陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

740.野村吉三郎海軍大将(40)大統領の政治手腕をもって、何らかの打開の道を見出すことを希望する ■■■■■ブログ休止のお知らせ■■■■■

2020年05月29日 | 野村吉三郎海軍大将
 これに対して、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように述べた。

 「今回の貴国側の提案は、日本を失望させるであろう」。

 するとルーズベルト大統領はまず、次のように応じた。

 「事態のここに至ったのは真に失望するところである。第一回は本交渉開始後数ヶ月にして仏印進駐で冷水を浴びせられたが、最近の情報によると、またまた第二回の冷水を浴びせられる懸念がある」。

 それから、ルーズベルト大統領はさらに話を続け、次のように結論付けた。

 「ハル長官と貴大使等が話し合い中に、日本の指導者から何ら平和的な言葉を聞くことのできなかったことは、この交渉を非常に困難にしたのであって、暫定取り決めによって現状を打開するという折角の案も、終局に於いて日米両国の国際関係処理に関する根本主義が一致しない限り所詮は無駄になる」。

 会見の最後に、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように述べた。

 「東京からまだ何ら回訓はないが、自分としては三十年来の友情により、多大の尊敬を払っている大統領の政治手腕をもって、何らかの打開の道を見出すことを希望する」。

 これに対して、ルーズベルト大統領は、次のように応じた。

 「来週の水曜日(十二月三日)にはワシントンに帰って再びお目にかかりたいが、その間に何らか局面に資する事態の発生があれば結構である」。

 さらに、同席のハル国務長官が、暫定取り決めが不成功となった理由として、大統領の説明の他に、次のようなものがあると述べた。

 「日本が仏印に増兵、これによって各国の兵力を牽制し、さらに、一方には三国同盟、防共協定を振りかざしながら、アメリカに対して石油を求められるが、それはアメリカの輿論(よろん)の承服しないところである」。

 ハル国務長官は、続いて、日本側の矛盾点として次のように主張した。

 「アメリカが平和的解決に努力している際に、東京の要人が、力による新秩序建設を主張していた」。

 昭和十六年十二月八日、日本海軍は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入した。

 日米交渉で、和平のために尽力した駐米全権大使・野村吉三郎大将だったが、結果的に日米両国は遂に戦争に突入せざるを得なかったと言える。

 だが、日米交渉の裏で、着々と戦争準備を進めていたとして、「卑怯なだまし討ちだ」と言われ、駐米全権大使・野村吉三郎大将は、帰国するまでの半年間をワシントンで過ごすことになった。

 戦後、野村吉三郎元大将は、昭和二十八年三月、同郷の松下幸之助に請われ、松下電器産業の資本傘下となった日本ビクター社長に就任した。

 昭和二十八年十月、野村吉三郎元大将は、アメリカを訪問した。

 ルーズベルト大統領は昭和二十年四月十二日に亡くなっていたが、旧知のプラット大将、スターク大将、グルー元駐日大使、フーバー元大統領らが大歓迎してくれた。

 彼らは皆、駐米全権大使時代、野村吉三郎大将の平和に対する外交政治への苦心を知る人物ばかりだったのである。

 その後、昭和二十九年六月、野村吉三郎元大将は参議院選挙補欠選挙に当選、参議院議員となる。その後昭和三十一年八月、自民党参議院議員会長に就任。

 昭和三十三年、八十歳になった野村吉三郎元大将は、福留繁(元海軍中将)、田中新一(元陸軍中将)らと同行して、台湾を訪問した。

 昭和三十四年には参議院議員に再選された。昭和三十五年七月、野村吉三郎元大将は自由民主党外交調査会長に就任。

 高齢になっても、ドライブが好きで、よくいろんな所に自分で車を運転して、ドライブを楽しんでいたと言われている。

 昭和三十九年五月八日、野村吉三郎元大将は東京都新宿の国立東京第一病院で老衰のため死去。享年八十六歳。(終わり)

         ■■■ブログ休止のお知らせ■■■ 

 諸事情により、当ブログを休止させて頂きます。読者の皆様には、長年、当ブログをご愛読いただき、ありがとうございました。









739.野村吉三郎海軍大将(39)今後十年もたった後には、貴国もアメリカと同じ側に立ってドイツと闘わなければならない

2020年05月22日 | 野村吉三郎海軍大将
 これに対してルーズベルト大統領は、強い口調で、石油の禁輸の断行を次のように強くほのめかしたのである。

 「従来、世論は日本に対して石油を禁輸せよと強く主張してきたが、自分は日本に石油をあたえることは太平洋平和の為に必要であると説明して今までやってきたのである」

 「ところが、日本が今日のように仏印に進駐し、さらに南方に進もうとするような形勢になっては、自分は従来の根拠を失い、もはや太平洋を平和的にしようすることができなくなってくる」

 「そしてアメリカが錫、ゴムのごとき必要品を入手することが困難になってくる。その上他のエリアの安全が脅かされて、フィリピンも危険となってくる。これでは、せっかく苦心して石油の対日輸出を継続していても何にもならない」

