陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

453.乃木希典陸軍大将(33)それでは、この戦いで、あなたは子供の総てを失ったのですか

2014年11月28日 | 乃木希典陸軍大将
 児玉大将は、乃木大将の権限を取り上げようとはせずに、側面から、第三軍の指導に当たった。児玉大将は、やはり、軍司令官としての乃木大将を立て、乃木大将の参謀長のような顔をして作戦指導を行った。

 明治三十七年十二月五日午後一時、二〇三高地は遂に陥落した。これまでに攻撃に参加した日本軍将兵は約六四〇〇〇人、そのうち、死傷者は約一七〇〇〇人だった。

 十二月六日から、高地に海軍の観測所が設置され、旅順港のロシア艦隊に向けて砲撃が開始され、戦艦を次々に撃沈した。港外に逃げた戦艦は、待ち受けていた日本艦隊が殲滅した。こうして、ロシア太平洋艦隊は全滅した。

 旅順艦隊が全滅したという事は、旅順を守るロシア軍にとって大きなショックだった。明治三十八年一月一日午後三時半、ロシア軍から、ステッセル軍司令官からの降伏の書状をもった軍使が来た。旅順はついに陥落した。

 「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、明治三十八年一月五日、旅順から北西約四キロにある水師営で、乃木希典陸軍大将とロシア軍の軍司令官・ステッセル陸軍中将の会見が行われた。

 ステッセル中将が、数名の将校を従えて、約束の時間に水師営にやって来ると、乃木大将もこれを迎えて、初めて、両将軍が握手をした。

 両将軍は、互いに携えてきた缶詰を開けたり、酒を飲み合って、昨日までの砲煙、弾雨の中に命を懸けて攻防の戦いをしたことは、一切忘れて、談笑の中に、戦争の思い出などを語り合った。

 その談笑の中で、ステッセル中将が乃木大将にむかって「あなたの御子息は、あなたと共にこの戦争に参加しておられた、という事であるが、御無事で従軍しておられますか」と尋ねた。以後のやり取りは次のようなものだった。

 乃木大将「倅は、戦死しました」

 ステッセル中将「エッ、何と言われます。戦死したのですか」

 乃木大将「そうです」

 ステッセル中将「そういう噂も、聞いておりましたが、果たしてそうであったのですか」

 乃木大将「両人とも、戦死いたしました」

 ステッセル中将「(眼を丸くして)両人とも、戦死いたしました」

 乃木大将「左様」

 ステッセル中将「オー、それは、何とも申し上げようのない、不幸の事でした。しかし、令息は、幾人おりますか」

 乃木大将「私の子供は、その両人の外に、一人も無いのです」

 ステッセル中将「何と、戦死せられた、令息の外に、子共は無いのですか」

 乃木大将「そうです」

 ステッセル中将「それでは、この戦いで、あなたは子供の総てを失ったのですか」

 乃木大将「左様」

 ステッセル中将「フ、ム……(感慨に堪えぬという風で、何回も太い息を漏らした)。それは何とも申し上げようのない事であります。私も国許には沢山の子供をのこして来ている。この長い戦闘中に、ややもすれば、子供の事を思い出した位でありますから、あなたに於いても、たった二人の御子さんを亡くされたという事は、どれ程の苦痛であるか、御心の中は、御察しいたします」

 乃木大将「いや、ステッセル将軍よ、私は、この両人の倅を失ったために、我が日本帝国のために、幾分の務めを尽くした、という事を考えて、まことに喜びに堪えません」

 ステッセル中将「(感に堪えなくなって、思わず乃木大将の手を握り)貴国の兵士が勇敢に、これまでの戦いを継続できたのは、全くあなたのような、将軍があって、よくその士卒を励まされたから、ここに至ったのであります。私は、あなたの御心を察して何とも申し上げる言葉がありません」

 ステッセル中将が、乃木大将の子供の事を言い出したために、何となく話が寂しくなって、列席している将校たちも、皆頭を下げて、両将軍の対話を、聞いているばかりだったという。

