陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

131、宇垣一成陸軍大将(1) 重要局面では陸軍を揺るがすほどの大紛争が湧き起こった

2008年09月26日 | 宇垣一成陸軍大将
「宇垣一成」(朝日新聞社)によると、宇垣一成は1868年(明治元年)、岡山県の東部、吉井川のほとり、赤磐郡潟瀬村の農家の末っ子(五男)に生まれた。

 親がつけた名前は「杢次」であったが、宇垣はこの百姓らしい名前が気に入らす、28歳の、陸軍中尉で最初の結婚をしたとき、「精神一到何事か成さざらん」の意味からとって「一成」と自ら改名したと言われている。

 もう一つ説があり、「日本一に成る」という心意気からつけたという説もある。

 宇垣一成陸軍大将の生家は、宇垣纏海軍中将の隣である。宇垣姓は多いが、両者は血の繋がりは無く親戚ではない。だが宇垣纏海軍中将は、終生宇垣一成陸軍大将を尊敬していたと言われている。

 宇垣一成は明治23年、陸軍士官学校(一期)を百五十人中十一番で卒業した。

 陸士は良い成績で卒業したが、将校になってからの昇進は遅かった。宇垣は無頓着な性格で俸給を貰っても金が有る間は酒を飲み、なくなれば本ばかり読んでいた。

 軍隊の規律も一応守ることは守るが、内務などをきちんとせず、ずぼらであった。交際は下手で、上官におもねることはせず、とかく我流を押し通したので、傲慢な男であると思われた。だから三十歳まで中尉のままであった。

 当時は大尉になるまでは進級や陸軍大学校受験者の選定は連隊の将校団が中心に行われ、連隊長から毎年その結果を本省に進達する慣わしであった。

 宇垣は将校団の受けが悪く、進級も遅れた。陸軍大学校受験もなかなか認めて貰えず、明治30年、二十九歳の中尉でやっと陸大に入学できた。

 当時陸士四期で大尉になる者もいたというのに、一期の宇垣はまだ中尉で、陸大に入った翌年やっと大尉になった。宇垣自身この当時のことを後に「剛穀不屈の気性がわざわいした」と述べている。

