陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

92.片倉衷陸軍少将(2) 関玉衡中佐は「やあ中村君じゃないか」と握手を求めて手を出した

2007年12月28日 | 片倉衷陸軍少将
 中村震太郎大尉は片倉大尉とは、士官学校、陸軍大学校が同期だった。昭和6年4月末に関東軍の片倉大尉のところに中村大尉から手紙が来た。

 その手紙には6月に興安嶺の調査に行くから準備を頼むと書いてあった。片倉大尉は手配をして準備をすすめた。

 6月に中村大尉は満州にやってきた。出発の前の晩に旅順の片倉大尉の家に泊まった。そこで服装を着替えた。

 翌日片倉大尉は中村大尉を汽車で大連まで送った。それから中村大尉はハルピンに出て、中国官憲から査証を受け取り、後に井杉延太郎予備曹長を従え、興安嶺東側を南下した。

 だが中村大尉、井杉予備曹長は6月27日に中国軍に捕まり、第三団長代理、関玉衡中佐に殺害された。

 この中村事件が起きて、世論が満州、内地で起きて、満蒙問題解決、軟弱外交糾弾の声が高まってきた。こうのような世論を背景に満州事変が勃発した。

 「橋本大佐の手記」(みすず書房)によると、中村震太郎事件は満州問題に油を注いだ不幸な事件である、と述べている。

 日中両国にとっても不幸だが本人にも責任があったようだ。

 中村大尉は蒙古語に達者な井杉延太郎予備曹長と蒙古人に変装して、内偵に出発した。

 6月27日、ちょうどに祭りがあって、二人は馬をつないで祭り見物をした。そのうち蒙古人が二人の立派な馬を見て騒ぎ出した。

 蒙古馬は小さくて貧弱なのに、二人の馬はあたりで見かけない立派であった。

 中村大尉らは日本の軍馬に乗って出かけたのだが、これが第一の失敗だった。そこで不審がって屯墾軍の兵士が二人を兵舎につれていった。

 そのとき調べに出てきたのが偶然にも中村大尉と陸軍士官学校同期の関玉衡中佐だった。

 関玉衡中佐は中村大尉を見てびっくりした。だが、同時になつかしがって関玉衡中佐は「やあ中村君じゃないか」と握手を求めて手を出した。

 ところが中村大尉は任務露見を気遣ったのか、関中佐の手を払い渋面をつくり横を向いた。これが第二の失策だった。

 それでも関はなつかしがってさらに手をさしのべると、何を思ったのか中村大尉は関中佐の腕を取って背負い投げに投げつけた。

 そこで関中佐は激怒して中村大尉と井杉予備曹長を部下に命じて殺害した。

 中村大尉は一身を犠牲にして任務の露見を防ぐ決心であったかもしれないが、素直に「やあ関君か」と手を握っておれば殺害されずにすんだであろう。

 関中佐は二人を殺して証拠隠滅をはかるため夜間ひそかに乗馬を殺して焼いた。

 ところがその炎が蒙古高原に高々とのぼえい、遠くからでも望見できて住民の不審を買い、日本人殺害を知った蒙古人が日本人に密告した。それで事件が発覚した。

91.片倉衷陸軍少将(1) 石原中佐が立ち上がって「何だ、この野郎!」と片倉大尉を殴打せんとした

2007年12月21日 | 片倉衷陸軍少将
 「片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧」(芙蓉書房)によると、昭和5年8月、片倉衷大尉は、歩兵第二十七連隊の中隊長より関東軍幕僚付に転補された。

 まだ参謀ではなく見習いだった。昭和6年9月18日に勃発した満州事変が勃発。昭和6年10月、片倉大尉は正式に参謀に補任された。

 当時、関東軍の高級参謀・板垣征四郎大佐と参謀・石原莞爾中佐が片倉大尉の上司だった。

 だが、片倉大尉は板垣大佐からは一度も叱られたことはなかった。片倉大尉の我侭もよく聞いてくれた。

 一方、石原中佐とは職務上のことで度々激論を交えていた。チチハルの問題で、石原中佐は片倉大尉の処置が気に入らず、怒って電話をかけてきた。

 片倉大尉は石原中佐の部屋にとんでゆき、反論を闘わせた。最後に石原中佐が立ち上がって「何だ、この野郎!」と片倉大尉を殴打せんとした。

 片倉大尉も石原中佐の胸を掴み、「それなら参謀長の前で決着をつけよう」ということになったが、作戦室にいた中野。武田両参謀が仲に割って入り、事なきを得た。

 

