陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

23.高木惣吉海軍少将(3) 入校三ヶ月で高木は海兵の教育にすっかり失望した

2006年08月25日 | 高木惣吉海軍少将
「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、大正元年八月、海軍兵学校の入試面接の時、「高木生徒は、どんな理由で本校を志願したのか?」と質問された。

 高木は、おおよそ、こんなくだらぬ質問ほど答えにくいものはないと思ったという。まさか海兵生徒のジャケツに短剣姿のカッコいいのにあこがれて(実際はそうだったが)ともいえない。

 そうかといって貧乏で高校へ行けないから(これも大いに事実だったが)とも答えられないし、「海が好きで、立派な海軍将校になり、海国日本のために貢献したいから」などと体裁のいい嘘をついてしまった。

 大正元年九月九日、高木は海軍兵学校に入学した。新入生の「娑婆っ気ぬき」のための暴力制裁が始った。

 ところが鉄拳をふりまわすようなのは、たいてい、成績劣等の野次馬に限られたという。入校早々の制裁でノイローゼになり、退学した級友が三名出てしまった。

 高木もかなり自覚するほどのノイローゼになったが、退学までにはならなかった。しかし予習時間に何を読んでも覚えられず、記憶喪失症かと迷い、成績は落ちる一方であった。

 入校三ヶ月で高木は海兵の教育にすっかり失望した。それでも赤貧洗うような実家にはアルコール中毒の父が胃潰瘍でろくな稼ぎも出来ないような事情では、官費の学校に踏みとどまるほかはなかった。

 海兵の事実上の教育指導は教頭であった。在学中、加藤寛治、堀内三郎、正木義太の三大佐が順次着任した。

 加藤大佐は十八期のトップという自惚れがあったかも知れぬが、散々なスパルタ式を強制した。堀内大佐は精神的な鍛錬に力をいれ親愛感をもたせる教頭だった。

 高木が一番反発を感じたのは正木大佐だった。広瀬中佐と同じ第二回の旅順閉塞隊に加わり、武揚丸を指揮した勇士というだけで教育者ではなかった。

 訓話を聞いても心の琴線に触れるものはなく、やったことは、校庭の美しいツツジを残らず引き抜いてどこかに移した位で、生徒に赤いものを見せるのは有害だという理由だったそうだ。

 とりどりのツツジは生徒の目をよろこばすこと、桜とともに代え難いものであった。高木は正木教頭は天下の野暮天と思ったという。
 
 日露戦争後からの教育の型式化、硬直化で、大正初期の海軍兵学校の教育は、想像も出来ない詰め込み丸暗記で、それも大砲、魚雷、機雷、航海兵器などの構造の暗記に大きな点数が予定され、物理、数学、英語などの基礎科目の点数は刺身のツマ扱いであった。

 旧式六インチの砲のからくりなどで、「螺旋がまわれば螺輪がまわる。螺輪がまわれば~」という型の説明を下士官教員が汗だくで教えてくれたが、面白くもなければ、おかしくもない。

 こんな構造を丸暗記しても、卒業して乗艦したら、こんな旧式砲を積んでいる艦はない。なぜ力学や、機械学の原理をもっとやらないのだろうと高木は思った。

 有馬修一という鹿児島一中きっての秀才が、海軍兵学校で高木と机を並べたが、弥山登山では、高木は有馬を後ろから押す役だった。

 遠洋航海の門出に、佐世保と有田間二十五キロの駆け足競争をやったが、それがもとで胸膜炎となり中尉で休職、二十六歳で早世した。これに似た実例は高木の同期生だけでも四、五名を数えたという。



22.高木惣吉海軍少将(2) 皇太子殿下は一瞬ハッとされて、「高木海軍少将ですか」と念を押された

2006年08月18日 | 高木惣吉海軍少将
「海軍少将・高木惣吉」(光人社)によると、昭和五十八年の早春、鎌倉の東慶時に皇太子殿下ご夫妻と浩宮様がお立ち寄りになった。

 ご案内の住職が境内の一角に並ぶ哲学者達の墓の傍らを通り過ぎた時、「ここに高木という海軍軍人の墓もございます」と何気なく申し上げた。

 皇太子殿下は一瞬ハッとされて、「高木海軍少将ですか」と念を押された。そのあと妃殿下、浩宮とささやかれ、高木少将の墓前に佇まれ黙礼された。終戦工作に奔走した高木少将のことは宮中でもご存知だったのである。

 高木少将が自分の墓を東慶時の西田幾多郎(哲学者)の墓の後ろの一画に選定したのは昭和二十五年だった。高木は生前の西田幾多郎と会っており、生涯、西田哲学を精神的拠りどころとして生きた。

