陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

175.米内光政海軍大将(15)海軍と東條幕府との戦いは、火花を散らさんばかりに続いた

2009年07月31日 | 米内光政海軍大将
 「米内光政のすべて」(七宮三編・新人物王来社)によると、昭和十九年が明けたとき、国力の差は歴然とし、大日本帝国の勝機は完全に失われた状況となった。

 この状況で、東條首相兼陸相と嶋田海相のコンビがとった戦争指導方策は、統帥部の総長を兼任するという前代未聞の非常手段だった。

 方々から上がった猛反対の声を無視して、政治と軍事が乖離していては戦争はできないと、昭和十九年二月二十一日、二人はこれを強行した。

 その独裁色が極度に濃厚になるに及んで、倒閣の動きも出てきた。海軍の長老岡田啓介を中心に、その周辺が知恵を絞った結論は、東條の腰巾着である嶋田海相を更迭させ、連鎖反応を起こさせることにより、東條内閣を崩壊させるというものだった。

 当然のように、嶋田追い落としのあと、米内光政の現役復帰、海相あるいは軍令部総長就任による海軍部内立て直しの構想が浮上してきた。

 昭和十九年三月十四日、岡田は伏見宮元帥に会い、米内の現役復帰を進言し、賛成を得た。このとき伏見宮は、海軍の立て直しの為にも、ロンドン軍縮条約の調印問題以来こじれている条約派と艦隊派との、大同団結をはかる必要があるのではないか、という示唆をもらした。

 端的に言えば、犬猿の仲とも噂されている米内(条約派)と末次信正大将(艦隊派)の仲直り、すなわち両者の現役復帰である。

 条約派につながる岡田には、末次の現役復帰などどうでもいいことであったが、米内の現役復帰実現のためには、毒食わば皿までの覚悟をきめた。
 
 東條幕府を潰すためには、米内海相、末次軍令部総長の構想を表面に押したて、海軍が一丸となって打ち当たらねばできないことかもしれなかった。

 米内はしかし、容易に腰を上げようとはしなかった。あるいは口もききたくない末次との和解など、毛頭考えないことであったろうか。

 だが、六月三日、米内がやっと思い腰を上げた。藤山愛一郎の好意で、藤山邸で、岡田、米内、末次の海軍三長老が極秘に会談を持った。

 岡田は回想する。藤山が席をはずしたから、私は米内と末次に向かい、「この際、日本の為に仲直りしてくれんか。今やもう、非常な事態にたちいたっているんだ」と言ったところ、二人とも国を救うため一個の感情などどうでもよい。一緒に力を尽くそうと言ってくれた。それはありがたい、と私も言って、記念の寄せ書きなどして、その日は別れた。

 だが、このとき、米内の胸中には万感の思いが去来した。「ロンドン軍縮条約以後における伏見宮、加藤寛治、末次信正らの策謀をみよ」である。

 このため、山梨勝之進、堀悌吉らの次代を担う海軍軍政家が次々に首を切られたではないか。それが今日の海軍の、大きく言えば国家の悲運を招いたといえる。

 そしてまた、日独伊三国同盟から開戦まで、対米強硬論で海軍部内を押し切ったのは末次につながる一派ではなかったか。だが、それらの不愉快きわまる複雑な思いを断ち切って、米内は末次の手を握った。

 岡田、米内を中心とする海軍と東條幕府との戦いは、火花を散らさんばかりに続いた。六月十六日、岡田は嶋田海相に会い、海相辞職を勧めた。

 六月二十二日には、伏見宮も熱海より上京し、嶋田を呼んで辞職のことを口に出した。翌日、嶋田は東條にハッパをかけられて、反撃に出た。

 「私が辞めれば東條内閣が倒れます。現に政界では海軍を使って東條内閣を打倒遷都する陰謀があります。殿下はその陰謀に加担あそばれるというのですか」

 この脅しに、伏見宮は驚き入って、熱海ほうほうの体で帰っていった。

174.米内光政海軍大将(14)見るもよし聞くもまたよし世の中はいはぬが花と猿はいうなり

2009年07月24日 | 米内光政海軍大将
 総理を辞めた米内光政は、翌月の八月、日光に遊んだ。およそ、観光などしたことのなかった米内にしては珍しいことであった。

 そのとき、日光の「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿をみて、米内は「見るもよし聞くもまたよし世の中はいはぬが花と猿はいうなり」と詠んだ。

