陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

440.乃木希典陸軍大将(20)それというのも、畢竟は、桂のような奴が増長しているからじゃ

2014年08月29日 | 乃木希典陸軍大将
 大森書記は「どういたしまして、まことに不行き届きで、恐れ入ります。実は閣下を御泊め申すような相当な旅館がありませんので、恐れ入った次第では御座いますが、気賀半十郎と申しますものの家で、ご辛抱を願いたいのであります」と答えた。

 乃木少将は、「それは、御手数であった」と言った。

 すると書記は「それが、旅館では御座いませんので、充分にお世話申し上げる事も、なりますまいが、とにかく、屈指の富豪で御座いまして、財産の上では、かなりの家で御座います。同家に依頼しましたら、半十郎も大喜びで、外ならぬ閣下の御泊りを願える事は、家の名誉である、と申しまして座敷の掃除をするなど、大騒ぎをやっている位で、安心致しまして、早速、その旨を申し上げに参りましたので御座います」と言った。

 乃木少将は「ははア、旅館ではないのか」と言った。大森書記が「ハイ、土地の富豪で、財産の点においては、とにかく、気賀の……」と言いかけた。

 すると、乃木将軍は「まア、ちょっと、待ってくれ」と、今度は石田副官の顔を見て、「わしは、悪い事をした。気賀という所には古い知人の居ることを忘れていた。今、書記さんの話でようやく思い出したから、今度は、その知人の家へ泊まることにしよう」と言った。

 石田副官は「そうなさいますか」と乃木少将に聞いた。乃木少将が「うむ、そうする」と答えたので、石田副官は「君が聞いていた通りだから、せっかくのご尽力であったが、その方はお断りしたい」と大森書記に言った。

 大森書記は「へへー」と、なんだか変な様子なので、気抜けした人のようになってポカンとしていた。乃木少将は「いずれ、明日着いてから、その人へは、わしから挨拶することにしよう。郡長さんへよろしく言ってくれ」と言った。大森書記はほうほうのていで帰って行った。

 乃木少将は「石田、今の話を、何と聞いた。わしは金を借りに行くのじゃない。財産家がどうしたというのか。実に怪しからぬ事を、聞かせる。自分の泊まる家を、人に捜させるようなことをすると、こういう恥を与えられるのじゃ」と言った。

 書記が何回も財産家ということを繰り返していたので、乃木少将は不快に感じたのだった。そして次のように言った。

 「近頃は、地方の財産家に泊まることを無上の名誉の如く、心得ている不都合の者が大分増えてきたそうじゃ。それというのも、畢竟は、桂のような奴が増長しているからじゃ」。畢竟(ひっきょう)は、「つまるところ、結局」の意味で、桂は、当時の名古屋の第三師団長・桂太郎中将のことである。

 翌朝、石田副官は「奥山の半僧坊にお泊りになってはいかがでしょう。気賀よりは、さらに奥へ三、四里ありますが、俥(人力車)は通じますから」と乃木少将に言った。

 乃木少将は「奥山の半僧坊といえば、全国へ響いている。わしは、元来が、寺院が好きなのじゃから、それへ泊まれるようになれば、この上もないことじゃ」と了承した。

 そのあと、乃木少将は「しかし、先方へ使いを出すときに、信者並みの取り扱いで頼む、ということを、はっきり申し込んでおいてくれ」と石田副官に言った。石田副官は「ハイ、然るべく念を入れておきます」と答えた。

 乃木少将、石田副官の両人は俥で気賀(現在の浜松市北区)に入った。船着場のある気賀の町は相当に繁盛していて、周辺では屈指の町だった。郡役所で用務を果たした後、気賀半十郎の家には石田副官が出かけて、丁寧に挨拶をした。

 郡長が道案内をする、というのを、固く断って、両人は半僧坊へ向った。山門前で、俥を降りた両人は、急勾配の坂道を登り、宿坊の大玄関に着いた。乃木少将が楽しみにしていた住職は旅行に出て不在だった。

 番僧が二、三人玄関で乃木少将を迎えて、声をかけ挨拶した。乃木少将は丁寧に敬礼して、「かねて申し入れておいた通り、今晩はお世話になります」と言いながら、番僧の容子をじっと見つめた。

