砲射撃は七〇〇〇メートル以内でこそ、その効果が発揮できる」を見事に実証した。

 日本海軍連合艦隊の最初の右舷一斉砲撃で、旗艦「スワロフ」の前方煙突の横に命中して、付近の者は全員戦死した。次の砲撃では、「スワロフ」の司令塔に命中して、司令官・ロジェストベンスキー中将と「スワロフ」の艦長が負傷した。その上、無電装置も破壊されて他艦との通信が不可能になった。

 「スワロフ」の艦上は至る所火の海につつまれ、この世の焦熱地獄を現出していた。これはロシア側では知らなかったが、日本海軍の下瀬火薬の威力だったのだ。この下瀬火薬を使用した砲弾は、敵艦上の何かに触れただけで爆発して凄まじい火焔を発した。

 第二艦隊の旗艦「オスラービア」も火災を起こした。火災はこの二艦だけに限らなかった。連合艦隊の撃ちだす砲弾は他の艦艇にも次々に命中し炸裂した。海戦が始まってから三十分後には、バルチック艦隊の主だった艦艇はことごとく火の海に包まれた。

 連合艦隊の艦砲の命中率は、すさまじいものだった。バルチック艦隊の陣形は大きく崩れ、四分五裂となった。もはや日本海軍連合艦隊の優位は明白となり、東郷司令長官もこのことをはっきり意識した。

 この頃から連合艦隊は砲弾を徹甲弾に切り替えた。この徹甲弾なら、敵艦体の厚い装甲も突き破ることができた。「スワロフ」の後部砲塔はこの徹甲弾二発の直撃を受けて爆発した。砲の一つはねじ曲がって上を向き、砲手全員が死傷した。

 第三弾は艦体の横腹喫水線に命中した。その大きな穴から海水が艦内に濁流のように流れ込んだ。第四弾は中甲板を貫き、第五弾はメーンマストを海に放り出し、煙突の一つがねじ曲がって倒れた。もう一つの煙突は穴だらけになり、基部には火が走っていた。第六弾は、操舵機をめり込ませ、自由に舵を切れなくなった。

 「オスラービア」も次々に被弾し、やがてひっくり返って艦底を見せると、数分とたたぬうちに波間に消えた。艦長はこの時艦と運命を共にした。海戦はなおも続いた。連合艦隊は砲撃の手をゆるめなかった。

 やがて日没を迎えると、午後七時十分、東郷司令長官は攻撃中止命令を出した。戦いは「スワロフ」「オスラービア」など七隻を沈没させた連合艦隊の圧倒的な勝利だった。

 さらに、その夜、連合艦隊の駆逐艦二十一隻、水雷艇四十隻による夜襲で、戦艦「ナワリン」、巡洋艦「ドミトリー・ドンスコイ」は撃沈され、戦艦、巡洋艦など三隻が大破した。また、戦艦「モノマフ」と「シソイ・ベリキー」は対馬海峡で捕獲を免れるため自沈した。

481.東郷平八郎元帥海軍大将(21)我が連合艦隊の半分を沈めるつもりで、バルチック艦隊をたたけ

2015年06月12日 | 東郷平八郎元帥
 日露戦争中、明治三十八年五月二十七日、二十八日に行われた日本海海戦は、東郷平八郎大将率いる日本海軍の連合艦隊と、ロジェストヴェンスキー中将が率いるロシア海軍のバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の間で行われた対馬沖海戦である。

 「連合艦隊」(吉田俊雄・秋田書店)によると、日本海海戦の前、内地出港直前に連合艦隊司令長官・東郷平八郎海軍中将は次の二人と面会した。

 海軍大臣・山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ)海軍中将(鹿児島市鍛治屋町・海兵二・巡洋艦「高雄」艦長・海軍省主事兼副官・少将・軍務局長・中将・海軍大臣・男爵・大将・海軍大臣・首相・予備役・退役・首相・伯爵・従一位・大勲位・功一級)。

 軍令部長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)海軍大将(鹿児島市清水馬場町・江戸幕府の洋学教育学校「開成所」卒・勝海舟の神戸海軍操練所卒・薩英戦争・戊辰戦争・明治維新後海軍大尉・通報艦「春日」艦長・少佐・スループ「日進」艦長・中佐・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀造船所長・横須賀鎮守府次官・英国出張・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備小艦隊司令官・第一局長・海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部長・子爵・大将・軍事参議官・元帥・伯爵・従一位・大勲位・功一級)。

 山本海軍大臣と伊東軍令部長は、東郷司令長官に対して、「日露の新建造艦の状況は日本が遥に有利である」と力説し、「我が連合艦隊の半分を沈めるつもりで、バルチック艦隊をたたけ。あとは心配無用だ」と言って激励した。

 その激励は、東郷司令長官を勇気づけはした。だが、東郷司令長官は、そんなことで、離れわざみたいな投機的な戦をする軍人ではなかった。東郷司令長官は黄海海戦で次のようなデータを概略ではあるが、つかんでいたのである。

