陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

40.遠藤三郎陸軍中将(10) 義父は、お酒もタバコもやらず、書くのと読むのが大好きで

2006年12月22日 | 遠藤三郎陸軍中将
 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和20年4月12日、遠藤航空兵器総局長官は航空部隊の沖縄に対する総攻撃の状況を視察するため、発進基地の九州に出掛けた。

 驚いた事は、陸海航空部隊の総指揮官である豊田連合艦隊司令長官が九州に出てきていない事、沖縄作戦に参加している陸軍航空は僅かに菅原道大中将の第六航空軍のみで、あとは本土決戦の準備中である事を知り唖然とした。

 遠藤長官は憤りを感じ、帰路についた。給油のため大阪飛行場に着陸したところ、多数の新聞記者に取り囲まれ沖縄作戦に関し質問を受けた。

 遠藤長官は「一台の戦車でも上陸してしまえば手強い。数百千の戦車でも船の上にある間は無力である。故に上陸した戦車を叩くのは下の下策であり、船上に叩くのは上策である。しかし船はどこに来るか分からないからその船の集まっている基地を叩くのが上の上策である」と暗に敵を沖縄に叩くべきであり、本土で決戦する事の誤りを含んで答えた。

 遠藤長官が東京に帰った時、その日の夕刊に大きな活字で「遠藤長官曰く」と前記の話が掲載されていた。

 遠藤長官は沖縄決戦の必要と本土決戦の不可を参謀総長に具申しようと参謀本部を訪ねたところ、河辺虎四郎参謀次長が「作戦計画を批判するとはひどいじゃないか」と抗議し、梅津参謀長からは「幕僚共がひどく激昂しているから、今後参謀本部に来る時は現住に憲兵の護衛を付けて来い」と注意を受けた。

 昭和20年8月15日、玉音放送があり、終戦となった。遠藤航空兵器総局長官に自決を迫る者もいたが、遠藤のもって生まれた反骨精神が、なにくそと反発し、自決にまでいやらなかった。

 昭和22年2月、遠藤は戦犯容疑で巣鴨拘置所に入所したが不起訴となり23年1月13日出所した。

 昭和22年春、遠藤は東京裁判の証人としてA級戦犯二十数名とともに巣鴨から市ヶ谷の東京裁判法廷まで数回バスに乗って通った。

 A級戦犯はほとんど遠藤と旧知の間柄であり「バスの中で旧知の人々と自由に話し合えたことは、何よりの楽しみでありました」と記している。

 その時の印象として遠藤は「東條大将は私に笑顔を向けられますがあまり話そうとはされず淋しそうであったこと、広田元総理は誰に向かっても笑みを含んでおられ悟り切った聖人か高僧の様に見えた事、重光元外相が控え室で『老子』などを開いて『戦犯われ関せず』といった態度で超然として居られたこと、畑元帥は誠に静かに平素と少しも変わっていなかったことなどが残っております」と記している。

 出所後、遠藤は埼玉県入間川町に入植、農業を始めた。28年追放解除になると片山哲元総理らと平和憲法擁護運動を始める。

 参議院戦にも出馬(落選)。元軍人団を組織して、五回の訪中を行っており、毛沢東首席、周恩来総理らと会見した。

 遠藤は毛沢東首席に愛刀、来国光作の日本刀を贈った。その返礼として毛沢東首席から自筆の書簡とともに斎白石の名画「竹」が遠藤に贈られた。

 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、亡くなる前、遠藤は病院のベッドでも日記を書き続けた。二男の十三郎は「親父がんばれ、ギネスブックものだ、と励ました。もう書く事もなく、検温に来る看護婦の名前をつけ始めた。あれには、びっくりした」と記している。

 遠藤にとって日記を書く事は朝、顔を洗うのと同じくらい日常化していた。「これ書いてると、悪い事、できなくてな!」と、よく笑った。

 「義父は、お酒もタバコもやらず、書くのと読むのが大好きで」(長男の妻・ちかゑ)。

 昭和59年10月11日、合理性と反骨の精神を貫いた遠藤三郎はその生涯を閉じた。

(「遠藤三郎陸軍中将」は今回で終りです。次回からは、石川信吾海軍少将が始ります)

39.遠藤三郎陸軍中将(9) 遠藤長官と心中するつもりで大臣を引き受けたのだ

2006年12月15日 | 遠藤三郎陸軍中将
井上成美中将がローマの、遠藤がパリの駐在武官だった昭和3年、遠藤は井上のことを次のように日記に書いている。

「ローマ大使館参事官が『強制される事を嫌うのは人間の自然性なるが故に徴兵制をやめて志願制にしては』といっておった。井上海軍中佐は『金〈給料〉次第で出来ぬ事もなかろう』と返事した。予は大不賛成だ。崇高なる国民の義務を果たすのは、ひとつの名誉である。軍隊を職業化することは精神的な堕落である」

遠藤日記にも時代よりも一歩先を進むリベラリスト、井上の片鱗がのぞく。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、戦雲急を告げ、杉山元帥から「飼い殺しだ」と言われた航空士官学校校長の職も五ヶ月で別れを告げ、昭和18年5月、遠藤中将は陸軍航空本部と陸軍航空総監部の両方の総務部長を兼務し、さらに大本営幕僚も兼務する事になった。

遠藤中将が北海道、千島、樺太方面の視察に出発の挨拶に東條首相のところに出向くと、東條首相は「今君に死なれては困る。目下同方面の気象状況不良故、旅行を中止してはどうか」と注意された。遠藤は「昭和7年初頭上海事件以来遠藤を嫌っていた筈の東條大将の言としてはいがいなことでありました」と記している。

