陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

696.梅津美治郎陸軍大将(36)自分はこの対米英戦争には最初から反対の意見であったから、この任務を受けたくない

2019年07月26日 | 梅津美治郎陸軍大将
 それにともない、関東軍司令部は総司令部に昇格された。したがって、梅津美治郎大将は、関東軍総司令官となり、対ソ戦に備えて戦力増強が図られた。

 このような状況下において、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、日ソ開戦について、次の様に考えていた。

 「対ソ開戦は、全国民の北方問題解決の総意に基づき、帝国軍主力を指向するのでなければ発動することはできない」。

 これは、もはやソ連が夏にはソ連軍の態勢は欧州で不敗となり、極東ソ連軍の防衛もいよいよ強化されてきたので、もはや熟柿主義的にソ連軍の崩壊を期待する甘い希望的判断は認めることが出来なくなった。従って、日ソ開戦となれば、国力の全勢力を傾注して行わなければ勝算がないことを自認しての発言であったと思われる。

 昭和十九年7月9日、サイパン島が玉砕後、首相と陸軍大臣を兼任し、さらに参謀総長にも就任していた東条英機陸軍大将の内閣に不安を覚えた政界上層部は、政変的な動きを活発化させてきた。

 彼らは、次の三条件を東條首相に提示した。

 一、総長と大臣を切り離して、統帥を独立させること。二、海軍大臣を更迭させること。三、重臣を入閣させて、挙国一致内閣をつくること。

 東條首相は、この三条件が重臣層の総意を反映していることを知り、まず最もやり易い陸軍部内の改革、即ち、自ら参謀総長を辞任して、後任者を選定することから始めた。

 昭和十九年七月十七日、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、東京の陸軍省から、直接電話により、参謀総長就任の内命を受けた。

 偶然、その場に、居合わせたのは、関東軍参謀副長・池田純久(いけだ・すみひさ)少将(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部卒・陸軍省資源局企画部第一課長・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍第五課長・関東軍参謀副長・中将・内閣総合計画局長官・終戦・歌舞伎座サービス会社社長・エチオピア顧問団長・第五回参議院議員通常選挙で落選・昭和四十三年四月死去・享年七十三歳)だった。

 その場にいた、関東軍参謀副長・池田純久少将は、関東軍総司令官・梅津美治郎大将が電話を受けたので、席を外した。

 後で、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、関東軍参謀副長・池田純久少将に、「自分はこの対米英戦争には最初から反対の意見であったから、この任務を受けたくない」と述べた。

 さらに「もはや状況を好転させるべき参謀総長としてのなす述もないのだから、なんとかして、辞退することはできまいか」と相談したという。

 だが、すでに内奏もされており、七月十八日午後、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は新京から飛行機で上京した。

 七月十八日午後十時、新参謀総長・梅津美治郎大将の親補式が行われた。同時に次の二人の親補式も執り行われた。

 新教育総監・杉山元(すぎやま・はじめ)元帥(福岡・陸士一二・陸大二二・国連空軍代表随員・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍航空本部補給部長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・自決・享年六十八歳)。

 新関東軍司令官・山田乙三(やまだ・おとぞう)大将(長野・陸士一四・陸大二四・騎兵第二六連隊長・騎兵大佐・朝鮮軍参謀・参謀本部通信課長・少将・陸軍騎兵学校教育部長・第四旅団長・陸軍通信学校長・参謀本部第三部長・参謀本部総務部長・中将・参謀本部総務部長兼第三部長・陸軍士官学校長・第一二師団長・第三軍司令官・中支那派遣軍司令官・教育総監・大将・教育総監兼防衛司令官・関東軍司令官兼駐満州国特命全権大使・終戦・捕虜としてシベリアに十年間抑留・昭和四十年七月死去・享年八十三歳)。

