陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

196.東條英機陸軍大将(16)暗殺の決行日は昭和十九年七月二十五日に決まった

2009年12月25日 | 東條英機陸軍大将
 津野田中尉との激論の後、武藤軍務局長は隣の席にいた東條航空総監に「東條閣下、此奴の親父も生意気だったそうですが、此奴も生意気な奴ですな」と言った。

 津野田中尉は、カッときて「何を言われるんです。私の父が存命中は、閣下はまだひよっこであったではありませんか。ろくに知りもしないくせに、いい加減なことは言わんでください」と言った。

 それまで、やや蒼ざめた表情で、むっつりと口を噤んでいた東條航空総監は、武藤軍務局長を見返ると、とりなすように「武藤君。津野田の言い分にも一理ある。それにな、この津野田の親父さんは、俺の陸大当時の教官だったんだよ」と言った。

 武藤軍務局長は、ばつの悪そうな顔をして、視線をそらしたままである。

 東條航空総監は、津野田中尉に「俺はな、津野田、教官中で貴様の親父さんが一番好きだった。いい教官だったぞ」とポツリと言った。

 津野田中尉は、後に東條を暗殺する計画を立てるが、この時は、東條に悪感情は抱いていなかった。東條のその無表情な眼鏡越しの目でさえ、優しさが漂っていると感じた位だ。

 だが昭和十九年六月、前線から大本営参謀本部第一部第三課へ戻った津野田少佐は、戦局の現状に危機感を痛切に感じ、このままではいけないという考えから「大東亜戦争現局に対する観察」と題する意見計画書を書き上げた。

 その文章中に「東條総理大臣を速やかに退陣せしめ、以ってこれに連なる軍の適正を期すること」と述べており、東久邇宮内閣による政局担当の必要を主張していた。また、状況によっては東條首相を暗殺する趣旨も付け加えられていた。

 津野田少佐は、意見計画書を仲間の牛島辰熊に見せ意見を聞き、山形県鶴岡に隠棲中の石原莞爾中将、予備役の小畑敏四郎中将らに見せ、ほぼ同意を得た。

 東久邇宮を動かすため、津野田少佐は親交のある三笠宮を訪れ、意見計画書を見せた。三笠宮は現内閣に不満を抱いてはいたが、この意見計画書を一読して、さすがに顔色を変えた。

 後日、津野田少佐は三笠宮から、来訪するよう要請を受けた。三笠宮邸に着いた津野田少佐に対して、三笠宮は「あの日、貴官が帰ったあと、東久邇宮と電話で話し合った」と言い、「自分も東さんを首班にするのは同意である」と告げた。

 そして「ただし、最後に書き加えられた項目を除いては、である。かりそめにも、東條は、一国の総理大臣である。その人物を処断に訴えるのは、好ましくない。これは、秩父さんも、高松さんも、同意見であった」と付け加えた。

 これを聞いて津野田少佐は、息を呑んだ。三笠宮が、二人の兄、秩父宮と高松宮に相談したとは思いもよらなかったことであった。だが、三笠宮は大体において、津野田少佐の意見計画書には同意見だった。

 だが、石原莞爾中将は「皇族方を信じすぎてはいかん。皇族方は、大事を命がけでやるような教育は受けていない。当てにすると、とんだ思惑はずれになるぞ。心しておくことだ」と津野田少佐に忠告した。

 津野田少佐は、決行する牛島辰熊と東條首相を暗殺する武器について話し合った。短刀、ピストル、手榴弾などは、いずれも失敗する確率が高かった。

 ついに津野田少佐は、習志野の陸軍ガス学校が戦車攻撃用に開発した「茶瓶」を提案した。「茶瓶」はガラス製の容器で、中に青酸入りの毒ガスが詰められている。威力は、風下五十メートル四方の生物をことごとく死滅させるというものだった。

 津野田少佐は「だがあんたも心中することになるかもしれないぞ」と言った。それを聞くと牛島は、「よし、知さん、それを使おう。必ず入手してくれ」と言った。暗殺の決行日は昭和十九年七月二十五日に決まった。

 だが、東條内閣は七月十八日に総辞職した。これにより、津野田少佐らは、東條暗殺の決行の必要がなくなった。

 ところが、その後、津野田少佐は憲兵隊に逮捕された。昭和二十年三月二十四日、免官、位階勲等一切剥奪の上、執行猶予付きではあったが禁錮二年の刑を言い渡された。

 これは津野田少佐が記した東條暗殺計画を盛り込んだ極秘文書「大東亜戦争現局に対する観察」が、同志であった、三笠宮の動揺により、憲兵隊に洩れたからだった。

 戦後、昭和三十二年八月、四十歳になった津野田元陸軍少佐は、軽井沢の別邸に避暑に来ていた三笠宮と対面した。二人は十数年ぶりだった。

195.東條英機陸軍大将(15)おい、津野田。戦争の何たるかを知らぬ貴様ら若い将校が、何を言うか!

