陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

222.山下奉文陸軍大将(2) 山下少将は「ああ、何か起こったほうが話が早いよ」と答えた

2010年06月25日 | 山下奉文陸軍大将
 「フィリピン決戦」(村尾国士・学習研究社)によると、山下奉文(ともゆき)大将は明治十八年十一月十八日、高知県香美郡大杉村に生まれた。吉野川上流の山中の田舎村だった。

 父の佐吉は近在で唯一の開業医だったが、初めから医者だったわけではない。高知県の師範学校を出て小学校教師をしていたが、医者のいない村の実情に一念発起し、医師をめざして転身した。

 苦学の末検定試験に合格し、奉文が三歳の時、村で開業した。これだけでも意思と努力の人であることがうかがえるが、開業してからは、貧しい村人には治療費や薬代を請求しない「赤ひげ」的医者でもあった。

 山下奉文大将の部下や家の下僕に対する人間的な優しさはよく知られているが、その根っこは父親にあるとみてよいだろう。

 奉文は次男で、三歳上の兄、奉表(ともよし)がいる。奉表は苦学して、小学校の頃から常に首席を通した。医師の道を進み、海軍軍医学校を卒業し、後に海軍軍医少将になった。

 奉文は秀才の兄に比べて、机に向うよりも山野を駆け回ることを好むガキ大将だったが、終生、兄奉表を敬愛してやまなかった。「兄のように学校の成績がよければ、俺も医者になっていた」と山下奉文は後によく話していた。

 「昭和の名将と愚将」(半藤一利・保坂正康・文藝春秋)によると、山下奉文将軍(陸士一八・陸大二八恩賜)に人間的な魅力があったことは間違いない。

 イギリスの作家で元陸軍大佐、アーサー・ジェイムス・バーガーは連合国軍として第二次世界大戦に従軍して戦ったが、「マレーの虎・山下奉文」(鳥山浩訳・サンケイ新聞社出版局)という本を出版している。

 その本の中でアーサー・ジェイムス・バーガーは山下将軍について次のように記している。

 「肥満していたが、非常に神経質であり、有能だったが、よく惑わされた。冷酷だったが潔癖なところがあった。多くの点でモダンだったが過去に束縛された。彼の心は偽善と責任回避を一切憎んだ。そして軍人稼業に関する限り、偉大な現実主義と判断を示した」

 「時折、山下は政治的冒険に忙殺された。そして、彼の手は決してきれいではなかった。しかし、彼の敵でさえ、彼の理解力と統御力の目立つ特質を認めた。そして、彼の友人、特に彼の幕僚として勤務した将校たちは、彼を全軍におけるもっとも優秀な指揮官だと考えた」

 昭和天皇は、二・二六事件で皇道派的な動きを見せた山下将軍を嫌っていたという説がある。ただ、それは東條英機大将(陸士一七・陸大二七)が山下将軍を天皇の前に出さなかったという話もある。

 一度、山下将軍が陸軍大臣にという話が持ち上がったが、天皇の意思でつぶれたという噂もある。

 「小倉庫次侍従日記」(文藝春秋・2007年4月号)によると、山下奉文と石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)の昇進の推薦に昭和天皇が印を押すのを嫌がったという記述がある。

 石原莞爾は浅原事件が原因のようだが、山下将軍については、小倉侍従の推測の域を出ていないが、日記には「二・二六事件か」とだけ書かれている。

 昭和天皇にとっては、二・二六事件は、かなりのトラウマになっている。相沢事件や皇道派の青年将校が引き起こしたクーデター、二・二六事件のとき、陸軍省軍事調査部長・山下少将は皇道派的な態度を示している。

 二・二六事件以後、皇道派の指導的立場の将軍達はほとんど中央から遠ざけられた。そのとき統制派として浮かび上がってきたのが、梅津美次郎(うめづ・よしじろう)(陸士一五・陸大二三首席)と東條英機だ。

 磯部浅一元一等主計(陸士三八)の獄中日記によると、昭和十一年二月二十六日に二・二六事件が起きたが、その前年の十二月に、磯部は陸軍省調査部長・山下奉文少将(陸士一八・陸大二八恩賜)の自宅を訪れた。

 そのとき、山下少将は「お前らは(国家)改造改造というが、案があるのか。あるなら持って来い。アカ抜けした案を見せてみろ」と、嘲笑したような態度だった。

 磯部が「案よりも何事か起こった時はどうするんですか」と言うと、山下少将は「ああ、何か起こったほうが話が早いよ」と答えた。

 「叛乱」(立野信之・ぺりかん社)によると、事件の前、村中孝次元大尉(陸士三七)と磯部浅一元一等主計に扇動されていた安藤輝三大尉(陸士三八)ら第一師団歩兵第三連隊の青年将校、十五、六名は、一月十五日夜、山下奉文少将の自宅を訪れ、意見を聞いた。