 昭和十五年七月二十二日、第二次近衛文麿内閣が誕生した。九月二十七日、ベルリンのヒトラー官邸において、日本大使・来栖三郎、ドイツ外相・リッペントロップ、イタリア外相・チアノの三代表によって署名、捺印され、日独伊三国同盟が締結された。当時の海軍首脳は、及川古志郎海軍大臣(海兵三一・海一三)、豊田貞次郎次官(海兵三三首席・海一七首席)だった。

 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、老体を病床に横たえながらも、日本の現状に憂慮を抱いていた元老西園寺公望公爵は、三国同盟の成立を知ると、そばに仕える女たちに向って次の様に言った。

 「これで、もうお前さんたちさえも、畳の上で死ぬことはできない」。西園寺公は、そう言うと終日床上に瞑目して一言も語らなかった。老公はその年の十一月、興津の坐漁荘で九十二歳の天寿を全うした。

 当時米内光政は閑職であったが、同盟締結を聞いて「我々の三国同盟反対は、ちょうどナイヤガラ瀑布の一、二町上手で、流れにさからって舟を漕いでいるようなもので、無駄な努力であった」と嘆息した。

 緒方竹虎が「米内・山本の海軍が続いていたなら、徹頭徹尾反対したか」と質問したら、米内は「むろん反対しました」と答え、しばらくしてから「でも、殺されていたでしょうね」と、いかにも感慨に耐えない風であった。

 昭和十五年十一月十五日、連合艦隊司令長官・山本五十六中将は、同期の前海軍大臣・吉田善吾中将、支那方面艦隊司令長官・嶋田繁太郎中将とともに海軍大将に昇進した。

 山本司令長官は、十一月二十六日から二十八日まで、目黒の海軍大学校で、連合艦隊の図上演習を統裁した。

 そのとき山本司令長官は及川古志郎海軍大臣から、山本の後任の連合艦隊司令長官を誰にしたらいいかと、相談をもちかけられた。

 十二月上旬、山本連合艦隊司令長官は、及川海軍大臣と伏見宮軍令部総長に「来年四月に予定されている連合艦隊の編成替えのとき、米内大将を現役に復帰させ、連合艦隊司令長官に起用されたい」と進言した。

 山本連合艦隊司令長官は米内が連合艦隊司令長官なら「対米英戦争は勝てない」という信念を貫くだろうし、次期軍令部総長にもなりやすいと思ったようである。

 及川海相も今度は同意した。ところが伏見宮軍令部総長が山本連合艦隊司令長官に意外なことを言った。「米内を現役に復帰させ、将来自分の後任とすることには同意するが、連合艦隊はお前がやれ」。山本五十六にとっては、信じられないような、願っても無いことであった。

 だが、伏見宮の米内に関することばは、社交辞令にすぎなくて、自分の意思に合う大角峯生か永野修身を後任の軍令部総長にするのが本心だった。

 昭和十六年四月九日、伏見宮は体調低下の理由で、軍令部総長の職を永野修身大将に譲った。第一候補は大角峯生大将だったが、二月初めに南支方面へ視察に行き、五日に広東で飛行機が墜落して、事故死していた。

 伏見宮は、対米英不戦派の米内を現役に復帰させて軍令部総長にする気などなかったのである。

 ドイツ、イタリアを訪問した松岡外相はモスクワに行き、四月十三日、スターリンを相手に、日ソ中立条約に調印した。

 昭和十六年十月十六日、近衛内閣は崩壊し、十七日、東條英機に組閣の大命が降下した。

 ともかく、このような状況により、日本の対英米敵視政策がふくらんでいき、昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃を皮切りに、怒涛の如く日本は太平洋戦争に突入していった。

173.米内光政海軍大将(13) 代わりの陸軍大臣を出さず、米内内閣をぶっ倒せ

2009年07月17日 | 米内光政海軍大将
 この三つの意見が畑陸軍大臣の口から出た以上、陸軍の公式意思表示であり、米内首相も事の意外に驚いた。

 だが、裏面の動きが容易に察せられたので「組閣以来今日まで、何等意見の疎隔があったとは思わないし、お互いにこの際は覚悟を新たにして難局に当たるべきではないか」と慰撫し、また反発した。畑陸軍大臣も強いて固執することなく会見は終わった。

 ところが、陸軍の局長、課長は会議を開き、畑陸軍大臣が述べた三か条の要望を、報道部を通じて新聞に発表してしまった。

 米内首相は「組閣の際、畑に対し陛下から『この内閣に協力するよう』との御言葉があった。畑は『協力いたします』と答えた。あの時のことを思い出してもらわねばならぬ」と畑俊六陸軍大臣と会おうとしたが、失敗した。

 「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると七月十六日、畑陸軍大臣は「この内閣のように性格が弱い政権では、陸軍大臣として部下統率ができないから辞めさせてくれ」と言い出し辞表を提出した。

