陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

657.山本権兵衛海軍大将(37)山本海軍大臣は副官に命じ、白石大尉の階級章を剥ぎ取らせた

2018年10月26日 | 山本権兵衛海軍大将
 この白石大尉の処遇については、当時の海軍大臣・山本権兵衛中将の計らいがあった。白石大尉事件の報告を受けた山本権兵衛海軍大臣は、次の様に考えた。

 「白石大尉は砲台占領の功名を挙げた勇士だが、部下の兵員を殴打し、死に至らしめた罪で、官位はく奪の刑に処せられることはまぬかれない」

 「しかし、彼は自己の利益や欲望の為でなく、兵が命令の履行を行ったのを見て、任務を全うしようとする責任感から懲らそうと殴打したので、殺す意思があったわけではなく、公憤の極み、過ちに陥ったのだ」

 「国家がかかる人物をそのまま埋没させるのは忍び難いが、法に触れた点は勿論法によって断じなければならない。この上はただ、大権のご発動に待つよりほかに道はない」。

 閣議に出席した山本海軍大臣は、事件の経緯を説明し、陛下にご慈悲をお願いしたいと述べ、山縣有朋首相以下各閣僚の同意を求めた。異議を唱える者はいなかった。

 山本海軍大臣の説明と特赦の請願に対して、明治天皇は白石大尉の官位を旧に復することを許可した。

 白石大尉は海軍省に召還された。「法により、君の官位は、はく奪されなければならない」と宣告し、山本海軍大臣は副官に命じ、白石大尉の階級章を剥ぎ取らせた。

 白石大尉は観念したように瞑目していた。

 次に山本海軍大臣は、厳粛に、「優渥な聖恩により、特赦の上、官位を旧のごとく復する」と、白石大尉に告げた。

 山本海軍大臣を直視していた白石大尉の両眼にみるみる涙が溢れ、流れた。山本海軍大臣は、諭すように、次の様に白石大尉に言った。

 「かかるためしは実に初めてのことで、我ら一同も感激を禁ずることができない。これは君の勲功によるものだが、かようなご沙汰を拝しては、いよいよ忠勤を擢んでなければならないと感ずる次第である」

 「大尉もよくこの意を諒とし、その身は真に君国に捧げ、将来の報効(恩に報いて力を尽くす)を祈念し、自己のものという観念を離れて、職に尽くすよう望みたい」。

 白石葭江大尉は感極まったように泣きながら、傾聴していた。

 明治三十七年二月、日露戦争開戦。旅順港閉塞作戦が行われた。二月十八日から第一次閉塞作戦が開始された。

 三月二十七日には第二次閉塞作戦が決行され、閉塞戦「福井丸」指揮官の広瀬武夫少佐らが戦死した。

 第三次閉塞作戦は、五月二日夜に、閉塞船十二隻を以て開始された。天候不順で作戦は中止されたが、命令が伝達せず、閉塞船八隻が旅順港口に突入した。

 だが、八隻の閉塞船は、ロシア軍の沿岸砲台によって攻撃を受けたので、湾の手前で沈められた。その際に多数の戦死者を出した。

 この八隻の一隻「佐倉丸」の指揮官が白石葭江大尉だった。「佐倉丸」を自沈させた後、白石大尉は、部下とともに、小舟を漕いで上陸、ロシア軍の砲台に切り込みをかけた。

 このロシア軍との交戦で、白石大尉は重傷を負い、捕虜となったが、旅順陥落前に戦病死した。白石大尉は戦死とされ、少佐に特別進級した。

 白石大尉は閉塞作戦に出撃する前に、同僚の士官に次の様に語っていた。

 「俺は船を爆沈したら、一人で端舟に乗ってロシアの砲台に斬り込み、武運があればこれを占領する」。

 後に、旅順の白玉山麓のロシア人墓地で、白石少佐の遺体が発見された。白石少佐の遺体は、七、八発の弾丸に貫かれていたという。

 話は元に戻り、明治三十三年七月十六日、義和団が蜂起して、排外戦争を開始した。西太后がこの反乱を支持したので、六月二十一日、清国は欧米列国に宣戦布告して北清事変が勃発した。