452.乃木希典陸軍大将(32)児玉大将は乃木大将の顔を猛獣のような目で睨みつけた

2014年11月21日 | 乃木希典陸軍大将
 満州軍総司令官・大山巌(おおやま・いわお)元帥(鹿児島・討幕運動・ジュネーヴ留学・西南戦争・陸軍大臣・日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官・日露戦争では元帥として満州軍総司令官・内大臣・大勲位・功一級・公爵)も乃木大将の更迭に反対した。

 大山元帥は、乃木大将更迭を進言する幕僚の意見を退けて、次のように言った。

 「旅順のような困難な要塞を破るには、将兵がこの人のもとでなら喜んで死のうと思うようでなければできないものなのだ。乃木はその信望を得ている。乃木は必ずやり通すじゃろう」。

 いよいよ第三次旅順総攻撃が行われることになった。この総攻撃の前に、山縣有朋総参謀長から乃木大将に、「今や旅順の攻略は一日を争う」などと、切々たる苦衷を訴える電報が届いた。

 明治三十七年十一月二十二日には、第三軍に対して、明治天皇から「成功を望ム甚ダ切ナリ」という勅語が下された。さらに満州軍総司令官・大山元帥からも激励の言葉が送られて来た。国民からも多数の激励や非難の電報が届いた。

 こうなると、乃木大将のプレッシャーは最大になり、痛苦にあえいだ。必死であった。今度こそ、最後の一兵になっても戦い抜かなければならなかった。

 乃木大将は各師団に対して、悲壮な訓示を与えた。「乃木希典も必要とあらば予備隊の総兵力を率いて突撃する覚悟である」。事実乃木大将は、第三次攻撃が失敗に終わったら、残存兵力を率いて突撃、戦死しようと思っていた。

 十一月二十六日、攻城砲の猛砲撃で、第三次旅順総攻撃の火ぶたが切られた。肉弾戦が繰り返され、多数の戦死者を出して、攻撃は失敗に終わった。乃木大将は二〇三高地攻略に集中することにした。

 この時、満州軍総司令官・大山巌元帥は、総参謀長・児玉源太郎大将を作戦指導者として、第三軍に派遣することにした。

 その命令を受けて、児玉大将は大山元帥に「私が行く以上は、必要な場合は私が総司令官に代わって乃木に命令を下す権限を与えてください」と言った。

 大山元帥は黙然と目をつぶった。「児玉大将が乃木大将に代わって第三軍の指揮をとれば、乃木はおそらく自決するだろう。だが、それもこの戦いに勝つためには仕方がないことだ。陛下は乃木をご信任あそばせているが、目をつぶっていただくしかない。最後には乃木を殺すしかない」と考えた。そして児玉大将の申し出に承知した。

 二〇三高地攻撃は開始された。突撃は何度も繰り返され、肉弾攻撃で多数が戦死した。乃木大将の次男・乃木保典少尉もこの攻撃で戦死した。乃木大将の長男・乃木勝典中尉は五月に戦死していた。

 満州軍総参謀長・児玉大将が第三軍司令部に乗り込んできたのは明治三十七年十二月一日であった。児玉大将は、非常な不機嫌ですごい剣幕だった。第三軍司令部の幕僚たちはびくびくしていた。この時、第三軍司令官・乃木大将は前線の視察に出向いて、司令部にはいなかった。

 児玉大将は幕僚室へずかずかと入っていくなり、兵站参謀・井上幾太郎(いのうえ・いくたろう)少佐(山口・陸士四・陸軍砲工学校・陸大一四・ドイツ私費留学・日露戦争第三軍参謀・ドイツ駐在・大佐・陸軍省軍務局工兵課長・軍務局軍事課長・少将・陸軍運輸部本部長・初代航空部本部長・中将・第三師団長・航空本部長・大将・予備役・帝国在郷軍人会会長)たちに勤務ぶりがたるんでいると言って、まず雷を落とした。

