陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

592.桂太郎陸軍大将(12)桂太郎をいきなり大佐にしても、誰も異議を差しはさむ者はいなかった

2017年07月28日 | 桂太郎陸軍大将
 岩倉大使一行がベルリンを去った後、その年の九月には、四年間のドイツ留学を終えた桂も帰国の途についた。パリを経て、マルセイユから横浜に帰着したのは明治六年十月だった。

 「桂太郎(三代宰相列伝)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎の帰国した頃の国内の事情は、征韓論が破れて、新たに岩倉具視、大久保利通を中心とした内閣のできた時だった。

 横浜に着いた桂太郎は、さっそく、伊藤博文や木戸孝允を訪問し、国内事情を聴いて、日本の近況を把握した。

 桂はいったん郷里に帰って再び上京して、木戸孝允邸に寄留することになった。その木戸の推薦によって、桂は陸軍に出仕することになった。

 明治七年一月十三日、桂太郎は、陸軍歩兵大尉に任じ、陸軍省第六局分課勤務を命ぜられた。これが桂の帝国陸軍の軍人として第一歩だった。

 だが、桂はすでに、戊辰戦争や奥羽戦争にも出て、軍人としての経験もある。たとえ一旦軍籍を離れて、一書生としてヨーロッパに私費留学したとはいえ、その研究はひたすら軍事、軍制についてであった。

 つまり、軍人としての修養を積んできたのだった。それらのことを考えれば、桂太郎をいきなり大佐にしても、誰も異議を差しはさむ者はいなかった。まして、かつて桂と同僚であった者で、すでに少将になっていた者もいたのだ。

 しかし、当時、初任は大尉以上なるべからずということになっていた。陸軍もだんだん秩序ができてきていたが、その規律を厳重にすることに政府も鋭意努めている時だった。情実などを努めて排し、万事規律に従って、事に処していくといく大方針もようやく確立しかけていた。

 この様な情勢と規律から、桂も初任であるからというので、大尉に任じられたのだった。ところが、この処置に対して、桂は不満を持つどころか、かえって、大いに喜んだと言われている。

 桂は任官の日に、陸軍卿・山縣有朋(やまがた・ありとも・山口・高杉晋作の奇兵隊創設時に入隊・奇兵隊軍監<二十五歳>・維新後各国の軍事制度を視察・徴兵令を定める・陸軍大輔<三十三歳>・陸軍中将<三十三歳>・陸軍卿<三十五歳>・参軍<三十九歳>・陸軍卿・参謀本部長・内務卿<四十五歳>・伯爵・内務大臣・内閣総理大臣<五十一歳>・陸軍大将・枢密院議長・第一軍司令官・陸軍大臣・元老・公爵・元帥<六十歳>・第二次山縣内閣・枢密顧問官・参謀総長・公爵・枢密院議長・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級・国葬・ロシア帝国神聖アレクサンドルネフスキー大綬章・ドイツ帝国赤鷲大綬章・フランスレジオンドヌール勲章グランクロウ・大英帝国メリット勲章など)に会った。

 山縣は桂に言った。「我が陸軍も桂の留学中、漸次整頓し、秩序も立ってきた。大尉に任ぜられたことは不満足かもしれないが、初任は大尉以上としないという規律を乱すわけにはゆかない。秩序を正す点からもやむを得ないが、了とせよ」。

 山縣が「不満足かもしれないが」と言った背景には、この当時(明治七年)における、桂太郎と同郷の他の軍人たちの立身出世の現実があった。当時、桂太郎大尉は二十六歳だった。

 明治七年当時、長州藩(山口県)出身で、桂太郎と同世代の主要な陸軍軍人は次の通り。

 乃木希典(のぎ・まれすけ)少佐(二十六歳・名古屋鎮台大貳心得)は、明治四年陸軍少佐。最終階級は大将。宮内省御用掛、学習院長。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章、功一級。

 鳥尾小弥太(とりお・こやた)少将(二十七歳・陸軍省第六局長)は、明治四年陸軍少将。最終階級は中将。貴族院議員、枢密顧問官。子爵、正二位、勲一等旭日大綬章。

 三浦梧楼(みうら・ごろう)少将(二十五歳・陸軍省第三局長)は、明治四年陸軍大佐。最終階級は中将。駐韓国特命全権大使、枢密顧問官。子爵、従一位、勲一等旭日桐花大綬章。

