陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

118.花谷正陸軍中将(8) 貴様のような、ば、ばかもんが、大佐になれるか。この階級ぬすっと

2008年06月27日 | 花谷正陸軍中将
 大迫大佐は敬礼のやり直しを何回もさせられた。

 「だめだ、貴様は誰に向かって敬礼をしているんだ。俺は師団長だぞ」

 「はい、申し訳ありません」

 大迫大佐は、おどおどして答えた。師団長と年齢も同じであるだけに、ひどくみじめに見えた。

 師団長は許さなかった。

 「やりなおし」。

 炊事場に飯上げに行く時刻だったので、兵たちが沢山見ていた。

 第二次アキャブ作戦が始まる前に、師団司令部で作戦会議が行なわれた。師団長、参謀、各連隊長、各部隊長が列席していた。

 花谷師団長は、出席者に指名して意見を言わせた。

 「山砲連隊長、作戦の対策はどうか」

 井上山砲連隊長が起立して説明を行なった。

 花谷師団長は、

 「なんだ、お前の説明は。上等兵にもおとるぞ。それでよく連隊長になれたな」

 と言ってぎょろりとした赤い目でにらんだ。

 昭和19年6月、アキャブの戦場を下がってきた山砲第三大隊はアンリーの谷間に終結した。この時、師団から弾薬集積所を作る命令を受けた。

 二月以来悪戦苦闘を続けてきたので全員が疲労していた。だが、雨季の雨に打たれながら作り上げた。

 師団兵器部長の人見中佐が視察に来た。弾薬集積所は道路の近くと、密林の中であった。

 ところが後に道路の近くの弾薬集積所が英軍の飛行機に爆撃された。このことで、人見兵器部長は花谷師団長から責任を問われた。

 花谷師団長は毎日、人見中佐を呼びつけて、弾薬集積所の被害について詰問を続けた。人見中佐は連日殴られ顔は青黒く膨れていた。

 兵器部勤務隊長の藤岡大尉が花谷師団長のところへ行って書類を差し出すと、いきなりたたき返された。

 「貴様ら応召の将校に何が分かるか。士官学校を出ていない奴はだめだ。部長を呼べ」

 人見部長が、改めて持って行くと、書類を放り投げられた。書類が間違っていいるというのだった。

 「人見が悪くありました。申し訳ありません」。

 謝っても殴られた。

 人見部長が中佐から大佐に進級したのは「ハ」号作戦が終った後であった。人見部長は花谷師団長に申告に行った。

 「申告いたします。陸軍中佐人見重吉は昭和19年8月1日付けをもって、陸軍大佐に任ぜられました。ここに謹んで申告いたします」

 それを言い終わった途端、人見大佐は花谷師団長の大きなこぶしで殴り倒された。

 「きっ、きっ、貴様のような、ば、ばかもんが、大佐になれるか。この階級ぬすっと」

 人見大佐は乱打されて、口から血を流した。

 「弾薬集積所の管理もできんやつが、大佐に進級するのは、もってのほかだ」

117.花谷正陸軍中将(7) 貴様か、ゆうべ、調子っぱずれな声を出していたのは

2008年06月20日 | 花谷正陸軍中将
 栗田中佐は「低能め、貴様、それでもカデットか」と罵倒された。カデットは陸軍幼年学校出身者の意味だ。花谷師団長は大阪幼年学校で、栗田中佐の先輩であった。

 栗田中佐は一日に数回殴られた。時には激しく乱打された。そのため栗田中佐の顔は赤くはれあがり、血を流し、まともであることはなかった。

 師団の将兵は栗田中佐のゆがんだ顔に目をそむける思いをしながら同情していた。

 もともと栗田中佐は傍若無人で反抗心が強かった。陸軍士官学校在学中、横着な生徒であることを自認してわざと反抗した。

 区隊長の訓辞の時などはわきを向いて、つばをはいたりした。本科の時、区隊長室に呼ばれて、しかられた時があった。

 区隊長は殴るのはもったいないと言って、そばにあったバケツの水を栗田候補生の頭からかぶせた。

 栗田候補生は退校を覚悟で、区隊長に殴りかかろうとした。その時、年をとった母の顔が目の前にあらわれた。母は泣いていた。栗田候補生は、殴ろうとした手をおろし、涙をボロボロ流しながら区隊長室を出た。

