陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

301.本間雅晴陸軍中将(1)「北一輝の思想は劣等感から発している」と決め付けた

2011年12月30日 | 本間雅晴陸軍中将
 当時世界的にも著名で、輝かしい軍歴、栄光のエリート街道を飛ぶように経てきた、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥と対決し、彼をフィリピンで打ちのめし、バターンに敗退させ、コレヒドールから遁走させるという屈辱のどん底に陥れたのが、日本帝国陸軍の本間雅晴陸軍中将である。

 だが、それとは裏腹に、本間雅晴陸軍中将は、その人生と軍歴において、軍人としては異端で数奇、最後は悲劇的な運命をたどった。

 「文人将軍」「腰抜け将軍」と呼ばれる、その異端の萌芽は子供の頃から顕著だった。

 明治三十五年一月三十日、のちの本間雅晴が深い関心を持つことになる日英同盟が、ロンドンで調印された。

 だが、本間雅晴は当時十四歳の中学生で、まんじゅうを頬張りながら小説を読みふけっていて、このニュースには関心がなかった。

 中学に通う二里の道も、本間少年はいつも本を読みながら歩いた。二宮金次郎を真似たのではなく、読書が彼の唯一の楽しみだった。与謝野鉄幹・晶子や徳富蘆花を愛読した。

 読書は味気ない現実から離れることのできる唯一の方法でもあった。当時、本間少年の文学趣味はますますつのり、読書から、とうとう小説を書くまでになった。

 やがて佐渡の新聞の懸賞小説募集に匿名で応募した作品が当選して、紙上に連載された。「結婚」という題名で、失恋をテーマにしたストーリーだった。

 明治三十七年二月八日、日露戦争が始まり、日本軍は十一月三十日旅順を占領した。この報を聞いた佐渡の中学生は、校庭に集まって万歳をし、ちょうちん行列を行った。

 このとき彼らが行列しながら歌った「旅順占領の歌」は本間雅晴の作詞だった。中学卒業の四ヶ月前である。

 本間とほぼ同時代に佐渡から北一輝(2.26事件理論的首謀者・処刑)が出ている。本間は北一輝の弟、北吉(早稲田大学卒・ハーバード大学・大東文化大学教授・大正大学教授・帝国美術学校校長・衆議院議員)とは学友として親しく付き合ったが、兄の北一輝を嫌っていた。

 後年本間は「北一輝の思想は劣等感から発している」と決め付けた。北一輝が妻の神がかり状態の時の言葉を書きとめ、それに意味をつけて人を説くと聞いたときは、日頃の温厚な本間とは思えぬ怒り方をした。二・二六事件の後の話だった。