 長谷川好道(はせがわ・よしみち)中佐(二十四歳・歩兵第一連隊長心得)は、明治四年陸軍大尉。最終階級は元帥陸軍大将。参謀総長、朝鮮総督。伯爵、従一位、大勲位菊花大綬章。

 岡沢精(おかざわ・くわし)少佐(三十歳・近衛歩兵第一連隊大隊長)は、明治四年陸軍少佐。最終階級は大将。大本営軍事内局長、侍従武官長。子爵、正二位、勲一等旭日大綬章、功二級。

 佐久間左馬太(さくま・さまた)少佐(三十歳・西海鎮台付)は、明治五年陸軍大尉。最終階級は大将。東京絵衛戌総督、台湾総督。伯爵、正二位、勲一等旭日桐花大綬章。

 山口素臣(やまぐち・もとおみ)少佐(二十八歳・近衛歩兵第一連隊第一大隊長)は、明治四年陸軍大尉。最終階級は大将。第五師団長、軍事参議官。男爵、正四位、勲一等旭日大綬章、功三級。

 滋野清彦(しげの・きよひこ)少佐(二十八歳・陸軍省第一局第三課長)は、明治四年陸軍少佐・最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校長、将校学校監。男爵、従三位、勲一等瑞宝章。







591.桂太郎陸軍大将(11)桂太郎は、大阪兵学寮を病気と称して退学した

2017年07月21日 | 桂太郎陸軍大将
 六月八日、フランス式陸軍修業として、桂太郎は東京留学を命ぜられ、開成所に入ることになった。開成所は、明治二年正月に、イギリス、フランスの二国の語学科が設置され、語学を修める者はここに入所することになっていた。

 外遊の希望は、欧州戦前から桂の心の中に強く宿っていたので、開成所入りは、その第一歩として、喜んでいた。

 だが、六月十九日、突然、藩より呼び出しがあって、山口へ行った。すると、七月二十日、第五大隊補助長として、東京へ転ずる旨の命令が下ったのである。

 これに対して、桂は、どこまでも、まず学生として語学を修め、その上で、外遊して兵学を修めたい志望であったので、藩に請うて官を辞し、東京へ上った。

 明治二年七月、明治維新後、修学の志が抑えがたくなっていた桂太郎は、東京に行く途中、京都で兵部大輔・大村益次郎(おおむら・ますじろう・山口・長州征伐と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し勝利・維新後明治政府の軍務官副知事・兵部省大輔(次官)<四十五歳>・日本陸軍を創設・大阪兵学寮設置・京都で刺客に襲われ重傷、治療を受けるが死亡<四十五歳>・従三位・孫が子爵を授爵・従二位)に面会した。

 「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、その時、大村益次郎が桂太郎に次のように語った。

 「戊辰戦争後の日本の課題の一つは軍制の改革であるが、兵権の統一には軍制の基礎を樹立する必要があり、それにはまず将校の養成を図らなければならない」

 「将校の養成の方法として、正規の教育としてまず語学所を横浜に設置し、語学を修めた人材をさらに六か年を期してヨーロッパに留学させる必要がある」

 「他方、当面の急に対応する変則の教育としては、大阪に青年舎を設置して速成の将校養成を図る」。

 さらに、大村は、桂に「海外遊学の志があるならば、正則の教育を選んではどうか」と助言した。桂は大きな希望を持った。

 桂が東京に着いて間もなく、大村が凶変にあって死亡したとの報に接した。桂は信じられなかった。

 明治二年十月、桂太郎は、大村死去の衝撃を振り払って、大村の忠告に従って横浜の語学所に入学した。だが、明治三年五月、横浜の語学所は、大阪の兵学寮に統合された。

 明治三年五月、桂太郎は、大阪兵学寮を病気と称して退学した。この兵学寮では官費留学の方法がないことを知ったのだ。これでは自腹を切る以外にほかはなかった。

 明治三年七月萩に帰り、洋行留学の許可を得た桂は、八月、自腹を切り、私費で留学しようと決心した。奥州戦で東北鎮定の功により、二百五十石を加増されていたので、これを留学費用に当てたのだ。

