陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

205.山本五十六海軍大将(5)計器が当てになるか、俺の勘のほうが確かじゃッ、生意気いうな!

2010年02月26日 | 山本五十六海軍大将
 大正十四年十二月、山本五十六大佐は駐米武官に任命され、翌年一月二十一日、横浜から米国に旅立った。山本大佐は日本大使館付武官として昭和三年初頭まで米国で勤務を続けた。

 山本武官の最初の補佐官だった山本親雄大尉(海兵四六恩賜・海大三〇首席)が、武官事務所で雑談をしていたとき、山本大佐に次の様に言った。

 「軍人は政治にかかわらずというのが御勅諭の精神ですから、自分は政治のことには、あんまり関心を払わないことにします。新聞も政治面はあまり読みません」

 すると山本大佐は「ばか者。政治にかかわらずというのは、知らんでいいということじゃない。そんな心掛けでどうするか」と叱りつけたという。

 「人間提督山本五十六」(戸川幸夫・光人社NF文庫)によると、山本五十六大佐が駐米武官のとき、後任の武官補佐官として三和義勇大尉が米国に赴任してきた。

 昭和二年、アメリカのリンドバーグが世界で初めて大西洋横断飛行に成功した。続いてバードが事実上成し遂げた。

 ある日、補佐官の三和大尉が武官の山本大佐のところにやってきて次の様に訴えた。

 「リンドバーグ並びにバードの大西洋横断飛行について研究していましたところ、気づいた点がありましたので、報告に来ました」

 「洋上を長距離飛行するためには絶対に計器飛行によらねばならぬということです。天測航法が絶対に必要であり、米国ではすでにこれに着目して研究し、立派な計器を使用しています。わが国のは、海軍ですらまだセンピル飛行団から教わった勘偏教育の域を脱していません」

 「自分は前年、鳳翔で着艦訓練をしていましたが、その時ですら計器はまだ当てにならぬ、勘を養えと教えられました。自分達は一〇式艦上戦闘機4B型では着艦速力五十四ノットと教えられていました」

 「ある日、計器どおりに着艦しますと、ある教官から、いまのは一ノットはやいと注意されました。そこで計器の指示通りに合わせて着艦した旨を答えますと、『計器が当てになるか、俺の勘のほうが確かじゃッ、生意気いうな!』と、したたか殴りつけられました」

 「自分は殴られた口惜しさよりも、わが海軍機は計器によって正確な飛行ができるようでなければならぬ。計器が発達すれば、錬度の多寡はかなり接近するに違いないと考えました。その考えが誤りでなかったことを今日のリンドバーグやバードが証明したと思います。よろしく勘偏飛行を脱却すべきであります」

 これを聞いた山本大佐は「よし、わかった」とにっこり笑って三和大尉の肩をたたいた。山本大佐は三和大尉に意見書を書かせ、それに筆を加えて、強烈な意見書に書き直して海軍省に送った。

 昭和二年八月二十四日、連合艦隊の訓練中に艦艇どうしが衝突し多数の死者を出した美保ヶ関事件では、衝突した軽巡洋艦「神通」の艦長、水城圭次大佐(海兵三二・海大一五)は、軍法会議の判決が出る十二月二十六日、自宅で自決した。

 米国駐在武官・山本五十六大佐の補佐官、三和大尉が、その美保ヶ関事件の水城大佐について「死んでも仕方あるまい。生きて償いをつけるような働きをされた方が善かったのではないか」という意味のことを言った。

 すると山本武官は「何にッ」と言って、三和大尉のほうを睨みつけた。そして次の様に言った。

 「死を以って責に任ずるということは、我が武士道の根本である。その考えが腹の底にあればこそ、人の長として御勤めができる。そういう人が艦長に居ればこそ、日本海軍は大磐石なのだ。水城大佐の自決は立派ともいえるし、自分としては当然の事をやったとも考えている」

 「君の様な唯物的な考えは、今時流行るのかも知れぬが、それでは海軍の軍人として、マサカの時に役に立たぬぞ。又死を以って責を取った人に対しては、仮にその所業が悪いと見えても、軽々しく批評してはいかぬ」