<本間雅晴陸軍中将プロフィル>

明治二十年十一月二十七日、新潟県佐渡郡畑野町(佐渡島・現佐渡市畑野)生まれ。父・本間賢吉(農業・大地主)、母・マツの長男。大地主の一人息子。
明治二十七年(七歳)四月畑野村の小学校に入学。
明治三十二年(十二歳)四月佐渡中学校入学。
明治三十八年(十八歳)三月佐渡中学卒業。十二月陸軍士官学校(一九期)入校。同期生は今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一、塚田攻など。
明治四十年(二十歳)五月三十一日陸軍士官学校卒業(一九期)。卒業成績は首席が高野重治(柳下重治・陸大二六・独立混成第三旅団長・中将・勲一等旭日大綬章)で、本間雅晴は次席だった。同期の今村均は三十番位。十二月歩兵少尉、歩兵第一六連隊附。
明治四十三年(二十三歳)十一月歩兵中尉。
大正元年(二十五歳)十二月十三日陸軍大学校(二七期)入校。
大正二年(二十六歳)十一月二十一日鈴木壮六大佐(陸士一・陸大一二・大将・参謀総長・勲一等旭日桐花大綬章)の仲人で田村恰与造中将(陸士旧二首席・ベルリン陸軍大学卒・参謀本部次長)の末女・智子(十九歳)と結婚。
大正四年(二十八歳)十二月十一日陸軍大学校卒業(二七期)。卒業者五十六名中、首席は今村均中尉(陸士一九・大将)で、恩賜は三位の本間雅晴中尉(陸士一九次席・中将)、河辺正三中尉(陸士一九・大将)など五名だった。東條英機大尉(陸士一七・大将・陸軍大臣・首相)は十一位だった。
大正五年(二十九歳)八月参謀本部勤務。
大正六年(三十歳)八月歩兵大尉。参謀本部部員(支那課)。
大正七年(三十一歳)四月英国駐在。同時に英国に派遣された今村均大尉、河辺正三大尉とは親交があった。十一月から翌大正八年八月まで、第一次世界大戦でイギリス軍に従軍。
大正十年(三十四歳)六月陸軍大学校教官。十二月十六日智子夫人と協議離婚。
大正十一年(三十五歳)八月歩兵少佐。十一月インド駐剳(ちゅうさつ)武官。
大正十五年(三十九歳)八月歩兵中佐。十一月八日、王子製紙取締役・高田直屹の長女・富士子(二十三歳)と再婚。
昭和二年(四十歳)一月秩父宮御附武官。
昭和五年(四十三歳)六月三日英国大使館附武官。八月一日歩兵大佐。
昭和七年(四十五歳)八月八日陸軍省新聞班長。
昭和八年(四十六歳)八月一日歩兵第一連隊長。
昭和十年(四十八歳)八月一日陸軍少将。歩兵第三二旅団長。
昭和十一年(四十九歳)十二月一日ヨーロッパ出張。
昭和十二年(五十歳)七月二十一日参謀本部第二部長。
昭和十三年(五十一歳)七月十五日陸軍中将。第二七師団長。
昭和十五年(五十三歳)十二月二日台湾軍司令官。
昭和十六年(五十四歳)十一月六日第一四軍司令官。フィリピン攻略戦を指揮。
昭和十七年(五十五歳)八月参謀本部附を経て八月三十一日予備役編入。予備陸軍中将。フィリピン協会理事長。
昭和二十年(五十八歳)十二月十九日マニラ軍事法廷に召喚され、審理開始。
昭和二十一年二月十一日「バターン死の行進」の責任者として死刑判決。四月三日午前零時五十三分、マニラで銃殺刑。享年五十八歳。墓地は神奈川県川崎市、生田の春秋苑にある。

300.鈴木貫太郎海軍大将(20)辞職せず日独交渉を打ち切ることは何故出来ぬか?

2011年12月23日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 鈴木侍従長は泰然として全く動じなかった。ともあれ、統帥権干犯問題は昭和五年十月二日にロンドン条約が批准されて、一応の終止符を打った。

 だが、昭和十一年二月二十六日、鈴木侍従長は二・二六事件で、拳銃弾が四発命中し重傷を負った。だが、青年将校の安藤輝三大尉(陸士三八)がとどめを刺すのを止めたため命はとりとめた。

 手術で弾丸は取り出されたが、心臓すれすれを通って背中に回った弾丸は終生鈴木貫太郎の体内にとどまった。それから十二年後、鈴木の遺体が火葬に付されたとき、尖端が少しひん曲がった弾丸が出てきたのを、長男の鈴木一が確認した。

 鈴木貫太郎が天皇と対面したのは事件から四十日後の四月六日だった。頭の包帯は取れたが、胸の包帯は巻いたままだった。

 天皇は鈴木侍従長の突然の参内を大変喜んだ。そして、鈴木がうやうやしく、療養中に毎日のように届けられたスープや皇后からうけた蘭の花など、お見舞い品の御礼を述べるより先に、天皇は「無理をしないよう、早々に帰って休めよ」といたわりの言葉をかけた。

 以前より辞意を表明していたのがやっと許されて十一月二十日、鈴木貫太郎は侍従長を退任した。鈴木貫太郎は特に華族に列し男爵をさずけられた。六十九歳であった。

 以後鈴木貫太郎は枢密院顧問官専任の仕事を続けた。昭和十四年八月、ドイツがいきなり独ソ不可侵条約を締結して、日本との同盟に対する裏切り行為をし、このため、平沼騏一郎内閣は総辞職に追い込まれた。

 このとき、鈴木貫太郎は「辞職せず日独交渉を打ち切ることは何故出来ぬか?」と述べている。三国同盟締結が対米戦争を惹起すると、強く反対していた米内光政、山本五十六ら海軍穏健派と鈴木は心を一つにしていた。

 だが、昭和十六年十二月八日、日本海軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争の火蓋は切られた。その後、十八年、十九年と、戦局は時とともに日本に不利になり、追い詰められていった。