 やりどころのない憤懣が八つ当たりになっていることはお互いに分っているが、どうしようもなかった。そのあと、児玉大将は、田中参謀を連れて高崎山に向かった。高崎山の司令部は敵弾を避けるために穴ぐらになっていた。

 しばらくすると、乃木大将が、戦線視察を終えて、戻って来た。「やあ」と乃木大将のほうから言った。「うん」と児玉大将は簡単に答えて、お互いに挙手の礼を交わした。

 児玉大将と乃木大将は、同じ長州(山口県)の出身であり、明治維新以後、国事を共にしてきた、何かと気の合う、仲の良い親友だった。今までもお互いに助け合ってきた仲だった。

 だが、この時、非常な決意をもって乗り込んできていた児玉大将は乃木大将の顔を猛獣のような目で睨みつけた。二人は二畳ばかりの狭い穴ぐらの一室で、アンペラを敷いた上にあぐらをかいて、人を交えずに、向き合った。会談の内容は公表されていない。

 だが、穴ぐらの外には、時々、怒号する声や、涙ぐむ声すら聞こえたという。あるときは、静かな声で話し合ったり、あるときは怒号のような激しさで論じ合っていたという。結局、児玉大将は、大山巌総司令官から許された、「乃木大将の代わりに、自分が命令する」という懐刀を取り出すことはしなかった。

451.乃木希典陸軍大将(31)乃木は腹を切れ、腹を切らせろ!

2014年11月14日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木大将はついに攻撃を断念せざるを得なかった。二十四日の夜、乃木大将は、連合艦隊司令長官・東郷大将に対して、「軍は今日までの激戦において、ほとんど一万以上の兵力を失い、いかに比類なき勇気も強襲的戦闘をもってしては、とうてい精鋭なる機械をもって要塞を守る敵を屈する能わざるを実験せり」と、攻撃を一たん中止せざるを得ない旨の通知を出した。

 この第一次旅順総攻撃に参加した日本陸軍将兵は約五〇七〇〇名、そのうちの三分の一に近い一五八〇〇余名が戦死した。第一次総攻撃は無残な失敗に終わったので、乃木大将は、強襲は打ち切り、正攻法の攻撃に移ることを決定した。

 
 正攻法に移るというので、大本営から第三軍司令部に派遣されていた参謀・上泉徳弥(かみいずみ・とくや)中佐(山形・海兵一二・丙号学生・佐世保海兵団副長・海軍中佐・竹敷要港部第二水雷施設隊司令・軍令部副官・日露戦争で大本営運輸通信部参謀・浪速艦長・大佐・生駒艦長・薩摩艦長・少将・大湊要港部司令官・横須賀水雷隊司令官・第一艦隊司令官・中将・予備役・国風会会長)が引き揚げることになった。

 その際、上泉参謀が「私はこれから連合艦隊を訪問して、東郷司令長官にもご挨拶申し上げるつもりですが、何かご伝言がございますか」と言うと、乃木大将は「あなたが、目撃されたありのままをお伝えください。今回はやむを得ず中止しましたが、海軍の絶大なるご協力に感謝します。今後は正攻法でやるので、左様ご承知ください、とお伝えください」と言った。

 さらに、上泉参謀が「旅順陥落までにあと何日ぐらい要しますか。連合艦隊としてもそれが分れば大いに便利でしょうから」と尋ねると、乃木大将は「私にもわかりません。はっきり言えることは、ここ十日や二十日では陥落しないということだけです」と答えた。

 上泉参謀が、三笠の東郷司令長官を訪ねて、そのことを伝えると、東郷司令長官は、例の大きな目をギョロッと光らせたが、「戦だから仕方がないね」と一言、言っただけだった。そこで上泉参謀が「では、今後はどうなさいますか」と問いかけると、「どうもこうもあるものかね。このままさ」と平然として答えたという。

 正攻法は、地下道を掘って、できるだけ敵陣の近くまで前進し、いよいよというところで突撃に移るというものだった。九月一日から工兵隊が作業に取り掛かり、十七日に塹壕路はようやく完成した。