90.宇垣纏海軍中将(10) 好漢、纏も、多数部下の死跡を追うていさぎよく戦死をとげたり

2007年12月14日 | 宇垣纏海軍中将
 特に、「米海軍日誌」は戦争中に沈没したり損傷した米軍艦は細大漏らさず収録した米海軍の公式文献である。

 「八月十五日の空」(文春文庫)の著者秦郁彦氏が米海軍戦史部に問い合わせてみたところ、八月十五日、沖縄周辺で攻撃または被害を受けた米艦はいなかった。

 そうだとすると、宇垣特攻隊の八機はどこに消えてしまったのか。

 だが、アメリカの有名な年鑑であるワールド・アルマナック(World Almanac)の一九四六年版に1945年八月十五日の戦争日誌の項に

 「終戦の通報十二時間後に二機の特攻機が沖縄本島北方三〇マイルの伊平屋島に突入した」と書かれていた。

 一方、当時伊平屋島を占領していた米第二海兵師団第八戦闘団の記録には

 「日本機一機が伊平屋島に突入し爆発した。そして二機の日本特攻機が伊江島に突入した。施設に被害はなく二名が負傷した」とあった。

 昭和20年8月15日、伊平屋島には予備学生13期の飯井敏雄海軍少尉と学徒出身の特攻隊員篠崎孝則陸軍少尉がいた。

 飯井海軍少尉は撃墜され、篠崎陸軍少尉はエンジン不調で海上に不時着し、伊平屋島に泳ぎ着いていた。二人は名前を変えて島民に匿われていた。

 その篠崎氏の証言は次の通り。

 「八月十五日、わたしは野良仕事を終えて止宿先の井戸で水を浴びていた。薄暗くなった空を聞きなれぬ飛行機の爆音が聞こえたと思うと前泊の米軍キャンプの方向に爆発音が聞こえ火柱が立った。つづいてもう一本、すぐに特攻機の突入と直感した。港には数隻の輸送船がいたし、キャンプでは灯をつけて米兵たちが終戦を祝って西部劇さながらの大騒ぎをしていた。その騒ぎも突入と同時にぴたりと静まった。翌日前泊キャンプに労役に出た人が何人かやってきて状況を伝えた。遺体が二つあり、一人は飛行帽に飛行服だったが、もう一人は予科練の七つボタンのような服を着てパイロットには見えなかったと聞いた」

 飯井氏の証言は次の通り。

 「その日は爆発の轟音を聞いただけだったが、翌日潮の引いたサンゴ礁にぶつかってバラバラになった特攻機の尾翼を見た。わたしは元来は彗星のパイロットです。だから機体が彗星だということはすぐ分かった。尾翼に七〇一の数字も見えた。ああ鹿屋の部隊だなと思った。二、三人の米兵が飛行服も着て靴も着けたパイロットを引きずっていたが、どうして遺体が原形を保っているのか不思議に思った」

 この二機に宇垣中将自身が含まれていたことを立証するには、三人乗りで、一人だけ飛行服でなく、第三種軍装を着用していたことが決め手になる。今のところ、この二条件を確認した目撃者がいないので、これ以上は憶測に任せるほかはない。

 「最後の特攻機」(中公文庫)によると、意外に冷静に敗戦の日を迎えた宇垣一成大将は、8月19日の日記の中で、同族の一員として、宇垣纏の戦死を言葉少なに悼んでいる。

 「国民の大多数は意気消沈、一部には興奮の人もあり、いずれともに平静を欠きあるが現状なり。自刃、焼き討ち、殺傷、籠山、猪突等を各所に見る。好漢、纏も、多数部下の死跡を追うていさぎよく戦死をとげたり。壮なりというべきや」

 纏の兄ともいうべき宇垣莞爾海軍中将は、纏戦死の最後をしのび、海軍軍人としてよき死に場所を得たものと思うと語るのみで、あとは沈黙を守っていたという。

(今回で宇垣纏海軍中将は終わりです。次回からは「片倉衷陸軍少将」が始まります)