 昭和二十年四月五日の重臣会議は午後八時四十分まで続き、鈴木貫太郎枢密院議長がお召しによって、参内、天皇に拝謁の上、後継内閣組閣の御下命を受けたのは午後十時だった。

 この時、鈴木枢密院議長が天皇陛下から御沙汰を拝したときの直接の情景を目撃し、その回想を述べているのが、当時の侍従長・藤田尚徳(ふじた・ひさのり)大将(海兵二九・海大一〇)であった。

 「宰相鈴木貫太郎」(小堀桂一郎・文春文庫)によると、昭和四十四年、八十六歳の高齢で静かな余生を送っていた元侍従長の藤田尚徳氏はその時の情景を次の様に語っている。

 「小磯内閣が総辞職しまして、あれは夕方だったと思いますな(ご高齢の藤田氏の記憶違いで、実は午後十時という夜更けである)、当時枢密院議長だった鈴木さんをお召しになりましてね、私一人侍立(じりつ)していましたが、出し抜けに『卿に組閣を命ずる』と、こう仰せになった」

 「いつもですと、陛下はさらに『組閣したら憲法を守るように、外交は気をつけて無理しないように、経済は混乱を乱すようなことはしないように』という三つの条件をおっしゃるのですが、この時は鈴木さんに何もおっしゃらなかったんです」

 「ただただお前に頼む、というように拝されました。それで鈴木さんは謹厳な方ですから、自分は武人として育ってきたもので、政治に関与しないという明治天皇の勅諭を終身奉じて今日まできたと、どうかお許し願いたいって、背中を丸くしておじぎをしながら言われたんですな」

 「すると陛下がニッコリお笑いになって、鈴木がそう申すであろうことは、私にもわかっておったと。しかしこの危急の時にあたって、もう今の世の中に他の人はいないと、つまり頼むという別の言葉ですな、ぜひやってくれっていうような意味のことを仰せになった。私は、あの時のことは一生忘れられませんな」。

 こうして昭和二十年四月七日、親任式を終えて鈴木内閣は成立した。鈴木貫太郎は内閣総理大臣に就任した。

 鈴木貫太郎首相は、この日から八月十五日の終戦の日まで終戦工作に、七十八歳という老体に鞭打って、まさに奔走した。

 八月十五日正午の終戦の玉音放送の後に鈴木内閣は総辞職した。モーニング姿の鈴木首相は取りまとめた辞表を参内して、軍服姿の天皇に差し出した。儀式は終わった。

 退出しようとする鈴木貫太郎首相に、天皇は「鈴木」と高い声で声をかけた。続いて「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた」と言った。さらにもう一言、「本当によくやってくれたね」と言った。鈴木首相は涙を流しながら、背を丸めて静かに退出した。

 その夜遅く、芝白金の小田村邸に帰ってきた鈴木貫太郎は、たか夫人、長男の一らをよび、「今日は陛下から二度までも『よくやってくれたね』『よくやってくれたね』とお言葉をいただいた」と語り、しばし面を伏せてむせび泣いた。

 (「鈴木貫太郎海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「本間雅晴陸軍中将」が始まります)

299.鈴木貫太郎海軍大将(19)お前らが奏上する時は直立不動だが、私は雑談的に陛下にお話しできる

2011年12月16日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 鈴木侍従長は「政府が国家の大局上より回訓を決定したのであるから、これに対し国防上不安があるというなら、適切な手段を講じ、むしろ軍令部が率先して、最善の努力で不安をのぞくのが本務というものではないか」と言った。

 「なおよく考えてみましょう」と言って、加藤軍令部長は侍従長感謝を辞去した。

 加藤軍令部長は、後刻、「政府上奏前に、上奏することはやめにした」と鈴木侍従長に通知した。

 四月一日、閣議は政府回訓案を了承し、午後二時過ぎ、浜口首相は参内、回訓案を上奏して天皇の裁可を得た。午後五時、外相から在ロンドンの全権団に回訓が発令された。

 翌二日、加藤軍令部長は天皇に拝謁した。このとき、異例のことながら、奈良侍従武官長ではなく、海軍出身の鈴木侍従長が侍立した。

 このためだろうか、加藤軍令部長の上奏は、「政府回訓に示された兵力量では大正十二年にご裁定になった国防方針に基づく作戦計画に重大な変更をきたしますので、慎重審議を要するものと信じます」というにとどめ、強硬な態度は示さなかった。

