陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

261.今村均陸軍大将(1)軍人になるなど思いもよらなかったし性格が軍人に向いているとも思わなかった

2011年03月25日 | 今村均陸軍大将
 明治二十五年、六歳の今村均は甲府に近い鰍沢町に住んでいた。「責任ラバウルの将軍今村均」(角田房子・新潮社)によると、夏祭りには富士川の岸近くの空き地に掛け小屋が建ち、軽業が行われた。

 六歳の均は女中のまつにせがんで何度も軽業を見に行った。一座の中に均と同じ位に見える子供がおり、均は彼に心をひかれ、いつかその子供と遊びたいと思うほどの親しさを感じていた。

 ある日、その子供が角兵衛獅子三人の組に加わり、太鼓の音に合わせて宙返りや逆立ちを演じているうち、頭に載せている赤い獅子頭を落としてしまった。

 傍らの大人にひどく怒鳴りつけられ泣き顔で芸を続けるその子供を見て、均は泣きそうになった。芸が終わり小屋の外に出ると、さっき叱られた子供が絵看板の下にしゃがんで泣きじゃくっていた。

 均が女中のまつに「まっちゃん、どうして泣いているのか聞いてきて」と言った。だが、まつは振り向きもせず、足を早めた。「早く帰って、夕ご飯の支度をしなければ…」。

 均は彼女に追いすがり、また同じことを頼んだ。まつは「軽業の子はみんな捨て子なのよ。捨て子なんかどうでもいいじゃないの」と言った。

 均が「捨て子って何?」と言うと、「いらないから捨てられた子よ。それを軽業の一座が拾って芸を仕込むの」。

 いよいよ足を早めるまつに、均はいきなり飛びかかり、彼女の頬を二度、三度と殴りつけた。「ま、坊ちゃん、何をするの!」。「捨て子だなんて…ひどいよ。かわいそうじゃないか」。怒ったまつは、均を置き去りにして帰ってしまった。

 均は、母に手の甲をつねられ厳しく叱られた。均がすぐにカット腹を立て、手を出すのはいつものことだったが、この日は軽業の子を慰めてやるすべのない悲しさが、彼を特に強情にしていたのだ。母親に叱られても、ついに均はまつに謝らなかった。