遠藤中将は東條大将の注意を無視して長島少佐を伴い、予定通り旅行を実施したが、8月8日帯広から占守島に向かう途中千島特有のガスに遭遇し八時間雲の中をさまよい危なく海の藻屑となるところであった。

機長が戦隊随一の優秀者平岩大尉であったので適切な操縦で帰還する事ができた。

昭和18年、東條首相は、従来の企画院と商工省を合体し、それに陸海軍航空の生産部門を統合した航空兵器総局を加え、これを軍需省として11月1日正式に発足させた。

軍需大臣は東條首相が兼務し、次官には岸信介、総動員局長に椎名悦三郎、航空兵器総局長官に遠藤三郎中将を発令した。

航空兵器総局長官・遠藤中将の配下で、遠藤長官が最も信頼を寄せていたのは総務局長の大西瀧治郎海軍中将であった。

昭和19年6月、大西中将は、海軍大臣嶋田繁太郎大将に意見具申書を提出した。要旨は人事の刷新により戦勢を挽回しようとするものであった。

嶋田大将は兼任の軍令部総長の職を末次大将に譲って、海軍次官には多田中将、軍令部次長には大西中将自身が就任するというものであった。

遠藤中将はこの血涙を以って綴られた意見書に感激を覚えた。特にこの難局に際し自ら求めて最も困難な職に就こうとするその勇気に打たれた。

だが遠藤が理解に苦しんだのは、その意見書に「遠藤中将を陸軍参謀次長にせよ」との条件がついていることだった。遠藤は自分にはその勇気も自信もなく、第一陸軍当局が承知するはずがなかった。

この意見書を見た当局は相当大きなショックを受けたらしく、遠藤と大西がクーデターでも計画しているのではないかと誤解し、両名を海外に出す事を決めた。

昭和19年7月18日、東条内閣は総辞職、22日には小磯内閣が誕生した。参謀総長は梅津美治郎陸軍大将、軍令部総長は及川古志郎海軍大将が就任した。

だが大西と遠藤の転任問題は消えておらず、遠藤中将は第四航空軍司令官、大西中将は第一航空艦隊司令長官として、共に比島に派遣される話が進められていた。

藤原軍需大臣から同時転任は総局の業務に支障を来たすとの抗議があり、先に大西海軍中将が先に転任し、遠藤中将の代わりに、陸軍次官であった富永恭次中将が第四航空軍司令官として比島に転任した。

富永中将は後に比島作戦がうまく行かず、第四航空軍も壊滅に近づいた時、部下の諸隊を残して軍司令部のみが台湾に退避した。陸軍当局は激怒して即時、富永中将の職を免じ、予備役にした。

そして陸軍当局は富永中将の後任に遠藤中将を充てようとしたが、当時の軍需大臣・吉田茂が「遠藤長官と心中するつもりで大臣を引き受けたのだ。遠藤を転任さすなら大臣を辞任する」と強硬に反対し、転任は中止された。

38.遠藤三郎陸軍中将(8) 内山中将は戦後も遠藤を「命の恩人」と言って感謝していた

2006年12月08日 | 遠藤三郎陸軍中将
 昭和15年、当時長沙付近で戦闘中であった第十一軍の第十三師団が陳誠将軍の指揮する十数個師団に囲まれ、全く孤立、苦戦に陥っているのを視察するため遠藤飛行団長は単身、部下の左高中尉機に搭乗し師団司令部に向かった。

 師団司令部から数百メートル北にある飛行場は、すでに迫撃砲弾が打ち込まれているのが見えたが、強行着陸した。司令部付近にも小銃弾が飛んできていた。

 師団長の内山英太郎中将は遠藤飛行団長の手を取り涙を浮べながら「どうか一兵一銃でもよいから空輸してもらいたい」と切願した。

 内山中将は遠藤少将より五期先輩の砲兵であり、共に仙台幼年学校を母校とする旧知の間柄であった。また遠藤少将がフランス国駐在の時、内山中将は私費留学でフランスに来て遠藤と親しく付き合った。

 内山中将の父は明治天皇の名侍従武官長と唱われた男爵内山大将であり、弟の勇次郎は遠藤少将と幼年学校の同期生であった。

 遠藤は基地に帰り、歩兵部隊と軽機関銃分隊のピストン輸送を行った。また部下の全戦隊に第十三師団周辺の敵を攻撃させた。敵はその後撤退を始めた。

 内山中将は戦後も遠藤を「命の恩人」と言って感謝していたが、昭和49年春に亡くなった。

 第十一軍司令官阿南大将も大変喜んだ。遠藤飛行団長が漢口を離れ南方に転進する時、阿南軍司令官は幕僚を伴い飛行場まで見送りに来て第三飛行団の功績を称えた。

 阿南大将は、遠藤少将に「軍に対し積極果敢と言わんよりは寧ろ軍を指導する気迫を以って協力された」と激賞し、その愛刀を贈った。なかなかの名刀で遠藤は戦後も保存して阿南大将の在りし日を偲んでいた。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤少将は昭和16年10月18日東條大将組閣の情報を聞いた。その時の感想を次のように述べている。

 「東條大将は能吏型ではありましたが、統帥者としてはとかくの問題が有った人で、旅団長時代には既に影が薄かったようにさえ聞いておりました。それが関東憲兵司令官の時、その能吏ぶりが高く評価され関東軍参謀長となり、さらに陸軍次官、航空本部長兼航空総監を経て陸軍大臣という具合にトントン拍子に栄進しましたが、私はそれさえ不思議に思っておりましたのに今度は総理大臣です。いくら人材払底とはいえ驚かざるを得ませんでした」

