これに対して、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように述べた。
「今回の貴国側の提案は、日本を失望させるであろう」。
するとルーズベルト大統領はまず、次のように応じた。
「事態のここに至ったのは真に失望するところである。第一回は本交渉開始後数ヶ月にして仏印進駐で冷水を浴びせられたが、最近の情報によると、またまた第二回の冷水を浴びせられる懸念がある」。
それから、ルーズベルト大統領はさらに話を続け、次のように結論付けた。
「ハル長官と貴大使等が話し合い中に、日本の指導者から何ら平和的な言葉を聞くことのできなかったことは、この交渉を非常に困難にしたのであって、暫定取り決めによって現状を打開するという折角の案も、終局に於いて日米両国の国際関係処理に関する根本主義が一致しない限り所詮は無駄になる」。
会見の最後に、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように述べた。
「東京からまだ何ら回訓はないが、自分としては三十年来の友情により、多大の尊敬を払っている大統領の政治手腕をもって、何らかの打開の道を見出すことを希望する」。
これに対して、ルーズベルト大統領は、次のように応じた。
「来週の水曜日(十二月三日)にはワシントンに帰って再びお目にかかりたいが、その間に何らか局面に資する事態の発生があれば結構である」。
さらに、同席のハル国務長官が、暫定取り決めが不成功となった理由として、大統領の説明の他に、次のようなものがあると述べた。
「日本が仏印に増兵、これによって各国の兵力を牽制し、さらに、一方には三国同盟、防共協定を振りかざしながら、アメリカに対して石油を求められるが、それはアメリカの輿論(よろん)の承服しないところである」。
ハル国務長官は、続いて、日本側の矛盾点として次のように主張した。
「アメリカが平和的解決に努力している際に、東京の要人が、力による新秩序建設を主張していた」。
昭和十六年十二月八日、日本海軍は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入した。
日米交渉で、和平のために尽力した駐米全権大使・野村吉三郎大将だったが、結果的に日米両国は遂に戦争に突入せざるを得なかったと言える。
だが、日米交渉の裏で、着々と戦争準備を進めていたとして、「卑怯なだまし討ちだ」と言われ、駐米全権大使・野村吉三郎大将は、帰国するまでの半年間をワシントンで過ごすことになった。
戦後、野村吉三郎元大将は、昭和二十八年三月、同郷の松下幸之助に請われ、松下電器産業の資本傘下となった日本ビクター社長に就任した。
昭和二十八年十月、野村吉三郎元大将は、アメリカを訪問した。
ルーズベルト大統領は昭和二十年四月十二日に亡くなっていたが、旧知のプラット大将、スターク大将、グルー元駐日大使、フーバー元大統領らが大歓迎してくれた。
彼らは皆、駐米全権大使時代、野村吉三郎大将の平和に対する外交政治への苦心を知る人物ばかりだったのである。
その後、昭和二十九年六月、野村吉三郎元大将は参議院選挙補欠選挙に当選、参議院議員となる。その後昭和三十一年八月、自民党参議院議員会長に就任。
昭和三十三年、八十歳になった野村吉三郎元大将は、福留繁(元海軍中将)、田中新一(元陸軍中将)らと同行して、台湾を訪問した。
昭和三十四年には参議院議員に再選された。昭和三十五年七月、野村吉三郎元大将は自由民主党外交調査会長に就任。
高齢になっても、ドライブが好きで、よくいろんな所に自分で車を運転して、ドライブを楽しんでいたと言われている。
昭和三十九年五月八日、野村吉三郎元大将は東京都新宿の国立東京第一病院で老衰のため死去。享年八十六歳。(終わり)
■■■ブログ休止のお知らせ■■■
諸事情により、当ブログを休止させて頂きます。読者の皆様には、長年、当ブログをご愛読いただき、ありがとうございました。
「今回の貴国側の提案は、日本を失望させるであろう」。
するとルーズベルト大統領はまず、次のように応じた。
「事態のここに至ったのは真に失望するところである。第一回は本交渉開始後数ヶ月にして仏印進駐で冷水を浴びせられたが、最近の情報によると、またまた第二回の冷水を浴びせられる懸念がある」。
それから、ルーズベルト大統領はさらに話を続け、次のように結論付けた。
「ハル長官と貴大使等が話し合い中に、日本の指導者から何ら平和的な言葉を聞くことのできなかったことは、この交渉を非常に困難にしたのであって、暫定取り決めによって現状を打開するという折角の案も、終局に於いて日米両国の国際関係処理に関する根本主義が一致しない限り所詮は無駄になる」。
会見の最後に、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように述べた。
「東京からまだ何ら回訓はないが、自分としては三十年来の友情により、多大の尊敬を払っている大統領の政治手腕をもって、何らかの打開の道を見出すことを希望する」。
これに対して、ルーズベルト大統領は、次のように応じた。
「来週の水曜日(十二月三日)にはワシントンに帰って再びお目にかかりたいが、その間に何らか局面に資する事態の発生があれば結構である」。
さらに、同席のハル国務長官が、暫定取り決めが不成功となった理由として、大統領の説明の他に、次のようなものがあると述べた。
「日本が仏印に増兵、これによって各国の兵力を牽制し、さらに、一方には三国同盟、防共協定を振りかざしながら、アメリカに対して石油を求められるが、それはアメリカの輿論(よろん)の承服しないところである」。
ハル国務長官は、続いて、日本側の矛盾点として次のように主張した。
「アメリカが平和的解決に努力している際に、東京の要人が、力による新秩序建設を主張していた」。
昭和十六年十二月八日、日本海軍は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入した。
日米交渉で、和平のために尽力した駐米全権大使・野村吉三郎大将だったが、結果的に日米両国は遂に戦争に突入せざるを得なかったと言える。
だが、日米交渉の裏で、着々と戦争準備を進めていたとして、「卑怯なだまし討ちだ」と言われ、駐米全権大使・野村吉三郎大将は、帰国するまでの半年間をワシントンで過ごすことになった。
戦後、野村吉三郎元大将は、昭和二十八年三月、同郷の松下幸之助に請われ、松下電器産業の資本傘下となった日本ビクター社長に就任した。
昭和二十八年十月、野村吉三郎元大将は、アメリカを訪問した。
ルーズベルト大統領は昭和二十年四月十二日に亡くなっていたが、旧知のプラット大将、スターク大将、グルー元駐日大使、フーバー元大統領らが大歓迎してくれた。
彼らは皆、駐米全権大使時代、野村吉三郎大将の平和に対する外交政治への苦心を知る人物ばかりだったのである。
その後、昭和二十九年六月、野村吉三郎元大将は参議院選挙補欠選挙に当選、参議院議員となる。その後昭和三十一年八月、自民党参議院議員会長に就任。
昭和三十三年、八十歳になった野村吉三郎元大将は、福留繁(元海軍中将)、田中新一(元陸軍中将)らと同行して、台湾を訪問した。
昭和三十四年には参議院議員に再選された。昭和三十五年七月、野村吉三郎元大将は自由民主党外交調査会長に就任。
高齢になっても、ドライブが好きで、よくいろんな所に自分で車を運転して、ドライブを楽しんでいたと言われている。
昭和三十九年五月八日、野村吉三郎元大将は東京都新宿の国立東京第一病院で老衰のため死去。享年八十六歳。(終わり)
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