その日の午後には、寺内陸相が組閣本部に現れ、
「陸軍三長官(陸相・参謀総長・教育総監)の正式会合の結果、陸相候補として、杉山元、中村孝太郎、香月清司の三中将に交渉した。だが、みな自信がないと断ってきた。ほかに適当な人物がいない。よって陸相候補の推挙はできない」と宇垣に正式に通告した。
宇垣は腹立たしさを通り越して、あきれ果てた。これほどまでも陸軍の反対が強いとは、宇垣も思っていなかった。
宇垣が陸相時代に信任し、また彼に忠実だった当事の軍務局長・小磯国昭が、今は中将となり朝鮮軍司令官をしている。
宇垣は自分でソウルの小磯に長距離電話をかけた。
「陸相をやってくれぬか。相当に空気が悪いから君は僕と一緒に討ち死にする覚悟でやってくれぬか」と小磯軍司令官に頼んだ。
小磯は「三長官の同意は得ましたか」と問うた。
「その同意が得られぬから僕は君に直接頼んでいるのではないか」
すると小磯は「今私が承知しても朝鮮海峡を渡る頃、三宅坂(陸軍省)から予備役編入の電話一本でだめになります」と言って逃げた。
宇垣は電話口で「そうか。困ったな」と言って電話を切った。
宇垣は、軍の長老に陸相を説得させようとしたり、さまざまな努力をしたが、陸軍の高い壁は破れなかった。
宇垣はついにあきらめ、1月29日午前11時50分、参内して、これまでの経過を述べ、組閣の大命を拝辞した。その辞表は陸軍を露骨に非難したものだった。
「陸軍に裏切られた陸軍大将」(芙蓉書房)によると、戦後、著者の額田坦元陸軍中将が巣鴨の監獄の庭を散歩していたとき、橋本欣五郎元陸軍大佐が、陸軍が宇垣の組閣を排斥したことについて、次のように言った。
「宇垣を抑える空気は軍部外にあった。山下将軍と同じだ」
額田坦元陸軍中将は、この謎めいた言葉の真意を、橋本欣五郎元陸軍大佐に問うたが、彼はそれ以上説明しなかった。
宇垣の組閣流産のあと、林銑十郎内閣が組閣されたが、わずか四ヶ月で倒れた。その後を継いで近衛文麿が首班に指名された。
戦後、宇垣は昭和28年4月の参議院選挙に出馬した。八十五歳だった。
その年の1月8日、額田坦元陸軍中将が四谷の宇垣邸に呼ばれて行くと、宇垣は「この春の参議院選挙に出るから頼むぞ」と言った。
額田元中将は1月下旬、安井誠一郎(東京都知事)から帝国ホテルに招かれ、宇垣立候補の披露を受けた。
だが、その後、宇垣は伊豆長岡で来客と対談中、火鉢の炭火中毒で倒れた。そこで出馬中止となり、安井氏も了承した。
ところが3月になり、吉田首相の「バカヤロー解散」の頃から、再び宇垣の出馬の呼び声が上がった。だが、安井氏は「いまさら」と消極的だった。
3月24日、大村清一衆議院議員から額田元中将に「宇垣先生は出馬することになった」と電話があった。額田元中将は知事公舎に安井氏を訪ね確認したが、安井氏はやはり否定的だった。
3月30日、額田元中将は長岡に直行した。すると宇垣は悠然たるもので、「安井までが、そう言うなら、止めてもよい」との返事だった。
それで宇垣と額田元中将は共に上京し、3月31日、四谷邸で、安井氏ら側近を集めて協議していた。
ところが4月1日、岡山から、宇垣松四郎氏らが押し寄せ、「岡山では駅前に事務所を作って選挙活動を始めている。いまさら~」と鼻息が荒かった。
宇垣は出馬を決意した。選挙事務局長には額田元中将が就任した。若い軍人たちも手弁当でかけつけた。親交のあった落語家・柳家金語楼も応援に来た。運動方針は「宇垣は年をとっても、まだ元気だ」に決まり、それを宣伝した。
4月27日参議院議員全国の開票結果が発表された。宇垣は最高点513、765票で当選していた。
(「宇垣一成陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「小沢治三郎海軍中将」が始まります)
