陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

635.山本権兵衛海軍大将(15)東洋の平和を双肩に担おうとするあなたが、そのようなことではいけません

2018年05月25日 | 山本権兵衛海軍大将
 乗員の中には、「パンばかりで、いやじゃ」などと、ブツブツ言う者が多くいたが、結局病気になるよりはいいということで、騒動までは起きなかった。

 また、山本副長は、艦内の厨房を改良するために、英国人のコック長とコックを雇い、「浪速」に乗艦させた。コック長は日本に着いた後、横須賀鎮守府に雇用され、日本人に西洋料理を教えた。

 明治十九年三月二十八日、二隻の曳船に曳航され、最新鋭巡洋艦「浪速」は、ニューカッスルからタイン川を下り、北海に出た。以後、日本海軍将兵だけにより、日本へ向けて航海した。

 「浪速」の水雷長は、伊集院五郎(いじゅういん・ごろう)大尉(鹿児島・海軍兵学寮・西南戦争・英国海軍兵学校卒・英国王立海軍大学卒・中尉・「浪速」「高千穂」「畝傍」三艦武器監督・大尉・最新鋭巡洋艦「浪速」水雷長・参謀本部海軍部第一局課員・防護巡洋艦「千代田」回航委員・英国出張・少佐・「千代田」副長・常備艦隊参謀・大本営参謀艦・日清戦争・大佐・軍令部第二局長・軍令部第一局長・少将・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・軍令部次長・日露戦争・艦政本部長・第二艦隊司令長官・男爵・連合艦隊司令長官・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・イタリア王国王冠第一等勲章等)だった。

 明治十九年五月六日、地中海を東に進んだ「浪速」は、スエズ運河北口のポートサイドに入港、三日間碇泊した。

 その碇泊中の時、艦側のカッターにいた伊集院水雷長が、擲弾筒(発煙弾・照明弾に使用する小筒)の弾薬が暴発して、脚部に重傷を負った。

 伊集院水雷長は、痛みに屈せず、一人で縄梯子をよじ登ろうとした。それを見た山本副長は、「待て、動くな」と大声をかけ、自分でボートに飛び下り、伊集院水雷長を背負い、艦上に救い上げた。

 後に見られる、山本権兵衛と伊集院五郎の絆の強さは、ここにも一因があるようだ。「浪速」は、明治十九年六月二十六日、無事に、日本に帰り、品川沖に到着した。

 毎時十九年十月十五日、山本権兵衛少佐は、スループ「天城」艦長に任命された。小なりとも一城の主で、三十四歳だった。

 スループ「天城」は、明治十一年四月、横須賀造船所で竣工した。排水量九二六トン、全長六四・三メートル、一軸レシプロ蒸気機関、円罐×2、七二〇馬力、速力十一ノット、一七センチ砲一門、一二センチ砲二門、乗組員一五九名という国産の木造船で、船材の産出地である伊豆の山の名「天城」が命名された。

 スループ「天城」の任務は、朝鮮情勢を把握することと、在留邦人の保護だった。

 仁川に入港し、京城に出かけた、山本権兵衛少佐は、清国代表として京城に駐在している袁世凱を、清国公使館に訪ねた。

 袁世凱は、癖のある人物で、各国の官吏が訪ねてくると、文官に対しては、自分は一介の武弁(武人)だと言い、武官に対しては、自分は文事のこと以外は関係ないと言って、はぐらかして、相手にしなかった。

 山本少佐は、そういう袁世凱の人物を噂に聞いて知っていたので、「訪ねて、袁世凱がどのような態度に出るか、ともかく会って、情報を交換することは、日清両海軍の交際上、何か役に立つだろう」と考えたのだ。

 山本少佐が、取次の者に名刺を渡すと、思いがけなく、袁世凱が自ら玄関に出てきて丁重に迎え、客室に招き入れ、わざわざ訪ねてきてくれたことに厚く礼を述べ、至れり尽くせりの歓待をした。