 栗田中佐がアキャブの第五十五師団司令部に高級副官として着任すると、師団司令部は異様な空気だった。将兵の動作はいじけ、表情までがおどおどしていた。

 栗田中佐は大いにやってやる、という気概を高くした。その夜の栗田中佐の歓迎の宴では、南方に来たという開放感もあって、さかんに放歌高吟した。

 翌日花谷師団長に呼ばれた。「貴様か、ゆうべ、調子っぱずれな声を出していたのは」花谷師団長は赤い大きな目で、直立不動の栗田中佐を見据えた。

 「高級副官だなどと、いい気になるな」花谷師団長はこぶしを固めて、栗田中佐を殴りつけた。

 栗田中佐はおどろいた。前には横着をするだけあって、よく殴られた。しかし佐官になってからは、殴られることはなかった。

 花谷師団長はつづけざまに殴りつけ「どうだ、こたえたか」と冷笑を浮かべた。

 栗田中佐は、思わず悲憤の涙を流こぼした。猛将花谷の名は聞いていた。異常なことも分かっていた。

 だが天下の将校を、それも陸軍中佐を殴るとは何事かと思った。それ以来、殴られない日はないといってよかった。

 栗田中佐についでよく殴られたのは軍医部長の大迫大佐だった。軍医部長の大佐と言えば師団でも要職の一人だった。

 将兵たちは大迫大佐が怒鳴りつけられている声を聞いた。「その敬礼はなんだ。貴様のような将校が誠意のない敬礼をするから、兵隊がみんなまねをする。敬礼をやりなおせ」

 師団長の前に直立していた大迫大佐は初年兵のように敬礼のやり直しをさせられた。

116.花谷正陸軍中将(6) 花谷師団長は鬼よりこわい。河村、斉藤の鬼がいる

2008年06月13日 | 花谷正陸軍中将
 つまり「ハ」号作戦は、インパール進撃のための牽制作戦であった。この「ハ」号作戦に実施したのが第五十五師団であり、その師団長が花谷正陸軍中将であった。

 花谷中将は昭和18年11月に古閑師団長に代わり、第五十五師団長に着任した。花谷中将を迎えたのはビルマ方面軍の片倉衷高級参謀が工作したと言われている。

 「陰謀・暗殺・軍刀、一外交官の回想」(岩波新書)によると、著者の森島守人は当時奉天総領事代理であった。彼は次のように回想している。

 「板垣征四郎大佐を筆頭に、石原莞爾中佐、花谷少佐、片倉大尉のコンビが、関東軍を支配していたので、本庄関東軍司令官や三宅光治参謀長はまったく一介のロボットに過ぎなかった」

