陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

183.東條英機陸軍大将(3)辻中佐は「断じて東條を刺し殺す」と言った

2009年09月25日 | 東條英機陸軍大将
 多田次長と板垣陸相は仙台幼年学校の同窓であり、多田次長のほうが一年先輩で、少年時代から極めて親しい間柄だった。

 このためか、従来行われていた三長官会議は有名無実となった。さらに、次官、次長および本部長三者会談の上、それぞれ長官に報告して決裁されることになっていた従来のやり方も、これまた有名無実となってしまった。

 即ち、多田次長は東條次官を抜きにして、直接陸相官邸に板垣大臣を訪ね、二人で相談、話し合いをすることが多くなったのである。

 このため、東條陸軍次官が浮き上がってしまった。その上、統帥部が政治家との交流ができることは、政治家が統帥部に容喙できるルートを作ることであり、邪道であると、東條次官は強く心配していた。

 当時、日独伊三国協定が強化されたため、軍の発言権が強くなっていたので、次第にそれが事実となって表面に出てきた。

 そこで、航空士官学校卒業式参列の後、東條次官は辞表を懐にして強硬に板垣陸相に意見具申した。ところが、その結果、次長と次官ともに異動することになった。

 昭和十三年十二月、多田次長は第三軍司令官に、東條次官は初代航空総監に転じた。そして次官には山脇正隆中将(陸士一八・陸大二六恩賜)が新任された。

 その後、公の席で、東條、山脇両将軍が同席する機会がしばしばあったが、東條航空総監は、専属の副官がいるのに、「おい、赤松~」と次官秘書官である赤松大佐に用事を命じたという。そんなとき、温厚な、山脇次官は、黙って笑いながら、赤松秘書官の慌てているのを眺めていたという。

 後に東條が陸軍大臣になると、昭和十六年七月七日、多田駿中将は大将に昇進し、軍事参議官に補せられ、待命、九月には予備役に編入された。

 以後、多田大将は農業生活に入ったが、昭和二十年十二月二日、A級戦犯に指定された。だが昭和二十三年十二月十六日胃癌で死去した。

 「東條英機」(上法快男編・芙蓉書房)によると、この多田中将を予備役にしたのは東條であった。軍事参議官に補せられたため、北支那方面軍司令官の職を解かれ、帰京する時、多田中将は東京に直行せず、京都にいる石原莞爾に会って帰ると言い出した。

 随行していた方面軍参謀副長・有末精三大佐(陸士二九恩賜・陸大三六恩賜)は多田中将が軍状奏上前に、問題の人である石原中将に会うのはまずいと思って、止めたが、多田中将はきかなかった。

 有末大佐は多田、石原二人だけでの会談では、新聞記者に何をかかれるかわからないと思い、有末大佐も同席した。果たして会見場には新聞記者が群がっていた。

 有末大佐は会見後、記者会見を行い、あたりさわりのない話を交えて応対して記者達を撃退して乗り切った。

 多田中将は帰京して天皇に軍状奏上を終えた後、陸軍省に向った。陸軍省では局長以上が集合して報告会が開かれたが、その席上、多田中将は唯の一言も報告をしなかった。有末大佐は困り果てて、適当にお茶を濁して散会した。

 ところが、武藤章軍務局長と田中隆吉兵務局長は、この多田中将の無礼に怒って、有末大佐にあたりちらしたという。

 このほか、反東條派としては、石原莞爾中将(陸士二一・陸大三〇次席)は有名だが、そのほか、反東條派の軍高官は、いわゆる皇道派といわれた、真崎甚三郎大将(陸士九・陸大一九恩賜)、柳川平助中将(陸士一二・陸大二四恩賜)、小畑敏四郎中将(陸士一六・陸大二三恩賜)、山下奉文大将(陸士一八・陸大二八恩賜)の系列がある。

 また、篠塚義男中将(陸士一七・陸大二三恩賜)、前田為利(陸士一七・陸大二三恩賜)、阿南惟幾(陸士一八・陸大三〇)、酒井鍋次(陸士一八・陸大二四恩賜)、鈴木率道(陸士二二・陸大三〇恩賜)なども東條批判派である。

 皇族では秩父宮雍仁親王(陸士三四・陸大四三)、朝香宮鳩彦王(陸士二〇・陸大二六)、東久邇宮稔彦王(陸士二〇・陸大二六)などが東條を受け入れていなかった。

 東條英機と石原莞爾の不仲は、想像以上のものだった。この二人のけんかは、当ブログ「陸海軍けんか列伝」の「11.石原莞爾陸軍中将」のところで詳しく書いているので省略するが、ひとつだけ、辻政信のからみのシーンだけを述べてみたい。