 当時、福建省の玄関都市、厦門(アモイ・台湾に最も近い都市)には、日本の防護巡洋艦「和泉」(二九八七トン)と、「高千穂」(三六五〇トン)の二隻が派遣されていて、領事館と在留邦人の保護に当たっていた。

 日本を含む八か国の連合軍が北京を占領した八月十四日、山本権兵衛海軍大臣は、防護巡洋艦「和泉」、「高千穂」あてに、次のような内容の内訓を電報した。

 「我が領事館及び在留邦人の保護を目的として、機宜事に従うこと。艦は厦門砲台の射線を避けて碇泊すること。厦門砲台を占領する場合を想定し、どのように実行すべきか、適切な手段方法を調査研究しておくこと。成案ができたら、海軍大臣に報告すること」。

 慣例により、山本海軍大臣は、この内訓を桂太郎陸軍大臣に知らせた。









656.山本権兵衛海軍大将(36)白石大尉は「一番乗りはこっちだ!」と叫び、そのイギリス士官を首投げで投げ飛ばした

2018年10月19日 | 山本権兵衛海軍大将
 明治三十三年四月、義和団の乱が起きた。清国を食い荒らす、ドイツ、ロシア、イギリス、フランスなど諸外国の非道と、清国政府の無力に憤激した清国人達が、「興清滅洋」を唱える義和団を先頭に立て、北京南西約一八〇キロの保定で、排外運動を勃発させた。

 彼らは、外国人とキリスト教徒を殺害し、教会、駅舎、商社などを焼き払った。保定以外の各地でも義和団が蜂起し、やがて各集団は北京に進撃を開始した。

 この状況から、六月二十一日、遂に清国政府は、各国に対して宣戦を布告した。

 だが、イギリス、ドイツ、アメリカ、イタリア、ロシア、オーストリア、日本の八か国連合軍が、清国軍と義和団を破り、八月十四日、北京を占領した。

 清国政府は、慶親王と李鴻章を全権大臣として、連合八か国と和議を進めるほかに、とる道はなくなった。これが、北清事変である。

 この北清事変中の六月十七日、衝撃的な事件が起きた。午前四時頃、イギリス、ドイツ、ロシア、日本の四か国連合陸戦隊は、天津東方の清国軍の大沽(ターク)西北砲台の正面に布陣して突入の機会をうかがっていた。

 前方は一面の塩田で、身を隠す場所もなく、進撃できなかったのだ。

 日本海軍陸戦隊二三〇人を指揮するのは、大隊長・服部雄吉(はっとり・ゆうきち)中佐(鹿児島・海兵一一期・防護巡洋艦「秋津洲」砲術長・日清戦争・中佐・義和団の乱で戦死・三十八歳)だった。

 大隊長・服部中佐は、他国の陸戦隊がひるんでいる中、意を決して、突撃ラッパを吹かせ、「突撃せよ」と指揮刀を振りかざして、飛び出した。

 清国軍の銃砲弾が飛来する中を、日本海軍陸戦隊は、服部中佐に続いて大沽西北砲台めざして、突進した。だが、砲台を目前にして、服部中佐は腹部に銃弾を受け、倒れた。周囲の兵士数人も倒れた。

 すかさず、先任の第一中隊長・白石葭江(しらいし・よしえ)大尉(東京・海兵二一・七番・砲術練習所・巡洋艦「高雄」乗組・スループ「天城」乗組・砲艦「鳥海」分隊長・大尉・北清事変で陸戦隊第一中隊長・佐世保海兵分隊長・部下を殴り死亡させる・軍法会議で十禁固二年・特赦・海軍大学校選科学生・装甲巡洋艦「浅間」分隊長として日露戦争出征・旅順港閉塞作戦で閉塞に使用する「佐倉丸」指揮官・旅順に上陸・重傷を負い戦病死)が代わって指揮をとった。