 ロンドン条約は昭和五年四月二十二日に調印されることになった。万事は円満に終わるかに見えた。ところが、四月二十一日、海軍軍令部は条約に同意しないと表明した。

 条約調印後、四月二十五日、第五十八特別議会で、野党である政友会の犬養毅、鳩山一郎らが突如、「ロンドンで締結した軍縮会議には、国防上の欠陥と統帥権干犯があるのではないか」と爆弾を投げかけた。

 政友会は軍令部と暗黙の了解があり、軍令部は若い将校群から突き上げられていた。その勢いは東郷元帥と伏見宮のかつぎ出しまで発展した。

 加藤大将に吹き込まれた東郷元帥は怒った。特にロンドン会議の全権の財部彪海相がロンドンに夫人を同伴したことに、「戦争に、かかあを連れて行くとは何事か」と激怒した。

 ロンドンから帰国した財部海相が、東京駅に着く五月二十日、軍令部参謀・草刈英治少佐(海兵四一・海大二六)は東海道線車内で海相を暗殺しようとしたが、決行し得ずに、自決した。

 条約反対派は、草刈少佐は死をもってロンドン条約に抗議したと、少佐の死を称え、反対の火の手はますます大きくなった。

 六月十日、加藤軍令部長は、ついに政府を弾劾する上奏分を奏上し、直接に天皇に辞表を提出した。その思い切った行動で事態の重大化を期待したが、天皇はただ沈黙をもってそれにこたえた。

 この頃、政府が軍令部長の反対を無視して回訓を決め、鈴木貫太郎侍従長が加藤軍令部長の上奏を阻止し、統帥権干犯をしたと攻撃する怪文書が、さかんにばらまかれた。

 軍令部長ばかりでなく、鈴木侍従長は、ロンドン条約反対派の伏見宮が参内しようとするのまで邪魔したという事件までがささやかれた。

 その事件は三月末の頃起きた。伏見宮が参内して拝謁の取次ぎを求めると、気骨の鈴木侍従長が、「兵力量はロンドン条約でさしつかえありません。条約に関する奏上はもってのほかであります」と諌言をした。

 伏見宮は怒って、「お前らが奏上するときは直立不動だが、私は雑談的に陛下にお話しできるのだ」と反駁(はんばく)した。だが、結局拝謁は阻止された。

 四月二日の軍令部長の奏上のとき鈴木侍従長が侍立したことも問題視された。これも統帥権干犯だというのだった。これは明らかに越権行為であると鈴木侍従長を非難した。

 さらに草刈少佐の自刃に対する鈴木侍従長の見解が、右翼や青年将校らを激憤させた。それは次の様な内容だった。

 「軍人は勅諭を奉戴し、一旦緩急あるとき戦場に屍をさらすのが本分である。故に、帝国軍人たる
矜持(きょうじ・誇り、自負)と名誉のため、ロンドン条約の経緯などで生命を捨てたものとは信じない。たしかに神経衰弱のせいだと思う」。

 こうした鈴木侍従長の発言や行動は、一年近く前、田中義一首相の辞任の引き金をひいたと非難されたときと同様に、いや、それ以上に、“君側の奸”視され糾弾されることになった。

 例えば右翼の日本国民党は、九月十日に「亡国的海軍条約を葬れ」と題する檄文を各方面に配布し、最後的決定行動をに入るべき決死隊を組織したと宣伝した。

 その目標は、浜口雄幸首相、財部彪海相およびそれと通謀した牧野信顕(まきの・のぶあき)内大臣(東京帝大中退・外務省・外務大臣・伯爵)、鈴木貫太郎侍従長だった。

298.鈴木貫太郎海軍大将(18) どうも加藤は一徹で、感情的で困る

2011年12月09日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 鈴木侍従長は思いもかけなかった事態に困惑した。浜口首相がロンドン会議妥結の回訓の裁可を願い出る、その直前に断乎反対を加藤軍令部長が願い出るというのでは、天皇がどう決定してよいか、その判断を迷わせるだけだ。

 鈴木侍従長はロンドン会議が紛糾し始めたときに、自分の意見をはっきり次の様に表明している。

 「これはどうしても、まとめなければいけませぬ。自分が侍従長という職にいなければ、出て行って加藤あたりを説得してやるのですけれども、現在の地位ではそうすることもできない」

