陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

140、宇垣一成陸軍大将(10) 宇垣を抑える空気は軍部外にあった。山下将軍と同じだ 

2008年11月28日 | 宇垣一成陸軍大将
 その日の午後には、寺内陸相が組閣本部に現れ、

 「陸軍三長官(陸相・参謀総長・教育総監)の正式会合の結果、陸相候補として、杉山元、中村孝太郎、香月清司の三中将に交渉した。だが、みな自信がないと断ってきた。ほかに適当な人物がいない。よって陸相候補の推挙はできない」と宇垣に正式に通告した。

 宇垣は腹立たしさを通り越して、あきれ果てた。これほどまでも陸軍の反対が強いとは、宇垣も思っていなかった。

 宇垣が陸相時代に信任し、また彼に忠実だった当事の軍務局長・小磯国昭が、今は中将となり朝鮮軍司令官をしている。

 宇垣は自分でソウルの小磯に長距離電話をかけた。

 「陸相をやってくれぬか。相当に空気が悪いから君は僕と一緒に討ち死にする覚悟でやってくれぬか」と小磯軍司令官に頼んだ。

 小磯は「三長官の同意は得ましたか」と問うた。

 「その同意が得られぬから僕は君に直接頼んでいるのではないか」

 すると小磯は「今私が承知しても朝鮮海峡を渡る頃、三宅坂(陸軍省)から予備役編入の電話一本でだめになります」と言って逃げた。

 宇垣は電話口で「そうか。困ったな」と言って電話を切った。

 宇垣は、軍の長老に陸相を説得させようとしたり、さまざまな努力をしたが、陸軍の高い壁は破れなかった。

 宇垣はついにあきらめ、1月29日午前11時50分、参内して、これまでの経過を述べ、組閣の大命を拝辞した。その辞表は陸軍を露骨に非難したものだった。

 「陸軍に裏切られた陸軍大将」(芙蓉書房)によると、戦後、著者の額田坦元陸軍中将が巣鴨の監獄の庭を散歩していたとき、橋本欣五郎元陸軍大佐が、陸軍が宇垣の組閣を排斥したことについて、次のように言った。

 「宇垣を抑える空気は軍部外にあった。山下将軍と同じだ」

 額田坦元陸軍中将は、この謎めいた言葉の真意を、橋本欣五郎元陸軍大佐に問うたが、彼はそれ以上説明しなかった。

 宇垣の組閣流産のあと、林銑十郎内閣が組閣されたが、わずか四ヶ月で倒れた。その後を継いで近衛文麿が首班に指名された。

 戦後、宇垣は昭和28年4月の参議院選挙に出馬した。八十五歳だった。

 その年の1月8日、額田坦元陸軍中将が四谷の宇垣邸に呼ばれて行くと、宇垣は「この春の参議院選挙に出るから頼むぞ」と言った。

 額田元中将は1月下旬、安井誠一郎(東京都知事)から帝国ホテルに招かれ、宇垣立候補の披露を受けた。

 だが、その後、宇垣は伊豆長岡で来客と対談中、火鉢の炭火中毒で倒れた。そこで出馬中止となり、安井氏も了承した。

 ところが3月になり、吉田首相の「バカヤロー解散」の頃から、再び宇垣の出馬の呼び声が上がった。だが、安井氏は「いまさら」と消極的だった。

 3月24日、大村清一衆議院議員から額田元中将に「宇垣先生は出馬することになった」と電話があった。額田元中将は知事公舎に安井氏を訪ね確認したが、安井氏はやはり否定的だった。

 3月30日、額田元中将は長岡に直行した。すると宇垣は悠然たるもので、「安井までが、そう言うなら、止めてもよい」との返事だった。

 それで宇垣と額田元中将は共に上京し、3月31日、四谷邸で、安井氏ら側近を集めて協議していた。

 ところが4月1日、岡山から、宇垣松四郎氏らが押し寄せ、「岡山では駅前に事務所を作って選挙活動を始めている。いまさら~」と鼻息が荒かった。

 宇垣は出馬を決意した。選挙事務局長には額田元中将が就任した。若い軍人たちも手弁当でかけつけた。親交のあった落語家・柳家金語楼も応援に来た。運動方針は「宇垣は年をとっても、まだ元気だ」に決まり、それを宣伝した。