 西田幾多郎は昭和二十年六月七日、死去している。西田博士は病気で自分の死が近づいた時、母も死去しており、一人残される愛娘を病床の枕元に呼び「死はお月様より美しいんだよ」と伝えた。

 敗戦間近になり、日本が敵国に占領されたら1人残していく愛娘はどうなるか、心残りの思案の末、そう伝えたと言われている。

 高木は昭和十六年の開戦直前に鎌倉の西田博士を訪ね、会っている。その時政府・軍部の動きを西田博士に説明し「ここまで来ればもはや開戦のほかありますまい」と言った。

 すると西田博士は「君達は国の運命をどうするつもりか!いままででさえ国民をどんな目にあわせたと思う。日本の!日本のこの文化の程度で、戦いができると考えているのか!」と睨みすえられた。

 高木は息が詰まったと言う。高木は「この時ばかりふだん寛大であった先生だけに、しみじみとこたえた」と述べている。

 海軍良識派の旗手と言われた高木惣吉海軍少将の業績は、民間ブレーンを登用したこと、東條内閣退陣の工作、そして終戦工作である。

 もともと、高木は若かりし頃、海外で働くことを考えていた。ハワイかカリフォルニアに行き、向こうで大農場を経営しようと思っていた。

 高等小学校を卒業し、ある出版社の通信教育で優秀な成績を取ったら米国留学できると言うので、頑張って通信教育をやり優秀な成績をとり、合格。上京して出版社に出向いたが、それは誇大広告で米国留学は嘘だった。

 それで夢がしぼんで、郷里で中学の数学教師にでもなろうかと思っていた。だが、縁があって東京天文台長の森村寿博士の書生になった。

 ちょうどその頃、この森村博士の母堂が、学資を要せず、立派な教育を授かり、実力次第で立身出世できる軍人への道を高木に奨めた。

 高木は実は海軍に憧れた訳ではなかったが、海軍兵学校は、高木のように中学を卒業していなくても受験できたのである。こうして高木は海軍兵学校を受験、合格して入校した。



21.高木惣吉海軍少将(1) 日給をもらいながら勉学に励んだ

2006年08月11日 | 高木惣吉海軍少将
昭和19年8月29日、海軍省の高木惣吉教育局長は井上成美海軍次官に突然呼び出された。

 井上次官は高木に終戦の研究を命じ、「このことは大臣(米内光政)と私のほかは誰も知らない。君は病気療養という名目で海軍省出仕になってもらう」と言い渡された。

 高木は家が貧乏で中学校にもいけず、高等小学校を卒業するとすぐ鉄道の建設現場事務雇員として日給をもらいながら勉学に励んだ。

 苦学の後、ついに海軍兵学校に合格。海軍大学校を首席で卒業し、海軍省教育局長まで登りつめ、海軍良識派の旗手と言われた高木惣吉海軍少将。

  その高木惣吉海軍少将は、井上次官の命により、その教育局長の職をきっぱりと辞職、終戦工作に命をかけて奔走した。

  優れた分析力の持ち主であり、これまでに多数の政治家、天皇側近、民間有識者、学者と会談を行ってきた政治将校であった高木は井上次官の要請を受けて、病魔と闘いながら終戦工作に取り組んだ。

 高木自身、若い時分、自分のことを「へそ曲がりな性格」と言っており、海軍に入ったのに航海配置が大嫌いで、それでありながら、ひょんなことから、兵科を希望もしない大嫌いな航海科にまわされ、高等科学生を終えると、航海長に配置され身を削る思いをした。反骨精神も旺盛で上司ともしばしば衝突した。

 戦後の高木は、海上自衛隊幹部学校で講義を行い、後輩を指導すると同時に、日本海軍滅亡に至る内省的な執筆活動に取り掛かった。

 昭和54年85歳で死去するまで、生涯日本海軍を美化することなく、滅亡に至る真実の分析を行い、批判を受けながらも執筆・発表を続け、自己の信念を通した生き方をした。

    
    <高木惣吉海軍少将プロフィル>

 1893(明治26年)8月、熊本県人吉生まれ。1907(明治40年)鉄道員肥薩線建設事務所雇員。

 1912(明治45年)海軍兵学校入校。1915(大正4年海軍兵学校卒業(43期)。1921(大正10年)海軍大尉、海軍大学校航海学生(高等科)。

 1925(大正14年)海軍大学校甲種学生(25期)。1927(昭和2年)海軍大学校卒業(首席・恩賜長剣拝受)、フランス駐在。
 
 1930(昭和5年)海軍大臣秘書官。1933年(昭和8年)海軍中佐、海軍大学校教官。1937(昭和12年)臨時調査課長、海軍大佐。

 1939(昭和14年)海軍大学校教官。調査課長。1942(昭和17年)舞鶴鎮守府参謀長。1943(昭和18年)海軍少将、海軍大学校研究部員。

 1944(昭和19年)海軍省教育局長。8月29日井上成美次官より終戦工作の密命を受ける、軍令部出仕兼海大研究部員。

 1945(昭和20年)9月15日予備役。9月19日東久邇内閣書記官長。1946(昭和21年)公職追放令。

 1948年(昭和23年)「太平洋海戦史」脱稿。1949(昭和24年)「太平洋開戦史」発刊。1950(昭和25年)「山元五十六と米内光政」発刊。1955(昭和30年)海上自衛隊幹部学校特別講義。