 「ロシアは、味方が三発撃つうちに、一発しか撃てない。つまり、射撃速度は味方の三分の一である。命中率は味方の三分の一にも達しない」

 「敵弾は命中しても大火災を起こす能力はない。弾丸の威力は、強烈な下瀬火薬を一四パーセントも填めている日本に対し、ロシア硝化綿火薬を二・五パーセントしか填めていない。その威力を加味した実効戦力は、ロシアは日本の十分の一に過ぎない」。

 さらに東郷司令長官は、「敵味方の距離八〇〇〇メートルでは、回頭中に受ける被害はゼロに等しい」と略算して、日本海海戦では、トーゴ―ターン(敵前大回頭)を断行して勝利に導いた。

 「合理的で、非投機的で、しかも堅実」であるのが、東郷司令長官の身上だった。だからこそ、大バクチに見えるトーゴ―ターンが、実は成功率一〇〇パーセントの、最も合理的な戦法だったのである。

 東郷司令長官は、その一〇〇パーセント成功の秘策を胸に、「いつ、どこで、それを実行するか」と、その時機を、じっと待っていたのだった。

 「勝負と決断」(生出寿・光人社)によると、明治三十八年五月二十七日午後一時三十九分、日本の連合艦隊は、対馬東水道で、左舷南方約一一〇〇〇メートルに、もやの中から現れて来たバルチック艦隊の艦影を認めた。

 旗艦「三笠」の露天艦橋で、東郷司令長官は、右手にツァイスの双眼鏡、左手に長剣を握り、身じろぎもせず、一言も口をきかず、敵艦隊を注視し続けた。

 午後一時四十五分バルチック艦隊は全容を現した。先任参謀・秋山真之中佐が東郷司令長官に近づき、「先刻の信号ととのいました。直ちに掲揚いたしますか」と訊ねた。東郷司令長官は肯いた。

 午後一時五十九分、黄、青、赤、黒の四色のZ旗が「三笠」の艦橋のすぐ後ろのマストに、強風にあおられながらひるがえった。これが有名な「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ 各員一層奮励努力セヨ」というZ旗だった。

 戦闘が開始されたのだ。秋山中佐が東郷司令長官に「司令塔の中に入ってください」と言った。司令塔は厚い鋼板でおおわれ、砲弾の弾片などは跳ね返すのだ。だが、東郷司令長官は「ここにいる」と答えた。

 副官・永田泰次郎(ながた・やすじろう)中佐(東京・海兵一五・六十三番・三等駆逐艦「薄雲」艦長・少佐・常備艦隊副官・中佐・連合艦隊副官・戦艦「石見」副長・第五駆逐隊司令・第一駆逐隊司令・大佐・巡洋戦艦「鞍馬」艦長・舞鶴鎮守府参謀長・戦艦「摂津」艦長・少将・第二艦隊参謀長・横須賀鎮守府参謀長・臨時南洋群島防備隊司令官・中将・予備役・神戸高等商船学校校長・功三級)も東郷司令長官に「中に入られるよう」頼んだ。

 さらに、参謀長・加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)少将(広島市中区・海兵七・次席・海大甲号一・砲艦「筑紫」艦長・大佐・軍務局軍事課長・軍務局第一課長・常備艦隊参謀長・第二艦隊参謀長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・首相兼海軍大臣・元帥・子爵・正二位・大勲位・功二級)も頼んだ。

 だが、東郷司令長官は「私は年を取っているからいい。ここにいる若い君たちはみんな、中に入れ」と言って、動かなかった。東郷司令長官は五十八歳だった。ちなみに参謀長・加藤少将は四十四歳、副官・永田中佐は三十九歳、先任参謀・秋山中佐は三十七歳だった。

 ちなみに、イギリスのホレーショ・ネルソン提督(ノーフォーク出身・十二歳で海軍入隊・少尉昇進試験に合格・二十歳で艦長・最先任艦長・地中海でフランス艦と初戦闘・コルシカ島で陸上戦闘を指揮し負傷・右目を失明・地中海艦隊戦隊司令官・スペインの戦闘艦二隻を拿捕しバス勲爵士を授与される・少将・テネリフェ島攻略に失敗・右腕を負傷切断・ナポレオンのフランス艦隊を撃滅・男爵・青色艦隊中将・副司令官・子爵・地中海艦隊司令官・白色艦隊中将・トラファルガー海戦でフランス・スペインの連合艦隊二十七隻を撃滅するが自身も戦死・英国国葬)は、一八〇五年十月二十一日、トラファルガー海戦でフランス・スペインの連合艦隊と戦ったとき、四十七歳だった。