 そこで米内首相は陸軍大臣が、「どうしても辞めるというならば、内閣では、いま総辞職の考えはないから、後任を推薦してくれ」と頼んだ。

 すると畑陸軍大臣は、「いったん陸軍省に行って相談のあと、陸軍大臣の引き受けてがない」と返事してきた。米内首相もやむを得ず総辞職をするほかなくなった。七月十六日米内内閣は総辞職した。

 陸相が辞職を言い出したとき、その顔には苦渋の表情が浮かんでいて、いよいよ総辞職となった最後の閣議のときなど、「畑のショゲかたはなかったよ、かえってこっちが気の毒になってね」と米内は後に回想している。

 この顛末は、実は陸軍の中堅将校が結束して意見具申をし、参謀総長・閑院宮が畑陸軍大臣の辞職を薦めたのだった。

 七月四日の時点で、参謀次長・沢田茂中将が陸軍大臣室に畑大臣を訪れ、「大本営参謀総長より陸軍大臣への要望、七月四日」と題した文章を提示した。要旨は次の様なものであった。

 「帝国としては一日もすみやかな支那事変の解決が緊要である。しかるに現内閣は消極退嬰で、とうてい現下の時局を切り抜けられるとは思わない。かえって国軍の士気団結に悪影響を及ぼす恐れなしとしない」

 「このさい挙国強力な内閣を組織し、右顧左眄することなく、断固諸政策を実行させることが肝要である。右に関しこのさい陸軍大臣に善処を切望する」

 このときの参謀総長は閑院宮元帥で、ようするに、畑が陸軍大臣を辞任して、「代わりの陸軍大臣を出さず、米内内閣をぶっ倒せ」ということであった。

 陸軍大臣は陸軍軍人軍属にたいする一切の人事権を持ち、その点では参謀総長も陸軍大臣の下位にある。陸軍大臣が所信を貫こうと思えば、参謀総長を更迭することもできる。

 しかし、参謀総長が皇族では、それは不可能で、畑陸軍大臣が閑院宮参謀総長に従うほかなかったのである。

 ところが、当時参謀本部作戦課長・岡田重一大佐は、昭和三十五年二月、驚くべきことを告白している。その内容は次のようなものであった。

 「参謀本部においては米内内閣の倒閣を強く希望していたが、畑陸相が倒閣には消極的であると考えていた。畑陸相としては、それは無理なからぬことだった。陸相に留任するとき、天皇に米内内閣に協力する約束をしていたのだから」

 「その陸相の立場も考慮し、検討の結果、皇族であり陸軍の最長老である閑院宮参謀総長から強い要望を出すことが、畑陸相を倒閣に踏み切らせる最も容易な手段であると考えた」

 「そして閑院宮参謀総長は、陸軍部内大多数の意見が内閣の更迭を必要とするのであれば、畑陸相には気の毒であるが、国家の大事のため、このさい非常手段をとることも止むを得ないと採決した」

 閑院宮参謀総長は七十五歳の高齢で、実務的にはロボットであった。それを参謀本部の次長・沢田茂中将、第一部長・富永恭次少将、第一課長・岡田重一大佐、第二部長・土橋勇少将、それに陸軍省の次官・阿南惟幾中将、軍務局長・武藤章少将、軍事課長・岩畔豪雄大佐、軍務課長・河村参郎大佐らが共謀して利用して、米内内閣を崩壊させたのだった。

172.米内光政海軍大将(12) ヒトラーやムソリーニは一代身上だ

2009年07月10日 | 米内光政海軍大将
 この頃、米内首相は内務省出身の高橋貢秘書官に「陸軍がさかんに精神論をやる。そりゃ精神の無いところに進歩も勝利も無い。しかし、海軍は精神だけでは戦争できないんだよ」と話している。

 さらに「工業生産の量、機械の質、技術の良し悪しがそのまま正直に戦力に反映する。国民精神総動員とか、陸軍のような大和魂の一本槍で海のいくさはやれないんだ」とも話している。

 ヨーロッパの戦局は、ドイツの電撃作戦が世界を震撼させた。四月九日に国境を越えてデンマークに侵入したドイツ軍は、三時間半後には首都のコペンハーゲンを占領し、デンマーク全土がドイツの保護下におかれた。

 五月には、オランダとベルギーがドイツに降伏。六月には西部戦線のイギリス軍は本土へ撤退。イタリアが英国とフランスに宣戦布告した。六月十四日パリが陥落した。

 これらの情勢から、日本陸軍ではナチスドイツ熱が高まり「バスに乗り遅れるな」という言葉が飛び交うようになった。新聞も大見出しで「対独伊関係緊密強化、帝国外交・一大転換へ」などとトップ記事が出たりし始めた。

