陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

605.桂太郎陸軍大将(25)第一軍司令部では、この桂中将の独断変更を憤慨する者が多かった

2017年10月27日 | 桂太郎陸軍大将
 この間に、先発していた第五師団の各部隊は北上して平壌(ぴょんやん)に迫っており、元山(うぉんさん)に先発していた第三師団の一部部隊も半島を横断して、平壌の背面をめざし進撃した。

 明治二十七年九月十五日、平壌の戦いが開始され、日本軍は激しい戦闘の後、翌日十六日には、清国軍が退却した。第五師団は、平壌を占領した。

 この戦闘は、第一軍司令部が軍司令官・山縣大将とともに出陣し、また第三師団の主力も京城に到着したにもかかわらず、山縣軍司令官の命令を待たず、第五師団が攻撃を急いで開始したものだった。

 第五師団長は野津道貫(のづ・みちつら)中将(鹿児島・鳥羽伏見の戦い・会津戦争・函館戦争・維新後藩兵三番大隊付教頭・御親兵・陸軍少佐<三十歳>・二番大隊付・中佐<三十一歳>・陸軍省第二局副長・大佐<三十三歳>・近衛参謀長心得・征討第二旅団参謀長・少将<三十七歳>・第二局長・東京鎮台司令長官・大山巌陸軍卿外遊随行・子爵・中将<四十四歳>・広島鎮台司令官・第五師団長・第一軍司令官・大将<五十四歳>・伯爵・功二級・近衛師団長・東部都督・教育総監・軍事参議官・第四軍司令官・元帥<六十五歳>・侯爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功一級・レジオンドヌール勲章コマンドゥ―ル等)だった。

 この平壌の戦いは、第五師団長・野津中将が、功名を焦る感情が作用して、攻撃を急いだものと、思われた。桂中将も第三師団を率いて平壌攻撃に参加したかったのである。

 桂中将は、後年、この平壌の戦いについて、「第五師団長は、軍の到着を知りつつ、平壌を攻撃し、苦戦の後、辛うじて平壌を占領するを得たり」と述べており、野津中将の行動に批判的な言葉を残している。

 十月に入って、第三師団は平壌を出発して北進し、十月下旬には第一軍の全軍が鴨緑江(おうりょっこう)岸に到着した。

 鴨緑江渡河作戦の第一陣は第三師団が担い、十月二十四日、架橋を成功させ、翌朝から次々に対岸に渡り、清国領土内に進出、たちまち虎山(こざん・遼寧省)を占領した。

 この渡河作戦の前夜に詠んだ桂太郎中将の次の一首が残されている。

 「をちこちの敵の砦は燈も消えて かわかぜさむく身にしみにけり」。

 十月下旬の朝鮮半島の北端で、国境の大河鴨緑江河畔の夜は、すでに冬の寒さだった。桂中将にとって、清国領土へ進攻する第一陣の指揮官として、身の引き締まる思いを歌に託した。

 清国領土内の進撃は、山縣軍司令官は、第五師団を戦線の左方に配置し、九連城(きゅうれんじょう)攻撃を命じ、第三師団を右方に配置、北上することを命じた。

 だが、この配置の進撃では、「第三師団は、決戦に参加できず、後方守備の駐屯部隊にまわることになる」と桂中将は考え、不満が増してきた。

 九連城はほとんど清国軍の抵抗なく占領したため、第五師団の一部は通天溝(つうてんこう)に向かって進撃を続けた。またしても野津道貫中将の第五師団に先を越された。遂に桂中将は、左方に突っ切る決心をした。

 桂中将は、第三師団主力を持って、安東(あんとう)県目指して進撃を開始した。これにより、第五師団と第三師団の位置が交差して、第三師団は戦線の左方に進出することになった。

 これは命令違反だった。この変化を修正するため、第一軍司令部は、命令を伝達したが、第三師団長・桂中将は、予定を変更せずに、安東県へ進撃を続けた。

 第一軍司令部では、この桂中将の独断変更を憤慨する者が多かったが、軍司令官・山縣大将は、平壌攻撃時の野津中将の第五師団独断攻撃を容認していたので、今回の桂中将の命令無視も、罰することができなかった。