「陸軍三長官(陸相・参謀総長・教育総監)の正式会合の結果、陸相候補として、杉山元、中村孝太郎、香月清司の三中将に交渉した。だが、みな自信がないと断ってきた。ほかに適当な人物がいない。よって陸相候補の推挙はできない」と宇垣に正式に通告した。
宇垣は腹立たしさを通り越して、あきれ果てた。これほどまでも陸軍の反対が強いとは、宇垣も思っていなかった。
宇垣が陸相時代に信任し、また彼に忠実だった当事の軍務局長・小磯国昭が、今は中将となり朝鮮軍司令官をしている。
宇垣は自分でソウルの小磯に長距離電話をかけた。
「陸相をやってくれぬか。相当に空気が悪いから君は僕と一緒に討ち死にする覚悟でやってくれぬか」と小磯軍司令官に頼んだ。
小磯は「三長官の同意は得ましたか」と問うた。
「その同意が得られぬから僕は君に直接頼んでいるのではないか」
すると小磯は「今私が承知しても朝鮮海峡を渡る頃、三宅坂(陸軍省)から予備役編入の電話一本でだめになります」と言って逃げた。
宇垣は電話口で「そうか。困ったな」と言って電話を切った。
宇垣は、軍の長老に陸相を説得させようとしたり、さまざまな努力をしたが、陸軍の高い壁は破れなかった。
宇垣はついにあきらめ、1月29日午前11時50分、参内して、これまでの経過を述べ、組閣の大命を拝辞した。その辞表は陸軍を露骨に非難したものだった。
「陸軍に裏切られた陸軍大将」(芙蓉書房)によると、戦後、著者の額田坦元陸軍中将が巣鴨の監獄の庭を散歩していたとき、橋本欣五郎元陸軍大佐が、陸軍が宇垣の組閣を排斥したことについて、次のように言った。
「宇垣を抑える空気は軍部外にあった。山下将軍と同じだ」
額田坦元陸軍中将は、この謎めいた言葉の真意を、橋本欣五郎元陸軍大佐に問うたが、彼はそれ以上説明しなかった。
宇垣の組閣流産のあと、林銑十郎内閣が組閣されたが、わずか四ヶ月で倒れた。その後を継いで近衛文麿が首班に指名された。
戦後、宇垣は昭和28年4月の参議院選挙に出馬した。八十五歳だった。
その年の1月8日、額田坦元陸軍中将が四谷の宇垣邸に呼ばれて行くと、宇垣は「この春の参議院選挙に出るから頼むぞ」と言った。
額田元中将は1月下旬、安井誠一郎(東京都知事)から帝国ホテルに招かれ、宇垣立候補の披露を受けた。
だが、その後、宇垣は伊豆長岡で来客と対談中、火鉢の炭火中毒で倒れた。そこで出馬中止となり、安井氏も了承した。
ところが3月になり、吉田首相の「バカヤロー解散」の頃から、再び宇垣の出馬の呼び声が上がった。だが、安井氏は「いまさら」と消極的だった。
3月24日、大村清一衆議院議員から額田元中将に「宇垣先生は出馬することになった」と電話があった。額田元中将は知事公舎に安井氏を訪ね確認したが、安井氏はやはり否定的だった。
3月30日、額田元中将は長岡に直行した。すると宇垣は悠然たるもので、「安井までが、そう言うなら、止めてもよい」との返事だった。
それで宇垣と額田元中将は共に上京し、3月31日、四谷邸で、安井氏ら側近を集めて協議していた。
ところが4月1日、岡山から、宇垣松四郎氏らが押し寄せ、「岡山では駅前に事務所を作って選挙活動を始めている。いまさら~」と鼻息が荒かった。
宇垣は出馬を決意した。選挙事務局長には額田元中将が就任した。若い軍人たちも手弁当でかけつけた。親交のあった落語家・柳家金語楼も応援に来た。運動方針は「宇垣は年をとっても、まだ元気だ」に決まり、それを宣伝した。
4月27日参議院議員全国の開票結果が発表された。宇垣は最高点513、765票で当選していた。
(「宇垣一成陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「小沢治三郎海軍中将」が始まります)