陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

192.東條英機陸軍大将(12)つまらんことを、せんように、近衛を脅かしておけ

2009年11月27日 | 東條英機陸軍大将
 中野正剛は「いかに東條を倒すか」、その思いが脳裏を離れなかった。最終的に中野は、重臣を動かして、東條を退陣に追い込み、そのあとに、宇垣一成陸軍大将(陸士一・陸大一四恩賜)の政権をつくることを考えていた。

 中野は、この策謀を盟友の天野辰夫に打ち明けた。天野も大賛成で、大川周明を代々木の中野邸に招いて参加を求めた。

 ところが「おれは、御免こうむる」と大川はにべもなかった。「東條を退陣させるのは大賛成だが、そのあとに、宇垣政権をつくるというのが、気に入らん」。

 大川がそういったのは、昭和六年の三月事件で、大川、橋本欣五郎(陸士二三・陸大三二)、建川美次(陸士一三・陸大二一恩賜)たちのクーデター計画に、ときに陸相だった宇垣は、いったんは賛成し、乗りながら、最後には裏切ったという過去があった。

 中野は、今度は逓信省工務局長・松前重義(戦後社会党参議院議員・東海大学学長)を、同志に加えた。

 松前は近衛文麿たち重臣や、海軍首脳の間を歩いて、「東條体制では戦争に勝てない。退陣させるべきだ」と説いてまわった。

 「中野や、近衛たちの動きがくさい」。東京憲兵隊長・四方諒二大佐(陸士二九・東京帝国大学法学部)はすでに嗅ぎ付けていた。

 四方大佐から報告を受けた東條は「つまらんことを、せんように、近衛を脅かしておけ」と、吐いて捨てるように言った。四方の意向を受けた憲兵司令部の某大佐が、近衛を荻外荘に訪ねた。

 「最近、公爵は、中野、天野たちと、よくお会いになっていると、うかがっております。それも倒閣運動であるという流説を、耳にしております。もしそうであれば、これはおやめになったほうがよろしい。でないと、私のほうでも考えなければならない」。

 近衛はその怒り心頭に発した。「いよいよもって、東條は独裁者だ。われわれ重臣まで、脅迫するのか」。近衛は腹を決めて東條おろしにとりかかった。

 ところが、七月三十日の重臣会議に出席した東條首相は怒気を全身にみなぎらせて、

 「あなた方は、中野正剛の弁舌に踊らされて、倒閣運動をやっておられるようですが、国民の九九パーセントは本職を支持しておりますぞ。戦中のことは、戦争の専門家が担当します。無益な策動はやめていただきたい。それでも尚継続されるならば、明らかな利敵行為として本職にも考えがありますぞ」と恫喝した。

 重臣たちは、この一喝にあって、お互いに顔を見合わせるだけで一言も返すものもいなかった。

 昭和十八年八月になると、近衛文麿、宇垣一成、鳩山一郎、その他の重臣も、軽井沢の別荘に滞在し始めた。

 中野は天野や松前、企画院調査官・日下藤吾らを引き連れて、軽井沢に乗り込み、近衛や宇垣らの間を行き来するようになった。

 八月二十三日、二時間に渡る近衛、宇垣会談で、近衛は「重臣の有志が東條を呼んで退陣を勧告する。聞かなければ、私が単独で上奏をする」と言い切った。そして「中野君たちは、君が戦争終結の適任者だと言っている。私も同じ考えだ」と言った。

 宇垣は「もし、そのようになれば私も身命を賭してやるつもりです」と答えた。そのあと、閣僚人事まで話が進んだ。

 その夜、鳩山は、中野と中野の息子、泰雄、それに天野、松前、日下を軽井沢の天ぷら屋に招待した。ふだんは酒をたしなまない中野もビールを三杯飲んで愉快そうに鳩山と話をした。

 近衛文麿、岡田啓介、平沼麒一郎の三人が発起人になって、東條首相を招待することになった。その趣旨の書簡を、岡田がしたため、女婿の迫水がたずさえて、首相官邸に出向いた。