 三和大尉は、自分の頭が唯物的であるか唯心的であるかも気が付かぬ位だったが、とにかく、その考えが真っ向から粉砕されて、腹の底までシーンと寒くなるのを感じた。

 その言葉を思い出してようやく腑に落ちたと思われだしたのは、それから十年後だった。

昭和八年十月三日付けで山本五十六少将は第一航空戦隊司令官を命じられた。旗艦は空母赤城で、艦長は塚原二四三大佐(海兵三六・海大一八)だった。

 山本司令官は猛訓練を行った。これからの日本を守り通せるものは飛行機しかない。殉職する将兵が続出した。犠牲者の激増に驚いた艦隊司令部から、訓練を緩和してはどうかという伝達があった。だが、山本司令官は次の様に答えた。

 「それは命令でしょうか。命令なれば止むをえません。しかし、意見であるなれば不肖山本におまかせください。日本の航空部隊は欧米に遅れて発足したのですから、まだこの程度ではとても一流空軍国にもってゆくことはできません。もっと強化するつもりです。しかし、訓練中の殉職は戦死と同様に扱って下さい。これだけはお願いします」

204.山本五十六海軍大将(4) 次回の母艦搭乗員には技量中級の者を持っていけ

2010年02月19日 | 山本五十六海軍大将
 この霞ヶ浦航空隊に、副長・山本五十六大佐と同じ長岡中学校の五年後輩の大崎教信少佐(海兵三六)が副官として勤務していた。

 大崎少佐が土浦の神龍寺という寺の境内に地所を借りて家を建てた。この家が完成しないうちに、山本大佐が霞ヶ浦航空隊に着任した。

 この家が出来上がるという時に、山本大佐は大崎少佐に、同郷同窓という懇意さから、「大崎、貴様は少佐のくせに、家を建てるのは生意気だ、俺に譲らんか」と言った。

 大崎少佐も初めて建てた家だから、暫くは住みたい。それで「自分が転任する時はきっと譲りましょう」と約束した。

ところが、大崎少佐が大村航空隊へ転任が決まると、山本大佐が、まだ荷物も作らぬうちに押しかけてきて、「今日、日がいいから引っ越す、さあ早くあけろ」と言った。一たんこうと決めたらなかなか聞かぬ人だからたまらない。

 とうとう大崎少佐はまず、お寺のほうに荷物と自分の体を預かってもらい、山本大佐を自分の家に入れた。山本大佐には、こういう駄々っ子に等しい振る舞いも時々演じられたという。それで部下が気を悪くすることはなかった。

 ある夏の日、三和義勇中尉は、独身で、夏休みをもらったが、行くところがなく、相変わらず航空隊住まいをしていた。すると副長の山本五十六大佐が「甲板士官は何処にも行かんのか? ・・・それでは僕の家に避暑に来ないか。ちょうど家族もいない」と、三和中尉を神龍寺という寺の境内の山本の家に誘った。

 三和中尉は「避暑とはどういうことか?」と思った。家に着くと山本大佐が「裸になれ」というので、主客とも猿股ひとつになった。

 すると山本大佐は「これから特別の避暑法をやる」と宣言し、「水風呂がこしらえてあるから、あれに入って身体をふかずに、この廊下に寝るんだ。涼しいぜ。俺が先にやって見せるから」と水風呂に飛び込んだ。

 それから上がって、誰もいない家の戸や障子をみな開け放して、日陰の板廊下に寝そべった。三和中尉もやってみると、なるほど涼しかった。

 やがて昼飯になると、いつの間にか、茶の間に昼食の用意ができていた。しかし、それはご飯と茄子の煮付けだけだった。

 山本大佐は「この茄子は僕が煮たんだ。少々辛いかも知れんぞ。しかし暑い時は辛いものを食ったほうが、暑さを忘れていいんだ」と言った。

 山本大佐に言われて三和中尉が箸をつけてみると、辛いの辛くないのといって、醤油だけでは足らず、これでもかこれでもかと塩を一握りも入れて煮込んだような茄子の煮つけで、その辛さに耐えるだけで、確かに暑さのほうは忘れてしまった。