 だが、「英国は各人がその義務を尽くすことを期待する」という信号を掲げ、フランス・スペインの連合艦隊を破り、自分は戦死した。
 
 そのネルソン提督の最後の言葉は、「神様ありがとうございました。私は自分の義務を果たしました」というものであった。

480.東郷平八郎元帥海軍大将(20)我が帝国の国旗に敵対する者に弔電を発することはできない

2015年06月05日 | 東郷平八郎元帥
 世界的にも有名で、ロシア海軍屈指の名将、マカロフ中将の司令長官就任は、日本の連合艦隊にとっては、脅威であった。

 旅順港口閉塞作戦に失敗した、東郷平八郎司令長官は、四月七日、部下の進言を受け、旅順港口外に機械水雷を沈置することを命じた。

 命令を受けた機雷敷設隊は、密かに行動し、四月十二日夜、予定の場所に敷設を終えた。

 四月十三日の早朝、マカロフ中将の将旗を翻した戦艦「ペテロバウロフスク」を先頭に、戦艦「セバストポリ」、二等巡洋艦「アスコリド」「ディアーナ」、二等巡洋艦「ノーウィック」、それに駆逐艦九隻、最後に戦艦「ポベーダ」という陣形の大艦隊が旅順港口を出てきた。

 司令官・出羽重造少将の率いる、旗艦の二等巡洋艦「千歳」ら第三戦隊はこの大艦隊に攻撃をかけ、砲撃戦が始まった。第三戦隊は砲撃を交えながら、連合艦隊主力の待つ沖の方へ、マカロフ中将の艦隊を誘い出す作戦だった。

 東郷平八郎司令長官率いる連合艦隊主力は、旅順港口南方一五カイリ(約二七キロ)のところで、マカロフ中将の艦隊を待ち受けていた。

 ところが、待ち受けている連合艦隊主力を発見した、マカロフ中将の艦隊は、まるで魔物でも見たように、一戦も交えず、くるりと反転して、引き返して行った。

 マカロフ艦隊は、要塞砲の射程内の旅順港口近くまで、下がると、旗艦「「ペテロバウロフスク」を先頭に反転にかかった。要塞砲の援護射撃を受けながら、東郷艦隊と決戦する作戦だったのだ。

 だが、反転にかかった、その瞬間、マカロフ中将が座上する旗艦、戦艦「ペテロバウロフスク」が大爆発を起こした。日本海軍が敷設した機械水雷に触れたのだった。海水が艦体を包むように吹き上がった。

 続いて二回、三回、四回と爆発が起こった。二回目は「ペテロバウロフスク」の艦内に格納してあった十八個の水雷が誘爆したものだった。三回目の爆発は、総汽缶が破裂し、四回目は、弾火薬庫内の全てが爆発した。午前十時三十二分だった。

 待ち受けていた、連合艦隊旗艦の戦艦「三笠」艦橋から、東郷平八郎司令長官が愛用するツァイスの双眼鏡で見ていると、「ペテロバウロフスク」は右舷に傾いて沈没した。

 この「ペテロバウロフスク」爆沈で、高名な名将、太平洋艦隊司令長官・マカロフ中将は戦死した。ロシア海軍は、屈指の人材を失ったのである。東郷司令長官が敷設を命じた機械水雷によって。

 「ペテロバウロフスク」爆沈による戦死者は、司令長官・マカロフ中将、参謀長・モーラス少将、参謀・アガベーエフ大佐以下、士官三十一名、下士官・兵など六百三十余人だった。

 これはロシア海軍にとって、致命的な大惨事だった。日本海軍に例えれば、旗艦「三笠」が爆沈し、東郷司令長官、島村参謀長、秋山作戦参謀を始め乗員六百余名が戦死したことになる。

 このことから、ロシアにとって、どれほどの大損失であったか、明らかだろう。この「ペテロバウロフスク」の爆沈で、ロシア海軍の敗北が決定したと言ってもよい位だ。

 東郷平八郎は、この「ペテロバウロフスク」爆沈について、二十年後の大正十三年六月十八日、海軍大学校において、学生らに次のように語った。

 「あの機雷敷設は非常な大成功で、翌日の昼頃(実際は午前十時三十二分)と思うが、東郷が見ておると、案のごとく、確かに旗艦が爆沈するのを見た。それで、一人で万歳を唱えた」

 「食事のとき、『旗艦が爆沈し、右舷に傾いて沈んだ』と言ったら、誰もこれを確信する者がなかった。前進根拠地の海州邑(朝鮮半島西岸で北緯三十八度線が通るところ)に行ってみると、大本営からマカロフ戦死の電報が来ていた」

 「このとき、艦隊長官として弔意を表したらどうかという意見もあったが、日本国に弓を引いた者なるが故に、私はやらなかった」。
 
 また、昭和八年には、海軍大学校で、学生らに対して次のように語っている。

 「秋山参謀が弔電を発しては、と申し出たが、自分は、我が帝国の国旗に敵対する者に弔電を発することはできないので、やめさせた」。

 東郷平八郎は海軍大学校の学生らに対して、責任を以って語ったのであろうから、それが東郷元帥の本心であったと考えられている。東郷が仕掛けたワナに、マカロフが落ちて死んだのに、「まことに残念でありました」とは、言えなかったのだろう。