 東條首相は「ありがたくお受けするが」と答えたが、「重臣の方々から、いろいろ時局に関するご質問もあろう。わし一人では、正確にお答えできん件もあるので、二、三閣僚を同伴したい」と言った。

 すでに、東條首相は、憲兵、特高に、中野、三田村の動向を追わせ、その先にいる重臣の挙動を洗わせていた。閣僚を二、三引き連れて行けば、「わしの進退に言及できまい」と計算した。

 迫水が岡田にこのことを報告すると、岡田は東條に「一人で来れないか」と電話したが、東條は拒否した。それで、重臣側は作戦をたてた。

 岡田が幹事役で、政局、戦局の重大性を指摘し、それに関する資料を米内光政が示して、東條を批判し、近衛が辞任を勧告する。

 もし東條が居直れば、若槻礼次郎が重臣代表として参内、後継首班に宇垣を推す。以上が作戦であった。

 八月三十日、東條首相は重光葵外相、賀屋興宣蔵相、嶋田繁太郎海相、鈴木貞一企画院総裁を引き連れて、重臣の待つ華族会館に乗り込んできた。

191.東條英機陸軍大将(11) 宰相の俺を、売名家というのか!

2009年11月20日 | 東條英機陸軍大将
 この大演説の行われる日比谷公会堂に、東條首相は特高を張り込ませ、場合によっては中止、解散をさせようと思ったが、四千人の聴衆が熱狂し、手も足も出なかった。

 「東条英機と軍部独裁」(戸川猪佐武・講談社)によると、昭和十八年元旦の朝日新聞朝刊に「戦時宰相論」という囲みで十段の記事が掲載された。寄稿者は中野正剛だった。

 東條首相は自宅で酒を飲んでいたが、その記事を見つけると、「もうやめだ!」と酒を飲むのをやめた。東條首相にとって、敵である中野正剛がまた、俺にたてついたと思うと、酒の味もまずくなった。

 「戦時宰相論」の内容は要約すると次の様なものであった。

 「大日本国は、上に世界無比なる皇室をいただいておる。かたじけないことに、非常時宰相はかならずしも、蓋世(勢いある)の英雄たらずとも、その任務を果たし得るのである。否、日本の非常時宰相は、たとえ英雄の本質を有するも、英雄の名を恣にしてはならないのである」

 怒りが東條首相の顔をゆがめた。「上に天皇がおられるから、東條みたいに凡庸でも、戦時の宰相がつとめられるというのか。それに、宰相の俺を、売名家というのか!」。

 さらに「戦時宰相論」は、次の様に結ばれていた。

 「戦局日本の名宰相は、絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しかして気宇広大でなければならぬ」

 東條首相は歯ぎしりする面持ちになった。「俺が不遜だというのか。世田谷に家を新築したのが驕慢、不潔というのか。俺が反軍的人間を許さんのが、狭小だというのか」。

 東條首相は私邸から情報局総裁の谷正之を呼び出して「朝日新聞を発売禁止にしろ」と怒鳴った。すでに新聞は配達済みで効果は無かったが、その処置をとれば、朝日新聞は中野正剛への原稿を差し控えるだろう。それが狙いだった。

 この「戦時宰相論」を中野正剛に依頼したのは、当時、朝日新聞主筆だった緒方竹虎だった。緒方は中野と同じ早稲田大学出身で在学中は意気投合し、朝日新聞でも仲間だった。

 昭和十八年二月一日、東條首相は貴族院本会議で重大な発言をした。「私は戦勝についての確信は十二分にもっております」

 「しかしながら、負ける場合は二つある。一つは戦争の核心をなす陸海軍が、二つに割れる場合である。だが、真剣な戦闘をやっている両者が割れるなど、思いもよらぬことであります」。そして次の様に言った。

 「第二の場合は、国民の足並みが乱れる場合である。したがって国内の結束を乱す言動については、徹底的に今後もやっていく。たとえそのものが高官であろうと、容赦はいたしませぬ」