 住職がいないということに乃木少将は失望していた。大広間に入ると、金屏風を立てまわして、毛氈を敷いて、大きな座布団が二枚並べてあった。乃木少将たちを迎えるための特別な支度だということが分かった。

 乃木少将は「石田ッ、少し様子が変だぞ」と言った。石田副官が「左様ですか」と答えると、乃木少将は「君は何と言うて申し込んだのじゃ」と聞いた。

 石田副官が「閣下の仰せの通り信者並みにしてくれ、と申しておきました」と答えると、乃木少将は「しかし、これは信者並みではないぞ」と言い、「困った事を、やる人達じゃ」とつぶやいた。

 両人が立っているのを見て、番僧たちは、変な顔をしながら、「さあ、どうぞ、これへ」と座布団を指差した。

439.乃木希典陸軍大将(19)自分の泊まる家を他人に捜してもらうなぞ、わしは大嫌いじゃ

2014年08月22日 | 乃木希典陸軍大将
 明治十八年五月、乃木(三十七歳)と桂(三十八歳)は同時に陸軍少将に昇進しているが、昇進後、乃木は旅団長、ドイツ留学、その後再び旅団長だが、桂は陸軍省総務局長、陸軍次官、第三師団長と栄進している。

 中将昇進は、乃木は明治二十八年四月で、四十七歳のとき、桂は明治二十三年六月で、四十三歳で、乃木より五年も早く中将になっている。

 前述したが、明治二十四年六月、桂太郎中将は名古屋の第三師団長となり、名古屋の第五旅団長・乃木希典少将を配下に置き指揮する立場になった。

 「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、乃木少将は桂中将が大嫌いで、桂中将も乃木少将を煙たがっていた。

 同じ長州人でも、その気質によって交情の良いものもあれば、悪いものもある。乃木少将は生一本に昔の武士道をそのまま襲う(受け継いで)てきた。だが、桂中将は時代の推移りに従って、上手に潜ってきた。

 明治陸軍の頂点は山縣有朋であるが、乃木少将は山縣に睨まれるほどではないが、あまり好かれてはいなかった。

 だが、桂中将は利口な人で、何事も山縣の気に合うように持ち掛けるので、山縣にいつも可愛がられていた。だから昇進も早かった。

 このように、桂中将と乃木少将は、立場も性格も信条も異なっていた。だから名古屋の師団長と旅団長は折り合いが悪かった。

 例えば、乃木少将が、名古屋城の天守閣の窓に、師団長の許可を得ずにガラス障子を入れたというような、些細な事で、乃木旅団長は桂師団長から譴責処分を受けた。

 ある日、徴兵管区の巡視を行うことになり、第五旅団長・乃木希典少将は石田清副官を伴って、浜松方面へ出かけた。乃木少将と石田副官は駅前の大米屋支店に来て、それから郡役所へ出かけた。

 徴兵の事務はすぐに終わり、大米屋支店へ帰って休息することにした。翌日は気賀(けが)へ行く予定だった。乃木少将は石田副官を相手に食事を済ませた。

 大米屋は、万事の設備が行き届いていて、評判の旅館だった。二階に庭があるというので、当時の人はそれだけでも、ひどく感心して、道中の人々は、この宿に泊まることを楽しみにしていた。乃木少将も今夜はこの宿に泊まった。

 さて、石田副官は、「明日の気賀は、評判の土地ですが、好い旅館がないので、郡長が非常に心配しまして、相当の家を見立てるつもりですが、充分には行き届かないので、予めお含み願いたいと申しておりますが、万事、郡長に一任しておきました」と述べた。

 乃木少将はこれを聞いて、「なぜ、そのようなことをする。泊まる家なぞ、どうでもよいじゃないか。いよいよ無いとなったら、毛布を被って草原へ寝ても、それまでの事じゃ。自分の泊まる家を他人に捜してもらうなぞ、わしは大嫌いじゃ」と、はなはだ不機嫌だった。