 最初、桂はフランス語を習い、フランスに留学しようとしていた。当時フランスは奥州第一の陸軍国で、武威を四方に張っていた。だから、この国に学ぼうと思っていた。

 九月日本を出港した。だが、桂が航海中、普仏の間に戦争が勃発し、目的地に着いた時には、フランスは連敗して、城下の盟(じょうかのちかい=屈辱的な降伏の約束)をする有様だった。

 そこで桂は直ちにベルリンに向かい、ドイツで学ぶことに目的を変更した。ドイツに留学した桂太郎は、まずドイツ語から徹底的に学んだ。その後、ベルリンでドイツ帝国陸軍のパリース少将に師事して軍事学を研究した。

 明治五年八月、アメリカ視察旅行を終えた欧米使節団の岩倉具視(いわくら・ともみ)特命全権大使一行がヨーロッパに渡り、ベルリンに着いた。

 一行の中には、大蔵卿・大久保利通(おおくぼ・としみち・鹿児島・維新の三傑・王政復古の後参与・維新後明治政府の太政官・参議・大蔵卿・岩倉使節団副使・征韓派の西郷隆盛を失脚させる・内務卿・台湾出兵後全権弁理大臣・西南戦争で政府軍を指揮・暗殺される・従一位・勲一等旭日大綬章)がいた。

 また、桂太郎の郷里の先輩として次の二人もいた。

 参議・木戸孝允(きど・たかよし=桂小五郎<かつら・こごろう>山口・長州藩の尊王攘夷派の中心人物・藩の外交担当者・維新後総裁局顧問専任<三十五歳>・参与・参議・文部卿<四十一歳>・文明開化を推進・封建的諸制度の解体に努める・三権分立国家の樹立を主張・権力闘争の新政府の中での精神的苦悩により心身を害し西南戦争半ばに「西郷もいいかげんにしないか」との言葉を残し病死<四十四歳>・遺族は侯爵の叙される・従一位・勲一等旭日大綬章)。

 工部大輔・伊藤博文(いとう・ひろふみ・山口・松下村塾・イギリス留学<二十二歳>・長州藩外国応接係・高杉晋作の下で功山寺挙兵・維新後外国事務局判事・兵庫県知事<二十八歳>・工部卿<二十九歳>・宮内卿・岩倉使節団副使・征韓論で大久保利通を支持・大久保暗殺後内務卿<三十七歳>・憲法調査のため渡欧・大日本帝国憲法を起草制定・初代内閣総理大臣<四十四歳>・枢密院議長・第二次伊藤内閣・第三次伊藤内閣・立憲政友会初代総裁・第四次伊藤内閣・貴族院議長・初代韓国統監・枢密院議長・ハルピン駅で暗殺される<六十八歳>・公爵・従一位・大勲位菊花大綬章・菊花章頸飾・ロシア帝国アレクサンドルネフスキー勲章一等・フランス共和国レジオンドヌール勲章一等・大英帝国バス勲章一等など)。

 当時ドイツ留学中の桂太郎はこの一行に会って、ドイツの国情を説明したり、案内役をしたりした。




590.桂太郎陸軍大将(10)「俺は京都に行かぬ」と、酒を飲んで、その末に剣を抜いた

2017年07月14日 | 桂太郎陸軍大将
 他の補助長官・南部直之允は、京都に召喚されたが、彼は隊長と誓約し、断じて職を去らず、隊員と死生を共にすると、頑張っていた。

 こんな厄介な部隊に、進んで隊長となろうとする者はいなかった。桂太郎がこの貧乏くじを割り当てられたのは、彼のニコポン主義(若い時からこの傾向があった)を以てすれば、何とかやってくれるだろうという、上役の鑑定によるものだった。

 当時、桂太郎は、まだ二十歳だった。桂自身は、その頃しきりに、外遊して、新知識を学びたいと念願していたので、この任務は、あまり面白くなかった。それにこの四大隊二番隊を率いる自信もなく、むしろ、この司令職は心外であった。

 桂太郎は、一応、上役に「この職に就きたくない」と抗議を申し出た。だが、それは認められず、「統率が厄介なのは分かっている。それならばこそ、貴公を煩わすのだ」というのが、上役の答えだった。