 続いて、次のようにも述べている。

 「私は東條大将を近衛首相の後継者に内奏した木戸内府の真意は恐らく当時主戦論の急先鋒と目されておった、武藤章軍務局長、富永恭次人事局長、田中信一作戦部長のいわゆる陸士二十五期(遠藤より一期上)の三羽烏であり、東條大将はこれ等の突き上げで主戦論を唱えているものの、総理になって戦争の全責任を自分の双肩に負わされる様になれば、戦争に踏み切る程太っ腹は持つまいとの判断にあったのではないかと思いました」

 また、遠藤少将は日中戦争が始って、陸軍は参謀総長に閑院元帥の宮を、海軍は軍令部総長に伏見元帥の宮を迎えた事を次のように批判している。

 「その真意は両宮殿下の指導を仰ぐのが目的ではなく、皇族を担いで統帥部の微力、無能をカムフラージュして権威を高めるにあったと思われます」と。

 昭和17年3月21日遠藤飛行団長はシンガポールの第三飛行集団参謀長から「貴官は陸軍航空士官学校幹事に4月1日発令される」と知らされた。

 遠藤少将は戦争の前途を思うとき、部下戦場に残してひとり内地に帰り、直接戦争と関係のない職場に転ずる事に不満があった。

 3月28日、遠藤は視察に来た参謀総長・杉山元元帥に対し、今回の転任に対し率直に苦情を述べた。

 ところが杉山元帥は「航空士官学校は中将若しくは大将の職である。君はそこで飼い殺しだ」と遠藤に言った。

 遠藤は直接戦争に関係ある職をと希望したが「既に上奏して御裁可ずみだから仕方がない」との返答だった。

 航空士官学校幹事を経て遠藤少将は昭和17年12月陸軍中将昇進と同時に陸軍航空士官学校校長を拝命した。

 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、昭和18年、陸軍当局は「敵性語廃止」と英語教育禁止を命じる。

 だが校長の遠藤中将はその支持を無視する。「だって教官が失業するもんな」と後年よく周囲を笑わせた。

 遠藤は「時代の狂気」に押し流されない合理主義と反骨を併せ持っていたのだ。

 同じ時期海軍兵学校校長の井上成美中将は「自国語しか話せない海軍士官など、どこへ行っても通用せん」と英語を寧ろ奨励した事はよく知られている。

37.遠藤三郎陸軍中将(7) 杓子定規に規定を守るのと、日本の将軍と皇帝との約束のとどちらが大切か

2006年12月01日 | 遠藤三郎陸軍中将
 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、昭和14年5月、日独伊三国軍事同盟締結をめぐる問題で、遠藤大佐は次のように記している。

 「ほとんど全課長が本同盟に賛成している中で参謀本部欧米課長・辰巳栄一大佐のみが『英国は腐っても鯛だ。軽視して敵に回すべきではない』とただ一人反対した。意見の適否は別にして、その勇気には敬意を表したい」。

 戦前、吉田茂大使のもとで2度目の英国駐在武官を務めた辰巳栄一氏(元陸軍中将)は、戦後、日独伊三国軍事同盟締結を振り返って次のように述べている。

 「とにかく陸軍主流はドイツ留学組ばかり。ドイツかぶれが多かった。国際情勢に暗いし、国力判断ができない。私は米国まわりで英国へ赴任した時、フォードの自動車工場を見学して、車がベルトコンベアでどんどんできるのにびっくりした。アレだけでも国力の差が痛いほどわかった」。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和14年9月遠藤少将は関東軍参謀副長として再び満州の地を踏んだ。当時、航空総監であった東條中将が満州を訪れ、満軍に航空部隊の新設を要望した。

 東條中将は「航空の増強は目下の急務であるが日本国内では議会の承認を得ねばならず、それは困難であるから何の制約もない満州国で作ってもらいたい。飛行機も要員も日本から送るから経費だけ満州国で負担し、名目を満州国の航空部隊にして貰えば宜しい」と主張した。

 だが遠藤少将は「満州に軍隊を作る事は建国の理想に反するだけでなく、そんな姑息な手段で作った軍隊は軍隊としての価値がないから、必要ならば正々堂々と議会の協賛を得て皇軍にふさわしい日本軍を作るべきである」と反論した。

 両方とも相譲らず、とうとう物別れになった。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、関東軍参謀副長を半年勤めた後、昭和15年3月、遠藤少将は浜松飛行学校附となる。

 この頃、満州国皇帝(清朝最後の皇帝の薄儀)が日本を訪問した。遠藤少将は関東軍参謀副長の時日本大使館附武官を兼任していたので満州国皇帝とはしばしば面談の機会があった。

 皇帝は近々日本を訪問する予定であったので、遠藤少将は転任で満州を離れる時、日本で皇帝をお迎えする事を約束して別れた。

 ところがいよいよ来日されると、遠藤少将は浜松飛行学校附という身分では公式レセプションに出る資格もなく、お迎えする機会がなかった。

 たまたま皇帝が京都に移られる途中お召列車が沼津駅にも浜松駅にも短時間停車するとの情報を得た。

 遠藤少将は浜松駅のホームでお迎えしようと思ったが、多数の奉迎者の中で一寸敬礼しただけでは余りにもお粗末なので、無断で沼津駅まで先行して沼津駅でお召列車に同乗した。

 随行の御附武官、吉岡安直中将(陸士は遠藤より一期上の旧知)の案内で皇帝のワゴン車に入り、浜松駅まで皇帝とゆっくり話をして、離満の時の約束を果たした。

 ところが後にそれが問題になり、陸軍省と宮内省からクレームがついた。無資格者が許可なくでお召列車に乗ったことであり、それを阻止しなかった憲兵司令官と浜松駅長の責任問題に発展した。