 石田副官は困って、「深い考えもなく、郡長に任せましたのは、小官が無念でございました。今度は注意いたしますから、この度だけは、お許し願います」と答えた。

 乃木少将は「頼んだ事は、もう取り返しがつかぬけれど、郡長なぞは、忙しい職務で、軍人の泊まる家を捜し回る暇はないはずじゃ。それを引き受けるのは、先方の礼儀で、我々へ好意を尽くしてくれるのであるから、すぐ辞退すべきものである。今頃は、そんなことで駆け歩いているのじゃろうが、まことに気の毒なものじゃ」と言った。

 しばらくすると、旅館の番頭がやって来て、「郡役所の書記で、大森と申すものが、お目にかかりたいと、控えておりますが、こちらへお通ししてもよろしゅうございますか」と言った。

 乃木少将は「それ見なさい。郡長だけでなく、書記までが夜中にかけ歩いて来る。気の毒な事じゃ」と言った。

 石田副官が、「書記には私が会ってまいりますから」と言うと、乃木少将は「イヤ、わしが会うことにする」と言った。

 案内されて乃木少将の前へ出ると、大森書記はもじもじしていて、容易に口が利けなかったので、「わしが、乃木じゃ」と乃木少将は言った。

 「へー」と大森書記は答えた。乃木少将は「いろいろと厄介をかけて相すまぬ。こういうことを頼むはずではなかったのじゃが、さぞ御迷惑であったろう」と言った。

438.乃木希典陸軍大将(18)乃木少将と桂中将は同じ長州出身でありながら犬猿の仲だった

2014年08月15日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木希典はドイツ留学後、論文を当時の陸軍大臣・大山巌中将に提出している。論文の一部によれば、ドイツ陸軍軍人にあっては、軍人はその制服の名誉を重んじ、常に制服を着用することによって、その挙措動作や礼節も軍紀から逸脱することがない。すべて制服着用が根源になっている、という。

 乃木少将はドイツ留学以後、日常軍服を着用し、帰宅しても脱がず、寝るときも、(乃木式といわれ、死に至るまで人を驚愕せしめたことだが)寝巻きを用いず、軍服のままで寝た。

 明治二十二年三月、一緒にドイツに行った川上少将操六少将が参謀次長になり、乃木希典少将は近衛歩兵第二旅団長になった。

 その後、明治二十三年七月乃木少将は名古屋の歩兵第五旅団長に転出された。この転任は常識的に見て左遷だった。

 ドイツ留学前の乃木少将は酒飲みで付き合いのいい、話せる男だった。だが帰国後性格が一変して、極めて話せない男になった。さらに、上司にもお上手が言えず、政治的には全く腕がなかったのだ。

 当時の陸軍大臣は大山巌(おおやま・いわお)大将(薩摩=鹿児島・戊辰戦争・鳥羽伏見の戦い・会津戦争・薩摩藩二番砲兵隊長・ジュネーヴ留学・陸軍卿・西南戦争で親戚筋の西郷隆盛と戦う・陸軍大将・陸軍大臣・日清戦争では第二軍司令官・元帥・日露戦争では満州軍総司令官・陸軍大臣・内大臣・死去・従一位・大勲位・功一級・公爵)だった。

 また、陸軍次官は桂太郎(かつらたろう)中将(長州=山口・戊辰戦争・第二大隊司令・ドイツ留学・陸軍大尉・ドイツ駐在武官・日清戦争に第三師団長として出征・台湾総督・陸軍大臣・総理大臣・日露戦争・総理大臣(第二次組閣)・総理大臣(第三次組閣)・死去・従一位・大勲位菊花章頸飾・功三級・公爵)だった。

 乃木少将が名古屋の第五旅団長に就任したときの上官である第三師団長は、黒川通軌(くろかわ・みちのり)中将(伊予小松藩=愛媛・陸軍省六等出仕・陸軍裁判所長・軍馬局長・西南戦争に別働第四旅団長代理として出征・陸軍少将・広島鎮台司令官・中部監軍部長・中将・第三師団長・第四師団長・東宮武官長・予備役・男爵)だった。