<今村均(いまむら・ひとし)陸軍大将プロフィル>

明治十九年六月二十八日宮城県仙台市生まれ。父の裁判官・今村虎尾と母・清見の七番目の子。均の下にさらに三人の弟妹がいる。
明治三十七年(十八歳)三月新発田中学を首席で卒業。東京に出て第一高等学校から東京帝国大学または東京商高(後の一橋大学)を目指して受験勉強に励む。五月父の死により、第一高等学校を断念、陸軍士官学校を受験、合格。
明治三十八年(十九歳)七月陸軍士官候補生。
明治四十年(二十一歳)五月三十一日陸軍士官学校卒業(一九期)。六月仙台の第二師団歩兵第四連隊見習士官。十二月二十六日陸軍歩兵少尉・第四連隊第十二中隊附。第四連隊旗手。
明治四十三年(二十四歳)四月第二師団朝鮮羅南に移駐。十一月陸軍歩兵中尉・第十二中隊附。
大正元年十二月陸軍大学校入校。
大正四年(二十九歳)十二月十一日陸軍大学校(二七期)を首席で卒業、大正天皇の御前講演。第四師団歩兵第四連隊第十中隊長。
大正五年(三十歳)八月陸軍省軍務局歩兵課。
大正六年(三十一歳)五月陸軍歩兵大尉。金沢の名士、千田登文の三女、銀子と結婚。
大正七年(三十二歳)四月英国駐在(歩兵第三十三連隊附)、十月英国大使館附武官補佐官。
大正九年(三十四歳)六月英国駐在。
大正十年(三十五歳)八月参謀本部員。
大正十一年(三十六歳)八月陸軍歩兵少佐。
大正十二年(三十七歳)四月元帥陸軍大将・上原勇作附副官(兼任)。
大正十五年(四十歳)八月陸軍歩兵中佐、歩兵第七十四連隊附。
昭和二年(四十一歳)四月九日インド公使館附武官。十一月十五日軍務局課員。
昭和五年(四十四歳)八月一日陸軍歩兵大佐、軍務局徴募課長。
昭和六年(四十五歳)八月一日参謀本部作戦課長。
昭和七年(四十六歳)四月十一日歩兵第五十七連隊長。
昭和八年(四十七歳)八月一日陸軍習志野学校幹事。
昭和十年(四十九歳)三月十五日陸軍少将、歩兵第四十旅団長。
昭和十一年(五十歳)三月二十三日関東軍参謀副長、駐満州国大使館附武官(兼任)
昭和十二年(五十一歳)八月二日陸軍歩兵学校幹事。
昭和十三年(五十二歳)一月二十七日陸軍省兵務局長。三月一日陸軍中将、十一月二十一日第五師団長。
昭和十五年(五十四歳)三月九日教育総監部本部長。
昭和十六年(五十五歳)六月二十八日第二十三軍司令官。十一月六日第十六軍司令官。
昭和十七年(五十六歳)十一月九日第八方面軍司令官。
昭和十八年(五十七歳)五月一日陸軍大将。
昭和二十一年(六十歳)四月ラバウル戦犯者収容所に入所。
昭和二十二年(六十一歳)五月オーストラリア軍による軍事裁判判決(禁錮十年)。
昭和二十三年(六十二歳)五月インドネシアのジャワ島移送。
昭和二十四年(六十三歳)十二月オランダ・インド軍による軍事裁判判決(無罪)。
昭和二十五年(六十四歳)一月インドネシアより帰国。二月ニューギニアのマヌス島で服役することを自ら申し出る。三月マヌス島で服役開始。
昭和二十八年(六十七歳)八月マヌス島刑務所閉鎖により、日本の巣鴨拘置所に移送。
昭和二十九年(六十八歳)十一月刑期を終え、巣鴨拘置所を出所。
昭和三十二年(七十一歳)偕行社(旧陸軍正規将校同窓会に相当)の理事長に就任。
昭和四十年(七十九歳)偕行社の理事長辞任。
昭和四十三年十月四日、心筋梗塞で死去。享年八十二歳。

 陸軍大尉の娘である今村均の母は、彼の欲しがる錦絵を何枚でも買い与えた。その中の一枚に、片手に赤ん坊を抱き、片手に日本刀を振りかざした将校の姿があった。

 均がそれを学校に持っていくと、先生が、「これは支那の避難民が捨てた赤ん坊を救い、それを抱いて優先奮闘した松崎大尉だ。国と国とは闘っていても、相手国の軍人でない人々をいたわるのが、日本人の本当の心だよ」と言った。そして、オルガンを弾き、「松崎大尉の歌」を教えてくれた。

 均は、すっかりこの歌が好きになり、一人で教壇に立ち、顔を真っ赤にして声を張り上げて歌った。唱歌は得意の科目だった。

 後年、今村均は、バタビアの獄舎で、「……吾は大和のまずらおぞ左手(ゆんで)に敵のみなしご抱(いだ)き右手に振わん日本刀」と歌って、子供の頃を懐かしんだ。

 明治三十七年二月、日露戦争勃発。三月今村均は、新発田中学を首席で卒業した。数日後、均は高熱で寝込んでいる裁判官の父、虎尾に進学の相談をした。

 均は「一高から東京帝大へ進んで法律を学ぶか、または東京高商で経済を学びたい」と述べた。「それをいけないとはいわないが…」と父は答えた。「わしは以前から、仙台の二高の文科がいいと思っていたが…」。父は、自分の意見を押し付ける人ではなかった。

 四月上旬、均は東京に出て、父の異母弟の家に身を寄せ、第一高等学校(現在の東大の前身)を志望して勉強に励んでいた。

 五月二十八日、「父危篤、すぐ帰れ」の電報が届いた。均は急いで家に帰り着いたが、父の虎尾は死去していた。均は、人の世にはこんなに悲しいことがあったのか、と涙に暮れた。