2009年12月18日 | 東條英機陸軍大将
 さらに、東條首相はこれからの統帥についても次の様に語った。

 「つまらん情報よりも、将来の施策・作戦はどうすべきか、といった点が最重点でなければならない。今まではどうも少佐くらいがやる統帥事務に引きずられていたようだ」

 四月六日、東京市内で雑炊食堂が新設されつつあったので、閣議後のこの日の午後に雑炊を供した。ところが、東條首相は次の様に言った。

 「雑炊も結構だが、閣議後の食事は十分ご馳走をして閣僚が楽しみに集まり、和やかに懇談できるように心掛ける方がよりいいのだ」。

 東條首相がゴミ箱のふたを開けて歩いたという話がある。それは批判の対象になったりしており、有名な話である。東條首相は人の好き嫌いが激しく、人間的に嫌っていたという軍人の一人に山下奉文陸軍大将(陸士一八・陸大二八恩賜)がいる。

 その山下大将が新聞記者に語ったという、次の言葉は注目に値する。

 「そんなチッポケなことは、それ、あのゴミ箱を開けている男に聞きたまえ」

 これは、二人の将軍の関係をよく語っているエピソードだ。

 ところが、実はそれが山下大将のいうような「チッポケなこと」ではなかったと、東條首相の秘書官・赤松大佐は次の様に強調している。

 「ゴミ箱を見てまわったことについては、一部から強い非難などがあったが、その際に東條さんが言ったことは、報告によると魚はこれこれ、野菜はこれこれ配給されているはずだが、事実はその通りになっておらないようである」

 「これらに対する不平の声も耳にするので、真に報告通りなら魚の骨も野菜の芯などもゴミ箱に捨てられてあるはずだと、この目で確認したいと思ったからである、と言った」

 さらに東條首相は、赤松秘書官に「私がそうすることによって配給担当者も注意し、さらに努力してくれると思ったからである。それにお上におかせられても、末端の国民の生活について大変心配しておられたからであった」と語った。

 「秘録東條英機暗殺計画」(津野田忠重・河出文庫)によると、大本営参謀、津野田知重陸軍少佐(陸士五〇次席・陸大五六次席)は、昭和十九年、東條英機暗殺を計画した。

 だが、三笠宮の心の動揺により、暗殺計画が憲兵隊に洩れ、津野田少佐は昭和二十年三月二十四日、陸軍衛戍刑務所に収監され、免官、位階勲等一切剥奪の上、禁錮二年(執行猶予付き)の刑を言い渡された。

 昭和十五年、津野田知重中尉は、歩兵第一連隊出身の将校たちが集まる会「歩一会」に出席した。会には当時中将で、航空総監の東條英機を初め、軍務局長・武藤章少将、軍務課長・佐藤賢了大佐ら、将星が綺羅星のごとく並んでいた。

 この席上で、津野田中尉は、武藤軍務局長と激論を闘わせた。帝国陸軍において、一介の中尉が少将の軍務局長に噛み付くことなど、当時は考えられず、上官侮辱罪に問われても仕方がないほどであった。

 だが津野田中尉は、思うことをズバズバ言った。「軍人は、政治に関与すべからず」というのが、父と同様に津野田中尉の信念だった。

 津野田中尉の父、津野田是重(陸士六・陸大一四恩賜)は、乃木大将を崇拝し、フランス大使館付武官を勤め、フランス語にも堪能な優秀な軍人だった。だが、四十九歳で陸軍少将に昇進した後、程なく、予備役に編入された。

 津野田是重は「軍人は政治に関与すべからず」を信条としていた。そんな津野田是重は、当時の参謀総長・上原勇作元帥との軋轢で、少将で首になったと言われている。

 「歩一会」の席上、津野田中尉が武藤軍務局長と言い争いになったのも、この「軍人は政治に関与すべからず」が原因だった。

 津野田中尉は武藤軍務局長の盃に酒を注ぎながら次の様に言った。

 「閣下、私たち若い連中が支那大陸において、生命を賭して戦っているのに、軍のお偉方は政治に関与されてばかりいて、戦争の何たるかを弁えておられません。実際、けしからんことじゃありませんか」。

 武藤軍務局長は飲みかけていた盃を置くと、きっとなって津野田中尉を見据えて言った。

 「おい、津野田。戦争の何たるかを知らぬ貴様ら若い将校が、何を言うか! 貴様は頭がいいというから、若い将校を代表して、天皇陛下の御前で、戦局に対する意見を述べたらどうだ」