 「今はすでに多少時期遅れの感があるが、もし日本が仏印から撤兵して各国が仏印の中立を保証し、あたかもスイスの如くした上で、自由に公平に仏印の物資を入手するような方法ありとせば、自分は尽力を惜しまない。また日本の物資の入手には自分も極めて同情を持っている」

 「ヒトラーは世界征服を企て、欧州の次にはアメリカ……と、停止するところがないであろう。今後十年もたった後には、貴国もアメリカと同じ側に立ってドイツと闘わなければならないということもありえよう」。

 駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように強く反論した。

 「日本は決してやむを得ざる場合の他は、武力を用いるものではない。日本の武力を用いる場合は、その理由は破邪顕正の剣をふるうのであって、日本人には“大国といえども戦いを好めば国滅ぶ”ということわざがあって、その兵を用いるのは万策尽きてやむを得ざる場合に限っている」。

 駐米全権大使・野村吉三郎大将を若いときからの友人として扱っていたルーズベルト大統領が、独ソ開戦以後、俄然強気の表情を見せ始めたのであった。

 この第三次会見後、アメリカは日本資金の凍結を行い、日本は南部仏印進駐を開始した。八月一日、アメリカは日本に対して、石油輸出禁止等の経済制裁を発動したのである。

 昭和十六年十月十八日、東条英機陸軍大将が内閣総理大臣に就任、戦争開戦のための軍事政権であると、アメリカは受け止めた。

 昭和十六年十一月二十六日(日本時間・二十七日)、アメリカ側の最後通告ともいえる「ハル・ノート」が駐米全権大使・野村吉三郎大将に手交された。

 その内容は、アメリカの日本に対する提案であるが、これを日本政府が受諾すれば、内紛により東條内閣が倒れる位の重大なものであった。

 これを受け取った日本政府は、「これは、アメリカからの宣戦布告である」と憤激し、アメリカ、イギリス、オランダ等連合国を相手とする太平洋戦争に突入すること決定する。

 十一月二十七日午後二時半(日本時間・二十八日午前四時半)、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第九次会見(最後の会見)がホワイト・ハウスで行われた。来栖三郎特命大使とハル国務長官も同席した。

 駐米全権大使・野村吉三郎大将が、ルーズベルト大統領のすすめた煙草をとると、ルーズベルト大統領は自らマッチをすって火を差し出した。

 ところが、駐米全権大使・野村吉三郎大将は隻眼が不自由で、マッチの火と煙草の先端とがなかなか接触しなかった。

 そこで、ルーズベルト大統領は、笑いながら、もう一度手を伸ばして火をつけさせるというような、和やかな雰囲気も見られたという。

 本論に入ると、最初にルーズベルト大統領は次のように切り出した。

 「前大戦には日米両国は連合国側に立ったが、その当時ドイツは他国の心理を把握する事が出来なかった」

 「現在日本には平和を愛好し、種々尽力する人々のあることは欣快とするところである。アメリカの国民の多数もまた然りである。自分は今でも日米両国が平和的妥協に達することについて大きな希望を持っている」。

738.野村吉三郎海軍大将(38)大統領においても、大乗的に政治的考慮を払われんことを希望する

2020年05月15日 | 野村吉三郎海軍大将
 昭和十六年二月十四日、フランクリン・ルーズベルト大統領をホワイト・ハウスに訪問して、駐米全権大使・野村吉三郎が天皇陛下からの信任状を奉呈する時、ルーズベルト大統領の表情はやや硬かった。

 その後、会談に移ってからは、ルーズベルト大統領は、いつもの大統領スマイルで旧友の長旅をねぎらった。

 この会談が、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第一次会見となった。

 ルーズベルト大統領は次のように言った。

 「自分は日本人の友であり、アドミラル・ノムラはアメリカの友である。お互いは十分率直に話し合えることができる」

 「日米の関係は、国務省において、すでに二百数十通の抗議書を日本に出しており、その結果世論は刺激され、今や両国国交は悪化の道をたどっている」

 「昔のメイン号の例もあり、揚子江においては、パネー号事件のような際は、自分及び国務長官が、世論をおさえなかったならば、危険な状態に陥っただろう」

 「日本はいまや海南島から仏印、タイ方面まで進出する形勢にある。日本の南進はほとんど既定の国策のように思われる」

 「アメリカの援英はアメリカ独自の自由意思に基づくものであるが、日本は三国同盟があるために、その行動に十分独立的な自由がなく、かえってドイツ、イタリア両国が日本を強制する恐れもある」。

 以上のようにルーズベルト大統領は憂える気持ちを表したが、そのあと、次のように好意的に語った。

 「今後、自分はいつでも喜んで君と面談するであろう」。

 これに対して、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように答えた。

 「自分は日米は戦うべきものではないということを徹底的に信じておる者であり、将来、世界平和のため、あるいはまた世界平和を維持するため、むしろ両国が努力すべき日の到来することを確信しているものである」。