 その頃、米内首相は、議員食堂で広瀬久忠と食事した時、「ヒトラーやムソリーニは一代身上だ、あんな者と一緒になってはつまらない。かれらはその身上を棒にふったところで、もともとだ。大したことは無い」と話した。

 さらに「ところが日本は三千年の歴史がある。その日本の天皇と一代身上者とを同じ舞台に出して手を握らせようなんて、とんでもない話だ」と話したという。

 いくら陸軍のドイツ熱が再燃したところで、米内が総理大臣の職にいる限りは三国同盟もやらず、新体制の国内改革も実行しないというので、倒閣運動が始まった。

 新体制の国内改革とは、既成の政党を解散させ、ナチスのように一国一党で日本の政治を行うというものだった。

 昭和十五年六月二十四日、近衛文麿は新体制運動を本格的に行うために枢密院議長を辞任することを決意し、後任に平沼麒一郎を推薦するつもりだった。そして両者の間にはすでに諒解ができているとさえ噂されていた。

 米内総理は限られた重臣の間に天下の公器を私するような傾向のあるのを、平常から面白くなく思っていた。その結果、米内首相は、近衛、平沼の期待はもちろん、世間の予想をも裏切って、原嘉道を後任議長に奏薦した。さらに副議長には海軍の鈴木貫太郎を推薦した。

 原嘉道は法曹界の重鎮で、田中義一内閣の法相も経験していたが、近衛、平沼としては顔を逆なでされたも同様だった。また、鈴木貫太郎の副議長就任は陸海軍のデリケートな関係から見ても、陸軍に挑戦するものに外ならなかったのである。

 七月初めには右翼による米内首相暗殺未遂事件が起こった。「首相が政治的所信を改めない限り、この内閣には協力できない」という態度を陸軍は見せ始めた。陸軍は米内内閣をつぶして、近衛を担ぎ出そうと決めた。

 陸軍の武藤軍務局長が石渡書記官長のもとにきて、「この内閣はすでに国民の信望を失っている。すみやかに退陣したらよかろう」と言って来た。二度、三度と同じことを言ってきたという。

 石渡が、あまりにも武藤軍務局長が来るので、「それなら僕に言うより直接首相に言ってはどうか」というと、「いや、首相には会う必要は無い」とうまくかわし、「どうしても内閣が辞めないというなら、陸軍大臣を辞めさせるほかはない」と脅迫した。

 米内首相は石渡書記官長からこの顛末を聞いて「それは陸軍の代表意見であるか、武藤の個人的意見であるか」と反問したが、明確ではなかった。米内首相は、直接畑陸軍大臣に糺した。

 畑陸軍大臣は「陸軍の政治的意見は大臣のみが述べることになっている」と答えた。そして、暗に武藤軍務局長の奔走を苦々しとする態度を示した。

 だが、木戸日記によると、七月七日、阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍次官(陸士一八・陸大三〇)は木戸幸一内府を訪問して、武藤軍務局長と殆ど同様の理由を述べて、米内の退陣を求めていた。これからすると、倒閣運動は全陸軍の意向とも言えたのである。

 昭和十五年七月十二日、遂に、畑陸軍大臣は、米内首相を訪問して、次の三つの意見を述べた。

 一、現情勢にては独伊と積極的に手を握り、大東亜を処理する方針に出るの要あるべし。
 二、現内閣にては外交方針の大転換困難なるにつき、より善き内閣の出現することを前提として辞職しては如何。
 三、自分は部下の統率上非常に困難なる立場にあり、また益々困難を来す状況に立至るべきを憂慮す。

171.米内光政海軍大将(11) めんどうくさい、グズグズ言ったら畑を電話口に出してください

2009年07月03日 | 米内光政海軍大将
 米内は拝辞するつもりで参内したが、御前に進み出て頭を上げた途端、天皇陛下は「朕、卿ニ組閣ヲ命ズ」
と大きな声が聞こえた。米内は、電気に打たれたようになって「暫ク御猶予ヲ」と深くお辞儀をしたまま下がった。

 廊下へ出て「どうそ、こちらへ」と案内された部屋には、湯浅倉平内大臣、百武三郎侍従長が待っていて、とても拝辞できるような状況ではなかった。

 米内光政の奏薦は湯浅内大臣一人の意思に出たと思われる。また天皇陛下の思し召しでもあった。阿部内閣崩壊前、天皇陛下は湯浅内大臣に対し「次は米内にしてはどうか」と言われた。