 山下家の応接間は、青年将校たちで一杯になった。「やあ、お揃いで、何だね?」。山下少将は和服の寛いだ姿で、応接間に入ってきた。

 「今夜は、一つ、閣下の縦横談を伺いに参りました」。安藤大尉が、先任者として口火を切った。

 安藤は、血盟団事件の際、内大臣・牧野伸顕を暗殺することになっていた東大生の四元義隆を、当時連隊長だった山下の指金で、将校寄宿舎の自分の居室に数日かくまったことなどもあって、山下少将とは特別親しい間柄だった。

221.山下奉文陸軍大将(1)将軍のなかでも山下大将ほど武術に関心を示さなかった人も珍しい

2010年06月18日 | 山下奉文陸軍大将
 「シンガポール・山下兵団マレー電撃戦」(アーサー・スウィンソン・宇都宮直賢訳・サンケイ新聞出版局)によると、山下奉文は一時、父のように医者になりたいと考えたが、学業はけっしていいほうではなかった。

 結局、奉文の両親は彼にいちばん向いているのは軍人だと決め付けた。その決定について、山下将軍は後に次のように語った。

 「それはおそらく、わたくしの運命だったろう。わたくしはこの経歴を自分で選んだわけではなかった。おそらく父は、わたくしが、図体がでかく健康だったので、その考えをほのめかしたのだろう。母は、ありがたいことに、競争の激しい入学試験にとても合格すると信じなかったので本気になって反対しなかった」

 だが、山下はやすやすと合格し、明治三十三年、広島陸軍幼年学校に入校した。中央幼年学校も士官学校も優等で卒業、陸軍大学校も優等で卒業した。

 後年、「マレーの虎」と呼ばれ、武人的軍人の象徴にまつりあげられた山下大将だが、医者志望だったことからわかるように、本質は決して軍人至上主義の人ではなかった。

 並みいる将軍のなかでも山下大将ほど武術に関心を示さなかった人も珍しい。軍刀にしても銘などにはまったく拘泥しなかった。

 山下奉文の家庭の日常は、閑な時は大抵昼寝をしていたと言われている。時々、大工道具を揃えて、修繕仕事みたいなことをしたかと思うと、夜店をひやかして、盆栽を買ってきて楽しむ無邪気で平凡な生活だったという。子供がないので、兄の子を養子に迎え、子供とのんきに遊んでいた。

 山下奉文の居眠りは有名だった。軍務の会議の最中でも居眠りをして鼾をかいたといわれている。実際は扁桃腺が悪くのどを詰まらせるから鼾のような音を出すのだと本人は弁解する。だが、居眠りすることは事実だった。