 ルーズベルト大統領は極めて同感の意を表した。彼は自分がエリノア夫人と駐米全権大使・野村吉三郎大将の来米について歓迎の話をしたことを告げ、会談の最後はやっと和気あいあいたるものとなった。

 昭和十六年十二月八日の日本海軍の真珠湾攻撃(太平洋戦争開戦)までにルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の会見は九回行われている。また、ハル国務長官との会談も二十九回行われている。

 このルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第一次会見以後、日ソ中立条約締結、独ソ開戦、第二次近衛内閣総辞職、第三次近衛内閣、南部仏印進駐など日本国内と世界情勢は変貌し、日米関係はさらに悪化する。

 昭和十六年七月二十四日、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第三次会見が行われた。

 最初に駐米全権大使・野村吉三郎大将が南部仏印進駐について次のように釈明した。

 「仏印進駐は我が国としては経済自活上及び同地区の安全上、真にやむを得ざるところであり、また仏印の領土保全、主権尊重である」

 次に駐米全権大使・野村吉三郎大将は両国間の懸案である太平洋の平和維持を目的とする日米了解案の三難点、一、自衛権の問題、二、中国における駐兵問題、三、通商無差別問題を指摘して次のように述べた。

 「駐兵も永久的ではなく、自ら解決の道があると思う。アメリカ政府は多少日本政府の誠意を疑っているということも聞いているが、現内閣は(松岡洋介がいないため)日米了解案に熱心である。よって大統領においても、大乗的に政治的考慮を払われんことを希望する」。



737.野村吉三郎海軍大将(37)そうやって君を上らせておいて、後から梯子をはずしかねない近頃の連中だから

2020年05月08日 | 野村吉三郎海軍大将
 だから、私は海軍の先輩や友人から意見を聞いたのだが、その中でも思い出すのは、米内(光政、三期後輩、前総理・海相)君の言葉である。

 事情やむをえず就任を引き受けることに踏み切りかけたとき、米内君に会っていろいろ話し合ったが、その時私が、『政府や軍も自分の意見をよく理解して、その線で働かせるという約束だから……』というと、米内君は、『それはまことに結構だが、そうやって君を上らせておいて、後から梯子をはずしかねない近頃の連中だから、十分気を付けるように』と忠告してくれた。

 後日になって、この米内君の言葉が胸にこたえることもあったが、とにかく私としては大廈(大建築)のまさに覆らんとするのを、あえて支えるような悲壮な気持ちで就任を受諾したことは事実である。

 以上が、野村吉三郎の駐米全権大使就任までのいきさつの回顧である。

 昭和十六年一月二十三日、駐米全権大使・野村吉三郎大将は日本郵船「鎌倉丸」で横浜を出港、二月六日午前九時、サンフランシスコに入港した。

 アメリカに上陸した駐米全権大使・野村吉三郎大将をまず出迎えたのは、数十名の新聞記者達であった。彼らは口々に質問を浴びせた。

 「アドミラル・ノムラ、日米関係は絶望だと思うか?」

 これに対し、駐米全権大使・野村吉三郎は悠然と次のように答えた。

 「私は日米関係の前進に大いなる希望を持っている。その希望を抱いてワシントンに行くのだ。日米戦争など考えたこともない」

 「日米関係は改善できるか?だって?……しかり。日米関係を改善することは、私の信念である。それは理由など超越した断固たる信念である。私はこの信念を抱いて太平洋を越えて来たのだ」。

 ところが、二月十一日、駐米全権大使・野村吉三郎大将一行がワシントンに到着した時は、打って変わった冷遇ぶりであった。

 アメリカ当局からの出迎えは、わずかに儀典課長らだけで、多かったのはドイツ、イタリアの駐在大使館員で、駐米全権大使・野村吉三郎大将に、わびしい、そして迷惑な思いを感じさせた。

 サンフランシスコに比べて新聞の扱いも小さく、アメリカの敵意と憎悪を感じさせるのに十分であった。『これは容易ならぬことになったぞ、よほどふんどしを締めてかからなければならないぞ……』駐米全権大使・野村吉三郎大将は、緊張しながらマサチューセッツ通りの日本大使館に向かった。

 日本の提督で、野村吉三郎大将ぐらいルーズベルト大統領と因縁の深い者はいない。

 大正四年、第一次世界大戦開戦の翌年一月、野村吉三郎中佐が大使館附武官としてワシントンに着任した時、ルーズベルトはダニエル海軍長官のもとで海軍次官だった。

 二人はメトロポリタンクラブで食事をしたり、ルーズベルトの私邸を訪ねたり、互いに友情を温めた。

 昭和四年の夏、野村吉三郎中将が練習艦隊司令官として訪米したときは、ルーズベルトはニューヨーク州知事という大統領候補の重要な地位にいた。

 この時は、二人は会見できなかったが、手紙で旧交を温めた。その三年後、ルーズベルトは大統領選挙で当選、野村吉三郎中将は祝賀の手紙を送った。

 「今度暇がとれたら、ぜひエリノア(夫人)を連れて日本を訪問したい」という手紙が、ルーズベルトから届いた。

 昭和十一年、ルーズベルトは大統領に再選された。当時、軍事参議官であった野村吉三郎大将は、また、祝いの手紙を送った。

 ルーズベルトの手紙には、「今度こそ日本を訪問して、提督と会いたいものだ」と書いてあった。

 野村吉三郎大将が全権駐米大使と決まってから、ルーズベルトは側近に、「アドミラル・ノムラは私の最も良き日本の友人だ」と言って、そのワシントン到着を待ちわびていたという。