 明治二十四年六月一日、黒川通軌師団長が第四師団長に転出し、陸軍次官の桂太郎中将が第三師団長に就任し、乃木第五旅団長の上司となった。

 乃木少将と桂中将は同じ長州出身でありながら犬猿の仲だった。乃木少将は桂中将が大嫌いで、とにかく折り合いが悪かった。年齢は桂中将が一歳年上だった。

 桂中将は弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれで、長州藩士・桂興一右衛門の長男。桂家は一二五石の上士で、いわば上級武士だった。母の実家も一八〇石で、裕福だった。
 
 一方、乃木少将は嘉永二年十一月十一日(一八四九年十二月二十五日)生まれで、父の長州藩士・乃木希次の三男。乃木家は八〇石だった。

 ちなみに、高杉晋作の実家は長州藩士の名門で二〇〇石だった。吉田松陰の父・杉百合之助は石高二六石の下級の長州藩士、叔父・玉木文之進は四〇石取りの代官だった。伊藤博文の父は周防国束荷村(現・光市)の百姓だった。大村益次郎の父は医師。そして、明治陸軍を牛耳った山縣有朋の父は足軽以下の中間だった。

 桂太郎の第三師団長までの軍歴を見ると、明治三年(二十三歳)八月ドイツ留学。明治七年(二十七歳)六月陸軍歩兵大尉。明治八年(二十八歳)三月ドイツ駐在武官(少佐)。明治十二年(三十二歳)参謀本部管西局長(中佐)。明治十五年(三十五歳)大佐。明治十七年(三十七歳)参謀本部部員。明治十八年(三十八歳)五月少将、陸軍省総務局長。明治十九年(三十九歳)三月陸軍次官、明治二十三年(四十三歳)六月中将。明治二十四年(四十四歳)六月第三師団長となっている。

 乃木希典の第五旅団長までの軍歴は、明治四年(二十三歳)十一月陸軍少佐。明治八年(二十七歳)十二月熊本鎮台歩兵第一四連隊長心得(小倉)。明治十年(二十九歳)西南戦争出征、四月陸軍中佐。明治十一年(三十歳)一月歩兵第一連隊長。明治十三年(三十二歳)四月歩兵大佐。明治十六年(三十五歳)二月東京鎮台参謀長。明治十八年(三十七歳)五月陸軍少将、歩兵第一一旅団長(熊本)。明治十九年(三十八歳)十一月ドイツ留学。明治二十二年(四十一歳)近衛歩兵第二旅団長。明治二十三年(四十二歳)七月歩兵第五旅団長。

 乃木は明治四年に少佐、明治十年に中佐になっているが、桂は明治七年に大尉、明治八年に少佐、明治十二年に中佐になっている。その後、乃木は明治十三年に大佐。桂は明治十五年に大佐になっている。

437.乃木希典陸軍大将(17)乃木少将の性行、容儀、嗜好、日常習慣といったものを全て一変させた

2014年08月08日 | 乃木希典陸軍大将
 「川上さんは愛嬌がいい。我々に分け隔てをせぬ」と褒める者がると、一方には「乃木さんの無愛嬌はどうだ、いつも苦虫を潰したような顔をして傲慢らしく構えてばかりいる」と貶す者がある。船中の日本人の間では、両少将の毀誉褒貶(きよほうへん=ほめたり、悪口をいったりすること)で持ちきった。

 汽船はシンガポールに入港し、次の寄港地、錫蘭(セイロン)目指して出港した。この汽船には体格の大きなドイツ人が二人いた。二人は長く日本にいて日本語も巧かった。

 この二人のドイツ人は日本の青年士官や書生に向って「どうだ、日本相撲を取らぬか。いつでも相手になるぞ」と、毎日のようにからかいに来た。

 この体格の大きなドイツ人に勝てる見込みはないので、恥をかいてはいけないと、誰一人相手になろうとする者がいなかった。

 二人のドイツ人は、それをよいことにして「あなた方、相撲取るよろしい、私負けません」と、無理やり引っ張り出そうとするので、日本の青年連中は閉口していた。

 こんなことが五日間続いた。その六日目に、乃木少将が聞きかねて、伊地知通訳を呼んで「ドイツ人はうるさくていけない。私が取るから、そう言って来い。若い連中がいながら、何故相手にならんのか」と言って、ドイツ人のところへ通訳を行かせた。