 昭和十六年二月、佐藤賢了大佐が、南支方面軍参謀副長から陸軍省軍務課長に転任する途中、台北に在勤中の台湾軍研究部員・辻政信中佐に会った。

 そのとき辻中佐は、佐藤大佐に「あなたからぜひ石原将軍を、軍の要職につけるよう、東條陸相に進言していただきたい」と申し入れた。

 佐藤大佐が、辻中佐がうるさく言うことを逆らわずに聞いていると、辻中佐は東條陸相を罵倒し続けた。そして、もし、東條陸相が、石原将軍を要職につけず、従来の態度を是正しないなら、辻中佐は「断じて東條を刺し殺す」と言ったという。

 だが、それにもかかわらず、結局、石原莞爾中将は昭和十六年三月一日、京都師団長の職を解かれて、予備役に編入された。それほど東條陸相の決意は固かった。

182.東條英機陸軍大将(2) 総理大臣になんかなるからバカじゃ

2009年09月18日 | 東條英機陸軍大将
 当時、世間でよく言われた「二キ三スケ」とは、東條英機、星野直樹、松岡洋右、鮎川義介、岸信介のことだった。

 東條は政治家や官僚の仲間が全くいなかった。満州で関東軍参謀長時代に知り合ったこれらの人物以外にはいなかったのである。東條はこのような連中を私宅に引っ張ってきた。

 これらの連中は、山田中佐の仲間では至極評判の悪い連中だった。

 山田中佐は東條首相に「世間の評判を知っていますか。あんな連中を使って、将来ロクなことになりませんぞ」と言った。

 すると東條首相は「だまっとれ!子供になにが分かる」と落雷した。陸軍中佐をつかまえて、子供あつかいだった。そのあと東條首相は「嫁さんもらって、すぐ離縁できるか」と言ったという。

 昭和九年、東條は陸軍少将で陸軍士官学校の幹事だった。「東條英機・その昭和史」(楳本捨三・秀英書房)によると、東條の仕事に対する性格を示す話がある。

 幹事が士官学校生徒の講評をするのは当然のことだ。ところが東條少将はすこし違っていた。士官学校には馬が千五百頭余り飼われていた。

 東條少将は、生徒の講評だけでなく、いちいち検査して、馬の講評を下した。「生徒の講評は、教官、幹事の義務かも知れないが、馬の検査の講評をやったのは東條くらいのものであろう」と言われている。

 昭和九年八月に東條英機は歩兵第二十四旅団長に補されたが、これは明らかに左遷だった。皇道派の幕僚たちは、頭角を現してきた東條をなんとかして予備役に編入させようと画策していた。

 だが、その頃、演習において示した東條のすぐれた指揮能力のため、それもできず、当時、人事局長だった同期の後宮淳少将が、昭和十年九月二十一日付で、東條を関東軍憲兵隊司令官に栄転させた。

 東條が首にならず、最終的に総理大臣までに栄達させる機会を与えたのは後宮淳少将(終戦時大将)ということになる。

 だが、後年、後宮淳大将は、「総理大臣になんかなるからバカじゃ」と言ったという。それは東條に対する友情の言葉だった。

 太平洋戦争勃発前に、東條英機と山本五十六が、一番、対米戦争を回避したがっていたということは、今では誰もが知っている。貧乏くじを引いたのは東條英機だった。あの時点で、誰が総理大臣になっても、戦争を避けることは不可能だった。

 昭和十三年五月、東條英機中将は、板垣征四郎陸軍大臣(陸士一六・陸大二八)の陸軍次官に就任した。「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、梅津美治郎次官(陸士一五首席・陸大二三首席)が東條中将を後任の次官に推挙したのだった。

 今回の陸軍大臣の異動は、杉山元陸相(陸士一二・陸大二二)が北支出張中に、近衛文麿首相が、陸相を急に罷免し、後任に板垣中将を指名したことによるものだった。ところが、陸軍大臣より、東條次官の発表のほうが早く行われたので、問題となった。