 天皇陛下は平常立憲的に非常に厳格で、天皇陛下自身後継内閣の選定についてイニシアチブを取られるということは全くの異例である。

 天皇陛下は、陰謀的な日独伊同盟を好まず、平沼内閣で問題が紛糾した際、不眠症で、一時葉山で静養されたこともあった。なんとか日独伊同盟を防止したいと考えられ、それで米内内閣を考えられた。

 米内自身は大命が自分に下ることを全く予期していなかった。大命降下の三日前、松平恒雄宮内大臣(後の参議院議長)の招宴の席上、そこには岡田啓介(海兵一五・海大二・元総理)、杉山元(陸士一二・陸大二二・軍事参議官)もいたが、米内は大声で、「世間で次の内閣は自分と言う奴がいるそうだが、岡田さん、そうか」と聞いた。

 岡田は「イヤ、そんなことはない」とその場を取り繕った。米内は知っていてそんな事を聞けるわけがない。だから、米内自身、お召しによって参内するときには、全く組閣の自信はなかったという。

 朝日新聞社の緒方竹虎主筆が、編集局で次期政権の情報を集めていると、突然、両国国技館で相撲見物をしていた陸軍省の武藤章軍務局長(陸士二五・陸大三二恩賜)から電話がかかってきた。

 武藤軍務局長は「いま朝日新聞の号外を見たが、大命畑大将に下るというのは間違いないか」と言った。朝日新聞では情報を分析して畑陸軍大将に間違いないと判断して号外を出した。

 緒方が号外を肯定すると、武藤軍務局長は「それでは相撲など見てはいられない」と言って電話を切った。だが、その三時間後に、畑ならぬ米内に大命が降下した。

 畑俊六陸軍大将という予想を号外で見た国民は、翌朝の朝刊で、意外にも大命は米内海軍大将に降下していたので驚いた。同じく畑大将が本命とみていた陸軍の局長、課長クラスも、海軍の米内大将と聞いてびっくりした。武藤軍務局長は、「しまった。海軍の陰謀にしてやられた」と言って悔しがった。

 米内内閣の内閣書記官長・石渡荘太郎は、畑陸軍大将にとにかく陸軍大臣として留任を求めなければと思った。陸軍省に電話をかけると、実に驚いたことに軍務局長か誰か分からないが「米内閣下がこちらへ来られるんじゃないか、さっきからご挨拶に見えるものと思って待っています」という返事だ。

 石渡はグッときたが、米内首相に、「どうなさいますか、先方が来るのが当然と思いますが」と言うと、米内首相は「めんどうくさい、グズグズ言ったら畑を電話口に出してください、私が出ます」と言った。

 それで、また陸軍省へ電話して「こちらからは伺いません」と言うと、暫く待ってくれと言って「それではこちらからお伺いします」という返事だった。大命を受けた者を呼びつけようとする態度に、陸軍の思い上がった真意が見られた。

 昭和十五年一月十六日、米内内閣が誕生した。だが、陸軍の米内内閣の倒閣運動は内閣成立の日から始められた。

 米内が総理に就任後二ヶ月を過ぎた頃から、陸軍から「秋の二千六百年奉祝式典を海軍出身の総理大臣のもとでやらせるな」という声が出た。

 有田八郎外務大臣が南方政策に関して放送をした。すると、陸軍は有田放送の内容は、外務、陸軍の間の打ち合わせと違っている。それにもかかわらず、須磨外務相情報部長が新聞記者会見で、放送の中から三国同盟問題を除いたのは、あたかも陸軍の要求ででもあるかのごとく語ったのは怪しからぬといって、須磨外務相情報部長を憲兵隊に引っ張らせた。

 そこで有田外務大臣が畑陸軍大臣に直接談判をし、話がついて外務省と陸軍とで共同声明を出すと、陸軍は新聞の内面指導をして、「外務大臣、陸軍大臣に陳謝」といった記事を書かせたりした。

 須磨外務相情報部長を憲兵隊が引っ張った時には、石渡荘太郎書記官長もその連累であるとして、憲兵の、しかも上等兵が内閣書記官長室に乗り込んできて、石渡書記官長に同道を迫るということがあった。

 余りの狼藉に米内総理もさすがに怒って、畑陸軍大臣に掛け合うと「それは引っ張るということを言っているよ」と畑陸軍大臣はまるで管轄外の問題のような顔をして、冷淡な態度であった。

 石渡書記官長の拘引は行われなかったが、一問題去れば、また一問題で、この種のいやがらせが、米内内閣の存続中絶え間なく続いたという。