 この第三師団の行動について、当時、第三師団参謀長心得だった木越安綱(きごし・やすつな)中佐(金沢・陸士旧一・西南戦争・陸軍少尉<二十三歳>・陸軍士官学校教官・中尉<二十六歳>・ドイツ陸軍大学卒業・歩兵大尉<二十九歳>・陸軍大学校教授心得・監軍部参謀・少佐<三十四歳>・近衛歩兵第四連隊附・陸軍外山学校教官・第三師団参謀・中佐<三十九歳>・第三師団参謀長心得・日清戦争・大佐<四十歳>・第三師団参謀長・軍務局軍事課長・少将<四十四歳>・台湾陸軍補給廠長・台湾総督府陸軍幕僚参謀長・軍務局長・歩兵第二三旅団長・兼韓国臨時派遣隊司令官・中将<五十歳>・後備第一師団長・第五師団長・アメリカ出張・男爵・第六師団長・第一師団長・陸軍大臣・貴族院議員・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級・レジオンドヌール勲章コマンドゥ―ル等)は、後に次のように回顧している。
 
 「各所からの攻撃が非常であって、軍司令部からも睨まれ、一時は立場もない位で……」。

604.桂太郎陸軍大将(24)桂中将の強引な工作が功を奏し、他の師団を出し抜いたのだ

2017年10月20日 | 桂太郎陸軍大将
 七月二十三日午前二時、日本軍(混成第九旅団)は大院君を護衛して、漢城に向かい、王宮を攻撃、守備隊の抵抗を排除して、王宮内に入り、国王高宗を確保し、親日政権(大院君による第三次政権)を樹立した。

 七月二十五日、大院君は、清国と朝鮮間の伝統的な宗属関係の破棄を宣告した。さらに、牙山に駐留する清国軍の撤退要求を日本大使に伝えた。

 当時の日本大使は大鳥圭介(おおとり・けいすけ・兵庫・幕府伝習隊歩兵隊長・幕府陸軍歩兵奉行(将官級)・五稜郭で官軍に降伏・維新後特赦で出獄・新政府大蔵小丞<三十九歳>・欧米各国歴訪・陸軍大佐<四十一歳>・工部省工作局長・工部大学校校長<四十四歳>・工部技監・東京学士院会員・元老院議員・学習院長兼華族所学校校長・駐清国特命全権公使<五十六歳>・朝鮮公使・枢密顧問官・男爵・正二位・旭日大綬章)だった。

 大鳥大使は、大院君に朝鮮の近代化を建言したりして、日清戦争開戦直前の困難な外交交渉にあたった。朝鮮の反日派から射撃されたりした。

 明治二十七年七月二十五日に豊島沖海戦があり、二十九日には成歓の戦いが行われた後、八月一日、日本と清国は宣戦布告をした。日清戦争の勃発である。

 第三師団長・桂太郎中将は、日清開戦になることを予想して、第三師団の派遣を希望し、期待して待っていた。

 八月四日第三師団に対して充員命令が下った。充員命令とは、動員にあたり、各部隊の要員を充足するために、在郷軍人を招集せよという命令。

 この時、桂太郎中将は、郷土の先輩、枢密顧問官・野村靖(のむら・やすし・山口・松下村塾・第二次長州征討・維新後岩倉具視使節団として渡欧<二十九歳>・神奈川県権令・県令・駅逓総監・逓信次官・子爵<四十五歳>・枢密顧問官・駐仏公使・内務大臣<五十二歳>・逓信大臣・皇室養育掛長・子爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章)宛ての書で、次の様に述べている。
 
 「陳者四日当師団充員の命令を拝受し爾来日夜準備仕居申候、完整の上は定めしどの方面にか進発仕るべき事と其命令を待居申候……一師団の強卒にて方面に当たる武官の名誉此上なく候」。