 遠藤少将は「杓子定規に規定を守るのと、日本の将軍が皇帝との約束を守るのとどちらが大切か」と乱暴に似た理屈で申し開きをした。その結果事なきを得て済んだ。

 後に吉岡中将から聞いた話として、皇帝は吉岡中将に「日本を訪問して嬉しかったのは遠藤が約束を守って列車の中まで迎えに来てくれたことと、沿道の農民が田植えの手を休め笠を取り泥の手を振って歓迎してくれたことであった」と話したという。

 戦後、遠藤が昭和35年、四回目の中国訪問をした時、撫順の戦犯収容所慰問した。そこには薄儀氏と弟の薄傑氏が収容されていた。

 遠藤は二人に面会し収容所の配慮で三人で自由に話す事が出来たという。その後二人は釈放され、それぞれ職に就いたという。薄傑氏の夫人は侯爵嵯峨氏の令嬢で戦後夫婦は北京で暮らした。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和15年8月遠藤少将は第三飛行団長を拝命した。

 当時長沙付近で戦闘中であった第十一軍の第十三師団が陳誠将軍の指揮する十数個師団に囲まれ、全く孤立、苦戦に陥った。

 遠藤飛行団長は上京視察のために単身、部下の左高中尉機に搭乗し師団司令部に向かった。

36.遠藤三郎陸軍中将(6) 黄色の襟章を昭和13年、航空の空色の襟章に取り替えましたと

2006年11月24日 | 遠藤三郎陸軍中将
 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、 昭和12年12月、参謀本部第一課長(教育)兼陸軍大学校兵学教官に補職された。その後遠藤大佐は兵科を砲兵から航空兵に転科し、陸軍航空兵大佐となった。

 遠藤は以前から航空機に関心を示していた。だが航空に転科するつもりは無かった。しかし、熱心に度々上司から勧められて、最後は命令により止む無く転科した。

 転科の感想を遠藤は「そして今度は三度目の正直、有無を言わさぬ命令です。四十の手習いと申しますか、あまり嬉しくありませんでしたが、止む無く永年親しんできた砲兵の黄色の襟章を昭和13年、航空の空色の襟章に取り替えましたと述べている。

 (註)襟章は歩兵は赤、騎兵は緑、工兵はえび茶、輜重は紺青、軍医は深緑、主計は茶、法務官は白。

 昭和12年12月13日、関東軍は苦戦の末、南京を占領した。しかし退路を開放した南京攻略で蒋介石が屈服する筈はなく、むしろ中国人民と共に一層抗日意識を高める結果となり長期戦の様相となった。

 北方の守りは軽視できないので、多田参謀次長は心配し、遠藤大佐に関東軍の状況を見てくるように命令を出した。特に関東軍司令部内がシックリいっていないようだから、その点も見てくるようにと要請された。

 昭和13年1月5日、遠藤大佐は東京を出発、17日まで満州を視察した。

 関東軍司令部では特に東條参謀長と石原参謀副長の間がシックリ行っていないように遠藤大佐は感じた。東條参謀長は従来からカミソリ事務官といわれた程事務的能吏でありかつ功名心が強かった。

 また、東條参謀長は満州国の建設を急ぐ余り満州国政府に対しても干渉が多く、法三章を貴ぶ満州要人には不平不満があった。

 その不平不満は満州国生みの親であり、大綱は握っても干渉は避ける性格の石原莞爾参謀副長に訴える様子だった。

 最初は石原参謀副長は東條参謀長にそのやり方をたしなめるなど意見も具申したようだが、東條参謀長が聞き入れないので、後には「満州の実情も知らぬ参謀長め、やれるならやってみろ」と言わんばかりに、その失敗を冷笑するような態度になり、両者は犬猿の関係になった。

 その状況を遠藤少佐は汲み取り、この両者を分離する必要を認め、参謀長に復命した。

 遠藤少佐は、久しぶりに石原少将と懇談の機会を持ったので、日支事変の収拾策を尋ねた。

 すると石原参謀副長は「俺を総理大臣にしなければ駄目だ」と言った。

 遠藤少佐は「それは実行不可能でしょう。あなたが直接やらんでも良策があれば、それを総理に伝え実行させればよいではありませんか」と重ねて尋ねた。

 それに対し石原参謀副長は「支那問題の解決は人の問題だ。北支に出兵するような馬鹿者には解決できない」とつっぱねた。

 遠藤少佐も少々気に障ったので「北支出兵は私にも異論がありましたが、出兵した時の参謀本部作戦部長はあなたではありませんか。あなたが出兵の奉勅命令にハンコを捺さなければ出兵は出来なかった筈です。なぜハンコを捺しましたか」と詰め寄った。

すると石原参謀副長は寝台の上に仰向けにひっくり返り「君とはもう話さん」と言って取り合ってくれなかった。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、 昭和13年5月、遠藤は陸軍大学校兵学教官として第三学年の学生と共に参謀旅行を行った。そのあと、いよいよ第三学年が卒業を迎えた。

 校長から遠藤大佐に卒業学生の序列を報告するように命令が来た。遠藤大佐は「序列の事など気に止めずにきた」と報告した。するとせめて恩賜賞受賞候補者だけでもということになった。

 遠藤大佐は短期間教官が学生を見た眼よりも三年間学習を共にした学生同志の眼が正しかろうから、学生間で優等と思う者を六名連記投票するよう命じた。

 その結果を校長に報告した。この年の恩賜の軍刀受賞者は公正妥当に選定されたと言う事で学生間に一点の不平も無かった。もっとも、選挙で序列を定めるなど当時の軍隊では有り得ぬ事だったという。