 だが陸大の卒業成績は三十九人中三番で、天皇から恩賜の軍刀を授かった。卒業後中隊長を勤め、それ以後参謀本部、ドイツ駐在と陸軍中枢を駆け登って行った。

 そして、その駆け行く宇垣一成の周囲では、常に敵と味方が出現し、重要局面では陸軍を揺るがすほどの大紛争が湧き起こったのである。

<宇垣一成陸軍大将プロフィル>

明治1年6月21日岡山県赤磐郡瀬戸町大内に生まれる。

明治15年郷里の小学校代用教員。

明治17年御休村小学校校長。

明治23年7月陸軍士官学校卒(陸士第一期生)。成績は150人中11番。

明治24年3月陸軍歩兵少尉。歩10連隊付。

明治27年9月陸軍歩兵中尉。

明治28年陸軍士官学校生徒隊区隊長。

明治30年12月陸軍大学校入校。

明治31年10月陸軍歩兵大尉。

明治33年12月陸軍大学校卒業。成績は39人中3番で恩賜の軍刀拝受。歩33連隊中隊長。

明治34年6月参謀本部出仕。

明治35年2月参謀本部部員。8月軍事研究のためドイツ駐在。

明治37年1月陸軍歩兵少佐。

明治38年1月鴨緑江軍参謀。5月第一軍参謀。12月参謀本部部員。

明治39年2月軍事研究のためドイツ駐在。

明治40年11月陸軍歩兵中佐。

明治41年2月参謀本部部員、帰国。

明治42年8月教育総監部第一課長。

明治43年11月陸軍歩兵大佐。

明治44年9月陸軍省軍務局軍事課長。

大正2年8月歩兵第6連隊長。

大正4年1月再び陸軍省軍事課長。8月陸軍少将。陸軍歩兵学校校長。

大正5年3月参謀本部第一(作戦)部長(田中義一参謀次長の推挙)。参謀総長は上原勇作。

大正8年4月陸軍大学校長。7月陸軍中将。

大正10年3月第10師団長。

大正11年5月教育総監部本部長。

大正12年10月陸軍次官(陸相田中義一・第二次山本権兵衛内閣)。

大正13年1月陸軍大臣(清浦奎吾内閣)。6月陸軍大臣留任(第一次加藤高明内閣)。

大正14年8月陸軍大将。陸軍大臣留任(第二次加藤高明内閣)。

大正15年1月陸軍大臣留任(第一次若槻礼次郎内閣)。

昭和3年軍事参議官。

昭和4年7月陸軍大臣(浜口雄幸内閣)。

昭和6年3月、三月事件。4月陸相辞任。6月朝鮮総督。

昭和11年8月朝鮮総督辞任。

昭和12年1月組閣の大命を受けるが、五日後に拝辞。

昭和13年5月外務大臣、6月拓務大臣を兼任。9月外務大臣・拓務大臣を辞任。

昭和19年9月日支和平工作調査のため中国旅行。

昭和28年4月参議院選挙では全国区最高点で当選。緑風会入会。

昭和31年4月30日東京の自宅にて病死。享年87歳。

130.井上成美海軍大将(10) これは典型的な二重人格者の手相だ

2008年09月19日 | 井上成美海軍大将
 米内大臣が井上次官を更迭したのは、終戦和平の条件をめぐって、大きな相違があったからである。

 井上次官はあくまで終戦を優先して考えるべきで、たとえ、天皇制の護持が不可能になったとしても、和平を締結すべしと米内大臣に迫っていたというのである。

 ところが米内大臣は天皇制を護持することが大前提で、和平の条件はそれ以外に求めるべきだと考えていた。当時はこの考えが妥当であった。

 和平工作がテンポが遅く、手ぬるいと思っていた井上次官は天皇制廃止の条件を提示してでも、早期和平を結ぶべきだと米内大臣を責め立てたのである。

 米内大臣は、もし、このことが洩れでもしたら、大変なことになる。井上次官の口と行動を封じるためにも、次官を外したほうがよいと考えた。

 また、井上次官は、常に、陸軍にとって目の上のこぶであった。陸軍との正面衝突を一応避けて、終戦へ一歩進めるために、井上次官を犠牲にしたともいわれている。

 井上次官は退任に際し、一句を残している。

 「負けいくさ 大将だけはやはり出来 よみ人知らず」

 昭和20年5月15日、井上は海軍大将に昇任した。帝国海軍で最後に昇任した海軍大将であった。大将昇任と共に海軍次官は辞め軍事参議官になった。

 井上は次官を更迭されて以後、米内大臣とはほとんど交渉がない。だが、軍事参義官になった井上大将は、一月後、芝の水交社に寝泊りするようになった。

 ある日、この水交社で、たまたま米内大臣に会うと、

 米内大臣は井上大将に、

 「何もかも、俺一人でやっているよ」

 と言って近況を話して聞かせたという。

 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、ある日、議会が終って、海軍出身の議員を招いての祝宴が大臣官邸で開催された。

 久しぶりにくつろいだムードとなり、順番に隠し芸の披露が始まった。やがて井上の番になると、彼は意表を衝いて、

 「これから皆さんの手相を観て進ぜましょう」と言った。

 初めに手を出したのは、軍務局員の中山定義中佐だった。

 中山の両の掌をしばらく見比べた井上は

 「君は人生の道を誤ったのではないか。もし易者になっていたら成功していたろう」と言った。

 中山中佐が理由を尋ねると、

 「両手の真ん中に十字形の線がある。両手揃うことはめずらしい。直観力に恵まれている」

 と答えた。

 次に手を出したのは兵備局長の保科善四郎中将であった。

 じっとその掌を見つめていた井上は、

 「これは典型的な二重人格者の手相だ」と言った。

 一瞬、座は白け、続いて手を差し出す勇気のある者はいなかったという。

 井上は歴代の大将について次の様に評価をしている。

 統帥権干犯問題で海軍を分裂させて軍令部の独走を許し、名分の無い戦の遠因をつくった末次信正大将。

 日米戦争に関して「ノー」と言うべきところを「近衛総理に一任」などと言って日米開戦の近因をつくった及川古志郎大将。

 開戦に踏み切り、しかも戦局の収拾を図らなかった永野修身大将と嶋田繁太郎大将。

 井上は以上の大将を「三等大将」はおろか「国賊」とまで評した。戦後はもちろん、現役時代にも省内の執務場所でそう言うのを、何人かの人が耳にしている。

 井上が「一等大将」に挙げているのは山本権兵衛大将(2期・海相・首相)と加藤友三郎大将(7期・海相・首相・元帥)の二人だけである。

 井上が終生尊敬した米内光政大将と山本五十六大将に対しても、無条件では「一等大将」に挙げなかった。

 東郷平八郎元帥に対しては一応評価はしているが、昭和5年のロンドン軍縮条約締結を妨害しようとした加藤寛治ら艦隊派の言い分を、鵜呑みにして海軍省首脳を攻撃したりした点については手厳しい。