 宿で如何にすべきか、桂は考え込んだ。その結果、やっかいな二番隊ではあるが、未見の奥羽地方を見ておくのも悪くはない。しかもそれが藩命ならば、進んでその任務に就くべきであろうと決心した。その任務を果たしてから、外遊しても遅くはあるまいと、考えたのだ。

 桂太郎は、まずこの難物の隊を、どうして統率していくべきか考えた。そこで隊内の主だった者に会って、事情をよく聞くことにしようと思った。

 そんな時、早くも情報が二番隊に伝わったとみえ、下士頭の藤村録平が、桂の様子を見るために、宿に訪ねてきたのだ。

 藤村は二番隊の中でも最も手ごわい煽動者の一人だった。桂は、藤村を快く引見した。そして、明朝直ちに、大阪にある二番隊陣地に、赴くことを約束した。

 明朝、桂は藤村と共に船に乗り、高瀬川から淀川に出て、大阪に向かった。船中、桂は、藤村とよく話し合ってみることにした。

 だが、藤村は、何かと話の中で、桂につっかかってきて、打ち解けようとはしなかった。桂は、そんな藤村に、腹を割って話し、「二番隊の統率が難しいのは知っている。だが、奥羽では激しい戦いとなる。統率がとれない隊は必ず敗れる。今のままでは自殺しに行くようなものだ。藤村さん、知恵を貸してくれ」などと言って懐柔した。

 船を降りる頃には、藤村は完全に桂と打ち解けて、心酔すら覚え、以後桂の無二の腹心となっていったと言われている。

 桂太郎は、大阪に第四大隊二番隊司令として着任した。桂が着任したので、補助長官・南部直之允は、当然命令が出ていたので、京都に引き揚げなければならなかった。

 だが、南部は、「俺は京都に行かぬ」と、酒を飲んで、その末に剣を抜いた。桂を斬るかと思われたが、彼は酒樽を斬った。

 隊員も口々に南部の復職を桂に迫った。「南部と生死を誓ったからには、南部なしに東北に出征することはできない」というのである。

 だが、桂は、断固としてこれを退け、「君命に忠誠でなければならない」と訓戒した。隊員たちは、矛を収めたが、これは藤村が陰で隊員たちに働きかけたのだ。後に、南部は説得されて、京都に赴き、その後東北に出征した。

 この事件を契機に、桂太郎は隊内での強情者や反抗者を知ることができた。彼らの事情を詳細に調べてから、下士以上の者を一室に集めて、各自の希望を述べさした。

 それから、懇々と、規律をよく守るべきであること説諭した。そのあと、下士中の強情者や反抗者を選んで、彼らに、全隊員の前で、「長藩第四大隊軍規」を朗読させたのだ。

 その「長藩第四大隊軍規」の中には、「一、一隊の兵士は、互いに信義を宗とし、同志協力、共に国家の藩屏(はんぺい=垣根、守護の囲い)と相成可申(なることにしている)、一己の不平を以て、軽薄の振舞無用之事」という一条もあった。

 この軍規を、日頃最も口やかましい反抗者を選んで、朗読させたのだ。桂太郎も、二十歳という若い頃からなかなかの総帥の器だった。これで、奥羽への出発の準備は整った。

 奥州戦で東北は鎮定され、桂太郎はいったん東京に凱旋し、さらに京都に寄ってから、長州に戻った。

 明治二年三月二十三日、桂太郎の父、与一右衛門が病気で死去した。桂太郎は、五月二十八日、家督を相続した。


589.桂太郎陸軍大将(9)地蔵堂の陰からいきなり二人が現れた。抜刀していた

2017年07月07日 | 桂太郎陸軍大将
 駅舎の明かりで見ると、その二人は覆面をしていた。彼らも早駕籠を求めたが、断られた。「我らは水戸藩士だ。御三家の御用を優先するは定法である」と横柄に割り込んできた。