736.野村吉三郎海軍大将(36)野村さんは外務省の若い者が掛け合いに行くと、むきになって議論をおっぱじめる

2020年05月01日 | 野村吉三郎海軍大将
 次に、当時の朝日新聞は次のように評している。

 「――外相に決まった野村大将、隻眼の今西郷―― 第一次上海事変では第三課引退長官の要職にあって活躍、肉弾を受けて右眼を失い、隻眼提督の異名を馳せた」

 「当時、停戦交渉にあたり、英・米・仏・伊各国代表間を奔走して外交手腕を示したことは、内外人のよく知るところで、海軍きってのアメリカ通として知られている」

 「軍事参議官から急旋回して学習院長におさまり、院内に鋼鉄の精神を叩きこんでいた。大将が欧州動乱の突発を契機として、いよいよ目まぐるしく広がりゆく外交舞台に出陣したことは、大将の明朗闊達な性格と思いあわせて頼もしい」。

 だが、残念ながら、内外の混乱は、この“今西郷外相”に十分の腕を振るわせてはくれなかった。

 当時の内情と野村吉三郎外務大臣の人柄を、毎日新聞が「素人大臣と万年浪人の悲劇」と題して次のような記事を出している。

 「野村さんは外務省の若い者が掛け合いに行くと、むきになって議論をおっぱじめる。膝付き合わせて話をしているうちに、だんだんと外交一本化というひたむきな要望が飲み込めた……というよりは、青年将校だけが持つ熱情が野村さんを包み込んでしまった」

 「齢、耳順(六十歳)を過ぎた老提督には、若い者が可愛くてたまらない……というところがあったようだ」

 「かつて昭和五年、統帥権干犯問題の時、条約派の闘将として艦隊派の青年将校を相手に論争しながら、しかもなお海軍部内に信望を持つ野村さんの性格、それはまた学習院長として、若い学生に取り巻かれながら、莞爾として仁王立ちになっている風格でもあった」

 「『おれに任せろ』と野村さんがいいだしたのも、こういう性格から発した言葉であった。それを政府は突っ放したのである」。

 残念ながら野村吉三郎の外相としての船出はかくのごとく芳しくなかったが、それで挫けるような生易しい紀州っぽではなかった。

 昭和十五年七月、陸軍は伝家の宝刀を抜いた。七月十六日、陸軍三国同盟派の圧力によって、畑俊六陸軍大臣が単独辞職した。

 陸軍が後継陸相を出さぬよう工作したので、同日、米内光政内閣は総辞職に追い込まれた。

 七月二十二日、陸軍の輿望(よぼう)を担って近衛文麿が第三次内閣を組閣した。外相にはかねて近衛に接近して三国同盟絶対論を吹き込んでいた松岡洋介、陸相には大陸からの撤兵不賛成、対米強硬論者の東條英機が陸軍次官から昇格し、三者会談によって新内閣の中心となるべき方針は三国同盟締結にありと決定した。

 この線に基づき、九月二十七日には、ベルリンでヒトラーと日本の駐独大使・来栖三郎の手によって三国同盟が締結された。

 皮肉にも、野村吉三郎がワシントンで駐米大使として平和交渉に忙殺されている時、その補佐役として送られてきたのが、この来栖三郎であった。

 昭和十五年十一月、野村吉三郎は駐米全権大使に任じられた。野村吉三郎は最も困難な任務を押し付けられたのである。この時、野村吉三郎を推したのは当時の外務大臣、松岡洋介であった。

 十一月二十七日、宮中で全権大使親任式が挙行された。三国同盟締結から二か月後であった。野村吉三郎は、ここに至るまでの状況を次のように回顧している。

 松岡氏から避暑先に電報が来たときは、何事か……と思ったが、東京へ帰ってみるとアメリカ行きの話のようであった。

 最初、私としては受ける気はなかった。たんに“火中の栗は拾わず”というような保身上の理由ではなく、当時の日本の政策――片手に棍棒を持ち、片手に大福餅を持ったような対米外交では、私のような武骨者が出る幕ではなく、のこのこ出かけてミスでも冒した場合は、腹を切っても、なお臣節にもとることになると考えて固辞したのである。

 しかし、私として一番弱かったのは、海軍から薦められたことである。当時の日本では、どの階層よりも海軍がアメリカについて関心を持ち、できうる限り日米の妥協をはかりたいと望んでいた。

735.野村吉三郎海軍大将(35)中国の一〇〇万大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げた。感激した