 <山下奉文(やました・ともゆき)陸軍大将プロフィル>

明治十八年十一月八日高知県香美郡香北町出身。山下佐吉(医師)の次男。三歳年上の兄、奉表は海軍軍医少将。
明治三十二年(十四歳)四月海南学校(高知市)入学。
明治三十三年(十五歳)九月広島陸軍地方幼年学校入校(二年まで首席、その後も2~3番の成績)。
明治三十六年(十八歳)七月広島陸軍地方幼年学校卒業。九月東京の陸軍中央幼年学校入校。
明治三十七年(十九歳)十一月陸軍中央幼年学校卒業。十二月陸軍士官学校入校。
明治三十八年(二十歳)十一月二十五日陸軍士官学校卒業(一八期)。広島の歩兵第十一連隊附。
明治三十九年(二十一歳)六月二十六日歩兵少尉。
明治四十年(二十二歳)六月清国駐屯軍歩兵中隊附(中国大陸)。
明治四十一年(二十三歳)十二月歩兵中尉。広島の歩兵第十一連隊附。
明治四十三年(二十五歳)十二月戸山学校教導隊附。
大正二年(二十八歳)十二月陸軍大学校入校。
大正五年(三十一歳)五月歩兵大尉。十一月二十五日陸軍大学校卒業(二八期・恩賜)。歩兵第十一連隊中隊長。
大正六年(三十二歳)二月元陸軍少将、永山元彦(陸士一)の長女、久子と結婚。八月参謀本部附。
大正七年(三十三歳)二月参謀本部部員(ドイツ班)。
大正八年(三十四歳)四月駐スイス大使館附武官補佐官。スイス公使館附武官・佐藤安之助大佐(陸士六)、補佐官・東條英機大尉(陸士一七・陸大二七)、河辺正三大尉(陸士一九・陸大二七)と交流。
大正十年(三十六歳)七月ドイツ駐在。
大正十一年(三十七歳)二月ドイツから帰国、歩兵少佐。七月二十二日陸軍技術本部附兼陸軍省軍務局軍事課編成課長。
大正十四年(四十歳)八月歩兵中佐。
大正十五年(四十一歳)三月十六日陸軍大学校教官(兼任)。
昭和二年(四十二歳)二月二十二日オーストリア大使館兼ハンガリー公使館附武官。
昭和四年(四十四歳)八月一日歩兵大佐。陸軍兵器本廠附(軍事調査部軍政調査会主任幹事)。
昭和五年(四十五歳)八月一日歩兵第三連隊長。
昭和七年(四十七歳)四月十一日陸軍省軍務局軍事課長。
昭和九年(四十九歳)八月一日陸軍少将。陸軍兵器本廠附。
昭和十年(五十歳)三月十五日陸軍省軍事調査部長(東條英機少将の後任)。
昭和十一年(五十一歳)二月二十六日、2.26事件で青年将校らと交渉。三月十日歩兵第四十旅団長(朝鮮へ)。
昭和十二年(五十二歳)八月二十六日支那駐屯混成旅団長。十一月一日陸軍中将。
昭和十三年(五十三歳)七月十五日北支那方面軍参謀長。
昭和十四年(五十四歳)九月二十三日第四師団長(北支・満蒙)。
昭和十五年(五十五歳)七月二十二日航空総監兼航空本部長(東京)。十二月十日ドイツ派遣航空視察団長としてドイツ・ベルリン訪問。
昭和十六年(五十六歳)六月九日軍事参議官。七月十七日関東防衛軍司令官(満州)。十一月六日第二十五軍司令官。十二月八日マレー作戦の指揮官としてコタバル上陸。
昭和十七年(五十七歳)二月十五日シンガポールを陥落させる。七月一日第一方面軍司令官(満州)。
昭和十八年(五十八歳)二月十日陸軍大将。
昭和十九年(五十九歳)九月二十六日第十四方面軍司令官(フィリピン)。
昭和二十年(六十歳)一月第十四方面軍はバギオ山中に移動。九月三日バギオで米軍に降伏し調印。十二月八日マニラ軍事法廷で死刑判決。
昭和二十一年(六十歳)二月二十三日マニラ郊外ロス・パニョスで刑死(絞首刑)。享年六十歳。

220.山本五十六海軍大将(20)主将の行動を、第一線において詳細な無線電報で打電する者があるものか

2010年06月11日 | 山本五十六海軍大将
 草鹿中将は熱帯性のひどい下痢つづきで、絶食に近い状態だったが、山本司令長官は「そんなこといったって、そりゃお前、適当に食わにゃいかんよ」と言って、朝、草鹿中将が馬に乗って官邸山のコテージを訪ねていくと、「おい、胡瓜を食わしてやろう」と、自分でそのへんに生っている胡瓜をつんで、すすめたりした。

 草鹿中将は山本司令長官から「おい」と言われりゃ「へい」と言うような間柄で、「山本さん、あんたねえ」などと、何でも打ち明けて話していた。

 草鹿中将の語るところでは、古い海軍の者は少しぐらい階級の上下があっても、たいてい「あんた」とか「君」とかで、「閣下」だの「長官」などはあまり呼ばなかったという。

 「い」号作戦は、一応の成功を収めて終わり、山本司令長官のラバウル滞在の日程も、終わりに近づいてきた。

 山本司令長官は日程の最後に、ガダルカナル戦線に最も近いショートランド島方面の基地を日帰りで視察することになった。

 四月十三日、山本司令長官の前線視察日程が、宇垣参謀長の署名を得て、ラバウルの第八通信隊の放送通信系と、南東方面艦隊の一般短波系の二波を使って送信された。

 この前線視察日程の暗号通信、「NTF(南東方面艦隊)機密第一三一七五五番地」は、米軍に解読された。

 このとき第三艦隊司令長官の小沢治三郎中将は、連合艦隊参謀に、山本長官の前線視察は危険であるから取り止めるように言い、「どうしても行かれるなら、第三艦隊の戦闘機を出すから、護衛の戦闘機をもっと付けなければだめだ」と付け加えた。