35.遠藤三郎陸軍中将(5)  武藤大将の元帥奏請を止めるぞ

2006年11月17日 | 遠藤三郎陸軍中将
 中央と連絡なしに軍命令を実施したので、案の定参謀本部から作戦間うるさいほどの小言や叱責、干渉やらがあり、甚だしいのは「武藤大将の元帥奏請を止めるぞ」などと人事上の脅迫的いやがらせもあった。

 だが、作戦が成功すると、手の裏を返す如く、感謝や賞賛の電報が来たのはまだしも、指導したのは己だと言わんばかりに威張る人も少なくなかった。

 わずか二万の兵で十倍の敵を撃破し、二週間の戦闘で敵を北京、天津の近くまで追い詰め停戦を申し込ましめるのに成功した。昭和8年5月31日、停戦協定が結ばれた。

 遠藤少佐が奉天の某料亭で同期生会を催した時、一軍参謀が料亭のサービスが気に食わんといって「軍参謀をなんと思う」と威張り出し、軍刀を抜いて玄関に飾ってあった立派な古木の盆栽を真っ二つに切った。

 さらに玄関前に停まっていた馬車を邪魔だと言って馬の脚に切りつけたのを見たという。外部だけでなく軍内でも威張り散らす参謀が少なくなかったという。

 7月27日、軍司令官・武藤元帥が病死。後任はびし菱刈大将となった。昭和9年3月1日満州国の帝政実施。3月9日軍参謀長が交代し、西尾寿造中将が就任した。西尾中将は後の大将、教育総監、戦争末期は東京市長。

 昭和9年8月の異動で遠藤少佐は中佐に昇進、陸軍大学校兵学教官を拝命し内地に帰ることになった。

 遠藤中佐は出発の朝、いつもの通り愛馬藤清で馬場運動をやり駅まで乗って行って別れを惜しんだ。

 大連でいよいよ満州を離れる際、新聞記者から思い残す事はないかと聞かれ、「愛馬藤清との別れがつらかった」と言った事が、新聞には愛人との別れと勘違いして書かれ、遠藤中佐は大変迷惑を蒙った。

 遠藤中佐は陸軍大学校兵学教官として二年間に渡って第四十八期生に戦術教育を行ってきた。

 昭和11年2月26日、2.26事件が起きた。遠藤中佐は単身反乱軍の本拠に乗り込んだり、自決した野中大尉の私宅を訪れて霊前に焼香した。

 そのことが問題になり、陸軍当局から好ましからぬ人物として左遷された。当時の加藤守雄補任課長から直接遠藤中佐は聞かされた。

 昭和11年8月1日発令で九州小倉市の野戦重砲兵第五連隊長に補職された。左遷とはいえ、大きな連隊で、大佐相当職だったが遠藤は中佐で連隊長になった。昭和12年8月から北支に出征、戦闘に従事した。

  「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和12年10月29日、野戦重砲兵第五連隊長の遠藤大佐は、参謀本部課長に転任の内報を受けた。
 11月13日には前田治旅団長から、そのポストは作戦課長であることが伝えられた。

 だが、11月28日参謀本部に出向いた遠藤大佐を待っていたポストは第二課(作戦)ではなく第一課(教育)の課長だった。

 遠藤大佐は参謀本部作戦課に長く勤務し、作戦以外の勤務はなく、遠藤大佐自身作戦課長としての勤務を決して疑わなかった。

 だが「それはとんでもない自惚れであり誤算でありました」と遠藤は後に記している。

 なぜ作戦課長のポストをはずされたのか。遠藤大佐はその理由を自分で次のように」分析している。

 (1)2.26事件の際、陸軍当局から好ましからざる人物と目された事。

 (2)野戦重砲兵第五連隊長の時、兵の処罰問題を不当として軍法会議と争い、師団長から「現代の法規を無視し、新たに法を作らんとする悪思想の持ち主」と銘打たれたこと。

 (3)第一部長、橋本群少将(遠藤の砲兵科の先輩、陸士20期、陸大軍刀組の秀才)と考え方が違うこと。

 大正の末期、軍備整理の会議で、当時第一課にいた橋本氏が「砲工学校で高等数学や高級の科学を習っても軍隊教育には直接役に立たないから軍事費節約のために砲工学校は廃止すべきだ」との意見を述べた。

 それに対し、作戦課勤務の遠藤大尉は「教育の目的は商人が仕入れた品物をそのまま高く売って利益を収めるのとは根本的に違う。数学的に科学的に頭を練り、応用の効く人物を養うのが教育の主目的と思う」と述べた。

 さらに、「将校が社会の上位にあると己惚れても中学校や幼年学校程度の学力では恥ずべきである。軍事費が不足ならば軍隊を減少してでも砲工学校は存続して将校の学力を向上すべきである」と反論した事があった。

 これらの理由から遠藤は自分が左遷されたと自ら分析している。

34.遠藤三郎陸軍中将(4) 川島芳子が数奇な運命に弄ばれつつある様子を見て、一抹の同情を覚えた

2006年11月10日 | 遠藤三郎陸軍中将
いよいよ二個師団動員実施という段になって、昭和6年2月20日夕刻、遠藤少佐は命令で動員担当の第一課長・東條英機大佐に第十一、第十四師団の動員の手続きのお願いに行った。