2020年04月24日 | 野村吉三郎海軍大将
 その水筒が、野村吉三郎海軍中将と重光公使の間に来た時、閃光に続いて轟音が響き、ごうっ! と不気味な音ともに第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将は熱湯を全身に浴びせかけられたようなショックを受けた。

 強烈な火薬(手榴弾)の爆発だった。会場は騒然となり、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将の身を気遣う参謀たちが壇上に駆け上がって来た。

 犯人を捜そうとする警備の警官、壇上の被害者を心配する関係者、会場から逃げ出そうとする者……会場は一瞬にして騒乱の巷と化した。

 上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将は重傷だったが、血潮をかぶったまま、一人で壇上から下りようとした。

 第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将と在上海公使・重光葵駐華公使は舞台の上に倒れた。

 在上海総領事・村井倉松、第九師団長・植田謙吉陸軍中将、上海居留民団行政委員会会長・河端員次、上海日本人居留民団・友野盛書記長らもそれぞれ負傷して、壇上は血の海と化していた。

 上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将は五月二十六日死去した。

 最初は、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将の負傷状況が最も重いと見られていたが、実際には在上海公使・重光葵駐華公使が左脚切断、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将は右眼を失明した。

 在上海総領事・村井倉松は顔と左脚に、上海日本人居留民団・友野盛書記長は脚、顔、手に負傷した。

 最も重かったのが上海居留民団行政委員会会長・河端員次で、脚と腹部に重傷を負い、翌日死去した。

 犯人は、その場で逮捕された。予想された蒋介石側の便衣隊(スパイ)ではなく、朝鮮独立党員の尹奉吉(いん・ほうきち・抗日武装組織「韓人愛国党」党員)だった。

 五月二十五日、尹奉吉は上海派遣軍の軍法会議で死刑の判決を受け、十一月十八日内地の大阪衛戍刑務所へ移監され、さらに十二月十八日、陸軍第九師団の駐屯地である石川県金沢市の軍法会議拘禁所へ移管、留置。

 十二月十九日、金沢市内の練兵場で銃殺刑に処された。遺体は金沢市内の共同墓地に埋葬された。享年二十四歳。子供が二人いた。

 当時、中華民国政府の蒋介石主席は、事件を聞いて「中国の一〇〇万大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げた。感激した」と評価した。

 昭和七年十月十日付で、野村吉三郎中将は二度目の横須賀鎮守府司令長官に親補され、昭和八年三月三十日大将に進級した。十一月、軍事参議官。

 昭和十二年四月六日、野村吉三郎大将は予備役編入、学習院長に就任した。

 昭和十四年八月三十日、阿部信行(あべ・のぶゆき)陸軍大将(石川・陸士九期・陸大一九期恩賜・陸軍大学校教官・元帥副官・砲兵中佐・砲兵大佐・野砲兵第三連隊長・参謀本部課長・陸軍大学校幹事・少将・参謀本部総務部長・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・陸軍大臣臨時代理・第四師団長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・予備役・内閣総理大臣・中華民国特派大使・貴族院議員・朝鮮総督・昭和二十八年九月七日死去・享年七十七歳・正二位・勲一等旭日大綬章)が内閣総理大臣に就任した。

 九月二十五日、野村吉三郎大将は阿部内閣において、第六十一代外務大臣に就任した。この就任について世論はどうであったのか。当時の毎日新聞の評は次の通り。

 「――帝国外交の転機に配慮――安倍内閣は列国との外交調整を使命として生まれた。たまたま対米外交は極度に悪化していて、策も施しようもない始末、日独伊枢軸も弛んでいるから、英仏にもなんらかの手を打っておかなければならない」

 「そこで長い間駐米武官としてワシントンにあり、アメリカ人とも特殊の親しみがある学習院長・野村吉三郎大将に専任外相として出馬をうながした」

 「大将は軍人というよりは教育家、教育家というよりは実業人といいたいような触りのよい人物で、対米外交に重点をおく以上、うってつけだという重臣たちの折り紙付きである」。




734.野村吉三郎海軍大将(34)中立の立場にいた野村吉三郎中将は練習艦隊司令官に追いやられてしまった

2020年04月17日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正十五年七月二十六日、野村吉三郎少将は軍令部次長に補され、十二月一日、海軍中将に進級した。