ところが、食後には、井戸で冷やした大きなスイカが出た。二つに割って、一人が半分ずつ取り、それに葡萄酒と砂糖をたっぷり叩き込んで食った。大変うまかったが、茄子の辛さを消すには、それでも少々の甘さでは足りなかったという。

 三和中尉が「副長はずいぶん甘いのがお好きですね」と言うと、山本大佐は「フフン」と笑っているだけで、さっきの茄子が辛すぎたなどとは、一言も言わなかったという。

 「人間・山本五十六」(反町栄一・光和堂)によると、当時、霞ヶ浦航空隊に隊付として勤務していた、不敵の豪傑、大西瀧治郎大尉(海兵四〇)が、連日セッセと勉強していた。

 三和義勇中尉が聞くと、教育綱領か教務規定だったか、そのようなものの改正案を一生懸命に起案していた。三和中尉が弥次り半分に「ドエライ勉強振りですね」と言ったら、大西大尉は「今度の副長には使い回されるよ、然しこんなに愉快に働くのは初めてだ」と言っていた。

 世界で最初に航空母艦として設計され完成した空母鳳翔(基準排水量七四〇〇トン)は、大正十一年十二月二十七日に就役した。

 当時航空母艦に配属されるのは、技術抜群の天才的パイロットに限るという意見が支配的だった。三和中尉によると、これに異を唱えた山本大佐は次の様に言った。

 「百人の搭乗員中幾人あるかしれぬような天才的な人間でなければ着艦もできぬとすれば、帝国海軍にそんな航空母艦はいらぬ。搭乗員の大多数が着艦できるようにせねばならぬ。素質云々もさることながら、要は訓練方式の改善と、当事者の訓練に対する努力の如何にあると信ずる。試みに次回の母艦搭乗員には技量中級の者を持っていけ」

 教育者としての山本五十六の本領が発揮された意見だった。山本五十六は常に部下を育てることに心を砕いていたという。後に連合艦隊司令長官になった山本五十六は、配下の指揮官に、「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かぬ」と訓えたという。

203.山本五十六海軍大将(3) 甲板士官なんて、真平御免!

2010年02月12日 | 山本五十六海軍大将
 井出大将は、山本中佐が「私を二年間欧州各地に遊ばせておけば戦艦一隻くらい製造する費用は獲得できるでしょう」と言ったと、反町栄一に語った。

 そのあと井出大将は誤解を恐れたのか、反町に「(山本は)もちろん、そのためにけっして仕事の遅延をきたしたことはない」と付け加えた。

 欧米視察の途中、モナコのカジノでルーレットをやり、大勝ちして入場を拒絶されたという伝説がある。

 「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・文藝春秋)によると、山本五十六は勝負事の三徳を次の様に言ったという。

 1、勝っても負けても、冷静にものを判断する修練ができる。2、機をねらって勇往邁進、相手を撃破する修練ができる。3、大胆にしてしかも細心なるべき習慣を養うことができる。

 著者の高木惣吉元海軍少将(海兵四三・海大二五首席)は、「少なくとも、山本提督の場合、己にとっては修練の具となり、同時に上下親睦の功徳をもったことは誇張ではない」と述べている。

 また、山本五十六は「自分の利欲のために勝負事をやったのでは決して冷静的確な判断は生まれない。すべて勝負事は私欲を挟まず、科学的、数学的でなければならぬ。熱狂しては駄目だ。冷静に観察し、計画すれば必ず勝つ機会がよく判る。そして好機は一日に数回は必ず廻ってくる。それを辛抱強く待つ忍耐が大切だ。モナコの賭けも高等数学で勝てる」と述べたという。

 山本五十六は大正十四年十二月、大使館附駐米武官に任命された。山本大佐が武官として米国に滞在していた時、後任補佐官として三和義勇大尉(海兵四八・海大三一次席)が山本大佐に仕えた。また太平洋戦争開戦時には、三和義勇大佐は山本司令長官の下で、連合艦隊の航空参謀として勤務した。