 東條中将が次官に就任して何日か経った頃、重臣の平沼騏一郎男爵が閣議後に板垣陸相に飯野吉三郎に機密費を出してやってくれと頼んだ。

 飯野吉三郎は平沼男爵が信用している男で、平素平沼男爵が援助を与えていた。板垣陸相は平沼男爵の申し出を承諾して、東條次官にこのことを申し付けた。陸軍における機密費の取り扱いは次官の仕事だった。

 だが、東條次官はこのようなことには大不賛成であった。しかし、陸相が一応承諾されているので、五万円を秘書官・赤松貞雄少佐(陸士三四・陸大四六恩賜)に渡し、「以後一切渡さぬことを飯野に言い渡すように」と付け加えた。

 元来は、板垣陸相も東條次官も同じ岩手県出身で、親しい間柄であった。だが、板垣大臣の寛容さと、東條次官の是々非々主義とが、そりが合わぬというか、日を経るに従って円滑を欠く場合が生じ始めた。

 この大臣と次官の不協和音の間に立ち、赤松秘書官と大臣秘書官・真田穣一郎中佐(陸士三一・陸大三九)は、度々困惑したことがあった。

 当時の参謀総長は閑院宮載仁(かんいんのみや・ことひと)親王元帥(フランス・サン・シール士官学校卒・フランス陸軍大学校卒)であったが、病気がちなので、参謀次長・多田駿中将(陸士一五・陸大二五)が統括していた。

 板垣陸相を挟んで、この東條次官と多田参謀次長の二人はやがて対立していった。その結果、東條次官の辞任へと発展していった。

181.東條英機陸軍大将(1)総理大臣にぶん殴られた陸軍少佐は、天下広しといえども俺くらいのものだ

2009年09月11日 | 東條英機陸軍大将
 「東條英機・その昭和史」(楳本捨三・秀英書房)によると、山田玉哉陸軍少佐は、夜遅く、東條英機首相から「すぐ来い」という命令を受けた。

 山田少佐は、東條英機の妹の子どもで、東條英機の甥である。山田少佐は何事であろうかと、いそいで軍服に着替え車を飛ばし、首相官邸に向った。

 首相官邸に着くと、深夜の閣議に出かける東條首相と玄関でバッタリ出会った。

 「何かご用でしょうか」と山田少佐は、伯父でも相手は総理大臣であるから、不動の姿勢で尋ねた。

 すると東條首相は何も言わず、「このバカ者め!」と叫ぶと、山田少佐の頬を吹き飛ぶほど強く殴った。

 山田少佐もこれにはおどろいた。

 「何事ですか! いやしくも、自分も陸軍少佐です。何もいわずにぶんなぐるとは」。いかに、総理、陸軍大臣でも、人をバカにしていると思った。

 すると東條首相は「なんだと? いやしくも陸軍少佐だ? このバカ者ッ! なぜなぐられたか、なぐられた理由も思い当たらぬほど、貴様はあほうかッ」と言った。

 山田少佐は、殴られる理由など思い当たらないので、「わかりませんッ」と言い返した。陸軍少尉だってこんな無法は許されていいはずはない。それに赤松秘書官らの前で殴られて陸軍少佐として恥ずかしかった。

 東條首相は「貴様、妹の家に行って何をやった」と言った。

 それを聞いて、山田少佐はシュンとなった。アレがばれたのだ。

 その二、三日前、東條首相の妹、山田少佐の伯母(佐藤満鉄理事の妻)の家を訪ねたところ、伯母は留守だった。

 山田少佐はいつもの例で、上り込むと、ビールとうなぎ丼をとらせて、一杯やりながら、女中の手をちょっと握った。それだけのことで、キス一つしたのではなかった。

 たまたま暇な時間に、女性に冗談を言ったり、手を握るくらいは、山田少佐は罪悪とは考えていなかった。だが東條首相は、女の手を握るとは何たる不謹慎、武士の風上にも置けぬ奴と思っていたのである。

 山田少佐は後に「総理大臣に首相官邸でぶん殴られた陸軍少佐は、天下広しといえども俺くらいのものだ」と述懐している。

 だが、山田少佐はなぐられた腹たち紛れか、あるいは伯父という気安さも手伝ってか、そのとき、「どの分ですか?」と反問したという。東条首相はますます激昂し怒り狂ったという。