 「本庄司令官の与えた確約が後に至って取り消されることはあっても、一大尉片倉の一言は関東軍の確定的意志として必ず実行されたのが、当時の関東軍の姿であった」

 このように花谷と片倉は満州事変当時から行動を共にして、関東軍中枢で軍を動かしていた。このころから花谷中将の強烈な意志力と個性はは際立っていたといわれている。

 「戦死」(文春文庫)によると、スインズエユウの包囲戦に敗れて、第五十五師団は「ハ」号作戦の第二段作戦に入った。

 アラカン地区にいる日本兵は、花谷師団長のことを赤鬼といった。そのうち変な節回しの歌が広まった。「花谷師団長は鬼よりこわい。河村、斉藤の鬼がいる」

 河村参謀長、斉藤高級参謀の鬼よりこわい、というのだ。花谷師団長は師団司令部の上層将校を殴り飛ばしたが、殴られなかったのは河村、斉藤の二人だけといわれた。

 しかし、斉藤高級参謀は殴られなかっただけで、師団長からは、ふたこと目には「貴様は専科参謀だから、だめだ」といじめられた。

 専科参謀というのは、日華事変が始まってから、多数の現地参謀が必要となり、陸軍大学校で短期に教育して参謀を養成した。

 専科参謀は陸軍大学校の正規の教育課程を終えた参謀とは区別された。専科参謀を花谷師団長が軽蔑したのは、陸大出を誇る優秀者意識のためだった。

 斉藤高級参謀だけでなく、他の将校に対しても「貴様は無天だから、だめだ」「大学校を出ておらんやつは話しにならん」などと怒鳴った。

 正規の陸軍大学校卒業を表す徽章は、その形が似ていることから「天保銭」と呼んで、それを持たない、一般将校のことを「無天」と称した。花谷師団長は天保銭組以外は同等に相手にする資格はないとみていた。

 師団司令部で一番多く殴られたのは高級副官の栗田中佐だった。役目柄、師団長の前に行くことが多かった。その時、三度に一度は殴られた。

115.花谷正陸軍中将(5) 突然、花谷師団長はこぶしをふるって、村山中佐をなぐりつけた

2008年06月06日 | 花谷正陸軍中将
 三原氏も時々、花谷師団長の碁の相手を命じられた。機を見るに敏な三原氏は、碁の相手をしていて、雲行きが怪しくなって危険と感じられたという。

 そうなったら、いち早くその場をずらかり、雲隠れして、ほとぼりが醒めるまでは、決して現われなかった。お陰で難をのがれた一人であった。

 「昭和史の謎を追う・上」(文春文庫)によると、著者の秦郁彦氏が東大教養学部在学中の1953年から翌年にかけて、柳条湖事件の解明のため、旧軍人からヒアリング作業を行なった。

 そのとき、当時東京・代々木に住んでいた花谷正にヒアリングを行なった。秦氏はこの事件が関東軍の陰謀であると確信していたので、計画の実行と細部を聞き出すことだった。

 最初は口が重かった花谷も少しづつ語り始め、前後八回のヒアリングでほぼ全貌をつかんだ。

 それから三年後の1956年秋、河出書房の月刊誌「知性」が別冊の「秘められた昭和史」を企画した。

 そのとき、秦氏は花谷談を整理してまとめ、補充ヒアリングと検閲を受けたのち、花谷正の名前で「満州事変はこうして計画された」を発表した。当時、かなりの反響が出た。

 「戦死」(文春文庫)によると、昭和18年10月、中国の第一軍参謀長だった花谷中将はビルマの第五十五師団長に任命された。

 アキャブの飛行場に到着の時は、工兵連隊長・村山誠一中佐、師団次級副官・大西幸一大尉、その他多くの将校が迎えに出た。

 飛行場で花谷師団長は出迎えの人々のあいさつを受けていた。村山工兵連隊長も進み出て、氏名職階を名乗った。突然、花谷師団長はこぶしをふるって、村山中佐をなぐりつけた。

 「貴様の服装はなんだ。それでも連隊長か」。村山連隊長は工兵を率いるだけに粗暴なところもあり、服装もかまわなかった。

 その夜の師団長歓迎の酒宴の時、村山中佐は裸になり、下帯にさした軍刀を抜いて、花谷師団長を斬ろうとして、止められた。

 その後、村山中佐は中村獣医部長に語った。「花谷が今度俺をなぐったら、その場で射殺してやる」。

 「戦死」(文春文庫)によると、「ハ」号作戦は楯作命第五七号・第五十五師団命令として昭和19年2月1日に発令された。

 「ハ」号作戦はインパール作戦の支援作戦として実施された。インパール作戦は、1月7日に大本営が許可し、インドのインパールに進撃して、その付近の要地を占領するという作戦だった。

 インパール作戦を強引に推進したのは第十五軍司令官・牟田口廉也中将であった。

 「ハ」号作戦の目的はアラカン地区から日本軍がインドに積極的に攻勢に出ると見せて、敵の連合軍の兵力をこの方面に引き付けて、インパールの主作戦を容易にさせることだった。