 普通の者なら、清国代表の袁世凱を訪問するだけでも気が引けるのだが、山本少佐はこの場に来てもいたって平気で、ヒゲをモジャモジャ生やし、虎のような眼をランランと光らせた鍾馗のような顔で次の様にズバリと言った。

 「お見受けしましたところ、あなたはお顔が大変蒼い。宮廷美人を寵愛されているという噂ですが、そのためですかな」。

 事実、袁世凱は韓国王から後宮の美姫を与えられ、満悦に思っていたので、奇襲された袁世凱は、答えに窮した。

 すると、山本少佐は、続けて、「東洋の平和を双肩に担おうとするあなたが、そのようなことではいけません。ぜひ自重してください」とズケズケ言った。

 袁世凱は、笑ってうなずいただけだった。

 続いて、山本少佐は、列国の大勢、外交、制度、教育、科学技術等について、熱弁をふるい、「日清両国は固く提携して、列強の侵入を防がなければなりません」と締めくくった。






634.山本権兵衛海軍大将(14)榎本武揚は薩摩の“出るクギ”である山本中尉を打ち、それをみせしめにした

2018年05月18日 | 山本権兵衛海軍大将
 事実は、榎本武揚は薩摩の“出るクギ”である山本中尉を打ち、それをみせしめにした。人事権で薩摩の勢力を抑えようとしたのだが、反対に自分が叩き出される結果を招いたのだ。

 なお、仁礼景範少将は、東海(後の横須賀)鎮守府司令長官の要職に復活した。

 航海練習艦「浅間」においての、山本権兵衛中尉の主任務は、砲術教育だった。八月には、井上良馨中佐が、「浅間」艦長に任命され、着任した。

 これにより、海軍部内から集められた砲術志望の士官、下士官に対する操艦練習も開始された。この中には、従来の士官でも、熱意のある少佐、大尉なども含まれていた。

 山本中尉は、准士官、下士官の中から人物優秀な者を抜擢して、士官に昇進させる道を開くことを献策し、海軍省に認められた。

 山本中尉の推薦により、下士官から少尉補になり、後に中佐、大佐、少将に進んだ者も数名いた。

 「浅間」で教育を受ければ、どんどん昇進するという評判が海軍部内に伝わり、砲術志願者が続出するようになった。

 山本中尉は、ラッパ譜の改正も提議した。陸海軍がバラバラに吹いているが、このままでは、陸海軍が協同動作を行うとき、混乱が起こるから、陸海軍は協同で審査し、整理改正をする必要がある、というのである。

 山本中尉の話を聞いた海軍卿・川村中将は、「「海軍のラッパ譜は、卓越した西洋人を招聘し、研究を重ねてできたもので、陸軍よか先達の位置にある。改正する必要はなか」と、簡単に却下した。

 ところが、昭和十五年夏、朝鮮の京城で起こった「壬午の変」の時、出動した陸軍部隊と海軍陸戦隊の間で、ラッパのために珍事件が発生した。

 海軍部隊で「食事」のラッパが鳴り渡ると、陸軍部隊の兵士らが、一斉に任務を中止して、「気を付け」の姿勢をとったのである。海軍の「食事」ラッパが、陸軍の「気を付け」ラッパに極めてよく似ていたからだ。

 報告を受けた川村中将は、驚き、前言を取り消して、陸海軍両省からラッパ譜の改正調査委員を設置することを認めた。

 明治十五年十二月十一日、山本権兵衛大尉は、航海練習艦「浅間」(一四二二トン・砲一四門)の副長に任命された。

 前任の副長は吉島辰寧(よしじま・ときやす)少佐(練習艦「浅間」副長・少佐・横須賀水兵屯営副長・練習艦「摂津」艦長・中佐・練習艦「浅間」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・海軍兵学校次長・第一局第一課長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・呉鎮守府参謀長・待命・予備役・充員招集・海軍兵学校校長・少将)だった。