 東條英機の子供は、長男は東條英隆、次男は輝雄、三男敏夫、長女光枝、次女満喜枝、三女幸枝、四女君枝がいる。

 山田少佐がまだ少尉の頃、東條は長男の英隆と山田少尉を、上野の精養軒へ洋食を食べに連れて行ってくれた。一流のレストランなので山田少尉は嬉しかった。

 ところが、さて、メニューがきて、何を食うか、何を飲むか、いっさいがっさい、東條はドイツ語でやり始めた。山田少尉はがっかりした。せめて飯を食う時くらい楽しく食べさせてくれ、と恨めしく思った。東條はドイツ語がどのくらい上達したかを試していたのだ。

 山田少佐が東條からもらったものは、後にも先にも、チョークの切れっぱし、たった一本だった。東條は肉親に物をやるのは、そいつを駄目にすると思っていた。

 山田少佐(後に中佐)によれば、東條は、「カミソリ東條」と呼ばれていたが、東條は「カミソリ」という言葉が大きらいだった。

 「俺はカミソリのように切れもせず、頭も良くはない。努力だ」と、いつも言っていた。「カミソリ」と言ったために、東條が怒って一生口をきかなくなった男もいたそうである。

<東條英機陸軍大将プロフィル>

明治十七年七月三十日、東京市青山生まれ。父東條英教(陸軍中将)と母千歳の三男。長男、次男は夭折しており、実質的に長男として扱われた。
明治三十二年(十六歳)九月東京陸軍幼年学校(第三期)入学。
明治三十五年(十九歳)九月陸軍中央幼年学校(第十七期)入学、卒業成績は最後から三番目と言われている。
明治三十七年(二十一歳)六月陸軍士官学校(第十七期)入学。
明治三十八年(二十二歳)三月陸軍士官学校(第十七期)卒業、卒業成績は三百六十人中十番。四月歩兵少尉、近衛歩兵大三連隊。
明治四十年(二十四歳)十二月歩兵中尉。
明治四十二年(二十六歳)四月伊藤勝子と結婚。
大正元年(二十九歳)十二月陸軍大学校(二十七期)入学。
大正四年(三十二歳)六月歩兵大尉、十二月陸軍大学校卒業、卒業成績は五十六名中十一番。
大正五年(三十三歳)八月陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官。
大正八年(三十六歳)七月歩兵第四十八連隊、八月スイス派遣。
大正九年(三十七歳)八月歩兵少佐、ドイツ国駐在。
大正十一年(三十九歳)十一月陸軍大学校兵学教官。
大正十三年(四十一歳)八月歩兵中佐。
昭和三年(四十五歳)三月陸軍省整備局動員課長、八月歩兵大佐。
昭和四年(四十六歳)八月歩兵第一連隊長。
昭和六年(四十八歳)八月参謀本部第一課長。
昭和八年(五十歳)三月陸軍少将、十一月陸軍省軍事調査部長。
昭和九年(五十一歳)三月陸軍士官学校幹事、八月歩兵第二十四旅団長。
昭和十年(五十二歳)九月関東軍憲兵隊司令官。
昭和十一年(五十三歳)十二月陸軍中将。
昭和十二年(五十四歳)三月関東軍参謀長。
昭和十三年(五十五歳)五月陸軍次官、十二月陸軍航空総監。
昭和十五年(五十七歳)七月陸軍大臣。
昭和十六年(五十八歳)十月内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣、陸軍大将、現役復帰。
昭和十九年(五十九歳)二月兼参謀総長、七月内閣総理大臣辞職、予備役。
昭和二十年(六十歳)九月十一日世田谷区の自宅で拳銃自殺を図るが失敗。
昭和二十三年十一月十二日東京裁判でA級戦犯として絞首刑の判決を受ける。十二月二十三日巣鴨拘置所内で刑死、享年六十四歳。

180.米内光政海軍大将(20) ドイツ人は何でも経済原論の第一章から説き始めるから嫌いだ

2009年09月04日 | 米内光政海軍大将
 この厚木航空隊の事件を当時、緒方竹虎が雑誌に発表したところ、寺岡謹平元海軍中将から緒方宛に次の様な趣旨の抗議の手紙が送られた(抜粋)。

 「貴下の玉稿を拝読しながら、次の様な随想が私の脳裏を走馬灯のように往復しました。これによって本当のことをご了解願いたいと思います」

 「私が小園と会ったのは八月十六日であるが、この会見については米内大臣から何等の命令をも受け取っておらず、それまで私は大臣にあってもおらず、人を介して命令をも受けず、書類も電報も受け取らず、私は自ら考える処があって会ったのである」