89.宇垣纏海軍中将(9) 右手に山本元帥から贈られた短剣を握っていた

2007年12月07日 | 宇垣纏海軍中将
 宇垣隊戦死者の処遇の差はなぜ生じたのか。8月15日の正午に天皇の終戦の玉音放送があった。

  しかし法的には軍の行動を律するのは大本営命令、停戦を命じる大海令四八号が示達されたのは16日午後4時だった。それまでは日米両軍は戦闘状態にあったわけで大命違反、抗命行為とは談じられない。

 だが、14日の夕方、大本営海軍部は小沢海軍総隊兼連合艦隊司令長官に「何分の令あるまで対米英蘇支積極作戦は之を見合はすべし」(大海令四七号)という命令を発している。

 総隊はこれを受けて、夜半に宇垣第五航空艦隊長官に「対ソ、対沖縄積極攻撃を中止セヨ」と命じているから、沖縄突入は宇垣長官の抗命的行動と解釈できる。

 では宇垣長官の沖縄特攻の経過はどのようなものであったのか。「八月十五日の空」(文春文庫)によると、昭和20年8月15日正午、終戦の玉音放送が行われた。

 第五航空艦隊司令部は鹿屋から大分に後退していた。先任参謀、宮崎隆大佐が幕僚室に入っていくと当直の田中武克参謀が当惑しきっていた。

 さきほど宇垣長官に呼ばれ艦爆隊を直率して沖縄へ出撃するから彗星五機を用意するように言われたというのであった。

中央部の方針は正午の玉音放送で終戦が確定する形勢と思われた。なんとしても思いとどまっていただくなくてはならぬ。宮崎大佐は長官室に入っていった。

 宮崎大佐が長官室に入ると宇垣長官は端然と椅子に腰を下ろしていた。前夜から一睡もせず、その姿勢でいたと思われた。

 「長官、当直参謀に命じられたのはどういう意味ですか」と聞くと

 「それは君わかっているじゃないか」

 「はあ」

 「長官が乗って攻撃に行くから、それを命じたまえ」

 「ご決心は良く分かりますが、御再考ねがえないでしょうか」

 「ともかく命令を起案したまえ」

 柔和だがテコでも動かない長官のシンにふれた気がした。こうして宇垣長官の沖縄特攻の正式命令が起案され、発せられた。

 午後四時半、宇垣長官は三台の車をつらねて大分基地の飛行場へ向かった。宇垣長官は双眼鏡を首にかけ、薄緑色の第三種軍装と戦闘帽を着用し、右手に山本元帥から贈られた短剣を握っていた。

 すでに海軍中将の階級章は、副官の川原利寿参謀の手で切り取られていた。

 飛行場には十一機の彗星四三型が並び、飛行帽のうえに日の丸の鉢巻をきりりと締めた二十二名の搭乗員が整列していた。

 宇垣長官が「命令では五機のはずだが」と言いかけると、先頭の分隊長、中津留達雄大尉が

 「長官が特攻をかけられるというのに、たった五機とは何事でありますか。私の隊は全機でお伴します」ときっぱりと言った。

 「そうかみんな俺と一緒に行ってくれるか」「は~い」二十二人の隊員の右手がいっせいに上がった。

 こうして十一機の彗星は午後五時から五時半にかけて、800キロ爆弾を抱いて一機づつ次々に飛び上がっていった。  

 宇垣長官が乗り込んだ中津留大尉機には、偵察員の遠藤秋章飛曹長もどうしても行くと頑張り、結局三人が乗り込んでいた。

 午後八時二十五分、指揮官機の宇垣長官機から「我奇襲に成功せり」続いて突入電入電、次々に突入電が第五航空艦隊司令部に入ってきた。

  「我奇襲に成功せり」は「トラトラトラ」で、宇垣長官は真珠湾攻撃と同じ暗号電報を発した。突入電というのは偵察員は敵艦船に突入するため急降下に入った時点から無線機のキーを押しっぱなしにする。激突した時点で発信音は途切れる。

 結局十一機のうち、八機が突入し、三機が引き返して不時着した。

 ところが、「米海軍日誌」「S・E・モリソンの「第二次大戦米海軍作戦史」のいずれにも、宇垣特攻隊の戦果は記されていない。