 この文では、ようやく出動準備の命令がくだったことに、桂中将が期待をふくらませていることが伺える。また、その興奮する心境も吐露している。

 また、以前、桂中将が総務局長の時、その下で課長だった郷土の後輩、第四師団参謀長・真鍋斌(まなべ・たけし)大佐(山口・陸軍生年学舎・陸軍少尉<二十一歳>・陸軍省第一局第三課・西南戦争・総務局武学課長・総務局第三課長・歩兵第三連隊長・大佐<四十歳>・軍務局第一軍事課長・第四師団参謀長・陸軍省人事課長・少将<四十六歳>・歩兵第九旅団長・留守第五師団長・中将<五十四歳>・予備役・男爵・貴族院議員・陸軍参政官・男爵・正三位・勲一等旭日大綬章・功二級)に宛てた手紙で次のように記している。

 「生に取りては、此度の任務、実に名誉の至なり。如何となれば、参謀本部在勤中は、殊に此方面に関する軍機に参与し、今自ら其の実行の先頭に立たんとす」。

 これは、桂中将が参謀本部時代に、自ら清国に対する作戦の策定にあたったことを思い出しながら、その作戦を実行する立場になったことを名誉に思っているという文である。

 だが、第三師団への出動命令はなく、師団からは騎兵一個小隊、山砲、工兵の各一個大隊が引き抜かれて、元山に向かって出発し、第五師団の指揮下に入った。

 師団として出動を願っていた桂中将は、焦燥にかられて、八月十六日、参謀次長・川上操六中将に宛てて、第三師団の準備はすでに整っていることを伝え、「何卒、速やかに出発の命令これあり候被致度候」と、催促がましい手紙を出した。

 直ぐに応答はなく、しばらく経ってから川上中将から、大磯で会見したいとの書が桂中将に届き、桂中将と川上中将の会談が行われた。

 だが、その間の八月二十六日に、第三師団への出動命令が届いた。桂中将の強引な工作が功を奏し、他の師団を出し抜いたのだ。先発の第五師団に次いで、第三師団が出動することになった。

 九月一日、第三師団は、第五師団とともに、軍司令官・山縣有朋大将が指揮する第一軍の主力として編成され、名古屋を出発した。

 第三師団は九月八日に広島の宇品港から乗船し、十二日に朝鮮の仁川(じんせん)に上陸、十三日に京城(けいじょう=ソウル)に到着した。


603.桂太郎陸軍大将(23)「非常臨時の措置は止むを得なかったが、越権行為は免れない」と辞表を提出した

2017年10月13日 | 桂太郎陸軍大将
 明治二十四年六月一日、桂太郎中将は、第三師団長の辞令を受けた。桂中将は陸軍次官兼軍務局長を辞任して第三師団長(名古屋)に転任することになった。

 その次の陸軍次官兼軍務局長に就任したのは、岡沢精(おかざわ・くわし)少将(山口・戊辰戦争・維新後陸軍大阪第二教導隊・四等軍曹<二十七歳>・御親兵大隊長・准中尉<二十七歳>・大尉<二十七歳>・少佐<二十七歳>・御親兵五番大隊長・近衛歩兵第一連隊大隊長・別働第一旅団参謀長・東京鎮台参謀長・大佐<三十六歳>・西部監軍部参謀・近衛参謀長・少将<四十一歳>・歩兵第八旅団長・陸軍次官兼軍務局長・将校学校監・監軍部参謀長・大本営軍事内局長兼侍従武官・中将<五十一歳>・男爵・侍従武官長・大将<六十歳>・侍従武官長・子爵・正二位・勲一等旭日大綬章・功二級)だった。

 第三師団長転任の辞令を受けた後、桂太郎中将は、六月五日には名古屋の師団司令部に到着し、直ちに命課布達式を行った。そして九日には師団長として、初訓示を行なった。

 この素早い着任は、桂中将として考えのあってのことだった。師団長が新たに任命された時は、一週間以内に着任し、職務に就かねばならない規定があった。

 だが、当時、規定より二、三倍も長い日数をかけて、ようやく赴任する師団長も多々見られたのである。病気であるとか、事故であるというような理由をつけていた。

 師団長たるもの、これでは、あまりにだらしないと、桂中将は思っていたのだ。師団長として多数の将兵の上に立つ者が、規則を破るようでは、どうして部下の指導ができようかと。

