この白石大尉の処遇については、当時の海軍大臣・山本権兵衛中将の計らいがあった。白石大尉事件の報告を受けた山本権兵衛海軍大臣は、次の様に考えた。
「白石大尉は砲台占領の功名を挙げた勇士だが、部下の兵員を殴打し、死に至らしめた罪で、官位はく奪の刑に処せられることはまぬかれない」
「しかし、彼は自己の利益や欲望の為でなく、兵が命令の履行を行ったのを見て、任務を全うしようとする責任感から懲らそうと殴打したので、殺す意思があったわけではなく、公憤の極み、過ちに陥ったのだ」
「国家がかかる人物をそのまま埋没させるのは忍び難いが、法に触れた点は勿論法によって断じなければならない。この上はただ、大権のご発動に待つよりほかに道はない」。
閣議に出席した山本海軍大臣は、事件の経緯を説明し、陛下にご慈悲をお願いしたいと述べ、山縣有朋首相以下各閣僚の同意を求めた。異議を唱える者はいなかった。
山本海軍大臣の説明と特赦の請願に対して、明治天皇は白石大尉の官位を旧に復することを許可した。
白石大尉は海軍省に召還された。「法により、君の官位は、はく奪されなければならない」と宣告し、山本海軍大臣は副官に命じ、白石大尉の階級章を剥ぎ取らせた。
白石大尉は観念したように瞑目していた。
次に山本海軍大臣は、厳粛に、「優渥な聖恩により、特赦の上、官位を旧のごとく復する」と、白石大尉に告げた。
山本海軍大臣を直視していた白石大尉の両眼にみるみる涙が溢れ、流れた。山本海軍大臣は、諭すように、次の様に白石大尉に言った。
「かかるためしは実に初めてのことで、我ら一同も感激を禁ずることができない。これは君の勲功によるものだが、かようなご沙汰を拝しては、いよいよ忠勤を擢んでなければならないと感ずる次第である」
「大尉もよくこの意を諒とし、その身は真に君国に捧げ、将来の報効(恩に報いて力を尽くす)を祈念し、自己のものという観念を離れて、職に尽くすよう望みたい」。
白石葭江大尉は感極まったように泣きながら、傾聴していた。
明治三十七年二月、日露戦争開戦。旅順港閉塞作戦が行われた。二月十八日から第一次閉塞作戦が開始された。
三月二十七日には第二次閉塞作戦が決行され、閉塞戦「福井丸」指揮官の広瀬武夫少佐らが戦死した。
第三次閉塞作戦は、五月二日夜に、閉塞船十二隻を以て開始された。天候不順で作戦は中止されたが、命令が伝達せず、閉塞船八隻が旅順港口に突入した。
だが、八隻の閉塞船は、ロシア軍の沿岸砲台によって攻撃を受けたので、湾の手前で沈められた。その際に多数の戦死者を出した。
この八隻の一隻「佐倉丸」の指揮官が白石葭江大尉だった。「佐倉丸」を自沈させた後、白石大尉は、部下とともに、小舟を漕いで上陸、ロシア軍の砲台に切り込みをかけた。
このロシア軍との交戦で、白石大尉は重傷を負い、捕虜となったが、旅順陥落前に戦病死した。白石大尉は戦死とされ、少佐に特別進級した。
白石大尉は閉塞作戦に出撃する前に、同僚の士官に次の様に語っていた。
「俺は船を爆沈したら、一人で端舟に乗ってロシアの砲台に斬り込み、武運があればこれを占領する」。
後に、旅順の白玉山麓のロシア人墓地で、白石少佐の遺体が発見された。白石少佐の遺体は、七、八発の弾丸に貫かれていたという。
話は元に戻り、明治三十三年七月十六日、義和団が蜂起して、排外戦争を開始した。西太后がこの反乱を支持したので、六月二十一日、清国は欧米列国に宣戦布告して北清事変が勃発した。
当時、福建省の玄関都市、厦門(アモイ・台湾に最も近い都市)には、日本の防護巡洋艦「和泉」(二九八七トン)と、「高千穂」(三六五〇トン)の二隻が派遣されていて、領事館と在留邦人の保護に当たっていた。
日本を含む八か国の連合軍が北京を占領した八月十四日、山本権兵衛海軍大臣は、防護巡洋艦「和泉」、「高千穂」あてに、次のような内容の内訓を電報した。
「我が領事館及び在留邦人の保護を目的として、機宜事に従うこと。艦は厦門砲台の射線を避けて碇泊すること。厦門砲台を占領する場合を想定し、どのように実行すべきか、適切な手段方法を調査研究しておくこと。成案ができたら、海軍大臣に報告すること」。