 昭和十九年七月十九日、東條内閣は戦局最も困難な時期に、組閣以来二年九か月余にして遂に倒れた。

 やがて陸軍大臣詮衡の三長官会議が開かれ、教育総監・杉山元元帥、参謀総長・梅津美治郎大将、陸軍大臣・東條英機大将が出席した。









695.梅津美治郎陸軍大将(35)関東軍司令官・梅津美治郎大将は「この戦争はもう駄目だ。日本帝国は敗戦の道をたどらねばなるまい」と嘆声を洩らした

2019年07月19日 | 梅津美治郎陸軍大将
 その時、関東軍司令官・梅津美治郎中将が、次の様に強く意見を述べた、

 「どうも中央補給機関が満州にあるのは具合が悪い。関東軍司令官の隷下に入るように改編する必要がある」。

 これに対して、最新参者であった関東軍参謀部作戦課兵站班長・今岡豊少佐は、関東軍司令官・梅津美治郎中将に次の様に述べた。

 「閣下、それは閣下が陸軍次官の時、強力な補給機関を満州に推進するに方り、参謀本部としては関東軍の隷下に入れる案であったが、梅津閣下がどうしても中央機関にしなければ出さないとのことで、このように決定したと思っておりますが」。

 すると、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、次の様に答えた。
 
 「たしかに次官の時は、陸軍大臣管轄のものにした方が強力なものとなって良いと思ったが、関東軍司令官の立場から見ると、満州に陸軍省の機関が進出すれば、他の各省が満州にいろんな機関を出すのを拒絶する訳には行かなくなる。そうなると駐満大使として、一元的に満州国を指導している態勢が崩れることになる」。

 関東軍参謀部作戦課兵站班長・今岡豊少佐は、これを聞いて「ハイ、よく判りました」と答えたのだが、このような深い理由があるとは思わなかった。後に、ある部長から「君は思い切ったことを言ったものだなあ」と、冷やかされた。

 昭和十五年八月一日、関東軍司令官・梅津美治郎中将は大将に進級した。

 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃により、太平洋戦争が開戦した。真珠湾攻撃や、マレー上陸作戦の成功で、国民は、湧き上がって歓喜していた。

 だが、関東軍司令官・梅津美治郎大将は、この戦争の推移がどうなるか、長期的見通しについて深く憂慮していた。

 当時の関東軍第一課長(作戦)は、田村義富(たむら・よしとみ)大佐(山梨・陸士三一・陸大三九恩賜・フランス駐在・軍務局軍事課編制班長・北支那方面軍作戦主任・歩兵大佐・北支那方面軍作戦課長・少将・関東軍作戦課長・少将・関東軍補給監部参謀長兼関東軍参謀副長・大本営参謀兼中部太平洋方面艦隊参謀副長・第三一軍参謀長・昭和十九年八月十一日グアム島で自決・享年四十七歳・中将)だった。

 関東軍司令官・梅津美治郎大将は、お気に入りの第一課長・田村義富大佐に「この戦争はどうなるだろうか」と質問してみた。

 第一課長・田村義富大佐は即座に「この戦争は、勝目がないように思います」と答えた。

 関東軍司令官・梅津美治郎大将は、「自分も、そのように思う」と言って、第一課長・田村義富大佐の意見に同意したと言われている。

 昭和十七年六月五日~七日に行われたミッドウェー海戦は日本海軍の敗北に終わった。

 この報告を受けた、関東軍司令官・梅津美治郎大将は、「この戦争はもう駄目だ。日本帝国は敗戦の道をたどらねばなるまい」と嘆声を洩らした。

 昭和十七年七月四日、関東軍の指揮組織を改編強化するとともに、これに伴う人事が次のように発令された。

 新設された第一方面軍の軍司令官には山下奉文(やました・ともゆき)中将(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・陸軍大学校教官・オーストリア大使館兼ハンガリー公使館附武官・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍事課長・少将・陸軍省軍事調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・航空総監兼航空本部長・ドイツ派遣航空視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・第一方面軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・マニラ軍事裁判で死刑判決・昭和二十一年二月刑死・享年六十歳・従二位・功三級・勲一等旭日大綬章・五等オーストリア共和国功績勲章等)が親補された。

 第二方面軍の軍司令官には阿南惟幾(あなみ・これちか)中将(大分・陸士一八・二四番・陸大三〇・一八番・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監・陸軍大臣・昭和二十年八月十五日自決・享年五十八歳・勲一等旭日大綬章・功三級)が親補された。

 また、吉林省の延吉(えんきつ)に第二軍が、吉林省の四平街(四平市=しへいし)に機甲軍がそれぞれ新設された。




694.梅津美治郎陸軍大将(34)「では大邸だ。大邸へ行け」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦士に命じた