 これはまさに反東條勢力を恫喝する言葉だった。この演説が終わった後、政界では「中野正剛と近衛文麿のことをいってるらしい」とささやかれた。

 昭和十八年三月、第八十一議会で戦時刑事特別法改正法案の審議のために特別委員会が設けられた。中野正剛はこの時ばかりと、東條首相に挑戦した。

 この改正法案に対して、真っ向から批判の矢を浴びせかけたのが、中野正剛の門下、旧東方会の三田村武夫だった。

 江口繁、満井佐吉(元陸軍中佐)、真崎勝次(真崎甚三郎の弟・元海軍少将)らも批判した。批判の内容は「改正のねらいは、反東條の言論、政治運動の弾圧だ」「ナチスの戦時刑法同様、ファシズムそのものである」などというものだった。

 三月六日、東條首相は岩村法相に「一歩も譲ってはならん、原案通り成立させよ」と厳命した。だが、その日の午後から、代議士会が開かれ、二百七十人余りが原案反対にまわった。中野正剛はしてやったりと思った。

 東條首相は翼政会幹部、軍首脳を用いて、反対する代議士達の切り崩しにかかった。三月八日の時点で、反対する代議士は三田村武夫ただ一人になった。

 三月九日、戦時刑事特別法改正法案は衆議院本会議で可決成立した。中野正剛は歯ぎしりをした。

 昭和十八年六月十五日、東條内閣が企業整備法案を提出すると、中野はこれに反対し、三木武吉、鳩山一郎らも同調反対にまわった。

 鳩山の演説に続いて、中野は、堂々と反戦ともとれる演説を行った。この頃、政界ではひそかに、東條首相の総辞職説から始まって、梅津美治郎陸軍大将の内閣説が流れていた。

 この説を取り上げた近衛文麿は木戸内大臣に「梅津の背後には、共産主義を推進する革新派の池田純久少将がいるから、気をつけなければならない」という書面を送っている。

190.東條英機陸軍大将(10)わが輩は、東條の靴の紐を結ぶために代議士になったんじゃない

2009年11月13日 | 東條英機陸軍大将
 富永人事局長は「昨夜は少しひどすぎたなあ、大臣は作戦部長の気持ちは分かるが、あれでは困る、と言っていた。軍法会議などということには、俺は反対しておいたが、いずれにしても転出してもらわねばなるまい」と言った。

 田中作戦部長は「ホー、軍法会議、結構だ、大いに争おう」と怒って答えたが、「転出のことは昨夜総長にも解職方をお願いしておいた。だが、この際、軍職を退かしてもらおうと考えたのだが」と告げた。

 富永人事局長は「それもよかろうが、将官の自発的引退は、病気でない限り、勅許がないというのが慣例だ」と答えた。

 田中作戦部長は「それなら病気診断を、軍医に書いてもらおう」と言った。

 すると富永人事局長は「だが、君の体で、病気といえようか、仮に引退しても、すぐ召集ということになる」と答えて、「君のあとには、関東軍から綾部橘樹少将(陸士二七・陸大三六首席)というのが、総長の希望だ」と続けた。

 田中作戦部長は、杉山参謀総長から、重謹慎十五日の処分を言い渡され、十二月七日付で南方総軍司令部付に発令された。

 その後、田中中将は、牟田口廉也中将の後任として、菊兵団(第十八師団)の師団長になることが予定されていると富永人事局長が教えてくれた。

 田中中将は昭和十八年三月十八日、第十八師団長補職の命令を受けた。この三月十八日は田中中将の五十歳の誕生日だった。十八年と十八日と十八師団、よし俺の運命はここだったのかと、田中中将は確信を固めた。

 田中中将はその後、第十八師団長として勇敢に戦い、ビルマ方面軍参謀長に就任。その後内地の軍司令官要員になり、内地へ飛行機で帰還中に墜落、重症でサイゴン陸軍病院入院中に終戦。戦後、昭和五十一年九月二十四日に死去した。八十三歳だった。