 だが、参謀は、「大事な戦闘機だから六機でいいと言うのが長官の意向だ」と、取り合わなかった。

 ショートランドの第十一航空戦隊司令官・城島高次少将(海兵四〇)はラバウルからの暗号通信を手にするや、その長文に驚いた。

 城島少将は「電文が長すぎる。それに最前線で主将の行動を詳細に無線電報で知らせるなんて不適当だ」と部下の幕僚に漏らした。

 城島少将は急遽、ラバウルに飛んだ。城島少将は山本司令長官に「急いで帰ってまいりました」と挨拶した。

 山本司令長官は「お前のところへ行こうと思っていたのに帰ってきたのか」と言った。

 城島少将は「長官が最前線にお出かけになれば一同大変喜ぶと思いますが、しかし、私は行かないほうがよいと思います」と言い、続けて、宇垣参謀長に向って

 「主将の行動を、第一線において詳細な無線電報で打電する者があるものか」ときつい調子で吐いた。城島少将と宇垣参謀長は海軍兵学校四〇期の同期だった。

 すると宇垣参謀長は「暗号を解読しておるものか」と素っ気無く答えた。

 城島少将は、たたみかけるように「敵が暗号を解読しておらぬと誰が証明できるか。長官、私には最前線の状況がよく分かっています。行かれないほうがよいと思います」と言った。

 山本司令長官は「お前はそういうけれど、一度行くといったからには行かないわけにはいかないよ。大丈夫、直ぐ帰ってくるよ。待っていろよ。晩飯を一緒に食おう」と答えた。

 後に、城島少将は本土防衛の航空隊司令官に転じたが、知り合いの士官に「馬鹿ほど長い電報を打つんだよ」とはき捨てたという。

 四月十七日夜、夕食に招かれた陸軍の第八方面軍司令官・今村均中将(陸士一九・陸大二七首席)も、二月に海軍機を借りてブインまで飛んだ時の体験を話し、山本司令長官に中止したほうがよいと忠告して、次の様に言った。

 「とにかく、ブイン飛行場まで後十分というときに、P38に突然襲われましてね、そう、三十機もいましたか。あやうく雲間に逃れて、仏にならずに助かったのですが。長官も気をつけてください」

 そのとき、山本司令長官はにこにこしながら「それはよかったですなあ」というだけで、それ以上そのことに、触れようとはしなかった。

 四月十八日午前六時五分、山本五十六司令長官と宇垣参謀長ら司令部幕僚は、第二十六航空戦隊第七〇五航空隊所属の一式陸攻二機に分乗しラバウルを出発した。

 六機の護衛戦闘機に守られながら一番機と二番機の一式陸攻二機は飛行したが、午前七時三十分、ブーゲンビル島上空で、米軍のP38戦闘機十六機に攻撃され、二機とも撃墜された。

 一番機は、山本司令長官をはじめ全員戦死した。二番機は、宇垣参謀長、連合艦隊主計長・北村元治少将(海経五期)、主操・林浩二等飛行兵曹の三人が生還した。

 暗号解読により、「ヤマモトミッション」と呼ばれた、米軍の山本五十六大将暗殺計画は、成功し、山本五十六大将は戦死した。享年五十九歳だった。

 米軍のハルゼー大将は、ヤマモトミッション攻撃隊、P38戦闘機隊の隊長、ミッチェル少佐に「おめでとう。撃墜したアヒルどもの中には、一羽の孔雀がいたようだね」と電報を打ったという。

(「山本五十六海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山下奉文陸軍大将」が始まります)

219.山本五十六海軍大将(19)山本大将もエラそうにいうが、航空戦にかけちゃ、全くの素人だヨ

2010年06月04日 | 山本五十六海軍大将
 「大東亜戦争回顧録」(佐藤賢了・徳間書店)によると、著者の元陸軍中将・佐藤賢了氏(陸士二九・陸大三七)は、山本五十六長官について次の様に述べている。

 「しかし、この作戦(ミッドウェー海戦)は、実施部隊の実情を考慮しない無理な作戦であった。作戦要領の研究準備の時も与えず、長駆インド洋の作戦から帰ったばかりの機動部隊に、汗もふかせずに敵の本拠に近いミッドウェーに、しかも奇襲作戦を行おうとするのは、無理を越えて乱暴というよりほかにいいようながない」

 「敵の本拠ハワイの目と鼻の先、ミッドウェー攻略は、準備を万全に整えた組織的強襲でなければならぬ。進発してからでも敵情はまったくわからぬまま、メクラ攻撃に近い攻撃をかけたのである」

 「真珠湾奇襲作戦を考案し、訓練し、そしてこれを断行した山本五十六提督は古今の名将である。しかし、ミッドウェーで敗北した山本五十六提督は凡将中の最凡将といっても過言ではない」