 七月中旬以降、第三師団長・桂太郎中将は、第三師団管下の、愛知・静岡・三重・岐阜・福井・石川・富山の七県に展開する各衛戍地の軍隊を検閲した。

 桂中将が着任した、その年の十月二十八日、濃尾(のうび)地震が発生した。震度七(マグニチュード八・四)という大地震で、岐阜県、愛知県にまたがる濃尾平野を中心に甚大な被害が出た。死者七〇〇〇人以上、負傷者一七〇〇〇人以上、家屋全壊一四〇〇〇〇戸以上、半壊八〇〇〇〇戸以上という大被害だった。

 名古屋市も被害が多く、死者一八七名、負傷者二七七名、家屋全壊一〇五二戸、半壊一〇九七戸だった。

 名古屋城内にあった第三師団司令部も、頑丈な建物であったが、半壊して、司令部として使うことができないほどだった。
 
 第三師団長・桂太郎中将は、この前例を見ない驚くべき大地震に対して、第三師団長としてどう対処するべきか、熟考した。

 師団条例の規定によると、地方の擾乱(じょうらん=騒乱)、もしくは事変のあった時、師団長は地方官の要請によって、はじめて兵を出すことができる、となっていた。

 だが、桂中将は考えた。地方鎮護のために常設せられている軍隊は、このような災害が起きた時に、臨機の処置をとることは当然ではないだろうか。
 
 それは師団長の決心いかんによって決めてよいだろう。全て師団長の責任でやれば良い。条例どうり、地方官の要求を待って、行動したのでは間に合わない。

 桂中将は、旅団(約五〇〇〇名)の出動命令を下し、地震災害の市民保護、人命救助、火災消火の任務を与えた。衛生隊も組織して派遣した。

 軍隊の派遣について、桂中将は、十月三十日に具体的な報告を陸軍大臣・高島鞆之助中将に、提出した。

 さらに救助活動が一段落した後、上京の命を受けた桂中将は、十一月二十四日、上京し、高島陸軍大臣に、地震災害の状況を報告し、「非常臨時の措置は止むを得なかったが、越権行為は免れない」と辞表を提出した。

 師団長は天皇直轄の親補職で天皇が任命するので、高島陸軍大臣は参内して事情を奏上した。明治天皇は、「桂の処置は機宜に適した行動であった」と嘉賞され、辞表は却下された。

 第三師団長・桂中将に対して、十二月、岐阜県の村民から、翌明治二十五年十月には名古屋市民を代表して市長から、十二月には愛知県知事から感謝状が贈られた。

 明治二十七年六月一日、朝鮮政府が甲午農民戦争の鎮圧のために清国へ出兵を依頼したとの電文が日本政府に入った。

 六月二日に閣議が開かれ、日本も公使館と居留民の保護を名目に朝鮮に出兵することを決定した。政府は広島の第五師団を動員、混成旅団を編成して九日、朝鮮に向けて出港させた。

 以後、日本と清国は外交交渉が決裂した。日本側は、大院君(李氏朝鮮末期の王族・閔妃と対立)に接触し、摂政にすることを約束した。










602.桂太郎陸軍大将(22)豪放的な高島中将と緻密な桂中将は、性格的にも合わなかった

2017年10月06日 | 桂太郎陸軍大将
 これは、板垣退助に連なる土佐派と言われる自由党グループが、民党側から離脱して、政府と妥協が実現したのだ。

 三崎亀之助代議士は、土佐派と同調して、山縣内閣の予算案成立に協力したことで、自由党を脱党した(その後、復党)。

 ところが、その削減額の中で、陸軍省所管の削減額は、当初の予算査定では七〇万円だったのが、最終的に三〇万円に過ぎなかったのである。これには、桂太郎中将の政治対策が功を奏した。

 桂中将は、前述したように、議員の理解を求めるため、各派各党と交渉した。特に衆議院では、自由党、改進党、大成党などの所属の予算委員を各個に自邸に招いて、懇切丁寧に、根気よく予算の説明をした。