 大正十五年十二月二十五日、大正天皇が崩御され、年号は昭和に改まった。

 時の内閣は若槻礼次郎内閣で、海軍大臣は財部彪大将、軍令部長は鈴木貫太郎大将、海軍次官は大角岑生中将、軍務局長は野村吉三郎中将と同期の小林躋三中将だった。

 連合艦隊司令長官は、かつて、ワシントン会議で大加藤と激論した加藤寛治中将だった。

 昭和二年四月二十日、陸軍大将・田中義一内閣が発足すると、加藤寛治大将が軍令部長に就任した。

 軍令部次長・野村吉三郎中将は、ワシントン会議以来の知己である軍令部長・加藤寛治大将の下で特に政争などに巻き込まれることはなかった。

 だが、昭和五年のロンドン軍縮会議が近づいてくると、海軍部内では、条約(軍縮)派と艦隊派の対立が際立ってきた。

 昭和三年十二月十日、野村吉三郎中将は軍令部出仕となり、軍令部次長の後任に、末次信正中将が就任した。

 軍令部は、加藤寛治大将、末次信正中将の艦隊派のコンビになってしまった。

 昭和四年二月一日、中立の立場にいた野村吉三郎中将は練習艦隊司令官に追いやられてしまった。

 その後、野村吉三郎中将は、昭和五年六月十一日、呉鎮守府司令長官、昭和六年十二月一日、横須賀鎮守府司令長官を歴任した。

 昭和七年一月二十八日、中華民国の上海共同租界周辺で、日本軍と中国軍が衝突し、第一次上海事変後勃発した。

 昭和七年二月二日、野村吉三郎中将は新編の第三艦隊司令長官に親補され、上海に赴いた。

 第三艦隊司令長官・野村吉三郎中将は艦隊の軍艦により、揚子江からの艦砲射撃で、白川義則陸軍大将が率いる陸軍の上海派遣軍を側面支援した。

 その後、第一次上海事変は、停戦の動きが進み、三月二十四日、日中両国の代表により第一回停戦会議が英国総領事館前で開かれた。

 四月に入り、英国などの大国の斡旋も続き、両国の交渉は進捗の目安がついてきて、昭和七年五月五日に停戦という運びとなった。

 昭和七年四月二十九日、天長節(昭和天皇の誕生日)の祝賀行事が、午前十時から上海市の虹口公園で行われ、大観兵式が挙行された。

 大観兵式後、虹口公園には小学生、青少年団、その他の団体が整列し、官民合同の天長節祝賀式が行われようとしていた。

一段と高い中央の壇上には、向かって右から次の人々が並んだ。

 在上海総領事・村井倉松、上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将、在上海公使・重光葵駐華公使、第九師団長・植田謙吉陸軍中将、上海居留民団行政委員会会長・河端員次、上海日本人居留民団・友野盛書記長。

 午前十一時半、式典は開始された。雨がばらついていた。祝辞朗読後、「君が代」合唱が終わり、壇上の白川義則陸軍大将が一歩前進して「天皇陛下万歳!」を唱えようとした。

 その時、上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将の右背後から水筒のようなものが、コロコロと転がり出た。

 ……なんだ? あれは……壇上の第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将や第九師団長・植田謙吉陸軍中将たちは、……誰かがいたずらをしたのか?……と肩を寄せて見ていた。


733.野村吉三郎海軍大将(33)隠居扱いにするつもりでいたら、大変だぞ。君にはまだ元帥の偉さが分かっていない

2020年04月10日 | 野村吉三郎海軍大将
 後に、加藤友三郎大将の系統を引く海軍士官は「条約派(軍縮派)」、加藤寛治中将の系統は「艦隊派(艦隊拡張派)」と呼ばれるようになった。

 野村吉三郎大佐は後に、ワシントン会議の思い出を次のように回想している。

 十一月十一日の初会議で、ヒューズ氏はいわゆる爆弾的といわれる軍縮案を提案して、場内から盛んな喝采を博していた。

 その初会議からの帰途、加藤(友三郎)さんは、井出謙治海軍次官(十六期、後、大将、佐世保鎮守府長官)宛ての電報を示されたが、要領は『アメリカ案を基礎として交渉する決意である。もちろんこのことは日本海軍としては造艦対策上、人事行政上大問題であるが、これは国内問題として善処すべきである』という意味であった。

 井出次官はスマート、かつ俊敏な人であったが、帰朝した時。私に『あの電報で大臣の決意のほどを知り善処するを得た』と語っていた。

 またあるとき、宿舎のショーラム・ホテルの次の部屋で聞くともなく聞いていると、加藤(友三郎)全権が加藤(寛治)随員に向かって、

 『加藤。お前ももう中将になったのだから、いつまでも若い者に尻を叩かれて旗ばかり振っておらずに、ときによっては冷静沈着に物事を考えねばいかんよ』

 と叱っているのが耳に入ったことがある。

 小加藤は海兵に入る頃、大加藤は教官だったのだから、まったく生徒か子供並みの扱い方だった。

 さすがの猛将・加藤(寛治)中将や末次(信正)らも大加藤にかかるとどうにもならず、最終的に会議は妥結したのである。

 このように生徒でもたしなめるように叱ってはいたが、一面では加藤さんは小加藤の一身上についてつねに意を用いていた。

 帰朝してからの話だが、無二の親友・島村速雄大将と同車した際に、『加藤(寛治)も五十になったのだから、そろそろなんとかしてやらねばならんね』と語っておられたが、それからすぐに加藤(寛治)中将は海大校長から軍令部次長となり、主流コースに乗って出世街道を歩むようになった。