 「東条英機暗殺計画」(森川哲郎・徳間書店)によると、昭和十七年四月三十日の総選挙は「大東亜戦争完遂」のため、政府・軍部に全面的に協力する翼賛議会の確立を目的としていた。

 東條はドイツのナチス流の一国一党ばりに日本の議会を翼賛議員一色にするつもりだった。

 代議士・中野正剛(五十六歳)が率いる東方会に対しても誘いをかけたが、中野は「このようなことは憲法の本義に反する」と語気鋭く拒絶した。

 選挙が始まると翼賛議員の看板を掲げない候補者に対する陰険、卑劣な妨害や選挙干渉をおこなわれた。史上悪名高い明治二十五年、時の内相・品川弥二郎が行った選挙大干渉と並ぶものだった。

 特に東方会選出の候補者に対する弾圧は露骨だった。その結果は前代議士十二名を含む四十七名の全候補者のうち、当選したのはわずかに六名に過ぎなかった。

 これに対し翼賛議員は、衆議院の定員百六十六名と同数の候補者を立てた。政府は彼らにあらゆる援助を行った。

 当時、陸軍省兵務局長だった田中隆吉少将は、戦後になって「当時翼賛候補者に対しては一人当たり五千円を軍事機密費から支給した」と暴露している。

 「生きている右翼」(永松浅造・一ツ橋書店)によると、当時、選挙が終わり、議会が召集された日に、著者の永松浅造(政治記者)が、翼賛議員の控え室へ立ち寄っていると、そこへ中野正剛がびっこを引きながら入ってきた。

 中野が憲政会にいたとき仲の良かった議員が「中野君、君は欲がないね。推薦議員(翼賛議員)で出たら、東方会からも二、三十名は大丈夫だったかもしれないよ。今度の議会は戦争が続く限り、解散はないし。惜しいことをしたもんだ」と言った。

 すると中野は「わが輩は、東條の靴の紐を結ぶために代議士になったんじゃない」と、吐き出すように言って、さっさと出て行ったという。

 昭和十七年十一月十日、代議士・中野正剛は母校の早稲田大学大隈講堂で学生を前に「天下一人を以って興る」の演題で東條首相を批判する大演説を行った。

 中野正剛は福岡県福岡市出身で明治四十二年早稲田大学政治経済学科を卒業。緒方竹虎と出会い意気投合した。卒業後、東京日日新聞を経て朝日新聞に入社した。大正二年三宅雪嶺の娘多美子と結婚。

 朝日新聞を退職後、大正六年衆議院議員に立候補するも落選。だが大正九年の総選挙で当選、以後八回当選する。以後各政党を渡り歩いた。

 大正十五年、中野正剛はびっこだった左足の手術をした結果、医師が血管の処置を誤り、左足を大腿下部から切断という結果になった。以来中野の左足は義足となり、常に竹のステッキをついて歩くようになった。

 昭和十七年十二月二十一日、中野正剛は、今度は日比谷公会堂の壇上に立ち、延々四時間もの東條批判の大演説を行った。

189.東條英機陸軍大将(9)田中作戦部長は「馬鹿者ども!」と叫んで、東條陸軍大臣らを罵倒した

2009年11月06日 | 東條英機陸軍大将
 東條陸軍大臣は船舶増徴について「政府の考えは、先程次長に示した通り。それ以上の要求に応ずることはできない」と言った。

 田中作戦部長は「いや、政府とおっしゃるが、参謀本部はこの問題を政府と折衝しているのではありません。陸軍省と交渉しているのです。総理でない陸軍大臣としての東條閣下の良識に訴えているのです」と言った。

 すると東條陸軍大臣は「陸軍省も政府も意見は、同じである」と答えた。

 田中作戦部長は「そうはいきません。陸軍大臣としては、総理とは別個の軍政的立場がある筈です。第一、統帥部長を交えた連絡会議が、なぜ開かれなかったのです。その配慮は、陸軍省でやるのが恒例です」と言った。