 長年、山本五十六に仕えた三和大佐も昭和十九年八月二日、第一航空艦隊参謀長としてテニヤンで戦死した(戦死後少将)。三和大佐は山本五十六に心酔していた人物で、戦死直前まで記した「山本元帥の想い出」を大判のノートに書き残していた。

 このノートに三和が山本に初めて会ったときのことを書き残している。このとき三和はまだ中尉で、霞ヶ浦航空隊で飛行学生として勤務していた。

 その頃、大正十三年九月一日付けで、山本五十六大佐が霞ヶ浦航空隊付を命ぜられ、赴任してきた(山本はそれから三ヵ月後に同航空隊の副長兼教頭になった)。その時のことを三和はノートに次の様に記している。

 「何日か忘れて仕舞ったが、日曜日の夕食后、私達は其の前日午後からの休みを利用して東京に遊びに行き、暮方上野を出る常磐線で土浦指して帰って来た。連れは同僚小十人も居った」

 「列車は横にずらりと並ぶ旧式の二等車で、私達以外には左前隅に一人の壮年の方が乗って居られた丈で誰も居ない。我々は之を幸ひに列車の中を傍若無人に談論して居た」

 「フト此の壮年(と見ゆる)紳士を見ると、始終私達の方を注視して居られる。服装及び持って居られた大型のスーツケースは洋行帰りを思はしめるものがあるが頭髪は短く、眼、口等何となく軍人だナと直感せらるる人だった」

 「汽車が土浦に着いた。私達はドヤドヤと降りて隊から来てゐる定期自動車便に乗ろうとしたら、件の人はツカツカと来られて、之は霞空の定期かと尋ねられたので、ソウですと答えたら黙って乗り込まれた」

 「誰か知らず、大方出張にでも来られた少佐位の人だろうと思って居た所、実は此の人が新しく隊附で来られた山本大佐だと判った」

 霞ヶ浦航空隊には「飛行機に縁の無いそんな人が、いきなり航空隊の頭株にやって来て、一体何をするつもりなんだ」というような反発的気分があった。

 三和義勇も血気盛んで小生意気な、飛行学生教程を終えたばかりの若い中尉だった。山本五十六が副長就任後間もなく、三和中尉は、内務主任の松永少佐から副長付の甲板士官として推薦された。

 だが、三和中尉は「もうすぐ操縦教官になろうとしているものを、甲板士官なんて、真平御免!」と、頑として承知しなかった。

 「それなら、貴様直接山本大佐のところへ行ってそう言え」と松永少佐から言われ、三和中尉は肩をいからせて、山本大佐に直談判で断りを述べに言った。

 三和中尉が山本大佐に会ってみると、妙にその気迫に押されて言葉が出なくなってしまった。結局、甲板士官の役を引き受けさせられただけでなく、「懸命の努力をいたします」と誓って引き下がってくることになった。

 「参りました」と三和中尉が報告すると、松永少佐が「ほれ見ろ」と言って笑った。それから三和中尉は日々山本大佐に接して、この上なく山本五十六が好きになってしまった。

202.山本五十六海軍大将(2) 見る人の心々にまかせておきて雲井にすめる秋の夜の月

2010年02月05日 | 山本五十六海軍大将
 大正七年八月三十一日、山本五十六は東京芝の水交社で結婚式を挙げた。五十六は少佐の四年目で三十四歳、妻の礼子は二十二歳だった。

 礼子は旧姓、三橋礼子といい、会津若松出身だった。父三橋康守は旧会津藩士で判事であった。だが当時は判事を辞職し牛乳業を営んでいた。礼子は会津高等女学校を卒業し、家事手伝いをしていた。

 礼子の母、三橋亀久は山下源太郎と従兄妹だった。旧米沢藩出身の山下源太郎は当時海軍大将で、五十六と礼子が結婚式を挙げた日の翌日、九月一日に連合艦隊司令長官に就任している。五十六は山下大将の自宅をよく訪問している。

 五十六と礼子の二人の間には、結婚後十四年間に四人の子供が生まれた。子供が四人もできると妻の座が重くなるのはどこの家庭でも同じだが、気性の強い礼子は一たん言い出したらめったに後に引かなくなり、夫婦喧嘩が始まると、五十六は直ぐ布団をかぶって寝てしまったという。