 余談になるが、私も加藤さんに叱られたことがあった。それは海軍省宛ての電報中、東郷元帥へ報告するように言い付けられた時に、私が一寸苦笑を浮かべたら、

 『野村、元帥はあれでなんでも大綱は知っておられるのだよ。隠居扱いにするつもりでいたら、大変だぞ。君にはまだ元帥の偉さが分かっていない』

 とたしなめ叱られたのである。

 東郷元帥は加藤さんをもって適材適所の全権と認め、加藤さんもまた、元帥を太極に通ずる偉い人と認めていたのであった。

 加藤(友三郎)全権のワシントンにおける大局的判断は、今日においても深く敬意を表しているが、このほかに同会議に関係して、さすがはと瞠目させた人物は渋沢栄一子爵である。

 子爵は日本国交の改善について自ら民選全権と称して出かけていったが、ワシントン会議にも大きな関心を持ち、ワシントンやニューヨークで盛んに側面活動をやりながら、あたかも会議がわが七割主義で緊張している最中に、

 『日本は国力からいえば、アメリカの十分の一ぐらいのものだ。したがって海軍は十分の一でも仕方がない。米国は寛大であって、六割というのだから欣んで受諾すべきだ』と論じていた。

 海軍側は全権以下、『あのじいさんには早く帰ってもらわなければ困る』とぶうぶういったものだ。

 でも、それだけのことを平気で主張した勇気と見識には驚かされるとともに、偉いじいさんだと感心させられたものである。

 以上が、野村吉三郎大佐のワシントン会議の思い出の回想である。

 ワシントン会議後、野村吉三郎大佐は、大正十一年六月一日、少将に進級し、軍令部第三班長、第一遣外艦隊司令官、海軍省教育局長を歴任した。

732.野村吉三郎海軍大将(32)海軍中将にもなって、どうしてそんなことが分からないのか……

2020年04月03日 | 野村吉三郎海軍大将
 一方、出来るだけ努力し、ねばるが、最終的には世界恒久平和のために、五・五・三(米・英・日)の比率を呑まなければならないだろうというのが、ワシントン会議全権、海軍大臣・加藤友三郎大将だった。

 ワシントン会議の始まる前、野村吉三郎大佐は、全権・加藤友三郎大将と首席随員・加藤寛治中将の間で論争・対立が起きることを予想していた。

 その場合、全権・加藤友三郎大将の方には、自分、野村吉三郎大佐がつき、首席随員・加藤寛治中将には末次信正大佐がつくだろうと思った。

 大正十年十一月十二日、アメリカのワシントンD.C.で軍縮会議(ワシントン会議)が始まった。

 会議は討論を重ね、全権・加藤友三郎大将も懸命の努力を続けたが、米英は妥協せず、結局、主力艦保有率を五・五・三(米・英・日)以外には、妥協か決裂の二つに一つしかない、という状況に追い込まれてしまった。

 全権・加藤友三郎大将は、会議が決裂した場合、列強は再び建艦競争に追い込まれてしまう。建艦競争に負けた日本は、経済が破綻して軍事力も三流に陥る可能性もあると考えていた。

 結局、全権・加藤友三郎大将は、主力艦保有率五・五・三(米・英・日)を認める方向に意志を固めた。

 だが、この比率に大反対したのが、軍令系統・海軍大学校の対米戦術家を仕切る、首席随員・加藤寛治中将であった。

 十・十・七の比率以外には進攻してくるアメリカ海軍に勝てないというのである。

 予想通り、末次信正大佐が首席随員・加藤寛治中将についた。

 勢いづいた首席随員・加藤寛治中将は、勝手に外国の記者を集めて会見を行い、日本海軍は「十対七の比率を獲得するまでは調印しない覚悟である」などと演説を行った。

 ついに全権・加藤友三郎大将も堪忍袋の緒を切った。ホテルに帰ると自分の部屋に首席随員・加藤寛治中将を呼びつけ、次の様に大声で叱責した。

 「君は一体、何年海軍の飯を食っているんだ? 全権の私のいうことが聞けないということは、すなわち上官の命令を無視するということだ。海軍中将にもなって、どうしてそんなことが分からないのか……」。

 むっとした首席随員・加藤寛治中将は、じっと全権・加藤友三郎大将の顔をにらみ返していたという。

 全権・加藤友三郎大将は海軍兵学校七期、首席随員・加藤寛治中将は十八期で、日本海海戦の時は、全権・加藤友三郎大将は少将で連合艦隊参謀長として東郷平八郎司令長官を補佐し、大勝利をもたらした功労者であった。

 一方、首席随員・加藤寛治中将は、日露戦争開戦時は少佐で、連合艦隊旗艦、戦艦「三笠」(一五一四〇トン)の砲術長、日本海海戦の時は東京の海軍省で山本権兵衛海軍大臣の秘書官をしていた。