 井上は「日本を亡ぼした者は陸軍と一部の海軍。海軍を亡ぼした者は東郷さんをはじめとした一部の海軍軍人」とまで言っている。

 では自分自身に対してはどうか。「もともと大将の器ではありません」と明言しているので、これは論外扱いである。

 井上大将は昭和20年10月10日待命を仰せ付けられ、ついで10月15日、予備役に編入された。五十五歳であった。

 明治39年十六歳で海軍兵学校入校以来、三十九年間の海軍生活はここに幕を閉じた。

 戦後、井上大将は横須賀市長井の自宅に隠棲し公職につくことなく、昭和50年12月15日死去した。八十六歳だった。

(「井上成美海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「宇垣一成陸軍大将」が始まります)。

129.井上成美海軍大将(9) その御下問は宮様としてでございますか、軍令部員としてでございますか

2008年09月12日 | 井上成美海軍大将
 井上が兵学校長在任中にまとめた「教育漫語」は、教育論として有名であるが、その中に「成績は優秀ナレ、但シ席次ハ争フベカラズ」とある。

 また、「学校成績の権威」という小論文でも、兵学校での席次と、以後の昇進との相関関係を算出して、0.506という数字を示している。

 このことは、兵学校のハンモックナンバーは、任官後の昇進に50%の影響しか与えず、残り50%はその後の努力によるとしたものである。

 昭和19年3月22日、天皇の名代である高松宮宣仁(のぶひと)親王大佐(兵学校52期)臨席のもとに、海軍兵学校73期の卒業式が行なわれた。

 そのあと井上校長は「御殿」と称した宮の宿に招かれ、夕食をともにした。そのとき、宮から「教育年限をもっと短縮できないか」と問われた。

 井上校長はすかさず「その御下問は宮様としてでございますか、軍令部員としてでございますか」と問い返した。

 「無論後者である」との答えを得たうえで、井上校長は「お言葉ですが、これ以上短くすることは御免こうむります」とはっきり断った。

 宮は「そうか、そうか」とうなずいていた。兵学校の年限短縮の問題は、宮自身の考えではなく、軍令部あたりの者が宮に頼んで、頑固な井上を動かそうとした。

 彼らは前線で士官が不足して困っているときに、井上校長が卒業を早めることに反対するのを怒っていたようだ。ひそかに井上校長を国賊という者もいた。

 昭和19年8月5日、井上中将は米内光政海軍大臣に説得されて海軍兵学校長から海軍次官に就任した。

 ところがその年の12月、米内光政海軍大臣は井上次官と二人きりになったとき、突然切り出したのである。

 「おい、ゆずるぞ」

 「何をですか」

 「大臣をさ」

 「誰にですか」

 「お前にゆずるぞ」

 「とんでもない、なぜそんなことを言うんですか」

 「おれは、くたびれた」

 「陛下のご信任で小磯さんとともに内閣をつくった人が、くたびれたくらいのことで辞めるなんていう手がありますか。今は国民みな、命をかけて戦をしているんではないですか。少なくとも私は絶対引き受けませんよ」