 日本海軍陸戦隊は午前五時頃砲台西門にとりつき、白石大尉は塁上によじ登り、敵数人を倒した。日本海軍陸戦隊が西門を突破した後、イギリス、ドイツ、ロシアの陸戦隊が続いた。

 砲台上に登った白石大尉は、日章旗を掲げようとしたが見当たらず、探していると、イギリスの士官がユニオンジャック(英国国旗)を砲台の旗竿に掲げようとしていた。

 それを見て怒った白石大尉は「一番乗りはこっちだ!」と叫び、そのイギリス士官を首投げで投げ飛ばした。

 その間に、第二中隊長・野崎小十郎(のざき・こじゅうろう)大尉(高知・海兵二一期・九番・海大五期・大尉・防護巡洋艦「笠置」乗組・北清事変で陸戦隊第二中隊長・コルベット「天龍」航海長・コルベット「葛城」航海長・海軍兵学校教官・常備艦隊参謀・日露戦争出征・第一艦隊参謀・第四艦隊参謀・少佐・南清艦隊参謀・横須賀鎮守府参謀・軍務局局員・中佐・戦艦「安芸」砲術長・砲術学校教官・横須賀鎮守府参謀・防護巡洋艦「新高」艦長・大佐・巡洋戦艦「生駒」艦長・巡洋戦艦「金剛」艦長・少将・臨時南洋群島防備艦隊司令官・退役後碑衾町長・玉川計器製作所監査役・従四位・勲二等・功五級)が、別の旗竿に日章旗を掲げた。

 重傷で後送された大隊長・服部雄吉中佐は、間もなく死亡した。西北砲台が落ちると、南北両砲台も間もなく落ち、日の出前に大沽砲台は全て連合軍が占領した。

 各国の指揮官は、日本陸戦隊の勇戦を称賛し、「白石大尉の勇敢な戦いぶりを、我々も模範としなければならない」と激賞する指揮官もいた。

 北清事変後、白石大尉は佐世保海兵分隊長になった。その分隊長時代に、白石大尉は、任務を怠っている部下を殴打し、その部下が死亡した。

 白石大尉は、軍法会議にかけられ、重禁固二年の判決を受けたが、特赦により、入獄することなく、待命となった。その半年後には、海軍大学校選科学生として、海軍に復帰した。







655.山本権兵衛海軍大将(35)すると柴山大将は、山本海軍大臣をボロクソにこきおろした

2018年10月12日 | 山本権兵衛海軍大将
 明治三十一年十一月海軍大臣になった山本権兵衛中将は、福沢諭吉が期待したとおり、薩摩閥を顧みず、適材適所の人事を進めた。

 だが、確かに薩摩閥は減少していったが、代わりに、山本権兵衛閥と言われるような人脈が形成されていき、それに反発、対抗する一派が生じたのである。

 その反山本派の筆頭は、当時の常備艦隊司令長官・柴山矢八(しばやま・やはち)中将(鹿児島・米国留学・海軍中尉任官・武庫司出勤・大尉・砲兵科砲兵大隊副長・コルベット「浅間」乗組・コルベット「筑波」乗組・水雷練習所長・少佐・中佐・水雷局長・大佐・参謀本部海軍部第二局長・欧米各国派遣・艦政局次長・コルベット「筑波」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍兵学校長・少将・佐世保鎮守府司令長官・中将・常備艦隊司令長官・海軍大学校長・呉鎮守府司令長官・旅順警備府司令長官・大将・男爵・正二位・旭日大綬章・功二級・フランス共和国レジオンドヌール勲章オフィシェ等)だった。

 柴山矢八中将は、薩摩藩医の家に生まれ、山本権兵衛より二歳上で、海軍兵学寮に入校せず、開拓使派遣として二年間米国に留学して帰国後海軍中尉になった軍人である。

 山本権兵衛中将ら革新派と、柴山矢八中将ら保守派の派閥争いがあったのである。山本中将と柴山中将は昔から何かにつけて対立し、「権兵衛が種まきゃ、矢八がほじくる」と戯れ歌まで生まれた。