 このような経歴からも、首席随員・加藤寛治中将のほうが貫禄負けで、不服ではあるが、引き下がった。

 このような情況を見て、野村吉三郎大佐は、全権・加藤友三郎大将の苦心と決断に大いに学ぶところがあった。

 後にワシントンから引き揚げてきた野村吉三郎大佐は、次のように回想している。

 「加藤友三郎大将という人は、実に偉い提督だった。実戦に有能で、平和、軍縮にも十分国際的な視野を持った人だった」。

 ところで、自説が通らなかった首席随員・加藤寛治中将は、頭痛を発し、会議が終わらぬうちにワシントンを発って帰国してしまった。

 頭に腫れ物ができていたという話だが、愛国一徹の首席随員・加藤寛治中将は、まさしく頭を痛める位、日米戦争の将来を心配していたのだと言われている。


731.野村吉三郎海軍大将(31)初めから敵の十に対して我が方が七か六では、漸滅作戦は成り立たない

2020年03月27日 | 野村吉三郎海軍大将
 在アメリカ大使館附武官・永野修身(ながの・おさみ)海軍大佐(高知・海兵二八期・次席・海大八期・人事局局員<第一課>・大佐・人事局第一課長・巡洋艦「平戸」艦長・在米国大使館附武官・ワシントン会議全権随員・少将・軍令部第三班長・第三戦隊司令官・第一遣外艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・軍令部次長・ジュネーヴ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン会議全権・連合艦隊司令長官・議定官・高等技術会議議長・軍令部総長・元帥・終戦・A級戦犯・昭和二十二年一月五日急性肺炎で死去・享年六十六歳・従二位・勲一等旭日大綬章)。

 軍令部作戦課長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大佐(山口・海兵二七期・五〇番・海大七期・恩賜・第一艦隊参謀・大佐・巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部第一班第一課長・ワシントン会議随員・軍令部第一班長心得・少将・第一戦水戦隊司令官・海軍大学校教官・海軍省教育局長・中将・軍令部次長・舞鶴鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・予備役・内務大臣・内閣参議・昭和十九年十二月二十九日病死・享年六十四歳・従二位・勲一等旭日大綬章)。

 海軍省高級副官・野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)海軍大佐(和歌山・海兵二六・次席・在米国大使館附武官・大佐・装甲巡洋艦「八雲」艦長・パリ講和会議全権委員随員・海軍省副官・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・枢密顧問官・終戦・日本ビクター社長・参議院議員・昭和三十九年五月八日病死・享年八十六歳・従二位・勲一等旭日桐花大綬章)。

 参謀本部第二部長・田中国重(たなか・くにしげ)陸軍少将(鹿児島・陸士四期・陸大一四期・恩賜・満州軍参謀・大佐・後備混成第四旅団参謀長・在米国大使館附武官・騎兵第一六連隊長・侍従武官・在英国大使館附武官・少将・パリ講和会議全権委員随員・参謀本部第二部長・ワシントン会議随員・騎兵第三旅団長・中将・第一五師団長・近衛師団長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・予備役・明倫会主宰・昭和十六年三月九日心臓麻痺で死去・享年七十一歳・正三位・勲一等瑞宝章)。

 陸軍大臣秘書官・建川美次(たてかわ・よしつぐ)陸軍中佐(新潟・陸士一三期・陸大二一期・恩賜・ワシントン会議随員・騎兵第五連隊長・・大佐・参謀本部欧米課長・少将・在支那公使館附武官・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・ジュネーヴ会議全権随員・国際連盟常設委員会陸軍代表・中将・第一〇師団長・第四師団長・予備役・駐ソ大使・大政翼賛会総務・大日本翼賛壮年団長・昭和二十年九月九日死去・享年六十四歳・勲一等・功四級)。

 日本海海戦に勝った後、当時の日本海軍の軍令部や海軍大学校の教官たちは、次の戦争の仮想敵国はアメリカであると規定していた。

 彼らは、アメリカ太平洋横断作戦を、つぎのような輪型陣で進攻してくるものと想定していた。

 アメリカ海軍は日本の八八艦隊に対して、十十艦隊を整備して、新型戦艦十隻を中心に単縦陣とし、その周囲に重巡洋艦十隻を護衛に配備、さらにその周囲、及び前方に駆逐艦多数を配置する。

 こうしてサンフランシスコ軍港を出発し、太平洋を横断して、フィリピンのキャビテ軍港に向かう。そしてフィリピンを基地にして日本と南方の通商を破壊し、最終的に日本海軍に決戦を挑む。

 随って、日米決戦ともなれば、敵の十十艦隊に対して、日本は八八艦隊で応戦しなければならない。

 この場合、戦艦の数が十対八ならばどうにかやれる。それは本土に接近する前に、漸滅作戦で敵の戦艦を八隻にまで削っておくことが可能であるからだ。

 しかし、初めから敵の十に対して我が方が七か六では、漸滅作戦は成り立たない。

 そこで、海軍大学校の校長である加藤寛治中将は海軍大学校の英才を集めて計算をした。

 結論は、敵の十に対して、我が方は最初に七は必要である。それならば、漸滅作戦で本土決戦のときは、敵の八に対して七である。また、敵が七でも、我が方が六ならば勝負に勝てる。

 しかし、最初から十対六、即ち五対三では、いかに漸滅作戦を活用しても対等の勝負に持ち込むことは難しい。

 これが、日本海軍の軍令系統の戦術であり、ワシントン会議首席随員である加藤寛治中将の“信念”だった。