 均の他に七人のこどもがおり、一番下はまだ四歳だった。そこで母の清見は均に学費のいらない陸軍士官学校への入学を強く勧めた。

 「将軍の十字架」(秋永芳郎・光人社)によると、越後の富豪、五十嵐甚造が今村均に大学までの学費を給与してくれるという申し出があった。

 だが、母の清見から、「他人のお情けで学問を続けることは、よくない。今日本はロシアと戦争をしている。あなたの祖父は父方も母方もどちらも軍人だった。現役を志願するなり、士官学校に入るなりして、戦場で働きなさい」と言う趣旨の手紙が来た。

 さらに陸軍士官学校の入学願書はすでに出しておいたとも言ってきた。均は軍人になるなど思いもよらなかったし、自分の性格が軍人に向いているとも思わなかったので、悩みに悩んだ。

260.山口多聞海軍中将(20)一艦、一戦隊の沈没や敗辱の責は、一将にとって死に勝るものである

2011年03月18日 | 山口多聞海軍中将
 山口少将の持論は他を制する卓見だった。これはすぐにも実現できる構想だった。「なるほど」、山本大将がうなずいた。宇垣参謀長の当日の日記には「なかなか活気も出て、収穫も多し」とある。

 だが、山口少将のような抜本的改革案は他にはなく、連合艦隊参謀の三和義勇中佐(海兵四八・海大三一次席)は「皆勇者で、智者のようなことを言っているが、失敗も相当、多いであろうに」と不安を覚え、日記に記している。

 そして、山口少将の提案はいつも間にか、うやむやになってしまった。飛行隊総指揮官の淵田美津雄中佐は、「保守はいつの世にもスローモーションである。こんどのミッドウェー作戦に、山口少将案は採用されるに至らなかった」と無念の思いを述べている。

 山口少将は不本意であった。山本長官が、なぜもっと強く押してくれないのか。疑問が残った。山本長官は真珠湾攻撃の成功で、いまや神格化されており、山本長官自身、心の中に隙があったとも言われている。

 山口少将の案でいけばミッドウェー作戦は勝利していたかもしれないのだが、あるいは、この当たりが山本五十六の限界であったかもしれない。だが、当時、日本海軍を引っ張るのは山本五十六大将以外にはいるはずもなかった。

 このような状況で、昭和十七年六月五日から七日にかけて、ミッドウェー海戦は行われた。日本海軍は大敗した。精鋭空母四隻と多数の飛行機と搭乗員を失った。空母「加賀」「蒼龍」は撃沈され、「赤城」と山口少将の座上する「飛龍」は大破し自沈した。

 最初の敵の攻撃で、ただ一隻「飛龍」のみが被害を免れた。山口少将は、すかさず、「我れ、今より航空戦の指揮をとる」と、攻撃機を発進させた。

 「飛龍」の攻撃隊は敵空母「ヨークタウン」を爆撃、大破させ仇を討った。だが、その後敵の二隻の空母「エンタープライズ」「ホーネット」から飛び立った攻撃機により「飛龍」も攻撃を受け、大破、自沈した。

 「父・山口多聞」(山口宗敏・光人社)によると、昭和十七年初夏の頃、牛込北町の山口の家に、電気冷蔵庫の修理に来ていた近所の電気屋が、妻の孝子に「奥さん、ご主人は大丈夫ですか?」と、執拗に尋ねていたという。

 孝子はそんなことは取り合わなかった。孝子にはその時点でまだ何も知らされていなかった。だが、この電気屋は、当時、絶対に禁止されていたアメリカの短波放送をこっそりと聞いていたのだろう。

 孝子が心配になって海軍省に問い合わせたところ、「閣下は、出撃方面が違いますから、どうぞご安心ください。お元気ですからご心配はいりません」というばかりで、始終その態度は変わらなかったという。

 だが、その年の秋ころになると、ミッドウェー海戦は、どうも日本側の大敗だったらしいという噂が巷に流れ始めた。

 昭和十七年六月六日午前六時六分、空母「飛龍」は自沈したが、山口多聞司令官と加来止男艦長は退艦せずに「飛龍」と運命を共にして戦死していた。

 「炎の提督・山口多聞」(岡本好古・徳間書店)によると、自沈の前に、第十駆逐隊司令の阿部俊雄大佐(海兵四六)が、空母「飛龍」に乗り込んできた。阿部大佐は阿部弘毅海軍中将(海兵三九・海大二三)の弟だった。