 明治三十二年一月、山本権兵衛海軍大臣は、自分に合わない柴山矢八中将を、常備艦隊司令長官からはずして、海軍大学校長にした。柴山中将は四十八歳だった。

 そして横須賀鎮守府司令長官・鮫島員規(さめしま・かずのり)中将(鹿児島・戊辰戦争・維新後海軍少尉補・少尉・中尉・砲艦「鳳翔」乗組・大尉・砲艦「鳳翔」副長・装甲艦「比叡」副長・少佐・軍事部第三課長・参謀本部海軍部第一局第一課長・中佐・参謀本部海軍部次副官・大佐・参謀本部海軍部第二局長・装甲艦「金剛」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・常備艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・少将・常備艦隊司令官・西海艦隊司令官・海軍大学校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・男爵・正二位・勲一等旭日大綬章・功二級・エジプト王国オスマニア第四等勲章)を常備艦隊司令長官に就任させた。

 鮫島員規中将は、やはり薩摩出身だが、五十三歳の温厚な人物で、柴山中将も、この人事に逆らうことはできなかった。だが、柴山中将の山本中将に対する敵愾心はいよいよつのった。

 山本権兵衛海軍大臣時代の海軍内部は、山本権兵衛中将を頂点とする人脈と、柴山矢八中将を頂点とする人脈に分かれ、対立が続いていった。

 明治三十三年当時、呉鎮守府司令長官・柴山矢八中将の人脈には、竹敷要港部司令官・日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)中将(鹿児島・慶應義塾・海兵二・参謀本部海軍部第二局第一課長・欧米差遣・大佐・海軍参謀部第二課長・装甲艦「金剛」艦長・コルベット「武蔵」艦長・装甲艦「龍驤」艦長・砲術練習所長・防護巡洋艦「橋立」艦長・海軍兵学校長・少将・常備艦隊司令官・中将・常備艦隊司令長官・男爵・功二級・大将・従三位・勲一等旭日桐花大綬章)がいた。

 世間では、山本権兵衛中将系の人脈を本省派、柴山中将・日高中将系の人脈を艦隊派と称した。だが、終始、本省派が圧倒的に優勢で、その間は、海軍が大局を誤ることはなかった。

 なお、山本中将と日高中将は、海軍兵学校二期の同期生で、個人的には仲が良く、友情は続いていたと、いわれている。だが、山本中将と柴山中将は、最後までうまくいかず、次のような話が残っている。

 明治三十九年一月、山本権兵衛大将が第一次桂太郎内閣に殉じて海軍大臣を退任する時、当初、山本海軍大臣は、後任に柴山矢八大将を推す考えを持っていた。

 元老・伊藤博文は、柴山大将を呼び、海軍大臣の抱負を問うた。すると柴山大将は、山本海軍大臣をボロクソにこきおろした。そして、「権兵衛時代の施政に大鉄槌を加える」と豪語した。

 山本海軍大臣と信頼の情で結ばれていた元老・伊藤博文は、柴山大将の言葉を、そのまま山本海軍大臣に伝えた。

 これを聞いて、烈火の如く怒った山本海軍大臣は、たちまち柴山海軍大臣を押すことを撤回し、斎藤実海軍次官を海軍大臣に昇格させることを決心したという。



654.山本権兵衛海軍大将(34)海軍では鹿児島人でないと出世できないそうではないか。不公平と評判がよくないよ

2018年10月05日 | 山本権兵衛海軍大将
 次に山本海軍大臣は、四十六歳の伊集院五郎(いじゅういん・ごろう)大佐(鹿児島・海兵五期・英国王立海軍大学卒・大本営参謀・大佐・軍令部第二局長・軍令部第一局長・軍令部次長心得・少将・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・艦政本部長・功一級・第二艦隊司令長官・男爵・連合艦隊司令長官・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・正二位・旭日桐花大綬章・イタリア王国王冠第一等勲章等)を海軍軍令部次長心得に登用した。