 退任直後、吉島辰寧少佐は、自ら志願して若い練習士官の中に入り、「浅間」において、砲術の専攻に励んだ。

 補習を必要とすると思いながら、口に出せないでいた従来の士官らが、それに刺激されて、吉島少佐の後に続いた。こうして、「学術に対しては、官位の上下なし」の新風が吹き始めた。

 明治十八年四月二十三日、「天津条約」締結五日後に、山本権兵衛大尉は、練習艦「浅間」副長から、英国で建造中の最新鋭巡洋艦「浪速」の回航事務取扱委員に転出した。

 最新鋭巡洋艦「浪速」の艦長は、伊東祐亨大佐だった。山本権兵衛大尉は、六月二十日、少佐に進級し、十一月二十日、副長に任命された。

 この新巡洋艦は以前の軍艦と全く変わり、帆がなく、スクリューだけで航走する、鋼鉄製、三六五〇トン、速力一八ノット、二十六センチ砲二門、十五センチ砲六門、魚雷発射管四門という、高性能で強大な艦だった。

 ちなみに、「浪速」と同型の「高千穂」が同じく英国のアームストロング社、「畝傍」がフランスのフォルジュ・シャンティェ社で、同時に建造中だった。

 明治十九年二月十五日、伊東大佐、山本少佐ら回航委員は、イングランド東北部のニューカッスルにあるアームストロング社のロー・エルジック造船所で、「浪速」を受領した。

 出航に先立ち、山本権兵衛副長は、伊東艦長の承認を得て、「浪速」の全乗員に、英国海軍式のパン食を励行させることにした。日本海軍の艦船乗員は、ビタミンB不足のために、脚気にかかる者が多かったからだ。







633.山本権兵衛海軍大将(13)榎本海軍卿に対する非難が、火に油を注いだように燃え上がった

2018年05月11日 | 山本権兵衛海軍大将
 四名の中堅士官らが排斥運動を始めたにもかかわらず、榎本海軍卿は、今度は京橋三十間堀の料亭で、博徒らと盛大な酒宴を開いた。海軍部内の榎本海軍卿に対する非難が、火に油を注いだように燃え上がった。

 山本中尉の同僚らは、山本中尉を押し立て、隅田川の一件について、海軍省に抗議しようとはかった。

 だが、山本中尉は、「海軍卿の進退を論ずることなどに、我々のような下級者はすべきでない」と、受け付けなかった。

 ところが、明治十四年二月十五日、山本中尉は突然、練習艦「乾行」乗組みを罷免され、非職を命ぜられた。

 山本中尉は「不当な処置である」と怒り、練習艦「乾行」艦長・浜武慎中佐(後海海軍兵学校教官・大佐)に、その理由を質した。

 だが、浜中佐は「兵学校からこの辞令が届けられたから、君に交付しただけだ」と言うだけだった。海軍兵学校の人事係に尋ねても、同様の答えが返って来た。

 山本中尉は、榎本海軍卿に宛てて、上申書を書いた。要旨は次のようなものだった。

 「軍人が非職に入るのは、品行が修まらない、疾病、自己請願、この三つのいずれかに該当した場合と、法規に厳として定められている。ところが、自分は、身を海軍に委せ、君国のため一意奉公の至誠を捧げて職務に服し、なんら過失の覚えがなく、かつ心身ともに健全であり、請願もしていない」

 「それにもかかわらず、突然非職に入れられたのは如何なる理由によるものか、願わくは高教を垂れていただきたい」。

 しかし、山本中尉の上申書は、高い棚に束ねられて、捨て置かれた。

 山本中尉の家は、芝田町九丁目にある、川路利良(かわじ・としよし)警視総監(鹿児島・禁門の変・戊辰戦争・薩摩官軍大隊長・会津戦争・薩摩藩兵器奉行・維新後東京府大属・典事・邏卒総長・欧州警察制度を視察・初代警視総監・西南戦争・陸軍少将・別働第三旅団司令長官・欧州警察制度視察・病気になり帰国・病死・正五位・勲二等旭日重光章)の邸宅の近くにあった。