 伊地知通訳からこの事を聞いたドイツ人二人は大得意で、「日本人相撲弱い。私勝ちます」と、真っ先に甲板に踊り出た。

 乃木少将はシャツ一枚になって現れた。乗客から船員までことごとく甲板上に集まって、この面白い晴れの勝負を見物した。

 乃木少将は中肉で少しやせていた。それに比べて、ドイツ人は山のような大男だったので、日本人は皆手に汗を握った。「乃木さんつまらん事を言い出して、恥をおかきなさるような事はあるまいか」と危ぶみ思った。

 ドイツ人は傲然として、「さあ来い」と言わぬばかりに立ち上がった。乃木少将もそれに応じて立ち上がった。しばらく揉みあううちに、乃木少将はドイツ人を否というほど投げつけた。日本人は言うに及ばず、外国人までがヤンヤと拍手した。

 もう一人のドイツ人もシャツ一枚で飛びかかった。乃木少将はこれも見事に投げつけた。山のような大男も鉄を圧することはできなかった。身体は小さくても乃木少将は鉄だった。満身皆膽(きも=気力)だった。

 それ以後、乃木少将は船中の花形になった。日本人と聞いて軽蔑していた外国人まで急に敬意を払うようになった。横柄だの無愛想だのと陰口を言っていた者まで国威を輝かすのは乃木少将に限ると言って、畏服した。

 「乃木希典」(松下芳男・吉川弘文館)によると、ドイツに到着した、乃木少将、川上少将の二人は、軍事の研究に没頭し、ドイツの兵制と兵学の吸収に努めた。

 在ドイツ一年半、乃木少将は明治二十一年六月十五日に帰国した。四十歳だった。帰国後、乃木少将は心機一転、生まれ変わったような厳格な人間、それは後に乃木将軍として世間に知られているような謹厳にして、一事も疎かにしないといった厳格な人間、精神家に大きく傾斜した。

 乃木少将の性行、容儀、嗜好、日常習慣、といったものを全て一変させた。倫理性が一変したのだ。乃木少将は別人になって帰国したといっていい。

 この心機一転の心境について、推察すると、乃木は今までひたすら死所を求めていたが、すでに死所を失った今日、陸軍のために尽くすことが、君国に報いる道であると考え直したからであろう。

 後に、乃木希典将軍殉死後、同じ長州軍閥の田中義一陸軍大将は、昭和三年四月九日付の東京朝日新聞に、このドイツ留学後の乃木将軍の変わり方について次のように述べている。

 「乃木将軍は若い時代は陸軍きってのハイカラであった。着物でも紬の揃いで、角帯を締め、ゾロリとした風で、あれでも軍人か、と言われたものだ。ところが独逸留学から帰ってきた将軍は、友人が心配したとは反対に恐ろしく蛮カラになって、着物も愛玩の煙草入れも、みな人にくれてしまって、内でも外でも軍服を押し通すという変わり方である。それがあまりひどいのでその理由をきくと、「感ずるところあり」と言うのみでどうしても言わなかった。いまも知人仲間の謎になっている」。

436.乃木希典陸軍大将(16)客の青年士官たちは呆れて顔を見合わせるばかりだった

2014年08月01日 | 乃木希典陸軍大将
 それが若い乱暴な士官には喜ばれるはずはなかった。「今度の旅団長はケチケチ言っていけない」「なんだか横柄な面構えをしている」「あんな長官を戴いていちゃ幅が利かない」「一度困らしてやろうじゃないか」などなど、相談している向きもあった。

 そのような事を聞いた乃木将軍は大いに考えた。赴任後三か月たったある日、乃木少将は部下の大隊長、中隊長、小隊長等を招いて披露宴を開いた。

 それを聞いた青年士官等は「どうせ乃木さんの御馳走だ、美味い物のありそうなはずはない。例の塩鰯かなんかで冷酒を飲ますのだろう。今日こそウンと困らせてやろう」と申し合わせて出かけた。