 その頃、海軍側はしきりと二〇三高地を攻略してもらいたいと言ってきた。その高地からは旅順港が見渡せるので、港内の敵艦を砲撃する観測所を設けることができると言うのだった。

 これにより第二次総攻撃はまず二〇三高地から攻撃することになった。九月十九日にその前哨戦の火ぶたが切られた。二〇三高地を大したものと考えていなかった第三軍司令部は、第一師団から一個連隊だけをさいて、攻撃に当たらせた。

 だが、攻撃の連隊はバタバタ打ち倒れて、少しも前進できなかった。十九日の夜までにすでに連隊の半数は戦死していた。そこで、第一師団の予備隊の全兵力と中央部隊からの一部をさいて、攻撃に投入した。

 激闘の末、二十日未明、二〇三高地の一角を占領したが、ロシア軍の猛反撃にあい、占領軍は全滅し、再び二〇三高地はロシア軍に取り返された。その後、砲撃や肉弾戦が繰り返されたが、二〇三高地は落ちなかった。

 まさに、二〇三高地は旅順攻略戦の、天王山となった。十月になっても二〇三高地は落ちなかった。攻撃は繰り返され、十一月になった。

 このころ、国内では、軍人や国民の間に、乃木大将の戦法を非難する声が出始めた。旅順が落ちないうちに、ロシアのバルチック艦隊が来たら、いかに名将・東郷司令長官でも苦戦に陥ることは間違いなかった。

 国内の軍人、政治家、国民たちの中から、「乃木が悪いんだ。あんな軍司令官を取り替えて、もっと戦争のうまい指揮官にしろ!」「乃木は兵隊ばかり殺して、自分は何をしているのだ!」「乃木は腹を切れ、腹を切らせろ!」と言う声がいたるところに出始めた。

 激昂した市民たちの一部は、新坂町の乃木邸に押し寄せ、毎夜のように、投石を繰り返した。石は窓ガラスを割り、屋根瓦を砕いた。

 旅順が落ちないのは、乃木大将だけの責任ではなかった。旅順という大要塞をあまく見て、それだけの準備をしなかった大本営にこそ本当の罪があり、それだけの兵力を与えなかった満州軍総司令部にも罪があった。

 連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将は、乃木大将の苦衷をしっていたが、それでも、大本営に対して、二〇三高地の陥落を要求せざるを得なかった。

 大本営でも、乃木大将を更迭しようという話が出ていた。だが、明治天皇が「乃木をかえてはならぬ」と仰せられたのだった。

450.乃木希典陸軍大将(30)旅順は海軍の陸戦隊だけでもやっつけられる

2014年11月07日 | 乃木希典陸軍大将
 だが、旅順要塞は、ロシア軍が十年の歳月と巨額の金をかけて最新科学の粋を尽くした大要塞で、その湾内には太平洋艦隊を擁し、四万二千人の精鋭が守りについている難攻不落の大要塞だった。

 しかも、これを指揮するのは勇名高きアナトーリ・ステッセル陸軍中将(サンクトペテルブルク・ドイツ系の男爵家・パブロフスキー士官学校卒・露土戦争で第一六歩兵連隊長・義和団の乱で第三東シベリア狙撃旅団長・陸軍中将・旅順要塞司令官・第三シベリア軍団長・軍法会議で死刑判決・乃木大将の除名運動で特赦となり禁錮十年・軍を追放される・モスクワで茶商人として余生を送る)だった。

 だが、乃木大将は、勝算があると確信していた。日清戦争のとき、当時も旅順は難攻不落と言われ、当時の軍事専門家たちが、十万人の強兵をもってしても、半年かからなければ陥落しないであろうと言っていたのを、日本軍は立った、半日で陥落させたのだった。

 その時の攻略戦に乃木大将も参加していた。乃木大将は、忠勇死を恐れぬ我が日本軍の攻撃の前では、支那軍が守ろうが、ロシア軍が守ろうが、結果は同じだと、堅く信じていたのだった。
 