 阿部大佐は、艦と共に沈もうとする山口少将に、直立不動の姿勢で、「海軍と我々には、司令官、あなたこそかけがえのない先輩です」と言い、と血を吐くような気迫で、次の様に言って翻意をうながした。

 「二艦喪う責任の重みも、一将喪う嘆きにはとうてい叶いません。七生報国とは、七度死しても七度生まれ変わるのではなく、七度の死線を克服して、生きのびることではありませんか」。

 これに対して、山口少将は、昂ぶる青年を鎮静させる翁のような微笑で「私は責任を完うする。これは私が満足し、最善と思う方法をとるだけだ」と答えた。そして次の様に言った。

 「阿部大佐、この戦争は、あと二、三年は非常な激戦の形で続くと私は思う。その間、君も私やこの加来艦長と同じ立場になるかもしれない。その時、一艦、一戦隊の沈没や敗辱の責は、一将にとって死に勝るものであることが分かるだろう。敗勢が己の不徳によることなく、たとえ渾身の善戦をなして悔いることなくてもだ。古来、海将にとって艦とはそのようなものではないか」。

 その阿部大佐は、後に巨大空母「信濃」の艦長に任命されたが、昭和十九年十一月二十九日、アメリカ潜水艦の雷撃で「信濃」は沈没した。阿部大佐は、乗組員を救助することに全力を尽くした後、艦と運命を共にした。戦死後海軍少将に特進した。享年四十九歳だった。

 「戦藻録」の六月六日の日記に、連合艦隊参謀長・宇垣纏少将は次の様に書き残している。

 「級友山口多聞少将と航空の権威たる加来止男大佐を失ふ。痛恨限り無し。山口少将は剛毅果断にして見識高く(中略)余の級中最も優秀の人傑を失ふものなり。(中略)司令官の責任を重んじ、茲に従容として運命を共にす。其の職責に殉ずる崇高の精神正に至高にして喩ゆるに物なし(攻略)」。

 山口多聞少将は、四十九歳十ヶ月の生涯を終え、六月五日付で中将に進級した。また昭和十八年四月二十二日には武功抜群により功一級金鵄勲章が授与された。少将で功一級を授けられた前例はなかった。

(「山口多聞海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「今村均陸軍大将」が始まります)

259.山口多聞海軍中将(19)「山口君、日本人は外交が下手だねえ」と山本大将はビールを飲み干した

2011年03月11日 | 山口多聞海軍中将
 山口少将は、山本五十六大将がいつもと違って、どこか焦っているような印象を受けた。気を利かせて首席参謀の黒島亀人大佐(海兵四四・海大二六)が席を立つと、山本大将はソファに身を沈めて次の様に言った。

 「山口君、いまが休戦の潮時だけどねえ」

 山本大将は近衛前総理に「一年か一年半は暴れてみせます」と言ったが、まだ半年である。山口少将は山本大将がいささか弱気なので驚いた。

 続けて山本大将は「しかし、その機運はないな。君は南方作戦に疑義ありと言っていたそうだな。真にその通りだが、私の意見が通らず、君らを南方に出す羽目になった」と苦しい胸のうちを語った。