 1958(昭和33年)毎月海上幕僚長等と会談(虎の門会)。1969(昭和44年)「私観太平洋戦争」発刊。1971年(昭和46年)「自伝的日本海軍始末記」発刊。

 1979年(昭和54年)「自伝的日本海軍始末記続篇」原稿完成(3月18日)。7月27日死去(85歳)。

20.石原莞爾陸軍中将(10) 石原は死の直前にも冗談を言っていた

2006年08月04日 | 石原莞爾陸軍中将
関東軍に絶望した石原は独断で関東軍参謀副長を辞して帰国する。驚いた石原の兄貴分である板垣征四郎は無理やり石原を入院させて、病気療養としてしまった。

当時東條は陸軍次官になっていた。その後石原は昭和13年12月5日、舞鶴要塞司令官に転補された。

要塞司令官という地位は将官としては閑職で退職を控えた老朽者が据えられるのが例であった。

結局、東條と石原は喧嘩両成敗で、東條は航空総監に、石原は舞鶴要塞司令官に左遷されたのだ。

 石原が中将に昇進して、京都の第十六師団司令部付きに転補されたのは昭和14年8月だった。その後、石原は師団長に任命された。普通は首になるところだったが、板垣が石原を救った。

 師団長在任中、石原は京都大学の公開講演会に招かれた。講演で、石原は「敵は中国人ではない。日本人である。自己の野心と功名心に駆り立てられて、武器を取って立った東條、梅津の輩こそ、日本の敵である。同時に彼らは世界の敵でもある。彼らこそ銃殺されるべき人物である」と言った。

聴衆の中から嵐のような拍手が起こった。たまたま京都府知事が臨席していたが、あわてて壇上に上がると、「ただ今のお話は、この場限りのお話として伺っておきたいと思いますので、諸君も御承知置き下さい」と言った。

しかし石原は「いや遠慮はいりません。私の意見は天下に公表して、批判の対象としてもらいたいと思います」と言った。

 昭和16年2月、陸軍省人事局長野田謙吾は3月発令予定の人事異動案を携えて、南京の支那派遣軍総参謀長板垣征四郎のもとに赴いた。

石原莞爾待命の人事案を見て板垣の顔は青ざめ鎮痛そのものの表情だったたという。板垣は石原を弟のように可愛がっていたからだ。だが石原は板垣の手を離れて独走を続けてきた。

 野田が「閣下、ようやく肩の荷をおろされましたな」というと、野田をにらみ「そういったものでもないよ」とつぶやいたという。こうして石原莞爾の軍人人生は終末を迎えた。

 その後、石原は立命館大学教授に就任した。だが、東條首相らの干渉を受けた石原は昭和16年9月、立命館大学教授を辞して郷里の鶴岡に帰った。

昭和17年12月、戦局について再三の東條首相の要請により甘粕正彦が仲介して、やっと石原は上京して東條と会談した。

そのとき東條が「今後の戦争指導はどうあるべきか」と聞いた。石原は「あなたにできないことは、わかり切っている。結局、あなたが引退する意外ないでしょう」と答えるばかりだったという。

 東條英機との確執について、「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、終戦後、石原は、いろんな人から、「あなたは東條さんと対立されたそうですが」と聞かれたという。

そのたびに彼は、「対立なんかしませんでしたよ」と打ち消した。「でも、何かにつけて」「いや対立ではありません。東條には思想がありませんが、僕には思想があります。思想のない者が、どうして思想のある者と対立することができましょう」と答えたとある。石原の東條観が如術に現れている。

石原莞爾は昭和24年8月15日に膀胱癌により死去した。石原は死の直前にも冗談を言っていたと言う。また、臨終が近いのを知って、回りのものが泣くと、「泣かんでもいい」と言った。

しばらくして、容態が、回復すると、「ありがたいが、臨終までの時間が長引くようでは皆さんにかえって迷惑がかかるというものだ」とも言った。

東條英機は石原が死去した、その前年の昭和23年にA級戦犯として処刑されていた。

(「石原莞爾陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「高木惣吉海軍少将」が始まります)