慣例により、山本海軍大臣は、この内訓を桂太郎陸軍大臣に知らせた。
「白石大尉は砲台占領の功名を挙げた勇士だが、部下の兵員を殴打し、死に至らしめた罪で、官位はく奪の刑に処せられることはまぬかれない」
「しかし、彼は自己の利益や欲望の為でなく、兵が命令の履行を行ったのを見て、任務を全うしようとする責任感から懲らそうと殴打したので、殺す意思があったわけではなく、公憤の極み、過ちに陥ったのだ」
「国家がかかる人物をそのまま埋没させるのは忍び難いが、法に触れた点は勿論法によって断じなければならない。この上はただ、大権のご発動に待つよりほかに道はない」。
閣議に出席した山本海軍大臣は、事件の経緯を説明し、陛下にご慈悲をお願いしたいと述べ、山縣有朋首相以下各閣僚の同意を求めた。異議を唱える者はいなかった。
山本海軍大臣の説明と特赦の請願に対して、明治天皇は白石大尉の官位を旧に復することを許可した。
白石大尉は海軍省に召還された。「法により、君の官位は、はく奪されなければならない」と宣告し、山本海軍大臣は副官に命じ、白石大尉の階級章を剥ぎ取らせた。
白石大尉は観念したように瞑目していた。
次に山本海軍大臣は、厳粛に、「優渥な聖恩により、特赦の上、官位を旧のごとく復する」と、白石大尉に告げた。
山本海軍大臣を直視していた白石大尉の両眼にみるみる涙が溢れ、流れた。山本海軍大臣は、諭すように、次の様に白石大尉に言った。
「かかるためしは実に初めてのことで、我ら一同も感激を禁ずることができない。これは君の勲功によるものだが、かようなご沙汰を拝しては、いよいよ忠勤を擢んでなければならないと感ずる次第である」
「大尉もよくこの意を諒とし、その身は真に君国に捧げ、将来の報効(恩に報いて力を尽くす)を祈念し、自己のものという観念を離れて、職に尽くすよう望みたい」。
白石葭江大尉は感極まったように泣きながら、傾聴していた。
明治三十七年二月、日露戦争開戦。旅順港閉塞作戦が行われた。二月十八日から第一次閉塞作戦が開始された。
三月二十七日には第二次閉塞作戦が決行され、閉塞戦「福井丸」指揮官の広瀬武夫少佐らが戦死した。
第三次閉塞作戦は、五月二日夜に、閉塞船十二隻を以て開始された。天候不順で作戦は中止されたが、命令が伝達せず、閉塞船八隻が旅順港口に突入した。
だが、八隻の閉塞船は、ロシア軍の沿岸砲台によって攻撃を受けたので、湾の手前で沈められた。その際に多数の戦死者を出した。
この八隻の一隻「佐倉丸」の指揮官が白石葭江大尉だった。「佐倉丸」を自沈させた後、白石大尉は、部下とともに、小舟を漕いで上陸、ロシア軍の砲台に切り込みをかけた。
このロシア軍との交戦で、白石大尉は重傷を負い、捕虜となったが、旅順陥落前に戦病死した。白石大尉は戦死とされ、少佐に特別進級した。
白石大尉は閉塞作戦に出撃する前に、同僚の士官に次の様に語っていた。
「俺は船を爆沈したら、一人で端舟に乗ってロシアの砲台に斬り込み、武運があればこれを占領する」。
後に、旅順の白玉山麓のロシア人墓地で、白石少佐の遺体が発見された。白石少佐の遺体は、七、八発の弾丸に貫かれていたという。
話は元に戻り、明治三十三年七月十六日、義和団が蜂起して、排外戦争を開始した。西太后がこの反乱を支持したので、六月二十一日、清国は欧米列国に宣戦布告して北清事変が勃発した。
当時、福建省の玄関都市、厦門(アモイ・台湾に最も近い都市)には、日本の防護巡洋艦「和泉」(二九八七トン)と、「高千穂」(三六五〇トン)の二隻が派遣されていて、領事館と在留邦人の保護に当たっていた。
日本を含む八か国の連合軍が北京を占領した八月十四日、山本権兵衛海軍大臣は、防護巡洋艦「和泉」、「高千穂」あてに、次のような内容の内訓を電報した。
「我が領事館及び在留邦人の保護を目的として、機宜事に従うこと。艦は厦門砲台の射線を避けて碇泊すること。厦門砲台を占領する場合を想定し、どのように実行すべきか、適切な手段方法を調査研究しておくこと。成案ができたら、海軍大臣に報告すること」。
慣例により、山本海軍大臣は、この内訓を桂太郎陸軍大臣に知らせた。