 そして「そこでミッドウェーで勝負を賭ける。六月には出撃したいが、どうだね」と言った。

 山口少将は「それは、どうでしょうか。率直に申し上げれば、時間がたりません」とはっきり答えた。

 真珠湾攻撃が成功したのは、何年にも及ぶ緻密な戦略ともう訓練の結果だが、勝敗の決め手は奇襲だった。今は、全く事情が違う。

 米国太平洋艦隊は、キンメル提督を首にして、国の威信をかけて巻き返しに出ようとしているはずだ。真珠湾の場合は、そこに停泊する艦艇の名前まで知っていた。

 だが、今は米国に日本の諜報機関は存在せず、情報は途絶えている。米軍の暗号解読も進んでいない。しかも敵の提督、ミニッツは、なかなかの男と聞いていた。

 実戦を指揮するハルゼーは、自ら操縦桿を握るパイロット出身だ。山口少将は、いまは米国に対して、侮れぬものを感じていた。
 
 連合艦隊と言っても、空母を中心とする機動部隊は、第一航空艦隊しかない。その司令塔である南雲長官は、肝心なときに黙ってしまい、航空のことは源田参謀に任せてしまう。

 山口少将は非常な危機感を抱いた。だが山本大将は「山口君、実は決まっているのだ」と言った。その時、ノックをして黒島首席参謀が入ってきた。昼食の時間だった。

 参謀たちも入ってきて、昼食になった。「山口君、日本人は外交が下手だねえ」と山本大将はビールを飲み干した。そして次の様に言った。

 「いいか、米英の連中がやったことを日本人はやってきただけだよ。日本人を野蛮人と言って非難しているが、自分たちはどうだというんだ。軍隊と大砲でシナに攻め入り、フィリピンを奪い取ったではないか。満州は君、国際法にのっとって建設した国だよ」

 「その根底には、白人は黄色人種より上だという思い上がりがある。それをこらしめてやったのが、どうも評判が悪い。付き合い方が下手なんだ」

 これには山口少将も同感であった。同じことをしていて、何故日本だけが、という思いは山口少将にもあった。いうなれば「ジャパン・バッシング」(日本叩き)だった。

 だが、米国は強大な資源国家だ。その中枢となる太平洋艦隊を破るには、少なくとも半年の準備がいると思った。最低でも三ヶ月はほしい。

 ミッドウェー出撃が決まった以上、山口少将は、今度は生きて帰れぬと直感した。山口少将は、今回は、旗艦を空母「蒼龍」から「飛龍」にした。とくに意味はなかったが、そうした。

 山口少将は「飛龍」の母港、佐世保に行った。会うなり「飛龍」の加来艦長は「司令官、どうも困ったもんです」と眉をひそめて山口少将に言った。

 山口少将が「何かね」と言うと、加来艦長は「実は次はMだそうですねと、水兵まで言っておる。これでは敵に筒抜けですな」。

 「何だって」。これでは山口少将も駄目だと思った。たかだか真珠湾で勝っただけで、上から下まで慢心している。由々しき事態だと山口少将は思った。

 だがミッドウェーはもう決定している。山口少将は考えた。ミッドウェー海戦で、米国太平洋艦隊を海の藻屑にしてしまえば、アメリカも割に合わない戦争に疑問を感じよう。

 日本の政治家も馬鹿ばかりではあるまい。休戦交渉が可能になろう。「そんな気の利いた政治家は、もはやいないよ」と山本大将は悲観的なことも言っていたが、ミッドウェーで勝てば、山本大将の発言力も強くなる。そこに期待することも可能だ。だからいかにして勝つか、山口少将も必死だった。

 四月二十八日から二日間にわたって「大和」で、第一回のミッドウェー作戦の研究会が行われた。攻略期日も六月七日と決まった。

 活発な議論があり、山口少将も立ち上がって、考え抜いた持論を述べた。それは次の様な論旨だった。

 「ここは日米両国の決戦と見なければならない。従来の艦隊編成を抜本的に改め、空母を中心とする機動部隊を編成し、空母の周辺には戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、敵機の襲来に備え、少なくとも三機動部隊を出撃させるべきである」

258.山口多聞海軍中将(18)僕は山本さんを信じておったが、こんなことをやっていたのでは勝てぬぞ

2011年03月04日 | 山口多聞海軍中将
 のどかな南海の島で、安閑と時を過ごし、さほど海軍力のないオーストラリアを相手に戦争をするのは、どうやら間違いだったようだ。山口少将もそう思った。

 そのうちに、空母「翔鶴」と「瑞鶴」が戦列に復帰した。南雲機動部隊は、インド洋に入り、セイロン島のコロンボ港の攻撃に移ることになった。

 「敵巡洋艦二隻見ゆ」。索敵中の偵察機から電文が入った。「蒼龍」飛行隊長・江草隆繁少佐は、「司令官、やっと獲物にありつけましたよ」と山口少将に言って、艦爆隊を率いて「蒼龍」から飛び上がっていった。