 当時の軍令部長は、伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(鹿児島・薩摩藩士・開成所・戊辰戦争・維新後海軍大尉・コルベット「日進」艦長・中佐・装甲艦「扶桑」艦長・装甲艦「比叡」艦長・コルベット「筑波」艦長・大佐・装甲艦「龍驤」艦長・装甲艦「比叡」艦長・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀造船所長・英国出張・防護巡洋艦「浪速」艦長・少将・常備小艦隊司令官・大域局長兼海軍大学校校長・中将・横須賀鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部長・子爵・功二級・大将・議定官・軍事参議官・元帥・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国スタニスラス第一等勲章)だった。

 伊集院五郎大佐は、科学的頭脳を持ち、明治十五年から三年余にわたり英国に留学して、兵器、術科(航海・砲術・水雷術)、戦略・戦術などを研究した有望な軍人だった。

 また、明治十九年二月、英国アームストロング社で竣工した、新鋭の防護巡洋艦「浪速」を日本へ回航する時の艦長は伊東祐亨大佐、副長が山本権兵衛少佐、水雷長が伊集院五郎大尉だった。

 回航の途中、スエズ運河北端のポートサイドで、弾薬の爆発により重傷を負った伊集院大尉を、山本少佐が救助したことがあった。伊東、山本、伊集院の三人は因縁浅からぬ関係だった。

 明治三十二年九月、軍令部次長心得・伊集院五郎大佐は、少将に進級し、名実ともに軍令部次長になった。

 また、翌年の明治三十三年には、伊集院少将は、砲弾爆破力を著しく増大させる「伊集院信管」を発明し、海軍に貢献をした。

 ところで、明治二十八年三月に、山本権兵衛大佐は少将に進級し、海軍省軍務局長に就任したのだが、その翌年の明治二十九年の秋、次のような出来事があった。

 慶應四年に慶応義塾を開校した福沢諭吉(大阪・中津藩士・慶應義塾創設・蘭学者・啓蒙思想家・教育者・著述家)は、明治十五年から「時事新報」を発行していた。

 軍令部諜報課員・木村浩吉(きむら・こうきち)大尉(東京・海兵九期・三番・装甲艦「扶桑」艦長・横須賀水雷団長心得兼水雷術練習所長心得兼砲術練習所長心得・特務艦「日光丸」艦長・大佐・呉水雷団長・水雷術練習所長・海軍水雷学校長・佐世保水雷団長・少将・舞鶴水雷団長・従四位・勲三等・功四級)は、福沢諭吉から次のような質問を受けた。

 「海軍では鹿児島人でないと出世できないそうではないか。不公平と評判がよくないよ。不公平は進歩を妨げる。いつ不公平がなくなるかね」。

 木村大尉は、「五十年もたてばと言われていますが、そんなに長くかからないでしょう」と答えた。すると、福沢諭吉は「なぜ?」とたたみかけた。木村大尉は次の様に答えた。

 「軍務局長ですが、『権兵衛大臣』とあだ名されている山本少将がいます。あの人が大臣になれば不公平はなくなります」。

 すると、福沢諭吉は、「そうかね、一度会ってみたいね」と言ったので、木村大尉は、その旨を山本権兵衛少将に伝えた。

 数日後、福沢諭吉宅に出向いた、山本権兵衛少将は、午前九時ころから、昼食をはさみ、午後四時頃まで、福沢諭吉と語り合った。

 福沢諭吉は六十一歳、山本権兵衛少将は四十四歳だった。会見後、山本少将は木村大尉に次の様に言った。

 「福沢先生はさすがに先が見える。海軍の必要をよく知っている。ただ、予算のために海軍の計画がなかなか思うようにいかないことは、よく判らないらしい」。

 一方、福沢諭吉は、木村大尉に次の様に感想を述べた。

 「山本少将は、一人で海軍を背負っているような男だが、信頼できそうだ。『時事新報』で助力することにしよう」。