 非職となり、山本中尉の月給は四十五円から十五円になった。山本中尉の家は借家で、家賃は五円だった。女中が一人いて、その月給はニ十銭~三十銭だった。
 
 三月二十九日、家計は緊迫していたが、そこへもってきて、妻の登喜子が次女を出産した。さすがに剛気の山本中尉も参った。しかし、堪えるしか道はなかった。

 次女の、すゑ子は、後に、山路一善(やまじ・かずよし)海軍中将(愛媛・海兵一七・三席・少佐・日露戦争・連合艦隊第一艦隊第二戦隊参謀・中佐・第一艦隊第三戦隊参謀・第一次世界大戦・少将・第三特務艦隊司令官・海軍の航空兵力導入に尽力・「海軍航空生みの親」・中将・正五位・勲三等・功三級)の夫人になる。

 明治十四年四月七日、榎本武揚海軍卿が罷免され、川村純義(かわむら・すみよし)大将(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争・薩摩藩四番隊長・維新後海軍大輔・海軍中将・西南戦争・参軍・参議・海軍卿・枢密顧問官・死去・海軍大将・伯爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章)が再び海軍卿に就任した。

 榎本武揚海軍卿の更迭を、三宅雪嶺(みやけ・せつれい・石川・加賀藩儒医の子・官立東京開成学校・東京大学文学部哲学科卒・自由民権運動・政教社設立・「日本人」創刊・帝国芸術院会員・文化勲章受章・「真善美日本人」など著書多数・哲学者・評論家)は、その著書「同時代史」で次の様に述べている。

 「榎本が部内の人を動かさんとし、薩摩出身者が怒り、賊軍の身分にて生意気なりとて、集まりて殴打し、海軍卿の更迭を惹き起こす。之には佐賀に人も与かり、川村が卿となれる後、中牟田(佐賀出身)が同大輔(次官)となる」。

 明治十四年七月上旬、山本中尉は、海軍卿・川村純義中将に呼び出された。窮乏生活も五か月になろうとしていた。

 川村中将は、「おはんは、七月十三日付で、航海練習艦『浅間』の乗組みを仰せ付けられることにないもした」と山本中尉に告げた。「まっこと、あいがとごわす」と、山本中尉は深く頭を下げた。

 だが、山本中尉は、それだけでは、気が済まず、非職になった理由を問い質した。すると、川村中将は次の様に言って諭した。

 「過去は追わんがよか。前途が大切じゃ。いまやわが海軍は、「浅間」を練習艦として、新たに砲術専攻の門戸を開かんとしちょる。こげんとき、おはんら有意の士官に、絶大の努力をしてもらわにゃならん。他の一切の経緯を顧みず、奮起してたもんせ」。

 山本中尉は、承服した。






632.山本権兵衛海軍大将(12)四名の中堅士官らは「言語道断の振舞い」と憤激して海軍省に抗議した

2018年05月04日 | 山本権兵衛海軍大将
 「そこでこの件を熱心に主張した仁礼さんは立場を失い、官を辞して鹿児島に帰るというとられる。おいどんら同志も、仁礼さんと進退を共にすっ覚悟じゃ。おはんの上京を促したのもこんためだ」。

 伊東中将も仁礼少将も旧薩摩藩士だが、伊東中将は明治五年八月、中牟田倉之助(明治四年十一月に少将)についで少将となり、明治十一年十一月に中将に昇進した。一方、仁礼少将は、明治十三年二月に少将となったもので、伊東中将には勝てなかったのだ。

 日高中尉の話を聞いた、山本中尉は、日高中尉の逸る気持ちを制するように次のように言った。

 「はじめて事情が分かった。じゃどん、おいの考えはおはんとちと違う。今回のこつはおいの献策が原因じゃから、その責任を回避っす気はなかが、献策を採用すっかせんかは相当の地位にある者の権威にある。その局になく、学窓を出て実務に就いたばかりの下級者が、献策が採用されんちゅうて、すぐに辞職しちょったら、人事行政はできんようになっじゃなかか」