 発艦後一時間で、英国東洋艦隊の巡洋艦「コンウオール」と「ドーセットシャー」を発見、攻撃に移った。

 江草少佐が真っ先に急降下して、一番艦の後部に直撃弾を命中させた。江草少佐は「飛龍は二番艦をやれ」、「赤城は一番艦をやれ」と指示を出した。その十数分後に英国東洋艦隊の二隻の巡洋艦は撃沈された。

 四月九日には英国の空母「ハーミス」を撃沈した。だが「蒼龍」の艦爆も四機やられた。「蒼龍」飛行隊長・江草少佐にとって、英国の古い空母など本当はどうでもよかった。

 「あいつらは犬死ではないか。我々は米空母を攻撃するために苦しい訓練に堪え、ここまで来たのだ。インド洋くんだりで命を落とすとは」と江草少佐は思った。

 司令官・山口少将は、一人ぽつんと飛行甲板にたたずむ江草少佐をいち早く見つけ、司令官室に呼んだ。

 「つらいな。貴様の気持ちはよく分かる。一杯やらんか」と山口少将はウイスキーを勧めた。「みんないい奴らだった。なんで、こんなところで」と江草少佐は泣いた。そして吼えるように、次の様に言った。

 「司令官、我々はいつ米国機動部隊に攻撃をかけるのですか。我々の敵は米国です。英国や豪州と小競り合いをやったところで、何になるんですか。大局を見誤っているのではないですか」。

 ここ何年も、搭乗員たちと暮らしてきた山口少将は、一人一人の顔が走馬灯のように、浮かんでは消えた。山口少将は、パイロットではないが、パイロットの心理を最もよく理解していた司令官だった。

 いつも出撃のとき、「死んでこい」とハッパをかけたが、ひるむと逆にやられるケースが多いためだった。だから、心を鬼にして「死んでこい」と言い続けた。

 この日の午後、敵の双発爆撃機九機が飛来し、空母「赤城」の右後方に爆弾を投下した。投下されるまで誰も気づかなかったのである。すんでのところで「赤城」は被弾するところだった。

 油断であった。上空の零戦がすぐ追いかけ、六機を撃墜した。だが、「飛龍」分隊長・熊野澄夫大尉が戻らなかった。

 真珠湾では第二次攻撃隊の分隊長として「カネオヘ」飛行場を銃撃し、米軍機を炎上させた責任感の旺盛な青年士官だった。

 若く前途有望な青年が、戦争とはいえ、瞬時に命を失っていくのは慙愧の至りだった。この頃から淵田中佐の顔色が、さえなくなった。

 淵田中佐が、暗い顔で次のように言っているのを、何人かが聞いていた。

 「僕は山本さんを信じておったが、こんなことをやっていたのでは、勝てぬぞ。早くここを引き揚げて、米国機動部隊との決戦に備えねば、間に合わぬぞ。馬鹿な参謀どもが取り巻いているからだ。山口さんに頼むしかない」。

 昭和十七年四月二十二日、第二航空戦隊は五ヶ月ぶりに母港の呉と佐世保にもどってきた。「蒼龍」は呉、「飛龍」は佐世保が母港である。

 山口少将は戦闘日誌等の処理が終わると、岩国の柱島に停泊中の戦艦「大和」に向かった。連合艦隊の旗艦は昭和十七年二月十二日から「長門」から「大和」に代わっていた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、すこぶる元気だった。そして山口少将に次のように言った。

 「大変、ご苦労をかけた。少しゆっくりしてもらいたいところだが、東京が空襲されたとあっては、太平洋艦隊を引きずり出して決戦を挑むしかあるまい」。

 山本大将の言った「東京空襲」は、四月十八日に、空母「ホーネット」を発艦した、ジミー・ドリットル中佐率いるB-25爆撃機十六機が、初めて日本を爆撃したことだ。東京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を空襲した。