 その論法は、たんに予算内容の技術的なことばかりではなく、陸軍創設以来の歴史を説き、軍政改革の沿革、軍備充実の目的など、大局からも説得するという手法だった。

 あくまでも熱意と懇切を以て議員に理解を得ようとすることに全力を挙げた。話し合いによって理解を勝ち得るというやり方は、桂中将の得意とする戦法だったのである。

 三〇万円の削減で済んだ陸軍予算の成立における陸軍次官兼軍務局長・桂太郎中将の手腕は、陸軍部内だけでなく、政治家、官僚にも認められ、注目されるところとなった。

 山縣内閣は、明治二十四年度予算修正案を通過させたが、法案は、六件だけしか可決しなかった。さすがに山縣有朋首相の自信も揺らぎ始めた。

 薩長藩閥内閣と位置付けられた、山縣内閣は、自由党、立憲改進党などの野党から、藩閥政治であると批判、抵抗されたのだ。

 こうして明治二十四年四月、第一次山縣内閣は総辞職した。

 山縣有朋のあとの首相は、松方正義(まつかた・まさよし・鹿児島・薩摩藩御軍艦掛<三十一歳>・維新後長崎裁判所参議・日田県知事・民部大丞<三十五歳>・大蔵省官僚・内務卿<四十五歳>・フランス視察・参議兼大蔵卿・日本銀行創設・初代大蔵大臣<五十歳>・総理大臣<五十六歳>・日露戦争準備のため米国欧州を訪問・日本赤十字社社長・枢密顧問官・内大臣・国葬・公爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・イギリス帝国聖マイケル聖ジョージ勲章ナイトグランドクロスなど)だった。第一次松方内閣である。

 大山巌陸軍大臣が辞任したあとの陸軍大臣には、高島鞆之助(たかしま・とものすけ)中将(鹿児島・薩摩藩士・戊辰戦争・維新後侍従<二十七歳>・侍従番長・陸軍大佐<三十歳>・第一局副長・教導団長・長崎警備隊指揮官・少将<三十三歳>・別働第一旅団司令長官・フランス・ドイツ出張・熊本鎮台司令官・大阪鎮台司令官・中将<三十九歳>・西部監軍部長・子爵・大阪鎮台司令官・第四師団長<四十四歳>・陸軍大臣<四十七歳>・枢密顧問官・台湾副総統・拓殖務大臣・陸軍大臣・予備役・枢密顧問官・子爵・正二位・旭日桐花大綬章・レジオンドヌール勲章コマンドゥール)が就任した。

 桂太郎中将は山縣有朋大将と共に辞任すると表明した。桂中将自身は部隊指揮官を望んでいたと言われている。

 当時桂中将は、陸軍内において大きな権限と発言力をもっていたが、その軍歴は在外公使館勤務のほかは、参謀本部や陸軍省に身を置いて、陸軍中将まで昇進した。

 将兵を指揮、統率するという軍務を経験していないことは、軍人としては異例の経歴だった。桂中将自身もこのことを意識しており、軍指揮官としてもその能力を発揮しなければならないと、師団長の職を希望したのだ。

 だが、陸軍部内では、「桂中将は、大山陸相の後任の陸軍大臣に就任できると思っていたが、自分より三歳年長の高島中将が陸軍大臣の椅子を奪ったので次官を辞めたのだろう」との流言が飛んだ。

 薩摩の豪放的な高島中将と緻密な桂中将は、性格的にも合わなかった。「高島中将も、桂中将を遠ざけたいと思っていたので、名古屋の第三師団長へ追いやったのだ。つまりこの人事は左遷だ」との噂も流れた。

 だが、「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂中将は第三師団長転出について、次の様に記している。

 「世人或は高島子が陸軍大臣となりしを以て、我が辞職したるなりとか、或は我と高島子との間に行違ひありしなど伝説するものありしかども、其事実全く然らず」

 「素より当時の順序としては、高島子が大山伯の後を襲うことは適当にして、又已(やむ)を得ざりし事ならんと思はる。此事も世の伝説の事実を誤るを懼れ特に玆(ここ)に記す」。