 青年士官たちが乃木宅へ押しかけ、座敷に通されると、一間に長い大テーブルが一脚あって、その上に一升徳利が四、五本置いてあるだけだった。座布団さえもなかった。

 御馳走は何も無くて、人数だけの盃が載せてあった。招かれた青年士官たちは「さてこそ」と言わぬばかりにテーブルを囲んで座った。

 しばらくすると、乃木少将が軍服のまま出て来て、「今日は無礼講じゃ。大いに飲もう」と真面目に言って、テーブルの上にのし上った。その弾みに、佩剣がガチャリと鳴った。

 「ああ、酌をしよう」と徳利を取り上げて、乃木少将はテーブルの上から酌をした。さすがの青年士官たちも呆気に取られて、引き受けては飲み、また引き受けては飲んだ。

 乃木少将はテーブルの上を斡旋して、自分も満を引き(満杯の酒を飲み)、しまいには吟声や剣舞もやった。客の青年士官たちは呆れて顔を見合わせるばかりだった。

 しばらくすると、乃木少将はテーブルを降りた。「どうもこれでは面白くない。別間で飲み直そう。諸君こちらへおいでなさい」と前に立って襖を開けた。

 すると、次の間には、山海の珍味も山の如く積まれていた。「どうも今までは失礼した。これからくつろいで十分にやってくれたまえ」と、座布団の上へ招いて、ニコニコ笑いながら酌をした。

 招かれた青年士官たちは初めて乃木少将の意を知った。「今日こそウンと困らせてやろう」と相談した当てが外れ、「どうも狡いことをするよ」くらいで黙ってしまった。

 これを手始めにして、乃木少将は今までのやり方をすっかり変えてしまった。夜更けに連隊長や大中隊長の宅を叩いて、「おい飲ませろ」と促して歩いたり、中には自宅へ如何わしい女などを引き入れる者もいたが、何時旅団長が来るかも知れないと、謹慎するようになった。

 明治十九年十一月三十日、乃木少将は欧州派遣、ドイツ留学を命ぜられた。当時陸軍省は多くの外国人教師を雇っていたが、これら外国人には立派な邸宅を与えねばならず、高価な給料に加え相当な手当を要する場合が多かった。

 それで、いっそ外国人教師を解雇し、その費用で有為の将校を外国へ留学させることになった。文部省も賛成した。

 その最初の派遣生に、乃木少将と川上操六(かわかみ・そうろく)少将(鹿児島・鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争・陸軍中尉・近衛歩兵第三大隊長・参謀・少佐・西南戦争に歩兵第二連隊長心得で出征・中佐・歩兵第一三連隊長・歩兵第八連隊長・大佐・近衛歩兵第一連隊長・欧米視察・少将・参謀本部次長・近衛歩兵第二旅団長・ドイツ留学・参謀次長・中将・参謀本部次長・陸軍上席参謀兼兵站総監・日清戦争・征清総督府参謀長・参謀総長・大将・死去・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級・子爵)が選ばれた。

 欧州への汽船には乃木少将、川上少将、通訳の大尉、主計官ら軍人以外にも官僚や、民間会社の重役、学者、若い通訳や医学生など種種雑多の人々が乗船しており、船中は大賑わいだった。

 川上少将は如才のない交際上手で、その上磊落な気性だったので、士官や書生が船に酔って船室の片隅でウンウンと唸っている側へ行って、「どうだ、苦しいか、苦しくても食事をしなければいけない。軟らかいものでも食って元気を付けろ」と親切にする。

 ところが、乃木少将はちっとも情けらしい言葉はかけなかった。はた目には、傲慢そうに見える身体を船室に横たえて「これくらいの暴風雨が何だ。こんな波に負けて食事のできないような者が、いざ国家の大事となった時何の役に立つ。良い修業だ、苦しめ、苦しめ、船酔いで死ぬ者は決してない」と豪語する。どんなに苦しむ者がいても、慰問らしいことは言わなかった。

 そのために、川上少将は船中の人望が大変よかったが、乃木少将はひどく評判が悪かった。「川上さんは親切だね」と言う者があると、次には「乃木さんは不親切極まる」と小言を言った。