2019年07月12日 | 梅津美治郎陸軍大将
 「今、どこを飛んでいるのだ」と聞くと、操縦士は「判りません」と答えた。これは大変だ、どうしてこんなことになったのか。通信士もいるだろうに……。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、一まず、関東軍司令官・梅津美治郎中将の横を通って、自席に戻ろうとした。

 その時、関東軍司令官・梅津美治郎中将が「菅井参謀、左に海が見えるネ!」と一言、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、恐縮してしまった。

 自席に戻るのを止めて、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦席に行った。そして、高度を下げさせて、地上を見据えた。

 鉄道線路が走っている。さらに高度を下げさせて、駅のプラットホームにある看板で、駅名を見ようとした。だが、無駄だった。あっという間に飛び去って、駅名の判読はできない。
 
 操縦士に「油は大丈夫か?」と聞くと、「もう少ししかありません」と操縦士が答えた。

 そこで、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、どこか河原でもあったら、不時着しようと思った。燃料が亡くなってからでは、着陸もできないだろうと思ったのだ。

 しばらく行くと、ちょっとした市街が見え、そのはずれに正方形の土塁に囲まれ、その中に四棟の建物があり、土塁の一角に小さな正方形の土塁が突出していた。

 「ここは大田である」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、判断した。すなわち歩兵一個大隊が分駐している兵営に違いあるまい。

 操縦士に対して、「大田だよ、大田だ、間違いない」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、言うと、操縦士は「え?大田ですか?」と腑に落ちない返事をした。

 大田とすると、京城に引き返すか、大邸に飛ぶしかない。「油は大丈夫か、京城へ引き返せるか」と聞くと、操縦士は「京城へは無理です」という返事だった。

 「大邸へはどうだ?」と聞くと、「大邸なら何とか……」と答えた。「では大邸だ。大邸へ行け」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦士に命じた。

 軍司令官専用機は低空で大邸を目指して飛んだ。途中、山脈を越えねばならなかった。かろうじて、峠をすれすれに越したら、遙かに、大邸飛行場が見えた。

 あとは、空中滑空で、大邸飛行場に滑り込んだ。ちょうど、この日は日曜日で、飛行場には宿直の者しかいなかった。

 予定もなく、予告もなく、飛行場に飛び込んで来た飛行機に、宿直勤務者はびっくりしていた。

 全く命拾いをしたのだが、不時着をして、関東軍司令官・梅津美治郎中将、さらに東久邇宮盛厚王殿下に事故でも起きたら大変だった。

 軍司令官専用機は、大邸飛行場で給油をして、夕方、無事、福岡に着陸した。

 この緊迫した機内の状況下で、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、「菅井参謀、左に海が見えるネ!」との一言だけで、他には一切何も言わなかった。

 すべて、部下に任せてという、大度量であったと、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、尊敬の念を抱いた。

 昭和十五年初頭、大本営作戦課課員から関東軍参謀部作戦課兵站班長に就任した今岡豊少佐(陸士三七・陸大四七)は、奉天の後方部隊の検閲に、関東軍司令官・梅津美治郎中将に随行した。

 他の随行官は、関東軍参謀副長・遠藤三郎(えんどう・さぶろう)少将(山形・陸士二六・陸大三四恩賜・陸軍砲工学校高等科二三優等・陸軍大学校教官・野重砲第五連隊長・砲兵大佐・参謀本部教育課長・少将・浜松飛行学校教官・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・第三飛行団長・陸軍航空士官学校幹事・中将・陸軍航空士官学校長・陸軍航空本部総務部長・軍需省航空兵器総局長官・終戦・戦犯容疑で巣鴨プリズン入所・農業・参議院選挙で落選・日中友好元軍人の会結成・著書「日中十五年戦争と私・国賊・赤の将軍と人はいう」・昭和五十九年死去・享年九十一歳)を初め、兵器・経理・軍医・獣医の各部長。

 奉天には、関東軍の後方機関のほかに、中央補給機関が陸軍大臣管轄の下に進出していたので、これらの機関を検閲する権限はないので査閲した。

 当日、関東軍司令官・梅津美治郎中将を囲んで、随行官だけで、打ち解けて昼食をとった。








693.梅津美治郎陸軍大将(33)東久邇宮盛厚王殿下一行が待ち構えていたので、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は非常に意外に思った