 4月27日参議院議員全国の開票結果が発表された。宇垣は最高点513、765票で当選していた。

 (「宇垣一成陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「小沢治三郎海軍中将」が始まります)

139、宇垣一成陸軍大将(9) 組閣を命ず。組閣の自信ありや

2008年11月21日 | 宇垣一成陸軍大将
 中島憲兵司令官は続けて言った。

 「だめだ。君らがそんな弱気じゃいけない。いま宇垣に出られては、粛軍がむだだ。あのぶんでは、とても大命拝辞はのぞめない。われわれが一致団結して排撃しなければ、歴史はあともどりする」

 宇垣は皇居に入り、湯浅内大臣に挨拶した。湯浅内大臣は

 「軍部の反対強烈なるが如し、組閣は困難と想像されることを天皇にも申し上げてある。充分慎重に考慮の上お受けするように」と宇垣に言った。

 午前1時40分頃、天皇に召された。

 天皇は

 「組閣を命ず。組閣の自信ありや」

 と言ったと、宇垣の随想録にある。

 天皇が組閣を命じるとともに、「組閣の自信ありや」と問うことは普通には考えられないことであって、これに類する先例もない。

 木戸幸一の1月25日の日記にある、湯浅内大臣の話では

 「卿に組閣を命ず。しかし不穏なる情勢一部にあると聞く。その点につき成算ありや」

 との意味の言葉だったという。宇垣はそれを聞かされた。

 ところが宇垣はたんに内大臣は軍の内情を心配してくれているな、たいしたことはあるまいと思っていた。

 宮中を退出すると、宇垣はただちに組閣にとりかかった。25日午後、宇垣みずから寺内陸相を訪れ、組閣の方針及び抱懐する政策を述べ、陸軍大臣の推薦をもとめた。

 ところが寺内陸相は

 「中島中将から伝えていただいたように、陸軍部内の情勢から見て組閣を拝辞していただきたい」と言った。

 また「陸軍は敢えて組閣を阻止するにあらざるも、陸軍は政策等に関する反対ではなく、粛軍の見地から閣下個人に反対している」とも言った。

 26日午前には、宇垣が陸相のとき次官に登用した杉山元中将(教育総監)が組閣本部に宇垣を訪ねてきた。そして次のように言った。

 「大局から見れば閣下のご出馬が国家のため最善と思っている。しかし、何分にも若い者が粛軍工作が破壊されるとか軍の統制が乱れるとか騒ぐから、ご考慮願いたい」

 これには宇垣も怒った。

 「大局の発動を阻止する行為の如きは、粛軍の精神にもとり、軍の統制の乱れることはなはだしいではないか。軍首脳の地位に居らるるあなた方は組閣を是なりと考えるならば、それらの異論をおさえ部内をまとめていけるわけではないか」

 杉山中将は弱弱しい声で

 「微力とうてい私どもの力では押さえ切れませぬ」と言ってうつむいたままだった。

138、宇垣一成陸軍大将(8) 私がもし大命をお受けすれば、再び二・二六事件のように軍隊が動くのか

2008年11月14日 | 宇垣一成陸軍大将
 上京する列車には、新聞記者たちが乗り込んできて、うるさく質問するが、宇垣は一言も発しなかったという。横浜駅に着くと、駅長室で東京から息子が持ってきたフロックコートに着替え、神奈川県知事差し回しの自動車で東京へ向かった。そのあとを、五十台余の車が追った。

 六郷橋を渡り、蒲田に近づいたとき、道路上に一人の軍人が大手を振って宇垣の車をとめた。東京憲兵司令官・中島今朝吾中将(陸士15期)であった。

 中島は、丁重に挨拶し、「寺内陸軍大臣からの伝言があるので、恐縮ながらしばらく同乗させていただきたい」と言った。

 中島中将は車に乗り込むとすぐ「今夜、閣下に大命が降下されると聞き及んでおりますが、寺内大臣よりの伝言として、部内の反対が多く容易ならぬ情勢でありますので、閣下に大命を拝辞していただきたいとのことでございます」と切り出した。