 「大臣をゆずる」「だめです」の話はその後、昭和20年1月10日にもう一度あった。

 高木惣吉はその時のことを「井上海軍次官談」としてメモにしている。それによると井上次官は次の様に話したという。

 「米内様は冗談のように、後は貴様やれと言われるが、井上が鰻上りに上がるのは絶対にいかん」

 「これは理屈ではなく、貫禄の問題だ。大臣がどうしても残られぬ場合は長谷川様(長谷川清大将・軍事参議官)にでもやってもらう外あるまい」

 昭和20年3月半ば、官邸で米内大臣は井上次官に

 「おい、大将にするぞ」

 「誰のことですか」

 「塚原(二四三中将・横須賀鎮守府長官)と君の二人だ、四月一日付だ」

 井上次官は、唖然として拒否した。大将昇進は見送りになった。塚原が「井上のおかげで、俺は大将になりそこなった」と言ったという噂も聞こえてきた。

 その後5月7、8日頃、大臣室に呼ばれた井上次官に、米内大臣は、

 「陛下のご裁可があった」とひと言いった。

 「何をですか」

 「君と塚原との大将昇進をだよ」

 こうして、井上中将は5月15日、次官を辞め、大将に昇進し軍事参義官になった。

 井上は次官のまま、早期終戦の実現に尽力したいと考えていたので次官を辞めるつもりは無かった。

 ではどうして米内大臣は今まで盟友の契りを結んできた井上を更迭したのか。

128.井上成美海軍大将(8) 陸軍は幕府だ。幕府政治だから陛下の言う事を聞かないんだ

2008年09月05日 | 井上成美海軍大将
 さらに海軍兵学校長当時の生徒の思い出を井上は次の様にも語っている。

 「抜き身をもってワラ切ってみたりする者もおりました。親に、卒業して戦地に行くのに刀が要るんだ、銘刀を買ってくれ、という者もおりました」

 「そこで、私は刀を競うような気風は絶対にいかん、銭形平次の八公、あれなんか、刀をもってない、十手だ。剣道の心得のない者が刀を持ったって、刀を曲げて、刃をこぼすだけだ。人なんか切れるもんじゃない。だから、刀を競うなんてことはやめろ」

 「ことに海軍士官が海軍士官が刀でどうといったってね。将校はピストルだぞ。と言ったものです。拳銃一つ持っていれば、最後の時には口の中にピストルを向けてポンとやれば、立派に死ねるんだぞ。刀に何百円という金を出すのはバカだ。と禁じた」

 「生意気盛りの小僧たちを預かって、これはほうんとうに、教育勅語を読んで暮らさせるようなやり方じゃだめなんだと思いました。真から生徒たちの親に替わって鍛えてやろう、と、こういうつもりでした」

 ある日、校長の井上成美海軍中将のところへ歴史教官が兵学校の生徒用の歴史の教科書の原稿を書いて見せに来た。

 満州事変、日中事変が日本の国民精神と軍隊の士気高揚に、非常に役立っていると書いてあった。

 井上校長は原稿をこぶしで叩きながら怒った。「なんだこの歴史は、満州事変が、日中事変がどういうものだか知っているのか」

 するとその歴史教官は「新聞で見たとおり書きました」と平然と答え、すましていた。

 「新聞を読んで考えたのか?」

 「はぁ」

 「その結論が、これか。削れ」

 「どうしても削らなければいけませんか」

 「いかん、絶対にいかん。陸軍は幕府だ。幕府政治だから陛下の言う事を聞かないんだ。こんな内容を許すわけにはいかん。こんなことは校長として恥だ。断じて許さん。削れ」と言って遂に削らした。

 また、井上校長は陸軍士官学校生徒との文通を禁じた。井上を始めとして海軍の良識派は、すべて陸軍ぎらいであった。

 井上中将は「海軍がな、陸軍と仲良くしたときは、日本の政治は悪いほうにいっているんだ」と言っている。

 士官学校から兵学校生徒に葉書が来たときがある。「付き合おう、陸海軍仲良くしなくちゃいかん」という葉書だった。

 教官連中がが井上校長に返事を出してよいかと聞きにきたので、「それは絶対にだめだ。そんな葉書は破り捨てろ」と指示した。

 すると教官連中は「なぜ陸海軍が仲良くしてはいけないのですか」と反論した。正論ではある。

 だが井上校長は「陸軍が嫌いとか好きだとか言っているのではない。陸軍は陸軍第一、日本国第二なんだ。そういう教育をしている陸軍みたいな学校と兵学校はちがうのだ。そういうやからとつきあうことはならん」

 さらに「海軍は国家第一、国家あっての海軍だ。満州事変を見ろ、支那事変を見ろ、みんな陸軍が先に立って国家を引っ張っていこうとしているじゃないか」と反論した。

 テーブルを叩いて憤慨した教官もいた。「校長横暴」の声も出た。だが井上は動じなかった。反論を寄せ付けなかった。

 このときテーブルを叩いて憤慨した教官が、戦後二、三年たって横須賀市長井の井上の住まいを訪ねてきた。

 その教官は井上の前に両手を突くと、「申し訳ありませんでした。いまになって、校長の言われたことがわかりました」と言って詫びた。井上は、このことを喜んだという。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、海軍部内で激しく対立した南雲忠一は、兵学校は井上より一期上の三十六期だった。この期に岸信介、佐藤栄作の兄弟宰相の長兄・佐藤市郎がいた。

 佐藤市郎は飛びぬけた秀才で、兵学校は入校、各学年、卒業と全て一番だった。平均点は95.6点だった。この点数は兵学校始まって以来だった。海軍大学校(18期)も首席だった。

 この佐藤市郎を井上はどう見ていたか。この佐藤評を、求められたとき、井上は「つまらん」とひと言いったきりであったという。