 津野田中尉も負けてはいなかった。

 「申し上げましょう。閣下から天皇陛下の御前に出られるように、取り計らって下さい」。

 すると武藤軍務局長は

 「何を言うか。そんなことが、一軍務局長の身でできるはずがなかろう」と言った。

 これに応じて津野田中尉は

 「では、軽々しく口には、なさらんでください」と応酬した。

 これを聞いて武藤軍務局長は

 「生意気なことを言うな!」と怒鳴った。

 売り言葉に買い言葉で、二人は激論を交わした。

194.東條英機陸軍大将(14)中野さんが自殺したですね、世間では閣下が殺したと言っていますが

2009年12月11日 | 東條英機陸軍大将
 十月二十四日夜、東條首相は秘書官・赤松貞雄大佐に命じて、首相官邸に、岩村法相、安藤紀三郎内相、松坂広政検事総長、町村金吾警保局長、薄田美朝警視総監、四方東京憲兵隊長らを集めた。

 会議で東條首相は、中野を起訴することを主張したが、法律上できないという結論になった。次に中野をこのまま留置して議会に出させないようにしたいと主張したが、それも難しいことが分かった。

 東條首相は「戦争に勝つためだ。なんとかしろ」と皆に言ったが、相手が国会議員だけに慎重になっていた。

 そのとき、四方東京憲兵隊長が「総理、私のほうで、何とかします」と言った。

 十月二十五日午前四時半、中野は、警視庁の独房十号から、憲兵隊に移された。それぞれの独房にいた三田村と天野は、ほの暗い裸電球の下を、中野が不自由な足で去っていくのを見送った。それが、二人がこの世で見た中野の最後の姿だった。

 中野が釈放されて、代々木の自宅に戻ったのは十月二十五日午後二時であった。憲兵隊は中野に「ある青年に、日本は負けると言った」と自白させていた。その上、「明日からの議会には出席しない」と中野に承知させた。

 中野が自白し議会欠席を承知したのは、今後の取調べで、皇族、重臣に迷惑を及ぼしてはならないと考えた。同時に自決の決意をしたのだった。

 十月二十六日深夜、自宅一階の書斎で、中野正剛は割腹自殺を遂げた。五十八歳だった。隣の部屋には憲兵二人が見張っていた。

 自殺の前に、常に居間に飾っておいた写真を取り外していた。それは、自分とヒトラーが並んで写っている写真だった。

 かつては日独伊三国同盟の推進者で「米英撃つべし」の主唱者、中野正剛も、死の前にはリベラルの政党人に戻っていた。

 自決の具体的な理由は不明だが、一説には徴兵されていた息子を前線に送るぞ、と憲兵に脅迫されていた。息子の安全と引き換えに自殺させられたという。

 「昭和の将帥」(高宮太平・図書出版社)によると、中野正剛が自殺してしばらくして、軍事評論家の高宮太平が東條首相に会ったとき、高宮と東條首相の間で次の様な会話が交わされた。

 高宮「中野さんが自殺したですね、世間では閣下が殺したと言っていますが」

 東條首相「ふん」

 高宮「何かあったのですか」

 東條首相「君は福岡だったね。中野と何か関係があるのか」

 高宮「先輩として尊敬しています。ことに犬のことでは特別に懇意に願っていました」

 東條首相「犬のことなど聞いているんじゃない。君は中野の家来か」

 高宮「家来ではありません、家来ということならむしろ緒方さんの家来と言ったほうがよいでしょう」

 東條首相「それならやっぱり中野の家来じゃないか」

 高宮「そういうことにはならないのです」

 東條首相「どんなことになるにしてもだね」。

 東條首相はじっと高宮の顔をみて、

 東條首相「中野のことで俺に文句をつけようというのなら、面倒になるぞ。中野は国賊だ。国賊の片棒かつぐ気か。まあ、よそう。君との友情をここで打ち切りたくない。もうこの話はよせ、いつか話すこともあろう」

 昭和十九年三月二日、「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、東條首相は久しぶりの、秘書官たちとくつろいだ夕食を共にした。そのとき東條首相は戦争指導の困難さを次の様に語った。

 「世間では自分が何も知らずにいると思っているようだが、我慢ができないと思うときもある。何も知らずに、大切な仕事はできるものではない。本日の両統帥部情報交換でも、自分がすでに三度も聞いたようなことを、二時間近くもしゃべられて、実に閉口したよ。自分なら、十分も聞ければ充分だった。というよりは、これからはむしろ、こちらから不審の点を質問した方がよっぽどましだ」。