 その時、「おや、貴殿は中村氏ではないか」と木梨が一人に声をかけた。「いや、拙者は早坂源次郎、人違いでござろう」と相手は言いながら、ひどく狼狽していた。

 そして、急に反り返る態度を改め、「火急の用にて福山まで参るところ、なにとぞ、お譲り願いたい」と慇懃に頭を下げた。

 「拙者らも急いでおる」と桂が口を尖らせた。だが、「分かり申した。先に行かれるがよい」と木梨が、あっさり彼らに譲ってしまった。

 「かたじけない」。早坂と名乗る男は、連れの者を促して、二挺の駕籠に乗り込み慌てて出発した。

 「なぜです」と、桂は木梨を責めた。木梨は「あいつは確かに中村だ。覆面はしておるが、鼻の横に大きな黒子(ほくろ)があるのが何よりの証拠。下関の攘夷戦に京都からやって来た浪士隊に加わっていた水戸浪士の一人だ。その後、新選組に入ったと聞いている」と言った。

 「やはり我々を尾行してきたのでしょうか」と桂が聞くと、「目的はそれだよ」と、木梨は桂が背負っている詔勅の包みを指さした。

 木梨は「おそらく待ち伏せて、奪うつもりであろう。油断するな。返り討ちにしてくれる」と言った。木梨精一郎は太郎より二つ年上の二十三歳。背も高く剣の腕も確かなようだ。

 桂も、剣術、槍、乗馬と一通りの武術は修めているが、木梨ほどの自信はなかった。しかし、戦うしかあるまいと覚悟を決め、子供のころからの負けぬ気が燃え上がった。

 木梨が「何だ、怖いのか」と言うと、「武者震いですよ。しかし、まだ人を斬ったことがありませんのでね」と桂が答えた。「拙者もないが、ここはやるしかないぞ」「そうです、やるしかない」。「柄袋をはずして、刀の鯉口を切っておけ」「承知」。

 桂太郎と木梨精一郎は腹ごしらえをして、明石を出発した。一時間ばかりも歩いた頃、道端にある地蔵堂の陰からいきなり二人が現れた。抜刀していた。

 すかさず、木梨は居合腰に構えて突進し、抜き打ちに斬り払った。早坂と名乗っていた武士は、木梨の一撃をかろうじて受けたが、二の太刀で前頭を斬りさけられ、その場にぶっ倒れた。

 同時に桂は、正眼に構えているもう一人に、猛然と打ちかかっていった。「桂、おれに任せろ」。背面にまわった木梨が声をかけたので、敵が驚いて振り向こうとする一瞬の隙をねらって突き出した桂の剣尖が深々と相手の胸を刺しつらぬいた。のけぞる男の肩に、木梨が上段から浴びせかけた。

 「止めをさしておこう」。木梨はまだ呻き声をあげている二人の喉を刺して、「浪人には違いないが、水戸藩士とほざいておったから、念のためだ。あとあと面倒なことになってもいけぬからな」と言った。

 桂と木梨は、そのまま歩いて行くうちに、夜が明けた。川辺におりて顔を洗い、衣服に着いた血を、拭いおとして人影のない街道に出た。
 
 「初めて人を殺しました」と桂が言うと、「おぬしは四境戦争に従軍して、敵を殺しただろう」と木梨が言った。

 「それとこれとは違いますよ」と桂が言うと、「とにかく詔勅を奪われないために、止む無くということだ。難しく考えるな」と、木梨が答えた。藩を目指して、二人はひたすら歩いて行った。

 慶応四年三月四日、桂太郎は小姓役を辞めて、長州藩の第四大隊二番隊の司令になった。
「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、桂太郎は、第四大隊二番隊の司令として、藩兵一〇六人、雑兵三〇人を率いることになった。

 「桂太郎(三代宰相列伝)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)及び「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文藝春秋・平成27年)によると、第四大隊二番隊司令・桂太郎は、奥羽鎮撫使の警衛を命ぜられた。

 この第四大隊二番隊というのは、伏見鳥羽の戦の当時は、備後尾道におり、のち福山に進軍し、福山藩を下してから、神戸に至って、備前兵と共にその守備に当たっていたのが、さらに大阪に移ったものであった。

 この二番隊は長州藩の中間組から編成されていたが、年を取って世間ズレした者が多く、議論家や不平家が多く、当時、その統率は極めて難しいことで知られていた。

 最初の隊長は、藩にあった際、排斥され、そのために自殺した。二代隊長・深栖多門、補助長官・桑原謙造も、神戸に滞陣中、反抗を受けて排斥をくい、職を去っていた。