 さらに「大体船舶の割り当ては、閣議だけでは決定できない、統帥部長を加えた連絡会議で、決定することに決まっているのです。それ程船舶問題が重視されているのです。然るに次長に申し渡した閣下の数字は、連絡会議にかかっていない。なぜこのような異例を強行されるのです」と続けて述べた。

 ところが、東條陸軍大臣は「参謀総長はよく承知している」と言った。

 田中作戦部長はこれを聞いて「なんだ、杉山元参謀総長(陸士一二・陸大二二)も譲歩していたのか。俺はそれならとんだ道化役を演じているのではないか」と思ったが、にわかに信じられなかった。

 そこで田中作戦部長は「それは違いましょう。お示しの船舶ではガ島作戦は遂行できないと総長も認めているのです。今夕もそのことで、総長の意見をきいてきたのです」と反論した。

 すると東條陸軍大臣は「船舶不足というが、これ以上出しては、政府としては、物資動員の保証ができなくなる。戦争指導全体が、破綻するかも知れん。自分は陸軍大臣として、ガ島は恢復の作戦に同意したにはしたが、船舶量にも制限を付けておいたはずだ。現在のように予定外に、多くの船が消耗しては、作戦上の要求だとて、到底賄いきれるものではない」と答えた。

 これに対し田中作戦部長は「なるほど船舶の消耗については申し訳はない。しかしなぜこんなに消耗したか、また、今後の見透しがどうなるか、などについては、既に陸軍省へは、詳細に説明しておいたのですから、よくご承知のことと思います。今の閣下のお言葉には納得できません。次官閣下からか、ご報告をお受けにならなかったのですか」と反論した。田中作戦部長はかなり激してきた。

 東條陸軍大臣は「いや、そんなことは知らん」と答えた。

 田中作戦部長は「それはおかしい。次官閣下には、その都度よく説明してあるのです。次官閣下そうじゃないですか」と木村次官に矛先を向けた。

 木村次官は沈黙を守った。その表情は無責任な太々しさだった。

 田中作戦部長は、「陸軍大臣はご承知無いという。それは兼摂大臣だから無理もないが、次官が全責任を負うか、そうでないにしても重大なことはよく大臣に報告しておいてくれなければ駄目じゃないか。それで戦時の陸軍省をあずかり陸軍次官ですか」と言いながら、こんなことでは戦争はとってもやっていけないぞ、という激情が奔騰してきた。

 ついに田中作戦部長は「馬鹿者ども!」と叫んで、東條陸軍大臣らを罵倒した。

 すると東條陸軍大臣は、「何をいいますか」と、スックと立ち上がって、「本職の部下に対して、彼是批判することは許さん」と低い声ながら、叱咤するように言った。

 田中作戦部長も立ち上がって、「批判は自由です」と、応酬した。売り言葉に買い言葉の様相だった。

 この時、「言葉がすぎるぞ」と、たしなめるように田中作戦部長と士官学校同期の富永人事局長が言った。

 木村次官も立ち上がり、「もっと冷静になれ」と平素に似合わぬ大声で叫んだ。

 田中作戦部長は答えた。「いや私は冷静です」。

 やがて三人とも、自然に着席した。だが、座は全く白けてしまった。

 田中作戦部長は、最後だと思い、もう一度最初の作戦、戦略の問題を取り上げて東條陸軍大臣に迫った。だが東條陸軍大臣は「いや再考の余地はない」と拒否した。

 田中作戦部長は「それなら再研究だけでも命じてください」と言った。東條陸軍大臣は「それ程に言うなら、再研究だけを命じよう」と答えた。

 田中作戦部長は先ほど来の無礼を詫びて、論争を打ち切った。「船はとれるぞ、だが俺の参謀本部勤めもこれで終わったな」と思いながら、参謀総長の官邸に車を走らせた。

 翌日の十二月七日早朝、参謀本部作戦部長室に、富永人事局長が田中作戦部長を訪ねてきた。

 富永人事局長は、東條陸軍大臣の意向を伝えに来たのだった。田中作戦部長と陸軍士官学校同期の富永人事局長は、腹を割って話し始めた。