193.東條英機陸軍大将(13)米内は卑怯だ。予定通り口を切らなんだ

2009年12月04日 | 東條英機陸軍大将
 華族会館で食事が始まり、会は幕を開けた。だが、米内光政はいつまでたっても、フォークとナイフを使うきりで、予定通りの東條批判をやろうとしなかった。いさかいを好まない米内は「いま、やらんでも他日がある」と自ら、妥協したのだ。

 ようやく若槻が「戦局が思わしくないと聞いているが、政府は景気の良い話ばかりだ」と皮肉を言った。東條首相は形式的な戦況報告をしてすましこんでいた。結局気まずい雰囲気で、みなが食事をしただけに終わってしまった。

 中野、三田村たちは東方会本部に集まって、吉報いまかと、重臣会議の終わりを待っていた。だが午後二時になっても約束の近衛からの連絡は入らなかった。

 「話がこじれているのかな。華族会館に電話をしてみい」と中野は秘書の進藤一馬に言った。電話すると「その会合は、とうに終わりました」という返事だった。

 あせった中野は荻外荘に電話をかけた。「公爵はお戻りにならずに、そのまま軽井沢にまいりました」とのむなしい回答が返ってきた。中野は悄然と肩を落とした。

 後日、三田村が近衛に電話をかけると、「米内は卑怯だ。予定通り口を切らなんだ」と近衛は答えた。東條の暴力的弾圧を恐れて、米内に代わって東條批判をするだけの勇気が岡田にも近衛にもなかった。

 三田村武夫が警視庁に逮捕されたのはそれから一週間後の九月六日だった。

 松前重義は、その時は、逮捕はされなかったが、一年後の昭和十九年七月十九日次の様な電報を受け取った。「召集令状発せらる。七月二十二日、西部軍二十二部隊に入隊せられたし。熊本市長」。

 松前は一瞬、これは何かの間違いだろうと考えた。だが、八方手を尽くしても召集解除にはならなかった。いろんな方面に探りを入れたが行き着くところすべて、東條の腹心、陸軍次官・富永恭二中将に突き当たった。

 松前は当時、電子科学の第一人者で、少将待遇の逓信省工務局長であったにもかかわらず、東條に反対したという理由で、四十二歳で二等兵として前線に出ることになったのだ。

 松前は入隊し、部隊と共に千トン足らずの爆薬を積んだ海軍の傭船でマニラに向った。マニラに到着すると、寺内南方軍総司令官がいた。

 寺内大将は松前が二等兵でいることに驚き、早速命令を出した。「陸軍二等兵松前重義南方軍司令部付を命ず」というものであった。

 さらに松前は軍政顧問にされた。さらに寺内大将は松前に「勅直任官を持って待遇し、平服着用を許可す」という命令まで出した。

 だが、東條が退陣し、小磯内閣になっても松前の召集は解除されなかった。松前が最終的に召集を解除されたのは昭和二十年五月二十日であった。松前は日本に帰り、通信院総裁を命じられ、そのまま終戦を迎えた。

 昭和十八年九月六日に三田村が逮捕された後、中野と天野は近衛とはかって、今度は重臣ではなく皇族に働きかけていた。

 近衛が木戸内大臣の侍立なしで単独で天皇に東條退陣を上奏し、東條を宮中に呼び、監禁する。近衛師団に下命し、妨害を防ぎ、宇垣内閣を実現させるという構想だった。

 だが東條首相が一歩早く手を打った。昭和十八年十月二十一日午前六時、警視庁の特高約百名を動員して、中野の東方同志会、天野の勤皇まことむすび、それに勤皇同志会の三団体の幹部約百数十名を検挙した。

 中野の逮捕容疑は、倒閣工作を謀ったことと、ある青年に「日本は負ける」と話したことが名目上の理由だった。

 中野正剛が収容されたところは、桜田門にある警視庁の留置場・独房十号だった。中野は以前、三田村や楢橋渡代議士に「ぼくは片足がない。投獄されれば、苦痛は常人に倍するだろう。面倒くさいから、腹を切って死ぬ」と言っていた。

 中野を検挙したことに東條首相は大満足だった。だが、警視庁の取調官は、証拠となるべき自白も傍証も得られなかった。行政執行法では二日以上検束してはならないとなっていた。

 だが、東條首相は自分の権力で内相を通じ、二十四日まで検束して取調べを行わせた。それでも、中野は自白もせず、傍証も得られなかった。

 中野の逮捕を知った鳩山は大木操衆議院事務総長とはかり、「二十五日には臨時国会が召集される。ただちに中野を釈放しろ」と内務省に抗議した。徳富蘇峰も釈放運動に動き出した。

 東條首相は焦ったが、とりあえず釈放するしかなかった。だが中野を議会に出席させたら何を仕出かすか分からなかった。