 「いったい、陛下の幕僚長である軍令部長は、もっと沈黙を守って自重してくれなくては困る。民衆に呼びかけて、世論を背景に自分の主張を通そうとするが如き態度はまことに遺憾である」

 「だいたい七割でなければ駄目だというのは凡将の言うことで、軍令部長というものは、与えられた兵力でいかにこれを動かすか、六割でも五割でも決められたら、その範囲内でどうでも動かせますというところに軍令部長たるゆえんがあるので、七割でなければ駄目だとか、今日の若い士官たちは昔と違うとかいう風なことを言うのは、第一おかしな話で、若い士官たちを導いてよくするのは、軍令部長たる人の心がけ如何で同にでもなると思う」

 「今と昔と精神的にもすべてにおいて、違ったことは、決して無い。どうも加藤は一徹で、感情的で困る」。

 以上のようにはっきりと条約締結に賛意を示している鈴木侍従長は、加藤軍令部長を侍従長官邸へ呼びつけて面談した。

 鈴木侍従長は、先輩としてたしなめるような口調で、「拝謁は反対上奏のためという噂があるが、事実かどうか」と訊ねた。

 加藤軍令部長は「そうだ」と返事をした。

 そこで鈴木侍従長は「そういうことになれば、一番お困りになるのは陛下である。一方は国策上の責任者たる総理大臣、他方は統帥部の幕僚長、この二人が相反する上奏をしたのでは、陛下をお苦しめさせることになる。その辺のところを十分に考慮しているのか」。

 「もちろん十分考慮した上での決意である。幕僚長として責任がもてぬから、上奏申し上げるのだ」と加藤軍令部長は答えた。

 鈴木侍従長はかつての鬼貫太郎の気迫で迫った。「シーメンス事件の折、八代大将は自らの主張を強く主張するときは、常に辞表を懐にして閣議などに出られた。次官の自分もまた然りだった。君にはその覚悟があるのか」。

 加藤軍令部長は言葉に窮した。鈴木侍従長はなおも、次の様に迫った。

 「今後の方針で海軍は、『政府方針ノ範囲ニ於イテ最善ヲ尽クスベキハ当然』と決めたというではないか。兵力量の決定はもともと軍令部長の任務であり、軍令部長が如何と言うたら、総理大臣はそれに従わねばならぬ」

 「実は自分が軍令部長の時、昭和二年、ジュネーブ海軍軍縮会議において、兵力量を出先で勝手に決めたことについて、私は岡田海相を通じて斉藤実全権に反対だと電報して、取り消させたことがあった」

 「軍令部長の責任とはそういうものだ。ところが、今回の騒ぎではどういうことか。海軍が今後の方針を決め、君はそれを承認した。そしていわば自分が従うと決めた兵力量を、総理が陛下に奏上するのに、自分は反対です、いけませんと、真っ先に上奏するというのは、道理にもとることになるのではないか。君はどう考えるのか」。

 以上のように鈴木侍従長が述べると、加藤軍令部長は「とにかく用兵作戦上、これだは困るのです……軍令部長としては……」とますます答えに窮した。

 鈴木侍従長はさらに次の様に言った。

 「いわゆる三大原則なるものは、自分が軍令部長在職時代にはなかったと記憶する。潜水艦保有量についても、わが保有量を多くすれば、米国もまた保有量を多くする」

 「そうなれば、大いに考えねばならぬことになろう。対米作戦においては、アジアにある米根拠地を速やかに奪取すること、つまりフィリピンを即座に攻略することが絶対必要の先決問題である」

 「しかるに米国が多数の潜水艦をフィリピンにもつことは、わが作戦を非常に困難ならしめるように思われるが、この点も君はどう考えているのか」。

 加藤軍令部長は「それはそうかもしれない。……しかし、いまさら……如何することもできぬ」と答えた。

297.鈴木貫太郎海軍大将(17)鈴木侍従長はいつしか「君側の奸」の筆頭になった

2011年12月02日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 “日嗣の皇子(ひつぎのみこ)”として育てられ、あらゆる帝王教育を受け、忠実に、几帳面に、心からその教えを守る天皇にあっては、イギリス式君主たらんとするために、自分の意思を表明してはならぬいことであった。