 「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると、大西瀧治郎海軍中将(海兵四〇)は、「山本大将もエラそうにいうが、航空戦にかけちゃ、全くの素人だヨ。真珠湾でも、ミッドウェーでも、まるでなっとらん」と酷評した。

 山本五十六がいかに英邁なりといっても、航空は中年からの年期だったから、たたきあげの航空屋、大西中将からすると、兵術の一角でいくらか徹底したところが足らなく思われたのだろう。

 山本五十六をはじめ、日本海軍首脳は米軍の近代兵器導入に勝てなかった。レーダーの早期導入を進言した海軍技術士官に対して、「防御の道具は不要だ。日本には大和魂がある」とはねつけたのは、航空主兵、戦艦無用論の急先鋒、山本理論の後継者であった源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)だった。

 アメリカはレーダーの開発だけでなく、対空火器制御の自動化により命中率を飛躍的に向上させることに成功した。複数の対空火器とレーダー、方位盤、射撃盤、水平安定儀をエレクトロニクスを利用して結び、一体化して自動的に対空射撃が可能なシステムを昭和十七年にはすでに実用化した。

 このシステムは、プロペラ機なら数十機の目標の半分は撃墜できる能力を持っていた。現実に、日本パイロットの名人芸がなんとか通用したのは昭和十七年半ばまでだった。

 昭和十七年十月の南太平洋海戦では、熟練した名パイロットらが参加して九十二機を失い、百四十人が海の藻屑と消えた。

 日本海軍の攻撃隊はレーダーによって待ち伏せていた米戦闘機隊と強化された米艦の対空砲火によって、大打撃を食らったのであった。

 昭和十八年後半になるとVT(Variable Time)信管付砲弾も実用化した。電波を発しながら飛び、飛行機の十五メートルほどに接近すると、自動的に爆発して飛行機を撃破するもので、命中率は二百倍にも上昇した恐るべき新兵器だった。

 こうして日本の攻撃機は米艦隊に歯が立たなくなり、日本の航空主兵主義は敗れるほかはなくなっていった。山本五十六と連合艦隊の参謀達はこのような新兵器に対して、考えも及ばなかった。

 松田千秋大佐(海兵四四・海大二六)は、昭和十七年十二月十八日、戦艦日向の艦長から戦艦大和の艦長になった。

 ある日、松田艦長は、山本五十六連合艦隊司令長官から「おい、松田君、一緒にめし食おう」と誘われて、長官室で夕食をともにした。

 そのとき、山本長官は、連合艦隊司令長官よりも海軍大臣になることを望んでいると言った。松田艦長もその方がやはり適任だと思ったという。

 松田艦長は「山本長官は情宜に厚い立派な人で、また先見の明があって、航空をあれだけ開発発展させたことは非常な功績だ。しかし、作戦では感心できるようなものがほとんどなかった」と述べている。

 昭和十八年二月十一日、トラック泊地で連合艦隊司令部は戦艦大和から戦艦武蔵に引越しをした。昭和十七年二月十二日に連合艦隊司令部が戦艦長門から戦艦大和に移ってから一年目であった。

 昭和十八年四月三日、山本五十六司令長官、宇垣参謀長、幕僚など、連合艦隊司令部は、二式大艇二機に分乗してラバウルに進出した。

 ガダルカナル島攻撃の「い」号作戦は山本五十六の誕生日の四月四日から実施する予定だったが、猛烈なスコールのため、作戦発動は三日繰り延べになった。

 四月七日から、ガダルカナル島と周辺の連合軍艦船に対する、戦爆連合の大掛かりな空襲を開始した。七日、十一日、十二日、十四日と四日にわたりブーゲンビル島方面の前進基地から延べ四百八十六機の戦闘機と百十四機の艦上爆撃機、八十機の陸上攻撃機が出撃した。

 飛行機が出撃する時は、山本司令長官は必ず、白い二種軍装を着て、帽を振りながら、一機一機これを見送った。

 見送りがすむと、山本司令長官は艦隊司令南東方面艦隊司令部の司令長官・草鹿任一中将(海兵三七・海大一九)の部屋に帰ってくる。

 それからソファに腰掛けて、草鹿中将、第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将(海兵三七・海大一九)、連合艦隊参謀長・宇垣纏中将(海兵四〇・海大二二)と四人くらいで、作戦の打ち合わせをしたり、雑談をしたり、将棋をさしたり、また、病院へ傷病兵の慰問に出かけたり、山本司令長官はじっとしていなかった。