 すると東條課長は遠藤少佐を押しのけて、作戦課長の室に駆け込み、小畑課長にいきなり「貴様は一人で戦をする気か!」と噛み付いた。

 その物凄い姿は、遠藤少佐の眼底にこびりついたという。東條課長には何の連絡も相談もなかったことに激怒したという。

 遠藤少佐も東條課長から激しく叱責された。統制派といわれた東條課長からは、皇道派と目された荒木陸軍大臣や小畑作戦課長と親しかった遠藤少佐が、元々好意をもたれるはずはなかった。

 幸い小畑課長の説得により、東條課長も渋々ながら納まり動員を承諾し、2月24日午後6時半、遠藤少佐は新たに派遣される軍の奉勅命令上奏の参謀次長の伴をして参内、午後5時御裁可になり即発令された。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤少佐はこの新軍の司令官、白川義則大将の私邸に訪ね、命令を伝達した。

 昭和7年3月1日第一次上陸部隊は予定通り上海北方の揚子江の七了口に上陸、遠藤少佐も第十一師団長と共に上陸し上海に向かった。これが第一次上海事変である。

 その夜、遠藤少佐は上海の紡績会社社長、倉知氏の別邸に泊まった。そこには田中隆吉少佐や男装の麗人といわれた粛親王の王女・川島芳子らも同宿していた。川島芳子は田中隆吉少佐の愛人と言われていた。

 遠藤少佐は彼らと歓談したが、その時、川島芳子が数奇な運命に弄ばれつつある様子を見て、一抹の同情を覚えたという。

 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、川島芳子は清朝王族の粛親王の第十四王女だが、同王朝顧問の川島浪速の養女となる。

 甘粕正彦が一役買った清朝の廃帝溥儀の満州への引き出し後、川島芳子はその皇后、婉要を天津から脱出させた。

 このようなことから、川島芳子はドイツの女スパイになぞらえ「東洋のマタハリ」と異名のつくきっかけとなったが、戦後スパイ罪で中国で処刑された。

  「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、満州事変後、本庄繁軍司令官、石原莞爾主任参謀らは転任した。そのあと、昭和7年8月、遠藤三郎少佐は参謀本部作戦課部員から関東軍作戦主任参謀を命じられた。

 関東軍の新軍司令官は教育総監から転じた武藤信義大将。参謀長は陸軍次官から転じた小磯国昭中将。参謀副長は徳川の直参で旗本の血を引く岡村寧次少将で、小畑敏四郎少将、永田鉄山少将とともに陸軍の三羽烏と言われた人。田中新一中佐も参謀として顔を揃えていた。

 当時関東軍は第十師団、第十四師団、第二師団、第八師団、独立守備隊の陣容で配置されていたが、熱河省と興安省の守備が手薄ということで、小磯国昭参謀長は中央に数個師団の増兵を要求するよう作戦主任参謀の遠藤少佐に命じた。

 遠藤少佐は関東軍に来る前、参謀本部主任部員としてしばしば、増兵を陸軍省に交渉した際、いつもそれを渋ったのは陸軍次官だった小磯中将であった。

 そのことを遠藤少佐は小磯参謀長に直言し、国内事情も、増兵は困難なことを承知しておりますからと反問した。すると小磯参謀長は「立場が違うからかまわん」と言った。

 遠藤少佐は、いくら立場が違うとはいえ新任早々手の裏を返すような態度は好ましくないと思った。

 遠藤少佐は「軍隊は与えられた兵力で与えられた任務に最善を尽くすべきものと思います。私は作戦主任参謀としてまず現在の兵力でやってみたい」と申したところ、小磯参謀長もそれを了承し、増兵要求は止めた。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和8年3月第六師団は長城を越えて建昌営に進出したが4月に入ってからも敵の反抗が衰えず、日本軍は自滅に陥ることが明瞭になった。

 遠藤少佐は河北省東部に攻撃を開始する軍命令を立案し武藤軍司令官の承認を得て伝達した。

 先に建昌営に進出した時、中央から大変叱責され、止むを得ず長城内に撤退の命令を出し、軍幕僚や第一線部隊から大変な苦情を受けた前例があるので、今回は中央と連絡なしに軍命令を実施した。

33.遠藤三郎陸軍中将(3) 抵抗しない人間を斬ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない~

2006年11月03日 | 遠藤三郎陸軍中将
しばらくして、石原莞爾中佐参謀が入ってきて無言のままピョコンと敬礼して立ち去った。取り付く島もない無いという感じだった。

 遠藤少佐は石原中佐とは同郷、同幼年学校の出身であり、幼少のころから親しくしていたので、石原中佐の後を追って、廊下に呼びとめ「我々の来た理由も聞かず、ただ毛嫌いされるのはおかしいではないか。まず話し合ってください」と申し入れた。

 石原中佐は「何しに来たか位は分かっている。橋本猫之助(虎をもじって軽蔑したもの)や陸軍省の属吏(西原少佐を指す)などは初めから問題にしていないが、統帥の本流に居る君までが統帥を紊して来るとは何事か」と喰ってかかった。

 遠藤少佐は「私どもは決してあなた方を妨害しに着たのではありません。満州問題の解決は関東軍だけではどうにもならんでしょう。中央と心を合わせ、力をあわせてこそ始めて解決し得る問題ではありませんか。あなた方は私どもを利用したらよいではありませんか」などと石原中佐に言ったところ、嫌悪な空気も和らいだ。