 山本は礼子を人前に出すことをあまり好まなかったようで、部下の細君から「奥さまお元気ですか」と聞かれると、「あんな松の木みたいなもの、大丈夫だよ」と答えたという。

 ある時、礼子の母親、亀久が会津から出てきて、「五十六さん、あなたは大変な立身をなすったが、娘が相変わらずでさぞお困りでしょう」と、愚痴だか皮肉だかを言ってかきくどいた。

 すると、山本は紙に和歌を一首書いて、これを読んでくださいと渡した。それは「見る人の心々にまかせておきて雲井にすめる秋の夜の月」という古歌で、山本の自分の心境を示していた。

 大正八年四月五日、山本少佐は米国のボストンに駐在、一年間ハーバード大学に留学した。当時、在学中の仲間に小熊信一郎がいた。小熊は軍人ではなく、父親が日露漁業の基礎を造った人で、小熊もその関係で財界で働いていた。

 山本少佐も小熊もともに負けず嫌いであった。二人はよく将棋を指した。ある日、山本少佐に立て続けに五番負けた小熊が、口惜しがって「将棋も五番や七番指したくらいで、本当の腕はわからないな」と言った。

 すると山本少佐が「じゃあ何番させば分かるんだ」と開き直った。売り言葉に買い言葉で、「倒れるまで指してみなければ分からない」。それで、日を改めて、どちらかが倒れるまで指そうということになった。

 山本少佐は果物やサンドイッチをたくさん詰めた袋を持って、小熊信一郎の下宿を訪ねると、カバンからグラフ用紙に百回までの成績記入欄を作ったものを取り出した。

 友人の森村勇らは、食料を補給する係りで、その夜はいい加減なところで引揚げた。翌朝、森村が小熊の下宿の下から見上げると、まだ山本少佐と小熊は指していた。

 その日の夕方、食べ物を差し入れに行って見ると、二人はまだやっていた。友人達はまわりで、勝手にポーカーや八八をして遊びだしたが、午後七時になり、八時になり、まる一昼夜経っても、二人はやめなかった。

 しかし、そのころ、二人の将棋は次第に粗雑になってきて、一回が十五分くらいで片が付き、やがて、どちらからともなく「オイ、あっちのほうがおもしろそうだなあ」と言い出したのが、午後十一時で、始めてから二十六時間後だった。

 結局、山本少佐と小熊の二人とも、倒れないままの七十五番で打ち切りとなり、二人とも花札の仲間入りをしてしまった。小熊は、八八の手が付かなくて下りている間に、ちょっと仰向けになったら、それきり死んだように寝込んでしまったという。

 大正十一年二月六日、ワシントン軍縮条約が調印された。「山本五十六・悲劇の連合艦隊司令長官」(豊田穣・吉田俊雄・半藤一利他・プレジデント社)によると、この条約により主力艦保有量の対米英比率が五・五・三となった。

 このことについて、山本五十六は後に「五・五・三なんてあれでいいんだよ。あれは向こうをしばる条約なんだから」と意見を述べた。

 山本五十六は、やがて飛行機の時代になるだろうし、主力艦にこだわることはないという思いがあったのだろう。軍縮条約に随行した山本の兵学校同期の親友、堀悌吉(海兵三二首席・海大一六首席)も「ワシントン会議は、国際的にも経済的にも日本を救った」と論評している。

 山本五十六は無類のバクチ好きだった。ひまさえあれば、賭け将棋、囲碁、マージャン、トランプ、花札、ルーレット、玉突きなどをやっていた。

 大正十二年六月二十日山本五十六中佐は欧米各国への出張を命ぜられ、軍事参議官・井出謙治大将(海兵一六)に随行して欧米諸国を視察した。

 「海燃ゆ」(工藤美代子・講談社)によると、この欧米視察はワシントン会議成立後の情勢を視察するためだった。

 前述のように山本中佐は賭博が好きだった。モナコでは、山本中佐があまりに勝ち続けるので、カジノの支配人がとうとう入場を拒否した。これは史上二番目のことだった。