2019年07月05日 | 梅津美治郎陸軍大将
 関東軍司令官・梅津美治郎中将は、これに対して同感であり、次の様に答えた。

 「ここの参謀も急に多くが更迭され、そのような者はもう内地にかえされている筈だが、よく訓戒し逸脱行為に出ないようにする」。

 昭和十四年十一月下旬、ノモンハン事件の後始末の目安がついたので、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、軍状上奏のため上京することになった。

 梅津美治郎中将は、第一軍司令官として北京在勤から直接関東軍司令官に親補されたため、第一軍司令官としての軍状上奏が行われていなかったためだった。

 関東軍司令官・梅津美治郎中将の上京には、松山秘書官と、関東軍参謀・菅井斌麿(すがい・としまろ)中佐(徳島・陸士三三・陸大四三・関東軍参謀・参謀本部教育課高級課員・参謀本部教育課長・陸軍省兵備局兵備課長・砲兵大佐・陸軍省高級副官・第一七方面軍参謀副長・少将)が随行することになった。

 当時、東久邇宮盛厚王(ひがしくにのみや・もりひろおう)殿下(東京・東久邇宮稔彦王第一王子・貴族院議員・陸士四九・砲兵少尉・陸軍砲工学校普通科・陸軍野砲兵学校附・大尉・少佐・陸大五八・第三六軍情報参謀・終戦・免貴族院議員・皇籍離脱・公職追放・東京大学経済学部・帝都高速度交通営団幹事・日本狆<ちん>クラブ会長・昭和四十四年二月死去・享年五十一歳・勲一等旭日大綬章)は、北満の重砲兵連隊付き少尉だった。

 だが、十二月一日に陸軍砲工学校入学のため、東京に帰られることになっていたので、殿下のお付武官から、関東軍司令官・梅津美治郎中将の上京の特別機に同乗方の申し入れがあった。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、婉曲に断った。その理由は、関東軍司令官兼満州国駐在大使である者が、短期間にしろ、任地を離れる場合は、満州国側にも通告しなければならないのだ。

 だが、今回は黙って秘密裏に上京することにしたため、もし、宮殿下が同乗の場合は、秘密が露見する公算が濃厚であると思われた。

 ところが、翌早朝、新京飛行場に来てみると、東久邇宮盛厚王殿下一行が待ち構えていたので、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は非常に意外に思った。

 後で、お付武官に聞くと、その前夜、殿下の一行は関東軍司令官・梅津美治郎中将の官舎に一泊し、夕食を共にした席上で、東久邇宮盛厚王殿下が直接、関東軍司令官・梅津美治郎中将に話をされ、同意を得られたとのことだった。

 新京飛行場を離陸した軍司令官専用機は、一路、朝鮮京城飛行場に向かった。通常のコースは奉天経由だったが、奉天に着陸すると、関東軍司令官・梅津美治郎中将の乗っていることが暴露するので、京城へ直行し給油の後、福岡へ飛ぶ計画だった。

 機内での弁当、飲物も携行し、朝鮮軍にも関東軍司令官・梅津美治郎中将が乗っていることなど一切秘密にしてあった。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、二十万分の一の地図を開いて、時々窓下を見ながら、機の位置を確かめていた。

 朝鮮と満州の国境は鴨緑江の遙か上流で通過したことを確認し、あと何十分位で京城上空に達するものと予期し得て安心していた。

 大体予定の時間が過ぎたので、また地上を見た。ほぼ京城上空のはずであるのに、それらしくなかった。依然として山岳地帯である。

 おかしいと思ったので、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦席へ行って「今どこを飛んでいるのか?」と尋ねたが、操縦士は「ちょっと待ってください」と言うのみで、どこの上空かを言わなかった。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、やむなく、自席に戻って窓の外を見つめていたが、どことも見当がつかなかった。

 ニ十分も飛んだであろうか、機の左方に海が見える。そこで、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、また操縦席へ行って尋ねた。

 操縦士は、相変わらず「ちょっと、待ってください」と言う。しばらくすると、また左に海が見える。おかしい。

 京城着の予定時間はかなり過ぎ去っている。飛行機が迷っているに違いない。関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、再び操縦席に行った。