 「将軍の遺言・遠藤三郎日記」(毎日新聞社)によると、満州事変の発端、奉天・柳条溝の満鉄線爆破事件も中国側を攻撃する口実作りだった。

 関東軍の板垣征四郎、石原莞爾の両参謀らが策を練り、今田新太郎大尉が爆薬を用意し、河本末守中尉が仕掛けたといわれている。

 著者の宮武剛氏が戦後、八十七歳の片倉衷元陸軍少将にインタビューした時、片倉は「本庄繁軍司令官と翌十九日、奉天へ行くと今田が『敵の演習命令です』と証拠書類を提出しかけた。それが十八日じゃなく、なんと十九日付なんだ。俺が気づき九の数字だけマッチで焼かせた」と語った。

 石原から「満州の王様」と皮肉交じりに命名された片倉大尉(当時)は、興味深いエピソードも語っている。

 「今田大尉がノイローゼになったんだ。仕方なく内地に転任させた。あの人は十八日の夜北大営を急襲し(張学良の命令で)ほとんど無抵抗の支那兵を斬った。抵抗しない人間を斬ると印象に残るもんだ。幻想に襲われて夜眠れない~修養が足りないんだ」。

 昭和6年11月3日、満州事変視察行から帰った遠藤少佐は直ちに東京・三宅坂の参謀本部へ出動する。浅川大尉から遠藤少佐の出したチチハル出兵の意見具申が関東軍と協議したものであると参某本部は見た。つまり石原とグルになって出兵を策したと見たのである。

 遠藤少佐は今村均作戦課長から「すっかりミイラ取りがミイラになったじゃないか。当分の間、仕事せんでいい」と言われた。

 ところが荒木陸相、真崎甚三郎参謀次長のいわゆる皇道派が実権を握ると、満州国建国へ突っ走る関東軍への批判は急速に賞賛へ変わった。

 昭和7年2月8日、今村作戦課長は辞めさせられ、代わりに小畑敏四郎大佐が作戦課長に就任した。この日の日記に遠藤は「理由は解らずも国家多事の際、第一部の要職にある者を交替せしむる如きは国軍のため決して採るべからず所にして遺憾この上なし」と記している。

 その夜、遠藤少佐は新宿の宝亭で今村の送別の宴を持った。だが陸軍の良識派とされる今村を尊敬しながらも、どこか、そりが合わず、遠藤は戦後も日中国交回復運動などで、今村と激しく論争した。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、満州事変勃発後の昭和7年2月ジュネーブから「国際連盟は3月3日、日支両軍に停戦を勧告する」という極秘電報が参謀本部に入った。

 参謀本部は3月3日に停戦勧告が発せられる前に支那軍を蘇州付近の湿地帯まで撃退し、日本軍勝利の下で自主的に停戦し得れば問題は無いが、戦況不利な状態で停戦すれば支那軍の勝利が宣伝され、日本軍の名声は失墜し、満州問題の解決も困難になると考えた。

 そこで参謀本部の小畑作戦課長はさらに二個師団を増派して3月3日以前に敵を撃退する必要ありと荒木陸軍大臣にのみ内諾を得て、その計画を秘密裏に立案するよう参謀本部部員の遠藤三郎少佐に命じた。

32.遠藤三郎陸軍中将(2) 「特徴は権力に対する反抗心の強いところ」ということだった

2006年10月27日 | 遠藤三郎陸軍中将
「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、大正6年陸軍砲工学校を卒業する際、遠藤少尉は校長始め学校職員から員外学生として東京帝国大学に進むよう勧告された。

 当時陸軍の制度として、砲工学校高等科を成績良く卒業した若干名は無試験で大学の工科に入校する資格を与えられ、大学の課程終了のまま工学士として技術方面の職に就くようになっていた。

 校長ならびに職員が遠藤少尉にその道を進むよう勧めた理由は次のようなものであった。

 「陸軍大学校に進む道もあろうが、帝大員外学生の道が開けたのだ。この道に進む人数は少数故、競争なしに中将までの進級は約束づけられている。その既得権益を放棄して未知の世界に行くのは賢明ではなかろう」

 遠藤少尉は当時骨相学者として有名であった石榴子の門を叩いた。身分を隠し性格を見てもらったところ「特徴は権力に対する反抗心の強いところ」ということだった。
 
 結局あまり参考にならず、遠藤少佐は自分の好きな道に行く事に決め、陸軍大学校の道を選んだ。

 大正8年遠藤中尉は陸軍大学校に入学した。第三学年の時満州旅行の帰途、朝鮮通過の列車内で、学友の一人が酩酊し、命令伝達に来た学校副官に侮辱的言辞を弄した。

 遠藤中尉はその学友を後ろから抱きかかえて止めようとしたのを、副官は遠藤中尉が酩酊悪口した如く勘違いして報告、これが卒業直前の教官会議で問題になった。

 この問題は事前に学生間にも漏れ、遠藤中尉に事情を釈明すべしと忠言するものもいたが、酩酊した当人が進んで自主するものと思い、敢えて釈明しなかった。だが当人は遂に出なかった。

 彼は参謀総長の女婿であった程の優秀な成績の持ち主であったから酩酊事件で傷つくのがいやだったのかも知れないが、遠藤中尉としては迷惑な事だった。

 幸い教官会議に列席していた高橋捨治郎教官(遠藤中尉と同連隊出身で遠藤中尉が見習い士官の時の中隊長)が、遠藤中尉の性格と、酒を飲まないのを知っており弁護して、遠藤中尉は無事卒業(恩賜)できた。

 皮肉にも参謀総長の女婿の彼は、卒業後間もなく身持ち悪く大尉で停職、満州事変で遠藤少佐が関東軍参謀の時、就職を求めて訪ねてきた。遠藤少佐は彼を満軍参謀に世話した。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤の参謀本部作戦課の勤務は長い。最初は大正12年12月から大正15年3月まで。その後フランス国駐在、海軍軍縮会議陸軍随員補佐を経て昭和4年12月から昭和7年8月まで遠藤は参謀本部作戦課に勤務する。