 たとえ軍部の暴走をきびしく処罰することが理にかなうものであっても、立憲君主としてとるべき道を踏み外してはならないのだ。意思を通すことは、大元帥の私兵になる。

 天皇は後に鈴木侍従長に言った。「あの時は自分も若かったから……」。これ以後は、次第に政府や軍部の決定に「不可」をいわぬ「沈黙する天皇」を自らつくりあげていく。

 この事件は鈴木侍従長が、天皇のそばにあって、党派的に動いている存在と誤解を生み、非難されるきっかけをつくった。

 天皇と首相の「中間に立つ」ことを頼まれたとき、「侍従長とはそういう位置にない」と鈴木が言ったことが正しいにせよ、宮廷外の者から見れば、侍従長とは潜在的な政治的調停者として見られていたのである。

 鈴木貫太郎という人間がそのように権謀術数(けんぼうじゅっすう)を巧みにする人ではないことは、明らかなことなのだが、伝聞による誤解が誤解を生み、鈴木侍従長はいつしか「君側の奸」の筆頭になった。

 昭和五年三月十四日、ロンドン軍縮会議に出席していた若槻礼次郎前首相から「これで妥結してよいか」という政府の訓令を求める電報が届いた。

 日本全権団は、日本政府から「三大原則」の訓令を受けていた。それは国防の安全を確保するために「対米補助艦総括して七割、重巡洋艦七割、潜水艦七万八千トン」をどんなことがあっても要求するというものであった。

 だが、ロンドン会議は難航した。そして三月中旬に、最終的妥協案がアメリカから提案された。総括六割九分七厘五毛、重巡洋艦六割、潜水艦五万二千トン均一というものであった。

 首席全権・若槻は悩んだ。七割にはわずかに足らない。だが、アメリカが七割を認めれば、米国世論が騒ぎ、米議会を通過しないだろう。会議をこわさぬためにも、日本がこのくらいの譲歩をすべきであろうと決心した。

 海軍省はひとますこれで協定すべきである、という統一見解をとった。だが軍令部は承知しなかった。

 加藤寛治軍令部長は「「わが海軍の死活をわかつ絶対最低率を確保できぬなら、この協定は断乎破棄するほかはない」と、浜口雄幸首相に強硬に申し入れた。

 さらに海軍の長老である東郷平八郎元帥が、「要するに七割なければ国防上安心できないのであるから、一分や二分というちいさなかけ引きは無用である。先方が承知しなければ断乎として引き揚げるのみ。この態度を強く全権団に言ってやれ」と強硬意見を吐くに至り、海軍は二つに割れた。

 海軍省の次官・山梨勝之進中将(海兵二五次席・海大五次席・大将・学習院長)と軍務局長・堀悌吉少将(海兵三二首席・海大一六首席・中将・日本飛行機社長・浦賀ドック社長)は、軍令部の強硬論の中にあって、会議成立のため海軍部内を取りまとめようと必至に奔走した。

 そして三月十六日軍事参議官・岡田啓介大将(海兵一五・海大二・大将・海相・首相)を中心に、加藤寛治軍令部長、山梨次官、末次信正次長(海兵二七・海大七・大将・内務大臣)、堀軍務局長ら省部の最高幹部が参集し、ついに兵力量の決定権が政府にあることを言外に認めた。

この海軍の決定を背景に、浜口首相は政府の回訓案をまとめ、三月二十七日参内して天皇に単独拝謁し、天皇が会議の分裂を欲していないことを確かめ、その肝を決めた。

 加藤軍令部長らの強硬派は、憲法第十一条の「天皇は陸海軍を統帥す」と第十二条の「天皇は陸海軍の編制および常備兵額を定む」をタテに、兵力量の決定は統帥事項であるから、軍令部の同意を要すると主張した。

 だが、第十一条の統帥大権は、第十二条の内閣の輔弼事項である編制権にまで及ぶものではない、という解釈をとり、それにより軍令部の主張を押しのけようと浜口首相は決意した。

 軍令部は政府の強硬姿勢に激昂した。岡田大将が加藤部長を説得したが、加藤部長は単独上奏の決意を述べ、「いざとなればハラを切る」とまで口走った。

 浜口首相は昭和五年四月一日に、この回訓案を閣議決定し、直ちに上奏ご裁可を仰ぎたい旨を、前日に鈴木侍従長に通じ、そして午後四時拝謁の許しが出た。

 ところが、加藤軍令部長が、四月一日の浜口首相上奏前に拝謁したい旨を、奈良武次侍従武官長を通し、願い出てきた。こうして政治の争いが宮中に持ち込まれた。