 「往年、西郷先生が辞職されたとき、その責任の位置にある者もない者も、同志多数が職を辞して鹿児島に帰った。あれと大小軽重の差はあっが、おなじようなもんで、そいはわが故郷の誇りでもなく、おいどんらの名誉でもなか。また、至誠公に奉ずる道でもなかろ」。

 以上の山本中尉の心情を聞いた、日高中尉は「わかった。おはんのいうとおりじゃ。仁礼さんにも、そういうてたもんせ」と答えた。

 山本中尉は仁礼少将を訪ね、詳しく意見を述べて、辞官を思いとどまるよう諫めた。仁礼少将は辞官して帰郷することは中止した。

 しかし、明治十三年十二月四日に伊東中将が軍務局長に就任したあと、十二月八日、仁礼少将は海軍兵学校校長を退き、非職となった。

 非職とは、官位はそのままだが、職務がなく、給料も本給の三分の一になる制度。

 十二月二十六日、今回の騒動の余波を受けた、山本権兵衛中尉は、再び、練習艦「乾行」乗組みを命ぜられ、差し戻された。

 明治十四年の年が明けて間もない頃、練習艦「乾行」で当直勤務中の山本中尉は、「汽艇二隻を隅田川に回せ」という海軍卿・榎本武揚中将からの命令を伝達された。

 山本中尉は艦長の承認を得て、鹿野勇之進少尉に艇の指揮を命じ、汽艇二隻を隅田川に回航させた。

 榎本中将はその二隻の汽艇に、外国使臣らを招待し、芸者連中を侍らせて、遊興した。その噂は、たちまち、海軍部内に広がった。

 この話を聞いた、四名の中堅士官らは「言語道断の振舞い」と憤激して海軍省に抗議した。そして、榎本武揚の排斥運動を始めた。四名の中堅士官は次の通り。

 スループ「日進」艦長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)中佐(鹿児島・神戸海軍操練所・薩英戦争・戊辰戦争・維新後海軍大尉・中佐・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「龍驤」艦長・コルベット「比叡」艦長・横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・海軍省第一局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府長官・常備艦隊長官・連合艦隊司令長官・日清戦争・黄海海戦で勝利・子爵・軍令部長・大将・日露戦争・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国神聖スタニスラス第一等勲章)。

 コルベット「浅間」艦長・井上良馨(いのうえ・よしか)中佐(鹿児島・薩英戦争・「春日艦」小頭・戊辰戦争・阿波沖海戦・宮古湾海戦・函館戦争・「龍驤」乗組・中尉・少佐・軍艦「春日丸」艦長・砲艦「雲揚」艦長・中佐・軍艦「「清輝」艦長・西南戦争・大佐・装甲艦「扶桑」艦長・海軍省軍事部次長・少将・海軍省軍務局長・中将・佐世保鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・日清戦争・西海艦隊司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・日露戦争・軍事参議官・子爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)。

 軍艦艦長・笠間広盾中佐(中佐・コルベット「筑波」艦長・鉄甲コルベット「比叡」艦長・大佐・死去)。

 東海水兵本営長・有地品之允(ありち・しなのじょう)中佐(山口・長州藩士・戊辰戦争・維新後欧州出張・陸軍少佐・侍従・海軍少佐・提督府分課・中佐・スループ「日進」艦長・大佐・コルベット「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・参謀本部海軍部第一局長・少将・横須賀軍港司令官・海軍機関学校校長・海軍兵学校校長・海軍参謀部長・常備艦隊司令長官・中将・呉鎮守府司令長官・日清戦争・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・予備役・男爵・貴族院議員・帝国海事協会初代理事長・枢密院顧問・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・ハワイ王国クラウンオブハワイ勲章)。