 「小園と刺し違えて死ぬことを米内さんは期待したようであったという根拠は何処から生まれたのであろうか。単なる想像と思うが、米内さんは決してそういうように考えていないことを確信する。この文面から見ると私が小園と刺し違えて道連れにしてしまえば、厚木は平穏に納まるものを、そうし得なかった私は無能で卑怯者の極印を押されているが、これはどうでも宜しい。第三者から見ればそう見えたかも知れない。見られても差し支えない」

 「米内さんの本当の人柄を表すならば、私は甘んじて尊氏になり、秦檜の役になって宜しい。而して私の命は前年比島に出陣した時から無いものと覚悟しているが故に、小園に会うために特別に遺書を認める必要も感じなかったし、実際私が小園と会った時は、厚木の隊内の空気は凄愴を極めていたが、小園は丸腰で私は江定次の名刀を所持していたので、小園一人を片付けるには訳はなかったのである」

 「翌十七日夕、小園は精神分裂病になって指揮能力を失ってしまったから、保科が遺書を書いたというのは、そのときまでの事のように書かれてあるのは時間的に見てもとんでもない誤謬である」

 「当時自らの命を絶つ者が頻発していた折柄、海軍首脳部では特に最後の最後まで自重して、祖国再建に献身すべきことを強調していた」

 「私は終戦後、隷下の兵力の復員を大体完了した一ヶ月経過後の九月十五日を以って予備役を拝命したのであるが、世間は如何に考えようとも、これは責任者として責を負うべく当然のことだと私は思って居る」

 「米内さんが私の処置振りを怒って私を首にしたというならば、それは側近者の誤った報告に基づくもので、九月一日に私が親しく状況の経過を説明報告した際、米内さんは特に『左様であったのか、それは、本当にご苦労でした』と慇懃な慰めの言葉を私に贈られたのである」

 以上が、寺岡中将が、緒方竹虎に出した抗議の手紙の概要である。寺岡中将には寺岡中将の論理があったわけであるが、緒方はこの手紙も「一軍人の生涯」に掲載して、公平を期した。

 マッカーサー司令部が横浜から東京に進駐して間もない頃、米内は、マッカーサー元帥に招かれて、会見を行った。この会見の席上、米内は「天皇はご退位にならねばならぬことになっているか」と質問した。

 マッカーサー元帥はむしろ意外な面持ちで「連合軍の進駐が極めて順調に行われたのは、天皇の協力によるところが多いと考える。自分は退位しなければならぬとは考えていない。この問題は日本国民の決する問題である」と答えた。

 米内の人物として、決して語り過ぎない人であったが、どうかすると語り足りない恨みはあった。ごてごて厚かましく理屈をいう人間はきらいであった。

 米内は「ドイツ人は何でも経済原論の第一章から説き始めるから嫌いだ。私はドイツにもいましたが、とうとうドイツ語を覚えませんでした」と語っている。

 米内は読書について、「この頃頭が鈍くなったから本は三度読む。初めは大急ぎで終わりまで読み通し、次は少しゆっくり、最後には味わって読む」と言っていた。

 東京裁判で、畑俊六の証人として米内が承認台に立ったとき、ウエッブ裁判長が米内の腹芸を読みかねて、散々きわどい質問を浴びせた上、「こういう愚かな証人に出くわしたことがない」と皮肉ったのは有名な話だが、キーナン検事は「あれは米内が畑をかばったのだ。米内は豪い男だ」と日本の要人に感想を漏らしたという。

 米内は酒に強くて、いくら飲んでも崩れない男だったが、一度だけ崩れたことがあった。大酒で有名だった松慶民元宮内大臣と焼けた宮内大臣官邸の洋間でウイスキーを飲んだ時だった。

 このときは二人とも、カーペットの上に腰を抜かし、やがて帰りがけに、米内は官邸の玄関から門に到る玉砂利の上で、四ツ匍いになっていたとのことである。

 昭和二十三年四月二十日、米内光政は目黒の自宅で最後の息を引き取り、六十九歳の生涯を閉じた。

 緒方竹虎は、臨終の場に居合わせた。苦痛の跡はなく大往生だが、初めて海軍大臣に就任した頃の豊頬の見る影もなきは勿論、眼はくぼみ、皮膚は枯れ、逞しい骨組みのみが目立った。

 そして枕頭に黙祷しながら、いつまでも頭を上げようとしない九十一歳の母堂の姿の如何に悼ましくも尊く見えたと、緒方竹虎はその著書「一軍人の生涯」に記している。

 (「米内光政海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「東條英機陸軍大将」が始まります)