 旅順総攻撃を前にした明治三十七年八月十六日、明治天皇は旅順の非戦闘員たちを死傷せしめることがないように、乃木大将に非戦闘員たちを安全退去せしめることを勧告するように命じた。

 そこで乃木大将は連合艦隊司令長官・東郷海軍大将と相談をして、連名で司令官・ステッセル中将に対して、降伏の勧告文を手渡した。このような状況から見て、日本軍の態度は、すでに敵のロシア軍をのんでいた。旅順はすぐに攻略できると考えての高飛車な勧告文だった。

 乃木大将自身も、ある程度の犠牲を覚悟すれば、一回の総攻撃で旅順の本防御線を突破して、旅順港の死命を制し得ると考えていたと言われている。

 だが、この判断の甘さは、乃木大将や第三軍司令部だけでなく、乃木の上部軍である満州軍総司令部も、広島の大本営でも、日本帝国海軍も、日本国民一般の人々も、皆同様な判断をしていた。

 日露戦争開戦前、日本国中は、悲壮な空気で押し包まれていた。「この戦争で、国が破れたら、日本は永久にロシアに隷属させられるかも知れない」という不安がみなぎっていた。

 ところが、開戦してみると、戦争は想像以上にうまく運んだ。陸に、海に、日本軍は連戦連勝で、ロシア軍を撃破していった。そこで安心感が出て、旅順のことなど、さほど重大に考えなくなっていたのだった。

 陸軍中枢部では、旅順は一部の軍団で押さえておけば、あんなものはほっといていい、どんどん北進できるものと考えていた。何といっても日清戦争のときの旅順戦の大勝利の観念が抜けきらなかった。

 ある日本海軍の将校が、次のように言っていたという。「旅順は海軍の陸戦隊だけでもやっつけられる。だから、陸軍は、我々に旅順を任せて、先に進んでもらってもよろしい」。

 あの知将と言われた満州軍総参謀長・児玉源太郎大将でさえ、楽観的であったと言われている。開戦前の三月上旬に参謀本部部長会議の席上で、当時参謀次長であった児玉中将は「今旅順の後方を竹の柵で囲むとすれば、どれだけの材料がいるか調べているところである。これは敵兵が脱出するのを防ぐために作るのである」と発言して、一同大笑いしたという話さえ伝わっている。

 さて、日本側の降伏の勧告文を手にしたステッセル中将は、翌日、日本側の軍使に「たとえ一兵たりともロシア兵が残っている限りは、旅順を日本軍の手にゆだねることはしない」という回答文を手渡した。

 そこで乃木大将は、いよいよ旅順に対する総攻撃を八月十八日と定めた。だが、天候が悪かったため、一日延びて、八月十九日に総攻撃は決行された。

 十九日と二十日に、砲撃戦が行われた。旅順要塞の各砲台からも一斉に反撃してきた。日本軍は猛砲撃を加えた。敵の堡塁の形が変わるほどだった。乃木大将の第三軍司令部では、これくらいたたいておけば、あとは、強襲で落とすことができると判断した。

 そこで、八月二十一日未明、三個師団に対して、突撃命令を出した。日本軍の将兵たちは勇躍して突撃に移った。だが、ロシア軍が使用した機関銃は極めて優秀だった。機関銃をよく知らない日本軍の兵士たちは、ワ~と雄叫びを上げて一団となって突進していった。

 待ち構えていたロシア軍は、多数の機関銃で、ほうきで掃くように、その日本軍の兵士たちを、なぎ倒した。肉弾に次ぐ肉弾で、日本軍の兵力はみるみる減っていった。

 日本側は、これは大変な要塞だと、感じ始めたが、もうどうしようもなかった。攻撃は、翌二十三日も繰り返された。二十四日の朝、乃木大将が双眼鏡でながめると、山の形が変わってしまう程に、日本兵の死骸で埋まっていた。