 中島中将は「部内の反対」を長々と説明した。宇垣はだまって聞き、中島中将の話が終わると短く一言だけ言った。

 「私がもし大命をお受けすれば、再び二・二六事件のように軍隊が動くのか」

 思いがけぬ問いと、それ以上に宇垣の気迫に中島中将はうろたえた。

 「いいえ、そういうことはございますまい」

 「よし、それだけ聞いておけばよい」と言ったまま宇垣はまた口をきりっと結んで前方を見つめたままだった。中島中将はいたたまれなくなって泉岳寺付近で車を降りた。

 この中島中将を差し向けたのは、宇垣に大命が降下されるのを知った陸軍省軍務局の中堅幕僚達であった。彼らは宇垣の組閣阻止に向けて動き出した。

 彼らの宇垣排斥の理由は、要約すると、三月事件に関与したこと、宇垣が陸相時代に軍縮を行ったことなどであった。

 1月24日午後9時頃、石原莞爾作戦課長、田中新一兵務課長らが陸軍大臣官邸を訪れた。そこには寺内陸相、梅津美治郎次官、阿南惟歳兵務局長、中島憲兵司令官がいた。

 石原莞爾作戦課長の強烈な説得により、寺内陸相と梅津次官はしぶしぶ軍内粛正のために宇垣の組閣阻止に納得したといわれる。そこで中島中将が説得に行くことになり、宇垣の車を止めたのであった。

 「陸軍に裏切られた陸軍大将」(芙蓉書房)によると、戦後の佐藤賢了氏は著書の「大東亜戦争回顧録」の中で次のように述べている。

 宇垣の車から降りた中島憲兵司令官は大臣官邸に帰ってきて言った。

 「参った、参った。宇垣というやつは偉いやつじゃ」

 「そんなに偉いのなら、反対せずに(首相を)やってもらったらどうだ」

 だれかが冗談半分で言うと、中島憲兵司令官はあわてて手を振った。

137、宇垣一成陸軍大将(7) 陛下は時局重大の折から、深夜でも差し支えないと仰せられております 

2008年11月07日 | 宇垣一成陸軍大将
 「宇垣一成」(朝日新聞社)によると、宇垣は、首相の座に付くことに執着心があったことは事実である。昭和11年8月、宇垣は朝鮮総督を退いた。

 その理由は、宇垣自身の語るところによると、「2.26事件について、自分は現役ではないが、軍の首脳の一人として、責任をとるのと、あまりに長く在職したので、後進に座を譲りたい。そして自分は自由の身で大いに青年の教育にあたりたい」と述べている。

 ところが、それから一ヵ月後もたたない、9月12日の随想録には、「政界出馬の機到る」との心境を素直に書いている。

 昭和12年1月24日の夜、宇垣一成は伊豆長岡温泉の別荘で、いつものように、近くの旅館「さかなや」の主人池田春吉を相手にゆっくりと晩酌を楽しんでいた。

 この夜もそろそろ盃をおいて寝る支度にかかろうとしていたとき、「宮内庁から電話でございます」と家人がとりついだ。

 さては、と宇垣は緊張して座を立ち受話器をとった。相手は百武侍従長であった。

 「陛下のお召しであります。ただちに参内されますよう」

 午後8時45分、今日はもう東京行きの列車はない。沼津から10時発の横浜行きがあるだけだ。横浜から自動車でも東京着は深夜になる。

 宇垣はそのことを侍従長に告げ、

 「深夜の参内は恐れ多いので、明朝一番の列車で上京、参内したいと存じますが、いかがでございましょうか」と答えたという。

 侍従長は「それもやむをえないだろう」と言った。

 ところが午後9時過ぎ、再び侍従長から電話がかかってきた。

 「陛下は時局重大の折から、深夜でも差し支えないと仰せられております。10時の横浜行きで御上京できないでしょうか」

 宇垣はとっさに時間をはかって決断した。「かしこまりました。今夜中に参内いたします」

 実は宇垣はお召しの電話があることを予期して、それとなく身辺の用意をするのはもとより、列車の時刻表も頭に入れていたと言われている。

 広田内閣が総辞職をしたあとを受けて、後継首相の候補に宇垣が上がっているのを、西原亀三が東京から宇垣を訪ねてきて、詳しい事情を話していた。

 宇垣は西原亀三と池田春吉をともない、自動車を沼津駅に走らせた。長岡の町中がほとんど総出で「宇垣閣下万歳」とさけびながら見送った。