 昭和6年9月18日午後10時過ぎ、奉天北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊される事件があった。

 関東軍はこれを中国側の張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中国東北地方の占領行動に移った。これが満州事変の発端となった柳条湖事件である。

 「将軍の遺言・遠藤三郎日記」(毎日新聞社)によると関東軍と中央陸軍首脳との間に思想上の食い違いがあり、連絡のため中央部から参謀本部第二部長・橋本虎之助少将、遠藤少佐、今井武夫大尉、西原一策少佐が関東軍に派遣された。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和6年9月28日午後4時頃一行は奉天に到着した。駅には軍の下級副有留大尉一人だけが出迎えたので意外な事であった。一行は軍幕僚の宿舎藩陽館に案内され、誰もいない殺風景な応接間に通された。

31.遠藤三郎陸軍中将(1) 国賊・赤の将軍と人はいう

2006年10月20日 | 遠藤三郎陸軍中将
遠藤将軍の著書「日中十五年戦争と私」(日中書林)の序文で片山哲元総理は次のように述べている。

 「私は君が戦後俄に発心して平和主義者になったのかと疑った。ところが、後に憲法擁護運動の会として、中国への友好親善の訪問を供にした時、旅中の話し合いや、毛沢東首席、周恩来首相、その他要人との会見に当たっての発言を聞くにおよび、君がなかなかの平和主義者であると判明した。さらに雑誌「日中」連載の記述を読むに到って、君は軍人時代からの本式の平和主義者であったとわかった。あれでよく軍人が勤まったと思ったくらいである」と。

 遠藤将軍は頭脳明晰、幼年学校、士官学校、砲工学校、陸軍大学校を全て恩賜賞で卒業、さらにフランスのメッツ防空学校、フランス陸軍大学校も卒業している作戦のエキスパートだった。

 そのエキスパートを途中から軍上層部は作戦畑からはずした。昭和12年10月29日、野戦重砲兵第五連隊長の遠藤大佐は、参謀本部課長に転任の内報を受けた。

 11月13日には前田治旅団長から、そのポストは作戦課長であることが伝えられた。

 11月28日参謀本部に出向いた遠藤大佐を待っていたポストは第二課(作戦)ではなく第一課(教育)の課長だった。

 遠藤大佐は参謀本部作戦課に長く勤務し、作戦以外の勤務はなく、遠藤大佐自身作戦課長としての勤務を決して疑わなかった。

 だが「それはとんでもない自惚れであり誤算でありました」と遠藤は後に記している。

 遠藤将軍は明治37年8月1日、11歳の時から、昭和59年9月9日、91歳の時まで、厖大な量の「遠藤三郎日記」を書き残している。

 それは書庫一杯になるほどの量であった。最後の日記から約一ヵ月後の昭和59年10月11日、心不全で遠藤将軍は波乱の生涯を閉じた。

 遠藤将軍の著書「日中十五年戦争と私」(日中書林)は厖大な日記の中の遠藤将軍が大正12年、参謀本部作戦課勤務から航空兵器総局長官までの終戦、及び戦後の活動に到るまでを書き上げたもの。

 「日中十五年戦争と私」は日記そのものではなく、遠藤将軍の回想録であり、そのサブタイトルは「国賊・赤の将軍と人はいう」となっている。それは戦後言われたものではなく、戦時中に遠藤中将投げかけられた言葉である。

 軍人として第二次世界大戦を戦った遠藤将軍は、戦後、埼玉県入間川町に入植した。

 農業に従事しながら片山哲元総理らと平和憲法擁護研究会を組織。旧軍人団を組織して中国を訪問、毛沢東首席らと会見した。

 遠藤将軍は五回に渡る訪中を繰り返し、日中の架け橋となり、昭和59年死去するまで戦争放棄、平和憲法を訴え続けた。

<遠藤三郎陸軍中将プロフィル>

 明治26年1月2日遠藤金吾、みのの三男として山形県置賜郡に生まれる。

 大正元年陸軍幼年学校卒(恩賜賞受領)。3年陸軍士官学校(26期)卒(恩賜賞受領)。任砲兵少尉。

 大正6年陸軍砲工学校高等科卒(恩賜賞受領)。7年陸軍中尉。重砲兵射撃学校教官。

 大正11年11月陸軍大学校(34期)卒(恩賜賞受領)。12年砲兵大尉。参謀本部。

 大正15年フランス駐在。昭和2年メッツ防空学校。3年砲兵少佐。4年フランス国陸軍大学校卒、参謀本部部員(作戦課)。

 昭和7年関東軍参謀(作戦)。8年砲兵中佐。9年陸軍大学校兵学教官。11年野戦重砲兵第五連隊長。

 昭和12年8月砲兵大佐。12月参謀本部第一課長。

 昭和14年関東軍参謀副長。14年陸軍少将。15年第三飛行団長。

 昭和17年陸軍航空士官学校幹事、陸軍中将、陸軍航空士官学校校長。

 昭和18年陸軍航空本部総務部長、航空兵器総局長官。20年12月予備役。

 昭和22年2月巣鴨入所、23年1月出所、埼玉県入間川町に入植、農業に従事。

 昭和28年片山哲元総理らと平和憲法擁護研究会を組織。30年訪中。31年元軍人団を組織して訪中、毛沢東主席と会見。

 昭和34年参議院議員選挙出馬、落選。35年四度目の訪中。36年日中友好元軍人の会結成。47年五度目の訪中。59年10月11日死去。